東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

切通坂(湯島)

2011年12月31日 | 坂道

江戸図鑑綱目(湯島近辺) 尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 切通坂(湯島天神下) 切通坂下 前回の湯島天神の新坂を下ると、その前に大きな道路が通っているが、この左右が切通坂である。三枚目の写真は、その下側あたりから坂上を撮ったものである。春日通りで、通行量が多い。

坂下の交差点からまっすぐに西へ上り、途中、大きく左にカーブしてから、ふたたびまっすぐに上っている。勾配は中程度よりも緩やかといった感じで、距離はかなり長い。

『御府内備考』に次の説明がある。

「切通
 切通は天神社と根生院との間の坂なり、是後年往来を開きし所なればいふなるべし、本郷三、四丁目の間より池の端、仲町へ達する便道なり、」

切通坂下 切通坂下 切通坂中腹 切通坂中腹 横関によれば、小山のようなところを切り通して道路つくった場合、これを切り通しとよんだ。道の左右が切り崩されて崖になっていれば、それは切り通しで、それが坂道であれば、切通坂となった。江戸時代には、初めてできた坂を新坂といい、それが名前のある二つの坂の中間にできると、中坂とよぶのがつねであったが、切り通しで坂道であれば、切通坂とよんだ。

上二枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図 文久元年(1861))を見ると、湯島天神と根生院との間の道に切トウシとあり、それらの東側に湯島切通丁の町屋ができている。近江屋板には同じ道に坂マーク△がある。

上一枚目の江戸図鑑綱目(元禄二年(1689))を見ると、湯島天神と金生院との間に道があるが、これが江戸切絵図に示される切通坂であるかどうかはっきりしない。しかし、途中の曲がり具合が江戸切絵図と似ており、切り通し以前にはどんな細道もなかったと思われるので、切通坂と思われる。そうだとすると、江戸時代の比較的初期につくられた坂ということになる。

切通坂上側 切通坂上側 切通坂上 この坂は、本郷台地の東端に切り開かれた坂道で、上記の『御府内備考』にあるように、本郷三、四丁目の間から池の端、仲町への便利な道となったようである。切り通しにできた崖に前回の湯島天神の新坂ができたのであろう。

この坂は、坂上がどこかはっきりせず、そのためかなり長い。そのまま春日通りに沿って本郷三丁目駅へ。

携帯による総歩行距離は16.4km。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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天神男坂~天神女坂

2011年12月31日 | 坂道

江戸図鑑綱目(湯島近辺) 尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 天神男坂上 天神男坂上 前回の中坂上を右折し、北へそのまま直進すると、湯島天神の鳥居がある。ここをくぐり、境内に入り参道を進み、次を右折すると、男坂の坂上にでる。東へ向けてまっすぐに下っている。ここも本郷台地の東端にあたり、かつては崖であったのであろう。男坂の名のとおり急な石段坂である。天神石坂ともよび、たんに石坂、男坂ともよぶ。

『御府内備考』に次の説明がある。

「天神石坂
 天神石坂は中坂の北にあり、こは社地通用の為の坂なれど、本郷の方より上野広小路辺への往来となれり、石階□□あり、此坂下より広小路の方への直路を天神石坂下通りと呼び、その辺の武家地をもしか称せり、」

天神社の通用の坂であったが、本郷と上野広小路との間を行き来する通りとなった。広小路へと延びる坂を天神石坂下通りとよんだ。現在も、この石坂を付近の人はふだんの行き来に使っているようである。

天神男坂途中から 天神男坂下 天神男坂下 天神男坂下から女坂下への小路 上一枚目の江戸図鑑綱目(元禄二年(1689))の湯島近辺を見ると、湯島天神に鳥居と石段らしいものがあるが、現在の石段坂と思われる。 この坂の下に「柳の井」という名水があったという。『紫の一本』(天和二年(1682))に次のようにある。

「柳の井
 湯島天神の下、東へ下る石壇の坂の下にあり。この石壇の坂、太田道灌の時代は天神の表門なりとぞ。いまは裏門のよしなり。この井は名水にて、女の髪を洗へば、むすぼほれたる髪のいか程の薬にてもとけざるも、はらはらとほぐれ垢よく落つるとて、「気晴れては風新柳の髪を梳る」と云ふ心にて、柳の井と名付たるとぞ。」

太田道灌の時代には、この坂が表門であったとある。

坂下を左折し、四枚目の写真の小路を通り抜けて左折して行くと、天神女坂の坂下である。

天神女坂下 天神女坂踊場 天神女坂上側 天神女坂上 天神女坂は、石段であるが、その名のとおり、途中何箇所か踊り場があり、緩やかな階段となっている。男坂と高低差は同じであるので、ちょっと長めになっている。坂上に立つと、左側が男坂上である。

上一枚目の江戸図鑑綱目には(元禄二年(1689))女坂がない。上二枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図 文久元年(1861))を見ると、中坂上を左折し直進した所に鳥居があり、また、東側に、坂名はないが、多数の横棒による階段のマークが男坂の位置に記されている。そのとなりに曲がって同じように描かれた階段が女坂である。女坂は長めになっている。近江屋板にも同じ道があるが、横棒は男坂の一部にしかない。

石川によれば、湯島天神は、菅原道真と天手力男命(あめのたぢからおのみこと)を祭神とし、足利時代の文和四年(1355)湯島郷の人々が霊夢によって古松の下に勧請、その後すたれたが、太田道灌が文明十年(1478)に再建したと伝えられているという。

天神新坂上 天神新坂踊場 天神女坂下 天神女坂下 坂上からふたたび境内に入り、参道を右折して行くと、一枚目の写真のように下りの階段となる。北側にある切通坂の方へ出る石段である。神社のホームぺージにある境内案内図には、この階段に夫婦坂とあり、階段のわきに戸隠神社、笹塚稲荷がある。

横関は、この坂を湯島天神の新坂として紹介し、文京区湯島三丁目、湯島公園の北すみに立つ地主神、戸隠神社の東わきから北に切通坂に下る石段の坂をいうとしている。現在、戸隠神社などは、湯島天神の敷地内にあるので、公園が神社に取り込まれたのであろうか。

幕末の江戸切絵図にはこの石段はないが、明治地図(明治四十年)、戦前の昭和地図(昭和十六年)にはあるので、明治以降につくられたものである(横関)。

夫婦坂という坂名は、男坂と女坂に合わせて、この新坂に神社が命名したものであるというが、横関は江戸時代からの夫婦坂という坂の名の条件に合わないので、無理な命名であるとしている。

また、横関は、戸隠神社の祭神は手力雄命(たぢからおのみこと)であり、この地の地主神であって、手力雄命を祭ったのが先で、のちになって菅原道真を配祀したものと推測している。そして、これをもって、軒を貸して母屋をとられた観があるとしているが、大変おもしろい見方である。こういったことが日本では繰り返されたのであろうか。これは、吉本隆明が「敗北の構造」において、日本の統一国家の成立過程で、天皇制勢力がそれ以前に存在した郡立国家の法や宗教や習慣などを取り込んで自らの法や宗教や習慣などとし、あたかも遠い以前から存在したように装ったとしていることに通底する考えである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
吉本隆明「敗北の構造」(弓立社)

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中坂(湯島)

2011年12月30日 | 坂道

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 中坂下 中坂下 中坂中腹 前回の実盛坂上を右折し、北へちょっと進むと、中坂の坂上で、右にまっすぐに下っている。途中、左に少し曲がってからふたたびまっすぐに下る。三組坂と同じく、本郷台地の東端から上野周辺の低地へと下る坂で、勾配は中程度である。距離も長い方である。

一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図 文久元年(1861))を見ると、前回の三組町の通りの北、湯島天神の門前手前に東へ延びる道があるが、ここに中サカとある。近江屋板にも同じ道に△中サカとある。

横関によれば、この坂について「文京区湯島三丁目を西から東へ下る坂。古い昔は天神石坂と妻恋坂との間の坂であった」と説明されている。中坂というのは、二つの坂の間に新しくできた坂で都内でよくみられ、たとえば、九段坂のとなりの中坂などがある。ここの場合は、天神石坂と妻恋坂との間に新たにできた坂とされている。

中坂中腹 中坂上側 中坂標識 中坂標識裏面 坂上北側に三枚目の写真のように、文京区によくある形式の坂標識が立っているが、位置がちょっとおかしい。というのは、この形式の標識は、裏面に坂の説明があるのに、歩道の端の植え込み側に立っているため、裏を覗くようにしないと説明を読むことができない。通常は車道と歩道との境に立っているが、設置する位置を間違えたのであろうか。四枚目の写真は、その裏面を撮ったもので、次の説明がある。

「中坂(仲坂)
 『御府内備考』に、「中坂は妻恋坂と天神石坂との間なれば呼び名とすといふ」とある。
 江戸時代には、二つの坂の中間に新しい坂ができると中坂と名づけた。したがって中坂は二つの坂より後にできた新しい坂ということになる。
 また、『新撰東京名所図会』には、「中坂は、天神町1町目4番地と54番地の間にあり、下谷区へ下る急坂なり、中腹に車止めあり」とあり、車の通行が禁止され歩行者専用であった。
 このあたりは、江戸時代から、湯島天神(神社)の門前町として発達した盛り場で、かつては置屋・待合などが多かった。
    まゐり来てとみにあかるき世なりけり
           町屋の人のその人の顔かお   (釈 迢空)
  東京都文京区教育委員会  平成元年11月」

中坂の由来について上記の横関と同様の説明である。

上記の『御府内備考』からの引用の全文は次のとおりである。

「中坂は妻恋坂と天神石坂との間なれば呼び名とすといふ、此坂を下れは下谷長者町の方への直路なり、」

中坂上側 中坂上 中坂上 江戸図鑑綱目(湯島近辺) 元禄二年(1689)の江戸図鑑綱目の湯島近辺を四枚目に示すが、神田大明神があり、その明神下の道が北へ延び、二本目を左折すると、妻恋坂下で、その上(西)に鳥居のマークが描かれているので、ここが妻恋神社と思われる。この神社は、明暦三年(1657)の大火後、万治(1658~1661)のころ、この地に移ったので(妻恋坂の記事)、上記の地図のできた時期より前である。

妻恋神社の南脇の坂上で右折し、北へまっすぐに続く道(上記の江戸切絵図(文久元年(1861))にある三組町の通り)の突き当たりが湯島天神である。そこを東へまっすぐに延びる道が中坂と思われる。

この坂は、天神石坂と妻恋坂よりも新しいとされるが、上記のように、元禄二年(1689)の江戸図に中坂があるので、かなり古い坂であることがわかる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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三組坂~実盛坂

2011年12月29日 | 坂道

前回の立爪坂上を左折し、次を右折し、日立病院の前を通りすぎると、やがて階段があるので、ここを下ると、三組坂の坂上近くにでる。ここを右折すると、まっすぐに東へ下っている。坂下の通りは、明神下から延び、地下鉄千代田線が通っている広い道路である。写真は、坂下から坂上へとならべた。

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 三組坂下 三組坂下 三組坂下側 三組坂は、本郷台地の東端から上野周辺の低地へと下る坂で、勾配は中程度~それ以下程度であるが、かなりの距離と高度差がある。坂上を西へ直進すると、横見坂上のさきの霊運寺、傘谷坂上の方に至る。

一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図 文久元年(1861))を見ると、立爪坂上を左折し、西へ進むと、妻恋神社角を右折した三組町の道(現在の清水坂上から北へ延びる道)に突き当たり、ここを右折するとすぐ右折する小路があるが、この小路は小さな四角形の御小人方の町屋敷をぐるりと一周してもとの道に戻る。 このぐるりと一周りする小路には東西に延びる小路が二本あり、そのどちらかが、現在の三組坂(坂上側)に相当するか、あるいは、どちらも相当せず、まったく新しい坂であるか、のいずれかである。そして、もう一つ問題は、一周りする東側の小路にガイサカ(=芥坂)とあることである。近江屋板もほぼ同様であるが、その坂名はなく、坂マークもない。

三組坂中腹 三組坂中腹 三組坂中腹 三組坂上側 坂上北側に説明パネルが立っており、次の説明がある。

「三組坂
 元和2年(1616)徳川家康が駿府で亡くなり、家康お付きの中間・小人・駕籠方「三組」の者は江戸へと召し返され、当地に屋敷を賜った。駿府から帰ったので、里俗にこのあたり一帯を駿河町と呼んだ。
 その後、元禄9年(1696)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして、町名を三組町と改めた。
 この町内の坂であるところから「三組坂」と名づけられた。
 元禄以来、呼びなれた三組町は、昭和40年(1965)4月以降、今の湯島三丁目となった。
  文京区教育委員会  平成19年3月」

横関は、この坂を「文京区湯島三丁目の坂、妻恋坂、中坂の中間にあって、東に下る坂。もと本郷三丁目の坂。三組とは御中間、御小人、御駕籠方をいう」と説明している。

江戸切絵図には、妻恋坂と中坂との間で東へ延びる道は、上記の一周りする小路の二本を除くと、妻恋坂側に一本(立爪坂上を左折した道)あるだけである。霊運寺前の道が東に延びて三組町の道に突き当たっているが、この位置は一周り小路の東西の一本とちょっとずれている。現在、霊運寺前の道が東へと三組坂上まで延び、そのまま坂を下っているが、この坂に相当する道は、江戸切絵図にはないといえる。現代地図と御江戸大絵図とを重ね合わせてみることのできる地図(東京時代MAP大江戸編)を見ても、この坂道はない。

この坂は、実測東京地図(明治十一年)、明治地図(明治四十年)にもないが、戦前の昭和地図(昭和十六年)にはあるので、大正から昭和のはじめ頃までに新しく開かれた坂道であると思われる。

三組坂上側 三組坂上 「ガイ坂」上 「ガイ坂」下 岡崎、大野、「東京23区の坂道」には、三組坂上からきて一本目を左折した坂がガイ坂(芥坂)と紹介されている。坂中腹にある家電会館前の四差路から北へ下る緩やかな坂で、三、四枚目の写真はその坂を撮ったものである。しかし、この坂は、上記のように、尾張屋板にある「ガイサカ」からそう紹介されたものと思われるが、尾張屋板のガイサカは、三組坂よりも南に位置するので、ここではない。ちょうど、上の地図の日立病院前のあたりであるが、ここは、現在、平坦で、坂ではない。

石川は、芥坂について「妻恋坂の中腹を北に折れて上る湯島三丁目内の坂で、立爪坂の別名があるのでもとは険しい坂だったのであろう。」とし、前回の立爪坂で引用した『御府内備考』の同じ箇所を引用している。これを読むだけであると、坂の位置は、前回の立爪坂と同じように思われるが、同著の地図(52頁)を見ると、日立病院前のあたりを示している。これは、この坂を尾張屋板の「ガイサカ」の位置と考えたことによるものかもしれない。

尾張屋板は、あくまで私見であるが、立爪坂の別名であるガイサカ(芥坂)を一回りする小路の東側に誤って記してしまったような気がする。近江屋板は一般に尾張屋板よりも坂名や坂マーク△を細かく記しているが、近江屋板には同位置に坂マークすらないことも理由の一つである。また、その一周りする小路の位置は、上記の現代地図で、日立病院の西側にある台形状となった一区画と思われるが、その東側の病院前の道は、上記のように平坦である。

実盛坂下 実盛坂下 実盛坂踊場 実盛坂上 上記の三組坂上から一本目を左折した坂を直進し、次を左折すると、階段坂が見えるが、ここが実盛坂である。坂下まで行くと、かなり急な坂であることがわかる。坂上に立つと、まさしく本郷台地の東端といった感じで、この石段ができるまでは、崖であったと思わせるほどである。坂上は、清水坂上、三組坂上から北へ延びる道である。

坂上に立っている説明パネルに次の説明がある。

「実盛(さねもり)坂  湯島三丁目20と21の間
『江戸志』によれば「・・・湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり・・・」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が『江戸砂子』や『改撰江戸志』にのっている。この実盛のいわれから、坂の名がついた。
 実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現・埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。寿永2年(1183)、源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光盛に討たれた。
 斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。この話は『平家物語』や『源平盛衰記』に詳しく記されている。
 湯島の"実盛塚"や"首洗いの井戸"の伝説は、実盛の心意気にうたれた土地の人々が、実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。
  文京区教育委員会   平成14年3月」

坂名は、実盛伝説によるもののようであるが、坂自体は、先ほどの三組坂と同様に、江戸切絵図、実測東京地図(明治十一年)、明治地図(明治四十年)になく、戦前の昭和地図(昭和十六年)にある。このため、比較的最近(大正~昭和初期頃)つくられた階段であると思われる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「東京時代MAP大江戸編」(光村推古書院)

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立爪坂(芥坂)

2011年12月27日 | 坂道

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 立爪坂下(妻恋坂から) 立爪坂中腹 立爪坂中腹 前回の妻恋坂の中腹横に、二枚目の写真のように、短い階段があり、そこから上が北へまっすぐにかなり緩やかな上り坂となっている。途中ちょっと勾配がつくがそれでも緩やかで、坂上にまた階段がある。ここが立爪坂で、写真のように、短い坂で、坂下と坂上が階段になっている珍しい坂である。

一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図 文久元年(1861))を見ると、妻恋坂の途中から北へまっすぐな小路に立爪サカとある。近江屋板にも△立爪サカとある。いずれも坂上は突き当たりで左折のみのL字形の道であり、これは、現在も同じである。

別名を芥坂といったようで、『御府内備考』には次のようにある。

「芥坂 芥坂は妻恋坂の中腹より北へ通る小坂なり、その辺芥を捨る処なれば里俗呼名となせり、」

同じく三組町の書上に次のようにある。

「一坂 幅五尺余、高四間余、登拾五間、 右坂の脇崕下芥捨場に致候間、里俗に芥坂と相唱申候、尤町内持に御座候」

ただし、岡崎は、この書上を別のところの坂の説明として引用している。

立爪坂中腹 立爪坂上 立爪坂上 横関は、この芥坂を「文京区湯島三丁目の妻恋坂の北側の横町を、もとの三組町へ上る坂。立爪坂とも」とする。上記の三組町の書上を、この坂の説明として引用しているが、石川も同じである。この坂名は、上記のように、他のゴミ坂と同様で、芥捨場であったことに由来する。

また、横関によれば、立爪坂という名について、胸突坂などと同じように、急坂を意味するとし、立爪というのは、「爪立ちする」「爪先で歩く」という意味で、急坂を上って行く姿勢と解釈している。いまの立爪坂は、そんなに傾斜はないが、昔はさぞ急であったろうと推測している。

坂上の階段がその名残りをわずかに伝えているのかもしれない。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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善福寺川(尾崎橋~堀之内橋)2011(12月)

2011年12月26日 | 写真
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妻恋坂

2011年12月25日 | 坂道

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 清水坂中腹から妻恋神社 妻恋神社 妻恋神社説明板 二枚目の写真は前回の清水坂から妻恋坂へ続く道を撮ったもので、左手の樹木がある所が妻恋神社の境内である。この道は、清水坂上から東側の歩道を下り、中腹で左折して東へ延びる。この道を進むと、すぐ左手上側が妻恋神社(三枚目の写真)である。このあたりはまだ平坦である。

四枚目の写真は、文京区教育委員会による神社の説明板であるが、この神社はヤマトタケルノミコトの東征伝説がもとになっているとのこと。

一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図 文久元年(1861))を見ると、神田明神の北に妻恋(慈)神社がある。その角を右折すると、北に湯島天神へと続く道である。近江屋板、御江戸大絵図(天保十四年版)もそうなっている。

横関によれば、この神社は、明暦三年(1657)の大火後、万治(1658~1661)のころ、湯島天神町旧一丁目の辺から現在地に移って来たという。

妻恋坂上 妻恋坂上 妻恋坂上側 妻恋坂上側 妻恋神社をすぎてさらに東へ進むと、まもなく左にちょっと曲がるが、そこが妻恋坂の坂上である。まっすぐに下り、途中、四差路のところで少し右に曲がり、坂下は神田明神下から延びる大きな通りに突き当たる。坂上側では勾配が中程度でちょっと急であるが、坂下側はかなり緩やかになる。

坂下から妻恋神社までかなり距離があるが、まっすぐではなく二度ほど曲がっているため、うねりのある坂道となっている。

上記の尾張屋板には、神社のわきから東へまっすぐの道にツマコヒサカとある。近江屋板にも△ツマコイサカとあるが、道筋が坂上から見て、坂上で少し左に曲がり、途中で少し右に曲がっていて、いまと同様である。こういった部分については近江屋板の方が細かく描いている。

坂上近く北側に説明パネルが立っているが、次の説明がある。

「妻恋坂
 大超坂・大潮坂・大長坂・大帳坂と別名を多く持つ坂である。
 『新撰東京名所図会』に、「妻恋坂は妻恋神社の前の前なる坂なり。大超坂とも云ふ。本所霊山寺開基の地にて、開山大超和尚道徳高かりしを以て一にかく唱ふという」とある。
 この坂が「妻恋坂」と呼ばれるようになったのは、坂の南側にあった霊山寺が明暦の大火(1657年)後浅草に移り、坂の北側に妻恋神社(妻恋稲荷)が旧湯島天神町一丁目から移ってきてからであろう。」

妻恋坂中腹 妻恋坂中腹 妻恋坂下側 妻恋坂下 横関は、別名の大超坂について、これが本当で、他の大潮坂などは当て字であるとする。寛永(1624~1644)のころ、この坂の南側に霊山寺があったが、その開基の大超和尚の名からきている。霊山寺は、もともと、慶長六年(1601)徳川家康の命によって、駿河台の梅坂(のちの紅梅坂の辺といわれる)に創立された大寺であったという。寛永十二年(1635)、三代将軍家光の時代に、湯島に二万坪の替地をもらって移転した。この時代に、霊山寺の北わきの坂を大超坂と呼んだとする。

妻恋坂は、上記のように、明暦の大火(1657)の後、妻恋神社がこの坂の北に移ってきてからの名であるので、大超坂の方が妻恋坂よりも古い名である。

『御府内備考』には次のようにある。

「妻恋坂
 妻恋坂は妻恋稲荷社の前なる坂なり、又大超坂とも云ふよし、或は大長ともかけり、或人云、妻恋の細道の坂は享保の頃東湖和尚の築きたりしと云、【改選江戸志】又此辺に妻恋橋妻恋野などいへる古跡あるよし【江戸志】等に弁したれど、皆牽強と覚しき説なれば略して載せず」

この坂名は、いずれもその由来は明らかであり、御府内備考は、その記した説を、その後にあるように、みなこじつけであるとしている。同じく妻恋町の書上に次のようにあり、上記よりも説明が詳しい。しかし、妻恋町(坂の西側にある)へ上る坂だから自然と妻恋坂というようになったと伝えられているとあるが、俄には信じ難い。

「一妻恋坂 幅三間程、長拾三間高壹丈余、
右坂の儀は武家方持にて当時内藤豊後守様、島田弾正様、建部内匠様、黒田五左衛門様、酒井舎人様、三枝孫市様御掛りに御座候、右坂近辺黒田五左衛門様御屋敷と又は内藤豊後守様御屋敷の辺に往古寺名不知大超と申名高き和尚住居致し、明暦の大火にて類焼仕候処浅草辺え引移り候由、其砌より大超坂と申候由、尤妻恋町え上候坂を自然と相唱候由申伝候、」

江戸切絵図に、南側に坂上から島田、三枝、黒田、内藤の各屋敷、内藤邸の向かいに酒井、坂下の突き当たりに建部の各屋敷があるが、この坂はこれらの武家屋敷による武家持ち(修理などの分担)であった。

新妻恋坂 新妻恋坂 妻恋坂の南側に平行に蔵前橋通りの広い道路が通っているため、この坂はすっかりその通りの裏道となっているが、歴史的にはこの坂道の方がはるかに古い。この坂下近くの蔵前橋通りの交差点の名が妻恋坂となっている。そこから蔵前橋通りは西へ緩やかに上る坂となっているが、ここが新妻恋坂である。

一枚目の写真は、前回の横見坂下から清水坂下の交差点方面を撮ったもので、二枚目はその近くから反対の西側の坂上方面を撮ったものである。蔵前橋通りは、明治地図(明治四十年)にはないが、戦前の昭和地図(昭和十六年)にはあるので、新妻恋坂は大正から昭和はじめ頃にできたのであろう。かつての樹木谷にできた坂である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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清水坂(湯島)

2011年12月24日 | 坂道

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 向かいの坂からの清水坂 清水坂下 清水坂下 前回の樹木谷坂下から蔵前橋通りを横断し、横見坂下で右折し、東へ歩く。ここは先ほど通った歩道である。すぐ次の交差点が清水坂の坂下である。左折すると、まっすぐに北へ上っているが、途中、左にちょっと曲がっている。西となりの横見坂と平行で、勾配は同様にちょっと急である。

二枚目の写真は、前回の明神男坂から本郷通りにでて、次の交差点を右折して下った坂の途中で撮ったもので、坂の途中から反対側の坂を撮るとちょっと面白い風景になって見える。

一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図 文久元年(1861))を見ると、前回の横見坂、樹木谷坂の東は妻慈(ツマゴイ)町や武家屋敷で、この坂に相当する道がない。近江屋板も同様である。

明治地図(明治四十年)にもないようであるが、戦前の昭和地図(昭和十六年)にはあるので、この間にできたのであろう。

清水坂下側 清水坂中腹 清水坂上 清水坂上 坂の中腹西側に説明パネルが立っており、次の説明がある。

「清水坂  文京区湯島二丁目1と三丁目1の間
 江戸時代、このあたりに、名僧で名高い大超和尚の開いた霊山寺があった。明暦3年(1657)江戸の町の大半を焼きつくす大火がおこり、この名刹も焼失し、浅草へ移転した。
 この霊山寺の敷地は、妻恋坂から神田神社(神田明神)にかかる広大なものであった。嘉永6年(1853)の『江戸切絵図』を見ると、その敷地跡のうち、西の一角に島田弾正という旗本屋敷がある。明治になって、その敷地は清水精機会社の所有となった。
 大正時代に入って、湯島天満宮とお茶の水の間の往き来が不便であったため、清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。
 そこで、町の人たちが、清水家の徳をたたえて、『清水坂』と名づけ、坂下に清水坂の石柱を建てた。」

上記の説明から大正になってからできた坂であることがわかり、坂名のいわれもその会社名から来ている。

上記の江戸切絵図には(近江屋板も)、妻恋神社の角から北へ湯島天神の方に延びる道(途中に三組丁とある)があるが、この道が現在の清水坂上から北へ湯島天神の方に延びる道路と対応するようである。現在、坂途中(坂下から見て左に少し曲がった所)で東へ右折すると妻恋神社・妻恋坂の方に向かう道となるので、この角から下側(南)が大正期に新たに開かれた坂道と思われる。

道幅などからとなりの横見坂よりもメインの通りとなっているようである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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横見坂~樹木谷坂

2011年12月23日 | 坂道

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 横見坂下 横見坂下 横見坂下 前回の傘谷坂上の湯島二丁目の交差点を右折し、東へ進む。途中、左手に霊雲寺が見える。次の交差点を右折すると、南へ平坦な道がちょっと続くが、やがて横見坂の坂上に至る。写真は坂下から坂上へならべている。

勾配は中腹あたりでやや急になっている。少しうねっており、坂下から見て左にわずかに曲がっている。坂下の蔵前橋通りから北へ上る坂で、西の傘谷坂、東の清水坂とほぼ平行である。

一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図 文久元年(1861))を見ると、霊雲寺が目印となって、現在の位置との対比が容易である。霊雲寺のある四差路の角から南へ延びる道がこの坂で、途中少々曲がっている。この坂下から南へさらに続く道が樹木谷坂である。近江屋板も同様で、この坂を示す坂マーク△と、樹木谷坂を示す坂マーク△があり、その間が樹木谷であろう。

上記のように、二つの坂は江戸から続く坂であるが、二~四枚目の写真のように、坂下側でちょっと曲がった道筋は、むかしの名残りであると思われる。

横見坂下側 横見坂上側 横見坂上 横見坂上 坂の中腹西側に説明パネルが立っており、次の説明がある。

「横見坂(横根坂)
 『御府内備考』に、
 「右坂は町内より湯島三組町え上り候坂にて、当町並本郷新町家持に御座候・・・・・・・里俗に横根坂と相唱申候」とある。
 坂下の蔵前通りの新妻恋坂の一帯は、かつて樹木谷といわれ、樹木が茂っていた。この谷から湯島台に上るこの坂の左手に富士山が眺められた。
 町の古老は、西横に富士山がよく見えて、この坂を登るとき、富士を横見するところから、誰いうとなく横見坂と名づけられたといっている。
 坂の西側一帯は、旧湯島新花町である。ここに明治30年頃、島崎藤村が住み、ここから信州小諸義塾の教師として移って行った。
 その作品『春』の中に、
 「湯島の家は俗に大根畠と称えるところに在った。・・・・・・・大根畠は麹の香のする町で」とある。ローム層の台地は、麹室には最適で『文政書上』には、百数十軒の麹屋が数えられている。
  文京区教育委員会 昭和56年3月」

盛りだくさんの説明である。坂を上るとき、横に富士が見えたので、横見坂とはいかにも江戸っ子らしい命名である。

明治地図(明治40年)を見ると、この坂と傘谷坂の間、霊雲寺の南側に新花町があり、その下側(南)が湯島四丁目である。島崎藤村は、一家で、明治28年(1895)7月、本郷湯島新花町(大根畠)二十四番地に転居した。23歳の時で、翌年、本郷森川町へ移転している。

「湯島の家は俗に大根畠ととなえるところにあった。岸本が荷車と一緒に着いたころは母も、姉も、幸平兄も、それから愛子も、みんなもう新しい住居に移っていた。
 大根畠は麹の香のする町で、上麹、白米と記した表障子、日あたりのいい往来のわきに乾し並べた桶、軒下に積み重ねた松薪などの見られる場処である。そこは湯島四丁目の浅い谷をへだてて、神田明神の杜を望むような位置にある。」

藤村『春』の上記の引用部分であるが、その湯島四丁目の浅い谷とは、樹木谷であると思われる。

横関によれば、横根坂の別名について、江戸っ子が横見坂をうまく洒落たつもりで呼び替えたものであるという。江戸っ子の悪い癖のでた洒落であるとする。

樹木谷坂下 樹木谷坂下 樹木谷坂中腹 横見坂下から蔵前橋通りの反対側を撮ったのが一枚目の写真で、ちょうど正面が樹木谷坂の坂下である。蔵前橋通りができる前は、続きの道であったことがわかる。通りを横断するが、坂の右側(西)におりがみ会館というのがある。

勾配は中程度よりも緩やかといった感じで、本郷通りに達する手前でほぼ平坦になり、短い坂である。下一、三枚目の写真のように、坂下の向こうに横見坂下が見える。

坂の中腹西側に説明パネルが立っており、次の説明がある。

「樹木谷坂   文京区湯島1-7と10の間
 地獄谷坂とも呼ばれている。この坂は、東京医科歯科大学の北側の裏門から、本郷通りを越えて、湯島1丁目7番の東横の道を北へ、新妻恋坂まで下る坂である。そして、新妻恋坂をはさんで、横見坂に対している。
 『御府内備考』には、「樹木谷3丁目の横小路をいふ」とある。
 尭恵法印の『北国紀行』のなかに「文明19年(1487)正月の末、武蔵野の東の界・・・並びに湯島といふ所あり。古松遥かにめぐりて、しめの内に武蔵のゝ遠望かけたるに、寒村の道すがら野梅盛に薫ず」とある。天神ゆかりの梅の花が咲く湯島神社周辺のようすである。
 徳川家康が江戸入府した当時は、この坂下一帯の谷は、樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂ということで、樹木谷坂の名が生まれた。
 地獄谷坂と呼ばれたのは、その音の訛りである。
 なお、湯島1丁目の地に、明治14年(1881)渡辺辰五郎(千葉県長南町出身)が近代的女子技術教育の理想をめざし、和洋裁縫伝習所を創設した。その後、伝習所は現東京家政大学へ発展した。
  文京区教育委員会 平成10年3月」

『御府内備考』の新町家の書上に樹木谷・地獄谷について次のようにある。

「湯島三丁目横町より当町えの往来坂下右の方、杉浦房次郎殿御屋敷え流候大下水の所、樹木谷と里俗相唱申候 尤右様唱申候訳相分不申候、当時唱誤地獄谷共相唱申候、」

上記によれば、湯島三丁目横町より当町までの通りの坂(この坂と思われる)下の右の方にある(杉浦房次郎殿御屋敷へ流れる)大下水の所を樹木谷と俗称した。もっともそのように呼んだ理由はわからない。当時、地獄谷とも誤って呼んだ。

樹木谷坂上側 樹木谷坂上 樹木谷坂上 麹町の善国寺坂の記事で、『紫の一本』を引用し、その坂下の谷付近を地獄谷ともいったが、その後、その名を嫌われて樹木谷とよんだことを紹介した。同著の同じ地獄谷の説明に、「地獄谷と云ふ所は、湯島金助丁より天神へ行く所にもあり。」とある。

『紫の一本』が書かれたのは天和二年(1682)頃、『御府内備考』は文政十二年(1829)頃で、前者にあるようにこの谷も地獄谷と呼ばれ、後者は150年後に書かれたことであり、麹町のように地獄谷の名が嫌われて樹木谷と呼ばれるようになった後に記述したと考えることもできる。前者の記述しか根拠はないが、麹町と同様に地獄谷がもともとの名のような気がする。樹木谷というのは、地獄谷の代わりに、誰かがひねり出した名のような感じもするからである。

傘谷坂の記事で紹介したように、横関は、小さな谷を挟んで二つの坂がある場合、谷の名をよんで坂の意味を持たせたとし、樹木谷をその例にあげ、また、二つの坂のいずれか一方のみをよぶようになった坂もあるとしている。この樹木谷坂もその例とも考えられるが、この場合は、ちょっと違って、片方の坂に横見坂(横根坂)という名がついたため、そのまま別々の名となったと考えた方が自然である。

本郷通りの手前で平坦になっているので、その手前で引き返したが、通りの向こうの東京医科歯科大学の裏門のあたりまで続いていたようである。上記の江戸切絵図を見ると、その近くに鉄砲鋳場があり、それに江川太郎左衛門掛(係)とある。江川は、幕末の伊豆韮山の代官で、台場の建設などを提言した(台場公園の記事)。砲弾などの鋳物工場の責任者であったようである。

中沢新一「アースダイバー」に添付の縄文海進期の地図を見ると、現在本郷台地とよばれるあたりは、その東端が海に面し、神田明神と妻恋神社との間から海が西へ、西北へと入り込んでいる。そこにこの樹木谷があることがわかる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「新潮日本文学アルバム 島崎藤村」(新潮社)
島崎藤村「春」(岩波文庫)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)
中沢新一「アースダイバー」(講談社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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傘谷坂

2011年12月21日 | 坂道

聖橋の北 尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 傘谷坂上(南) 傘谷坂上(南) 前回の明神男坂から神田明神の鳥居を通って本郷通りの歩道に出て、ここを右折し西へ歩く。次の交差点から南側を撮ったのが一枚目の写真である。ちょうど聖橋の北にあたり、先ほど聖橋の北詰で撮った写真の所からちょっと離れているが、銀杏並木を挟んではす向かいの位置である。銀杏並木が西日を受けて黄色に光っている。

交差点を右折すると、下り坂となって、蔵前橋通りの向こうに清水坂が見える。ここは後にくることにし、坂下で横断して左折し、蔵前橋通りの歩道を西へ進む。途中、横見坂の坂下を過ぎて、本郷通りと交わる手前を右折すると、傘谷坂上である。三枚目の写真のように、この道はサッカー通りという。坂の中腹に日本サッカーミュージアムというのがあるためらしい。

この坂は、北へまっすぐに下り、坂下で少し左に曲がってからふたたび北へ上っている。坂下を傘谷とよんだようで、南側の坂と北側の坂との両方を傘谷坂と称している。勾配は両方とも中程度といったところ。坂上から反対側の坂上までかなりの距離がある。

傘谷坂中腹(南) 傘谷坂中腹(南) 傘谷坂下(南) 傘谷坂下(南) 石川は、本郷三丁目と湯島二丁目の境を南から北へ下り、さらに上る坂で、もとはこの西側が金助町、東側が新花町だったから、この坂道を金花通りとよび、その谷あいを傘谷とよんだ、と説明している。

上二枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図 文久元年(1861))を見ると、聖堂の裏(北)を通る道が西へ延びているが、湯島五丁目の手前の四差路(角に円満寺がある)を右折してから北へ続く道が傘谷坂である。近江屋板には、坂マーク△が二つあり、南へ上る坂、北へ上る坂を示し、その間が傘谷とよばれた坂下である。尾張屋板では南側の坂が途中曲がっているが、近江屋板ではまっすぐである。

『御府内備考』に次の説明がある。

「傘谷 傘谷は金助町の北の方なり、此辺にて多く傘を製し出せしよりの名なりといふ、さもありしにや、今はそれらの商人も見へず、【改選江戸誌】」

傘谷坂下(北) 傘谷坂下(北) 傘谷坂下(北から南を見た) 傘谷坂下側(北) 坂下近くが傘の生産地であったようであるが、傘づくりはむかしから貧乏御家人の内職が多く、近くに御家人の組屋敷があったというから(石川)、そういった御家人が多く住んでいたのかもしれない。

『御府内備考』の新町家の書上に次のようにある。

「一町内西界地ひくの所傘谷と相唱申候、」

「一坂四箇所 右坂の儀は町内東境道通り湯島三組町より下り坂壹(一)所、町内西境傘谷通り前後貳(二)ケ所、町内北境内藤左京殿御屋敷脇壹(一)ケ所、右何れも名目無御座候」

上記の江戸切絵図の傘谷坂の北側の町屋に「本々新町家」とあるので、この一帯の書上であろう。

傘谷坂中腹(北) 傘谷坂上(北) 傘谷坂上(北) 傘谷坂上(北) 横関によれば、谷を挟んで二つの坂があり、この坂のように谷がきわめて小さい場合、二つの坂が相接続した一つの坂の感じになってしまい、別々の名をつけることもやっかいなので、江戸っ子は坂の名をつけず、谷の名をよんで坂の意味を持たせた。御厩谷、鈴降谷、樹木谷、傘谷、薬研谷などである。それがいつの間にか坂という字をつけることになったのだという。御厩谷坂、樹木谷坂、傘谷坂など。

二つの坂につけた名称であるべきなのに、その二つの坂のいずれか一方のみをよぶようになった坂もあるというが(たとえば、御厩谷坂)、この坂や赤坂の薬研谷はそうなっていないようである。三段目の三枚目の写真などを見ると、いまも坂下の谷は小さく、往時の小さな谷が思い浮かぶようである。

この坂には、いつもの文京区の坂標識を兼ねた説明板が立っていないようである(見逃したおそれもあるが)。

傘谷坂上を北へ進むと、春日通りに突き当たる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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井草八幡2011(12月)

2011年12月20日 | 写真
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明神男坂(明神石坂)

2011年12月19日 | 坂道

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 天神男坂上 天神男坂下 天神男坂下 前回の湯島坂上の神田明神の鳥居をくぐり、神田明神の手前で右折しちょっと歩くと、明神男坂の坂上である。石段坂でその名の通りかなり急であるが、途中、二、三箇所踊り場がある。坂は東ヘと下り、本郷台地の東端に位置する。ここは神田明神も含め、外神田二丁目で、千代田区である。

坂上に立っている標柱には次の説明がある。

「この坂を明神男坂といいます。明神石坂とも呼ばれます。『神田文化史』には「天保の初年当時神田の町火消『い』『よ』『は』『萬』の四組が石坂を明神へ献納した」と男坂の由来が記されています。この坂の脇にあった大銀杏は、安房上総辺から江戸へやってくる漁船の目標となったという話や、坂からの眺めが良いため毎年一月と七月の二六日に夜待ち(観月)が行われたことでも有名です。」

一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図 文久元年(1861))の部分図を見ると、神田明神の東に坂マーク(多数の横棒)が見える。ここがこの坂と思われる。近江屋板にも同じ位置に同様のマーク(△の坂マークではなく)がある。

天神男坂下側 天神男坂中腹 天神男坂中腹 天神男坂上側 男坂とあるからには、女坂はどこかと調べると、石川に、「神社の北裏を文京区の湯島三丁目へ下っていたが、いまではビルに坂口をふさがれて廃道となっている」と説明されている。明治地図や戦前の昭和地図を見たが、そのような石段坂は示されていない。

東京23区の坂道」は、男坂の南にある女坂を紹介している。「新」女坂とよぶべきものかどうかよくわからないが、あった方が自然であることは確かである。今回は行けなかったが、いつか訪れてみたい。

『御府内備考』の神田明神表門前の書上に次のようにある。

「一石坂 高さ四丈余、幅 二間、
 右町内東之方に有之候、明神裏門の坂にて登り拾八間、内上の方六間町内持に御座候、」

同じく神田明神裏門前の書上に次のようにある。

「一町内西の方に明神裏門え登り候石坂有之候、右は明神表門前より申上候通に御座候、尤登り拾八間、内下の方十弐間町内持に御座候、」

上記からこの坂は江戸期から石坂であったことがわかる。また、神田明神表門前と裏門前で、持ち(修理などの分担)が上から六間、下から十二間と決まっていたようである。

坂下(外神田二丁目)は、切絵図にもあるように明神下ともよばれ、もとの神田同朋町で花柳界であったという。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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聖橋~湯島坂

2011年12月19日 | 坂道

今回は、湯島聖堂の裏手を通る本郷通りの北側と湯島天神の北側の春日通りとの間にある坂を巡った。本郷台地の南端から東端のあたりである。

聖橋から東側 聖橋北詰 団子坂上 団子坂上 午後丸の内線お茶の水駅下車。

相生坂(昌平坂)の北側歩道を下り、聖堂の中に入り、ここを通り抜けて階段を上り、聖橋に行く。一枚目の写真は橋の東側を撮ったものである。きょうも晴天なので、青空を背景にした風景となっているが、前回の曇りのときと感じが違う。左の樹木のある所が湯島聖堂で、その前が相生坂(昌平坂)である。二枚目は戻ろうとして北側を撮ったものである。銀杏並木が黄に色づき、青空とよいコントラストをつくっている。

聖橋北詰の階段を下って引き返し、前回の団子坂(坂上に「昌平坂」の標識が立っている)を上る。三枚目の写真は坂上を右折し、振り返って坂上を撮ったものである。角に低い石柱が小さく写っている。右側の道はこれから行く湯島坂の坂上付近である。

四枚目の写真は、上記の石柱で、上が欠けており、「昌平坂」の下の二文字が残っている。この石標は、横関が「この団子坂の頂上に、「古跡昌平坂」と刻した石標が建てられていることを知って驚いた」としているものかもしれない。坂下にある石標も同じに刻されているが、二つの石標の関係はどうなっているのだろうか。坂下の石標の裏面には「昭和十二年」と彫られている。

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 湯島坂下 湯島坂中腹 湯島坂中腹 団子坂の坂上の左右が湯島坂である。坂下まで下るが、ほぼまっすぐに南東へ下っている。二~四枚目の写真のように、勾配は中程度といったところで、本郷通りであるため道幅が広い。坂下の交差点からふたたび上る。

『御府内備考』に次の説明がある。

「湯島坂 湯島坂は明神の前より東へ下るの坂なり。則湯島壹丁目なり、【改選江戸誌】」

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図 文久元年(1861))を見ると、一枚目のように、聖堂から東(下側)へ延びる道に、湯島一丁目とあるので、ここが湯島坂と思われる。近江屋板には坂マーク△がある。聖堂の東わきで神田川へと延びる短い道が団子坂である。

江戸切絵図で、団子坂上が湯島坂の上側とつながっているが、ここで湯島坂上側の道は右に曲がってからまっすぐに延び、ふたたび左に曲がってから西へ延びている。ちょうど聖堂の敷地が北へ台形状に出っ張っているような形である。明治実測地図(明治11年)を見ると、確かに聖堂の裏手でわずかに台形状になっているが、切絵図ほどではない(切絵図はデフォルメしているということと思われる)。これが、明治40年の明治地図ではいまと同じようにほぼまっすぐになっている。本郷通りには市電も通っており、この間の明治の道路工事で、江戸から続く曲がった道を拡幅しまっすぐにしたと思われる。神田明神の鳥居の西側がもっと拡がっているのに対し、いまは本郷通りに沿っているが、その間にある小路がそのときの名残かもしれない。

湯島坂上 湯島坂上 湯島坂上 湯島坂上 三枚目の写真は神田明神の鳥居のちょっと東側から坂下を撮り、四枚目の写真は鳥居の下から通りを挟んだ向こうの聖堂裏を撮ったものである。これらから鳥居の前あたりが湯島坂の坂上といえそうであるが、切絵図でちょうど坂下から来て二度目に折れ曲がった所に鳥居がある。当時の鳥居の位置がいまと同じとすれば、むかしも鳥居前のあたりが湯島坂の坂上といえそうである。湯島坂の別名は、明神坂、本郷坂であるが、前者は坂上が神田明神の鳥居のある参道前であったからと思われる。

かつて聖堂の東わきにあった昌平坂は、聖堂の中に取り込まれて消滅したが、神田明神の鳥居から見通しの位置にあったというから(団子坂の記事)、鳥居の下から聖堂側を撮った四枚目の写真のあたりにあったことになる。『御府内備考』に次の説明がある。

「今昌平坂と称せるは聖堂御構の東にそへる坂をいへば、こは後年その名の移りしなるべし、昔の昌平坂は寛政十年聖堂御再建の時御構の内に入しと云、【改選江戸誌】に云、【湯原日記】に、元禄三年十二月十六日、聖堂の下前後の坂を今より昌平坂と唱ふべきよし定らると見ゆ、是魯国昌平郷になぞらへてかく名付玉ひしなり、元禄四年の聖堂図には堂の東に添て坂あり、其所に昌平坂としるせり、しからば聖堂と鳳閣寺の間の坂なれば、今の御構の内なり、今聖堂の前東の方なる坂をいふようにも伝ゆれと誤りにや、たゞし【湯原日記】に前後の坂といふによれば、こゝも昌平坂といひしにやと、」

団子坂の記事で、横関説を紹介したが、再掲すると、上記の「今昌平坂と称せるは聖堂御構の東にそへる坂」は、寛政の聖堂再建の時、すでに江戸庶民によって付けられた団子坂という名があった。このため、昌平坂よりも団子坂といった方がよいということである。綱吉が昌平坂と命名したという「聖堂の下前後の坂」とは、いまの相生坂と、寛政の再建時に聖堂の中に取り込まれて消滅した昌平坂であるから、いま、昌平坂は一つ(相生坂)しかない。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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禅林寺(太宰治の墓)~三鷹駅西の跨線橋

2011年12月16日 | 文学散歩

太宰治墓 太宰治墓 前回の森鷗外(森林太郎)の墓の斜め向かいに太宰治の墓がある(二枚の写真)。

以前、はじめてきたとき、その近さにびっくりしたものである。太宰も鷗外を尊敬していたというが、その墓が鷗外の墓とこんなに近くで、泉下の太宰も喜んでいるかもなどと思ってしまう程である。そのはずで、ここにしたのは生前の太宰の願いを容れたからであるという。

太宰の遺体が発見された6月19日が命日となっていて、翌年(1949)の一周忌のとき、今官一により「桜桃忌」と命名され、以来毎年、ここで偲ぶ会などの追悼行事が行われているとのこと。その年の11月3日、作家の田中英光が太宰の墓前で自殺した。

桜桃忌にはかなり多数の老若男女の太宰ファンが集まるというが、一度も来たことがない。そういったたくさんの人が集まるところは、はじめから避けてしまうからである。ただ、そういうふうなファンの心理はわかるような気がする。思い入れが強いほどそうなる。

五、六年前に、はじめてここを訪れたとき、たぶん、その桜桃忌の前後、梅雨明け前のころだったと思うが、なにかその余韻(前触れ)らしきものが感じられたような記憶がある。そのような特別な日ではなく、なにもないときに来た方が静かで、ひっそりとし、落ち着いた感じでかえってよいというのが私の感想である。

三鷹駅西の跨線橋 跨線橋説明パネル 三鷹駅西の跨線橋 三鷹駅西の跨線橋 禅林寺から出て、連雀通りで左折し、次を左折して北へ進み三鷹駅に向かう。きょうはだいぶ歩いたので、かなりつかれてきた。そのまま駅に行き、帰ろうと思ったが、やはり、太宰が好んで行ったという三鷹駅の西にある跨線橋(陸橋)に行ってみることにする。ちょうど暮れかかってきたので夕日が見られるかもしれない。そういえば、以前も最後に訪れたのがそこである。

駅の出入口の手前から階段を下りて、線路沿いの歩道を西へ歩くと、やがて正面に、一枚目の写真のように、跨線橋の階段が見えてくる。階段下のフェンスの壁の前に、二枚目の写真の陸橋(跨線橋)の説明パネルが立っている(一枚目の写真の右端にも写っている)。この説明パネルは、前回の野川家跡や伊勢元酒店跡などと同じシリーズで、太宰ゆかりの場所を示すものである。以前来たときはなかったように思う。太宰が階段を下りてくる写真がのっている。これ以外にもここで撮った写真があるようで、このため有名になったのであろう。

この跨線橋は、三鷹駅近くで、引込線などもある場所に南北に跨ぐように架かっている(四枚目の写真)。このためかなり長い。

太宰が生きた時代から残っているところはもうほとんどない中で、ここは唯一といってよい例外的な所という。当時の建物などは建て替えられて当時を偲ぶことができるものは何も残っていないのが現実で、かろうじて説明パネルなどでそういった場所であったことを知ることができるだけである。そういった時の流れからすると貴重な場所である。

跨線橋から西側 跨線橋から北東側 跨線橋から富士山 跨線橋 跨線橋の上に行くと、ちょうど日の入りの直前であった。一枚目の写真は跨線橋の西側、二枚目は北東側を撮ったもので、夕日に照らされた光景が印象的である。太宰もこういった風景を眺めたのだろうか。たぶんそうだろうと思い込んでしまう。

正面からやや左の方に夕日に映える富士山の上部が見え、そのシルエットの左わきから陽がまさに沈もうとしている。しばらく眺めてから、跨線橋を渡りその北の端で、陽が見えなくなったころに撮ったのが三枚目の写真である(若干トリミングしている)。ここから富士山が見えるとは知らず、思いかけず富士を背景にした落日の光景を楽しむことができた。期待していなかったからなおさらである。回りを見わたすと、夕暮れの富士山を見に来たと思われる人たちが集まっている。

上った階段を下り来た道を引き返し三鷹駅へ。

携帯による総歩行距離は18.1km(ただし、午前中に歩いた2km程度が含まれている)。

参考文献
東京人「三鷹に生きた太宰治」12月増刊2008 no.262(都市出版)
「新潮日本文学アルバム 太宰治」(新潮社)

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禅林寺(森鴎外の遺言碑・墓)

2011年12月14日 | 文学散歩

禅林寺?貎外遺言碑?貎外遺言碑 前回の太宰治文学サロンから禅林寺まで行くことにする。

本町通りを南へ歩く。三鷹の道は、新開地のためか、どれもまっすぐにつくられているが、この通りもまっすぐに南へ延びている。

ひたすら歩くと、連雀通りに突き当たる。ここを右折し、西へ歩くと、右手に禅林寺の入り口が見えてくる。

通りから一枚目の写真の山門までちょっと距離がある。山門から入ると、二枚目の写真のように、参道の右手に横長の石碑が建っている。よく見ると、三枚目の写真のように、森鴎外の遺言を刻んだものである。

禅林寺には、太宰治の墓があるが、森鴎外の墓もある。しかもきわめて近くである。鴎外の遺言碑は、禅林寺のホームページによると、昭和45年(1970)建立とある(このHPには太宰と鴎外の墓の案内もある)。

鴎外の遺言は次のとおりである。

余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ
一切秘密無ク交際シタル友ハ
賀古鶴所君ナリコヽニ死ニ
臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事
件ナリ奈何ナル官憲威力ト

雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス
余ハ石見人 森 林太郎トシテ
死セント欲ス 宮内省陸軍皆
縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間
アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
森 林太郎トシテ死セントス
墓ハ 森 林太郎墓ノ外一

字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ
依託シ宮内省陸軍ノ榮典
ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ手續ハ
ソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云
ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許
サス 大正十一年七月六日
        森 林太郎 言
        賀古 鶴所 書

森 林太郎
      男     於菟

    友人
     総代   賀古鶴所
              以上

(ホームページ「小さな資料室」の「鴎外の遺言」を参考にした。)

森?貎外墓森?貎外墓鴎外は、大正11年(1922)春頃から体の衰えが目立つようになり、6月半ばから役所を休み、病臥し、死期を悟ったのか、7月6日に大学以来の友人賀古鶴所に口述し筆記させたのが上記の遺言である。その後、7月9日午前七時に亡くなっている。

「新潮日本文学アルバム 森鴎外」にのっている遺言の写真を見ると、上記の禅林寺の遺言碑文は実物のとおり刻んだものであることがわかる(ただし「賀古 鶴所 書」までで、それ以下は省略されている)。たとえば、実物では、「奈何ナル官權」の「權」を改めてその左に「憲」とあるが、遺言碑文もそうなっている。

この遺言を読むと、鴎外の覚悟のほどが伝わってくる。鴎外は、石見人(現島根県津和野出身)である森林太郎(本名)として死にたいとしている。宮内省と陸軍にはつながりがあったが、しかし、それは生きている間のことであって、死んだら終わりで、それまでの縁によるあらゆる外形的な取扱は辞する。陸軍軍医総監(軍医として最高の地位)まで出世した官僚でもあったが、宮内省や陸軍からの栄典(勲章や位階)は絶対に固辞するとしている。死が近づき意識が遠くなる中、それでもこの点に限っては覚醒していた。官僚などもうまっぴらごめんだ。この瞬間、鴎外は、単なる岩見人として死ぬことになるが、しかし、その名はいまに至るまで残り、これからも消えることはない。それは決して陸軍軍医総監の故ではない。だが、鴎外といえども後世に名を残そうと文学に打ち込んだのではない。そうせざるを得なかったなにかがあるのだ。

墓地は本堂の裏手で、左端の方から入ることができる。真ん中の小路を進むと、右手に鴎外の墓がある。

鴎外の墓は、二枚の写真のように、墓表に「森林太郎墓」とあるだけで、遺言のとおりである。はじめ向島の弘福寺にあったが、関東大震災後、昭和2年(1927)10月禅林寺に改葬された。

鴎外を敬愛する永井荷風は、その祥月命日によく墓参りに向島に赴いているが、この禅林寺にも来ている。荷風の「断腸亭日乗」昭和18年(1943)10月27日に次のようにある。少々長いが全文を引用する。

「十月念七。晴れて好き日なり。ふと鴎外先生の墓を掃かむと思ひ立ちて午後一時頃渋谷より吉祥寺行の電車に乗りぬ。先生の墓碣は震災後向島興福寺よりかしこに移されしが、道遠きのみならず其頃は電車の雑沓殊に甚しかりしを以て遂に今日まで一たびも行きて香花を手向けしこともなかりしなり。歳月人を待たず。先生逝き給ひしより早くもこゝに二十余年とはなれり。余も年々病みがちになりて杖を郊外に曳き得ることもいつが最後となるべきや知るべからずと思ふ心、日ごとに激しくなるものから、此日突然倉皇として家を出でしなり。吉祥寺行の電車は過る日人に導かれて洋琴家宅氏の家を尋ねし時、初めてこれに乗りしものなれば、車窓の眺望も都て目新しきものゝみなり。北沢の停車場あたりまでは家つゞきなる郊外の町のさま巣鴨目黒あたりいづこにても見らるゝものに似たりしが、やがて高井戸のあたりに至るや空気も俄に清凉になりしが如き心地して、田園森林の眺望頗目をよろこばすものあり。杉と松の林の彼方此方に横りたるは殊にうれしき心地せらるゝなり。田間に細流あり、又貯水池に水草の繁茂せるあり、丘陵の起伏するあたりに洋風家屋の散在するさま米国の田園らしく見ゆる処もあり。到る処に聳えたる榎の林は皆霜に染み、路傍の草むらには櫨の紅葉花より赤く芒花と共に野菊の花の咲けるを見る。吉祥寺の駅にて省線に乗換へ三鷹といふ次の停車場にて下車す。構外に客待する人力車あるを見禅林寺まで行くべしと言ひて之に乗る。車は商店すこし続きし処を過ぎ一直線に細き道を行けり。この道の左右には新築の小住宅限り知れず生垣をつらねたれど、皆一側並びにて、家のうしろは雑木林牧場また畠地広く望まれたり。甘藷葱大根等を栽ゑたり。車はわづか十二三分にして細き道を一寸曲りたる処、松林のかげに立てる寺の門前に至れり。賃銭七十銭なりと云、道路より門に至るまで松並木の下に茶を植えたり。其花星の如く二三輪咲きたるを見る。門には臨済三十二世の書にて禅林寺となせし扁額を挂けたり。葷酒不許入山門となせし石には維時文化八歳次辛未春禅林寺現住?葬宗謹書と勒したり。門内に銀杏と楓との大木立ちたれど未だ霜に染まず。古松緑竹深く林をなして自ら仙境の趣を作したり。本堂の前に榧かとおぼしき樹をまろく見事に刈込みたるが在り。本堂は門とは反対の向に建てらる。黄檗風の建築あまり宏大ならざるところ却て趣あり。簷辺に無尽蔵となせし草書の額あり。臨済三十二世黄檗隠者書とあれど老眼印字を読むこと能はざるを憾しむ。堂外の石燈籠に元禄九年丙子朧月の文字あり。林下の庫裏に至り森家の墓の所在を問ひ寺男に導かれて本堂より右手の墓地に入る。檜の生垣をめぐらしたる正面に先生の墓、その左に夫人しげ子の墓、右に先考の墓、その次に令弟及幼児の墓あり。夫人の石を除きて皆曾て向島にて見しものなり。香花を供へて後門を出でゝ来路を歩す。門前十字路の傍に何々工業会社敷地の杭また無線電信の職工宿舎の建てるを見る。此の仙境も遠からず川崎鶴見辺の如き工場地となるにや。歎ずべきなり。停車場に達するに日既に斜なり。帰路電車沿線の田園斜陽を浴び秋色一段の佳麗を添ふ。澁谷の駅に至れば暮色忽蒼然たり。新橋に行き金兵衛に飰す。凌霜子来りて栗のふくませ煮豆の壜詰を饋らる。夜ふけて家にかへる。」(芒花:すすき、簷:のき)

断腸亭日乗 禅林寺断腸亭日乗 森家墓 荷風は、この日、晴れたからか、久しぶりに鴎外の墓参りを思い立った。三鷹に移ってからは一度も行っていない。渋谷に出てそこから井の頭線に乗って、吉祥寺まで行き、省線に乗り換え、次の三鷹で降りた。その途中、車窓からの風景が目新しく、細かな観察が続く。北沢のあたりまでは家が続き、巣鴨や目黒のあたりと似ているが、やがて高井戸のあたりに至ると、空気も清涼となって、田園森林の眺望が大変よくよろこんだ。田間に小川があり、貯水池に水草が繁茂し、丘陵に洋風家屋が散在する様子は米国の田園らしく見える。

三鷹から人力車で禅林寺まで行き、「葷酒不許入山門」(葷(くん)酒山門に入るを許さず)の石柱のことなどを書き連ね、一枚目のような禅林寺のスケッチを載せている。墓地に入り、鴎外の墓に香花を供えたが、二枚目のように森家の墓のスケッチも残している。帰途は駅まで歩き、同じ電車に乗ったようであるが、その沿線の景色が田園斜陽を浴び秋色が一段と美しかった。この後、新橋の金兵衛で夕飯をとり、凌霜子(相磯凌霜)から栗のふくませ煮豆の壜詰を贈られたが、戦時中の物不足が始まっていた。

荷風は、この日、久方振りの鴎外の墓参りを終え、その沿線の秋景色を堪能し、気分がよく印象に残ったのか、上記のように日乗の記述が多くなり、二枚のスケッチも描いている。

これ以降、戦後のどさくさのためか、鴎外の墓参りには来ていないようである。
(続く)

参考文献
「新潮日本文学アルバム 森鴎外」(新潮社)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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