東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

道源寺・道源寺坂

2011年01月31日 | 坂道

道源寺坂下入口 道源寺坂下 道源寺坂下 道源寺坂下 前回の記事で、道源寺坂にある道源寺の本堂がなくなっていることを書いたが、気になったので、確かめに行った。その報告をかねて、以下、今回撮影した写真をのせる。

この坂については、これまで以下の記事にした。

道源寺坂(1)

道源寺坂(2)

尾張屋板江戸切絵図には道源寺と坂下側の西光寺があり、近江屋板にものっており坂マーク(△)がある。坂下と坂上の標柱が、江戸時代のはじめから坂の上に道源寺があった、とするように、古くからの寺と坂である。

道源寺坂下側 道源寺坂下側 道源寺山門上から 道源寺工事中 写真のように、工事がはじまっていたが、塀に取り付けてあった工事説明板に、「道源寺 新築工事」とあったので、一安心。本堂の新築のようである。工事期間は平成23年11月30日までとある。

このあたりの開発の進行により坂の両側に高層ビルがたくさん建ち、現在、坂下側でまたビル工事が始まっている。写真からわかるように、工事用の白いパネルによる壁がなんとも無粋である。

道源寺坂がかろうじて残っているのは、道源寺と西光寺の存在によるところが大きいと思われる。

これらのお寺が移転でもしたら、道源寺坂は、これまでもかなり変貌しているといわれているのに、さらに大きく変わってしまうおそれがあった。もうこれ以上変わらないようにと願う。

道源寺工事中 道源寺坂上 道源寺坂上児童遊園 児童遊園奥側 『道源寺から、まさに「間道」のような細い道を右に折れ、左に折れしながら歩いて行くと崖の上にでる。そこに、ヴィラ・ヴィクトリアという五階建ての小さなマンションが建っている。そこが、荷風の偏奇館があったところで、』と川本三郎が「荷風と東京」(都市出版)で書いたころは、まだ偏奇館跡がちゃんと残っていた。いまこの間道は広い通り(間道とはいえないような)となってしまっているが、一部が奇跡的に残っているようである。

「断腸亭日乗」昭和20年(1945)3月9日(御組坂(2)の記事参照)は偏奇館の最後のときを記すが、道源寺坂の部分を再掲する。

昭和二十年『三月九日、天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、・・・、時に七八歳なる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通に出で溜池の方へと逃しやりぬ、・・・』

児童遊園奥側小路 道源寺門前から坂下 道源寺坂中腹から坂下 道源寺坂下

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

合羽坂

2011年01月29日 | 坂道

合羽坂下遠景 合羽坂下 合羽坂下 津の守坂下から進み、靖国通りの交差点に至る。靖国通りを挟んで向こうを撮ったのが左の写真である。通りの向こうに合羽坂の坂下が見える。

靖国通りを横断し、坂下から撮ったのが右の二枚の写真である。坂下ではかなり緩やかに上り、上側で少し勾配がついて、坂上で外苑東通りに接続する。

合羽坂は、東西に延びる靖国通りとその上側で南北に延びる外苑東通りを結ぶ、短いが広い通りになっている。坂下が合羽坂下の交差点で、坂上が合羽坂の交差点である。

広い通りになっているが、拡幅されてかつての坂がその中にのみ込まれたのであろうか。

合羽坂下歩道 合羽坂歩道わき 合羽坂わき階段 左の写真は合羽坂下と歩道を撮ったもので、次の写真は歩道わきを撮ったものである。写真のように、歩道のわきに、樹木が植えられた公園のようなだが、そうともいえないような空間がある。

左の写真の左に写っているように、合羽坂のわきの公園ふうの広場と靖国通りとの間に道が通っているが、この道はここから延びて外苑東通りの曙橋の下を通る。この道と合羽坂途中の歩道との間に、右の写真のように、短いが階段ができている。

外苑東通りは、四谷三丁目から曙橋の陸橋までは戦後に開通した新しい道路であるとのことで、昭和31年の東京23区の地図を見ると、現在の曙橋の陸橋がまだない。これで気がついたが、このあたりの靖国通りの道筋が現在と変わっている。現在の靖国通りは合羽坂下から西へ直進し住吉町の交差点に至るが、この道路は上記の地図にはなく、当時の靖国通りは、東から来て合羽坂を上り坂上から住吉町の交差点に下っていたようである。その後、現在の道路ができたため、上記のような合羽坂歩道わきの取り残されたような三角地ができたと思われる。曙橋の陸橋ができるまでこのあたりは崖であったのであろうか。

合羽坂上と標識 合羽坂標識 標識の説明文 尾張屋板江戸切絵図を見ると、尾張藩上屋敷の前の道(いまの靖国通り)を東から西に進むと、尾張屋敷がちょうど終わったあたりに合羽坂とある。東側(坂上)からさらに直進するが、ここで北に曲がる道が分かれる。また、そのやや東側で津の守坂から延びた道がつながる。近江屋板を見たが、この坂を発見できなかった。いずれにしても江戸の坂のようである。

坂の歩道を上ると、左の写真のように、坂上近くに石からできた坂の標識が立っている。この標識は、区の教育委員会ではなく、東京都によるものである。高力坂にも同じタイプの標識が立っている。

次の写真のように、標識には上に尾張屋板江戸切絵図があり、下に説明文が刻まれている。左の写真にある説明文は次のとおりである(石川を参考にして一部補った)。

『合羽坂 かっぱざか 新撰東京名所図会によれば「合羽坂は、四谷区市谷片町の前より本村町に沿うて、仲之町に上る坂路をいう。昔此坂の東南に蓮池と称する大池あり。雨夜など獺(かわうそ)しばしば出たりしを、里人誤りて河童(かっぱ)と思いしより坂の呼名となりしが、後転じて合羽の文字を用い云々」、何れにしても、昔この辺りは湿地帯であったことを意味し、この坂名がつけられたものと思われる。 昭和五十八年三月 東京都』

御府内備考』には次の説明がある。

「合羽坂 合羽坂は新五段坂の西の方にあり此坂の東に蓮池と稱する大池有て雨天の夜など獺しばしば出たりしを里人誤て河童と思ひしより坂の呼名とも成しが後轉じて合羽の字を書来る來りしといふ。」

合羽坂上 合羽坂上 二枚の写真は坂上から坂下を撮ったもので、坂下は靖国通りである。

横関は、この坂を「新宿区市谷本村町と市谷仲之町との境の坂。昔、この坂は尾張藩のものの合羽千場になっていたので、合羽坂の名ができたと言われるが、坂下に大きな古沼のあることを考えてみると、本当の意味は河童坂であろう」としている。坂名の由来に関しては上記の御府内備考や新撰東京名所図会の説明とほぼ同じ「河童」由来説である。

ただし、合羽坂の位置(範囲)について各者微妙な違いがある。

御府内備考は「合羽坂は新五段坂の西の方にあり、この坂の東に蓮池と称する大池がある」とし、新撰東京名所図会は「合羽坂は、四谷区市谷片町の前より本村町に沿うて、仲之町に上る坂路」とし、横関は「新宿区市谷本村町と市谷仲之町との境の坂」としている。

さらに、石川は「市谷本村町の自衛隊本部西南わき、市谷仲之町の境を南へカーブして東へ下る坂で、南方は靖国通りをまたぐ陸橋(曙橋)が架けられ、四谷片町につらなっている。」とし、岡崎は「現在の合羽坂は、陸上自衛隊市谷駐屯部隊西側の長い塀に沿って北へ、市谷薬王寺町に向かう広い道、外苑東通りの坂である。曙橋陸橋の手前から西へ曲り、坂下で靖国通りに交わる。」としている。

合羽坂上から北側外苑東通り 合羽坂上から曙橋 左の写真は、合羽坂上から外苑東通りの北側を撮ったもので、右側(東)が市谷本村町、左側(西)が市谷仲之町で、中程度の勾配でかなり長い上り坂である。坂の右側は警視庁第四方面本部で、以前は、東側から続く自衛隊駐屯地の敷地であった。右の写真は反対の外苑東通りの南側を撮ったもので、靖国通りに架かる曙橋である。

横関、石川、岡崎はともに、左の写真の曙橋の北端から外苑東通りを北側に上る坂を合羽坂と考えているようである。その中で、石川は、外苑東通りから曙橋の手前を左折し(東へ曲がり)靖国通りへと下る坂(これが上記の合羽坂とした道筋)を合羽坂としている。岡崎は、「曙橋陸橋の手前から西へ曲り」としているが、これを「東へ」と考えれば、石川と同様である。戦前の昭和地図にも同じ道筋に合羽坂とある。

横関は、曙橋の手前を東へ曲がり靖国通りへと下る坂については言及せず、この坂を合羽坂に含めているかどうかは不明である。

新撰東京名所図会は、四谷区市谷片町の前より本村町に沿って仲之町に上る坂としているので、上記の合羽坂とした道筋と適合し、尾張屋板が示す位置である。東京都の標識が上記の道筋を合羽坂とした根拠は、尾張屋板の地図と新撰東京名所図会であると思われる。そういえば、上記の坂標識が坂上のちょっと下側にあるのも、そういった意味があるのかもしれないなどと勘ぐってしまう。

御府内備考は、新五段坂の西の方にあるとし、その坂の位置が問題であるが、これについては次回に。

上記の蓮池は、岡崎によれば、町内の東方、尾張屋敷の御長屋下にあった用水溜で、蓮が生えていたが、のち埋め立てられて御先手組屋敷となったとされているので、尾張屋板を見ると、組屋敷が合羽坂の南側周囲に何箇所もあり、どれかは直ちに特定できないが、坂下の靖国通りのあたりが低地で、このあたりにあった組屋敷であろうか。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第三巻」(雄山閣)
吉田・渡辺・樋口・武井「東京の道事典」(東京堂出版)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四谷~本塩町~坂町~津の守坂

2011年01月27日 | 散策

新宿通りの北側にある坂は、昨年秋に四谷から西へと巡ったが、途中までしか記事にできなかったので、ふたたび出かけた。

四谷駅北側 高力坂上 比丘尼坂下 階段 午後四谷駅下車。

新宿通りの北側は、靖国通りの谷筋に向かって傾斜しているので、その中腹を津の守坂へと歩くことにする。出発点を比丘尼坂下とした。この坂下に階段があったことを思い出したからである。

四谷駅から靖国通り方面に北側へと歩く。左の写真は、右手に外濠公園が見える歩道から北側を撮ったものである。快晴であるが寒い日であった。空の青さが印象的である。途中で道路を横断し、ちょっと進むと、次の写真のように高力坂の坂上である。

そのまま靖国通り方向に直進し、次を左折すると、比丘尼坂の坂上である。ここを下ると、坂下のわきに階段がある。右の写真のように、その手前に比丘尼坂の標柱が立ってる。何年か前にこの坂を初めて訪れたとき、坂下からだったので、この階段を比丘尼坂と勘違いしそうになった。

本塩町小道 本塩町小道 本塩町階段 坂下の階段を上り、右折し、突き当たりを左折すると、左二枚の写真のように、小道が延びていた。ちょっとくねくねしながら続いている。塀や石垣でかなり狭くなっており、こういった小路は通りながらわくわくするようなところがあって楽しい。

小道から出ると、右の写真のように、左側に階段が上っている。小道から階段へと変化に富んでいる。

このあたりの地名は新宿区本塩町であるが、その由来は、昭和18年(1943)に塩町一丁目、本村町、七軒町を併せて本塩町が成立したが、本村町・塩町の頭字をとったとのことである。明治地図と戦前の昭和地図を見ると、合併前の三つの町名がのっている。七軒町というのは他二つと比べかなり狭かったようである。

坂町坂東側 坂町坂四差路東側 坂町坂四差路西側 小道を右折し、そのまま西へ進むが、すぐに本塩町から坂町になるようである。やがて四差路が見えてくる。左の写真の奥に見える。次の写真はその交差点を東側から撮ったもので、横方向の道が坂町坂である。坂は右から左へと上っているが、東西に横切る道がおもしろいことに道幅分ほど坂下(北)側にずれている。西側から撮った右の写真を見るとわかるように、道のわきに時間貸し駐車場があるので、一見、道が広いようであるが、そうではない。

前回、この坂町坂を上ったとき、このずれた四差路を覚えていたので、比丘尼坂下からここを目指したが、無事にたどり着けた。

戦前の昭和地図を見ると、この四差路が現在よりももっとずれている。明治地図では反対側にややずれている程度で、現代地図ではずれがない。理由はわからないが、単なる精度の問題か。つまらないことだが気になった。

尾張屋板江戸切絵図にこの四差路が見えるが、おもしろいことに、ずれが反対で、東側の道を基準にすると、西側の道が坂上(南)側にずれている。近江屋板でもずれは小さいが同じようになっている。

坂町坂四差路から坂上 坂町坂下 坂町坂西側 左の写真は、四差路の下側から坂上を撮ったもので、この先で右にカーブし、勾配がかなりついてまっすぐに上っている。次の写真は坂下を撮ったもので、直進すると、靖国通りに出る。

坂巡り中心の街歩きは、その土地の特徴をとらえるのに適しているが、そのため、坂のわきから延びる横道やその裏道などはどうしても通り越してしまう。そんな中にはきっと散策によい道もあるに違いない。今回は、そんなことを期待して、横道に進み、傾斜地を横切って歩いてみたのである。

右の写真は交差点を過ぎてこれから向かう西側を撮ったものである。細い横道が西側に延び、これに沿って静かな住宅街が続いている。地図を見ると、このまままっすぐ進めば、津の守坂の下側に出るようである。

坂町の階段 坂町の階段 津の守坂の裏の坂 坂町坂の四差路から西側に横道を進み、左(南側)を見ると、左の写真のような階段が見えたので、左折し、階段を上る。傾斜地であるので、傾斜方向(南北)には階段がつけられているようである。 階段上の道を同じく西側に進むと、何回か階段が右(北側)に見えたが、次の写真は、そんな階段の一つであり、階段を下りて撮った。

ここの傾斜地の横道と横道との間は、土地が段々になっているからか、坂ではなく、階段がたくさんつくられている。

横道がやがて突き当たりになるが、そこが坂になっている。右の写真はそこから坂上を撮ったものである。ここは、ちょうど津の守坂の東側の裏である。同じような勾配で坂が上下してる。

津の守坂下 その裏の坂を下り、突き当たり(坂町坂の交差点から西に延びた道)を左折しちょっと歩くと、写真のように、津の守坂の坂下である。 ここで、ようやく前回の荒木町の記事に続くことができる。ここから平坦な道を北側の靖国通りに向かう。
(続く)

参考文献
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
竹内誠 編「東京の地名由来辞典」(東京堂出版)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偏奇館跡~道源寺坂

2011年01月26日 | 坂道

今回の坂巡りは、前回の行合坂で終了である。行合坂の北側坂上を直進すれば、六本木一丁目駅に至るが、このまま帰るのはしのびないので、坂上先の信号を右折し、偏奇館跡、道源寺坂に向かう。サウジアラビア大使館前を通り、山形ホテル跡に建つ市兵衛町ホームズの角を左折する。ちょっと歩くと、右側に御組坂が見えるが、その南側は工事中である。

偏奇館跡標識付近 偏奇館跡標識 左側の写真は偏奇館跡標識の付近を撮ったもので、右側の写真は標識の説明文である。

偏奇館とは、永井荷風が大正9年(1920)から昭和20年(1945)まで住んだ麻布市兵衛町の高台にあった住居である。荷風の日記「断腸亭日乗」大正9年5月23日「この日麻布に移居す。母上下女一人をつれ手つだひに来らる。麻布新築の家ペンキ塗にて一見事務所の如し。名づけて偏奇館といふ。」とあるように、ペンキ塗であったことから偏奇館(ヘンキカン)と名づけた(以前の記事参照)。

偏奇館の最後は劇的で、昭和20年3月10日の東京大空襲により焼亡するのであるが、その様子が「日乗」に克明に記されている(御組坂(2)の記事参照)。

この麻布市兵衛町(現六本木一丁目)あたりのことをこれまで多数の記事(偏奇館あたりの風景(1)など)にしたが、いずれも荷風に関わるものであった。このあたりはその著しい変貌にもかかわらず(いやそれ故に)私的には荷風の偏奇館に分かちがたく結びついている。土地から消滅した記憶を取り戻そうとしたが、なんの手段も方法も持たず、徒手空拳の試みであった。それでも偏奇館とその周囲についてほんのわずかであるがわかったような気がしている(思い込みかもしれないが)。「断腸亭日乗」以外に秋庭太郎や川本三郎や松本哉などの著作に頼るしかないが、これから先どんな復元された記憶の風景をみることができるだろうか。

道源寺坂途中 道源寺門前 道源寺坂下 偏奇館跡の標識を通り過ぎ、次を左折すると、まもなく道源寺坂の坂上である。坂を下るが、道源寺の中を見て驚いた。写真のように、本堂がなくなっているのである。一瞬、こころの内に衝撃が走り、ここもかと思ったが、一方でそんなことはないと打ち消した。

年末のさまよい歩きの最後にいたって驚きのことがあったが、本堂の改修のためと思いながら(確としたり理由はないが)坂を下った。右側の写真は、坂下からいつものところで撮ったものである。坂右側が工事中である。

坂下から六本木一丁目駅へ。

携帯による総歩行距離は12.4km。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行合坂

2011年01月25日 | 坂道

行合坂下(南側) 行合坂上(南側) 落合坂上の突き当たりが谷底で、ここからは南にも北にも上り坂になっていて、南北いずれの坂上にも行合坂の標柱が立っている。

落合坂上を左折し、歩道を上るが、勾配は中程度で、距離は短く、まもなく南側の坂上の標柱が見えてくる。坂上東側は麻布小学校であり、ここを左に見て直進すると、飯倉片町の交差点である。

左側の写真は行合坂下から南側を撮り、右側の写真は南側の坂上から撮ったものである。坂上西側の広い道路は、外苑東通りを飯倉片町の交差点で横切り永坂を下る通りで、その上に首都高速が通っている。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、我善坊谷を東西に通り抜けた道(両わきが御手先組)が西側(落合坂坂上)で四差路に至る。ここから左折する道、右折する道があり、これらが現在の南北の行合坂と思われるが、坂マークや坂名はない。直進する道は、現在、上記の広い道路ができたため存在しないが、二回ほど曲がってから、長垂坂の坂上を通る道に出たようである。昭和31年の東京23区地図にはちゃんとこの道があり、現代地図を見ると、この道の続きが広い道路の向こう(西側)に現存しているようである(今回は行けなかったが)。

近江屋板では、御手先組の西側の道に、坂マーク(△)が2つあり、ちょうど坂の向きが現在の南側の坂と北側の坂に対応しているので、この坂は江戸から続く坂のようである。また、坂下から西側に向かう道(尾張屋板で直進する道)にも、坂マーク(△)があるので、この坂下から西への道は上り坂であったと思われる。

行合坂上(南側)から坂下 行合坂上(南側)標柱 左側の写真は坂上から坂下を撮ったもので、坂下が落合坂の坂上で、この坂下から西に上る上記の坂に坂名はなかったのであろうか。

右側の写真のように、標柱には次の説明がある。

「ゆきあいざか 双方から行合う道の坂であるため行合坂と呼んだと推定されるが、市兵衛町と飯倉町の間であるためか、さだかでない。」

標柱の説明では坂名の由来がいま一つ不明確である。双方からとは、市兵衛町(北側にある)と飯倉町(南側にある)の双方からという意味であろうか。落合坂と関連して考える方がよいのかもしれないので、落合坂の標柱の説明を再掲する。「おちあいざか 我善坊谷に下る坂で、赤坂方面から往来する人が、行きあう位置にあるので、落合坂と呼んだ。位置に別の説もある。」

赤坂方面から往来する人とは、『御府内備考』の落合坂の説明にある今井村赤坂新町などより往還の者、と対応しているが、行きあう位置とは、行合坂の坂下のことであろうか。また、行合坂の標柱の説明にある双方(市兵衛町と飯倉町)との関係がよくわからない。

石川は、「落合坂に対して行合坂とよぶのか、由来は不詳であるが、似たような意味の名であろう」とし、『江戸町づくし稿』に「行合坂 我善坊町と麻布仲町の間」と記しているという。「現に行合坂とよんでいるところは江戸時代には武家地であったが、市兵衛町と飯倉町の間という意味で仲之町とよばれた。それが行合坂のおこりであろうか。後考をまつ。」とし、結論は出ていないようである。

横関は、行合坂を乃木坂の別名とし、この坂とは関係せず、むしろ前回のように、この南側の坂を落合坂としている点が気になる。

山野は、「坂名の由来は、二つの坂がすり鉢状に行き合っているからとか、諸説ある。」と形状由来説を紹介している。

行合坂上(北側) 行合坂上(北側)から坂下 以上のように、この坂名の由来ははっきりしないようである。

左側の写真は坂下までもどり、北側に上った坂上から撮ったもので、右側の写真は同じく北側の坂上から坂下を撮ったものである。

この坂は、両方の坂形状がよく似ており、きれいな対称形をしているが、このような坂も珍しい。

北側の坂上を直進し、次の信号を左折し、広い道路を横断して直進すると、長垂坂上、さらに、丹波谷坂上である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我善坊谷坂~落合坂(2)

2011年01月24日 | 坂道

我善坊谷 前回の仙石山の石碑前から来た道を引き返し、我善坊谷坂上を左折し、坂を下り、直進する。桜田通りからの道との交差点を右折し西に向かう。左側の写真は右折後に西側を撮ったもので、我善坊谷である。このあたりはほとんど平坦になっている。我善坊谷は麻布台地と六本木一丁目側の台地との間に位置し東西に延びる谷である(以前の記事の俯瞰地図参照)。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、三年坂と我善坊谷坂とがつながる道の途中の谷底から、現在と同じように、道が西に延びている。両側が御手先組である。しかし、東(神谷丁方面)へ延びる道はない。近江屋板では西に延びる道もない。

この谷について『御府内備考』には次の説明がある。

「龕前坊谷 龕前坊谷は、同所なり、上杉家の屋布の後の方なり、砂子云、崇源院殿御葬禮ありし時、龕前堂たちしところなりと、寛永記云、三年十月十八日大御臺所崇源院殿の御事なり、御葬禮上寺におひて執行せらる、御葬送の場所は麻布野をもつて定らる、上寺より御葬送場所御火屋までは、行程千間ありといへり、則この所なるべし、ことに此ところは原野の地にて人家まれなることおもひしるべし。改選江戸志」

前回の記事のように龕前坊ともいったが、我善坊はこれの転訛であるという(石川)。

上記のように、崇源院(二代将軍秀忠夫人で三代将軍家光の生母浅井氏お江)の葬式は増上寺で行われたが、葬送の場所は麻布野と定められ、増上寺より葬送場所の火屋までは行程千間がいるといわれ、この谷で荼毘に付された。崇源院は天正元年(1573)生まれで寛永三年(1626)に亡くなっているが、そのころは、原野で人家まれの地であったらしい。

龕(かん、がん)とは仏像を納めた厨子(二枚扉の開き戸のついた小さい箱)で、龕の前に僧坊を建ててその冥福を祈ったのが龕前坊の由来であるという(石川)。

落合坂下 落合坂下標柱 落合坂下側 ちょっと進むと、左側の写真のように標柱が見えてくる。このあたりが落合坂の坂下で、ここで道がクランク状に折れ曲がっている。二枚目の写真は標柱を撮ったもので、バックに見えるのは、六本木一丁目方面の崖下である。右側の写真はクランク部分のちょっと先から撮ったもので、このあたりからわずかに傾斜がはじまっている。

明治地図を見ると、我善坊町を突き抜けているこの通りにちゃんとクランク部分があるが、戦前の昭和地図にはないので省略したのであろう(精度が悪い)。

標柱に次の説明がある。

「おちあいざか 我善坊谷に下る坂で、赤坂方面から往来する人が、行きあう位置にあるので、落合坂と呼んだ。位置に別の説もある。」

落合坂途中 落合坂途中から坂下 落合坂途中から坂下 さらに進んだところから撮ったのが左側の写真で、坂上が見える。そのあたりから振り返り坂下を撮ったのが次の写真で、さらに進んでから坂下を撮ったのが右側の写真である。このあたりになるとちょっと勾配がついている。遠くに見える大きな屋根は霊友会の建物である。

坂名は江戸切絵図、明治地図、戦前の昭和地図のいずれにもない。

『御府内備考』には次の説明がある。「落合坂 落合坂は、龕前坊谷の坂なり、江戸童に云、今井村赤坂新町などより往還の者ここにて行合ゆへに、落合坂と名つくと。」

この説明を標柱は参考にしているようである。

横関は落合坂を次のように説明する。「港区麻布六本木三丁目と麻布我善坊町との間を南へ上る坂。坂の頂上の東側には麻布小学校がある」。

これによれば、落合坂の位置は、上記の道筋ではなく、たとえば、この坂上の突き当たりを左折して南へ上る坂ということになる。

岡崎によれば、『江戸鹿子』は「いまの浅野式部屋敷の前」とし、『江府名勝志』も「落合坂 浅野氏屋敷前也、今井村赤坂新町などより往来の落合所也」とし、浅野屋敷は現在の赤坂六丁目であるので、この坂とは別の位置の坂ということになる、としている。

標柱にある別の説とは、以上のような説を指しているのであろうか。

落合坂途中から坂上 落合坂上 落合坂上 さらに進んで坂上を撮ったのが左側の写真である。次の写真は坂上から撮ったもので、坂上にも標柱がある。坂上を左折し振り返って坂上を撮ったのが右側の写真である。坂上近くで少し傾斜がついているが、全体として緩やかな坂である。

島崎藤村は「飯倉附近」で我善坊のことを次のように書いている。

「私は目黒のI君から書いてよこして呉れた我善坊のことで、この稿を終るとしよう。我善坊は正宗白鳥君の旧居のあったところであり、この界隈での私の好きな町の一つでもある。I君から貰った手紙の中には、次のように言ってある。「我善坊町は、実に静かな落ち着きのある谷底の町です。此処は昔は与力屋敷であって、其の当時は盗賊や罪人を追跡するには、此の町へ追い込むようにしたものであると言います。我善坊へ追込みさえすれば、地勢上捕縛するに便利であるし、与力屋敷のことゝで其処には与力達が待ち構えているし、大抵の犯罪者は難なく逮捕されたものであると言います。これも昔から我善坊に住んでいる古老の話を其のまゝ茲に御伝えいたします」。

この谷に追い込まれれば、両側は崖であり、横に逃げることができないので、簡単に捕まってしまったのであろう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「大東京繁昌記 山手篇」(平凡社ライブラリー)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我善坊谷坂~落合坂(1)

2011年01月21日 | 坂道

我善坊谷坂入口 我善坊谷坂下 我善坊谷坂下側 三年坂下は、一帯が低地であり、ここが我善坊谷である。そのまま直進すると、桜田通りから延びてくる道と交わるが、ここをさらに直進する。左側の写真はその交差点から我善坊谷坂下方面を撮ったものである。ここを左折すると、我善坊谷に沿ってできた落合坂になる。

次の写真は我善坊谷坂下から撮り、右側の写真は坂をちょっと上りはじめたところから撮ったものである。この先で大きく左に曲がるとともにかなりの勾配となる。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、三年坂下の先の道にガゼンボ谷とあり、その道は左に大きく曲がっているが、その曲がり部分に坂マーク(多数本の横棒)がある。近江屋板もほぼ同様で坂マーク(△)がある。ここが我善坊谷坂で、曲がり部分も含め現在の地形は江戸切絵図と対応していると思われる。ということで、この坂は江戸から続く坂といえそうである。

我善坊谷坂中腹 我善坊谷坂中腹 我善坊谷坂上 左側の写真は曲がったところから撮ったもので、次の写真はそのちょっと先から撮ったものである。曲がってからはほぼまっすぐに上っている。右側の写真は坂上である。坂の西側は崖となって谷底が見える。建物によっては階段がつけてあり、下ってみたいが、私有のようで無断ではできないようである。

この坂、我善坊谷およびこれらの周囲が、たぶん、昭和の麻布六本木の様子をもっともよく残している一帯ではないかと思うが、写真からもわかるように、坂東側で再開発工事が進行中である。

坂名は我善坊谷につながることに由来するのであろうが、別名稲荷坂である。横関はこの坂名しかのせていない。石川はこの坂を紹介していないが、岡崎は両坂名をのせ、坂名は近くにあった稲荷の祠によるものか、としている。

我善坊谷坂上から坂下 我善坊谷坂上先 左側の写真は坂上から撮ったもので、右側の写真は坂上の先を撮ったものである。この坂を直進し、道なりに歩くと、霊南坂から延びる大きな通りに出る。近くに御組坂があり、永井荷風の偏奇館跡もすぐである。

荷風はこのあたりのことを「断腸亭日乗」大正8年(1919)に次のように記している(以前の記事参照)。

「十一月八日 麻布市兵衛町に貸地ありと聞き赴き見る。帰途我善坊に出づ。此のあたりの地勢高低常なく、岨崖の眺望恰も初冬の暮靄に包まれ意外なる佳景を示したり。西の久保八幡祠前に出でし時満月の昇るを見る。・・・」

この坂上あたりからの風景であろうか、崖上からの眺望が初冬の暮靄に包まれ意外なる佳景を示した、と賞賛している。現在はこのような風景をすでに失っている。

『紫の一本』に、この谷について次のようにある。

「がぜぼ谷 麻布市兵衛丁の近所、上杉弾正大弼綱憲の中屋敷の下なり。この谷に座禅をする出家あり。しかれば「座禅坊谷といふを、いひよきままにがぜぼ谷と云ふにや」と尋ね侍りしに、「座禅する出家はこの此の事なり。がぜぼ谷の名は久し」といへり。・・・」

がぜぼ谷は、僧侶が座禅をしているずっと前からの名であるとしており、古い地名のようである。龕前坊谷ともいったようで(江戸鹿子)、龕前坊は徳川家光の生母浅井氏お江(崇源院)の葬礼の時に建てた仮屋という。

仙石山石碑前 仙石山石碑 仙石山石碑 我善坊谷坂上までせっかく来たので、この近くの虎の門五丁目の仙石山の石碑を見てみようと思い、坂上を右折する。工事用の白いパネルで両側がふさがれた道をそのまま進むと、やがて、それも終わり、広場にでる。年末であったので、写真のように、石碑の前には松飾りがこしらえてあり、正月を迎える準備ができていた。毎年このような飾りつけをするのであろうか。石碑の上部にかなりの大きな割れができているが、建ってから長い間、風雪に耐えてきたあかしのように見える。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三年坂(我善坊谷)

2011年01月20日 | 坂道

三年坂上 三年坂上 三年坂途中から 雁木坂上を右折し、平坦でまっすぐな道を北に進むと、突き当たるが、この左側が三年坂の坂上である。階段坂がまっすぐに下っている。

左側2枚の写真のように、坂上から北西側の眺望がよく、我善坊谷を望むことができる。谷の向こうは六本木一丁目のあたりである。左側の写真の左が、前回の記事で、紀州侯屋敷引払後に閑地となりその一面が崖で我善坊谷に臨むと荷風が記しているところ付近と思われる。麻布台地の北端かつ東端で、ここから我善坊谷へ下ることができる。台地から建物がせまってきており、荷風が昭和3年(1928)2月に書いたような寒山枯木の趣はもはや想像できない。

右側の写真は、坂途中からもう少し北側を撮ったものであるが、中央右側にこれから向かう我善坊谷坂の坂下が見える。これら3枚の写真からわかるように、眺望を失った現代の坂の中では、比較的眺めのよい坂であると思う。

三年坂上 標識 三年坂 階段下 右側の写真は階段下から撮ったものである。

左側の写真のような標識が坂上に立っており、次の説明がある。

「三年坂の由来 いつのころよりこの坂がそう呼ばれたのか、誰に名づけられたのか定かではありません。しかし、東京が江戸と呼ばれていた時代には無名ではあります。すでにこの坂がありのち石段になったようです。また、三年坂は別名三念坂などとも呼ばれ同じ名前の坂がほかに数箇所あります。京都清水のそばに同名の坂があります。昔の人が遠くふるさと京都をしのぶ気持ちを坂の名前にこめたとしたらロマンでしょうか。平成17年8月 麻布土木事務所」

この標識は、他の坂にある標柱とデザインがまったく違っていて、石柱を斜めにカットした面に説明板を貼りつけた構造である。港区教育委員会のものではなく、麻布土木事務所が設置したもののようである。土木事務所による坂の標識ははじめてで、珍しい。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、我善坊谷への道に坂マーク(多数本の横棒)があるが、坂名はない。近江屋板も同様で、坂マーク(△)のみで坂名はない。明治地図を見ると、この坂を下りたところに東西に延びた我善坊町がある。

階段下から坂下 三年坂下側 三年坂下 まっすぐに階段を下りると、階段が終わるが、右折すると傾斜はまだ続く。左側の写真は、階段下から坂下を撮ったものである。次の写真は、階段の少し下側から階段下を撮ったもので、階段下に標識が立っているのが見える。右側の写真は、坂下から階段下を撮ったものである。右2枚の写真の奥にかつての崖を想起させる壁が見える。

横関に、現在のように改修する前の「我善坊谷の三年坂」の写真がのっており、古びた階段の様子がよくわかる。階段下に、階段またはコンクリートの道が続いているように見えるが、これが現在の階段下から下る坂道と思われる。

三年坂については、これまで、杉並の三年坂神楽坂近くの三年坂霞が関の三年坂を記事にした。横関によれば、三年坂というのは、近くに寺院や墓地がなければならないが、この坂の場合、元禄三年(1690)の『江戸御大絵図』を見ると、坂の頂上の東側に「長音寺」があるので、これが坂名の起因としている。

横関は、「三年坂という名称は、不吉な意味を持っているので、いつの間にか他の名称に改められたものが多い。特に、おめでたい名前に変わっている。たとえば、三年坂が産寧坂とか三延坂、三念坂などと。それから全く「三年」をきらって、鶯坂、蛍坂、淡路坂、地蔵坂のように別の名に改められたものもある。」としている。三年坂に似たものに、二年坂(二寧坂とも)、百日坂、袖きり坂、袖もぎ坂、花折坂などがあるとのこと。

横関を読んでから、上記の三年坂や他の三年坂の標識の説明を読むと、不吉な意味を払拭するため説明文の起草には苦労したのだろうと想像してしまう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雁木坂

2011年01月19日 | 坂道

雁木坂下 雁木坂下 榎坂下の飯倉四辻を横断し、ちょっと坂上にもどるようにしてから北側に道を進むと、霊友会の建物が見えてくるが、左折すると、階段坂が見える。雁木坂の坂下である。階段がまっすぐに上っている。

尾張屋板江戸切絵図(今井谷六本木赤坂繪図)を見ると、ちょうど絵図の端にあたり、道が部分的にしかなく、坂マークも坂名もないが、芝口南西久保愛宕下之図に、坂マーク(多数本の横棒)にガンギ坂とある。近江屋板には、榎坂の北側の平行な道に、△厂木坂とある。

横関によれば、雁木坂は、石を組んだ段々の坂で、きわめて急坂のため階段になっているとし、牛込仲之町から市谷谷町へ下る念仏坂や赤坂の丹後坂もガンギ坂である。江戸の昔からいまなお雁木坂として知られているのは、この雁木坂と、赤坂霊南坂町から麻布谷町へ下る雁木坂であるという。この赤坂の雁木坂の写真が横関にあり、上下二層で、それら上下の古びた階段が写っている。いまは現存しないとのこと(石川)。

近江屋板に見えるように、駿河台の日大病院前にも雁木坂があったが、いまはもうその形はないとのこと。山野にほとんど傾斜のない坂として紹介されている。

雁木坂下標柱 雁木坂階段模様 左側の写真にあるように標柱には次の説明がある。

「がんぎざか 階段になった坂を一般に雁木坂というが、敷石が直角に組まれていたから等ともいい、当て字で岩岐坂とも書く。」

標柱の説明に、写真のように、「直角」と「に」の間に敷石の組み方の略図が示されている。雁木とは、雁の行列のように斜めになってぎざぎざしているものをいう(岩波国語辞典)とのことだが、棒や板ぎれなどを埋めてつくった階段の意味が岡崎に紹介されている。

『御府内備考』には次のようにある。

「雁木坂 飯倉町二丁目より麻布六本木へ上る坂なり坂の傍に雁木あれば呼名とせしならんと江戸志にいへり」

この説明では、坂のわきにあった「雁木」が坂名の由来であり、上記の説明と違っているが、雁木とはなにかが問題のようである。

この坂の踊り場から下側の階段に、右側の写真のように斜線が直角に交差するよう交互に方向を変えた滑り止め模様がつけられているが、これを雁木模様というのか。この写真は、岡崎にある階段の模様が上右側の写真にも下二段ほどに写っていたので、これを画像処理して斜線模様を強調したものである。

雁木といえば、将棋に雁木囲いというのがあるが、検索したら、「千鳥銀の戦法図鑑」に次の説明がある。「江戸時代の棋客、桧垣是安が編み出したと言われ、寺の屋根の木組みに駒組みが似ている所から雁木と呼ばれる」。これは現在では前回の穴熊ほどには指されない戦型である。その木組みとは、上記の標柱に示されているような組み方と思われる。

雁木坂上標柱 雁木坂上 坂上から見ると、かなりの勾配があり、階段でなければ人の通れる道はできなかったことがわかる。坂上は、横方向(南北)に道が延びている。左側の写真で、右に進めば霊友会のわきを通って、三年坂から我善坊谷に至り、左に行けば、外苑東通りの榎坂上に至る。

永井荷風の日記「断腸亭日乗」の昭和3年(1928)に次のような記述がある。

「二月十八日 晴れて日の光うらゝかなれど風猶寒し、朝起出ることおそければ書斎を掃除して顔洗ひ煙草一二服吸へば忽正午とはなるなり、・・・、薄暮芝居を出づ、葵山君頻にわが小星お歌を招ぎて倶に飯食ふべしとすゝむ、今まで壺中庵の所在は人にかくして告げざりしが、かくなりては最早包みおほせ得べきに非らずと思ひて、自動車にて西ノ久保の路地に導き到る、格子戸を開かむとするに錠のかゝりゐてお歌他出中の様子なれば、銀座に出で藻波に登りて晩餐をなす、撫象子は歌舞伎座に行き松莚子の舞台より退くを待ち、倶に其邸に赴くべしといふ、尾張町角にて別れ、余は葵山子と打連れ帰途再び壺中庵に往きて見るにお歌既に帰りて在り、笑語三更に及ぶ、葵山子を飯倉八幡祠前の電車停留場に送り、雁木坂の石級を登り我善坊ヶ谷の細径を迂回して家に帰る、是夜雁木坂上より狸穴表通に到るあたり、旧稲葉子爵の屋敷ありし処一望曠濶なる原となれるを見る、銀杏の喬木二株あり、その幹一抱もあるべし、稲葉家邸址の西鄰は是亦紀州侯屋敷引払の後にて、榎椎銀杏などの大本多く繁りたる閑地なり、閑地の一面は崖になりて我善坊の谷に臨む、暗夜喬本の寒風に吼え叫ぶ声町の中とは思はれず、寒山枯木の趣あり、されどやかでは小家つづきの陋巷に変ずるなるべしと思へば、他日備忘のため所見をこゝにしるし置くなり、」

荷風は、この日、葵山撫象の二君に誘われて本郷座観劇に行き、その後、葵山子とともに仙石山のふもとの壺中庵にお歌を訪ね、その帰りに、雁木坂を上り、我善坊谷の細径を迂回して家へ帰ったようである。旧稲葉子爵の屋敷ありし処とは、尾張屋板を見ると雁木坂上の西側に稲葉伊豫守の屋敷があるので、そこであると思われるが、その屋敷跡が一望できる広々とした原っぱになって、銀杏の高木が二株あり、その幹が一抱もある太さである。その西隣は紀州侯屋敷引払の後、榎椎銀杏などの大本が多く繁る閑地となって、その一面は崖で我善坊谷に臨み、暗夜高木の寒風に吼え叫ぶ声が町の中と思われないほどで、寒山枯木の趣がある。しかし、ここもやがて小家が連なる裏町に変わるであろうと思い、将来の備忘のため所見をしるしたとある。その当時、雁木坂上西側は閑地で、いまからは考えられないほどである。

ところで、坂とは関係ないが、荷風は、この当時、愛人お歌のことはかくしていたらしいが、友達に知られ、もはやこれまでと思い、しかたなく壺中庵に連れて行った。そんなことがあったからなのか、この日の日乗は記載が増えている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本経緯度原点~榎坂

2011年01月17日 | 坂道

日本経緯度原点広場 日本経緯度原点と説明板 日本経緯度原点説明板 日本経緯度原点金属標 狸穴坂を右折し、ロシア大使館前を通り過ぎ、次を右折し、直進すると、やがて行き止まりになる。その右側の奥まった所に公園のようなそうでないような広場がある。手前に日本経緯度原点と記した標識が立っている。

国土地理院の説明板によると、日本経緯度原点は、日本における地理学的経緯度を決めるための基準となる点である。明治25年(1892)に東京天文台の子午環の中心を日本経緯度原点と定めたが、大正12年(1923)の関東大震災で子午環は崩壊し現存しないため、日本経緯度原点の位置に金属標を設置したとのことである。

この金属標が右側の写真に写っている。他の説明は写真のとおりである。

日本経緯度原点広場 日本経緯度原点広場下 左側の写真に写っている港区教育委員会の説明板によると、この原点の経度と緯度は、大正7年(1918)の文部省告示で、「東経139度44分40秒5020、北緯35度39分17秒5148」と確定したが、平成13年(2001)の測量法の改正で、最新の宇宙測地技術を用いて新たに「東経139度44分28秒8759、北緯35度39分29秒1572」と定められたとのこと。

この場所には、明治7年(1874)から海軍の観象台が置かれていたが、明治21年(1888)に赤坂区溜池葵町の内務省地理局天象台と合併し、東京帝国大学附属東京天文台が置かれたとのことである。

明治地図に帝国天文台とあり、戦前の昭和地図に東京天文台とある。関東大震災をきっかけに三鷹に移転した。現在の国立天文台である。

ここは、麻布台地の東南の端であり、南側の展望がよかったのであろう。上の右側の写真のように、この原点広場の下は急斜面になっていて、下側に住宅地が広がっている。東麻布で、もとは森元町である。

以前、一度来たことがある。坂巡り中心の散策であるが、たまには毛色の変わったところもよい。

ところで、高さの方の基準となる日本水準原点は、国会議事堂前庭にあるらしいが、以前、訪れたとき、正月であったためか、入れなかった記憶がある。この記事を書いていて思い出した。

榎坂上側 日本経緯度原点から引き返し、右折するが、このあたりが榎坂である。写真はそのあたりから坂下側を撮ったものである。緩やかにカーブしなから下っている。

写真に見える大きな交差点は、外苑東通りと桜田通りとが交わる飯倉四つ辻で(前回の記事参照)、写真横方向が桜田通りで、右側から赤羽橋の方に下る坂が土器(かわらげ)坂である。

尾張屋板江戸切絵図に、狸穴坂上を右折し少し進んだところに榎坂とあり、その先の交差点に、四辻ト云、とある。榎坂上近くから南東に延びる小路があるが、ここがいまの日本経緯度原点に至る道であると思われる。近江屋板にも坂マーク(△)に榎坂とある。

榎坂は、一里塚の榎がある坂である場合が多いらしく、以前の記事のように、これは、横関に詳しい。

ところで、飯倉四辻から反対方向(写真奥方向)へ芝公園の東京タワーの方に上って行く坂も榎坂というらしい。今回、横関を読んで気がついた。ということで、桜田通りから東側の坂はこれからの課題である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

狸穴坂

2011年01月16日 | 坂道

狸穴坂下 標柱 狸穴坂下 狸穴公園を出て東側に進むと、左側の写真のように狸穴坂の坂下のちょっと古びた標柱が見えてくる。ここを左折すると、狸穴坂下で、右側の写真のように、ほぼ平坦に北側に延びている。この先次第に傾斜がついてきて、うねりながら坂上の外苑東通りまで上っている。標柱には次の説明がある。

「まみあなざか まみとは雌タヌキ・ムササビまたはアナグマの類で、昔その穴が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。」

尾張屋板江戸切絵図には狸穴坂とあるが、近江屋板には坂マーク(△)だけである。明治地図にも同じ道筋があり、戦前の昭和地図には狸穴坂とある。ここは江戸から続く坂である。

狸穴坂下側 写真は上の写真から少し進んだところで、このあたりからうねり始めているが、まだ傾斜はほとんどない。

標柱に、タヌキ・ムササビまたはアナグマの類の穴が坂下にあったといわれたとあるが、これを読むといつも、私的には将棋の穴熊囲いを思い起こしてしまう。

穴熊囲いとは、王を盤の隅(香の位置)まで動かし周りに金銀を集めて王を堅く守る戦法で、プロの将棋でもさかんに指されている。誰がつけたのか、なかなかユニークな命名である。採鉱の穴ともいわれたらしいが、これが金や銀の採鉱穴であったら、アナグマ囲いに金、銀が結びついておもしろいのであるが。

狸穴町 狸穴町から階段 上の写真の左側に小路の入り口が見えるが、ここで左折し小路に入る。かなり狭い道を通り、まっすぐに延びる道に出る。この道は狸穴坂の西側下で坂と同じ方向に延びている。

前回の鼠坂の坂下も含め、このあたりは麻布狸穴町で、永坂町などとともに古い地名が残っている地域である。

左側の写真は、まっすぐの道を奥まで進み、来た道を撮ったものである。右側は静かな住宅街で、左側の壁の方には大きな建物があり、その反対側上に狸穴坂が通っている。

右側の写真は、まっすぐの道の突き当たり角を左折したところで撮ったもので、中央奥に小さく階段が見えるが、これが、鼬坂~植木坂の記事で紹介した鼬坂下から下る階段である。

狸穴坂下側 狸穴町中腹 引き返すが、途中、左折するところを、右折すると、先ほどの鼠坂下に出る。もとの小路から左折する。

左側の写真は、少し進んだところで撮ったもので、傾斜が始まっている。わたし好みにみごとにうねっている。右側の写真は、さらに進んで中腹あたりから撮ったもので、坂上が見える。

『紫の一本』の「長坂」に次の説明がある。

「(長坂は)まみ穴の坂より西の坂なり。まみ穴も坂なれど、まみ穴坂とはいはず。それ故坂の内へ入れず。むかしこの坂にまみの穴ありしとぞ。まみといふは、狸(たぬき)狢(むじな)の類といふ。」

『御府内備考』には次の説明がある。

「狸穴 雌狸穴とも魔魅穴とも書す 長坂の東の方同じさまに下る坂をいふ、紫一本に云、むかし此坂にまみの穴ありしと、魔魅といふは、狸狢の類なりと、御徒頭萬年記に、寛永廿一年三月三日青山宿より麻生薬種畠へ 御成あり、御膳所にてその頃の御徒頭能勢市十郎に仰付られ、麻布のむじなの穴を見せにつかはされ、そのさまを申上べきよし仰ありと見ゆ、是當所まみの穴の事なるべし、一説可成談に云、まみ穴といふは、古へかねほりたる穴なり、まみとはまぶの事なり、享保六年のころ、黄金の様なる砂出たれど、いまだ年のたらぬなりとてほらずなりぬと、此狸穴と稱する地は麻布飯倉兩所にかかりしとみへ、・・・」

狸穴坂上側 狸穴坂上 『紫の一本』は、まみ穴も坂だが、まみ穴坂といわないので、坂の内には数えないとしており、むかし「まみ穴坂」とはいわなかったらしい。ただし、尾張屋板には狸穴坂とあるので、江戸末期にはそうでもなくなったのであろうか。紫の一本(むらさきのひともと)の成立は天和二年(1682)である(のちの補筆も多いというが)。

 『紫の一本』『御府内備考』からわかるように、坂名の由来は、狸狢の類のまみの穴説が主流のようで、標柱の説明もこのあたりを参考にしているのであろう。黄金のような砂が出たとあるが、どこまで事実か不明のようである。

 『江戸砂子』にまみ穴説に加え、「或は上古、銅の出でしまぶ穴といふ説あり」とあるとのこと(石川)。(金、銀でなくてちょっと残念。)

坂をかなり上るが、次第にまっすぐになる。左側の写真は坂上側から坂下を撮ったものである。右側の写真は坂上からの写真である。いずれにも見える左側の塀の中はロシア大使館である。もとソ連大使館で、ここには昭和5年(1930)6月、裏霞ヶ関から移ってきたという(岡崎)。

狸穴坂上 狸穴坂上 標柱と石碑 坂下から上ってきて平坦になったところから坂出入口を撮ったのが左側の写真で、通りの向こうに見えるのは麻布郵便局である。写真に見えるように、坂上左側に真新しい標柱と、狸穴坂と刻まれた石碑が立っているが、これらを歩道側から撮ったのが右側の写真である。

坂上は交通量の多い外苑東通りの広い道路(昔の電車通り)である。島崎藤村は、このあたりのことを「飯倉附近」に次のように書いている。

「この界隈はまた古い屋敷町の跡でもある。飯倉四つ辻から榎坂を上ったあたりは一帯にその屋敷町の跡だ。上杉、稲葉、戸田、その他旧藩の主従が大家族を形造りながら住んだという屋敷の跡は、最近まで諸華族の居住地として電車通りの両側に残っていて、その中でも狸穴坂に近い小屋敷の跡には、昔のまゝの黒く塗った門や、扉や、古風な出格子の窓まで見られた。斯うした町の一部は今、改変の最中にある。広い庭園の跡には分譲地の札が立っている。この空虚な場所の板がこいが広告板に応用されて、普通選挙の当時は候補者の名で埋まったことは、まだ町の人達の記憶に新しくてあるだろう。私は市内から仏壇や墓地まで挙げて郊外の方へ移って行った一、二の古い寺を直接に知っている。屋敷も、寺も、今は動きつゝあるのだ。」

昔のままの黒く塗った門や古風な出格子の窓が狸穴坂に近い小屋敷の跡に見られたとあり、そのころそのような昔の雰囲気が残っていた。興味を引くのは、町の一部は今、改変の最中にあるとしていることである。広い庭園の跡には分譲地の札が立ったり、板がこいが広告板に応用され、選挙の時は候補者のポスターが張られ、一、二の古い寺は郊外に移っていった。屋敷も、寺も、今は動きつつあるのだとしているが、ちょうど、大正12年(1923)の関東大震災の後であったからであろうか。藤村の「飯倉附近」が入っている「大東京繁昌記 山手篇」が刊行されたのは、昭和3年(1928)12月であるので、多分そうであろう。

藤村のときのように大震災があったわけでもないのに、まさしく「いま」も東京の街々は動きつつある。いつの時代も変化を止めない街のようである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「大東京繁昌記 山手篇」(平凡社ライブラリー)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鼠坂~狸穴公園

2011年01月12日 | 坂道

鼠坂上手前 鼠坂上 鼠坂上標柱 植木坂の標柱のある坂下を右折すると、ほぼ平坦な細い道が続くが、やがて狭い下り坂となる。

左側の写真は坂上手前で撮ったもので、中の写真は坂上から撮ったものである。右側の写真は坂上に立っている鼠坂の標柱であるが、同写真のように次の説明がある。

「ねずみざか 細長く狭い道を、江戸でねずみ坂と呼ぶふうがあった。一名鼬(いたち)坂で、上は植木坂につながる。」

『改選江戸志』は、「鼠坂は、至つてほそき坂なれば、鼠穴などいふ地名の類にて、かくいふなるべし」と解説し、細くて狭く長い坂をいったらしい(横関)。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、前回の記事で鼬坂とした坂を南側へ下ると、左側に曲がりながら続く道があり、坂名も坂マークもないが、これが鼠坂と思われる。近江屋板には、鼬坂に続く南側の道に坂マークの△印がある。 明治地図にも江戸切絵図と同様の道筋がある。戦前の昭和地図には、現在鼠坂の標柱が立っている道筋に鼠坂とある。

鼠坂下 鼠坂下標柱 左側の写真は坂下から坂上を撮ったもので、右側は坂下の標柱を入れて撮ったものである。勾配は中程度で、細くまっすぐな坂である。

横関は、この鼠坂を「港区麻布永坂町と麻布狸穴町との境を北へ外苑東通りまで上る長い坂。頂上に近いところを、植木坂、鼬坂とも」としている。石川は、この坂を紹介せず、外苑東通りから下る鼬坂~現在植木坂の標柱のある坂を植木坂としている。岡崎は、鼠坂、植木坂を標柱と同じとし、山野も同様であるが、外苑東通りから南へ下る(鼬)坂には触れていない。

以上のように、この鼠坂については、この坂上を直進し藤村の旧居跡の石柱を左に見て外苑東通りへと上る鼬坂(前回の記事参照)とあわせて考えることが必要なようである。標柱でいう別名もそのことを示唆しているのかもしれない。

島崎藤村は、以前の記事のように、「飯倉附近」に次のように書いている。

「鼠坂は、私達の家の前あたりから更に森元町の方へ谷を降りて行こうとするところにある細い坂だ。植木坂と鼠坂とは狸穴坂に並行した一つの坂の連続と見ていゝ。たゞ狸穴坂の方はなだらかに長く延びて行っている傾斜の地勢にあるにひきかえ、こちらは二段になった坂であるだけ、勾配も急で、雨でも降ると道の砂利を流す。こんな鼠坂であるが、春先の道に椿の花の落ちているような風情がないでもない。この界隈で、真先に春の来ることを告げ顔なのも、毎年そこの路傍に蕾を支度する椿の枝である。」

藤村は、植木坂と鼠坂は一つの坂の連続と見てよいとしているが、この見方は、上記の横関が北へ外苑東通りまで上る長い坂とする説と軌を一にする。

横関にある「麻布の鼠坂」の写真(昭和30~40年ころ)に坂上からの風景が写っているが、右に石垣(上の写真のようにこれはいまも一部が残っているようである)、左に樹木が生い茂っており、これから想像すると、藤村や荷風が通ったころはもっと野趣に富んでいたのであろう。

狸穴公園 坂下がちょっとしたクランク状の道になっていて、そこを直進すると、ちょっと大きな公園に至る。写真のように狸穴公園である。この東側が旧森元町で、藤村が鼠坂を下ってよく出かけたところである。「飯倉附近」に次のようにある。

「鼠坂を下りて、そのごちゃごちゃとした町の入口まで行くと、私はいろいろな知った顔に逢う。そこには私の贔顧(ひいき)にする焼芋屋、泥鰌(どじょう)屋もあるし、たまに顔剃りに行く床屋もある。森元の好いことは気の置けないことだ。町の角にしんこ細工の荷をおろして、近所の子供を呼び集めるものがあるとする。大人まで立って眺めていても、そこではすこしもおかしくない。反ってある親しみを感じさせるようなところだ。」

そのころは下町の雰囲気のある藤村好みの町であったらしい。現在東麻布であるが、いまは店も少なく賑やかさはない。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「大東京繁昌記 山手篇」(平凡社ライブラリー)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鼬坂~植木坂

2011年01月11日 | 坂道

鼬坂上 永坂上を進み、途中右折し、階段を下り、左折すると、飯倉片町の交差点にでる。ここを右折し横断し、外苑東通りを東に進む。二本目が鼬坂(いたちざか)の坂上である。

細い道がかなりの勾配で下っている。

快晴で南向きであるので、坂下では冬の日差しがまぶしい。天気がよいのはうれしいが、光と影のコントラストが大きくなるので写真の写りが悪くなる。坂の写真は曇りのときの方が断然写りがよい(といいわけ)。

鼬坂下 写真は、急坂を下り、坂上を撮ったものである。ここも陽の当たるところと影になったところがあり、かなりのコントラストがついている。

この坂は、もう1年ほど前、この近くの植木坂の標柱が立っている坂との間で、どちらが植木坂であるかを記事にした覚えがある("植木坂の位置")。きっかけは、永井荷風の大正10年(1921)1月17日の「断腸亭日乗」にある次の記載であった("荷風と坂"の記事参照)。

「植木阪より狸穴に出で赤羽根橋を渡る。麻布阪道の散歩甚興あり。三田通にて花を購ひ帰る。」

島崎藤村旧居跡 鼬坂下 島崎藤村旧居跡 坂下をちょっと進むと、右手のマンションのわきに左側の写真のように、島崎藤村旧居跡と刻まれた石柱が立っている。その左側面に「株式会社東京楽天地 昭和四十八年四月三日建立」とある。石柱の上に、次の説明文が刻まれた石板がはめ込まれている。

「藤村は、七十一才の生涯のうち文学者として最も充実した四十七才から六十五才(大正七年~昭和十一年)までの十八年間当地麻布飯倉片町三十三番地に居住した 大作夜明け前 地名を冠した飯倉だより 童話集 ふるさと おさなものがたり などは当地での執筆である」

右側の写真は、鼬坂下とともに上記の石柱、石板を側面から写したものである。

鼬坂下の階段 鼬坂下の付近は見晴らしがよい。さらに一段低くなった低地があるからである。坂下左わきにそこに下る階段がある。階段を下りて直進すると、静かな住宅街が続いている。写真は、引き返して階段下から撮ったものである。

島崎藤村は、このあたりのことを「飯倉附近」に書いており、以前の記事で紹介したが、その一部を再掲する。

「南に浅い谷の町をへだてゝ狸穴坂の側面を望む。私達の今住むところは、こんな丘の地勢に倚って、飯倉片町の電車通りから植木坂を下りきった位置にある。」

藤村が、「南に浅い谷の町をへだてて」とした浅い谷の町とは、上記の階段を下りたところの住宅街であったと思われる。その向こうに狸穴坂の側面を望むことができた。いまは大きな建物があり、そのような風には見えなくなっている。そして、藤村は上記の鼬坂とした坂(旧飯倉片町の電車通りである外苑東通りから下る、狸穴坂のとなりの平行な坂)を「植木坂」としていることがわかる。

植木坂手前 写真は上記の藤村の旧居跡からちょっと進んで撮ったもので、植木坂の標柱が見える。標柱のところを左折すると上りとなる。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、先ほどの鼬坂のところ(狸穴坂のとなりの平行な道)に、「〇サカ」とあり、〇は「鼬」または「鼠」の簡略異体字と思われる。坂上西側に「植木ヤ ツシモト」とあり、近江屋板も坂名に似た簡略異体字を用い、坂上西側に「植木ヤ」とあるが、いずれにも「植木坂」とは記されていない。それでも、横関は植木坂を先ほどの外苑東通りから下る坂とし、別名を鼬坂、鼠坂としている。嘉永二年の江戸切絵図に坂の下り口に「植木ヤ」とあるとしているが、そのことからそう判断したのであろうか。

岡崎は、近江屋版江戸切絵図には、外苑東通りから南に下る道に、植木屋はないが、「△ウエキサカ」とある、としているが、下記参考文献の近江屋板江戸切絵図は上記のように尾張屋板とほぼ同様である。別の坂でも同じようなことがあったので、板(版)の違いなのかもしれない。

植木坂下 写真は植木坂の坂下である。かなりの勾配でまっすぐに上っている。標柱に次の説明がある。

「うえきざか この付近に植木屋があり、菊人形を始めたという。外苑東通りからおりる所という説もある。」

標柱は、植木坂を外苑東通りから南に下る坂とする説にも配慮している。

尾張屋板江戸切絵図には、この坂と思われる道筋が西へ長坂までほぼまっすぐに延びているが、坂マークや坂名はない。近江屋板には、坂名がないが、この坂と思われる位置に坂マークの△印がある。興味深いのは、永坂からこの坂に続く道にも坂マークがあり、△印の向きから上り坂である。これは現在の地形とあっている。

植木坂上の標柱 急坂を上りながらその傾斜を実感するが、距離は短く、平坦となった坂上を進むと、右に標柱が立っている。写真は、坂上側に向かって撮ったものである。このあたりはかなり静かな一帯である。

坂上をそのまま西側へと進むと階段に出るが、ここを下りると、永坂の東側の歩道に出る。ここを左折し下ると、途中に、前回の記事の「信州更科蕎麦所・布屋太兵衛」の説明板が歩道左側に立っている。

上記の坂上を西側へと進んだ階段の下りは、近江屋板にある永坂に向かって下る坂と対応していると思われ、むかしは、そのまま進んで、現在の首都高速の飯倉出口付近を通り、永坂の上側に出たのであろう。

植木坂上 写真は、坂上の標柱から坂上にもどり、そこから坂下を撮ったものである。かなりの勾配であるが、上の植木坂上の標柱の写真に写っている港区の坂でよく見かける勾配表示には10%とある。

上記の荷風の「日乗」にある植木阪が、現在鼬坂とされる坂または現在植木坂の標柱が立っている坂のいずれであるか確証はないが、上記の以前の記事では、その当時、このあたりに住んでいた藤村の上記「飯倉附近」の記載から、現在鼬坂とされる坂ではないかと考えた。付け加えると、もし永坂経由であれば、荷風は永坂という坂名も書くような気がするが、どうであろうか。

坂を下り、坂下に戻る。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「大東京繁昌記 山手篇」(平凡社ライブラリー)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鳥居坂~潮見坂~於多福坂~永坂

2011年01月06日 | 坂道

鳥居坂中腹 潮見坂上 於多福坂下側 於多福坂上側 七面坂から暗闇坂下に出て、鳥居坂を上り、坂上ですぐ右折し、潮見坂、於多福坂に行く。ここは、順序は逆だが以前に来て、"鳥居坂"、"於多福坂~潮見坂" の記事で紹介した。

写真は今回撮ったもので、左から順に、鳥居坂中腹から坂下、潮見坂上、於多福坂の下側、於多福坂の上側である。

潮見坂を下ったが、かなりの勾配であることをあらためて実感した。前回からであるが左側で工事が始まっている。

潮見坂下を直進すると永坂の坂下であるが、ここを右折し、於多福坂の下側の坂下から上側の標柱のある坂上まで歩く。かなりの距離であることがわかる。引き返し、上側の坂下を左折し東に向かう。

永坂上側 於多福坂の上側の坂上から広い通りに出るが、ここは、緩やかな坂の上側である。ここが永坂(長坂)のようである。写真は、そこから坂下を撮ったものである。広い通りがまっすぐに下っている。この通りは坂下の麻布十番の方からの上り一方通行で、下りの通りは真ん中にある首都高速道路の飯倉出口の反対側(東側)である。このため、この通り全体はかなり広くなっており、かつての永坂の道筋を吸収していると思われる。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、鳥居坂と平行にその東側に長く延びる道があり、長サカとある。坂下で坂上から見て右に少し曲がっているが、いまも同じ道筋が残っており、また、長サカと鳥居坂との間に於多福坂の道が延びている。このように、このあたりの道は、拡幅されているかもしれないが、江戸時代の道筋をそのまま残している。近江屋板には坂マークの△印とともに永坂とある。

永坂上側から坂上 写真は、上の写真のやや上側で坂上を撮ったもので、一方通行の道が左に分岐し外苑東通りへと延びているが、ここが拡幅前の永坂の名残であると思われる。

明治地図には江戸切絵図と同様の道筋があり、戦前の昭和地図も同じで、ここには永坂と記してある。昭和31年の地図にもまだ首都高速はなく同じ状態で、拡幅前である。現在のようになったのは昭和39年(1964)の東京オリンピックのころであろうか。

横関に「麻布の永坂」の写真があるが、坂上から坂下の拡幅前の風景が写っている。長くまっすぐに下っている。これを見ると、上の永坂上側から坂下を撮った写真と似ているように感じる。

永坂上遊び場 永坂上 永坂の名残と思われる坂を上ると、その途中右側に小さな公園があるが、左側の写真のように入口に「港区 永坂上遊び場」という標識がある。右側の写真は、その前あたりから坂上を撮ったものである。この上右側に標柱が立っており、次の説明がある。

「ながさか 麻布台から十番へ下る長い坂であったためにいう。長坂氏が付近に住んでいたともいうが、その確証はえられていない。」

「御府内備考」には次のようにある。

「長坂 長坂は、鳥居坂の東なり、大田原家の屋布の前なる坂なり、ここも六本木の内なりいとふ、この坂はただ長き坂にて、三丁もあるべければ、かく名付しならん、外に故ありともおもはれず、改選江戸誌」

横関は、この坂について次のように説明している。「長坂。これはただ長いというだけのことで、なんの変哲もないといえばそれまでのことではあるが、坂の形の一変態であり、古い昔から、この名を持った坂が、日本全国いたるところにあったという事実を知っていてもよいと思う。赤坂という坂についで多い坂が、この長坂である。江戸の長坂は麻布にあるのが、ただ一つの長坂である。古くは「長坂」と書いたが、享保のころから「永坂」と書くようになった。そのころから、江戸の長坂に限って、永坂が幅をきかせてきて、とうとうそこの地名も、麻布永坂町となってしまった。」

以上のように、坂名は、ただ長いということに由来するようである。

尾張屋板江戸切絵図では坂下の地名が長坂町、長坂丁となっているが、近江屋板では永坂町、永坂丁となっている。尾張屋板は文久元年(1861)で、近江屋板は嘉永期(1848~1854)であり、いずれも享保期(1716~1736)より百年余り後のほぼ同時代に作成されているが、両者の表記が異なっている。

永坂上 写真は坂上から撮ったものである(左側に標柱が写っている)。この坂上側が拡幅前からの道筋であると思われるので、拡幅前の永坂は、現在の坂上側の道筋を延長した道であったのではなかろうか。

以前、この反対の東側の通りを永坂と考えていたが、写真の坂上側の道筋の方がむかしからの永坂といったほうがよいと思われる。

一番上の永坂の写真を編集していたときに気がついたが、写真左上のように、通りの反対側のビルの上に「永坂更科」の文字が見える。反対側の通りに「信州更科蕎麦所・布屋太兵衛」の説明板があるが、そこはそのビルの下と思われる。

このビルの付近一帯の地名が麻布永坂町であり、むかしからの地名が残っているのがうれしい。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第四巻」(雄山閣)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すべり坂~七面坂

2011年01月04日 | 坂道

すべり坂下 法典寺からの道を引き返し、芋洗坂の道を右折し、進むが、途中、六本木中学があり、右折して中に入る小路はない。地図を見ると、この芋洗坂の通りの地下を大江戸線が通っているようである。

やがて、鳥居坂下の交差点に至るが、ここで、環状三号線の広い通り(環三通り)を横断し、あひる坂を下り、麻布十番の通りに出て左折し、二本目の麻布十番一丁目6と7の間を左折すると、すべり坂の坂下である。左折しすぐは平坦であるが、その先で上りになり、短い坂である。勾配は中程度といったところ。坂上は先ほどの環三通りの歩道である。

この坂は麻布十番通りの低地と環三通りとの間にあることから、環三通りはこのあたりで低地のちょっと上側を通る道路となっている。

すべり坂上 この坂は山野と岡崎に紹介されている。岡崎は「小坂である。ローラースケートでわずかに滑れるほどの傾斜である。北に向かって上り、環状三号線の広い通りに出る。」とし、山野は、「今はわずかな傾斜しかない。」としている。いずれも坂名の由来については触れていない。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、鳥居坂から暗闇坂に至る道と、これと平行に長坂(永坂)から下ってくる道との間で、ここに相当する地域に道がない。近江屋板には、その間に道があるが、この道は、次に向かう七面坂との位置関係からこの坂に相当するともいえるようである。また、この道を横切るように坂下に川が流れており、古川の一ツ橋まで続いている。

明治地図および戦前の昭和地図にはこの坂に相当する道がある。

七面坂下 すべり坂上を左折し、次を左折して下って、麻布十番の通りを横断し、直進すると、写真のように、七面坂の坂下に至る。まっすぐに緩やかに上っているが、坂上側でちょっと傾斜がきつくなる。坂上は大黒坂の坂下である。写真のように、坂下に標柱が立っており、次の説明がある。

「しちめんざか 坂の東側にあった本善寺(戦後五反田へ移転)に七面大明神の木像が安置されていたためにできた名称である。」

尾張屋板江戸切絵図を見ると、坂上に向かって左側中途に本善寺がある。近江屋板にもあるが、その門前で、道が小さなクランク状になっている。明治地図にも戦前の昭和地図にも本善寺がある。

七面坂上 写真は坂上から撮ったもので、坂上にも標柱が立っている。

本善寺は、慶長十三年(1608)の創立と伝え、境内の七面社の七面天女は里俗に「麻布十番の七面天」とよばれて、毎月一、九の縁日は非常ににぎやかであったという(石川)。

ネット検索をしてみると、本善寺は品川区東五反田3-6-17にあり、次の説明がある。

「第二次大戦で戦災を受け、昭和22年に港区麻布十番より現在地へ移転再建。昭和20年3月の空襲により、伽藍は焼失するが、祖師像と七面様は住職の気転でからくも持ち出すことができた。その後、戦災を免れた麻布宮村安全寺に一時寄宿していたが、続く4月の空襲で惜しくも焼失。その後現在地に移転した折、小岩本蔵寺住職馬場玄諦師の好意により、本蔵寺二体の祖師像の内の一体をゆずられたのが現在の祖師像。」

七面像は、一度戦災を免れたが、結局、次の空襲で焼失したようである。

大黒坂下 標柱 坂上を左折すると、大黒坂の坂下で、標柱が立っている。写真は大黒坂下から坂上方向を撮ったもので、写真右が七面坂上である。大黒坂は、写真中央奥で左にカーブしてから本格的な上り坂となる(以前の記事参照)。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする