東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

神田川(淀橋)~善福寺川

2012年12月31日 | 散策

新宿の成子坂下の淀橋から神田川を上流へ進み、善福寺川へと歩いた。その小散策記である。

成子坂中腹 成子坂下 中野坂下 淀橋から神田川上流 昼過ぎに成子坂上に行き、ここから出発。

一枚目の写真は成子坂の中腹のバス停から坂下を、二枚目は坂下近くの交差点から坂上を撮ったものであるが、交通量の多い広い青梅街道の坂であるため、情緒などまったく感じられない。

やがて坂下の淀橋にいたる(現代地図)。三枚目はそこから、成子坂と相対している中野坂の坂上側を撮ったもので、ここも成子坂からの続きで交通量が多い。 四枚目は淀橋から神田川の上流である。ここから川に沿ってできた遊歩道を上流へと歩く。

淀橋遠景 長者橋から東 東郷橋たもと 中野新橋遠景 年末の昼過ぎ、晴れて風もないが、川沿い散歩の人は少ない。青梅街道から遠ざかるにつれて静かになっていき、年末年始の休みに入ったこともあるせいだが、ゆっくりした気分で歩くことができる。一年中でもっともゆったりとした気持ちになれるときかもしれない。これが年が明けるともう休み明けのことが気になってきて、そうでもなくなるから、年末のこのときがよい。

一枚目の写真は淀橋の上流から下流を撮ったもので、淀橋が遠くなって見える。

確か、五六年前にも年末に同じようなコースを歩いたことがある。逆コースも歩いているので、なじみのある散歩道である。やがて山手通りで分断されるが、近くの横断歩道から上流側の長者橋に行き、そこから東側を撮ったのが、二枚目で、東は空が青い。

東郷橋のたもとに、三枚目のような標識が立っている。ここが隅田川の河口から12.5km、水源の井の頭池から12.1kmで、神田川のほぼ中間地点である。しばらく歩くと、四枚目のように上流遠くに赤い中野新橋が見えてくる。

中野新橋 中野新橋から上流 中野新橋の上流 富士見橋から下流 やがて一枚目の写真の中野新橋につく(現代地図)が、赤い欄干がよく目立っている。すぐそばに地下鉄の駅があるため、賑やかなところである。ここでラーメンと餃子の昼食をとる。

二枚目は中野新橋から上流を撮ったもので、左側の川沿いが工事中のようである。

ここから富士見橋まで川沿いの散歩道はなく、一般道を歩くので、先ほどまでの散歩気分はすっかり変わってしまい、ちょっとおもしろみがない。三枚目はその途中の橋から上流を撮ったものである。

やがて富士見橋にいたるが、そこから下流を撮ったのが四枚目である。

神田川と善福寺川の合流地点 駒ケ坂下 和田堀橋 和田堀橋から善福寺川上流 富士見橋の交差点を渡り川沿い散歩が再開するが、川に沿って高い塀ができているため川が見えず、どうも感じが違ってしまう。やがて塀が低くなるが、そのあたりが一枚目の写真のように二つの川の合流地点である(現代地図)。上側が神田川で、下側が善福寺川である。善福寺川はここからはじまる。

合流地点上流の駒ケ坂橋を渡ると、二枚目のように、駒ケ坂がまっすぐに南へ上っている。

さらに川沿いに歩くと、環状七号線にかかる和田堀橋が見えてくる。三枚目はそのちょっと下流から撮ったものである。

橋の右へ歩道をちょっと歩きそこの信号で環七を横断し、和田堀橋までもどろうとしたが、その環七の道路が川に向けてちょっと上り勾配である。先ほどの信号のあたりがもっとも低地のようで、川がその上を流れているのが不自然だが、むかしの改修工事で流れを変えたのだろうか。

四枚目は和田堀橋から善福寺川の上流を撮ったもので、最近までずっと工事中であったのがようやく完成したらしく、川の両側に散歩道ができている。

堀之内橋から下流 本村橋から上流 武蔵野橋から下流 武蔵野橋から上流 完成後の遊歩道をはじめて歩いたが、一枚目の写真は、その上流の堀之内橋から下流を、二枚目はそのさらに上流の本山橋から上流を撮ったもので、このあたりも川の改修工事が終わった後のようである。しかし、二枚目の遠くに見えるが、紅葉橋の上流から武蔵野橋の下流までまだ工事中で、川沿い遊歩道はまだ全線開通にはなっていない。

紅葉橋を渡り、熊野神社のわきを通って、川に出ると、そこは、武蔵野橋の下流である。三枚目の写真は武蔵野橋から下流を撮ったもので、工事現場が見える。四枚目はそこから上流側を撮ったもので、川岸が工事中である。

宮下橋から上流 宮下橋の上流 和田堀池 成田上橋から下流 やがて宮下橋にいたるが、ここから上流はよく歩くところである。一枚目の写真は宮下橋から上流を撮ったもので、すっかり冬枯れの風景になっている。二枚目はその上流で川を撮ったもので、砂岸の風景がおもしろい。三枚目はその近くの和田堀池である。

四枚目は、さらに歩いて、尾崎橋の下流の成田上橋から下流を撮ったものである。ここは私的な撮影ポイントの一つである。ちょうど川がちょっとうねっており、よい眺めになっているからであるが、写真を何回も何枚も撮っても、そのたびに風景は違うふうに写り、決して同じにはならない。これがおもしろくてここを通るたびにシャッタを押す。

以下の四枚の写真は、善福寺川沿いで東・北側を撮ったもので、落葉した樹木と青空の組み合わせは、いまの季節でないと見ることができない風景をつくりだしている。 善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺川

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新坂(福山坂)の旧坂下

2012年12月30日 | 坂道

前回で本郷六丁目の新坂から油坂までの坂巡り記を終えた。この坂巡りのとき、その前に新坂(福山坂)に行ってその坂下の別の道を歩いたので、これを記事にする。ここは、以前の新坂(福山坂)の記事で宿題になっていたところである。

新坂(福山坂)の案内地図 明治地図(新坂(福山坂)) 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 一枚目は、坂下近くに立っていた街角案内地図である。新坂(福山坂)は、西片一丁目20番と白山一丁目3番の間から右に緩やかにカーブしまっすぐに南へ上ってから左へとカーブして西片一丁目5番と12番の間へと上る坂である。

二枚目は、明治地図(明治40年)の新坂(福山坂)のあたりを拡大したもので、福山町6番の右(東)に鋭角に折れ曲がった道が見えるが、これが明治の新坂(福山坂)である。この坂に東の方から来ると、坂上側でカーブして北へまっすぐに下ってから突然、鋭角に折れ曲がって南へ下ってからふたたび曲がり、左(西)へと下っている。急な折れ曲がりから下が帯状の淡い緑色で示されているが、この帯状の部分は地図凡例によれば崖及草生地である。この急な折れ曲がりから下の部分は本郷台地の崖地をトラバースするようにつくられたことがわかり、かなり急な崖であったと想像される。(この明治地図の全体は、このブログの左のブックマークから閲覧できる。)

一枚目の案内地図や現代地図と、二枚目の明治地図を比べると、すぐにわかるが、現在の坂下からはじめのカーブの上までの部分は、明治にはまだなく、それ以降につくられたもので、明治の旧坂下に対し新坂下である。戦前の昭和地図(昭和16年)を見ると、この坂は、いまと同じになっているので、大正~昭和初期ごろにいまの新坂下がつくられたと思われる。

以上から、新坂(福山坂)の坂下は、西片一丁目20番と白山一丁目3番の間から右に緩やかにカーブして上る道ではなく、西片一丁目20番と13番の間から上る道であると云った方がこの坂の歴史にあう。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、広い阿部伊豫守邸があり、ここが備後福山藩の中屋敷であるが、この坂は見えない。明治になってから阿部屋敷の中央左側上部分あたりにできたものと思われる。

新坂(福山坂)下の手前 新坂(福山坂)下 新坂(福山坂)下 新坂(福山坂)下 白山通りの東側の歩道を北へ進み、西片一丁目13番と19番の間の斜めに延びる道へ右折する。一枚目の写真はそのあたりから進行方向北側を撮ったもので、このちょっと先に新坂(福山坂)の新旧の坂下があり、手前が旧坂下で、その向こうが新坂下である。

二枚目は、旧坂下が接続する道路から坂上側を撮ったもので、中程度の勾配よりも緩やかに東へまっすぐに上っている。

三枚目は、坂下からまっすぐに上ってから撮ったもので、左にほぼ直角に曲がっているが、上記の明治地図とほぼ同じである。四枚目は坂下からまっすぐに上って突き当たったところから坂下を撮ったものである。

新坂(福山坂)中腹 新坂(福山坂)中腹 新坂(福山坂)中腹 新坂(福山坂)中腹 一枚目の写真は、旧坂下から上ってほぼ直角に曲がってから坂上側を撮ったもので、下側よりも急な勾配となっており、この上で新坂下から上ってきた道と合流する。二枚目はちょっと上ってからふり返り、曲がり部分を撮ったものである。

三枚目は、新坂下からの合流部分から坂下を撮ったものである。四枚目は合流部分から上の新坂(福山坂)中腹を撮ったもので、坂の標識が見える。旧坂下から急激に曲がって中腹に合流している。これから坂上については、以前の記事のとおりである。

坂の標識は、新旧坂下部分よりも上側に立っており、絶妙と云ってもよいような位置にある。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)

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油坂(揚場坂)

2012年12月29日 | 坂道

油坂下 油坂下 油坂下 油坂下 前回の富士見坂下の外堀通りの歩道に戻り、ここを左折し東に歩き、順天堂大学の前を通り、次を左折すると、油坂の坂下である(街角地図参照)。

一、二枚目は坂下の外堀通りの歩道から坂上を、三枚目はその先から坂上を撮ったものである。四枚目はそのあたりから坂下を撮ったもので、外堀通りが見える。

ここも外堀通りからほぼまっすぐに北へ上る坂で、となりの富士見坂と同様にかなり緩やかで距離も短い。三枚目の写真からわかるように坂下側でわずかに左に曲がっている。

本郷二丁目1番と2番の間で、坂の両側に順天堂大の建物があり、坂下の真上に連絡通路が見える。

油坂中腹 油坂中腹 油坂中腹 油坂中腹 一枚目の写真は、坂下からちょっと上って中腹から坂上を、二枚目はそのあたりから坂下を撮ったものである。三枚目は、さらにちょっと上ってから坂上を、四枚目は、そのちょっと先から坂下を撮ったもので、坂上側に坂の標識が立っている。

標識には次の説明がある。

「油坂(揚場[あげば]坂)  (本郷2-1と2-2)
 この坂は、油坂または揚場坂と呼ばれている。坂上の左側は本郷給水所公苑である。『油坂、元町1丁目と東竹町辺の間を南に下る坂あり、油坂と呼ぶ』(新撰東京名所図会)とあるが、その名の起りは不明である。
 この坂は別名『揚場坂』といわれているが、その意味は、神田川の堀端に舟をつけて、荷物の揚げおろしをするため、町内地主方が、お上に願って場所を借りた荷あげ場であった。この荷揚場所に通ずる坂位置を揚場坂道と呼んだのがのちに『揚場坂』と言われるようになった。
 『揚場坂と申し、里俗に近辺には無御座候得共、町内、持揚場御茶の水河岸内に有之候に付、右揚場坂道を他所の者、揚場坂と唱候儀も有之趣に御座候』(御府内備考より)
       文京区教育委員会  昭和62年3月」

明治実測地図(明治11年)を見ると、元町一丁目と東竹町の間に道があるが、ここがこの坂である。西から東へと、建部坂富士見坂、油坂が平行に並んでいるが、同地図を見ると、これらの坂下近くに本郷台地の縁が東西に延びており、この当時にはこれらの坂下側はいまよりも急であったのかもしれない。

油坂上 油坂上 油坂上 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 一枚目の写真は、坂上側近くの標識の所から坂上を、二枚目はその上側から坂上を撮ったもので、このあたりではさらに緩やかになっている。三枚目は坂上の交差点近くから坂下を撮ったものである。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)を見ると、上から建部坂、富士見坂、油坂がある。近江屋板(嘉永三年(1850))も同じで、これにも坂名も坂マークもない。

油坂というユニークな坂名であるが、その由来は不明という(石川、岡崎)。別名の揚場坂は、御府内備考を引用した標識の説明のように、町方が管理する荷揚場がお茶の水の河岸にあり、これに通ずる坂であったことに由来するようである。

坂下から外堀通りを通ってお茶の水駅へ。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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富士見坂(本郷二丁目)

2012年12月27日 | 坂道

富士見坂下 富士見坂下からお茶の水坂上 富士見坂下 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 前回の建部坂上をちょっと進んで右折し、東へ歩き、次の四差路を右折すると、富士見坂の坂上である(街角地図参照)。

坂下から写真を並べると、一枚目は坂下の外堀通りの歩道から坂上を、二枚目はそこから左側の外堀通りのお茶の水坂の坂上を撮ったものである。三枚目は、坂下のちょっと先から坂上を撮ったものである。

外堀通りからまっすぐに北へ上る坂で、かなり緩やかである。本郷二丁目2番と3番の間で、建部坂の東に平行に延び、このさらに東に油坂があるので、両坂の中間に位置する。坂上が建部坂と同じく本郷台地である。

下四枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)にも建部坂の東にこの坂が見えるが、坂名はない。近江屋板(嘉永三年(1850))にも同じ道があるが、坂名も坂マークもない。

富士見坂中腹 富士見坂中腹 富士見坂中腹 富士見坂中腹 一枚目の写真は、坂下からちょっと上ったところから坂上を、二枚目はそのあたりから坂下を撮ったものである。三枚目は、さらにちょっと上り坂上を、四枚目は、そのちょっと先から坂下を撮ったものである。

この坂は、となりの建部坂と同じく平凡な小坂で、建部坂よりも勾配がない。坂下がお茶の水坂の坂上のため高低差がないからであろう。

この坂にはいつもの標識はないが、街角地図に坂名が表示されている。

この坂は江戸時代の記録にはないようであるが、『新撰東京名所図会』に次のように記してある(石川、岡崎)。

「富士見坂 油坂の北にありて東に上るを富士見坂といふ。富士山の眺望に適す。」

この坂から富士山は西南の方向であるので、この方向の神田川の向こうに富士が見えたのであろう。『新撰東京名所図会』で「油坂の北」「東に上る」というのがちょっと不明で、油坂の西、北に上る、となるはずであるが。

旧元町一丁目標識 富士見坂上 富士見坂上 富士見坂上 一枚目の写真は、坂上近くに貼り付けてあった旧町名の標識であるが、このあたりは元町一丁目といった。近江屋板(嘉永三年(1850))にもこの近くに元町とある。

二枚目は坂上近くから坂下を、三枚目はそのあたりから坂上を、四枚目は坂上交差点の北側から坂下を撮ったものである。(三枚目の交差点を左折すると、建部坂上で、右折すると、これから行く油坂上である。)

「富士見坂」という坂は、都内にたくさんあるが、ここはすっかりビルに囲まれ、おまけに小坂のせいもあって、かつて富士が見えたということが信じられないほどである(もっとも他の坂も大同小異で、富士が見えない富士見坂がほとんどであるが)。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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建部坂

2012年12月26日 | 坂道

街角地図 元町公園 建部坂下 建部坂下 前回のお茶の水坂の坂上近くを左折すると、建部(たけべ)坂の坂下である。一枚目の写真の街角地図のように、元町公園の東わきの道で、本郷一丁目1番と二丁目3番との間を北へ上る坂である。二枚目はお茶の水坂に面した元町公園の入口付近である。

三枚目は坂下から坂上を、四枚目はそのちょっと上から坂上を撮ったもので、中程度よりも緩やかな勾配でまっすぐに上っている。左手前方が元町公園である。

坂上近くの歩道端(西側)に立つ標識に次の説明がある。

「建部坂(初音坂)
       文京区本郷一丁目と二丁目の間
 『新撰東京江戸名所図会』に「富士見坂の北(注・西)にある坂を建部坂といふ。幕士建部氏の邸地あり因て此名に呼び做せり」とある。嘉永3年(1850)の『江戸切絵図』で近江屋板を見ると、建部坂の上り口西側一帯(現在の元町公園)に建部氏の屋敷が見える。直参、千四百石で、八百八十坪(約2900m2)であった。
 『御府内備考』に次のような記事がある。建部六右衛門様御屋敷は、河岸通りまであり、河岸の方はがけになっている。がけ上は庭で土地が高く、見晴らしが良い。がけ一帯にやぶが茂り、年々鶯の初音早く、年によっては十二月の内でも鳴くので、自然と初音[はつね]の森といわれるようになった。明和9年(1772)丸山菊坂より出火の節、やぶが焼けてしまったが、今でも初音の森といっている。初音の森の近くで、一名初音坂ともいわれた。
           文京区教育委員会  平成14年3月」

建部坂下 建部坂下 建部坂中腹 建部坂中腹 一枚目の写真は、坂下からちょっと上ったところから坂上を撮ったもので、古びた石塀の上は元町公園である。二枚目はそのあたりから坂下を撮ったもので、坂下の先に外堀通りが見えるが、お茶の水坂の坂上あたりである。その向こう下側に中央線の電車が見え、その上側が皀角坂のあたりであろうか。

三枚目は、さらに上り中腹付近から坂上を、四枚目は、そのあたりから坂下を撮ったもので、通りの向こうにこんどは総武線の電車が見える。

この坂は、なんということもない平凡な小坂であるが、歴史は古く、その坂名には異説がある。

建部坂は、標識にもあるように、坂下の西にあった建部邸に由来する。下四枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)を見ると、坂下西に建部六左エ門の屋敷がある。近江屋板(嘉永三年(1850))では、建部六右エ門となっていて、その前の道に、△タテブサカ、とある。

横関は、建部氏の子孫にあたる人から、建部六左エ門はまちがい、という注意を受けたという。 横関は、建部坂の別名を忠弥坂とし、この坂の坂下からの写真をのせている。この坂をそのまま北へ直進し、最初の四差路を左折して進むと坂上にいたるが、この坂が忠弥坂とされており、前回の記事で紹介した。

『御府内備考』の本郷之一の総説に丸橋忠弥宅蹟の説明がある。

「丸橋忠弥宅蹟 丸橋忠弥宅跡は春木町のうち今の近藤氏の表門の向ふなりと、或は昌清寺、等正寺の辺ともいへり、古く大岡源右衛門といへる人おれり、その屋敷はことの外広くして三千五百坪ありしと、この人彼の門人なりしかば、その屋敷の内に忠弥をすませたり、此人その頃は御中間頭を勤む、かの忠弥を置し科により、慶安四年八月十四五日の頃佐渡の国へ遠流に処せられしか、後七年をへて明暦三年罪ゆるされて江戸に還り、又御家人にめし出され本郷の内にて屋敷を賜へり、今の御代官大岡源右衛門が先祖なり、【改撰江戸志】」

御府内備考によると、丸橋忠弥宅跡には諸説あるが、大岡源右衛門という人の屋敷が三千五百坪と広く、この人が忠弥の門人で、その屋敷の内に忠弥を住まわせた。

丸橋忠弥が関与した慶安の変は慶安四年(1651)に起きている(前回の記事)が、正保元年(1644)の江戸地図が横関にのっている。これには、当時まだあった吉祥寺の東となりに大岡源右衛門の屋敷が二つあり、横関は、このうち忠弥が住んだのは南の方の屋敷(いまの元町公園のある所)で、北が大岡源右衛門の住んだ屋敷と推測している。忠弥の住んだ屋敷は南側が崖で要害となっていて、ことある場合の防塞となるようなところだったからそう推測したようである。南の屋敷の東わきがこの坂で、忠弥坂は、建部坂以前に、近所のごく少数の人びとからひそかに呼ばれていた坂名であったとしている。

横関は、現在忠弥坂とされている坂をまったく否定しているが、その理由として、忠弥が南側の屋敷に住んだこと、道のできた時代(おそらく明治)を考えている。

建部坂上 建部坂上 建部坂上 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 一枚目の写真は坂上近くからその先を、二枚目はさらに坂上側から坂下を、三枚目はそのちょっと手前から坂上側を撮ったもので、坂の標識と上一枚目の街角地図が写っている。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図で、この坂のある道筋を北へまっすぐにたどると、壱岐坂の坂上、東富坂の坂上へと続き、現在の道とほぼ一致する。

この坂の別名の初音坂についても横関は別の説を唱えている。

『御府内備考』の本郷之一の総説に初音藪について次の説明がある。

「初音藪 初音藪はその所を詳にせず、或云、櫻馬場の西の方なりと、元禄の頃 御成の時此ほとりを通御ありしに、おりしも藪の内にて鶯[うぐいす]の初音を聞せられ、此所を初音の藪と名付べしと台名ありしよりの名なりと、【改撰江戸志】今土人は御茶の水建部六右衛門屋敷の崖付の所ならんと云、【本郷元町書上】【江戸図説】に、初音の森は御茶の水より元町辺時鳥[ほととぎす]の名ところとす、府内にては此辺を尤も一声早しと、是は前説の鶯の事を誤り伝へしものにや、別に初音の森といへるを だ聞ず、」

横関は、上記の記述(今土人は御茶の水建部六右衛門屋敷の崖付の所ならんと云)から初音坂が建部坂の別名になったとしている。天保ころの写本で、江戸の大名や旗本の屋敷を詳しく書いた『江戸大名町案内』(仮題)という本をよく調べたら、タケベ坂の一名を初音坂と書いたのは誤りであることを知ったとし、もっと正しい資料が出てくるまで、建部坂一名初音坂を取り消すとしている。

上記の写本を嘉永二年の江戸切絵図でたどると、「行当り初音坂有」とある所は炭団坂であるという。横関は、これから、炭団坂の別名を初音坂としている。ただし、このことから直ちに建部坂の別名が初音坂であることを否定はできないように思われる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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小山田緑地2012(12月)

2012年12月25日 | 写真
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お茶の水坂

2012年12月18日 | 坂道

周辺地図 お茶の水坂下 お茶の水坂中腹 お茶の水坂中腹 前回の忠弥坂下を直進すると、白山通りの歩道に出るが、左折し、ちょっと歩くと、水道橋の交差点である。一枚目の写真はそのあたりに立っていた街角地図であるが、ここを左折すると、お茶の水坂の坂下である。二枚目は坂下付近から撮ったもので、外堀通りの広い道が緩やかに上っている。

三枚目は歩道をちょっと上り坂上側を撮ったもので、左手は神田川で、中央線、総武線が通っている。その向こう岸の上に皀角坂がある。四枚目はそのあたりから坂下を撮ったもので、坂下の水道橋の交差点が見える。

水道橋の交差点から神田川に沿って東へ本郷台地へ上る坂で、勾配はさほどないが、だらだらと上ってかなり距離が長い。この通りが本郷台地の南端になっている(江戸時代の神田川開削以降のことであるが)。

お茶の水坂中腹 お茶の水坂中腹 お茶の水坂中腹 一枚目の写真はさらに上って坂中腹から坂上を撮ったもので、このあたりでちょっと左に曲がっている。二枚目は、さらに上り、元町公園の入口付近を撮ったもので、歩道端に坂の標識が立っている。三枚目は、標識のあたりから坂下を撮ったものである。

標識には次の説明がある。

「お茶の水坂
     水道橋から順天堂医院間の外堀通り
 この神田川の外堀工事は元和年間(1615-1626)に行われた。それ以前に、ここにあった高林寺(現向丘二丁目)の境内に湧き水があり“お茶の水”として将軍に献上したことから、「お茶の水」の地名がおこった。
 『御府内備考』によれば「御茶之水は聖堂の西にあり、この井名水にして御茶の水に召し上げられしと・・・・」とある。
 この坂は神田川(仙台堀)に沿って、お茶の水の上の坂で「お茶の水坂」という。坂の下の神田川に、かって神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていたが、明治34年(1901)取りはずされた。
       お茶の水橋低きに見ゆる水のいろ
         寒む夜はふけてわれは行くなり
                  島木赤彦(1876-1926)
          東京都文京区教育委員会  平成9年3月」

お茶の水坂上 お茶の水坂上 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 一枚目の写真は、標識のあたりから坂上を、二枚目はそのちょっと上の歩道から坂上を撮ったものである。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)を見ると、神田川に沿った道があるが、ここがこの坂である。御茶之水とあり、水道橋、上水樋が見える。

近江屋板(嘉永三年(1850))も同様であるが、坂マーク△があり、その上の方に、此辺御茶ノ水ト云、とある。

『御府内備考』の本郷之一の総説にある「御茶之水蹟」の説明が上記の標識に引用されているが、前半部分は次のようになっている。

「御茶之水は聖堂の西にあり、按に今火消屋敷の南の方川の斜に折て里俗大曲と称せる辺なり、今は流の中に入しといふ、この井名水にして御茶の水にめし上られしと、神田川ほり割の時(明暦の頃にや)淵になりて水際の形のみのこれり、享保十四年、江戸川洪水ののち川の幅を広められしかば、おのづから川のうちへ入て今は名のみのこれり、・・・」

御茶の水は聖堂の西にあった。川が斜めに折れ曲がった大曲という辺りであるが、火消し屋敷の南とある。上記の尾張屋板に、定火消御役屋敷があるが、ここがその火消し屋敷とすると、その南付近になる。明暦(1655~1658)の頃の神田川掘削のとき、淵になって水際の形だけ残って、享保14年(1729)、洪水のあとに川幅が広げられて川に入ってしまった。

坂名は、名水の井戸に由来することは明白であるが、不思議なことに、坂名がはっきりと記された江戸期の文献はないようである。(お茶の水坂などと「坂」をいちいちつけて呼ぶよりも「お茶の水」だけで場所を示すのには十分だったと想像される。)

江戸名所図会 お茶の水 江戸名所図会 お茶の水 左の二枚の絵図は、江戸名所図会の御茶の水の挿絵で、手前が神田上水の懸樋で、その上流に水道橋が見える。乗客をのせた舟が上流(西)に向かっていて、その遠く向こうに富士が描かれている。右側が御茶の水坂側で、左側が皀角坂側である。本文に「水道橋」について次の説明がある。

「水道橋 小川町より小石川への出口、神田川の流れに架す。この橋の少し下の方に神田上水の懸樋(かけとひ)あり、故に号とす。(この下の川は、万治の頃仙台候欽命を奉じて、堀割らるゝ所なりといふ。)万治の頃まで、駒込の吉祥寺この地にあり。その表門の通りにありしとて、この橋の旧名を吉祥寺橋ともいへり。・・・」

水道橋の名は、神田上水の懸樋があったことに由来し、万治(1658~1661)の頃までは、この坂下北側一帯に吉祥寺があったので吉祥寺橋ともいわれた。

実測東京地図(明治11年)に神田川に沿ってこの坂があり、坂上北側に女子師範学校があるが、お茶の水女子大学の前身である。明治地図(明治40年)も同様で、市電が通っている。戦前の昭和地図(昭和16年)を見ると、ここは東京歯科附属医院(いまの東京医科歯科大学附属病院)になっている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「江戸名所図会(一)」(角川文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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忠弥坂

2012年12月17日 | 坂道

忠弥坂下 忠弥坂下 忠弥坂中腹 忠弥坂中腹 前回の金比羅坂上をそのまま北へ進み、突き当たりを右折すると、忠弥坂の坂上である。

写真は坂下側から並べた。一枚目は坂下から坂上を撮ったもので、坂下は緩やかだが、右にちょっと曲がってから中程度の勾配よりも急にまっすぐに東へ上っている(現代地図)。ここから坂下を右折し北へちょっと歩くと、前回の金刀比羅神社である。

二枚目はその上から坂上を、三枚目はさらにその上から坂上を撮ったもので、上側で左へちょっと曲がっている。四枚目は途中から坂下を撮ったものである。

本郷一丁目3番と5番の間から東へ本郷台地へ上る坂で、かなり勾配がある。三、四枚目の写真のように、坂の南側は崖になっているが、このあたりは本郷台地の南西端付近である。

忠弥坂中腹 忠弥坂中腹 忠弥坂中腹 忠弥坂中腹 一枚目の写真は坂中腹の曲がりの手前から坂上を撮ったもので、左側歩道の端に坂の標識が立っている。二枚目は標識のあたりから坂下を、三枚目は坂上を撮ったもので、曲がってから坂上へとまっすぐに上っている。四枚目は曲がりのちょっと上から坂下を撮ったものである。

標識には次の説明がある。

「忠弥坂(ちゅうやざか)  本郷一丁目1~2と6の間
 坂の上あたりに丸橋忠弥の槍の道場があって、忠弥が慶安事件で捕えられた場所にも近いということで、この名がつけられた。
 道場のあった場所については諸説がある。
 "慶安事件"は、忠弥が由井正雪とともに、慶安4年(1651)江戸幕府の転覆を企てて失敗におわった当時の一大事件であった。
 忠弥の名は、浄瑠璃や歌舞伎の登場人物としても有名である。
          東京都文京区教育委員会  平成元年3月」

慶安の変は、慶安四年(1651)4~7月に起きた事件で、由井正雪、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義が幕府転覆、浪人救済を図ったが、計画は事前に露見した。丸橋忠弥は磔刑となった。浪人で、宝蔵院流槍術の道場を開いたという。

忠弥坂上 忠弥坂上 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 一枚目の写真は、標識の上側から坂上を、二枚目は坂上から坂下を撮ったものである。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)を見ると、イキトノサカ(壱岐殿坂)の坂上から南へ神田川方面へ延びる道がある。その南端に建部坂があるが、現在もこれに相当する道が新壱岐坂の上側の曲がり付近から延びている。上記の切絵図の道から西側は武家屋敷が見えるだけで、この坂に相当する道筋は示されていない。近江屋板(嘉永三年(1850))も同様である。

実測東京地図(明治11年)には、この一帯に崖地のしるしなどがあるだけで、道は一本も示されていない。明治地図(明治40年)を見ると、建部坂から北に向かい、左折し西へ延びる道が示されているが、この道がこの坂と想われる。この地図では、この道の西の先は行き止まりで、右折し北へ向かう細い道が示されている。そして、その南側(神田川寄り)に金刀比羅神社がある。東京五千ノ一(明治20年)でも神田川近くにこの神社があるが、この坂道は示されていない。

戦前の昭和地図(昭和16年)を見ると、この坂や神社の位置は、現在とほぼ同じである。

忠弥が開いた道場の位置を横関はこの近くの建部坂の坂上と考えており、この坂についてはかなり否定的である。

この坂道は明治頃につくられたとすると、そのとき丸橋忠弥伝説と結びついて、このように命名されたのであろうか。

坂の位置の問題は別として、本郷台地の南西端付近にあるかなり勾配がある坂で、休日のせいかもしれないが、車も人通りも少なく、裏道の静かな散歩が楽しめるところである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)

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善福寺川(尾崎橋~宮下橋)2012(12月)

2012年12月09日 | 写真
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金比羅坂

2012年12月08日 | 坂道

金刀比羅神社 金比羅坂下 金比羅坂下 金比羅坂中腹 前回の壱岐坂の西側坂下の途中を坂上から来て左折し南へとちょっと歩くと、左手に金刀比羅神社が見えてくる。一枚目の写真のように、神社前の石柱に金刀比羅宮東京分社と刻まれている。

神社から引き返して、すぐの四差路を右折すると、小路の向こうに坂が見える。ここが金比羅坂である(現代地図)。二枚目の写真は坂下から坂上側を、三枚目はそのちょっと上から坂上側を撮ったもので、中程度の勾配で東へ上っている。四枚目はさらに上ってから坂下を撮ったもので、かなり狭い道で、向こうに見えるのは白山通りである。

本郷一丁目5番と12番の間にある坂で、上側で大きく北側へ曲がってから本郷台地へと上っている。

金比羅坂中腹 金比羅坂中腹 金比羅坂中腹 金比羅坂中腹 一枚目の写真は坂中腹のT字路の手前から撮ったもので、ここを左折していくと、新壱岐坂の中腹である。二枚目はそのちょっと上から坂上側を、三枚目はそのあたりから坂下側を撮ったものである。T字路の上と下ではちょっと違う感じであるが、同じ金比羅坂であろう。四枚目は三枚目の上側の大きくカーブしたところから坂上を撮ったものである。

この坂にはいつもの標識が立っていない。

この坂は、山野と岡崎に紹介されているが、横関、石川、「東京23区の坂道」には紹介されていない。坂名は坂わきの金刀比羅神社に由来することはわかるが、いつごろできたのかは、岡崎などを見てもちょっとわからない。

金比羅坂上 金比羅坂上 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 高松松平家の下屋敷跡 一枚目の写真は、中腹の大きなカーブを曲がって坂上に上ってから坂下側を、二枚目は坂上を撮ったものである。この坂上側をもこの坂に含めるのか不明であるが、曲がってからよい上りとなっているので紹介する。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)には、イキトノサカ(壱岐殿坂)の坂下左側(南)に青山大膳亮の屋敷があるが、その南となりに松平讃岐守の中屋敷がある。近江屋板(嘉永三年(1850))も同様であるが、御江戸大絵図(天保十四年(1843))では青山屋敷のとなりは対馬宗家の屋敷になっている。

四枚目は金刀比羅神社の境内に立っていた高松松平家の下屋敷跡の標識である。これから、この神社は高松松平家の屋敷内にあったのかと想像されるが、確かでない。

実測東京地図(明治11年)には、壱岐坂の下側(南)から神田川までの一帯に崖地のしるしなどがあるだけで、道は一本も示されていない。明治地図(明治40年)を見ると、この坂と想われる道が示されているが、神社がこの道のわきでなく、ちょっと南へ離れた神田川の近くにある。東京五千ノ一(明治20年)でも神田川近くにこの神社があるが、この坂道は示されていない。

戦前の昭和地図(昭和16年)を見ると、神社は現在の位置にあり、坂道も現在とほぼ同じである。

以上から、この坂道は、明治につくられたが、そのとき神社はこの傍にはなく、無名坂で、その後、神社が移ってきてから、この坂名になったのかもしれない。

坂上側のカーブから上も明治のころと違っているようであるが、これがアクセントになってなかなかよい坂になっている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)

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壱岐坂(壱岐殿坂)

2012年12月07日 | 坂道

壱岐坂下 壱岐坂下 壱岐坂下 壱岐坂中腹 前回の新壱岐坂の北側歩道を坂下から上り中腹の信号を斜め左に入ると、壱岐坂の坂下である(現代地図)。新壱岐坂の通りのわきからまっすぐに東へ上っている。坂上からもそのまま東へ延びて本郷通りに接続している。

一、二枚目の写真は、新壱岐坂の反対側歩道から坂下を撮ったもので、東洋学園大学の北側を上下する坂道である。三枚目は坂下から坂上を、四枚目は坂下からちょっと進んで坂上を撮ったもので、中程度の勾配で上っている。

本郷二丁目26番と27番の間の坂で、新壱岐坂中腹から東へ新壱岐坂よりも短い距離で本郷台地へ上るので、新壱岐坂よりも勾配がついている。

壱岐坂中腹 壱岐坂中腹 壱岐坂上 壱岐坂上 一枚目の写真は坂下からちょっと上ってから坂下を、二枚目はその先から坂上を撮ったものである。二枚目の左に坂の標識が写っている。三枚目はさらに上って坂上を、四枚目はその上から坂下側を、下一枚目は坂上を撮ったものである。

中腹の歩道北側に立っている坂の標識に次の説明がある。

「壱岐坂(いきざか)
「壱岐坂は御弓町へのぼる坂なり。彦坂壱岐守屋敷ありしゆへの名なりといふ。按に元和年中(1615~1623)の本郷の図を見るに、此坂の右の方に小笠原壱岐守下屋敷ありて吉祥寺に隣れり。おそらくは此小笠原よりおこりし名なるべし。」(改撰江戸志)
 御弓町については「慶長・元和の頃御弓同心組屋敷となる。」とある。(旧事茗話)
      文京区 昭和48年3月」

壱岐坂上 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 壱岐坂下(西) 壱岐坂下(西) 二枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)には、ケキサカ(外記坂)の南にイキトノサカ(壱岐殿坂)があるが、これがこの坂である。近江屋板(嘉永三年(1850))にも、△イキトノサカとある。

坂名の由来は標識のように、小笠原壱岐守の下屋敷があったためとされるが、その屋敷は、江戸初期の元和(1615~1623)の絵図に見えるとのこと。

二枚目の尾張屋板江戸切絵図では、壱岐坂はまっすぐに青山大膳亮の屋敷(坂下南側)まで下っている。現在の壱岐坂も、上記の坂下(東側)で終わるのではなく、新壱岐坂を斜めに横切って西へ白山通りまで下っている。この坂は新壱岐坂ができたため、東西に上下が分断されているが、全体の距離は本郷台地から白山通りの谷までかなり長い。

現代地図を見ると、壱岐坂の坂下(東側)の延長と考えられる道が西側に二本あるが、新壱岐坂ができる前の実測東京地図(明治11年)や明治地図(明治40年)を参照すると、北側の新壱岐坂に近い方の道と思われる。

三枚目は、その道の近くから新壱岐坂の坂上側を撮ったもので、遠くの真ん中に見える信号のところが、壱岐坂東側の坂下(正確には中腹)である。そこでちょっと曲がってから新壱岐坂を下り、西側の坂へと続く。

壱岐坂下(西) 壱岐坂下(西) 壱岐坂下(西) 壱岐坂下(西) 上四枚目の写真は、壱岐坂を西側の坂下まで下り、白山通りの歩道から坂上側を撮ったもので、まっすぐに上っている。一枚目は途中の四差路から坂上側を、二枚目はその近くから坂下を撮ったものである。このあたりではかなり緩やかな勾配である。三枚目は、さらに上って坂上側を撮ったもので、この上で上三枚目の写真のように新壱岐坂に吸収される。四枚目はその上側からふり返って坂下を撮ったものである。

この壱岐坂の西側は、本郷一丁目18番と21番の間から下り、坂下は20番と22番の間である。この道は石川に紹介されている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)

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新壱岐坂

2012年12月05日 | 坂道

新壱岐坂下 新壱岐坂下 新壱岐坂下 新壱岐坂中腹 前回の新坂(外記坂)下を左折すると、新壱岐坂の坂下である(現代地図)。広い通りが坂下の白山通りからまっすぐに南東へ上っている。坂上側で左に曲がってから東へ延びて本郷通りに接続している。

一枚目の写真は、白山通りの向こう側から坂下を撮ったもので、左右が白山通りである。二枚目は坂上へとちょっと進んでふり返って坂下を撮ったもので、通りの向こうに東京ドームが大きく見える。三枚目はその先の中腹から坂上側を、四枚目はさらにその先から坂上側を撮ったものである。緩やかな勾配で上っている。

本郷一丁目22番と23番の間から本郷二丁目に向かって上る坂で、白山通り側の谷と本郷台地を結ぶが、かなり長いため本郷台地の坂にしては勾配はさほどない。

新壱岐坂中腹 新壱岐坂中腹 新壱岐坂中腹 新壱岐坂上 一枚目の写真は中腹(下側)から坂下を、二枚目はその上から坂上を撮ったものである。二枚目の左端の道へと左折すると、むかしの壱岐坂である。三枚目はさらに上ってから坂下を、四枚目はそのあたりから坂上側を撮ったものである。四枚目の歩道橋のあたりで左に緩やかにカーブしている。

三枚目の写真の近くの歩道(北側)に坂の標識が立っていて、次の説明がある。

「新壱岐坂(しんいきざか)  本郷1-22と23の間
 大正12年(1923)の関東大震災の復興計画によって、新しくひらかれた昭和の坂である。
 この坂の中ほどにある東洋女子短期大学のわきで、この坂と斜めに交差している細い坂道がある。「壱岐(殿)坂」という。壱岐坂の水道橋寄りに小笠原壱岐守の下屋敷があったので、この名がついたといわれる。江戸時代からあった古い坂である。
 ながい歴史のある壱岐(殿)坂の名をとって、この坂を"新壱岐坂"とした。現在は、区内の幹線道路としてひろく知られているが、もとになった壱岐(殿)坂の名は忘れられようとしている。
      東京都文京区教育委員会 平成元年3月」

新壱岐坂上 新壱岐坂上 新壱岐坂上 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 一枚目の写真は坂上のカーブのちょっと先から坂下を撮ったもので、まっすぐに下っているのがわかる。二枚目はカーブのあたりから坂上を、三枚目はさらにその先から坂上を撮ったもので、このあたりではほぼ平坦になっている。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)に、イキトノサカとあるが、これが中腹から左折する旧壱岐坂で、ここは後で行く。この新壱岐坂は、旧壱岐坂の一部を吸収しているようである。

標識の説明にあるように、明治地図(明治40年)にはこの坂はまだないが、戦前の昭和地図(昭和16年)を見ると、この坂ができている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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新坂(外記坂)

2012年12月04日 | 坂道

新坂上 新坂上 新坂下 新坂下 前回の旧東富坂の中腹の小路へ坂上から左折する。南へまっすぐに延びる細い道を進むと、やがて右手に階段坂の坂上が見えてくる(現代地図)。ここが新坂、別名が外記(げき)坂である。

一枚目の写真は坂上から撮ったもので、坂上側でほんのちょっと右に曲がってからまっすぐに西側へ下っている。階段の中央に手摺りが左右に二本、それに真ん中上側に一本あり、縦横二重になっている。二枚目はちょっとだけ下ってから坂上を撮ったもので、この左手方向(北側)からアクセスしてきた。

三枚目は坂下から、四枚目はそのちょっと上から坂上を撮ったものである。そんなに勾配はなく、西片の曙坂と似た感じである。

本郷一丁目25番と33番の間にあり、坂下の左側(北)に水道橋グランドホテルがある。

実測東京地図(明治11年)を見ると、ちょうどこのあたりは本郷台地の西端に位置する。この坂は、台地の崖にでき、白山通りの谷と本郷台地とを結ぶ坂である。

新坂中腹 新坂中腹 新坂上 新坂上 一枚目の写真は中腹から坂上を、二枚目はそのあたりから坂下を撮ったものである。三枚目は坂上側に上って坂上を、四枚目はさらに上って坂上を撮ったものである。下一枚目は坂上から坂下を撮ったものである。

坂下を直進すると、白山通りで、左折するとすぐ新壱岐坂通りである。さきほどから坂を上下していると、遠くの方からしきりに歓声が聞こえてくる。なんだろうと、白山通りの方を見ると、その向こうにいわゆる絶叫マシーンがあるようだ。二枚目の通りの向こうにちょっと写っている。料金を払ってきゃーきゃーとこわがって楽しむ、みょうといえばみょうな遊びである。

一枚目の写真のように坂中腹左側(北)に坂の標識が立っていて、次の説明がある。

「新坂(外記坂)
 区内には、新坂と呼ばれる坂が六つある。『東京案内』に、「壱岐坂の北にありて小石川春日町に下るを新坂といふ」とある。『江戸切絵図』(嘉永6年尾張屋清七板)によると、坂上北側に内藤外記という旗本の大きな屋敷があり、ゲキサカとある。新坂というが、江戸時代からあった古い坂である。
 この坂の一帯は、もと御弓町、その後、弓町と呼ばれ、慶長・元和の頃(1600年ごろ)御弓町の与力同心六組の屋敷がおかれ、的場で弓の稽古が行われた。明治の頃、石川啄木、斎藤緑雨、内藤鳴雪などの文人が住んだ。
      東京都文京区教育委員会 昭和63年3月」

新坂上 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 一枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)を見ると、(旧)東富坂の方から南へ延びる道の突き当たりにケキサカとある。そこを右折した道がこの坂である。上記の標識の説明では、坂上北側に内藤外記という旗本の大きな屋敷があったとしているが、この尾張屋板の版では内藤肥後守になっている。

近江屋板(嘉永三年(1850))には、この道に△シンザカとあり、坂上北側は内藤外記の屋敷である。

上記の二つの江戸切絵図から新坂(外記坂)の存在が明らかであるが、新坂とは江戸時代のいつごろできたのか不明である。外記坂は坂上北側の屋敷の主である内藤外記にちなむのであろう。

明治地図(明治40年)や戦前の昭和地図(昭和16年)を見ると、この坂に相当する道はあるが、階段坂であることはわからない。いつ階段に改修されたのか不明だが、石川や岡崎に階段坂であることの記述がないため、比較的最近と思われる。

この坂は、白山通りや新壱岐坂通りの広い道から入るとすぐのところに坂下があり、坂上でもちょうど曲がり角にとつぜん階段があるといったように、意外なところにある。そして、坂を上ることで坂下の喧噪から遠ざかるようになっている点でおもしろい位置にある。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)

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神宮外苑~高橋是清公園2012(12月)

2012年12月03日 | 写真
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石神井公園2012(12月)

2012年12月02日 | 写真
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