東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

菊坂

2012年10月31日 | 坂道

菊坂周辺地図 菊坂下 菊坂下 菊坂下 現在菊坂とされている坂は、一枚目の写真の街角地図(上がほぼ南)のように、前回の新坂下近くの本郷五丁目33番と四丁目27番との間から本郷三丁目の交差点近くの本郷通りまで緩やかにカーブしながら南東へ延びるかなり長い坂である。本郷通りに向けて上る坂であるが、坂下と坂上で緩やかな上りとなっているだけで、そのかなり長い中間はほぼ平坦である。

一枚目の地図からわかるように、坂の途中で別の坂がつながっており、いずれもこの坂から上っている。坂下から順に、胸突坂、梨木坂、本妙寺坂。

長い坂なので、坂上側を撮った写真を坂下から順に並べる(ただし、最後の一枚は坂上から坂下側を撮った)。

二枚目の写真は、新坂下近くの菊坂下の交差点から撮ったもので、かなり緩やかに上りはじめている(ここを右へ進めば白山通りとの西片交差点である)。三枚目は坂下からちょっと進んだところから撮ったもので、山小屋というピザ屋の手前を左折すると、胸突坂である。

伊勢屋質店説明板 菊坂中腹 菊坂中腹 菊坂中腹 ちょっと進むと、上四枚目の写真のように、左手前方に古びた建物が見えてくる。その前に文京区の説明板が立っているが、樋口一葉ゆかりの伊勢屋質店である。一枚目の写真はその説明板を撮ったもので、一葉一家がこの近くの貸家に住んでいたとき、この伊勢屋に度々通い、その後引っ越ししてからも縁が続いたとある。

二~四枚目は、その先で撮ったもので、このあたりからほとんど傾斜がない。四枚目の左の道に入ると、梨木坂の坂下である。

下一枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)を見ると、菊坂町とある町屋の三角形状の区画を囲んでいる底辺が梨木坂に相当する道筋で、左斜辺がいま歩いてきた菊坂で、右斜辺が胸突坂である。下二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図にも同様の三角形状の区画が見える。

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 菊坂中腹 菊坂中腹 三枚目の写真は、梨木坂下からちょっと進んだところで、前方右手の花屋のわきの階段を下ると、そこは菊坂よりも一段低い所にできた狭い道(菊坂下通り)で、菊坂とほぼ平行に延びている。大正十年(1921)宮沢賢治が東京に出てきたとき住んでいたのがこの近くである。

さらにちょっと進んで撮ったのが四枚目で、左に菊坂の標識が立っているが、次の説明がある。

「菊坂(きくざか)
           本郷四丁目と五丁目の間
「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候に付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由」(『御府内備考』)とあることから、坂名の由来は明確である。
 今は、本郷通りの文京センターの西横から、旧田町、西片一丁目の台地の下までの長い坂を菊坂といっている。
 また、その坂名から樋口一葉が思い出される。一葉が父の死後、母と妹の三人家族の戸主として、菊坂下通りに移り住んだのは、明治23年(1890)であった。今も一葉が使った堀抜き井戸が残っている。
    寝ざめせしよはの枕に音たてて なみだもよほす初時雨かな
                  樋口夏子(一葉)
   東京都文京区教育委員会 平成11年3月」

菊坂中腹 菊坂中腹 菊坂中腹 菊坂中腹 一~四枚目の写真は菊坂の標識から先を撮ったもので、このあたりもほとんど平坦である。二枚目の右の道へ右折すると本妙寺坂の坂下である。

上記の文京区の菊坂の標識は『御府内備考』を引用しているが、これは菊坂町の書上のはじめにある町名の由来を説明する文である。全文は次のとおり。

「菊坂町
一町名起立の儀は、長禄年中本郷辺町屋に相成候頃、此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候に付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由申伝候得ども、草分け人并[ならびに]土地に古き者も無之、古来の書留等度々の類焼に焼失仕、起立の年歴等相知兼申候、
 但町内町屋に相成候年歴は相知不申候得共、右町一円に御中間方え大縄にて拝領地に相渡り候者、寛永五子年の由申伝候、」

同じく本郷之一の総説は次のように『南向茶話』(酒井忠昌著、寛延四年(1751))を引用している。

「菊坂
 菊坂は丸山より小石川へ出るの坂なり、この処はむかし菊を作りし畑ありしゆへ坂の名とす、【南向茶話】」

上記の御府内備考、南向茶話によれば、菊坂は、坂上の方に菊坂台町、坂下の方に菊坂町があり、丸山より小石川へ出る坂で、ここに菊畑があったことが坂名の由来である。

『紫の一本』(戸田茂睡著、天和二年(1682))には次の説明がある。

「菊坂
 小石川より本郷六丁目へ出る所の坂を云ふ。」

本郷六丁目は、上記の二つの江戸地図にあるように、菊坂台町の東にあたる。このため、この記述にあう坂は胸突坂である。この坂は、上記の尾張屋板で「ム子ツキサカ」となっている。 近江屋板(嘉永三年(1850))を見ると、梨木坂の道筋に「キクサカ」とあり、また、「ム子ツキサカ」とある道筋は、尾張屋板と同じである。

以上のように、菊坂は江戸時代の坂であるが、当時の坂は、現在菊坂とよんでいる道筋と違うようである。

菊坂上 菊坂上 菊坂上 菊坂上 一、二枚目の写真は坂上近くから撮ったもので、かなり緩やかであるが、上りになっている。三枚目は坂上の直前から撮ったもので、坂上の先に本郷通りが見える。四枚目は坂上から坂下側を撮ったもので、近くに立っているプレートに「菊坂通り」とある。

尾張屋板でも近江屋板でも、現在菊坂としている道筋は、本妙寺のあたりまでしかなく、本郷通りまで延びていない。明治十一年(1878)の実測東京全図も同じである。明治四十年(1907)の明治地図を見ると、現在のように本郷通りまで延びている。前回の新坂もこの間にできており、この辺りは明治中期頃に道路工事でかなり変わったように思われる。

現在菊坂と呼んでいる道は、細く長く交通量も少なく、適度にうねっているためむかしの雰囲気が残っている。坂上からアクセスすると、本郷通りの喧噪から遠ざかるようになって、静かな散歩を楽しむことができる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新坂(本郷六丁目)

2012年10月18日 | 坂道

今回は、文京区菊坂下からはじめて、お茶の水坂の方まで歩いた。菊坂等は本郷台地の南側に位置しその西面にできた坂である。このあたりには古くからの坂が多く、しかも急坂が多い。(現代地図参照)

新坂下 新坂下 新坂中腹 新坂中腹 午後地下鉄後楽園駅下車。

千川通りを北に歩き、こんにゃくえんま前の交差点で右折し、白山通りを横断し、東へ菊坂下方面に進み、菊坂下の信号を通り過ぎて一本目を右折すると、新坂の坂下である。本郷五丁目33番と本郷六丁目10番との間である。

この菊坂下の交差点のある通りは、本郷通りにつながり、その下を地下鉄南北線が通っている。

一、二枚目の写真は坂下から撮ったもので、まっすぐに東へ上っている。三、四枚目は坂中腹あたりから撮ったものである。狭くかなり勾配がある坂である。

新坂中腹 新坂中腹 新坂上 新坂上 一、二枚目の写真のように、坂中腹、下から見て、右側に坂標識が立っている。三、四枚目は坂上近くから撮ったものである。四枚目のように坂上で左に曲がっている。

新坂という坂名は、都内に多く、この近くにも、西片一丁目の北に新坂(福山坂)、根津神社近くに新坂(権現坂・S坂)がある。また、今回行ったが、本郷一丁目にも別名外記坂という新坂がある。文字通り新しい坂であるが、できた時代によるから、江戸時代にできた新坂もある。

上記の文京区の坂標識に次の説明がある。

「新坂
 区内にある新坂と呼ばれる六つの坂の一つ。『御府内備考』に、「映世神社々領を南西に通ずる一路あり、其窮(きわま)る所、坂あり、谷に下る、新坂といふ」とある。名前は新坂だが、江戸時代にひらかれた古い坂である。
 このあたりは、もと森川町と呼ばれ、金田一京助の世話で、石川啄木が、一時移り住んだ蓋平館別荘(現太栄館)をはじめ、高等下宿が多く、二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など、文人が多く住んだ。この坂は、文人の逍遥の道でもあったと思われる。
  東京都文京区教育委員会 昭和63年3月」

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 石川啄木ゆかりの蓋平館別荘跡 一枚目は、尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図であるが、これには菊坂町のとなりにムナツキサカとあるが、この北側は本多美濃守の屋敷で、この坂に相当する道筋はない。近江屋板にも見えない。二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図にもない。

上記の文京区の標識には『御府内備考』にある説明が引用されているが、同著をいくら見てもそのような説明はない。同じ説明が石川や岡崎で『新撰東京名所図会』のものとして引用されている。これから上記の標識の『御府内備考』は誤りで、『新撰東京名所図会』であると思われる。

明治四年(1871)の東京大絵図を見ると、この坂はのっていない。明治十一年(1878)の実測東京全図も同じである。いずれにも、現在胸突坂とされている坂の北側に道筋がまったくなく、上記の尾張屋板と同じである。実測東京全図によると、現在の菊坂下から本郷通りへ向かう通りの西側は、本郷台地の崖下で、現在の白山通りの方から入りこんだ谷地であったことがわかる。明治四十年の明治地図では、この通りができており、その途中にこの坂がある。

以上から、この坂は、江戸時代の坂でなく、明治になってから開かれた新坂と思われる。

新坂上 新坂上 新坂上(太栄館前) 新坂上(太栄館前) 一枚目の写真は坂上から坂下を撮り、二枚目はその反対側を撮ったもので、坂上で左に曲がった道が平坦にまっすぐに北東へ延びている。

二枚目のように、坂上左に旅館太栄館がある。ここは、もと蓋平館別荘で、石川啄木が住んだことがあるとのことだが、三枚目のように、その説明板が立っている。上三枚目はその拡大写真である。四枚目は、太栄館前から坂上側を撮ったものである。

このあたりには、ここ以外にも樋口一葉や宮沢賢治などのゆかりの場所がある。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和記念公園2012(10月)

2012年10月15日 | 写真

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉本和子「寒冷前線」

2012年10月14日 | 吉本隆明

俳人、吉本和子の句集である。

作者は、三月に亡くなった吉本隆明の妻にして、二人の娘(ハルノ宵子、吉本ばなな)の母でもある。京都の三月書房からのメールで10月9日に死去したことを知った(ニュース)。

この句集は、吉本隆明の妻によるものということで購ったが、よい句が多いように思った。追悼の意味から、ぱらぱらとめくって印象に残ったものや気に入ったものをいくつか、以下に、掲げる。(写真は、私のアルバムからあうようなイメージのものを選んだが、無理にこじつけたものもある。)

 生き暮れて猫を抱けば猫温し


 三月の景蒼ざめて日蝕す


 夢で行くいつもの街に迷う春


 男坂のぼり梅観て女坂

湯島天神男坂 湯島天神女坂


 仲春の坂のぼりゆく下りるため

三崎坂 三崎坂


 余命への祭りたけなわ蝉しぐれ

玉川上水公園


 小さき花集め紫陽花掌に余る

紫陽花


 露路裏にコスモス招く入りてみる

昭和記念公園


 逝く猫の目を閉じやれば月のぼる


 老猫の目も和みたる小春かな

昭和記念公園


 風は北風に変わるや遠く貨車の音


 病み猫を抱けば部屋染む冬茜

坂好きとしては、坂の句がうれしい。はじめのは、湯島天神の男坂・女坂であろうか。次のは、どこか不明だが、谷中の三崎坂のような比較的長い坂かと思い、その写真を貼り付けた。谷中の生まれだそうであるので、ちょうどよいと思ったからでもある。(吉本隆明「坂の上、坂の下」)

吉本家は、猫好き一家のようで、そのためか、猫を詠んだ句も多い。

最後の二句などは、その貨車の音が聞こえるようで、また茜色に染みた部屋が思い浮かんできて、北風の夜の寂寞や病み猫の様子が心にしみ込んでくるかのようである。

「「寒冷前線」は、わたしがこの一年十ヶ月間に「秋桜」誌に投稿した全句である。二年前までの私は、自分が俳句という表現方法で、自己表出を試みる事になろうとは、思ってもみなかった。」

「あとがき」(平成十年七月)の冒頭である。晩年になってから句作をはじめたようであるが、その才能がよくあらわれていると思う。

吉本隆明は、昭和36年(1961)から平成9年(1997)まで『試行』を編集発行していたが、その事務を和子が担当していた。

「周知のように『試行』は直接予約購読制という独特の販売方式をとっていた。当然のことながら名簿、会費、発送の事務作業が欠かせないものになる。作業は煩雑を極める--最盛時七千部を上廻った購読者の受付、予約切れの通知、住所変更etc.。創刊以来、その事務作業を担ってきたのが、隆明の妻・和子だ。」(石関善治郎「吉本隆明の東京」)

そうとうにむかしだが、私も、ほんの短い期間、購読したことがある。そのときの思い出であるが、あるとき、住所表記の変更かなにかの手違いで、二冊送られてきたことがあって、一冊を送り返したところ、お詫びの手紙が送られてきた。送り返すのに要した分の切手も同封してあり、その簡潔だが丁寧な文面とともにこちらがかえって恐縮する思いであった。しかし、もっと驚いたことがあった。その手紙の書体である。ペン字であったが、流れるようにすらすらと書いたうつくしく品格のあるすばらしいものであった。おもわず、私は、隆明はこの字に惚れたのか、などと思ったのであった。

参考文献
吉本和子「寒冷前線」(深夜叢書社)
石関善治郎「吉本隆明の東京」(作品社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善福寺川(宮下橋~大谷戸橋)2012(10月)

2012年10月08日 | 写真

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする