東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

川沿い散歩 夏(2024)

2024年08月31日 | 散策

猛暑がようやくちょっとであるが和らいだ午後遅くいつもの善福寺川散歩へ。
善福寺川夏(2024) 善福寺川夏(2024) 善福寺川夏(2024) 「放水路」小名木川 善福寺川夏(2024)

 

 

 

暑さ尋常ならずといった毎日が続いているため、散歩は、日が暮れてからにしている。じりじりした暑さを感じない分、歩きやすい。それでも、この日、わずかな暑さの隙(すき)を見つけ、陽がまだ残っているが出てきた。

いつもの川沿いの小径を上流側に向かう。樹木からの蝉の鳴き声がいつものごとく騒がしく夏気分をいやでもかき立てる。陽がだいぶ傾いてきたので、歩く方向によってはちょっとまぶしい。

川はいつものように穏やかに流れているが、これが、最近のように、大雨が降ると、いっきょに川に流れ込むためか増水し、その雰囲気が激変する。雨がかなり強く降るとき、気象レーダーによる降水量と川のライブ画像や水位情報をネットで見ることがある。どんどん増水し水位が急激に高くなるが、雨雲が移動するためか、警戒水位に達する前に、しだいに弱くなって、降水量が減少し水位も漸次低下する。しかし、雨雲が停滞したり次々と移ってくるようになると、このパターンから外れることがありそうで要注意。

善福寺川夏(2024) 善福寺川夏(2024) 善福寺川夏(2024) 善福寺川夏(2024) 善福寺川夏(2024)

 

 

 

 

やがて環八道路が見えてくる。いつもはここから引き返すのであるが、今回は、さらに上流へ向かうことにする。

歩道橋で環八を越えて進む。どこまで行こうかと考えると、そんなに遠くまでは行けない、以前のようにさらに行ってみよう、などと二律背反的心情に陥ってしまう。中央線の高架下までなどと妥協する。

それでも、中央線の電車が通り過ぎるのを見ると、後の心情が勝り、さらに上流に行くことにする。

川の縁のフェンスと住宅の間の狭い小径であるが、歩きやすく、よい散歩道になっている。しばらく歩くと、進行方向に陽がかなり落ち、いっそうまぶしくなるので、対岸に移ったりして調整する。

この辺は、たまに来るだけで、頻繁ではないので、少々目新しく、しかも猛暑の夏の日暮れ前といった経験のない時間でちょっと新鮮な気分。

橋のたもとを何回か通過すると、関根橋に至る(現代地図)。今日はここまでにする。ここを左折しちょっと歩くと西荻窪駅。帰りは楽な気分で。

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桃園川支流跡遡行

2023年03月30日 | 散策

桃園川支流緑道 前回(桃園川支流緑道(1)桃園川支流緑道(2))桃園川支流緑道を上流側に歩いてから引き返したが、中杉通りのちょっと先までであった(左の写真)。

そのあと、ちょっと春めいた晴れた日、中央線近くから前回の中杉通り近くまで桃園川支流跡を遡行し、さらに、もっと春めいた日に往復した。

以下の地図は、出典は前回と同じで、桃園川本流よりも北側の支流を示すが、松山通り付近から中央線付近までの範囲である。

昭和12年杉並区地図 昭和10年頃杉並区地図 昭和24年杉並区地図 1962年杉並区地図 桃園川緑道地図

 

 

 


(1)一枚目:昭和12年(1937)の杉並区地図

(2)二枚目:昭和10年(1935)頃の杉並区地図
(3)三枚目:昭和24年(1949)の杉並区地図
(4)四枚目:1962年(昭和37年)の杉並区地図
(5)五枚目:桃園川緑道脇に設置の緑道地図

地図(1)(2)では、桃園川本流の北側を流れる支流は、松山通り、その東に並行する現在の中杉通りを超えてほぼ東向きに流れてから、南東に向きを変えて本流よりも東側をしばらく流れ、中央線に斜めに近づいている。地図(4)もほぼ同じ。

地図(3)では支流が松山通りにとつぜんあらわれて東に流れているが、ちょっとすると、急に向きを南に変え、本流に接続している。この水路跡は、前回紹介した。

地図(5)で阿佐谷中央公園のすぐ東に水路があるが、これが地図(1)(2)(4)の支流で、今回歩いた支流跡である。

桃園川緑道旧西原橋付近 桃園川支流跡入口手前 桃園川支流跡(1) 桃園川支流跡(2) 桃園川支流跡(3)

 

 

 


今回の桃園川支流跡遡行の出発地点は、桃園川緑道の出発ゲートのちょっと下流の旧西原橋跡付近、亀の親子の置物のあるところ(現代地図)。ここから北側へ出発する(一枚目)。右手が杉並学院高校で、地図(1)に高等家政女学校、地図(2)に奥田裁縫女学校とあるところである。

中央線のガード下を通り抜けてすぐ左折し、道なりに歩き、大きく右に曲がると(二枚目)、左手に車止めのある小路が見えてくる(三枚目)。

ガード下を抜けてからここまでの道は、地図(4)(5)に示される道筋と合っているが、地図(1)も大きく曲がる道筋を示している。地図(1)(2)(4)の桃園川支流はこの辺で途切れているが、地図(5)のようにこの道に沿って流れていたようである。今回歩いたら幅広でちょっと違和感を感じたが、かつての水路の跡のせいかもなどと思った。

三枚目の小路に入り本格的に支流跡遡行が始まる。桃園川緑道と同程度の幅の道で緩やかにカーブしている。(以下、進行方向順に写真を並べる。)

一般道と交差し車止めのある交差点を通過しながら進む(四、五枚目)。

桃園川支流跡(4) 桃園川支流跡(5) 桃園川支流跡(6) 桃園川支流跡(7) 桃園川支流跡(8)

 

 

 


ちょっと歩くと、狭くなってから、前回の小路のように幅狭のコンクリート板を敷き詰めた小路があらわれる(一~四枚目)。暗渠化のため水路跡が塞がれて歩行可能となっている。

このあたりから、支流跡は、狭くなったり、急なカーブがあったりして変化に富み、曲がりのある隘路が続くと、都会の住宅街のラビリンスに迷い込んだようなちょっと不思議な感覚に陥る。

すると、突然、広めのところに出るが、一般道となっているようである(五枚目)。でも、すぐ向こうに車止めのある小路が見えてくる(下一枚目)。

桃園川支流跡(9) 桃園川支流跡(10) 桃園川支流跡(11) 桃園川支流跡(12) 桃園川支流跡(13)

 

 

 


小路を進むと、一般道の手前に車止めが見えてくるが(二枚目)、この右手が銭湯「玉の湯」である。一般道に出ると、右斜めさきに支流跡が続いている。

さらに進むと、見たことのない車止めが立っている(四、五枚目)。上部が細長くくり貫ぬかれた柱状のもので、くり貫かれたところの上が球状になっていて面白い形である。

狭いがほぼまっすぐな小路が続き、遮るものが少ないせいか明るい。

桃園川支流跡(14) 桃園川支流跡(15) 桃園川支流跡(16) 桃園川支流跡(17) 桃園川支流跡(18)

 

 

 


次の一般道のところにも先ほどの柱状の車止めが立っている(一枚目)。朝鮮初級学校の校庭を左に見て通りすぎると、左側に阿佐谷中央公園が見えてくるが、このあたりは緩やかなカーブである(二枚目)。

公園北側(三枚目)から出て、次の小路は狭くなってちょっと曲がっている(四枚目)。その先は、例の幅狭のコンクリート板を敷き詰めた小路である(五枚目)。

桃園川支流跡(19) 桃園川支流跡(20) 桃園川支流跡(21) 桃園川支流跡(22) 桃園川支流跡(23)

 

 

 


暗渠化された小路(上五枚目)を出ると、一般道であるが、変則的なT字路で、交差部がちょっと幅広である(現代地図)。

小路を右折し、すぐ左折する一般道を西へ進めば、目的地の中杉通り手前の車止めのある小路に至る。最初はこの一般道が支流跡と思っていたが、小路を右折したそのちょっと先の左手に、車止めがありしかも例の幅狭のコンクリート板を敷き詰めた小路が西に延びていることに気がついた(一~三枚目)。

このまっすぐに延びた小路を進み、突き当たるので、左に直角に曲がると、車止めがあり(四枚目)、先ほどの一般道に合流する。その一般道を左折し、すぐふり返って撮ったのが五枚目である。この写真の右手にある車止めがさきほどの車止めで(四枚目)、中ほど奥の車止めの先が中杉通り手前の小路(前回の支流跡)である。

この前回の支流跡側から見ると、先ほどの小路は急に左に北側へ折れて、すぐ右に東へ折れてから、まっすぐに延びていて、幅狭のコンクリート板で暗渠化されている。このため、この小路が支流跡で、中杉通りから東に延びる支流と接続していたと思われるのだが、地図(1)~(3)を見てもこの支流は確認できない。

ただ、1962年の地図(4)を見ると、桃園川支流が、中杉通り付近の東側で、わずかに北側に突き出てからそのまま東に向かっているところがあるが、この跡が上記の小路(二~四枚目)かもしれない。

桃園川支流跡(24) 桃園川支流跡(25) 桃園川支流跡(26) この後、支流跡を中杉通りの歩道まで歩いたが、その途中、左手に車止めがあり、南へ小路がちょっと延びている。この小路の向こう側にも車止めがあることに気がついた。一枚目は、この小路を向こう側の車止めから支流跡側を撮ったものである。ここは、昭和24年(1949)の地図(3)にある急に南下している支流の跡かもしれない。

そう思って、南側に歩き、前回の小路まで行き、北側に歩いてみると、すぐに一般道に出るが、二枚目はその一般道から小路を撮ったもの、三枚目はその先の小路で、奥側の車止めから先が前回歩いた小路である。

一枚目の小路と二、三枚目の小路とはかつては連続していた支流跡であろう(その間は消滅しているが)。

ところで、地図(3)の南下している支流は、一枚目の小路と二枚目の小路と方向(南向き)が合っているが、二枚目から三枚目にかけて小路が東向きにカーブし合っていない。前回歩いた小路もそのまま下流側に東へ延びてから次第に南へ延びている(現代地図)。地図(3)が不正確なため、その後の改修のためなどが考えられるが、この理由はちょっとわからない。

今回の桃園川支流跡遡行は、緑道ふうにはなっていないが狭く急に曲がる小路があったりして、はなはだ興味深い路地散策であった。

車止めが設置された支流跡と一般道とが接続する部分は、今回の歩き始めの中央線ガード下を抜けた先や後半の小路を出た先など、変に曲がったり幅広になったりして普通の道路とはちょっと違っているが、かつて水路のあった名残りかもしれないと想像するのも楽しい。

この支流跡は、前回の桃園川支流緑道の上流側終点まで通して歩くのもよいかもしれない。

出発地点から中杉通りの歩道まで15分程度であった。

参考文献
「杉並の川と橋」杉並区立郷土博物館研究紀要別冊 平成21年3月発行
最新杉並区明細地図 昭和12年 東京日日新聞発行
杉並区全図 昭和10年頃 内山模型製図社
改訂版東京都区分図杉並詳細図 昭和24年 日新出版 昭和27年9月発行
杉並区図1962年杉並区役所
本田創 編著「失われた川を歩く 東京「暗渠」散歩」(実業之日本社)

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桃園川支流緑道(2)

2023年02月21日 | 散策

前回(桃園川支流緑道(1))の桃園川支流緑道を出発地点まで戻り、そこから下流側にちょっと歩き、その後、別の水路跡の小路を歩いたが、意外なことに気づいた。

以下の地図は、桃園川の上流域を示し、前回と同じ。

昭和12年杉並区地図 昭和10年頃杉並区地図 昭和24年杉並区地図 1962年杉並区地図 桃園川緑道地図





(1)一枚目:昭和12年(1937)の杉並区地図
(2)二枚目:昭和10年(1935)頃の杉並区地図
(3)三枚目:昭和24年(1949)の杉並区地図
(4)四枚目:1962年(昭和37年)の杉並区地図
(5)五枚目:桃園川緑道脇に設置の緑道地図

地図(1)(2)(4)(5)ではいずれも、前回の支流は、松山通り、その東に並行する現在の中杉通りの付近でほぼ東向きに流れている。

地図(3)では松山通りから同じように東に流れているが、ちょっとすると、急に向きを南に変え、本流に接続している。この水路は他の地図(1)(2)(4)(5)には見えない。

桃園川支流緑道(16)桃園川支流緑道(17) 桃園川支流緑道(18) 桃園川支流緑道(19)桃園川支流緑道(20)





前回の桃園川支流緑道の歩き始めの松山通りまで戻り(現代地図)、その出発点を背にして東側を撮ったのが一枚目で、小路がまっすぐに中杉通りに向けて延びているが、車止めはない。

中杉通りの歩道に出ると、道路の向こう側に車止めのある小路が見える(二枚目)。通りを横断し、その小路の入口まで行き、そこからと中程から撮ったのが三、四枚目で、東へとまっすぐに延びている。直進すると、車止めがある(五枚目)。ここまでは、前回の支流と同じ流れであったと推測される。

その向こうにさらに支流跡が続いているように見えたが、今回はここで終わることにした。

桃園川支流跡(21) 桃園川支流跡(22) 桃園川支流跡(23) 桃園川支流跡(24) 桃園川支流跡(25)





小路の車止めから出て右折し、帰りに向かったが、ちょっと歩くと、車止めのある小路が見えた(一枚目)ので、引き込まれるようにしてここに入って歩いた。

すると、小路には幅狭のコンクリート板が隙間なく敷き詰められている。これがこの小路の終点までずっと続いている(二枚目~下五枚目)が、水路を暗渠化するために塞いだのであろう。

桃園川支流跡(26) 桃園川支流跡(27) 桃園川支流跡(28) 桃園川支流跡(29) 桃園川支流跡(30)





小路は、ちょっとうねりながら続き、ときおり、一般道を横切るが、背の低いコンクリート製やピカピカの金属製逆U字形の車止めがあったりして変化があっておもしろい。

小路を歩いているうちに、ちょっと記憶がよみがえり、ここはいつか反対方向に歩いたことがあるような気がしてきた。そうだとすると、あの道に出るはずである。疲れたための既視感ではなく、たしかにそうである。

そう思いながら歩き、やがて小路の終点に近づき、五枚目のように、その先が見えてくると、たしかに前回桃園川緑道源流遡行のとき通った道である。緑道ゲートから出発しケヤキ公園わきからずっと歩いてきて、大きく左に曲がるところである(この写真)。

ふたたび昭和24年(1949)の地図(3)を見ると、松山通り付近から水路が現在の中杉通りを横断してちょっと東に延びたところで急に南下しているが、この南向きの水路がこの小路とちょうど合う。この小路の終点(五枚目)で本流に接続していた。ふと反対側から入り込んだ小路で予期せぬ意外なことに気がついたが、さまよい歩きの醍醐味というべきか。

それでも疑問なのは、他の地図、特に1962年(昭和37年)の地図(4)に、この南向きの水路がないことである。この南向きの水路の他に地図(4)のように、南東へ中央線に向けて流れ地図(1)(2)にもある本来の支流があったと思われる。

ケヤキ公園まで行き、そこから高架下を阿佐谷駅まで。

参考文献
「杉並の川と橋」杉並区立郷土博物館研究紀要別冊 平成21年3月発行
最新杉並区明細地図 昭和12年 東京日日新聞発行
杉並区全図 昭和10年頃 内山模型製図社
改訂版東京都区分図杉並詳細図 昭和24年 日新出版 昭和27年9月発行
杉並区図1962年杉並区役所
本田創 編著「失われた川を歩く 東京「暗渠」散歩」(実業之日本社)

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桃園川支流緑道(1)

2023年02月20日 | 散策

今年に入ってから、かつての桃園川の源流に向けて遡り、次の2つの記事にした。

桃園川緑道源流遡行(1)
桃園川緑道源流遡行(2)

そのあと、雲一つなく晴れわたっているがかなり寒い日、桃園川支流緑道を歩き、その帰り、水路跡と思われる小路を歩いた。

以下の地図は、天沼弁天池を水源とする桃園川の上流域を示し、出典は前回と同じだが、トリミング範囲が異なる。

昭和12年杉並区地図 昭和10年頃杉並区地図 昭和24年杉並区地図 1962年杉並区地図 桃園川緑道地図

 

 

 


(1)一枚目:昭和12年(1937)の杉並区地図
(2)二枚目:昭和10年(1935)頃の杉並区地図
(3)三枚目:昭和24年(1949)の杉並区地図
(4)四枚目:1962年(昭和37年)の杉並区地図
(5)五枚目:桃園川緑道脇に設置の緑道地図

地図(1)の中央左下、地図(2)の左上に日本大学幼稚園があるが、このちょっと右(東)あたりで、左(西)から流れてきた桃園川本流から支流が北へ分流している。桃園川緑道源流遡行(1)で支流1とした水路である。この支流は北東へ東へと流れ、松山通り(現在の中杉通りと西側で並行する)を本流の北側で横断してからも東へ向かっている。

地図(3)には松山通りから西へ延びる水路は示されていない。地図(4)に松山通りの本流の北に西へ延びる水路があるが、途中までで、本流と接続していない。緑道地図(5)には地図(1)(2)と同じく本流と支流があるが、その分岐点が地図(1)(2)よりも西側である。

今回歩いて、現在の支流緑道は地図(4)に示す水路と近いような気がした。

桃園川支流緑道遡行(1) 桃園川支流緑道遡行(2) 桃園川支流緑道遡行(3) 桃園川支流緑道遡行(4) 桃園川支流緑道遡行(5)





JR阿佐谷駅の北口から出て、中杉通りの歩道を北に向けて歩きはじめる。ちょっと緩やかな上り坂であるが、まもなく下りになる。ちょっと下ると、前回の車止めのある小路が見えてくる。このあたりから振り返ると、南側はちょっとした丘のようになっていることがわかる。

中杉通りの歩道から左折しこの小路に入り、直進すると、松山通りで、そこから前回の桃園川緑道が本格的にはじまるが、ここを右折し、松山通りを北へ向かう。ほんのちょっと歩き、煎餅屋の北側脇を左折すると、車止めがあり、緑道がはじまる。その西の上流側に延びる緑道を撮ったのが一枚目である。

この緑道は、地図(4)に示されている支流跡と思われ、地図(1)(2)の支流跡と途中から同じ流れと推測される。

上流側の西に向けて歩くが、大きな曲がりはなく、ほぼまっすぐな緑道になっている。二~五枚目、下の一~五枚目は順に撮ったものである。

桃園川支流緑道遡行(6)桃園川支流緑道遡行(7) 桃園川支流緑道遡行(8) 桃園川支流緑道遡行(9) 桃園川支流緑道遡行(10)





歩いてすぐにわかるが、この緑道には道の中ほどに常緑樹がほぼ一定間隔で植えられている。これがずっと続き、この緑道の特徴になって、緑道らしさをかもし出している。下五枚目のように、ブナ科のマテバシイで、公園などでもよく見る高木の樹木である。

やがて、突き当たりに至り、ここでこの支流緑道は終わる(五枚目)。松山通りの緑道入口から5~6分程度であった。

この支流と思われる地図(4)の水路は、途中で急に曲がり北上し、その先で途切れている。現在の支流緑道の終点は、地図(4)と比べると、その北上する地点と一致せず、そのちょっと東側のようである。

桃園川支流緑道遡行(11) 桃園川支流緑道遡行(12) 桃園川支流緑道遡行(13) 桃園川支流緑道遡行(14) 桃園川支流緑道遡行(15)





緑道の突き当たり手前に小路があったので(一枚目)、ここを通り抜けて北側に出て、左折し、次を左折し、慈恩寺の前をちょっと歩くと、前回の本流緑道に出た。この緑道を上流側に歩き、次の車止めで右折すると広い通りに出る。ちょっと北に歩くと、小さな公園風の一角があり(現代地図)、区画整理記念碑や石塔が並んでいる(二、三枚目)。

四枚目の説明板によると、これらの石塔は、江戸時代の民間信仰による庚申塔、地蔵塔、百番観音供養塔で、桃園川周辺、熊野神社際の路傍にあったが、区画整理の際にここに移転された。二枚目の記念碑は区画整理が完了した昭和13年(1938)に建立された。

この後、本流緑道を上流側に歩き、日本大学附属幼稚園のあたりまで行ったが、地図(1)(2)の本流と支流の分岐点についての痕跡はなにも見つからなかった。ただ、このあたりは本流緑道を中にして両側に一般道があって全体の道幅が広いが、これはその分岐のせいかもしれない(たんなる想像であるが)。

支流緑道に戻り、下流側に引き返した。

参考文献
「杉並の川と橋」杉並区立郷土博物館研究紀要別冊 平成21年3月発行
最新杉並区明細地図 昭和12年 東京日日新聞発行
杉並区全図 昭和10年頃 内山模型製図社
改訂版東京都区分図杉並詳細図 昭和24年 日新出版 昭和27年9月発行
杉並区図1962年杉並区役所
本田創 編著「失われた川を歩く 東京「暗渠」散歩」(実業之日本社)

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桃園川緑道源流遡行(2)

2023年02月01日 | 散策

前回(桃園川緑道源流遡行(1))の桃園川の水源のあった天沼弁天池公園(現代地図)から桃園川緑道に戻り、その上流側の千川用水跡を遡った。

以下の地図は、天沼弁天池の周辺を示すが、前回引用のものである。

昭和12年杉並区部分地図(2) 昭和10年頃杉並区部分地図(2) 昭和24年杉並区地図 1962年杉並区地図 桃園川緑道地図(2)

 

 

 


(1)一枚目:昭和12年(1937)の杉並区地図で水源の天沼弁天池の周辺
(2)二枚目:昭和10年(1935)頃の杉並区地図で水源の天沼弁天池の周辺
(3)三枚目:昭和24年(1949)の杉並区地図
(4)四枚目:1962年(昭和37年)の杉並区地図
(5)五枚目:桃園川緑道脇に設置の緑道地図

地図(1)~(5)のいずれにも荻窪駅近くの青梅街道から北へ東へと続く水路が見えるが、これが千川用水である。地図(5)に青梅街道に沿う水路が千川上水として示されている。

千川上水は、元禄9年(1696)玉川上水境橋から分水された。千川用水は、練馬・杉並の六ヵ村が灌漑用水の不足を補うため宝永4年(1707)に願い出て、千川上水の水を利用できるように練馬関村の出店から青梅街道に沿って南側へ開削された用水路である。この千川用水は、荻窪駅北口の青梅街道の教会通りの入り口西(追分)を境に西を半兵衛堀、東を相沢堀と称した。半兵衛は下井草村の名主、相沢は阿佐ヶ谷村の名主の家柄であった。

半兵衛堀と相沢堀との境である追分から天沼、阿佐ヶ谷の灌漑用水として新しい堀が開削され、天沼弁天池から流れる桃園川に合流した。この追分からの流れも千川用水と呼ばれたが、この千川用水跡が残っており、桃園川緑道に続いている。

桃園川源流遡行(1) 桃園川千川用水跡遡行(2) 桃園川千川用水跡遡行(3) 桃園川千川用水跡遡行(4) 桃園川千川用水跡遡行(5)

 

 

 


前回の天沼弁天社近くの車止めのある小路を通り抜けて(一、二枚目)、桃園川緑道に戻り、右折し、西に向かう。 右の一般道と並行するが(三枚目)、やがて一般道が右折するので、緑道一本になる(四、五枚目)。

このあたりまでは雰囲気が下流の桃園川緑道とほとんど変わりない。

桃園川千川用水跡遡行(6) 桃園川千川用水跡遡行(7) 桃園川千川用水跡遡行(8) 桃園川千川用水跡遡行(9) 桃園川千川用水跡遡行(10)

 

 

 


やがて前方に人通りの多い道が見えてくるが(一枚目)、ここが商店街となっている教会通りで、左折すれば青梅街道、右折すれば東京衛生病院方面である。

教会通りを横切って進むと、車止めのある千川用水跡が続いている(二枚目)。この辺から先は、下流側と同じく車止めを設置し歩行者専用であるので緑道と言ってよいが、ビルに挟まれており、植栽もなく、ちょっと緑道の雰囲気になっていない。

やがて向こうに青梅街道が見えてくる(三枚目)。四枚目の車止めのある青梅街道の歩道が千川用水跡の終点(または始点)である(現代地図)。天沼弁天池公園から近くここまで5分程度であった。(五枚目は歩道から振り返って千川用水跡を撮ったもの。)

昭和10年頃杉並区部分地図(2)

桃園川緑道地図(1)

上四枚目のあたりは、半兵衛堀と相沢堀との境である追分付近と思われ、右側が半兵衛堀方面、左側が相沢堀方面である。

相沢堀の千川用水は、緑道地図(5)のように青梅街道を新宿側へ向かい、阿佐ヶ谷田圃に流れ、後の阿佐谷駅付近へと流れた。

一枚目の地図は、昭和10年(1935)頃の杉並区地図(2)の下流側地図、二枚目の地図は、緑道地図(5)の下流側地図で、桃園川が中央線の北側で阿佐谷駅方面からの流れと合流しているが、この阿佐谷駅方面からの流れが駅南側の青梅街道から流れており、これは上記の相沢堀の千川用水であろう。

今回の千川用水跡遡行は、千川用水跡が桃園川緑道と境目なく連続し、距離も短いので、桃園川緑道源流遡行の続編とした。

千川用水の歴史と地理について下記「杉並の川と橋」が大変参考になった。

参考文献
「杉並の川と橋」杉並区立郷土博物館研究紀要別冊 平成21年3月発行
最新杉並区明細地図 昭和12年 東京日日新聞発行
杉並区全図 昭和10年頃 内山模型製図社
改訂版東京都区分図杉並詳細図 昭和24年 日新出版 昭和27年9月発行
杉並区図1962年杉並区役所
本田創 編著「失われた川を歩く 東京「暗渠」散歩」(実業之日本社)
井伏鱒二「荻窪風土記」(新潮文庫)

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桃園川緑道源流遡行(1)

2023年01月31日 | 散策

年が明けた1月のちょっと曇りの日、桃園川緑道を源流に向けて歩いた。久しぶりの散策記。

かなり前であるが、桃園川緑道を阿佐谷駅近くの高架下の出発ゲートから下流に向けて神田川付近の終点まで何回か歩いた(次の記事)。

桃園川緑道
桃園川緑道2013(9月)

桃園川緑道ゲート 桃園川緑道沿革説明板 今回は、一枚目(2022年12月撮影)のゲートから反対側の上流側へ歩き、途中から緑道を水源まで歩き、さらにちょっと足をのばし千川用水跡を歩いた。

二枚目は、環七道路近く(西側)の桃園川緑道側に立っている沿革説明板で、桃園川と緑道の歴史が要領よくまとめられている。水源は天沼三丁目にかつてあった天沼弁天池である。この天沼弁天池の湧水量がわずかなため旧千川上水を練馬区関町から分水した青梅街道沿いの千川用水から桃園川に流れるようにしたが、これでも田植えのとき流域の馬橋、高円寺、中野周辺で水が不足したので、天保12年(1841)善福寺川から引水する新堀用水がつくられた。

かつての川の流れを知るには緑道になる前(暗渠化前)の地図を見る必要があるが、ちょっと調べると、昭和10年(1935)頃、12年(1937)、24年(1949)、37年(1962)の杉並区地図が比較的よく示していた。

昭和12年杉並区部分地図(2) 昭和12年杉並区部分地図(1) 昭和10年頃杉並区部分地図(2) 昭和10年頃杉並区部分地図(1) 昭和24年杉並区地図

 

 

 

 

(1)一枚目:昭和12年(1937)の杉並区地図で水源の天沼弁天池の周辺
(2)二枚目:一枚目(1)の下流側地図で桃園川が中央線を横切る付近まで
(3)三枚目:昭和10年(1935)頃の杉並区地図で水源の天沼弁天池の周辺
(4)四枚目:三枚目(3)の下流側地図で桃園川が中央線を横切る付近まで
(5)五枚目:昭和24年(1949)の杉並区地図

現在と過去の地図の比較、複数の過去の地図の比較のために、過去から現在まで位置が不変の建造物や神社などを基準にする必要があるが、(1)(3)の上流側では荻窪駅、青梅街道、天沼弁天池、天沼八幡神社、日本大学幼稚園などがある。(2)(4)の下流側では法仙寺、松山通り(現在の中杉通りと西側で並行している)、中央線、阿佐谷駅などがある。

一枚目(1)を見ると、荻窪駅近くの左下の青梅街道からの水路が北へ、東へと流れている。上側に天沼弁天池、八幡神社があるが、天沼弁天池からの水路は見えない。このあたりから桃園川であろうが、そのちょっと下流の幼稚園付近で支流1が分岐し、北へ、東へと流れている。さらに下流側の右上にもう1つの支流2があるが、どちらが本流で支流2なのかすぐにはわからない。

別の三枚目(3)を見ると、荻窪駅近くの青梅街道からの水路、支流1、支流2も一枚目(1)とほぼ同じで、本流と支流2の区別がつかない。

二枚目下流側(2)を見ると、法仙寺の上(北)の松山通りを3本の水路がほぼ同じ間隔で横切ってから、北東に流れ最北点に達すると、南東へと向きを変えている。上(北)から、支流1,本流、支流2とすると、本流は、中央線を斜めに横切って、東へと右端(東)の404と405の間を流れているので、これが桃園川本流である。支流1は、中央線のあたりでその上側近くを流れているようにも見えるが、ちょっと不明。支流2は、天祖神社のあたりで途切れている。

四枚目下流側(4)では、天祖神社のちょっと右(東)で本流と支流2が合流し、そのまま南東に流れ、中央線の北側で阿佐谷駅方面からの流れと合流してから、中央線を斜めに横切っている。

この地図(4)では、本流と支流2がどちらであっても矛盾しないように見えるのがちょっと不思議であるが、上記のように真ん中が本流であろう。支流1は、中央線の北側で途切れている。

五枚目(5)には下流側の上右の水路に「桃園川」とあり、この本流が上流側に中央線を横切る手前で西から北西へ向きを変え、そのまま延びてから、西向きになって、八幡神社、天沼弁天池の下(南)側を荻窪駅近くの青梅街道まで延びている。上記の支流1、2は見えない。

1962年杉並区地図 桃園川緑道地図(2) 桃園川緑道地図(1) 一枚目(6)は、1962年(昭和37年)の杉並区地図で、水路が荻窪駅近くの青梅街道から延び、上記の3つの地図(2)(4)(5)とほぼ同様にして中央線を斜めに横切っている。この地図では、青梅街道からちょっと入ったところで、北側からの流れが合流している。これは位置的には天沼弁天池からの水路で、これよりも古い上記地図(1)(3)(5)には示されていない。

二枚目上流側(7)、三枚目下流側(8)は、JR中央線高架下近くの緑道脇に設置されている緑道地図で、この辺りをかつて流れていた川・水路が詳しい。二枚目(7)では中央線の上側(北)で水源の弁天池から桃園川が南へ流れ、青梅街道沿いの千川用水からの流れと合流し、東向きになり、途中分流したのが上記の支流1であろう。しかし、この緑道地図は、中杉通り(後年できた道路であるが)の西(左)でさらに分流した上記の支流2がなく、三枚目(8)の中杉通りの東(右)に支流が見える。この支流と上記の支流2との関係は不明。

三枚目(8)は、とくにたくさんの水路を示しているが、過去に存在した水路をまとめたのか、かなり複雑である。それだけ歴史的にいろんな水路が必要に応じて作られたのであろう。

これらの水路の跡は、桃園川緑道やその北側のもう1つの緑道や所々に存在する車止めのある小路などに残っていて、これらを歩くと、かつて田畑を流れていた水路を想起でき、その開削工事を担った当時の農民の辛苦に思いをはせることができる。

桃園川源流遡行(1) 桃園川源流遡行(2) 桃園川源流遡行(3) 桃園川源流遡行(4) 桃園川源流遡行(5)

 

 

 


桃園川緑道は、高円寺や中野やその途中の公園などに行くのに利用するが、上流側には通しては歩いていない。上流側は、緑道になっていない(一般道)が、途中から水源まで緑道になっている。

下流側からアクセスし、一枚目のJR中央線の高架下近くの合唱するカエルの置物のあるゲートを背にして、いまはなき幻の源流・水源に向けて出発。

高架下を通り抜けると、右側が新装されたケヤキ公園で(二枚目)、この突き当たり左側は阿佐谷駅方面で、ここを地図(4)の阿佐谷駅方面からの水路が流れていた。突き当たり右側に手前と向こう側に車止めのある道が見えてくる(三枚目)。ここを通り抜け、その先に進むと、ちょっと曲がりうねっている(四枚目)。なにやらそのむかしの水路を想起させるようでうれしい。

途中の四差路で左折し、河北総合病院近くにある阿佐谷弁天社に寄る(五枚目)。この弁天社は地図(4)に見える。ここにかつて湧水池(弁天池)があったが、いまはない。弁天と水(池など)は関係が深い。

桃園川源流遡行(6)

桃園川源流遡行(7) 桃園川源流遡行(8) 桃園川源流遡行(9) 桃園川源流遡行(10)

 

 

 


元に戻り、さらに進むと、左に大きく曲がるところがあるが、まっすぐ先に車止めのある小路が見える(一枚目)。ここもかつての水路の跡で、昭和24年地図(5)に見える。

二枚目は、左折したちょっと先であるが、この辺もちょっとうねっている。 道なりに進むと、やがて中杉通りに至るが、この大きな道路でこれまでの道が分断される(現代地図)。ここから道路の向こう側を撮ったのが三枚目で、車止めのある小路が見える。

上記の各地図と対比すると、ケヤキ公園の側からここまでの一般道は、緑道でなくともかつての桃園川の川筋とかなりの部分で一致しているように思われる。

中杉通りを横断し、先ほど見えた車止めのある小路を撮ったのが四枚目、さらにその先を撮ったのが五枚目で、緑道風になっている。ここを直進する。

桃園川源流遡行(11) 桃園川源流遡行(12) 桃園川源流遡行(13) 桃園川源流遡行14) 桃園川源流遡行(15)

 

 

 


やがて阿佐谷駅北口近くから延びる松山通りが見えてくるが、その先に、背の低い石柱の車止めのある緑道が延びている(一枚目)。ここから緑道が本格的に始まる。二枚目はそのちょっと先で撮ったもので、同じような石柱が立っている。

この先を順に撮ったのが三~五枚目であるが、ほぼまっすぐに西へ延びている。

ところで、緑道とはなにを指すのか、いまさらという感じもするが、ちょっと調べたら次の説明があった(不動産用語集)。

『緑道【りょくどう】 車の通行を禁じ、歩行者または自転車専用とした空間を、一般的に緑道といいます。通常は、建築基準法上の道路ではなく、公園の一種です。その名の通り、樹木や季節の草花が植樹されたり、オブジェやベンチなどを設け、憩いの空間が演出されています。緑道の形状は様々で、車道脇の歩道としての機能を併せ持つもの、大規模タウンなどで公園や学校、駅などを結ぶもの、廃線跡や廃河川跡を再利用したもの、河川敷の長大なものなどがあります。』

この説明によれば、これまでの緑道歩きでイメージしていたものとほとんど変わらないが、公園の一種とのことで、なるほどと納得。その廃線跡というのにちょっと興味をそそられる。

ここは、緑道と喧伝されていないようであるが、車止めを設置し、歩行者専用となっているので、上記説明から緑道といってよい。住宅側の樹木や植え込みもあって緑が多くなっている。

桃園川源流遡行(16) 桃園川源流遡行(17) 桃園川源流遡行(18) 桃園川源流遡行(19) 桃園川源流遡行(20)

 

 

 


これまで緑道一本であったが、やがて一枚目のように、緑道が片側で一般道と並行するようになる。さらにその先で二枚目のように緑道が真ん中を通り両側に一般道ができていて、三枚目は、その途中を撮ったもので、緑道を含めた全体の道幅が広くなっている(現代地図)。

一般道と並行するところは、植え込みが多くなって緑道の雰囲気がよくでている。

真ん中の緑道が終わり、ふたたび四枚目のように緑道が片側で一般道と並行するが、この近くに日本大学幼稚園があるので、地図(1)(3)の本流と支流1との分岐点がこの近辺にあったと推定される。

やがてそれも終わり、五枚目のように、緑道一本に戻る。このあたりは、緑道の形態がかなり変化しているが、この変化がおもしろい。

桃園川源流遡行(21)

桃園川源流遡行(22) 桃園川源流遡行(23) 桃園川源流遡行(24) 桃園川源流遡行(25)

 

 

 

 

しばらく歩くと(一枚目)、二枚目のように、やがて青梅街道から延びる天沼八幡通りが見えるが、ここを右折すればちょっとで天沼八幡神社である。

緑道は、この通りを過ぎると、緑道と一般道がまた並行する。緑道をちょっと歩くと、三枚目のように、左側に天沼もえぎ公園の出入口があるが、その反対側に車止めのある小路が見える。ここが、上記の地図(6)(7)にある天沼弁天池からの流れが千川用水と合流する地点と推定される。地図(7)のように厳密にはこの小路を含めこの地点から下流側が桃園川であろう。

この小路の入り口を撮ったのが四枚目で、その先で撮ったのが五枚目で、正面上側に天沼弁天池公園内の樹木が見える。この小路は真っ直ぐでかなり短い。

桃園川源流遡行(26)

桃園川源流遡行(29)

桃園川源流遡行(27) 桃園川源流遡行(28) 天沼八幡神社

 

 

 


小路を通り抜けると、天沼弁天池公園であるが、正面公園内は工事中である。左折しちょっとすると、道そばに天沼弁天社の祠がある(一枚目)。かつて天沼弁天池に祭られていた。

二枚目は、天沼弁天池公園の門構えの出入口があるあたり(現代地図)、三、四枚目は、公園内を撮ったもので、ここに桃園川の源流である天沼弁天池があった。四枚目に写っている池は人工池でかつての弁天池ではない。

JR高架下のカエル合唱隊の置物のあるゲートから桃園川源流まで35分程度で意外と短かった。

五枚目(2022年12月撮影)は公園近くの天沼八幡神社であるが、昭和2年(1927)からこの辺に住んだ井伏鱒二(1898~1993)は「荻窪風土記」に次のようなことを書いている。

「荻窪の天沼八幡様前に、長谷川弥次郎という鳶(とび)の長老がいる。この人は荻窪の土地っ子で、敗戦の年まで天沼の地主宇田川さんの小作であったという。私は最近この人と知りあいになった。まだ深い附合はないが、噂に聞く通り正直一途の老人であるようだ。」

「弥次郎さんは昭和初期の頃まで、宇田川の荻窪田圃で稲をつくり、天沼の畑で大根野菜をつくっていた。稲は陸稲もつくり、後作に麦をつくったから忙しかった。大根野菜を出荷するときには、その前日、天沼八幡様前の小川(灌漑用の千川用水)で洗い、朝荷と言って夕方から積荷に取りかかり、真夜中に東京の朝市場へ向けて出かけて行く。」

その天沼八幡様前の小川は桃園川であるが、千川用水としている。水量としては青梅街道からの千川用水の方が天沼弁天池よりも多かったと思われ、千川用水の方が通りやすかったのだろう。このためか、桃園川全体を千川用水と呼ぶことがあった。これが上記の地図(1)(3)(5)で天沼弁天池からの水路を示していない理由だったかもしれない。

井伏は弁天池について「天沼八幡様の鳥居のわきにある弁天池のまわりを歩きまわった。一筋のきれいな水の用水川が流れ、それとは別に、どこからともなく湧き出る水で瓢箪池が出来ていた。こういう湧水地は、武蔵野のこの辺の至るところにある・・・」と書いているが、池がひょうたん形状であったことがわかる。その一筋のきれいな水の用水川が上記の小路を流れていたのだろう。
(続く)

参考文献
「杉並の川と橋」杉並区立郷土博物館研究紀要別冊 平成21年3月発行
最新杉並区明細地図 昭和12年 東京日日新聞発行
杉並区全図 昭和10年頃 内山模型製図社
改訂版東京都区分図杉並詳細図 昭和24年 日新出版 昭和27年9月発行
杉並区図1962年杉並区役所
本田創 編著「失われた川を歩く 東京「暗渠」散歩」(実業之日本社)
井伏鱒二「荻窪風土記」(新潮文庫)

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善福寺川~善福寺池~井草川緑道(2021)

2021年02月04日 | 散策

前回に続いて近くだが長めの散歩に出かけた。善福寺川を川沿いに遡上し善福寺池に至り、そこから旧井草川の水源近くまで行き、井草川緑道を妙正寺池まで歩き、荻窪経由で善福寺川にもどるコースである。

善福寺川 荻外荘 善福寺川 善福寺川 善福寺川の西田端橋近くまで近道し、上流へ歩くとまもなく松渓橋(一枚目の写真)(現代地図)。

ここを斜め右折し寄り道をする。ちょっと歩き突き当たりを左折していくと右手に公園が見えてくる。広い芝生の広場があるが、ここが数年前にできた荻外荘公園(二枚目の写真)(現代地図)。旧近衛文麿邸跡で、善福寺川に近く、屋敷は高台にあったが、庭が川側の低地にあったようである。将来、屋敷(一部)の方も復元され公開されるらしい。近衛文麿(1891~1945)は、戦前の政治家で、終戦の年12月この屋敷で服毒自殺した。

ここから春日橋に出て川にもどる。遊歩道はずっと住宅やビルに沿って続いている。川の縁に沿ったフェンスと住宅・ビルとの間にできており、ちょっと広いところもあるが狭いところも多い。川縁にできたわずかな空間を貴重なものといとおしみながらとぼとぼと歩く。

しばらく歩くと、環状8号線で遮断されるので(現代地図)、歩道橋を渡る(三枚目の写真)。

善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺川 環八を越えてからしばらく歩くと、JR中央線・総武線の高架下を通り過ぎる(現代地図)。

電車の音がしたので振り返って撮ったのが上四枚目の写真。よく経験することだが、川沿いからは高架を走る電車がよく見えるのに、その電車に乗って川を見ようとしても、一瞬で通過してしまい、かなり注意しないと見過ごしてしまう。都市を流れる中小河川が住宅・ビル街の中に埋没していることを実感する瞬間である。

さらにしばらく歩くと、関根橋に至る(一枚目の写真)(現代地図)。ここを左折していけば、緩やかな坂を上ってしばらく歩くと西荻窪駅である。

さらに歩くと原寺分橋のちょっと手前に湧水があるが(現代地図)、よく見ると水が湧いていない(二枚目の写真)。以前(10年ほど前)は湧いていたのに(以前の記事)、最近は枯渇したのか湧いていないことが多い。

原寺分橋を通っている女子大通りの左側(西)を見ると、地蔵坂の緩やかな上りを望むことができる(三枚目の写真)。

善福寺川 善福寺川 善福寺池 善福寺池 原寺分橋からちょっと歩くと、荻窪中学校が近くにある耕整橋であるが(上四枚目の写真)、ここから次の寺分橋まで川沿いの遊歩道が両側ともに途切れている。この間に井荻小学校の敷地があるためらしく、学校内には専用橋が架かっている。

ここを右折、左折、左折して迂回すると、寺分橋で、川沿いの遊歩道が再開する。この橋名は、先ほどの地蔵坂の別称である寺分坂に由来する。この橋から上流側を撮ったのが一枚目の写真。

さらにしばらく歩き、左側に大きく曲がっていくと、最上流(川の始点)にある美濃山橋(現代地図)が見えてくる(二枚目の写真)。この橋でようやく街中の川沿い散歩が終わる。

橋を越えていくと善福寺池の下の池で(三、四枚目の写真)、ここまで来ると、蘆の茂った池とその周りの郊外を感じさせる風景をながめながらちょっとゆったりとした散策気分になる。

善福寺池 善福寺池 善福寺池 善福寺池 下の池の周りを歩く。蘆の群落のため池が狭く見えるが、この感じも野趣あふれてなかなかよい。池の縁を辿ると、青空が水面にきれいに映っている。それを撮ったのが一枚目の写真。半周ほどしてから公園を通って上の池に向かうが、その途中で撮ったのが二枚目の写真。

二つの池はちょっと離れている。信号のあるバス通りを横断すると、上の池である(現代地図)。こちらの方が下の池よりも広く、蘆の群落もなく、見晴もよい(三、四枚目、下一枚目の写真)。池周囲の遊歩道を左側から時計回りに歩くが、なぜか、ここに来るといつもそうである。

善福寺池 切通公園 井草川緑道 井草川緑道 池をぐるりと一周し、上の池近くのバス通りにもどる。

ここを東に歩き、しばらくすると、青梅街道であるが(現代地図)、この交差点からいままで歩いてきた通りが東向きに早稲田通りになる。この通りに入って直ぐに左折しちょっと歩くと切通し公園がある(二枚目の写真)(現代地図)。この公園付近が旧井草川の水源とされている。

公園を出ると、杉並工業高校の裏手であるが、ぐるりと回って表側に行くと、その向かいに三谷公園がある(現代地図)。この公園の左手から井草川緑道が始まる(三枚目の写真)。

井草川緑道は、東に延びているが、途中北へ、南へと曲がりながら妙正寺池まで続いている(四枚目の写真)(現代地図)。

井草川緑道 井草川緑道 井草川緑道 井草川緑道 住宅街の中を歩くが、日が傾きかけてきたため、西日を背に受け、日陰のところはちょっと薄暗くなってしまう(一~四枚目、下一枚目の写真)。

この緑道はよく整備されていて歩きやすいが、道路や線路によりたびたび分断される(現代地図)。ちょっと歩くと、車止めが見えてくる。通して歩く者にとっては、ちょっとペースが乱される。

緑道を歩いただけではなかなか想像しにくいが、そのむかしは田園地帯を流れていた川で、その後の市街化にともない暗渠化されたその地上の痕跡が緑道である。頻繁な分断は、住宅街にできたたくさんの道路のため。それでも緑道として残っているだけでもよしとすべきだろう。かつて田園地帯を流れていた川を少しでも想起できるのは、この緑道だけである。そんな川を現実に見たいと思えば、市街化されていない郊外に行くしかない(たとえば、こんな所)。

井草川緑道 妙正寺池 妙正寺池 善福寺川 やがて妙正寺公園が見えてくる。ここで緑道は終わりだが、途中分岐するコース(案内板)があった(現代地図)。

公園の中に入ると妙正寺池がある(二、三枚目の写真)(現代地図)。池そばのベンチで一休み。

今回の緑道は10年以上前に歩いた記憶がある(以前の記事)が、そのときはこの池からの出発で、逆のコースであった。

池から荻窪駅を目指し、青梅街道、中央線・総武線を横断し、駅南口側からふたたび善福寺川に出ると、かなり日も落ちてきた。しばらく歩くと先ほどの松渓橋が見えてくる(四枚目の写真)。

ここまで要した時間は、3時間30分(途中2回のお茶休憩を含む)。

参考文献
善福寺川の橋 一覧(http://www.kanda-gawa.com/guide/bridge/zen.html)

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上野公園~旧岩崎邸庭園

2017年10月18日 | 散策

今回は、上野公園から弁天池の辺りを巡り、無縁坂下から旧岩崎邸庭園へ行った。

西郷隆盛像 清水観音堂 清水観音堂の階段 清水観音堂




午前銀座線末広町駅下車。

御徒町駅近くで昼食をとってから、アメ横をぶらぶらし、上野公園へ。階段を上ると、上野台地の南端で、西郷隆盛像が立っている。はじめてではないが、なんかしばらくぶりのような感じがする。それで写真を一枚。

晴天で、直射日光のところはかなり暑いので、木陰を選んで歩くと、まもなく、清水観音堂(現代地図)。ちょうど台地の縁に建っているので、下からだと見上げるようになる。寛永8年(1631)に天台宗東叡山寛永寺の開山の天海により建立されたとのことで、その舞台は京都の清水寺を模したものらしい。

ここから弁天池に行く。湖畔の端で木陰に座っていると、暑くなくちょうどよい感じ。ひたすら歩く街歩きもよいが、ゆっくりして風景を眺めるのもよい。

弁天池 弁天池 無縁坂下 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))




池の南西近くにある旧岩崎邸庭園に行くが、途中、無縁坂下を通る(現代地図)。以前、この坂に来たとき(以前の記事)、坂左側(南)の石垣とその上に積まれた煉瓦とからなる塀が印象に残っているが、この塀の向こうが旧岩崎邸庭園である。

無縁坂は、森鴎外の「」の主人公岡田の散歩道であったことから有名になったという。この作品は、主人公が医学生で、鴎外もそうだったことから、私小説風に読むこともできるかもしれないが、そうではなく、私小説から離れてその面白さを感じさせる小説のようにおもえる。

四枚目は、小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図で、湯島天神わきの切通坂の北側にある榊原式部大輔の長い屋敷に沿って東西に延びる道が無縁坂で、この榊原邸やその南側が明治になってから岩崎邸となった。

昭和東京地図(昭和16年) 旧岩崎邸庭園 旧岩崎邸庭園 旧岩崎邸庭園




無縁坂下を右に見て進むと、まもなく庭園入口である。無縁坂方面に戻るようにして坂道を上ると、岩崎邸の洋館正面が見えてくる。ここは明治11年(1878)に三菱財閥初代の岩崎弥太郎が土地を購入し、この建物は三代目の久弥によりジョサイア・コンドルの設計で明治29年(1896)に建てられた。

敗戦後の昭和20年(1945)GHQ・G2(参謀第二部)により接収され、G2配下の特務機関(キャノン機関)がここを本部として日本で諜報活動や破壊活動を行ったことは有名である。昭和28年(1953)に返還された。

一枚目は、この付近の昭和地図(昭和16年)であるが、これから、北側の無縁坂から南側の切通坂まで敷地が広がっていたことがわかり、いまよりもかなり広かった。

旧岩崎邸庭園から出て千代田線湯島駅へ。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
柴田哲孝「下山事件 暗殺者の夏」(祥伝社文庫)

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青山学院わきの通り

2017年04月09日 | 散策

猿楽橋 八幡坂下 八幡坂上六本木通り 八幡坂上六本木通り 青山学院わきの通り




前回の天狗坂上を直進し八幡通りを左折する(現代地図)。まもなく猿楽橋で下をJR山手線が通っている。前回、この下を山手線に沿って恵比寿方面へ向かい内記坂夕やけ坂を巡った。

さらに進むとちょっと下りになって、明治通りの並木橋交差点にいたるが、向こうに八幡坂の坂下が見える。

明治通りを横断し八幡坂を上る。坂上は神社前を通り過ぎた先で六本木通りに接続するが(現代地図)、その先は、六本木通りを越えて、青山学院わきを青山通り(246号線)へと延びている(三、五枚目の写真)。

東都青山絵図(安政四年(1857)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843))

一枚目の尾張屋清七板の東都青山絵図(安政四年(1857))を見ると、金王八幡宮前の八幡坂の道筋が渋谷川の谷から上り、坂上で北西へとカーブしながら方向を変え、仙石屋敷と松平屋敷の間を延びて、宮益坂上から延びる道につながっている。

この八幡坂上から延びる道筋は、そのカーブの様子から現在の道と同じであることがわかる(現代地図)。二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))も近江屋板も同じ。 

青山学院わきの通り 青山学院わきの通り 青山学院わきの通り 青山学院わきの通り 青山学院わきの通り




六本木通りを横断し、青山学院の塀に沿った歩道を北へ歩く。左に緩やかに大きくカーブし二、三箇所でちょっとかくっとしているが全体的に弧状になっている。

戦前(昭和16年(1941))の昭和地図でも同じようにカーブしている。

現在の道筋を江戸切絵図などと比べると、そのまま残っているところも多く、江戸時代から続く道筋といってもとくに珍しくはないが、ここは、江戸期から続く大きな弧状の道筋が印象に残るところである。

やがて青山通りに出るので、ここを右折し、表参道駅へ。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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善光寺(青山)

2016年08月15日 | 散策

前回、表参道のネッコ坂からはじめて原宿・千駄ヶ谷の坂を巡ったが、その前に(2015年12月)、表参道・青山に出かけていたので、それを記事にする。

善光寺(青山) 善光寺(青山) 善光寺(青山)




午後地下鉄表参道駅下車。

出入口A3から出て、小路を北側にちょっと歩くと、善光寺が見えてくる。港区北青山三丁目5番(現代地図)。

言問通りが不忍通りの谷底を横切って東へ上ると上野台地の寛永寺の方にいたるが、この谷中の坂を善光寺坂という。その坂名は、この坂にあった善光寺に由来するが、江戸時代に移転しており、その移転先がここ(青山)である。

表参道の交差点近くであるが、そんなにうるさい感じはしないものの、往時からすれば、周囲の環境は激変しているのであろう。

東都青山絵図(安政四年(1857)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 江戸名所図会 青山善光寺 江戸名所図会 青山善光寺




一枚目の尾張屋清七板の東都青山絵図(安政四年(1857)には、百人町の通りにあり、門前町もできている。二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))にも見える。

三、四枚目は、江戸名所図会にある青山善光寺の挿絵(左右)である。門前の通りには、人々が行き交っているが、ここが百人町の通りであろう。門前町も見える。

本文の説明に、「南命山善光寺 同所百人町右側にあり。信州善光寺本願上人の宿院にして、浄土宗尼寺なり。」とあり、元禄元年の創建で、始めは谷中にあったが、元禄十六年(1703)十一月の大火で類焼したため宝永二年(1705)青山に移転し、いま谷中に善光寺坂と名がついているのは、その旧地のためで、その旧跡は今の玉林寺の地であるという、と解説がある。

火事や地震などのため寺が移転することはよくあることらしく、たとえば、関東大震災のあと杉並や世田谷には寺がかなり移転しているが、その先駆けであった。

同名の坂が小石川にある。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

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旧渋谷川歩道(2016)

2016年07月17日 | 散策

旧渋谷川歩道 旧渋谷川歩道 旧渋谷川歩道 旧渋谷川歩道




ネッコ坂下から表参道にもどり、南側から歩道橋で北側に横断し、旧渋谷川跡にできた遊歩道に入る(現代地図)。

入るとすぐ、一枚目の写真の南側と同じように人通りが多くにぎやかであるが、かなりくねくねした遊歩道を北(上流側)へ進むと、しだいに人通りが少なくなってくる。

やがて明治通りと外苑西通りを結ぶ大きな通りにいたる(現代地図)が、ここに原宿橋の跡が残っている(以前の記事)。ここを横断したさきにも旧渋谷川跡の道が続いているようであるが、ここを右折し、外苑西通りを横断したさきにある熊野神社に向かう。 

東都青山絵図(安政四年(1857)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843))




一枚目の尾張屋清七板の東都青山絵図(安政四年(1857))をみると、戸田長門守の屋敷前のネッコ坂から下ると、そのさきに渋谷川が流れ、橋がかかっている。ここから右側(北)が渋谷川の上流である。そこから二番目の橋が原宿橋であろう。これから向かう勢揃坂の中腹にある龍厳寺(清七板では竜岩寺)の裏手を流れている。

二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))では、戸田ナガト(長門)の屋敷前は、ほぼまっすぐな道筋となっているが、その先に渋谷川が流れている。

参考文献
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)

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牧野富太郎の墓

2016年04月27日 | 散策

案内標識 案内標識 谷中墓地の鷲津毅堂の墓から牧野富太郎の墓へ向かう。西に歩き、五重塔跡のある四差路を右折し、北へ紅葉坂方面に進む。

しばらくすると、一枚目の写真のように、左手に石柱からなる案内標識が立っているが、この方向からアクセスしたときは見逃しやすいかもしれない。この小道に入り、ちょっと歩くと、右手に同じような案内標識が見えてくる(二枚目の写真)。

前回、紅葉坂から芋坂へ向かったとき、ここに寄り道をしたが、この標識に気がつかず、結局、見つけることができなかった。

この標識を右折し、ちょっと歩くと、右手に独学の大植物学者といわれる牧野富太郎の墓が見えてくる(下一枚目の写真)。ここは谷中墓地ではなく天王寺墓地。

牧野富太郎の墓 牧野富太郎の墓 牧野富太郎の墓 牧野富太郎は、文久二年(1862)4月24日、土佐国高岡郡佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)に生まれた。父は佐平、母は久寿、幼名誠太郎。数え年4歳で父を、6歳で母を喪った。7歳で祖父小左衛門が亡くなり、このころ、富太郎と改名した。実家は酒造りと雑貨店(小間物問屋)を営む裕福な家であった。祖母が商売の采配をふるいながら、富太郎を育てたという。

かなり前、高知県出身の作家大原富枝が書いた「草を褥に」(小説牧野富太郎)を読んだとき、牧野が独学になったのは生家が貧しかったからではないことを知ってちょっと驚いたことがあった。つい先入観から野口英世などと同じように勉学の資に窮したためと思っていたが、そうではなく、故郷の私塾などであらかた学んでしまい、大学で特に学ぶ必要がなかったからとしている。

昭和三十二年(1957)1月18日に96歳で亡くなっている(二枚目の写真)。

牧野富太郎の墓は、以前から訪れてみたいと思っていたが、それは、吉本隆明がむかし谷中墓地をうろうろしていたら偶然この墓の所に出くわしたことを書いていたからであった。大きくきれいなかたつむりが墓石や壁塀にたくさんいて、それを採って自宅に持ち帰って庭に放したが、二、三日するとみないなくなった。五月の初旬の頃であった。次の年の五月にもまた庭に放すことができたが、その後、まったくいなくなったと残念がっていた。蚊などの害虫駆除のための殺虫剤噴霧の影響と推測しているが、たぶん、そうだろう。

参考文献
牧野富太郎「牧野富太郎自叙伝」(講談社学術文庫)
吉本隆明「吉本隆明の下町の愉しみ」(青春新書)

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北の丸公園

2015年08月14日 | 散策

北の丸公園 北の丸公園 北の丸公園 北の丸公園 紀伊国坂の上側の歩道橋を渡って北の丸公園に向かう。中央の大きな道路を歩き左折し、ちょっと歩き、右折すると、ちょっと大きな池のある広場にでる(現代地図)。隅のベンチで一休み。暑いので冷たいペットボトルがおいしい。

ここから西側に進むと、樹木がかなり生い繁って、濃い緑の中に散歩道ができている。けっこう鬱蒼とした森となっていて、都心にいることも外界の暑さも忘れるほどである。

御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 御曲輪内大名小路絵図(慶応元年(1865)) 江戸図鑑網目(元禄二年(1689)) 北の丸公園 一枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図を見ると、紀伊国坂わきのチョウセンバゞウエダメ(朝鮮馬場植溜)の北側に田安屋敷と清水屋敷があり、さらにその北側に田安御門、東側に清水御門があるが、ここが現在の北の丸公園である。

二枚目の御曲輪内大名小路絵図(慶応元年(1865))の部分図にも、朝鮮馬場植溜の北側に田安屋敷と清水屋敷と両御門がある。

田安家と清水家は御三卿で(もう一つは一橋家)、田安家は八代将軍吉宗の次男徳川宗武、清水家は九代将軍家重の次男徳川重好を始祖とするので、これらの屋敷がここにできたのは千七百年代であろう(吉宗が八代将軍に就任したのは1716年)。

三枚目は、それ以前の江戸図鑑網目(元禄二年(1689))の部分図である。代官町などが見え、二家はまだできていないが、田安御門と清水御門が見えるので、これらの家名は門の名に由来することがわかる。(一橋家も一ツ橋御門による。)

紀伊国坂のある竹橋御門の上(西)は、明暦の大火(1657)の後であるので、明地となっている。

北の丸公園 北の丸公園 北の丸公園 北の丸公園 西側の鬱蒼とした森の縁にも散歩道ができているが、ここから下側に樹々の向こうに千鳥ヶ淵の水面が見える。淵の向こうのビルの上からかなり傾いた陽の光が樹木の葉々を通して差し込んできてまぶしい。

武道館の前を通り、田安門を通り抜けて、九段坂の歩道を下り、地下鉄九段下駅へ。

携帯によるいつもの総歩行距離はデータ消滅で不明だが、8~9km程度と思われる。

参考文献
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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平川門

2015年07月20日 | 散策

今回は、皇居東御苑内の二つの坂を巡ってから、そのわきの坂を訪れた。その小散策記である。

皇居案内地図 清水濠と平川橋 平川橋 御曲輪内大名小路絵図(慶応元年(1865)) 午後東西線竹橋駅下車。

地下鉄の駅から出ると、濠わきの歩道で、東(大手町方面)へ進む(現代地図)。進行方向に平川橋が見えてくる。梅雨明け前だが暑く、散歩には不向きな日であった。

慶応元年(1865)の江戸切絵図(尾張屋清七板)を見ると、平川門は、一ツ橋門よりも内側で、ここを通れば江戸城内である。上側(西)に竹橋門が見える。御江戸大絵図(天保十四年(1843))には、一ツ橋門や竹橋門が見えるが、平川門はない。

近江屋板(嘉永二年(1849))には、平川門、一ツ橋門、竹橋門のいずれも描かれているが、「平川門」の文字がない。

御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 平川橋から大手町方面 平川門 平川濠 徳川家康は江戸入り(天正十八年(1590))してから江戸城やその周囲を改築する土木工事をはじめたが、それ以前までは、芝浦のあたりから北へ日比谷の方に江戸湾が入り込んでいた。いわゆる日比谷入江であるが、この入江の最北部に流れ込んでいたのが平川であった。現在の大手町一丁目の丸紅ビル付近で入江に注いでいた(鈴木理生「江戸はこうして造られた」図7)。現在の平川橋の近くである(現代地図)。

平川とは、中世の呼び名で、神田川の原型であるという。

日比谷入江の埋め立て前に平川の付け替え工事をしたが、それが千代田区一ツ橋付近から西へ流れる現在の日本橋川の流路であった。

平川門を通り抜けて中に入る。
(続く)

参考文献
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
鈴木理生「江戸はこうして造られた」(ちくま学芸文庫)

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雑司ヶ谷霊園(2015)

2015年06月04日 | 散策

白鷺坂中腹 大塚富士見坂中腹 小篠坂上 旧猫又坂の坂上に旧道からアクセスすることができた。これが今回の坂巡りの最終目的であり、達成できたので、ちょっと虚脱感におそわれ、どうして帰ろうかと迷ってしまう。坂下の千川通りの付近には駅がない。しかたなく坂下から通りを横断し、白鷺坂を上るが、かなり歩いたので、ちょっととぼとぼと歩く感じになってしまう。

坂上で春日通りを横断し、富士見坂を下る(現代地図)。坂下を直進すると、護国寺の門前で、ここに地下鉄の駅があるが、この近くの雑司ヶ谷霊園に行くことにする。

寺の中を通って、首都高速道路下の坂上に出るが、小篠坂上である(現代地図)。

雑司ヶ谷霊園近く 漱石の墓の裏の通り 荷風の墓坂上から雑司ヶ谷霊園の南の道を西へ進み、途中で右折し霊園の中の道を進み、左折してちょっと歩くと、漱石の大きな墓の裏手に出る。

次の四差路を右折し、突き当たりを右折し、永井荷風の墓に行く。祥月命日(4月30日)のちょっと後であったので、供えられた花が残っていた。

ここから雑司が谷駅へ。

携帯による総歩行距離は16.2km。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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