東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

梅林坂

2015年07月31日 | 坂道

皇居案内地図 梅林坂下 梅林坂下 梅林坂下 平川門を通り抜けて道なりに進むと、やがて、前方右手に坂下が見えてくる。梅林坂である。坂下が二股に分かれている。

坂下から中程度の勾配でまっすぐに西へ上っている。

その途中、左に坂の標識が立っていて、次のような説明がある。

『梅林坂は、本丸と二の丸を結ぶ坂です。
 文明10年(1478年)太田道灌が天神社をまつり、数百株の梅を植えたので梅林坂の名がついたといわれています。
 現在は約50本の紅白の梅が植えられており、12月末から2月まで花が楽しめます。』

この坂のある皇居東御苑は、江戸城の旧本丸、二の丸のところが一つに区画され、昭和43年(1968)10月1日から一般に公開されるようになった。

天神社は平川門をすぎたあたりにあった(横関)。

坂名の由来は、徳川家康の江戸入り(天正十八年(1590))以前の時代のことによる。江戸・東京の歴史は、圧倒的にそれ以後のことが中心で、坂名の由来などもほとんどそうである。そんな中で太田道灌の時代が起源とは珍しい。もっとも、太田道灌は、江戸城を築いたためか、徳川以前の歴史によく登場し、山吹の里伝説太田姫神社伝説などがある。

梅林坂中腹 梅林坂中腹 梅林坂中腹 梅林坂中腹 標識からちょっと上ると、右へ大きく曲がっている。このあたりは、石垣の残骸が両側に見え、いつもの街中の坂道とは違った風情となっている。

江戸城の石垣が残っている所は、あまりなく、坂巡りで覚えているのは、青山通りにある富士見坂中腹の赤坂見附跡

右へ大きく曲がってからまっすぐに上るが、勾配はかなり緩やかになる。

この坂は、天和二年(1682)の戸田茂睡による「紫の一本」に次のように記述されている。

『梅林坂
 御城の内にあり。ここにむかし天神の社あり。これも太田道灌、武州入間郡川越御吉野の天神を勧請せらる。そもそも御吉野の天神と申すは、いづれの時御垂跡ありし事を知らず。御神体は銅の五本骨の扇子なり。・・・
 文明年中に、川越より江戸平川へ道灌勧請し、平川の天神と申す坂に、並木の梅を植ゑられしより、この坂を梅林坂と云ふ。権現様江戸御入部の節、平川より貝塚へ天神の社を移され、今は貝塚の天神と云ふ。松平伊豆守信綱を、天神の再誕と云ひしは、その才人に優れ、さとくすみやかなるに、川越へ所知して屋敷平川口にあり、家の紋は五本骨の扇なれば、尤なるつもりなり。』

標識の説明は、この記述などによるのであろう。家康の江戸入り後、天神社は平川より貝塚へ移したとあるが、これが現在の平河天満宮(天神)である(現代地図)。平河天満宮のあたり一帯を貝塚と呼んでいた時代があり、その近くの貝坂の由来となっている。

梅林坂中腹 梅林坂中腹 梅林坂上 梅林坂上 さらに進むと、左に曲がり、勾配がかなり緩やかになる。そのまま大きく弧を描くようにカーブしている。

「御府内備考」には次の簡単な記述がある。

『【寛永日記】に云、寛永四年御城内梅林坂経営あり、稲葉丹後守正勝これを勤む。』

横関は、『寛政重修諸家譜』の稲葉丹後守正勝のところに、「寛永四年梅林坂石垣の普請を助く」と記してあることを紹介するが、寛永四年(1627)の普請とき、梅林坂と呼ばれ、さらに、太田道灌がこの地に天神社を建て、梅の木をたくさん植えた文明年間に名付けられた坂かもしれないと推定している。

梅林坂上 梅林坂上 梅林坂上 梅林坂上 さらに進むが、坂上はかなり緩やかになっている。このあたりまでこの坂であると、全体としてはかなり長い坂と云える。

上記のように、道灌が天神社を建てた当時からこの坂名が付いていたとすれば、かなり古い坂である。横関は、となりの汐見坂とともに、江戸の坂として、寛永以前にできたもっとも古い坂であると考えている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)
鈴木理生「江戸はこうして造られた」(ちくま学芸文庫)

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平川門

2015年07月20日 | 散策

今回は、皇居東御苑内の二つの坂を巡ってから、そのわきの坂を訪れた。その小散策記である。

皇居案内地図 清水濠と平川橋 平川橋 御曲輪内大名小路絵図(慶応元年(1865)) 午後東西線竹橋駅下車。

地下鉄の駅から出ると、濠わきの歩道で、東(大手町方面)へ進む(現代地図)。進行方向に平川橋が見えてくる。梅雨明け前だが暑く、散歩には不向きな日であった。

慶応元年(1865)の江戸切絵図(尾張屋清七板)を見ると、平川門は、一ツ橋門よりも内側で、ここを通れば江戸城内である。上側(西)に竹橋門が見える。御江戸大絵図(天保十四年(1843))には、一ツ橋門や竹橋門が見えるが、平川門はない。

近江屋板(嘉永二年(1849))には、平川門、一ツ橋門、竹橋門のいずれも描かれているが、「平川門」の文字がない。

御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 平川橋から大手町方面 平川門 平川濠 徳川家康は江戸入り(天正十八年(1590))してから江戸城やその周囲を改築する土木工事をはじめたが、それ以前までは、芝浦のあたりから北へ日比谷の方に江戸湾が入り込んでいた。いわゆる日比谷入江であるが、この入江の最北部に流れ込んでいたのが平川であった。現在の大手町一丁目の丸紅ビル付近で入江に注いでいた(鈴木理生「江戸はこうして造られた」図7)。現在の平川橋の近くである(現代地図)。

平川とは、中世の呼び名で、神田川の原型であるという。

日比谷入江の埋め立て前に平川の付け替え工事をしたが、それが千代田区一ツ橋付近から西へ流れる現在の日本橋川の流路であった。

平川門を通り抜けて中に入る。
(続く)

参考文献
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
鈴木理生「江戸はこうして造られた」(ちくま学芸文庫)

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