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東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

茗荷坂下~谷道~水道通り(2)

2011年05月31日 | 散策

藤寺の先 庚申坂下手前 庚申坂下 切支丹坂下 藤寺前から歩くと、やがて向こうにガードが見えてくる。しばらく歩くと、その手前左(東側)に庚申坂下が見える。幅広でしっかりとした感じのする階段坂である。坂下はちょっとずれているが四差路となっており、坂下の反対側にトンネル(ガード)が線路を横切るように西へ延びている。右の写真のように、その先に出口が見えるが、切支丹坂の坂下である。庚申坂は、切支丹坂ともよばれていたが、現在は、こちらが切支丹坂とされている。切支丹坂の西側に江戸時代初期から中期にかけて切支丹屋敷とよばれたキリスト教徒を収容した牢屋があり、かなり広かったという。この坂下の四差路がこの谷道の第2のポイントである。

尾張屋板江戸切絵図(東都小石川絵図)を見ると、藤寺の東にある北東に延びる道に、キリシタンサカ、とあるが、これが、現在の庚申坂である。この坂下から東南へ神田上水まで延びる道がある。これが現在の谷道と思われる。この谷道は、江戸時代には、藤寺と庚申坂下との間が分断されていたようで、坂下から北西へちょっと延びる道があるが、藤寺の手前で行き止まりとなっている。近江屋板も同様。

江戸切絵図でキリシタンサカの坂下は南西へと延びているが、途中、荒木坂からの道が合流し、さらに延びて西の方へ緩やかに曲がってから七軒屋敷の方へと続いている。荒木坂からの合流点が現在と同じ位置とすると、この西側が、現在、切支丹坂とよんでいる道筋であろうか。

庚申坂上 庚申坂下ガード ガードの先 「きりしたん巡礼」159頁写真 庚申坂を上り、坂上を直進すると、春日通りで、通りの向こうは吹上坂上である。ここに、小石川高等小学校跡の説明板や旧同心町の旧町名案内や街の案内地図が立っている。引き返し、階段を下る途中、谷道を見下ろしながら、このあたりに、獄門橋という、ちょっとおどろおどろしい横溝正史の小説ふうの名の橋があったのだろうかと思う。山田野理夫「東京きりしたん巡礼」(東京新聞出版局)の切支丹屋敷をめぐる記述を思い出したからである。

切支丹屋敷は南北に長い長方形で、屋敷周辺に三百三十間の空堀(堀口一間、深さ一間一尺)がめぐらされていた。東方の表門と手前の獄門橋が結ばれていた。獄門橋はのちにその名が嫌われて庚申橋と改められたというが、庚申坂と同じ由来であろう。同書の見返しにある三井高遠蔵「切支丹屋敷図」をみると、切支丹屋敷の輪郭がわかる。正門の先に庚申橋があり、裏門前に七軒屋敷通りが見える。

著者が、戦後、切支丹屋敷の調査に着手したころには、まだ獄門橋、庚申坂などの面影を辿ることができたという。右の写真は、同著159頁にある切支丹屋敷前・旧庚申橋周辺の写真であるが、戦後まもない頃のこのあたりの風景がよくわかる貴重なものである。これは庚申坂を背にして東から庚申橋を西に見て撮ったものであろうか。そうだとすると、この写真の奥に切支丹坂があるはずである。この風景は、しかし、地下鉄とその車輌場の建設で失われている。

獄門橋について『御府内備考』の小日向之一、総説に次のようにある。「獄門橋は切支丹屋敷元表門通りにあり、幽霊橋ともいへり、むかし山屋布にて刑罪ありし頃、この橋のほとりへ梟首せしよりかくいふと、【改撰江戸志】」
この橋でさらし首にしたことに由来する名のようである。

明治地図(左のブックマークから閲覧可能)を見ると、庚申坂下を西へ切支丹屋敷方面に向かう道があり、この道を横切って川が北から南へと流れていたようであるが、ここにかかっていた橋が庚申橋(旧獄門橋)であるかもしれない。そうだとすると、庚申橋のあったところは、現在のトンネルの中のどこかかもしれない。また、漱石が『琴のそら音』で描いた道、荷風が『日和下駄 第九崖』で描いた道は、いずれも、庚申橋を渡る道ということになる。

ガードの先 谷道の階段 谷道 水道通り近く 谷道 水道通り近く 庚申坂下を左折し、ガードを通り抜けてさらに進むと、右にややカーブする。このあたりから左側は石垣になっていて、その上が土手のように盛り上がり、樹木が植えられているが、その手前の端に土手の上へと続く階段がある。こういった階段に出会うと、つい上ってみたくなるが、しかし、階段前には門扉があり、入ることができない。地図を見ると、土手の向こうには丸の内線が走っているので、線路が通っているだけであろうが、未練が少し残る。

ここから先は、左側が石垣となってその上が樹木であるが、丸の内線が開通するまでは小石川台地のきわの崖であったのかもしれない。右側が地下鉄の車両工場で、静かな感じの谷道が続く。前回はこのあたりまで来ている。やがて水道通りに出る。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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茗荷坂下~谷道~水道通り(1)

2011年05月29日 | 散策

周辺地図 釈迦坂・蛙坂下近く 釈迦坂下 蛙坂下 前回の無名坂を引き返し、大学正門前・深光寺前の茗荷坂下から、以前に歩いた谷沿いの道を水道通りまで歩くことにする。したがって、これは、以前の記事の続きである。

左の写真の案内地図(庚申坂上を進んだところに立っていた)を見るとわかるが、大学前から丸の内線のガード下を通り抜け、線路にほぼ沿って、水道通りの小日向の派出所まで続く道である。この道筋を谷道と勝手に呼んでいるが、この谷道は、小石川台地と小日向台地との間にあり、以前に歩いたいくつかの坂下を通っている。釈迦坂蛙坂藤坂庚申坂切支丹坂である。

茗荷坂下からすぐのところのガード下がちょっと複雑になっていて、左にもガードがあるが、これを通り抜けると、釈迦坂下で、幟の立っている方へと右に進むと、蛙坂下である。いずれの坂もちょっとした勾配できつい上りで、曲がりながら小石川台地・小日向台地へと上っている。ガードの向こうに傳明(伝明)寺(藤寺)が見える。

藤坂下手前 藤坂下 藤寺門前 藤寺前 ガード下を通り抜けちょっと歩くと、藤坂下で、藤寺の門前である。藤坂を上ってみるが、なかなかの急坂であることを再認識する。この坂は江戸から続き、坂上左側(西)が清水谷といわれていたらしいが、そこは、現在、大きなマンションが建っており、その跡はなかなかわからない。

坂を下り、藤寺に入ってみる。その名のとおり、藤棚から藤の花が垂れ下がっている。もう藤が咲く季節となった。この寺の門前には、赤い帽子をかぶりピンクのよだれかけをしたかわいらしいお地蔵さんが立っていたりして、いつかどこかで見たことのあるような雰囲気を醸し出しており、なつかしい風景をつくっている。ちょっとほっとする気分になる。この谷道のポイントの一つである。

尾張屋板江戸切絵図(東都小石川絵図)を見ると、深光寺前から東へ傳明寺まで続く道があるが、ここから東へ続く道はない。近江屋板でも同じ。明治地図には、いまの道筋が見えるので、明治以降にできたのであろう。
(続く)

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茗荷坂近くの二つの無名坂

2011年05月27日 | 坂道

茗荷坂周囲の地図 第1の無名坂上 第1の無名坂上 前回の付属横坂上を直進すると、やがて、右手に公園が見えてくる。新大塚公園である。ここで、一休みする。きょうの予定は雑司ヶ谷霊園から付属横坂までだったので、このまま帰ってもよいが時間はまだある、と思いながら、地図を見ると、近くに茗荷坂がある。この坂は、二月に行って記事にもしたが、そのとき、近くの無名坂を訪れなかったので、そこに行くことにする。ここからそこに行くには、もう1つ別の無名坂を通ることになる。

左の写真は、公園近くに立っていた街角の案内地図(左が南、下が東)を撮ったものであるが、この地図で公園角を左(南)に進み、一本目を左折し、下(東)へ進む。小日向三丁目と大塚一丁目との間である。

やがて、右手に拓殖大学の入口が見え、坂上につく。ここが第1の無名坂である。(次に行くのが第2の無名坂であるが、この順には意味がなく、今回訪れた単なる順番を示すに過ぎない。)

上記地図にも示されているが、坂上がクランク状に曲がっている。かなりみごとに曲がりながら下っている。

第1の無名坂上 第1の無名坂上 第1の無名坂下 第1の無名坂下 クランク状の曲がりを下ると、そこからは、ほぼまっすぐに下っている。坂下に向かって右側が拓殖大学で、坂下は茗荷坂である。坂下正面がしばられ地蔵のある林泉寺で、左折すると、茗荷坂の坂上で茗荷谷駅方面に至り、右折すると、茗荷坂の緩やかな下りで、大学正門、深光寺前に至る。この位置関係は、上の地図を見るとよくわかる。

尾張屋板江戸切絵図(東都小石川絵図)を見ると、深光寺の西隣が林泉寺で、茗荷坂とされる(と思われる)道との間に小日向茗荷谷林泉寺門前の町屋があり、道を挟んだ反対側に戸田淡路守の屋敷がある。そして、その道の途中から、戸田屋敷と佐竹左近将監の屋敷との間を西へ上る坂道があり、坂上がクランク状に曲がっている。坂上の先の道筋に、コノ先五ケン丁ヘ出ル、とあるが、五軒町というのは、雑司ヶ谷音羽絵図を見ると、鼠坂を東へ進んだところにある。近江屋板も同様で、坂名はないが、坂マーク△がある。ということで、第1の無名坂は江戸から続く坂である。

戦前の昭和地図と昭和31年の23区地図を見ると、この坂のクランク状の曲がり部分があるが、特に前者ではみごとに折れ曲がっている。ただし、明治地図にはない。

『御府内備考』の林泉寺門前の書上に、上記の第1の無名坂は記されていないが、次のようなことが書かれている。「門前西北の方林泉寺境内の戸田淡路守様御下屋敷往来の所を清水谷と相唱え近来迄清水涌出し・・・」。これによれば、門前と戸田屋敷との間(いまの茗荷坂に相当する道筋)を(茗荷谷ではなく)清水谷と云ったというのである。もっとも、続けて、道の普請で平地となり、往来に清水が湧き出す場所がなくなった、のような意味のことが書かれているので、清水谷とよばれた期間は短かったのかもしれない。

第2の無名坂下 第2の無名坂下 第2の無名坂途中 坂下の林泉寺前を右折し、緩やかな茗荷坂を下り、左に深光寺のある大学前を右折すると、次の第2の無名坂の坂下である。はじめ勾配はほとんどないが、ちょっと歩き右に少し曲がってからまっすぐに中程度の勾配で上っている。坂の途中、上りに向かって左側が荒れた感じの傾斜面で、樹木と草の中に、地肌の出た細い坂道が山道のように延びているのが見える。立ち入り禁止となっている。この坂は、よくもわるくもこの樹木で鬱蒼とした雰囲気が特徴となっている。

尾張屋板江戸切絵図(東都小石川絵図)に、戸田屋敷の東側に南西へ上る道があるが、ここが第2の無名坂と思われる。近江屋板も同様で、坂上の方に坂マーク△がある。明治地図、戦前の昭和地図、昭和31年の23区地図のいずれにもある。ここも江戸から続く坂である。明治地図に、第1と第2の無名坂の間に台湾協会学校というのがあるが、地図の注によれば、拓殖大学の前身とのこと。

以前の記事で引用した茗荷坂の説明板の説明文を再掲する。

『「茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼる坂なり云々。」と改撰江戸志にはある。これによると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになるが、今日では地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂をもいっている。
 茗荷谷をはさんでのことであるので両者とも共通して理解してよいであろう。
 さて、茗荷谷の地名については御府内備考に「・・・・・・むかし、この所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり云々。」とある。
 自然景観と生活環境にちなんだ坂名の一つといえよう。 文京区 昭和51年3月』

第2の無名坂上 第2の無名坂上 第2の無名坂上 上記の改撰江戸志は、『御府内備考』の小日向之一、総説に茗荷坂の説明として引用されており、全文は次のとおり。「茗荷坂は茗荷谷より小日向の臺(台)へのぼる坂なり、左の方は戸田家の下屋敷なり、」

これによれば、茗荷坂は、①茗荷谷より小日向の台へのぼる坂で、②左の方は戸田家の下屋敷であるが、第2の無名坂ではなく、むしろ第1の無名坂がこの2つの条件に当てはまることは、以前の記事(茗荷坂)に書いたとおりである。第1も第2の無名坂も坂上は小日向台に続くが、第2の無名坂は、上りに向かって左でなく右の方に戸田屋敷があるが、第1の無名坂は左の方に戸田屋敷があるからである。

改選江戸志の記述を上記のように解釈すると、第1の無名坂が茗荷坂であるか、または、深光寺前と大学正門前との間を北側へ林泉寺前まで上りそこで左折し第1の無名坂を上る道筋が茗荷坂といえそうであるが、残念ながらここだけの説である。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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付属横坂

2011年05月21日 | 坂道

三丁目坂下 付属横坂下 付属横坂下 付属横坂下 富士見坂下から西へ進み、音羽通りを左折し、この通りをちょっと歩いたところのマックで休憩する。雑司ヶ谷霊園を出てから小篠坂、清戸坂、富士見坂と広い交通量の多い所を歩いてきたので、少々疲れた。好んで坂巡りをしているのに、こういった坂はどちらかというと苦手である。

南へ歩き、大塚警察署の交差点で、西側を見ると、三丁目坂の坂下である。左の写真のように、首都高速が上を通り、そのちょっと先で右にカーブしている。この先は以前歩いた。このとき、山野が紹介する文京区「関口~目白台」コースのたくさんの坂を巡ったのであったが、このコースに、きょう出かける前、付属横坂という行ったことのない坂を見つけた。この坂は、ちょうど三丁目坂下の反対側、東へと延びている。

交差点を左折しちょっと進むと、見たことのある坂下の風景にでくわした。疲れたための既視感ではなく、以前、富士見坂の方から細い旧音羽川跡の裏道を歩いたとき、この坂下を横切っている。さらにその前、このあたりに来たとき、なにげにこの道に入り込んだ覚えがあり、そのときは、裏道の上の道を南へ歩き、鼠坂の方に向かった。付属横坂の一枚目の写真に下から右へと続く小道が見えるが、ここが旧音羽川跡の裏道である。

付属横坂下 付属横坂中腹 付属横坂中腹 付属横坂中腹 中程度の勾配で上っており、中腹で左に緩やかにカーブしてからまっすぐに上っている。

先ほどまでの不忍通りの騒がしい道とうって変わって、ときたま車も通るが静かな道である。この坂道に来てほっとする。歩道わきに咲いているおおむらさきつつじもいっそうきれいに見えてしまう。石垣が続き、その上から樹木の緑がたくさん見えてようやく気分のよい坂道散策となる。

この坂は、戦前の昭和地図を見てもまだ存在していない。昭和31年の23区地図にはあるので、戦後にできたのであろう。明治地図を見ると、この坂のある所は、陸軍弾薬倉庫で、かなり広い。地図の注によると、幕末、陸奥磐城平藩安藤家の下屋敷で、五代藩主信正が老中のとき、坂下門外の変(1862)で水戸浪士に襲われ、罷免され、二万石減封となった。のち広大な敷地が弾薬の倉庫に利用されたとある。尾張屋板江戸切絵図を見ると、安藤長門守のかなり広い屋敷がある。

現在、坂の南側が筑波大附属中学・高校で、坂上の北側にお茶の水女子大があるが、倉庫跡にこれらができたときつくられた坂であろうか。坂上をそのまま進むと春日通りに至る。坂名は、その附属の横にある坂であることに由来するのであろう。

付属横坂上 付属横坂上 付属横坂上 付属横坂上の先 この坂は、戦後にできたためか、横関、石川にはないが、岡崎に紹介されている。岡崎は、「これほど美しく、新鮮で、環境に恵まれている坂に、どうしてこんな坂名がついているのか。」と書いているが、確かにはじめて聞くとなんのことかと思ってしまう坂名である。でも地図を見るとすぐにわかる。

永井荷風は昭和11年(1936)元旦、雑司ヶ谷霊園からの帰途、この弾薬倉庫のあたりにきている。「断腸亭日乗」に次のようにある(全文は以前の記事参照)。

「正月元日。晴れて風静なり。・・・日も晡ならむとする頃車にて雑司ヶ谷墓地に赴く。先考及小泉八雲、成島柳北、岩瀬鷗所の墓を拝し漫歩目白の新坂より音羽に出づ。陸軍兵器庫の崖には猶樹木あり荒草萋々たり。崖下の陋巷を歩むに今猶むかしの井戸の残りたるもの多く、大抵は板にて蓋をなしたり。されど徃年見覚えたる細流は既に埋められて跡なし。・・・」

荷風は、この日、雑司ヶ谷墓地からの帰り、目白の新坂(清戸坂と思われる)より音羽に出た。陸軍兵器庫の崖には樹木があり荒草が茂っていたが、この風景は、旧音羽川跡の裏道から見たものであろうか。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)

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清戸坂~富士見坂

2011年05月19日 | 坂道

清戸坂下 清戸坂上側 清戸坂上側 清戸坂上・富士見坂上 小篠坂下の交差点(護国寺西)から不忍通りを右(西)に進むと、清戸坂の上りとなり、坂上で目白通りに至る。左(東)に進むと、護国寺の前を通り過ぎ、富士見坂の上りとなり、坂上は春日通りである。

清戸坂に向かう。右側の歩道を少し上ると、向こう側に薬罐坂(夜寒坂)の坂下が見えてくる。この道の両わきの旧町名は雑司ヶ谷町であったが、その由来は、途中に立っている案内板によれば、昔、小日向の金剛寺(また法明寺とも)の支配地で物や税を納める雑司料であった、建武のころ(1334~36)南朝の雑士(ぞうし/雑事を司る)柳下若狭、長島内匠などがここに住んだので、雑司ヶ谷と唱えた。その後、蔵主ヶ谷、僧司ヶ谷、曹子ヶ谷などと書かれたが、八代将軍吉宗が鷹狩りのとき、雑司ヶ谷村と書くべしと命じたので、この文字となったという。

緩やかな勾配であるが、かなり長い。以前来たとき、薬罐坂(夜寒坂)の坂下から左折して上り、全体を歩いていないので、ということでやってきた。右の写真のように、坂上の目白通りの向こうに富士見坂・日無坂への道が見える。この道に入るとすぐ、これらの坂上である。反対側の歩道に渡り、坂を下る。

富士見坂下 富士見坂下 富士見坂下側 富士見坂中腹 清戸坂を下り、坂下の交差点を渡り、護国寺前の交差点を過ぎると、不忍通りはいったん緩やかな下りになるが、その底からふたたび上りとなる。ここが富士見坂である。中程度よりもきつめの勾配であるが、坂下側が緩やかで、坂上もちょっと緩やかになっている。坂下近くに文京区教育委員会の説明板が立っており、次の説明がある。

「富士見坂   大塚二丁目と五丁目の間
 坂上からよく富士山が見えたので、この名がある。高台から富士山が眺められたのは、江戸の町の特色で、区内には同名の坂が他に二ヶ所ある。坂上の三角点は、標高28.9mで区内の幹線道路では最高地点となっている。むかしは、せまくて急な坂道であった。大正13年(1924)10月に、旧大塚仲町(現・大塚三丁目交差点)から護国寺前まで電車が開通した時、整備されて坂はゆるやかになり、道幅も広くなった。また、この坂は、多くの文人に愛され、歌や随筆にとりあげられている。
 とりかごをてにとりさげてともわがとりかひにゆくおほつかなかまち  会津八一(1881-1956)
 この道を行きつつ見やる谷越えて蒼くもけぶる護国寺の屋根     窪田空穂(1877-1967)」

富士見坂上側 富士見坂上 富士見坂上・春日通り 富士見坂上 この坂下には、かつて音羽川が流れていた(以前の記事参照)。尾張屋板江戸切絵図(雑司ヶ谷音羽絵図)を見ると、護国寺前の東青柳町端に橋があり、その橋から北東へ上るのが富士見坂である。近江屋板も同様で、△富士見坂とある。

富士見坂は、都内に多数あり、横関に15、山野に16、石川に12、岡崎に15ほど紹介されている。上記の目白通りから神田川の方へ下る坂も富士見坂である。

横関によれば、富士見坂は、大概は西向きの坂であるが、まれには南向きの坂もある。江戸のむかしから富士見坂とよばれ、その名のとおり、富士山がよく見えた坂は、九段の靖国神社北の富士見坂、赤坂見附の衆議院議長公邸前の坂、この富士見坂であるというが、これらの坂も含めてほとんどの坂から富士山は見えなくなったとしている。40~50年前もそうであったのだから、現在は、推して知るべしである。

東京から富士山の方向は、真西ではなく、三十度ほど南寄りなので、坂の向きがその方向であれば、いまでも見えるであろうとしているが、これに当てはまる坂はあるのだろうか。

富士見坂上 富士見坂中腹 富士見坂下 富士見坂下 横関に、この坂の坂上から撮った写真がのっている。都電のレールがまっすぐに下っている。左手の富士山の方向にそんなに高い建物はなさそうだが、それでも富士山は見えなくなっていたのであろう。

坂下の南側の旧町名は、東青柳町である。旧町名案内によれば、その由来は、五代将軍綱吉が生母桂昌院のために護国寺を建立し、元禄10年(1697)護国寺領となり、町屋にしたが、家作人がなく、後幕府が再建し、奥女中の青柳という者に家作を与え、これが町名となったという。音羽通りを挟んで、西側が西青柳町であった。

この坂のある不忍通りは、春日通りを越えて東へ行くと、白鷺坂、猫又坂が続いている。
 (続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)

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小篠坂(小笹坂)

2011年05月16日 | 坂道

雑司ヶ谷霊園近く小篠坂上(高速下)小篠坂上小篠坂中腹 雑司ヶ谷霊園の夏目漱石の墓から中央通りを南東へ進み、霊園を出た突き当たりを左折し、ちょっとすると、左手に花屋が見えてきて、その前を過ぎると、まもなく首都高速道路の下の大きな通りにでる。このあたりが小篠坂の坂上と思われる。

この通りは、首都高の下が上り専用、反対側が下り専用となっていて、広く、もとの都電通りである。坂下で不忍通りと交わる。

坂上に行ってから、首都高の下の歩道を下る。中程度の勾配でほぼまっすぐに下ってかなり長い。首都高の下で薄暗く、情緒などまったくない。坂下で横断歩道を渡り反対側に行くと、首都高の下から離れるのでちょっと開放感がある。

この坂は、今回がはじめてである。以前、護国寺から雑司ヶ谷霊園に行ったことがあるが、そのときは、護国寺の中を通り抜けた。

小篠坂下小篠坂下小篠坂下側小篠坂下側 首都高の反対側の坂を上るが、すぐのところに文京区教育委員会の坂の説明板が立っており、次の説明がある。

『小篠坂(こざさざか) 小笹坂
 豊島区と境を接する坂である。この坂道は、江戸のころ、護国寺の北西に隣りあってあった。"幕府の御鷹部屋御用屋敷"から、坂下の本浄寺(豊島区雑司が谷)に下る坂として新しく開かれた。往時は笹が生い繁っていたことから、この名がついたものであろう。
 坂下一帯は、文京の区域を含めて、住居表示改正まで、雑司が谷町とよばれていた。近くの目白台に長く住んだ「窪田空穂」は、次のようによんでいる。
       雑司が谷 繁き木立に降る雨の
                降りつのりきて 音の重しも』

上記のように、説明板の立っている首都高の反対側の歩道は、文京区のようである。首都高側は豊島区で、本浄寺はそちら側にある。

尾張屋板江戸切絵図(雑司ヶ谷音羽絵図)を見ると、護国寺の西側に護国寺と本浄寺との間に道があるが、ここが小篠坂と思われる。この西側に御鷹部屋御用屋敷が見える。近江屋板も同様であるが、いずれにも坂名も坂マークもない。

小篠坂標識小篠坂下側小篠坂上側小篠坂上 横関は、もとは田圃の畦道のような狭い坂であった、とする。畦道(あぜみち)のような狭い坂とあるが、現在の通りはかなり広く長いから、この中のごく一部であったのであろう。確かにいまも坂であるが、往時とはまったく違った坂となっている。

『江戸名所図会』に本浄寺が次のようにある。

「大野山本浄寺 護国寺の西、小篠坂にあり、日蓮宗にして甲斐の延嶺に属せり。・・・」

本浄寺境内東北隅に小屋があったので、明治時代には乞食坂とよんだというが、横関によれば、乞食坂というのは、かならず寺院の多い場所で、その横町とか裏道にあるという(以前の記事参照)。

他の坂でも見られる金属板の大きな坂の標識が立っており、小篠坂と刻まれているが、左の写真のように傾いている。

歩道を上り、信号のあるところまで行き、そこから坂下にもどる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)

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御嶽坂

2011年05月13日 | 坂道

前回の記事のように雑司ヶ谷霊園に荷風の墓などを訪ねたが、その前後に歩いた坂を紹介する。

御嶽坂下 御嶽坂下 御嶽坂下 御嶽坂中腹 雑司が谷駅を出て少し歩き右折し弦巻通りに入って途中左折すると、清立院前の下側の四差路にでるが、このまま北に向かうと雑司ヶ谷霊園に至り、右折すると、御嶽坂(みたけざか)の坂下である。ここから坂道が東へ比較的緩やかに上っており、途中で左にちょっと曲がり、さらに上側で左にカーブしている。道は細いが、広い歩道があり、建物がせまっていないので、ゆったりとしている。雑司ヶ谷霊園へのアクセスやちょっとした散歩に合うよい坂である。

坂下から見ると、左に清立院青竜寺がある。清立院は御嶽山と号し、御嶽神社を祀っていたことが坂名の由来である(石川)。『江戸名所図会』に次のようにある。

「御嶽山清立院 護国寺の裏門より雑司ヶ谷鬼子母神へ行く道の、右側小坂に傍ひてあり。雑司ヶ谷本竜寺の持とす。(御嶽をまつる故にこの号あり。)・・・」

清立院は、護国寺の裏門から雑司ヶ谷鬼子母神へ行く道の右側小坂に沿ってある、としているので、この小坂が御嶽坂であろう。

御嶽坂中腹 御嶽坂上 御嶽坂上 御嶽坂上 尾張屋板江戸切絵図(雑司ヶ谷音羽絵図)を見ると、護国寺の西側に、青龍寺三嶽カサモリイナリ、とあるが、ここが清立院と思われる。近江屋板も同様であるが、いずれにも坂名、坂マークはない。向かいに、寳成寺雨コイ日蓮、とあるが、ここが宝城寺と思われる。青龍寺の南西に短い小道があるが、ここが御嶽坂であろうか。

上記の『江戸名所図会』に挿絵があるが、清立院のあたりは、すっかり田園地帯に描かれており、江戸の郊外であったことがわかる。

カサモリイナリとは、疱瘡神のことであろうか。以前の記事のように、いもあらい坂は、疱瘡神と関係するとのことで、この坂もその坂名となる資格があったのかもしれない。

この坂の坂上はどこなのかよくわからないが、右の写真のようにほぼ平坦になったところに、雑司ヶ谷霊園の出入口(の1つ)がある("雑司ヶ谷霊園(1)"参照)。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)

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玉川上水緑道(鷹の橋~小平監視所)

2011年05月11日 | 散策

連休に玉川上水緑道を西武国分寺線鷹の台駅近くから小平監視所まで散策した。

鷹の橋近くの案内地図 玉川上水緑道 玉川上水 玉川上水緑道 鷹の台駅近くまで車で行き、そこで昼食をとってから、鷹の橋から玉川上水緑道に入り、上流に向けて歩き始める。上水の両わきに散歩道ができているが、今回は、もっぱら右側を歩く。

これまで、この季節にはよく玉川上水のこのあたりに来て、新緑の中の散歩を楽しんできた。5月の連休になると、なにか引きつけられるようにここにやってきた。新緑の季節にはここに来るものと決まっているかのようである。それは、出かけるところを探したらここしかなかったという理由からだけではない。

今年も来ることができたが、来年もまた来ることができるという保証はない。よく考えれば当たり前のことだが、3.11以降、そのような観念がまとわりついて離れない。

玉川上水跡を、杉並から新宿まで昨年夏に歩いた("玉川上水公園(1)"など)。一部開渠しているが、ほとんど暗渠になっているところであった("玉川上水緑道(1)"など)。しかし、ここは、昔の堀に下水処理水ではあるが、ちゃんと水が流れている。

玉川上水崖面 新緑 イヌシデ 玉川上水 玉川上水緑道 このあたりの玉川上水の両岸には、コナラ、クヌギ、ケヤキ、エゴノキなどの落葉樹がよく育ち、それらの高木がすべて新緑となっているので、5月の日差しが強いときでも、まぶしいといったことはなく、むしろ鬱蒼としている。

玉川上水の流れが復活したのは、昭和61年(1986)8月で、小平監視所の近くから下流であるが、コンクリート護岸になっていないので、それから樹木、野草がめざましく復活したらしく、このことは、土だけの岸辺が植物にとっていかによい環境であるかを物語っているという。

雑木林の新緑の恵みを受けながら、まっすぐに歩く。ここは、地図を見てもわかるように、ほぼ直線に上水が流れている。途中、流れを見ようとするが、歩道から谷底はほとんど見えず、ときたま上水にかかっている橋の中央に行って下をのぞき込む。ところによっては鯉がたくさん集まっている。

樹々の瑞々しいたくさんの葉や樹々を通り抜ける風や水の流れのある環境は、人間にとって通常考えているよりもずっと大切なものではないだろうか。いつもそこに帰って精神と体を緩やかにする場所が必要である。樹々の葉の光のきらめきや風によるゆらめきを感じる場所。樹々や風・水との一体感、そんな言葉が実感できるところ。

玉川上水緑道 玉川上水わき 足湯 玉川上水源流 玉川上水源流近く かなり歩くと、緑道わきに、こもれびの足湯、という施設があり、お湯に足を浸すことができるようになっている。ここで足湯に入りちょっと疲れた脚を休める。無料であったので公営だと思われるが、なかなかよいところであった。

ここを出てちょっと歩くと、小平監視所近くの現在の玉川上水の源流につく。川面近くへ下りることができるが、そこに張り付けてあった説明パネルによると、写真のように流れ出ている水は、昭島市にある東京都流域下水道「多摩川上流処理場」からの再生水であるとのこと。ここから水は杉並の中央高速の下(高井戸IC近く)まで流れ、そこから暗渠になって、神田川に流れ込んでいるらしい(確か川本三郎が書いていたが、その著書名が思い出せない)。

ここから玉川上水駅まで歩き、電車で鷹の台駅まで戻る。

緑道での歩行距離は4km弱程度。

参考文献
水尾一郎「東京日帰り 森ウォーク」(小学館文庫)

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雑司ケ谷霊園(5)

2011年05月09日 | 荷風

雑司ヶ谷霊園 部分案内地図 夏目漱石の墓 夏目漱石の墓 夏目漱石の墓(裏面) もとの管理事務所正面通りにもどり、次に、夏目漱石の墓に行く。左の写真の案内地図のように、中央通りにある。地図では、一部見えないが、1-14の区域(中央通りを挟んで1-10の反対側)である。1種14号2側の標識が立っているが、ここを入るとすぐである。

漱石は、右の写真のように、大正五年(1916)十二月九日に亡くなっている。俗名夏目金之助とある。

漱石については以前の記事の"漱石公園"や"夏目坂"でちょっと触れた。

この墓は、昭和三十八年(1963)四月十八日に亡くなった夫人の鏡子(裏面に刻んである「キヨ」が本名)の戒名も刻んであり、比較的新しいものであろう。以前もここを訪れているが、いつ来ても大きな墓と思ってしまう。永井荷風の墓はごく質素なもので、荷風の墓からここに来ると、その大きさにいっそう驚いてしまう。

荷風は、森鷗外とは親交があって敬愛していたが、漱石とはほとんど親交がなかったらしい。しかし、先輩の小説家として尊敬していたことは間違いない。

「断腸亭日乗」大正8年(1919)3月26日に次の記述がある。

「三月廿六日。築地に蟄居してより筆意の如くならず、無聊甚し。此日糊を煮て枕屏風に鴎外先生及故人漱石翁の書簡を張りて娯しむ。」

この当時、荷風は、大久保余丁町から築地に移っており、筆を持つ気分になれずに悩んでいたが(以前の記事参照)、わびしさを慰めようと、屏風に鷗外と漱石からの手紙を張り付けて楽しんだ。

同じく昭和2年(1927)9月22日、次のように漱石についてかなり記述しているが、これほど書いているのはこの日だけである。

「九月廿二日 終日雨霏々たり、無聊の余近日発行せし改造十月号を開き見るに、漱石翁に関する夏目未亡人の談話を其女婿松岡某なる者の筆記したる一章あり、漱石翁は追蹤狂とやら称する精神病の患者なりしといふ、又翁が壮時の失恋に関する逸事を録したり、余此の文をよみて不快の念に堪へざるものあり、縦へ其事は真実なるにもせよ、其人亡き後十余年、幸にも世人の知らざりし良人の秘密をば、未亡人の身として今更之を公表するとは何たる心得違ひぞや、見す見す知れたる事にても夫の名にかゝはることは、妻の身としては命にかヘても包み隠すべきが女の道ならずや、然るに真実なれば誰彼の用捨なく何事に係らず之を訏きて差閊へなしと思へるは、実に心得ちがひの甚しきものなり、女婿松岡某の未亡人と事を共になせるが如きに至っては是亦言語道断の至りなり、余漱石先生のことにつきては多く知る所なし、明治四十二年の秋余は朝日新聞掲載小説のことにつき、早稲田南町なる邸宅を訪ひ二時間あまりも談話したることありき、是余の先生を見たりし始めにして、同時に又最後にてありしなり、先生は世の新聞雑誌等にそが身辺及一家の事なぞ兎や角と噂せらるゝことを甚しく厭はれたるが如し、然るに死後に及んで其の夫人たりしもの良人が生前最好まざりし所のものを敢てして憚る所なし、噫何等の大罪、何等の不貞ぞや、余は家に一人の妻妾なきを慶賀せずんばあらざるなり、是夜大雨暁に至るまで少時も歇む間なし、新寒肌を侵して堪えかだき故就眠の時掻巻の上に羽根布団を重ねたり、彼岸の頃かゝる寒さ怪しむ可きことなり、」

雑誌に漱石未亡人の談話を女婿松岡が筆記した文が掲載されたが、これを読んだ荷風は、漱石が追跡症という精神病であったことおよび若いときに失恋したことを発表したことに、怒りを込めて未亡人と女婿を非難している。漱石は、生前、新聞や雑誌に自分や家族のことが載って噂されるのをずいぶんと嫌っていたのに、死後だからといって、夫が好まないことを夫人があえて行うとはなんたる心得違いか、と断じている。そして、こういったことがあると、荷風は、自分には妻子がなくて本当によかった、と結ぶのが常であるが、このときも、その意味のことを書いている。

上記の「日乗」にあるように、荷風は、明治42年(1909)の秋、漱石宅を訪れているが、これが漱石を見た始めで終わりであった。早稲田南町の邸宅とは、現在、漱石公園となっているところである。

参考文献
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)

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雑司ケ谷霊園(4)

2011年05月08日 | 荷風

雑司ヶ谷霊園 部分案内地図 小泉八雲の墓 小泉八雲の墓 永井荷風の墓と岩瀬忠震の墓との間を奥に進むと、左の部分案内地図(前回の記事と同じ地図)のように、小泉八雲の墓がある。墓石左側面に「明治三十七年九月二十六日寂」と刻まれている。

永井荷風は大正11年(1922)9月小泉八雲の墓を訪れている。「断腸亭日乗」に次の記述がある。

「九月十七日。昨夜深更より風吹出で俄に寒冷となる。朝太陽堂主人来談。午後雑司ケ谷墓地を歩み小泉八雲の墓を掃ふ。塋域に椎の老樹在りて墓碑を蔽ふ。碑には右に正覚院殿浄華八雲居士。左に明治三十七年九月二十六日寂。正面には小泉八雲墓と刻す。墓地を横ぎり鬼子母祠に賽し、目白駅より電車に乗り新橋に至るや、日既に没し、商舗の燈火燦然たり。風月堂に飰して帰る。」

荷風が詣でた墓石は上の写真のとおり。

ラフカディオ・ハアン(小泉八雲)は、1850年(嘉永三年)6月27日ギリシアのイオニア諸島のレフカス島、別名レフカダ島(古名レウカディア島)に生まれた。ラフカディオはこの古名にちなむとのこと。父はアイルランド出身のイギリス軍付き軍医で、母はマルタ島生まれといわれるギリシア人。1869年19歳のとき米国に渡る。1890年(明治23年)40才のとき横浜到着。島根県松江中学校の英語教師。次の年、小泉節子と結婚。熊本の第五高等学校に転任。1894年(明治27年)新聞論説記者として神戸に移る。1896年(明治29年)東京帝国大学英文科講師。牛込区市ヶ谷富久町21番地に住む。1902年(明治35年)西大久保265番地に転居。次の年、東京帝国大学退職。後任は、夏目漱石と上田敏。1904年(明治37年)早稲田大学文学部に出講。9月26日狭心症で急逝。享年54歳。

市ヶ谷富久町21番地は、成女学園のあたりで自証院坂の西側であるが、ここに小泉八雲旧居跡の碑があるらしい。しかし、坂の両わきにはないので、学園の中にあるのだろうか。西大久保旧居跡の碑もあるとのこと。

「断腸亭日乗」にもどって、昭和四年(1929)正月に次の記述がある。

「正月二日 空隅なく晴れわたりしが夜来の風いよいよ烈しく、寒気骨に徹す、午前机に向ふ、午下寒風を冒して雑司カ谷墓地に徃き先考の墓を拝す。墓前の蠟梅今猶枯れず花正に盛なり、音羽の通衢電車往復す、去年の秋頃開通せしものなるべし、去年此の日お歌を伴ひ拝墓の後関口の公園を歩み、牛込にて夕餉を食して帰りしが、今日はあまりに烈しければ柳北八雲二先生の墓にも詣でず、車を倩ひて三番町に立寄り夕餉を食し、風の少しく鎮まるを待ち家に帰る、夜はわずかに初更を過ぎたるばかりなれど寒気忍びがたきを以て直に寝につきぬ。」

この年は、風が強かったようで、荷風は、亡父の墓参りを済ませると、柳北・八雲の墓には行かず、すぐに帰ったようである。昭和7年(1932)、昭和11年(1936)元旦には、小泉八雲の墓も訪れている。

荷風は、小泉八雲の読者であったようで「日乗」にときどきでてくる。

昭和10年(1935)「三月廿九日。隂。後に晴。終日鶯語綿蛮たり。ラフガデオハアンの仏蘭西訳本怪談を読む。藪蚊の一章最妙。夜美代子と銀座に飰す。」
鶯語:うぐいすの鳴き声
綿蛮(めんばん):小鳥のさえずり

同年「四月九日。春雨瀟々夜に至って霽る。小泉八雲の尺牘集を読む。八雲先生が日本の風土及生活について興味を催したる所のものは余が帰朝当時の所感と共通する所多し。日本の空気中には深刔なる感激偉大なる幻想を催すべきものゝ存在せざる事を説きたる一文の如きは全く余の感想と符合するなり 仏訳本五十六頁・・・」

同年「四月十七日。朝来風雨夜に入るも歇まず。此日電話にて神田の一誠堂に注文し、和訳ハアン全集を購ふ 金八十円 余が少年時代の日本の風景と人情とはハアンとロチ二家の著書中に細写せられたり。老後この二大家の文をよみて余は既徃の時代を追懐せむことを欲するなり。」

荷風は、八雲が日本の風土と生活について興味を示した所に注目し、帰朝当時の自らの所感と共通することが多いと書いている。和訳ハアン全集を購入し、自らの少年時代の日本の風景と人情とはハアンとロチ二家の著書中に詳しく、老後に、この二大家の文を読んで昔を懐かしみたいなどと記している。八雲にかなり心酔している様子がみてとれる。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
上田和夫訳「小泉八雲集」(新潮文庫)
野尻泰彦「碑(いしぶみ)の東京」東京史蹟研究会

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雑司ケ谷霊園(3)

2011年05月05日 | 荷風

雑司ヶ谷霊園 部分案内地図 岩瀬忠震の墓 左の部分案内地図(前回の記事と同じ地図)のように、永井荷風の墓の反対側に岩瀬忠震(ただなり)の墓がある。永井荷風「断腸亭日乗」昭和8年(1933)正月元旦に次の記述がある(以前の記事に全文あり)。

「正月元日。晴れて暖なり。午後雑司谷墓地に徃き先考の墓を掃ふ。墓前の蠟梅馥郁たり。先考の墓と相対する処に巌瀬鷗所の墓あればこれにも香華を手向け、又柳北先生の墓をも拝して、来路を歩み、護国寺門前より電車に乗り、伝通院に至り、大黒天に賽す。・・・」

鷗所とは忠震の号である。幕末、老中阿部正弘は思い切った人物登用を行ったが、そのときの抜擢組の一人であり、他に勝麟太郎(海舟)・永井尚志・筒井政憲・松平近直・川路聖謨・堀利熙・井上清直・江川太郎左衛門(英龍)などがいた。忠震は、目付に出世してから下田奉行井上清直とともに全権委員として、通商貿易を求めてきた米国のハリスと条約締結交渉に当たった。岩瀬、井上ともに当時の幕府の役人中では、もっとも俊才で、開明的であり、外国通であったが、さすがに外交交渉には慣れていないため、ハリスの話を聞くだけであったという。

荷風は、次の年(昭和9年)にも正月元旦に墓参りにきたが、そのとき記録した岩瀬家の墓石の墓碑銘を「断腸亭日乗」にのせている。長いが以下引用する。

「正月元日 旧暦十一月十六日 晴れて風なし。朝の中臥蓐に在りて鷗外全集補遺をよむ。午後雑司ケ谷墓地に抵り先考の墓を拝す。墓畔の蠟梅古幹既に枯れ新しき若枝あまた根より生じたれば今は花無し。先考の墓と相対して幕臣岩瀬鷗所の墓あり。刻する所の文左の如し。
〔原本丸・漢数字朱書、以下同ジ〕
① 岩瀬氏奕世之墓
岩瀬氏本姓藤原。高祖諱氏忠。始仕江戸幕府。経氏盛、忠兼、忠香、忠英、忠福至忠正。無子。養設楽氏。配以其女。以為嗣。是為爽恢府君。府君諱忠震。通称修理。号蟾洲(所)。又鷗所。歴徒頭目付擢為外国奉行。叙従五位下任肥後守。文久元年七月十一日病卒。享年四十有四。有三男六女。男皆殤。族子忠升承後。又無子。岩瀬氏竟絶。歴世墳墓在小石川蓮華寺。会官拓市区。塋域当毀。漸与知旧謀ト地于雑司谷村。以改葬。因勒石誌其事由云。
明治四十二年十一月 甥本山漸謹記
 〔欄外朱書〕鷗所実父ハ設楽市左衛門也実母ハ林述斎ノ次女某也

② 淡順院殿正日寧大居士
淡順岩瀬府君墓表
余以与君之義子諱忠震為友于之交也。有知君之平生焉。君性恬淡温順。与義子忠震相親睦。而令孫忠斌為□□□愛。辛酉之夏忠斌病歾。忠震亦尋歾。君痛悼不□□病顚綿。自知不起。乃養岩瀬氏善第三子忠升為嗣。未幾而瞑焉。可哀也。君諱忠正。岩瀬氏。称市兵衛。考市兵衛諱忠福第二子。母石津氏。文化九年承家。十二年為書院番士。嘉永五年為書院番組頭。叙布衣。安政三年転先手。以文久元年九月廿八日卒。距生寛政六年十一月十一日。享年六十有八。諡曰淡順。葬於小石川蓮華寺。室神尾氏女。有六男九女。男皆夭。長女配義子忠震。先歾。一女適榊原政陳。余皆夭。
 文久二年壬戌五月図書頭林晃撰
                              関研拝書

③ 従五位下肥後守爽恢岩瀬府君之墓
文久元年辛酉七月十一日卒」

①が岩瀬氏代々の墓、②が忠震の養父忠正の墓、③が忠震の墓(右の写真)である。(丸付き数字は、原文では、漢数字である。)

府君:尊者や亡祖父・亡父の尊称
殤:わかじに(二十歳前に死ぬこと)
歾:死ぬ
夭:わかじにする

幕末に将軍家定の継嗣を誰にするかで一橋派(前水戸藩主徳川斉昭の第七子で、一橋家を継いだ一橋慶喜を推す)と南紀派(紀州藩主徳川慶福を推す)との争いがあったが、南紀派の井伊直弼が安政五年(1858)4月に大老に就任し、徳川慶福が継嗣に決まった。その後、直弼は一橋派の幕府役人の左遷を始め、忠震も一橋派であったが、米国との外交交渉のために残されていた。同年6月に日米修好通商条約がハリスと井上清直・岩瀬忠震との間で調印された後、忠震は、永井尚志や川路聖謨とともに隠居・慎とされた。

荷風の墓碑銘の記録によると、その3年後の文久元年(1861)岩瀬家は次々と悲劇に見舞われたようである。忠震の跡継ぎの忠斌が夏に病で亡くなり、忠震が七月十一日に病で亡くなり、忠震の養父忠正が九月廿八日に亡くなっている。忠正は、享年六十八、六男九女の子供がいたが、男はみな若死にし、忠震を養子にし長女を娶せ、この養子が養父よりも出世し目付・外国奉行になった。忠震は、享年四十四、三男六女の子供がいたが、これもまた男はみな若死にした。一族からきた忠升が継いだが、子がなく、岩瀬家は断絶したようである。

この日の「日乗」は上記で終わりではなく、さらに、次のように続いている。

「墓地を出で音羽の町を歩み、江戸川橋に至り、関口の公園に入る。公園の水に沿ふ処一帯の岸は草木を取払ひセメントにて水際をかためむとするものの如く、其工事中なり。滝の上の橋をわたり塵芥の渦を巻きて流れもせず一所に漂ふさまを見る。汚き人家の間を過ぎ関口町停留塲より電車に乗り、銀座に徃けば日は既に暮れたり。オリンピク洋食店休業なれば歩みて芝口の金兵衛に至り夕飯を命ず。主婦来りて屠蘇をすゝむ。余三番町のお歌と別れてより正月になりても屠蘇を飲むべき家なし。此夕偶然椒酒の盃を挙げ得たり。実に意外の喜なり。食後直に家にかへる。
余年年の正月雑司ケ谷墓参の途すがら音羽の町を過るとき、必思出す事あり。そは八九歳のころ、たしか小石川竹早町なる尋常師範学校附属小学校にて交りし友の家なり。音羽の四丁目か五丁目辺の東側に在りき。鳩山一郎が門前に近きあたりのやうに思へど明ならず。表通にさゝやかなる潜門あり。それより入れば三四間ばかり(即表通の人家一軒ほどのあいだ)細き路地の如くになりし処を歩み行きて、池を前にしたる平家の住宅の縁先に出るなり。玄関も格子戸口もなかりき。縁先に噴井戸ありて井戸側より竹の樋をつたひて池に落入る水の音常にさゝやかなる響を立てたり。此井戸の水は神田上水の流なりといへり。夏には西瓜麦湯心天などを井の中に浮べたるを其の家の母なる人余が遊びに行く折取り出して馳走しくれたり。余が金冨町の家にはかくの如き噴井戸なく、また西瓜心天の如きものは害ありとて余は口にすることを禁じられ居たれば、殊に珍らしき心地して、此の家を訪ふごとに世間の親達は何故にかくはやさしきぞと、余は幼心に深く我家の厳格なるに引きかへて、人の家の気儘なるを羨しく思ひたりき。或日いつもの如く学校のかへり遊びに行きたるに、噴井戸の側に全身刺青したる男手拭にて其身をぬぐひゐたるを見たり。これは後に聞けば此家の主人にて、即余が学友の父なりしなり。思ふに顔役ならずば火消の頭か何かなるべし。されど唯一度遇ひしのみにて其後はいつもの如く留守なりしかば、いかなる人なるや其名も知らずに打過ぎたり。此家には噴井戸の水を受くる池のみならず、垣の後より崖の麓に至る空地にも池ありて、蓮生茂りたり。又崖は赤土にて巌のごとくに見ゆる処より清水湧出でたり 崖の上は高台なれど下より仰けば樹ばかり見えて人家は見えざるなり 余は友と共にこの池にて鮒を釣りたる事を記憶す。明治廿四年の春三条公爵葬儀の行列音羽を過ぎて豊嶋ケ岡の墓地に到りしことあり。余はその比既に小石川を去りて麹町永田町なる父の家に在りしが、葬式の行列を見んとて音羽なる友の家を訪ひ、其門前に佇立みゐたることあり。其後は学校も各異りゐたれば年と共にいつか交も絶え果て、唯幼き時の記憶のみ残ることゝはなれるなり。今は其人の姓名さへ思ひ出し得ざるなり。」

今宮神社近くの湧き水

荷風は、毎年雑司ケ谷への墓参りの途すがら音羽の町を過ぎるとき必ず思い出す、子供時代の友達との思い出を記している。その友の家は、荷風の実家などと違って、下町の気儘な家であったようである。子供時代の思い出に浸っているが、これは子供時代の実家のことを描いた小作品「」と通底するような気がする。友の家は、音羽通りの東側にあり、家の前には神田上水の流という噴井戸で池ができていた。そのあたりは音羽谷と小日向台地との崖の下で、そこから流れ出る湧き水と思ったが、そうではないようである。現在、今宮神社近くでその名残のような湧き水が左の写真のようにわずかに流れている(以前の記事参照)。

その池には、夏にすいかや麦茶やところてんなどを冷やし、荷風が遊びに行くと、それらを友の母がご馳走してくれた。荷風の家では、すいかやところてんなどは食べさせてもらえなかった。害があるということで禁じられていた。こういったことを書いているのは、上記のように記録した岩瀬家の墓碑銘から読みとられる悲劇と無関係ではないであろう。当時は、いまよりもずっと子供の死亡率が高く、跡継ぎの男児を無事に育てあげることが困難な時代で、荷風の家でも、そのため、子供に危険と考えられていた食物を制限していたのではないだろうか。しかし、それは大人の理屈で、荷風は、そのことを承知の上で、上記の「日乗」を書いている。そんなことは知らない壯吉少年にとって友の家はなんと自由で、うらやましかったことであろう。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
小西四郎「日本の歴史19 開国と攘夷」(中公文庫)

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雑司ケ谷霊園(2)

2011年05月02日 | 荷風

雑司ヶ谷霊園 部分案内地図 成島柳北の墓入口 成島柳北の墓 永井荷風は昭和11年(1936)元旦に雑司ケ谷霊園に亡父の墓参りにきているが、そのとき、小泉八雲、成島柳北、岩瀬鷗所の墓も訪れている。「断腸亭日乗」に次のようにある(以前の記事に全文あり)。

「正月元日。・・・日も晡ならむとする頃車にて雑司ヶ谷墓地に赴く。先考及小泉八雲、成島柳北、岩瀬鷗所の墓を拝し漫歩目白の新坂より音羽に出づ。・・・」

永井家の墓地からもとの大きい通り(管理事務所正面通り)に出て左折し、ちょっと進み、左の写真の案内地図(前回掲載の地図をトリミングした部分地図)のように、右手の区域(1-4B)に柳北の墓がある。以前訪れたことがあり、そのときのかすかな記憶にたよって右折するとすぐのところにあった。写真のように、1種4B号1側の標識が立っている。ここを入って右手二番めの墓地である。

成島柳北については、以前の記事でちょっとだけ触れたが、幕末に将軍侍講から武官となり、明治維新後に新聞の世界に入ってジャーナリストとして活躍した人物で、風流文人でもあり、荷風が私淑していた。

昭和二年(1927)の「日乗」に次の記述がある。

「正月二日 好晴、今日の如き温暖旧臘より曾て覚えざる所なり、午下自働車を倩ひ雑司ケ谷墓地に赴く、道六本木より青山を横ぎり、四谷津の守坂を下りて合羽坂を上り、牛込辨天町を過ぎて赤城下改代町に出づ、改代町より石切橋の辺はむかしより小売店立続き山の手にて繁華の巷なり、今もむかしと変る処なく彩旗提燈松飾など賑かに見ゆ、江戸川を渡り音羽を過ぐ、音羽の街路広くなりて護国寺本堂の屋根遥かこなたより見通さるゝやうになれり、墓地裏の閑地に群童紙鳶を飛ばす、近年正月になりても市中にては凧揚ぐるものなきを以てたまたま之を見る時は、そゞろに礫川のむかしを思ひ出すなり、又露伴先生が紙鳶賦を思出でゝ今更の如く其名文なるを思ふなり、車は護国寺西方の阪路を上りて雑司ケ谷墓地に抵る、墓地入口の休茶屋に鬼薊清吉の墓案内所と書きたる札下げたるを見る、余が馴染の茶屋にて香花を購ひまづ先考の墓を拝す、墓前の蠟梅馥郁たり、雑司谷の墓地には成島氏の墓石本所本法寺より移されたる由去年始めて大島隆一氏より聞知りたれば、茶屋の老婆に問ふに、本道の西側第四区にして一樹の老松聳えたる処なりといふ、松の老樹を目当にして行くに迷はずして直ちに尋到るを得たり、石の墻石の門いづれも苔むして年古りたるものなり、累代の墓石其他合せて十一基あり、石には墓誌銘を刻せず唯忌日をきざめるのみなり、歩みて再び護国寺門前に出で電車に乗りて銀座に抵るに日は忽ち暮れんとす、太牙楼に登り夕餉を食し家に帰らんとするに邦枝日高林の諸氏来りしかば、この夜もまた語り興じていつか閉店の刻限に至りぬ、日高氏と電車を与にして家に帰れば正に三更なり、」

この年、柳北の外孫の大島隆一からこの墓地に柳北の墓が本所本法寺から移ってきたことを聞いたらしく、茶屋の老婆に尋ね、はじめて訪れた。第四区というのは、いまの4A号、4B号であろうか。一樹の老松はいまはないようである。

ところで、この年の墓参りは車で行ったが、その道順に興味を覚える。津の守坂を下り合羽坂を上り、そこから、いまの外苑東通りを北上し、牛込辨天町を過ぎて赤城下改代町に出て、そこから、石切橋の辺を通り、江戸川を渡り、音羽の街路を通ったが、護国寺本堂の屋根を見通すことができた。墓地裏の閑地で子供たちが紙鳶を飛ばしているのを見て礫川のむかしを思ひ出した。護国寺西方の坂道を上って雑司ケ谷墓地に至った。護国寺西方の坂道とは、小篠(こざさ)坂であろう。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)

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