東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

三浦坂(標識)

2016年08月30日 | 坂道

三浦坂(2015) 三浦坂(2015) 三浦坂(2015)




谷中の三浦坂の記事で、坂の標識を紹介していなかった。昨年、大沼枕山の墓を瑞輪寺に訪ねたあと、三浦坂を下った(現代地図)。そのときに撮った写真をのせる。

三浦坂(2015) 三浦坂(2015) 根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856))




三浦坂の標識の説明(二枚目の写真)は、次のとおり。

「三浦坂  台東区谷中一丁目4番
 『御府内備考』は三浦坂について、「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり、一名中坂と称す」と記している。三浦家下屋敷前の坂道だったので、三浦坂と呼ばれたのである。安政三年(一八五六)尾張屋版の切絵図に、「ミウラサカ」・「三浦志摩守」との書き入れがあるのに基づくと、三浦家下屋敷は坂を登る左側にあった。
 三浦氏は美作国(現岡山県北部)真島郡勝山二万三千石の藩主。勝山藩は幕末慶応の頃、藩名を真島藩と改めた。明治五年(一八七二)から昭和四十二年一月まで、三浦坂両側一帯の地を真島町といった。『東京府志料』は「三浦顕次ノ邸近傍ノ土地ヲ合併新ニ町名ヲ加ヘ(中略)真島ハ三浦氏旧藩ノ名ナリ」と記している。坂名とともに、町名の由来にも、三浦家下屋敷は関係があったのである。
 別名の中坂は、この坂が三崎坂と善光寺坂の中間に位置していたのにちなむという。
 平成四年十一月  台東区教育委員会」

この説明によれば、この近くに旧町名に由来する真島坂というのがあるが、その町名のいわれがわかる。三崎坂善光寺坂の間にあるので、別名が中坂である。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)

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吉本ばなな「イヤシノウタ」

2016年08月25日 | 吉本隆明

「イヤシノウタ」カバー

最近刊行(2016年4月)のエッセイである。

独特の語り口からなるばななワールドが広がっているが、私的には2012年3月に亡くなった父(吉本隆明)についての部分が印象に残った。

『あんなに人にばかりつくし、自分の好きなことを最低限しかできなくて、いろいろな人の心の支えになって、体を壊し、最後のほうはいちばん大好きな散歩や買い食いやTVを観ることや読書もできなくなって、いちばん嫌いな病院で管につながれて痛がりながら死んでいった父。』

『あれほどに人を助けてきた人だから、きっと安らかな、望むような死に方で死ぬだろうと私は幼い頃から信じていた。』

「あんなに人にばかりつくし、自分の好きなことを最低限しかできなくて、いろいろな人の心の支えになって」からうかんでくるイメージは、著作からかってにつくりあげた吉本像とはまったく違う。とりわけ「あんなに人にばかりつくし」には驚いた。たんなる一読者で、身近に接したことなどないので、具体的にどのようなことかわからないが、やはりそういう人だったのか。そのような話を書くことなどなかったが、それでも、いわれてみればなんとなく想像ができる。

「いろいろな人の心の支えになって」はよくわかる。これまでわたし自身がその著作から心の支えを探しだし、かぎりなく慰安を感じ、内面的に多くの恩恵をうけてきた。その思想をどこまで理解できたかは、はなはだ心もとないが、その行間から伝わってくる迫力や情熱を感受すれば充分であったし、その責を負うべきどんな存在もなかった。書物はいったん作者の手からはなれると独立した客観的な存在となって、普遍的に人の心を支えることがあるが、「あれほどに人を助けてきた人」とあるので、いろんな具体的な人助けもあったことがわかる。

散歩や買い食いやTVを観ることなどが好きなことはなにかで読んで知っていたので、物書きの時間以外は、そんなことをしていたようにおもっていたが、そうではなかった。それらを止めてまで人につくし、人の心の支えになり、人を助けてきた人ということから、どうしても宗教者のイメージがうかんできてしまう。しかし、「目の前の人を助けるかどうかというのは、相対的な善悪にすぎない」と親鸞をとおして語っている吉本自身が人助けをしたとしても、それは相対的な善にしかすぎず、このため、黙ってするほかなかったし、そのことを文章にするはずもなかった。たんなる一読者にはわからなくて当然であったのである。善いことをするときは黙ってなせというようなことを書いていたのも、この脈絡から理解できる。

『なんであんな死に方をしなくちゃいけなかったんだろう?』という疑問を抑えることができない中、娘である著者は、イギリスにある神聖な丘の上で神の声をきいたという。

これまでは、どちらかといえば、家族(娘)の眼による父親像であったが、その神の声をきいてからは作家の眼が加わる。

『父は常に自分を後回しにし、不快な状況にはストイックによく耐え、常になにかと闘っていた。闘いを望んでいた。愛と安らぎよりはむき出しの真実を好んだ。』

さっそく作家の眼をとおして父を見て、その本質にせまっている。「不快な状況にはストイックによく耐え」るというイメージは、吉本自身が父親から学んだという父の像そのものではなかったか。自らの思想による絶対的感情から外の世界をみると、それを問い直そうとすると、闘わざるを得なく、闘いを望まざるを得なかった。愛と安らぎよりもむき出しの真実を好んだ、という見方はまさしく作家の眼による。たしかに、いつも真実に向きあい、真実にせまり、愛と安らぎを説く思想ではなかった。愛について語ることもあり、精神的にも肉体的にも疲れたら休息をとるのがよいと安らぎの極意も語った。しかし、それらよりも真実に肉薄するほうから主調音がきこえてくるのである。やはり、若いとき、「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によって ぼくは廃人であるさうだ」、と詠んだ詩人である。

そういった父なら、あの状況を受け止められたかもしれず、理解さえしていたかもしれないと納得することで、『父の苦しそうな姿よりも優しい笑顔のほうがリアルに思える』ようになって、著者はそんな面影を抱きつつふたたびやさしい父と向かい合っている。

著者は、最終近くで、「私も私の書いたものも、誰のことをも癒すことはできない」とした上で、「できるたったひとつのこと」として「その人の中に埋まっているその人だけの癒しのコードに触れて、活気づけることはできる。自分の足で歩む力を奮い立たせることはできるかもしれない。」と書いているが、かなりシビアな問題意識である。

人や書物がたくさんの人を癒したといっても、じつはだれをも癒していないことはよくあることである。逆に、だれをも癒していないといっても、じつはたくさんの人を癒していることもありえることである。よくある主観と客観の乖離の問題にすぎないからである。著者がだれのことをも癒すことはできないというが、それは現実に人を癒すこととは関係がない。

癒しという言葉は、吉本父の時代にはほとんどなかったが、最近、どんな理由からか、さかんに語られる。かなり主観的な言葉で、その意味合いやその方法が人によってかなり違っている。原因を問わず治癒のイメージが先行する。個々人を取りまく様々な状況を前提にするが、その状況そのものは問われない。この状況論を父はさかんに語って真実にせまったわけであるが、その癒しを語る娘はそれを受け継いでいるといってよい。

著者がその人だけの癒しのコードに触れて、活気づけることができる、自分の足で歩む力を奮い立たせることができるというとき、これらはすべて、人を癒しに向かうように励ます応援歌のようにきこえてくる。

参考文献
吉本隆明「今に生きる親鸞」(講談社+α新書)
「吉本隆明全著作集1 定本詩集」(勁草書房)

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善福寺川8月(2016)

2016年08月21日 | 写真

善福寺川8月(2016) 善福寺川8月(2016) 善福寺川8月(2016) 善福寺川8月(2016) 善福寺川8月(2016) 善福寺川8月(2016)

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北坂(続)

2016年08月20日 | 坂道

別の北坂下 別の北坂下 別の北坂下 別の北坂下 別の北坂下




根津美術館わきの北坂を下り、道なりに歩き、次を左折しちょっと進むと、変則的な四差路にいたるが、ここから青山霊園立山墓地のわきをまっすぐに上る坂がある。ここがもう一つの北坂である(現代地図)。港区西麻布二丁目18番と南青山四丁目28番の間を北西へと上り南青山四丁目25番と28番の間にいたる。

細い坂道がまっすぐに上っているが、坂下側が中程度の勾配で、中腹から上の方になるとかなり緩やかになる。坂下から坂上までずっと右側(東)が立山墓地である。

別の北坂中腹 別の北坂中腹 別の北坂中腹 別の北坂中腹 別の北坂中腹




この坂は、ほぼまっすぐに上下しているので、坂自体のおもしろさはないが、道の細さ、片側の墓地、その樹木などのため独特の雰囲気がある。都心とは思えない静かさで、いかにも裏道といったひっそりとした感じの坂である。

先ほどの美術館わきの北坂よりも人通りが少なく、坂を上る間、だれにもすれ違わなかった。地図を見ると、先ほどの北坂とほぼ平行で、途中に北坂とつながる道がある。

石川は、北坂は青山南町五丁目の通称長者丸というあたりから墓地わきをぬけて笄町へ至る坂道であった、としている。また、『赤坂区史』は、立山墓地の西辺、南青山六丁目境を笄町へ下る坂が北坂としているようである(岡崎)。

赤坂区史がこの坂が北坂であることの根拠のようであるが、赤坂区史でいう立山墓地の西辺は、その西側を意味すると考え、南青山六丁目境を下るは、根津美術館わきを下ることであるので、赤坂区史は、むしろ美術館わきの坂を指していると考えた方がよいような気もする。

もともと北坂は、「新撰東京名所図会」の次の記載に基づくが、この「南青山五丁目と六丁目の間より麻布笄町に通ずる新開の坂路」というのが問題のようである。現時点ではこれ以上のことはわからない。北坂のいわれは、長谷寺(永平寺別院)の北にあるから、ということだと思われるが、これもはっきりしない。

「北坂 南青山五丁目と六丁目の間より麻布笄町に通ずる新開の坂路を北坂と称す。従前、樹間より滴たる露と崖陰より湧き出づる小径一条、蛇の如く通ずるのみなりしを明治三十二年、土工を起し開鑿する所とす。」

この坂は、明治地図(明治40年)では不明だが、昭和地図(昭和16年)には示されている。 

別の北坂中腹 別の北坂上 別の北坂上 東都青山絵図(安政四年(1857)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843))




坂上に近づくと、かなり緩やかになり、美術館わきと同じである。坂上を左折すると、美術館方面で、右折すると、青山霊園方面である。

四枚目の尾張屋清七板の東都青山絵図(安政四年(1857))、五枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))を見ても、この坂に相当する道筋は不明である(明治にできた坂道であれば当然であるが)。

青山霊園




この坂のわきから立山墓地に入り、傾斜面を下り、小さな公園わきを歩くと、外苑西通りの歩道に出てしまった。上を見上げると、青山霊園である。この通りは、霊園の西わきの谷筋にできたことがよくわかる。そのあたりでちょっとうろうろしたが、階段で上の道に出て、青山霊園に行く。この中のまっすぐな道を北へ歩き、途中、一休みし、青山一丁目駅まで歩いた。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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北坂

2016年08月18日 | 坂道

北坂下 北坂下 北坂下 北坂下 北坂下




前回の善光寺から表参道の交差点を渡り、大きい通りの一本裏道を東南へ歩く。しばらくすると大きな通りに出るが、その近くの交差点の向こうに白い塀が見える。ここが根津美術館で、そのわきを下る坂が北坂である(現代地図)。

南青山六丁目5番と南青山四丁目23番の間を南東へ西麻布二丁目19番と20番の間に下る。

写真を坂下から並べる。

西麻布の方から来ると、坂下はまだ緩やかで右に曲がってからしだいに勾配がついていく。中腹までほぼまっすぐに上っている。東側の美術館の白い壁とガードの間にできた歩道が坂下から坂上までずっと続く。

北坂中腹 北坂中腹 北坂中腹 北坂中腹 北坂中腹




この坂は、そんなに長くはないが、中腹で右に緩やかにカーブし、坂下から坂上が見えないため、ちょっと長いと感じてしまう。はじめて来たとき、西麻布の方からだったので、そんな感じがしたのを思い出した。その中腹のカーブの手前あたりがもっとも急であるが、それでも、中程度の勾配である。

この坂には、いつもの教育委員会の標識が立っていない。石川が「新撰東京名所図会」を引用している。

「南青山五丁目と六丁目の間より麻布笄町に通ずる新開の坂路を北坂と称す。従前、樹間より滴たる露と崖陰より湧き出づる小径一条、蛇の如く通ずるのみなりしを明治三十二年、土工を起し開鑿する所とす。」

この説明によれば、従前、小径一条だけであったが、明治32年(1899)に開削したとあるので、現在のようになったのは明治になってからのようである。しかし、明治地図(明治40年)を見ても、はっきりしないが、昭和地図(昭和16年)には、この坂がちゃんとある。

北坂中腹 北坂上 北坂上 東都青山絵図(安政四年(1857)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843))




中腹をすぎて坂上に近づくと、かなり緩やかになり、ほぼまっすぐになって交差点にいたる。この坂は、表参道と西麻布、六本木との間を結ぶためか、おもいのほか、人通りが多い。

四枚目の尾張屋清七板の東都青山絵図(安政四年(1857))、五枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))を見ると、善光寺の南側に「長者ヶ丸」と言う地名がある(いまの南青山五丁目のあたり)が、横関によれば、ここが応安(1368~1375)のころ渋谷長者の屋敷があったところという。渋谷長者の姫と白金村の白金長者の息子とは恋仲で、笄橋で落ち合っていたという伝説があり、その姫は乗物で往来するのだが、時によると、乗物から降りて坂を一人で歩いたこともあったというので、ここを姫下坂といった。長者ヶ丸から笄橋に行こうとすると、長谷寺の北を通るのが普通であるので、伝説の姫下坂は、この北坂のあたりがいちばん適当な場所と考えられるとする。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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善光寺(青山)

2016年08月15日 | 散策

前回、表参道のネッコ坂からはじめて原宿・千駄ヶ谷の坂を巡ったが、その前に(2015年12月)、表参道・青山に出かけていたので、それを記事にする。

善光寺(青山) 善光寺(青山) 善光寺(青山)




午後地下鉄表参道駅下車。

出入口A3から出て、小路を北側にちょっと歩くと、善光寺が見えてくる。港区北青山三丁目5番(現代地図)。

言問通りが不忍通りの谷底を横切って東へ上ると上野台地の寛永寺の方にいたるが、この谷中の坂を善光寺坂という。その坂名は、この坂にあった善光寺に由来するが、江戸時代に移転しており、その移転先がここ(青山)である。

表参道の交差点近くであるが、そんなにうるさい感じはしないものの、往時からすれば、周囲の環境は激変しているのであろう。

東都青山絵図(安政四年(1857)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 江戸名所図会 青山善光寺 江戸名所図会 青山善光寺




一枚目の尾張屋清七板の東都青山絵図(安政四年(1857)には、百人町の通りにあり、門前町もできている。二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))にも見える。

三、四枚目は、江戸名所図会にある青山善光寺の挿絵(左右)である。門前の通りには、人々が行き交っているが、ここが百人町の通りであろう。門前町も見える。

本文の説明に、「南命山善光寺 同所百人町右側にあり。信州善光寺本願上人の宿院にして、浄土宗尼寺なり。」とあり、元禄元年の創建で、始めは谷中にあったが、元禄十六年(1703)十一月の大火で類焼したため宝永二年(1705)青山に移転し、いま谷中に善光寺坂と名がついているのは、その旧地のためで、その旧跡は今の玉林寺の地であるという、と解説がある。

火事や地震などのため寺が移転することはよくあることらしく、たとえば、関東大震災のあと杉並や世田谷には寺がかなり移転しているが、その先駆けであった。

同名の坂が小石川にある。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

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