東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

小栗坂

2011年11月30日 | 坂道

小栗坂上 小栗坂上 小栗坂上 前回の皀角坂の坂下を左折すると、小栗坂の坂上である。道幅は広いが、まっすぐにちょっと下っただけですぐに緩やかになる小坂である。それでもそれなりにちょっとした勾配がある。どんな坂と思って来ると期待はずれになるような坂であるが、かなり高低差のある皀角坂を下ってからさらに下る坂なので、むしろこの程度であるのが自然である。

この坂は、錦華通りの北端に位置し、ここから南~東南へ延びて途中猿楽通りが合流してから富士見坂下で靖国通りにつながる。

二、三枚目の写真のように、坂上側に標柱が立っており、次の説明がある。

「この坂を小栗坂といいます。『江戸惣鹿子名所大全』には「小栗坂、鷹匠町にあり、水道橋へ上る坂なり、ゆえしらず」とあり、『新撰東京名所図会』には「三崎町一丁目と猿楽町三丁目の間より水道橋の方へ出づる小坂を称す。もと此ところに小栗某の邸宅ありしに因る」とかかれています。明暦三年(一六五七)頃のものといわれる江戸大絵図には、坂下から路地を入ったところに小栗又兵衛という武家屋敷があります。この小栗家は「寛政重修諸家譜」から、七百三十石取りの知行取りの旗本で、小栗信友という人物から始まる家と考えられます。」

尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図/1863年)を見ると、サイカチサカの坂下から南へ延びる道に多数の短い横棒からなる坂マークに続いて小栗坂とあり、片仮名でなく記されている。近江屋板にも△小栗坂とある。いずれにも坂周囲に小栗という屋敷はない。上記の標柱にある小栗家の屋敷は、幕末に、ここになかった。

小栗坂上 小栗坂下 小栗坂下

一枚目の写真は坂上側から北側を撮ったものであるが、奥に皀角坂下が見え、右折すると皀角坂の上りとなる。

横関は、小栗坂を「千代田区神田猿楽町と神田三崎町一丁目の境を角坂下から南に下る、ゆるやかな小さい坂。昔、お鷹匠の小栗家の屋敷がここにあったので坂の名となった」とし、小栗家は鷹匠であったとしている。

石川は、幕末のとき「有名な小栗上野介は駿河台の皀角坂上通りのあたりに居していたが、あるいはその小栗と関連があるのだろうか。」としている。しかし、千代田区のホームページには、次の説明がある。

「40.小栗坂(おぐりざか)
 三崎町一丁目と猿楽町二丁目の間を神田川の方へ上る坂です。昔近くに小栗某の屋敷があったことから、この名が付けられたといわれています。
 幕末に活躍した小栗上野介の屋敷とは関係ありません。」

私も以前、この坂名を眼にしたとき、小栗上野介と関係があるのかと思ったが、上記の標柱のように、明暦三年(1657)頃の江戸大絵図に小栗邸があるとのことで、やはり関係がないと思われる。

ところで、前回の皀角坂の記事で、永井荷風『下谷叢話』を引用して、鷲津毅堂が明治維新後東京に来たとき、駿河台莢阪下の官舎に入ったことを記したが、その官舎は、この坂の西側にあった。住所は、三崎町一丁目十二番地で、明治四年に公にされた『東京大絵図』を見ると、莢坂下から南へ曲がり、小栗坂の西側坂上から二軒目に「ワシヅ」とある。これは秋庭太郎の著書で知ったが、その地図は「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)に収められている。

今回は、駿河台の坂を巡ったが、歩いていて、明大通りを挟んで、街の雰囲気がずいぶん違うように感じた。池田坂や甲賀坂のある東側は明大通りも含めて人通りが多く、にぎやかである。これに比べて、西側は、胸突坂にはまだその喧噪が残っているが、そこから西の錦華坂や猿楽通りやとちの木通りや皀角坂に行くとかなり静かでひっそりとしている。休日の静かな散歩を楽しむには西側の方がよい。

小栗坂から猿楽通りの方へ行ったりしてから神保町駅へ。

今回の携帯計測による総歩行距離は12.8km。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
秋庭太郎「考証 永井荷風(上)」(岩波現代文庫)

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皀角坂

2011年11月29日 | 坂道

皀角坂上 皀角坂上 皀角坂上から東北 皀角坂上側 前回の女坂上を左折し、とちの木通りをちょっと西へ進むと、突き当たりで、その左右が皀角(さいかち)坂である。突き当たりの合流位置は、坂の上側で、そのあたりから坂上を撮ったのが二枚目の写真である。ここを右折し、一枚目の写真のように、坂上に行く。

この坂の北側にJR中央線が通り神田川が流れているが、坂上近くに、JRの線路が下の方に見えるところがある。三枚目の写真はそこから東北方向を撮ったものである。ここから神田川の水面は見えなかった。川の向こう側には高層ビルが並んで壁のようになっている。

坂上から合流位置付近までまっすぐに下り、そこでやや右に曲がってから、ほぼまっすぐに西へ下っているが、途中ちょっとうねっているのが好ましい。

勾配は中程度からちょっときつめといったところで、坂上から坂下までかなりの距離がある。坂下左側に小栗坂があるが、このあたりでほぼ平坦であり、まっすぐに進むと水道橋駅に至る。

この坂上を直進すると、お茶の水駅前で、そこをさらに東へ進むと、聖橋口前の交差点で、そこから淡路坂上が見える。皀角坂と淡路坂は駿河台の台地の北端に沿って東西に長く延び、ちょうどJR中央線に沿うようにして続いている。二つの坂を坂下から坂下まで歩くと、一駅分程度のかなりの距離となる。両坂がこの台地を代表する坂のように思えてくる。

皀角坂上側 皀角坂上側 皀角坂中腹 皀角坂中腹 尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図/1863年)を見ると、サイカチサカとあり、南側は武家屋敷で、北側は神田川である。近江屋板にも、△サイカチ坂とある。いずれにも、現在のとちの木通りに相当する大袋町の通りと合流したところから下側に坂名が記してある。また、御江戸大絵図(天保十四年(1843)版)にも、坂マークの多数の横棒の下にサイカチサカとある。この坂は、淡路坂とともに江戸から続く坂である。

上の四枚目、一枚目の写真のように、坂上側に標柱が立っている。次の説明がある。

「この坂を皀角坂といいます。『新撰東京名所図会』には「駿河台鈴木町の西端より土堤に沿いて、三崎町の方に下る坂なり」とかかれています。名称については『新編江戸志』に、「むかし皀角樹多くある故に、坂の名とす。今は只一本ならではなし」とかかれています。「サイカチ」とは野山にはえる落葉高木で、枝にとげが多く、葉は羽状形で、花も実も豆に似ています。」

『御府内備考』には、「角坂 水道橋より駿河臺へのぼる坂なり。昔はさいかち多くあり。ゆへに坂の名とす。今はただ一本残れり。【江戸紀聞】」とある。

以上のように、坂名は、その昔、サイカチの木がたくさんあったことに由来するようである。

皀角坂下側 神田川上水懸樋跡の説明パネル 皀角坂下 皀角坂下 二枚目の写真のように、坂下側に神田川上水懸樋跡の説明パネルがあるが、その説明によれば、江戸時代に、このあたりに神田上水が通り、神田川を越えるための懸樋が設けられた。江戸切絵図には、この坂の下側に、神田川にかかる上水樋が記されている。

永井荷風下谷叢話』にこの坂がでてくる。

鷲津毅堂は、明治維新後、太政官権辨事に任命されたが、明治二年(1869)三月京都から東京に向かった。

「毅堂は東京に赴く途次名古屋の邸に留ること数日。此時もまた家族を伴はず長男文豹と二三の門人を従へて東京に来り、駿河台莢阪下の官舎に入った。莢阪は駿河台の西端より水道橋の方へ下る阪である。」(第三十八)

莢阪下の官舎には、毅堂の門人であった永井禾原(久一郎)が寄寓し開成校に通学する一方、贄を大沼沈山に執った(礼物を贈って入門を請う)。

この後、永井久一郎は、毅堂の娘、恆を娶るが、その長男が荷風(壯吉)である。

なお、「サイカチ」の字であるが、「東京23区の坂道」によれば、サイは、「皀」ではなく「」(白+七)が本来の表記とのことで、『御府内備考』や下谷叢話』がそうなっている。カチは、「角」が多いが、「莢」が正しいと思われる。広辞苑も「莢」となっている。
(ついでに、荷風は、「サカ」の字に「坂」ではなく「阪」を使う場合があり、上記もそうで、「断腸亭日乗」でもよく使っている。)

「東京23区の坂道」には、この坂にある石碑がいくつか紹介されているが、ここではまったく気がつかなかった。その一つが、上二枚目の写真に小さく写っている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
「大江戸地図帳」(人文社)
「荷風全集  第十五巻」(岩波書店)

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男坂~女坂(駿河台)

2011年11月28日 | 坂道

男坂上 男坂踊り場から下 男坂踊り場から上 男坂下 前回の錦華坂を上り突き当たりを左折し、とちの木通りを西へしばらく歩くと、左手に下りの石段坂が見えてくる。坂上の角に男坂と刻まれた小さな石碑がある。男坂とされるとおりかなり急な階段がまっすぐに西南へ下っている。坂下を直進すると猿楽通りにつながる。

中程の踊り場のわきに標柱が立っており、次の説明がある。

「この坂を男坂といいます。駿河台二丁目一一番地の端から猿楽町へ下る石段の坂「女坂」に対して名付けられたものです。この坂のできたのも比較的新しく、大正一三年(一九二四)八月政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。男坂は同一場所、あるいは並行してある坂の急な坂を、女坂はゆるやかな坂というように区別されて名付けられています。」

標柱のように、この坂は昭和のはじめ頃につくられたようで、前回の錦華坂と同じ頃と思われる。

女坂上 女坂上 女坂上 女坂の上側踊り場から上 男坂上をさらに西へ進むと、左手に下りの石段坂が見えてくる。坂上の左角に女坂と刻まれた小さな石碑があり、右角に標柱が立っている。この石段坂は、上から下ると、すぐに踊り場があって、そこでやや右に方向を変えて下ると、また踊り場があって、やや左に方向を変えてからまっすぐに西南へ下っている。女坂というわりには、踊り場が二つあるが、かなり急である。

坂上の標柱には次の説明がある。

「この坂を女坂といいます。駿河台一丁目七番地の端から猿楽町に下る坂"男坂"に対して名付けられたものです。男坂が一直線の急坂であるのにくらべ、中途で中やすみするようになっているので"女坂"と呼ばれています。この坂のできたのは、大正一三年(一九二四)八月政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。」

標柱によれば、この坂も男坂と同様に昭和のはじめ頃につくられたようであり、また、急階段の男坂と緩やかな女坂というのは神社の参道などでよく見られるが、ここはそういう緩やかな石段ということではなく、途中二つの踊り場で休めるので女坂とよんだ。

女坂の下側踊り場から上 女坂の下側踊り場から下 女坂下 女坂下の石碑 この男坂・女坂は、昭和はじめの新しい坂であるためか横関、石川には紹介されていないが、岡崎、山野に紹介されている。 岡崎は、女坂のところに「新しい坂であるが、坂下に立って見る崖の形が美しい。」と書いているが、三枚目の写真のように、現在は、住宅が建って下り、そのような面影はない。

坂下の左角にも、四枚目の写真のように、小さな石碑があり、「駿河台 女坂」と刻まれている。このあたりをいったりきたりしてうろうろしたが、坂下から来たときに気がついた。

下の写真は、この坂下から猿楽通りに出て、ちょっと歩いたところから小路の中に入って、この坂から男坂へと続く途中の崖を撮ったものである。上は樹木で鬱蒼としてよく見えないが、かなりの崖地であることがわかる。現在は、このような崖を見て往時をしのぶしかない。

明治11年(1878)の実測東京全図(麹町区)を見ると、駿河台の台地(岡阜)のへりがあり、崖はこのへりにできたものである。男坂、女坂は、このような崖にできた石段坂であり、この周辺に住む人にとってはお茶の水駅方面などへの便利な近道になっていると思われる。
(続く)

駿河台の崖(猿楽通り近く) 参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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錦華坂

2011年11月27日 | 坂道

錦華坂下 錦華坂下 錦華坂下 錦華坂下側 前回の胸突坂上からその西側の坂を下ると、そこは錦華(きんか)坂の上側である。ここを左折し錦華坂を下り道なりに進むと、富士見坂の中腹にでる。そこからまた引き返したりしてこのあたりをうろうろしたが、写真を坂下から坂上へとならべた。

富士見坂を坂上から下り、二本目を右折し、北へちょっと歩いたところで撮ったのが一枚目の写真である。ここも坂下らしいがまだ勾配はほとんどない。ここからちょっと右にカーブして進むと、二、三枚目の写真のように、上り坂が見えてくる。少しうねりながら緩やかに北へ上っている。錦華坂は、一枚目の写真のあたりを坂下としても坂上(傾斜のなくなる所)までかなりの距離がある。坂下近く西側に公園があるが、錦華公園という。

錦華公園の坂のわき東北端に標柱が立っているが、次の説明がある。

「この坂を錦華坂といいます。名称は坂下に錦華小学校があるからです。この坂を勧学坂と呼ぶのは誤りです。
 この坂は大正一三年(一九二四)八月政府による区画整理委員会の議決により新らしく作られた道路です。
 「議決要綱の三」には"南甲賀町より袋町三番地を横断して裏猿楽町二番地先錦華小公園東側に通ずる六米街路を新設"とあります。」

現在、坂下の公園わきにある小学校はお茶の水小で校名が違っているが、かつての錦華小で(昭和31年の23区地図には錦華小とある)、明治7年(1874)錦坊学校の分校として開校し、同23年錦華小学校となり、卒業生に夏目漱石や永井龍男などがいる。

錦華坂下側 錦華坂 錦華坂 錦華坂 標柱にある「勧学坂と呼ぶのは誤り」、「裏猿楽町二番地先錦華小公園東側に通ずる六米街路を新設」という記述が気になる。

「勧学坂」を調べると、横関に次のようにある。

「千代田区神田駿河台二丁目。文化学院、浜田病院のあったところ(今はお茶の水美術学院)の前から南へ錦華小学校のほうへ下る坂。この坂上に、松下大学(専助)の屋敷があった。」

石川は勧学坂を錦華坂の江戸時代の名とし、岡崎は錦華坂の別名とし次の『新撰東京名所図会』の説明を引用している。

「勧学坂 江戸総鹿子名所大全云、勧学坂とは、駿河台松下専助殿御屋敷へ上る坂を云ふなり、とありて、当時松下大学の邸は、大袋町にありて、今の袋町産婦人科病院の辺なり、其以前南北甲賀町の間より、小松宮旧邸の背後をめぐり、袋町に通ずる坂道ありしが、今は通路を塞がれたり、勧学坂といへるはこの坂なるべし。」

明治11年(1878)の実測東京全図(麹町区)を見ると、北甲賀町と南甲賀町との間の道が西へ延び、胸突坂上あたりで北に曲がり、途中、小さく折れ曲がって北へちょっと進むと、いまの明大通りの方から西へ延びる通り(とちの木通り)と突き当たる。富士見坂から北へ延びる道はない。

明治地図(明治40年)には、胸突坂は坂上で行き止まりで、いまのとちの木通りから南へ延びる道も行き止まりである。この地図にも富士見坂から北へ延びる道はない。また、錦華小がいまの位置になく、離れたところにある。

『新撰東京名所図会』、横関の各記述と各明治地図をあわせて考えると、いまのとちの木通りを左折し南へ錦華公園の方に下る坂が勧学坂と思われる。

上の現代地図のように、お茶の水小と錦華公園のわきを北へ上る道は、明大通りの方から西へ延びる通り(とちの木通り)に突き当たるが、この近辺に、現在、文化学院や浜田病院がある。突き当たりから錦華公園の方へ下る道が勧学坂と思われるが、その坂下はどこまでかなどまだわからないことが多い。江戸切絵図には突き当たりの近くに松下大学の屋敷がある。

錦華坂 錦華坂 錦華坂から下る坂 錦華坂へ上る坂 一方、標柱の説明のように、錦華坂は、昭和はじめ頃につくられたようである。

戦前の昭和地図(昭和16年)には、富士見坂から道が北へ延び、その途中、錦華小、その北に錦華公園があり、坂上側も現在と同じ道筋となっている。

錦華小公園東側に通ずる6m道路を新たにつくるならば、その錦華小公園東側のさきはどうなっていたのか、新道につながる道があったのかという疑問が生じる。錦華小公園東側とは、現在標柱の立っている公園の東北端と思われるが、新道がここまでとすると、新道の坂上はこのあたりである。現在、坂は一、二枚目の写真のように、さらに北へと上っている。

錦華公園の東北端までが錦華坂で、その上が勧学坂とすれば、話は簡単であるが、そう単純ではなさそうである。

錦華公園の東北端を左折すると、公園わきを西へまっすぐに下る無名の坂がある。坂下は猿楽通りにつながる。三枚目の写真は坂上から、四枚目の写真は坂下から撮ったものである。この坂は戦前の昭和地図にもある。

錦華坂の上側 錦華坂の上側 錦華坂の上側 錦華坂の上側 一~四枚目の写真は、公園の東北端の上側の坂を撮ったものである。中程度の勾配でまっすぐに上り、上側で左右に曲がり坂上に至る。上記の解釈からすると、ここが勧学坂ということになる。

ここで、現代地図と御江戸大絵図とを重ね合わせてみることのできる地図(東京時代MAP大江戸編)を見ると、胸突坂の記事でも紹介したが、上記の錦華坂の上側の道筋は、御江戸大絵図の道筋とかなり重複しており、勧学坂といえそうである。問題は、その坂下で、御江戸大絵図では東へとカーブしながら胸突坂上に上っている。ここが現在、山の上ホテルへと東に上る坂道であるかどうか不明であるが、明治11年(1878)の地図では、東南に延びており、どうも違うように見える。

公園東北端から北へ現在の山の上ホテルから下る坂道との合流点(またはもう少し上側)付近までをも新道として開いたのかもしれないが、確かではない。

明治11年(1878)の実測東京全図(麹町区)には駿河台の台地が岡阜として示されており、錦華坂は台地のへりの崖をトラバースするようにつくられたようである。

錦華坂を、山野のように、大正13年(1924)の区画整理で開かれた新しい坂とするのが合理的のようであるが、その坂上がどこかよくわからない。少なくとも公園の東北端の無名の坂上までが錦華坂で、上側の勾配のないところから下る坂が勧学坂で、その間がどうつながったのか不明ということのようである。(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「東京時代MAP大江戸編」(光村推古書院)

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台場公園~東京ビッグサイト(将棋日本シリーズ決勝)

2011年11月24日 | 散策

 

今回は、お台場から歩いて行ける第三台場のある台場公園を訪ねてから、東京ビッグサイトまで歩いた。

第三台場遠景 第三台場遠景 台場公園入り口 台場公園地図 新橋駅からゆりかもめに乗車。この電車は高架を走る。しばらくすると海岸に近づき、運河の向こうに倉庫群が見えてくるが、月島の西端に位置する豊海町の倉庫群である。東京湾がよく見えてくると、円形軌道に入って風景を次々と変えながら高度を上げて、レインボーブリッジに入り、自動車道路と併走しながら東京湾を渡る。じつはこの線に乗るのは初めてであるが、眺望がよく、旋回して風景が連続的に変化したりして、こういったところであったのかと少々驚き、いつになくおもしろい乗車体験をした気分になった。 

レインボーブリッジには遊歩道があって、人が歩いていたが、地図で確認すると、港区海岸三丁目の南端に遊歩道出入口があり、お台場側には台場一丁目の北端近くに出入口がある。いつか歩いてみたい。

お台場海浜公園駅で下車。

北側にでると、高層ビルの団地があるが、首都圏の住宅街でよく見なれた風景である。ここを通り抜けて、道路を横断すると、お台場海浜公園で、松林の向こうに浜辺が見える。なかに入ると、砂浜が広がり、右手奥に第三台場のある台場公園がある。左手から続く砂浜と台場公園とそこに続く道のある直線部分によって、入り江のようになっていて、静かな水面が遠くまで広がっている。一、二枚目の写真のように、第三台場が見えるが、その向こうに、さきほど通ったレインボーブリッジが見える。

左に海面を見ながら北へ歩き、入り江のはしで、左折し、まっすぐに続く道を進むと、三枚目の写真のように、台場公園の出入口の階段が見えてくる。そのわきに台場の壁面も見えるが、石垣でしっかりとつくられている。ここを上りなかに入ると、すぐのところに、台場公園の説明パネルが建っている。その第三台場の案内地図を撮ったのが四枚目の写真であるが、この第三台場はほぼ正方形になっていることがわかる。

台場公園窪地 台場公園陣屋跡 台場公園 台場公園 平坦な所と思って来たが、そうではなく、一枚目の写真のように、かなり広く中央部分が窪地になっている。細い道を下ると、底部は背の低い草地であるが、水はけが悪いようで、所々に水たまりができており、また、あちこちに池がある。窪地の法面に穴倉が見えるが、弾薬庫だったらしい。二枚目の写真に写っている建物基礎の残骸は、陣屋跡であるとのこと。窪地から上り、西側にでると、三枚目の写真のように砲台跡があるが、江戸時代のものではないと説明パネルにある。

都立台場公園(第三台場)について上記の説明パネルに説明があるが、その歴史が次のように簡単にまとめられている。

『「お台場」の名で知られる品川台場は、江戸幕府が黒船来襲にそなえて品川沖に築いた砲台跡です。設計者は、伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍で、ペリーが浦賀に来港した翌月の嘉永六年(一八五三年)八月に着工、一年三ヶ月の間に六基が完成しました。
 現在は大正十五年(一九二六年)に国の史跡に指定された第三、第六台場だけが残されていいます。
 このうち第三台場は、昭和三年東京市(都)によって整備され、台場公園として解放されています。周囲には、海面から五~七メートルの石垣積みの土手が築かれ、黒松が植えられています。また内側の平坦なくぼ地には、陣屋、弾薬倉庫跡などがあります。』

幕末に米国をはじめとした諸外国の船が押し寄せて来て、その近代的軍事力に威圧されて開国したが、幕府や諸藩は、これに対抗すべく武備の充実を図ろうとした。その一環として、老中阿部正弘は、優秀な人材登用を行い、たとえば、勝麟太郎(海舟)、岩瀬忠震永井尚志、江川太郎左衛門(英龍)などが抜擢された。そして、具体的な海防・軍備対策の一つが、この品川沖の台場の建設であった。これは上記の江川英龍の意見を入れたもので、昼夜兼行の大工事であったが、できあがった台場はほとんど役にたたなかった。

鳥の島 第六台場 台場公園 台場公園 明治地図(明治四十年)を見ると、芝区全図に、品川沖に第一台場~第六台場がある。品川の岸から沖(東)に向かって、四番、一番、五番、二番、六番、三番の順で並んでいる。この順番は、どのようにしてつけられたか不明だが、完成順であろうか。

上の現代地図から古地図の昭和22年の航空写真を見ると、このころ、もっとも岸側の第四台場以外は、まだ東京湾に残っていたことがわかる。しかし、昭和38年の航空写真では、現在のように第三台場、第六台場だけとなっている。

ところで、これらの台場は、太平洋戦争中にどのように使われたのであろうか。米軍の飛行機来襲にそなえて高射砲を設置したのかもしれないなどと考えてしまった。これは、まったくの想像であるが、もしそうだとしたら、幕末に黒船来襲をきっかけにつくられたがほとんど使われなかった台場が、その百年近く後に、米軍機の空襲に対抗するために使われたことになる。本当はどうだったのだろう。

二枚目の写真のように、この第三台場から西に第六台場が見える。ここは孤島のようになっていて、陸続きではないが、すぐわき斜め上方にレインボウブリッジが通っているので、そこの遊歩道から見下ろすことができそうである。

第三台場の西南に別の島が近くにある(一枚目の写真)が、地図で見ると、鳥の島である。第六台場の南に、同じような細長い形状の島が二つ並んでいる。これも人工的なものと思って、ネットで調べたら、昭和のはじめに建設された東京港の島式防波堤で、お台場などの埋立地ができる前まで港内を波浪から守っていた。その後、時間の経過とともに植物が繁茂し、現在、野鳥の繁殖場所になっているとのこと。第六台場も遠くから見てもかなり樹木が茂っているので、同じようになっているかもしれない。

台場公園から北側 台場公園から北側 台場公園から東側 台場公園近くの歩道 西側からふたたび窪地に下りると、上の三、四枚目、その上の四枚目の写真のように、そこは、樹木が生い茂り、かなり鬱蒼としたところもあって、近くのレインボーブリッジも高層ビルも見えなくなると、どこか、山の中に来たような錯覚に陥るほどである。このあたりにも所々、池や水たまりができているが、足がとられるような泥地ではなく、歩きやすい。 江戸末期につくられたとはいえ、臨海副都心とよばれる所でこんな風景に出くわすとは思わなかった。これもまたおもしろい体験であった。

階段を上り、北側にでると、一枚目の写真のように、細く延びたコンクリートでできた人工岸が見えるが、むかしの船着き場であったのだろうか。いまはよい釣り場になっているようである。二枚目の写真のように、眼の前にレインボーブリッジが見えるが、その橋脚の向こうかなり遠くに、スカイツリーが見える。(一枚目の写真には東京タワーが見える。)

ここから、北側の縁を通って出入口にもどるが、その近くで東側を撮ったのが三枚目の写真である。高層マンションが見えるが、その方向にもどり、道路の歩道を南へ向かう。四枚目の写真は、その途中で撮ったもので、一部紅葉している。

夢の大橋から西側 夢の大橋から南側 水の広場公園から南側 水の広場公園 台場公園から湾岸道路にでて、東京ビックサイト方面に行こうと、歩道も続いているだろうと思って、東へ進むが、どうもそんなものはなさそうである。しかたなく引き返すと、遠くに歩行者用の長い屋根つき歩道橋が見える。そこを通って、観覧車などがある施設の手前まで行き、そこから東への広い遊歩道は工事中で、ちょっと味気ない工事用白壁で片側が仕切られた道を進むと、夢の大橋という歩行者専用の広い橋にでる。このあたりは、自動車道路と歩行者道路をはっきりと分けているようで、とまどってしまう。どうも自由度がなさすぎるように思えるが、これを超近代都市(未来都市)というのだろうか。

一、二枚目の写真はその橋から撮ったものである。ここは東京湾の埋立地の南端ではなく、まだその先が続いている。

夢の大橋から直進し、途中右折し、ゆりかもめ線の国際展示場正門駅の歩道橋を渡って、南側の水の広場公園に行く。三枚目の写真は、その公園から南側の沖を撮ったものである。両側で岸壁が南へ長く延びているが、その先には、現在、また埋立地ができており、この一帯も東京湾埋立地の南端ではない。佃島の記事で、東京湾は、明治以降、どんどん南へと埋め立てられていったことを書いたが、その南端はいつも埋立中で、なかなか行き着くことはできないようである。

JT将棋日本シリーズ JT将棋日本シリーズ決勝 晩秋の空はもう暮れかかってきて樹木の色づいた葉が西日に弱く照らされている。水の広場公園から東京国際展示場(東京ビッグサイト)に行く。ここが今日の最終目的地である。というのは、ここで夕方からプロ公式戦であるJT将棋日本シリーズの決勝が公開対局で行われるからである。

一、二枚目の写真は会場内で撮ったものであるが、何人かのプロ棋士の等身大の写真パネルが飾ってある。決勝に進んだのは、二枚目の写真の羽生善治王位・棋聖と渡辺明竜王・王座で、二冠同士の対決。持ち時間10分、5分の考慮時間、使い切ると一手30秒未満という超早指戦である。

予定時間では、すぐに始まるはずだったが、その前の子供将棋大会が遅れているらしく、その決勝が行われていた。高学年部門が終わると、低学年部門の決勝が始まったが、観戦していると、かなり強いことがわかる。一手30秒未満であるが、双方ともとんでもない悪手は指さない。

日本シリーズの決勝が渡辺先手で始まったが、相矢倉戦となって、封じ手のあたりでは、渡辺有利と思った。封じ手で▲35角と銀を取らずに、▲28飛といったん逃げ、飛車取りに△16桂と打たせてから、飛車を捨て▲35角と銀を取ったからである。

以降、ちょっとわからない応酬が続いた。終盤、羽生が捨て駒を続け、先手玉を詰ましにいったが、本当に詰んでいるのかどうかわからない。プロの将棋対局を観ていてもっともおもしろい詰むや詰まざるやの局面である。公開対局で、プロ棋士(豊川孝弘七段)の解説付きであるが、対局者の耳に入ることを慮ってか、解説もはっきりと、その結論をいわない。ただ、その直前に、終盤になると端歩を突いていることが詰みに影響することがよくあるようなことをいっていたが、それが本当になった。(たぶん、詰み筋をわかっていて、そのような解説をしたのであろう。)

羽生が△87金と金を捨てたとき、さすがの私でもその詰みに気がついた。▲同玉△89竜▲88合い駒△78銀▲96玉△95歩(端歩の突きがここできいた)▲85玉△83香まで、渡辺の投了となった。以下、▲84合い駒△73桂までのぴったりの詰みである。

私のような素人は終盤を面白がるが、本当の勝負は、その前らしく、封じ手以降、形勢は二転三転していたように思ったが、どこがどうなのかはよくわからない。

遅くなったので、対局が終了すると、すぐに会場をでて駅に向かったが、歩きながら詰みの局面を思い浮かべ、もう一度詰ましてみた。

なお、開演時間からかなり遅れて入場したので、後の方の席しかなく、解説用大盤が見えにくかった。小さな双眼鏡を用意すべきであった(私の感想戦)。

後日、渡辺明竜王・王座のブログを見たら、勝ちを何度か逃して最後は詰まされて逆転負けであったことを書いていた。

今回の携帯による総歩行距離は、11.9km。

参考文献
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
小西四郎「日本の歴史19 開国と攘夷」(中公文庫)

 

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胸突坂(駿河台)

2011年11月19日 | 坂道

胸突坂下 胸突坂下 胸突坂中腹 胸突坂上側 前回の甲賀坂上から明大通りを挟んで向こうに急な坂が見えるが、ここが胸突坂である。甲賀坂の記事でアップした坂下から坂上を撮った写真にも写っているように、甲賀坂から見ると目立つが、明大通りをただ歩いていると、見逃すかもしれない。

甲賀坂上から撮ったのが一枚目の写真で、明大通りを横断して坂下から撮ったのが二枚目の写真であるが、かなり急な勾配で西へまっすぐに上っている。坂下から見て左側に歩道があり右側に手摺りのあるしっかりした坂で、このすぐ左わきに明治大学の建物がある。坂を上って振り返ると、甲賀坂の方がよく見える。

ところで、この坂には教育委員会によるいつもの標柱が立っていない。さらに千代田区のホームページにも紹介されておらず、理由は不明であるが、なんか無視されたような感じを受ける。この坂が「胸突坂」であるという確証がないのであろうか。

甲賀坂の記事で触れたが、尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図/1863年)には、この坂に相当するところに、エウガサカ、とあり、池田坂下を左折した東側に、ムナツキサカ、とある。近江屋板(嘉永2年(1849)版)には、この坂に相当するところに、△エ(コ)ウカザカ、とあるが、坂マーク△の頂点が東向きで、逆になっている。御江戸大絵図(天保14年(1843)版)には、この坂に多数の横棒からなる坂マークがある。また、『御府内備考』には記述がない。

石川によれば、『新撰東京名所図会』に「胸突坂 袋町の間を東より西に向ひて上る坂あり胸突坂といふ、胸突坂は急峻なりしより起れるなるべし。新編江戸志にも胸突坂とありて、小川町より駿河台の方へ上る坂なり」とあるという。

いまもかなり急な坂で、上るとき胸が地面につくほど勾配のきつい坂という胸突坂の意味からして、ここは胸突坂の名にふさわしい坂であり、上記の新撰東京名所図会の記述とあわせて考えれば、胸突坂といってよいと思われる。同名の坂として関口の胸突坂があるが、ここは石段坂でその名のとおりかなり急である。

ただし、岡崎は、上記の尾張屋板の表示がある(坂の向きを別として近江屋板もそうである)ためか、この坂の別名を甲賀坂としているが、そうとすると、この坂と、坂下の現在甲賀坂の標柱の立っている坂とを一続きと考えて、甲賀坂と(も)いったという解釈もあり得るような気がしてくる。

横関は、この坂を「神田駿河台一丁目、明治大学の北わきを西に上る急坂。坂の頂上に小松医院がある」としている。いまは坂上の突き当たりに山の上ホテルがある。

胸突坂上 胸突坂上 胸突坂上の西側の坂下 「吉郎坂」石碑 坂上を直進するとホテルの入り口であるが、その手前を右折すると、すぐに左手に、下り坂が見えてくる。かなりの勾配で西へと下っている。この坂を下ったが、坂下から坂上を撮ったのが三枚目の写真である。

御江戸大絵図と現代地図とを重ね合わせてみることのできる地図(東京時代MAP大江戸編)を見ると、西向きの胸突坂の道筋が坂上から次第に北に向きを変えるようにして緩やかなカーブを描いているが、そのカーブの一部が上記の坂と重なり合うようにも見えてくる。かなり微妙な位置であり、上記の坂ではないかもしれないが、もし、西へ上る胸突坂に、西へ下る(北に向きを変えながら)坂が続いていたとすると、近江屋板の坂マーク△の頂点の向きは、この坂を表しているため逆になっていると考えられそうでもあるが、推測の域をでない。

この坂に何年か前に来たとき、坂上近くにこの坂の別名である「吉郎坂」と刻まれた小さな石碑を見た覚えがあるので、坂上をうろうろして探したが、見つからなかった。しかし、今回、「東京23区の坂道」を見たら、その石碑が写真入りで坂下の植え込みにあると紹介されていた。記憶違いだったようであるが、そうだったら、もしかしてと思って、上の二枚目の坂下から撮った写真をよく見ると、左下の端の縁石の上にそれらしきものが写っている。そこで、もとの写真をパソコン上で拡大してみたら、ちゃんと小さな石碑に「吉郎坂」の文字が見えるではないか。その部分を拡大してトリミングしたのが四枚目の写真である。デジタル写真の効能であるが、冷や汗ものの結末である。

吉郎坂は、「東京23区の坂道」によれば、明治大学総長を務めた商学博士佐々木吉郎氏にちなむとのことである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「東京時代MAP大江戸編」(光村推古書院)
「大江戸地図帳」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)

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文坂~富士見坂

2011年11月17日 | 坂道

前回の雁木坂からお茶の水橋から延びる広い通り(明大通り)にでて左折し、南へ明治大学の方に進み、次の信号を右折し、胸突坂を上ったが、今回は、その後に行った明大通りを南へ下る文坂と、そのわきから下る富士見坂を紹介する。

文坂下 文坂下 文坂上 文坂上 お茶の水駅のお茶の水橋口から明大通りを南へ進み、明大前を通りすぎて靖国通りとの交差点である駿河台下に下る道と、その途中、右折して下る道は、私的には神田古本屋街への道として坂巡りなどをはじめる前から通いなれた道筋である。しかし、今回の本郷通りや池田坂の通りなどは、この明大通りのすぐ近くなのに、坂巡りまでまったく知らない道であった。それまでいかに街歩きなどに興味がなかったかのしるしである。

上記の後者の道が富士見坂で、標柱も立っている。一方、前者も坂道であるが、坂名があるかどうか、今回調べたら、横関、石川、岡崎、山野、千代田区のホームページのいずれにも載っていなかったが、中村雅夫「東京の坂」(晶文社)と「東京23区の坂道」に「文坂」と紹介されていた。

中村はこの坂を、小川町三丁目から北へ駿河台一丁目に上る大通りの坂としている。一、二枚目の写真のように、広い通りが駿河台下の交差点から北へまっすぐに緩やかに上っている。途中の信号のところでちょっと右に曲がってから、もっと緩やかになって甲賀坂上・胸突坂下の交差点に至る。

東京23区の坂道」には、坂名が刻まれた小さな石碑が写真とともに、『坂半ばにある石製の標識。裏面には「昭和五十年一月 駿河台西町会 坂内熊治」と彫られている』と紹介されているが、坂名の由来は不明とされている。今回、この石碑を見つけようと探しながら歩いたが、探し方が悪いのかわからないが、発見できなかった。

尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図/1863年)を見ると、雁木坂(カンキサカ)を西へ進み、次を左折すると、南へ延びる道があるが、現在の明大通りは途中までしかないようである。近江屋板もほぼ同様である。

明治地図(明治四十年)を見ると、現在の明大通りと、靖国通りができているので、この坂は、明治以降にできたものと思われる。坂名の由来を知りたいが、なんとなく、文から書(本)を連想できるので、本と関連して付けられた坂名のような気がしてしまう。ちなみに、駿河台下の交差点近くにある三省堂書店は明治14年(1881)古書店として開業した。

文坂中腹 富士見坂下 富士見坂下 富士見坂中腹 文坂上から右側の歩道を進み、その途中、右折すると、富士見坂の坂上である。坂上が、文坂の中腹から坂下を写した一枚目の写真の右端に見える。まっすぐに緩やかに南西へ下っており、坂下は靖国通りにつながる。レストラン、食堂、喫茶店、商店などが並んでいるためか人通りが多い。

坂上に標柱が立っているが、次の説明がある。

「この坂を富士見坂といいます。『新撰東京名所図会』には「駿河台南甲賀町の内、袋町に通づる筋より南へ、猿楽町一丁目と小川町との間を下る坂、富士見坂と呼ぶ。風景賞すべきの地にはあらざるも、遠く富士を望むを得べし。富士見坂の名もこれに基しか」とかかれています。富士見坂という名の坂は、千代田区だけでも三ヶ所あります。富士見町と九段の間、紀尾井町と永田町二丁目の間にあります。」

千代田区のホームページには次の説明がある。

「45.富士見坂(ふじみざか )  靖国通りと錦華通りが合流する交差点から、明大通りに抜ける短い坂道です。昔はここからも富士山がよく眺められたのでしょう。
 同名の坂は、「14.」と「35.」にもあります。」

富士見坂上 富士見坂上 富士見坂上 御江戸大絵図(天保十四年(1843)版)を見ると、胸突坂を下り、右折した道が現在の明大通りに相当し、この道を南に進み突き当たりを左折しすぐ右折する道があるが、ここが富士見坂であるように思われる。この坂を下ると表猿楽町の通りに至る。この道の東側一帯に土屋采女の大きな屋敷がある。

尾張屋板江戸切絵図(1863年)には、雁木坂を西へ進み次を左折し南へ延びる道(明大通りに相当する)が途中、左に少し曲がってから突き当たるが、ここを右折し表猿楽町へ下る道が上記と同様の坂道と思われる。近江屋板(1849年)も同様で坂名も坂マークもないが、坂の東が土屋采女正邸であるのに対し、尾張屋板では御用屋敷になっている。

この坂は、いまは明大通りの裏道のようになっているが、明大通りができるまで駿河台と表猿楽町とを結ぶ道で、駿河台の台地といまの神保町の低地とを上下する坂道であったと思われ、現在から想像しにくいが、その台地から坂を南西に下る方向に富士山が見えたのであろう。

千代田区にある他の同名の坂は、衆参議院議長公邸の北側を赤坂見附の方に下る富士見坂と、靖国神社の裏手の富士見坂である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「東京時代MAP大江戸編」(光村推古書院)
「大江戸地図帳」(人文社)

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善福寺川~善福寺池2011(11月)

2011年11月16日 | 写真

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雁木坂

2011年11月15日 | 坂道

雁木坂上 雁木坂上 雁木坂上 雁木坂上 前回の甲賀坂を下り坂下を左折し、池田坂にもどり、ここを上り坂上を左折すると、雁木坂の坂上である。しばらくほぼ平坦であるが、やがて緩やかにまっすぐに西へ下る。坂下は、甲賀坂と同じくお茶の水橋から延びる広い通りであるが、下記のように坂の位置がはっきりしないので、ここがこの坂の坂下であるか確かでない。

二枚目の写真のように、左手に日本大学病院があるため救急車が止まっている。坂上に標柱が立っているが、そのわきの標識に、小桜通りとある。三枚目の写真の突き当たりを右折すると池田坂の下りである。

標柱に次の説明がある。

「この坂を雁木坂といいます。今はその面影はありませんが、昔は急な坂で雁木が組まれていたといいます。雁木とは木材をはしご状または階段状に組んで登りやすくしたもので、登山道などに見られます。『新撰東京名所図会』には「駿河台西紅梅町と北甲賀町の間を袋町の方に行く坂を雁木坂と称す。慶応年間の江戸切絵図をみるに、今の杏雲堂病院の前あたりに「ガンキ木サカ」としるされたり」と書かれています。」

尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図/1863年)を見ると、幽霊坂(紅梅坂)を上り道なりに進み突き当たりを左折し、次を右折すると、カンキサカがあり、現在の道筋と同じである。その上に子フクロ丁とある。近江屋板(嘉永二年(1849)版)には、同じ道筋に△厂木坂とあり、その上に小袋丁とある。

横関によれば、雁木坂とは石を組んだ段々の坂で、きわめて急坂のため階段になった坂である。標柱の説明によれば、急な坂のため雁木を組んで階段状にしたことが坂名の由来である。雁木の具体的な説明はないが、麻布台飯倉の雁木坂の標柱の図が参考になる。雁木坂は一般的に石段でかなりの急坂であるが、ここはそんな面影はまったく残っていない。本当に雁木を組んで階段にしなければならないほどの急坂であったのか疑問が生じるほどである。

雁木坂上側 雁木坂中腹 雁木坂中腹 雁木坂下 横関は、この坂を「千代田区神田駿河台二丁目、日大病院前辺にあった「七つ雁木」の坂であったが、今は、池田坂の頂上から西へ行くゆるやかな坂みちとなってしまった」と説明している。

石川は、この坂について日大病院前を東南に下る緩やかな坂みちとし、岡崎は、同じく病院前を東に下る坂、いまはほとんど傾斜がないとしている。確かに上の一枚目の写真を見ると、池田坂上からかなり緩やかであるが上り坂で、「東京23区の坂道」も「池田坂の坂上から、西に緩やかに上る短い坂道」としている。

上記によれば、この坂は病院前から東へと池田坂上に下る坂となるが、これについて疑問が生じた。というのは、一~四枚目の写真のように、日大病院前から緩やかではあるが西へちょっと長めに下っており、近江屋板の坂マーク△の頂点の向きから雁木坂は西から東へ上る坂といえるからである。病院前から西へ下る途中に雁木に組んだ階段があったと考える方が地理的にも無理がないのではと思ったのである。横関の説明を読んでもどちらに下る坂かわからないが、ここでは、一応、近江屋板を根拠にして、病院前から西へ下る坂としておく。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)

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甲賀坂

2011年11月14日 | 坂道

甲賀坂下 甲賀坂下 甲賀坂下 甲賀坂中腹 前回の池田坂下を右折すると、甲賀坂の坂下である。一枚の写真の右側が池田坂下で、左側を直進すると、太田姫神社の方である。

かなり緩やかにまっすぐに西へ上っている。坂とは感じさせないほどであるが、一応勾配はある。一、二枚目、下四枚目の写真のように、坂上の向こう西側に胸突坂が見えるが、甲賀坂と比べてかなり急である。この坂も、坂下・坂上を入れて、かなり人通りが多い。

前回の池田坂、この甲賀坂、次に行く雁木坂を歩くと、大学の校舎や病院のわきなどに銅像(胸像)があるところが多い。何枚かの写真にも写っている。数えたわけではないが、かなりあって、よく目立つ。前回、このあたりを訪れたときもそう感じたのだが、なんか近隣の大学や病院が競い合って建てたような気がしないでもない。

中腹に標柱が立っているが、次の説明がある。

「この坂を甲賀坂といいます。『東京名所図会』には"南北甲賀町の間に坂道あり、甲賀坂という。甲賀の名称の起源とするところは往昔、甲賀組の者多く居住せし故とも、又光感寺の旧地をも記されるが云々"とかかれています。 どちらにしてもこのあたり甲賀町とよばれていたことから名がつけられました。甲賀町の名は、昭和八年(一九三三)から駿河台一、三丁目となりました。」

尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図/1863年)を見ると、また混乱のもととなるような表示がある。池田坂下を左折した東側に、ムナツキサカ、とあり、この坂に相当するところにはなにもなく、そのさきの西側の道に、エウガサカ、とあるからである。近江屋板(嘉永2年(1849)版)には、池田坂下を左折した東側にも、この坂に相当するところにも、坂名も坂マークもないが、そのさきの西側の道に、△エ(コ)ウカザカ、とある。その坂マークの△は、東へ上る向きとなっている。御江戸大絵図(天保14年(1843)版)には、胸突坂のところに、坂名はないが、多数の横棒からなる坂マークがある。

推察だが、尾張屋板は、甲賀坂と胸突坂の位置を取り違えて書き入れたような気がする。胸突坂は、上るとき胸がつくほど急な坂であり、現在、甲賀坂の標柱の立っている坂の、広い通りを越えた西側の急な坂が、いまの坂の状態からいっても胸突坂の名にふさわしいからである。また、甲賀坂の坂下は、池田坂下を左折した所までをいったのかもしれない。近江屋板も同じ間違いをしたかもしれないが、その坂マーク△の向きが気になる。

甲賀坂中腹 甲賀坂中腹 甲賀坂上 甲賀坂上 横関は、甲賀坂について「千代田区神田駿河台一丁目、池田坂のふもと辺、日大工学部の南わきを西へ上る坂。この坂をさらに西へ進めば胸突坂へ上る」としているが、坂名の由来については触れていない。

石川は、江戸時代には甲賀者(隠密・忍者)の組屋敷があったとされる、としている。明治地図(明治11年(1878))には、東紅梅丁の南に、北甲賀丁、南甲賀丁がある。

石川がいうように江戸時代に甲賀組屋敷があり、坂名はそれに由来し、そのため明治になると、甲賀町の町名にもなったと考えられるが、甲賀組屋敷があったとする説には否定的な見解も多いとの解説もある(「東京の地名由来辞典」東京堂出版)。

江戸切絵図から甲賀坂自体は江戸からある坂といえるが、標柱の説明にある光感寺の旧地云々や前回記事の『御府内備考』にある「埃坂 火消屋敷の上へ上る坂なり。本の名光感寺坂と云よし。【江戸紀聞】又甲賀坂ともいふ。」の記述との関係はよくわからない。しかし、江戸・明治の各種記述の中で、光感寺(または光威寺)が複数の坂の説明に登場するようであるが、いずれかの記述で取り違えをしたためではと想像される。光感寺(または光威寺)の位置やその年代が明確になれば、この問題は解決すると思われる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)

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池田坂

2011年11月12日 | 坂道

池田坂上 池田坂上 池田坂上 池田坂中腹 前回の紅葉坂上を直進し、次を左折し、南へちょっと歩くと、池田坂の坂上である。緩やかにまっすぐに南へ下っているが、坂上側の方がやや勾配がある。ここは、両側や坂下に大学の校舎があるようで、休日であるが、人通りが多い。学生でなさそうな人も多く歩いているので、なにかの催しでもあるのだろうか。

ここも写真からもわかるように、歩道が工事中で、街路樹もなく、ちょっと殺風景となっている。ふだん街路樹などがあってもさほど気には留めないが、ここまでなにもないと、やはりあった方がよいと思ってしまう。(そのうちちゃんと植樹されるであろうが。)

中腹に立っている標柱に次の説明がある。

「この坂を池田坂といいます。名称の由来は、この辺りに池田姓の旗本が屋敷を拝領したためといいます。『新撰東京名所図会』には「池田坂は、北甲賀町の中央にあり、駿河台より小川町に通ずる坂路なり、其昔坂の際に、池田氏の邸宅ありしより以て名とす、一名を唐犬坂といふとぞ。」『新編江戸志』には、「池田坂 唐犬坂とありて、むかし池田市之丞殿屋敷に唐犬ありし故、坂名とすと見えたり。」とかかれています。
大名・旗本の系譜である「寛政重修諸家譜」によれば、この家は池田政長という人物に始まる九百石の旗本と考えられます。」

元禄江戸図(元禄六年(1693)作)を見ると、この坂の西側に「イケタ」とあるので、ここが坂名の池田邸と思われる。文化江戸図(文化八年(1811)作)にも、同じ位置に「イケタ」とある。

尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図/1863年)を見ると、幽霊坂・紅梅坂を上り、突き当たりを左折した通りがこの坂と思われるが、坂名も坂マークもない。途中右折すると、カンキサカがある。近江屋板も同様であり、坂名も坂マークもない。いずれにも池田姓の屋敷は見えないから、幕末に池田邸はなくなっていた。

池田坂中腹 池田坂下 池田坂下 池田坂下 『御府内備考』には次の説明がある。

「唐犬坂 いつの比にや、池田氏屋敷に唐犬ありしゆへ坂の名によべり。【江戸紀聞】池田坂ともいふ。」

横関は、池田坂について「寛文図には、今の日大病院辺に「イケダ権太郎」とある」としている。石川は、もとはかなり急な坂だったようである、としている。

この坂は、上記のように、坂名の由来は別名も含めて明確なようであるが、江戸切絵図に坂名がないのがちょっとさみしい。

坂上側から来て、坂上のT字路を右折すると、雁木坂であるが、ここは後で来る。坂下を右折すると甲賀坂、左折して直進すると観音坂上に至るが、そのまま直進すると、やがて右手に太田姫神社が見えてくる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)

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幽霊坂~紅梅坂

2011年11月11日 | 坂道

前回の新坂上を直進し、次の交差点を右折する。ここは聖橋方面から延びる広い通り(本郷通り)で、交通量も多い。歩道をちょっと歩くと、左手にニコライ堂が見えてくる。

幽霊坂上幽霊坂上幽霊坂曲り角幽霊坂曲り角 上の地図を見ると、広い通りがニコライ堂の前で北(聖橋)の方に向けてカクッと曲がっているが、曲がらずにそのまま延びて下り坂となっている道がある。ここが幽霊坂の坂上である。歩道からまっすぐに下り、突き当たりを右折すると(直角に曲がっている)、長めの坂が途中ちょっと曲がるが、東へほぼまっすぐに下っている。おおむね緩やかであるが、中腹付近で勾配が少しきつい。

淡路坂の南に位置し、ほぼ平行に上下し、坂下の先は、昌平橋から延びる広い通りである。

その直角に曲がっている角に標柱が立っているが、次の説明がある。

「この坂を幽霊坂といいます。もとは紅梅坂と続いていましたが、大正一三年(一九二四)の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれた坂になりました。『東京名所図会』には、"紅梅坂は""往時樹木陰鬱にして、昼尚凄寂たりしを以って俗に幽霊坂と唱えたりを、今は改めて紅梅坂と称す。"とかかれています。また古くは光感寺坂とも埃坂などとも呼ばれていたこともあるようですが、一般には幽霊坂の名でとおっています。」

尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図/1863年)を見ると、昌平橋の南側一本目を右折し、西へ延びる道に、ユウレイサカ、とあり、すぐその先に、フミサカ、とある。北には、淡路坂が平行に延びている。そのフミサカのすぐ先は突き当たりで、左へ直角に曲がっている。近江屋板では、直角の曲がりのすぐ手前(東側)に、△ユウレイ坂、とあり、フミサカという坂名はない。双方とも、幽霊坂と、直角の曲り角は、現在と同じであるが、尾張屋板にあるフミサカというのが不明である。

幽霊坂中腹幽霊坂中腹幽霊坂下側幽霊坂下 北側のビルと坂下側の歩道が工事中でちょっと荒れた感じである。工事が終わったらまとまりのある風景になるのであろう。

標柱に別名として光感寺坂、埃坂とあるが、これについて疑問が生じた。

『御府内備考』に埃坂(ゴミサカ)について次の説明がある。

「埃坂 火消屋敷の上へ上る坂なり。本の名光感寺坂と云よし。【江戸紀聞】又甲賀坂ともいふ。」

これを以前どこかで引用した覚えがあるので、調べると、番町の五味坂の記事である。その坂の標柱の説明は次のとおり。
『「この坂の名称は、五味坂(ごみざか)といいます。「ごみ」という名前から「芥坂」や「埃坂」の字をあてたり、その意味から「ハキダメ坂」と呼んだり、さらに近くにあったという寺院の名から「光感寺坂」・「光威寺坂」と呼ばれ、さらに「光感寺坂」がなまって「甲賀坂」とも呼ばれたともいいます。・・・』

『御府内備考』に記載の上記の埃坂(ゴミサカ)とは、どこの坂をさすのか。この幽霊坂の別名か、または、番町の五味坂か。

埃坂の次に「観音坂 埃坂の並びなり。・・・」の説明がある。この観音坂の説明でいう「埃坂」は、上記の埃坂と考えると(これが自然と思われる)、『御府内備考』の「埃坂」は観音坂の近くの坂ということになる。

尾張屋板江戸切絵図のユウレイサカ、フミサカとある道筋を西へ進むと、二回直角に折れ曲がるが、その南側に定火消役屋敷とあり、さらに進めば、「火消屋敷の上へ上る」ということになる。近江屋板も同様である。このように、江戸切絵図のユウレイサカは、『御府内備考』でいう埃坂(ゴミサカ)となりそうである。

『御府内備考』では観音坂を上記のように「埃坂の並びなり。」としていることから、観音坂の記事で、埃坂を、観音坂上を直進したところと考えたが、そうではなく、観音坂に平行と考えると、実際とあう。ただし、「並び」を平行と解することになるが、これが妥当なのかちょっとわからない。また、甲賀坂という別名が観音坂上を直進したところにある「甲賀坂」(標柱が立っている)と重複することになる。

尾張屋板にある「フミサカ」は、ゴミサカのことかもしれない。江戸切絵図は誤記が多いので、これもそうとも考えられる。

番町の五味坂の近くに観音坂はないようで(観音坂は、調べた範囲では都内で三箇所だけである)、また、江戸切絵図を見た限りであるが、坂上近くに火消屋敷もないようである。

以上のように、『御府内備考』にある埃坂は、番町の五味坂ではなく、この駿河台の幽霊坂ということになるが、はたしてこれでよいのか、他の有力な別の説がないのか。

紅梅坂下紅梅坂下紅梅坂中腹紅梅坂下からニコライ堂 幽霊坂下を左折し淡路坂にでて、ここを上り、坂上の本郷通りを横断し、左(南)へ向かう。次を右折すると、紅葉坂の坂下である。緩やかにまっすぐに西へ上っている。ニコライ堂と井上眼科病院との間の道である。井上眼科病院とは、そのむかし、漱石がここに通院し、初恋の人と出会ったところである(以前の記事参照)。

中腹に立っている標柱に次の説明がある。

「この坂を紅梅坂といいます。このあたりは紅梅町とよんでいたのでこの名がつきました。淡路町に下る幽霊坂とつながっていましたが、大正一三年(一九二四)の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれた坂になりました。『東京名所図会』には、"東紅梅町の中間より淡路町二丁目に下る坂あり。もと埃坂と唱えしに、維新以後、淡路町の幽霊坂と併せて紅梅坂と改称せり"とかかれています。」

江戸切絵図で坂下からユウレイサカの道筋を進み、二回直角に折れ曲がってからまっすぐに西へ進む道筋が、本郷通りを横切って上るこの坂である。ニコライ堂は『御府内備考』の上記の埃坂の説明にある火消屋敷の跡にできたので、この坂は、要するに、上記の幽霊坂から続く坂で、幽霊坂の別名である。上の現代地図を見ると、幽霊坂と紅梅坂は江戸切絵図と同じ道筋であることがわかるが、現場は、広い通りで分断されこの間に横断歩道もないので、連続した道筋であったこともわかりにくくなっている。

紅梅坂中腹紅梅坂上紅梅坂上紅梅坂上 明治地図(明治40年)を見ると、ニコライ堂のあたりは東紅梅町となっているが、この地名(他に西紅梅町がある)は、なんと「江戸時代からの通称である紅梅坂」に由来するとの説明がある(「東京の地名由来辞典」東京堂出版)。これではどちらが先であるのかわからない。この坂は、文化(1804~1818)のころに戸田家の裏門前の通りにあたり、辻甚太郎という者の屋敷に紅梅の大木があって、枝が通りに差し掛かり壮観であったことにちなむ(駿河台志)とある。(駿河台志のこの部分は、岡崎に原文がのっている。)

横関には次の説明がある。

紅梅坂:千代田区神田淡路町二丁目からニコライ堂のほうへ上る坂。幽霊坂とも。
埃(ごみ)坂:千代田区神田駿河台、ニコライ堂の北わきを西へ上る坂。紅梅坂、光威寺坂、光威坂とも

横関は、紅梅坂=幽霊坂=埃坂と考えているようであるが、都内に七箇所残っているとする芥坂・埃坂の一つとしてもっぱら説明し、別名の由来について説明は特にない。

千代田区のHPには次の説明がある。

「50.紅梅坂(こうばいざか)幽霊坂(ゆうれいざか)・光感寺坂(こうかんじざか)・埃坂(ごみざか)  「本郷通り」から、ニコライ堂の北側を「お茶の水仲通り」の方に上る坂です。もともとは「51.幽霊坂」とつながっていた坂道でしたが、昭和の始めに「本郷通り」が開通して、途中で分断されてしまいました。ですから幽霊坂の別名もあります。
 昔、この坂を上りつめた辺りに紅梅で知られた光感寺があったことから、紅梅坂または光感寺坂とも呼ばれていました。なお、「埃坂」(ごみざか)などの古名もあったようです。これらと同名の坂は「24.」・「51.」にもあります。」

ここには、紅梅で知られた光感寺が出てくるが、横関の説明にある光威寺と同じ寺なのか、違うのか不明である。また、駿河台志の云う紅梅の大木があった屋敷と、光感寺との関係も不明である。

上記のように、このあたりの坂は、坂名やその由来などちょっと不明な点が多い。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)

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新坂(淡路町)

2011年11月03日 | 坂道

新坂下 新坂下 新坂中腹 新坂中腹 前回の観音坂を下り、坂下を左折して北へ進み、次の交差点を左折すると、新坂の上りとなる。観音坂と平行に西へまっすぐに上り、距離も短いが、観音坂よりも勾配がある。

ここも工事中で、この右側(北)にあった淡路公園が見えない。工事中とはいえ、ちょっと無残な姿である。以前、この坂に来たとき、この公園のベンチで休んだ覚えがあるが、それも過去のことになったようだ。

坂上側に標柱が立っているが(四枚目、下二枚目の写真)、ほとんど判別不能である。工事完了後に新しくなるのであろうか。千代田区のホームページには次の説明がある。

「52.新坂(しんざか) 「本郷通り」から、淡路公園の南側を「外堀通り」の方向に下る坂です。明治維新前は備後福山藩阿部家の敷地でしたが、明治になってその中央に道路を通してできた坂道で、新しい坂ということから名付けられました。
 明治20年ごろニコライ堂建築の足場から撮った写真には、阿部家の塀の中央部分が道を通すために切り開かれている様子が、はっきり写っています。なお、同名の坂は「11.」と「32.」にもあります。」

新坂上 新坂上 新坂上 尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図/1863年)を見ると、観音坂の北側に平行な道がある。ここがいまの新坂の道筋とすると、明治になってからできた新しい坂という説明と合わない。調べると、尾張屋板の「クワンヲンサカ」の文字が上側(西)にあるためとわかった。尾張屋板で阿部伊豫守邸と松平左右衛門尉邸との間を西へ進むと、ちょっとした突き当たりになるが、そこが観音坂の坂上と考えると、辻褄があう(その突き当たりの先、西側に「クワンヲンサカ」とある)。近江屋板では、この突き当たりのところに坂マーク△があるので、現在の坂と合っている。もっともいまの坂上の先までをも観音坂とよんだとすれば、尾張屋板もあながち誤りだとはいえないかもしれない。坂上を右折し北へ進むと、ずっと阿部伊豫守の屋敷が続くので、確かに幕末までこの坂はなかったことがわかる。

新坂という名の坂は、都内に多数あるが、ここは明治になってから新たにできたために、新坂とよばれた。千代田区のHPには、同区内の他の二つの新坂が紹介されている。永田町二丁目の新坂と、JR市ヶ谷駅前から南へ上る新坂

坂上を西へ直進するが、この道は江戸切絵図にある道筋である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「東京時代MAP 大江戸編」(光村推古書院)

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観音坂(淡路町)

2011年11月02日 | 坂道

観音坂下 観音坂下 観音坂中腹 観音坂上 淡路町の交差点を北へ昌平橋の方に向かって進み二本目を左折すると、上り坂が見える。これが観音坂である。中程度の勾配で西へまっすぐに上っている。長さは短い。

坂上の標柱に次の説明がある。

「この坂を観音坂といいます。『東京名所図会』には"新編江戸志に、観音坂は埃坂の並び、むかし茅浦観音寺やしきありし故に名づくなりと見ゆ。此の坂の上観音院という称する仏刹ありしことは寛永の古図を見ても知らるべし。新編江戸志に観音寺とあるは観音院の誤りなるべし"とかかれています。しかし、延宝(一六七三~八〇)、元禄(一六八八)の古図には、このあたりに「芦浦観音寺」が見え、名の起こりは観音寺または観音院によるといえます。」

手元にある元禄江戸図(元禄六年(1693)作)を見ると、昌平橋から南へ延びる道の二本目を右折したさき左手に、アシ浦ノクワンノンジ、と読める文字がある。ここが上記の芦浦観音寺であろう。

尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図/1863年)には、昌平橋から南へ進み、阿部伊豫守邸と松平左右衛門尉邸との間を西へ行くと、クワンヲンサカがあり、坂マークの多数の横棒が描かれている。近江屋板には坂マーク△があるが、坂名はない。

『御府内備考』には次の説明がある。

「埃坂の並びなり。【江戸紀聞】昔浅草の淨念寺当所に在て、観音堂坂の中ほどに立し故名付といひ伝ふ。」

埃坂とは、この坂上の先にある甲賀坂(光感寺坂)のことである。

観音坂上 観音坂上 観音坂上 この坂は、現在、やや平凡な坂となっているが、以上のことから江戸から続く坂である。

二枚目の写真のように、坂上の角に小さな観音堂が建っている。標柱でも立っていないと見過ごしてしまうほどである。

同名の坂として、新宿区若葉町の観音坂渋谷区鳩森神社の近くの観音坂がある。いずれも坂近くの寺に観音が安置されていた。

坂上を直進すると、池田坂下、甲賀坂を経て、さらに、胸突坂を上ると、山の上ホテルに至るが、これらの坂には後で行く。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)

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淡路坂(駿河台)

2011年11月01日 | 坂道

今回は、神田駿河台の周囲の坂を巡った。御茶ノ水駅を中心に中央線の南西側に広がる台地と周囲の谷・低地との間を上下する坂である。聖橋口から中央線に沿って東側へ下る淡路坂と、反対に西の水道橋駅側に下る皀角坂がそれぞれこの地域のはじに位置する。

淡路坂下 淡路坂下 淡路坂下 淡路坂下 午後丸の内線淡路町駅下車。

出口A5から出ると、眼の前が淡路町の交差点である。ここを左折し、次を左折し、はじめの坂(観音坂)に向かったが、まず、淡路坂から紹介する。このあたりの代表的な坂であり、地名や駅名にも共通するからである。

後で紹介する幽霊坂下を左折した突き当たりの左右が淡路坂である。右折して行くと神田川にかかる昌平橋の南詰にある交差点が坂下で、その角に標柱が立っている。このあたりはほぼ平坦で、一枚目の写真のように、遠くに上り坂が見え、煉瓦造りの建物が並んでいる。その上に中央線が通っているが、途中で同じレベルになり、坂上では下を通るようになるので、高低差はかなりある。

坂下からほぼまっすぐに上っているが、途中、左に緩やかにカーブしてからまっすぐに坂上へと上っている。中腹から上にかけて勾配がきつくなり、一気に高度を上げる。坂上側から坂下左側を見ると、中央線、総武線の電車が通るのが見える。

坂下・坂上の平坦部分がちょっと長いため、坂上の標柱の立っているところから坂下の標柱までかなり距離がある。坂上のお茶の水駅聖橋口、本郷通りとつながる通りと、坂下の昌平橋南詰の交差点とを結ぶ道で、人と車の通行量がそこそこある坂である。

今回、このあたりを久しぶりに歩いたが、ビルや歩道の工事中のところが目立った。この坂の中央線の反対側(南側)もビルの工事中である。

淡路坂下側 淡路坂中腹 淡路坂中腹 淡路坂中腹 坂上の聖橋交差点のそばに立っている標柱に次の説明がある。(坂下の標柱の説明もほぼ同じであるが、最後の大坂の説明がない。)

「この坂を淡路坂といいます。この坂には、相生坂 大坂 一口坂(いもあらいざか)などの名称がつけられています。この坂の上に太田姫稲荷、道をはさんで鈴木淡路守の屋敷があり、それにもとづき町名、坂名がついたといわれます。
 一口坂については太田姫稲荷が通称一口稲荷(いもあらいいなり)といったためとされています。大坂はもちろん大きな坂という意味でしょう。」

尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図)を見ると、昌平橋南詰から神田川に沿ってアワジサカとあり、坂マークの多数の横棒がある。坂上の堤側に太田姫稲荷がある。近江屋板には、△淡路坂とあり、坂上に同じく太田姫稲荷があり、その前に鈴木弾正の屋敷が見えるが、坂名の由来となった鈴木淡路守との関係は不明である。寛文図によると、坂の頂上に「スズキアワジ」の屋敷があった(横関)。

千代田区のホームページには次の説明がある。

「49.淡路坂(あわじざか )一口坂(いもあらいざか)・相生坂(あいおいざか )・大坂(おおさか)  聖橋の南詰から神田川に沿って東に下る坂です。江戸時代、坂上西側に鈴木淡路守の屋敷があったことから、この名が呼び慣わされたのでしょう。 坂上東側には太田姫稲荷神社がありましたが、鉄道線路拡幅のため昭和6年に移転し、現在は神田駿河台一丁目にあります。この神社は、太田道灌が娘の疱瘡 (いもあらい)の治癒を祈願して、山城国(京都府)一口の里の稲荷を勧請して建立し、一口稲荷と呼んだと伝えられています。このことから、この坂には一口坂の別名もあります。なお、同名の一口坂は「34.」にあります。
 別名に相生坂・大坂などもありましたが、現在は神田川の向い側の坂(文京区との境界)が相生坂と呼ばれています。」

淡路坂上側 淡路坂上側 淡路坂上 淡路坂上 『御府内備考』には、この淡路坂について「昌平橋の方より駿河台へのぼる坂なり。」と簡単な説明がある。霞ヶ関にある三年坂の別名も淡路坂であるが、同じく、「虎御門内松平周防守・松平筑前守の屋敷の間の坂なり。陶山関ともいふなり。【江戸名勝志】」との説明がある。横関は、この説明からなぜ、霞ヶ関の三年坂を淡路坂とよぶのかわからないとし、調べると、松平周防守はほとんど各代周防守であったが、外桜田門内の屋敷からここに初めて移って来たときの当主が松平淡路守庚映(やすてる)という人で、石州浜田藩六万四百石の城主であった。のちに周防守をついだが、その初めて移って来たとき(寛永21年(1644)9月11日)の「淡路守」に由来する坂名と推測している。

閑話休題。神田川を挟んで反対の北側に相生坂がこの坂と平行に上下している。横関によれば、相生坂とよばれる坂は三つに分類できるとのことで、その一つが二つの坂が平行しているものである。この淡路坂と聖堂前の昌平坂は、平行しているから、二つの坂を相生坂といった(新宿区の相生坂も平行型、港区の相生坂はY字型)。反対側の坂を、現在、相生坂とよんでいるが、もともと二つの坂の名であったということらしい。

この坂は上述のように江戸から続く坂であるが、その風情はかなり失われている。岡崎に、石垣のある坂上北側の写真がのっているが、これと比べてもかなり変わっていることがわかる。(もっとも他の坂もみなそうであるが。)

淡路坂上 淡路坂上 淡路坂上 太田姫神社 坂上の神田川の土手側にかつて太田姫神社があった。現在、坂上の線路側(北)の大樹の幹に「太田姫神社 元宮 旧名一口(いもあらい)神社」と記した木板がしばりつけられており、また謂れを記した板も取りつけられている(二枚目の写真)。

太田姫神社は、もともと一口稲荷とよばれ、太田道灌が長禄二年(1458)京の一口の里から江戸城中に勧請したといわれているが、その前年に武蔵江戸城を築いている。上記のように道灌が娘の疱瘡の治癒を祈願したものという。その後、天正十八年(1590)徳川家康が入国と同時にこの稲荷を城中から駿河台の土手に移した(横関)。駿河台は江戸城の鬼門にあたり、家康は守護神としたという(岡崎)。人々に疱瘡神として信仰された。

横関は、一口稲荷前の坂なので、一口坂(いもあらいざか)とよび、坂下の橋(昌平橋)を芋洗橋(一口橋)と云ったとし、稲荷の裏には川(後の神田川)が流れていたが、仙台伊達藩が大規模な掘り割り工事を行う前なので、まだ狭い小川であり、これが「いも」(疱瘡)を洗う「お水」であったかもしれないとしている。同名の坂として、港区六本木の芋洗坂千代田区富士見坂近くの一口坂がある。

上記のように、時代はずっと後の昭和になってから(1931)、太田姫神社は鉄道線路拡幅のために移転し、現在、後で行く池田坂を下ってまっすぐに進んだ右手にある(四枚目の写真)。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
石川悌二「東京の橋」(新人物往来社)

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