東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

弥生坂

2012年01月31日 | 坂道

言問通り(暗闇坂上近く) 弥生式土器発見地説明板 弥生式土器発掘ゆかりの地石碑 前回の暗闇坂上で言問通りを横断し、右折しちょっと進んだところからふり返って撮ったのが一枚目の写真である。左側が暗闇坂上である。このあたりの歩道わきに、二枚目の写真の弥生式土器発見地の説明板がある。

明治17年(1884)本郷弥生町の向ヶ岡貝塚を調査していた有坂鉊蔵がふっくらとしたまん丸い土器を掘り出し、それは普通の縄文式土器とは違っており、それから次々と似た土器が発見されるようになって、名称が必要ということになり、発見地にちなんで、弥生式土器と名づけられた。その発見地が、その後の都市化の中ではっきりしなくなってしまい、上記の説明板にその推定地(この付近を含む三地点)が示されている。

ところで、弥生式土器が発見された当初、縄文式土器の一型式として認識されていたが、研究が進むにつれて、両者には大きな違いがあることがはっきりとしてきた。すなわち、弥生式土器をつくりだした文化は、水稲耕作という農耕文化であって、狩猟・漁撈を主とした縄文文化とは人類史的には異なる文化ということが明らかになった。これは、日本における先史文化研究上の画期的発見であったが、その発見にもっとも大きな功績があったのは、若くして逝った独学の考古学者の森本六爾(ろくじ)であったという。この人の名は、今回、はじめて知った。

上記の説明板から東へ進み、信号を渡ると、三枚目の写真の弥生式土器発掘ゆかりの地の石碑が立っている。

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 弥生坂上 弥生坂上 弥生坂上 上記の石碑から東へ歩くと、二枚目の写真のように、弥生坂の坂上である。暗闇坂上の西側のあたりからかなり緩やかに下りになっているが、ここから中程度の勾配で根津谷(不忍通り)に向かってまっすぐに下っている。坂下の交差点付近に千代田線根津駅があり、交差点の東側に善光寺坂が見える。

坂上北側に標識が立っているが、次の説明がある。

「弥生坂(鉄砲坂)   弥生一丁目と二丁目の間
 かつて、このあたり一帯は「向ヶ岡弥生町」といわれていた。元和年間(1615~24)の頃から、御三家水戸藩の屋敷(現東大農学部、地震研究所)であった。隣接して、小笠原信濃守の屋敷があり、南隣は加賀藩前だけの屋敷(現東大)であった。
 明治2年(1869)これらの地は明治政府に収公されて大学用地になった。明治5年(1872)には、この周辺に町屋が開かれ、向ヶ岡弥生町と名づけられた。その頃、新しい坂道がつけられ、町の名をとって弥生坂と呼ばれた。明治の新坂で、また坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったので、鉄砲坂ともいわれた。
 弥生とは、水戸徳川斉昭候が、文政11年(1828)3月(弥生)に、このあたりの景色を詠んだ歌碑を、屋敷内に建てたからという。
  名にしおふ春に向ふが岡なれば 世にたぐひなき花の影かな
                  徳川 斉昭
   文京区教育委員会  平成11年3月」

弥生坂中腹 弥生坂中腹 弥生坂下側 弥生坂下 上一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、水戸藩邸の南端で暗闇坂が行き止まりで、明治11年(1878)実測東京全図も同じであるが、明治地図(明治四十年)を見ると、本郷通りからこの坂上を経て東に延びる道ができている。上記のように、明治になってからの新坂であることがわかる。このためか、この坂は、横関、石川に紹介されていない。

鉄砲坂の由来になったという幕府鉄砲組の射撃場は、江戸切絵図では確認できない。

この坂の写真を見てもわかるが、坂上側から坂下の不忍通りの交差点側を見ると、車や通行人が多く、にぎやかで親密な感じで、いかにも下町的な雰囲気であるが、反対に、坂上を見ると、静かな冷たい感じで、いかにも山の手といった雰囲気を感じてしまう。坂の途中で、坂下と坂上を見比べて、こんなに違う感じとなる坂もめずらしい。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
井上光貞「日本の歴史1 神話から歴史へ」(中公文庫)

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暗闇坂(本郷)

2012年01月28日 | 坂道

暗闇坂下 暗闇坂下 暗闇坂下 暗闇坂下 前回の東大の池之端門を出て左折し、北西へ延びる道を進む。左側は、榎坂のわきで、壁がそびえている。ここを過ぎて、しばらく歩いても、一枚目の写真のように、平坦でまっすぐな道がみごとにずっと続いている。坂はまだないが、よく見ると、遠くにかすかに見えてくる。

さらに歩くと、まだ坂の手前であるのに、二、三枚目の写真のように、暗闇坂の標識が立っている。このあたりは、ずっと左側が東京大学構内で、この先に弥生門があり、また、竹久夢二美術館などがあるが、まだ正月であるためか、静かで人通りは少ない。

やがて、ようやく、弥生門をすぎたところから、四枚目の写真のように、緩やかな上りとなる。写真には立原道造記念館も写っている。下二枚目の写真はそこから坂下側を撮ったものであるが、ずっとまっすぐに道が延びている。

上記の標識の裏面には、次の説明がある。

「暗闇坂(くらやみざか)   本郷7丁目と弥生2丁目5の間
 江戸時代は、加賀屋敷北裏側と片側寺町の間の坂で、樹木の生い茂った薄暗い寂しい坂であったのであろう。
 江戸の庶民は、単純明快にこのような坂を暗闇坂と名づけた。23区内で同名の坂は12か所ほどある。区内では、白山5丁目の京華女子高校の裏側にもある。
 この坂の東側鹿野氏邸(弥生2-4-1)の塀に、挿絵画家、高畠華宵の記念碑がはめこまれている。華宵は、晩年鹿野氏の行為でこの邸内で療養中、昭和41年7月に亡くなった。大正から昭和にかけて、優艶で可憐な画風で若い人たちの大きな共感を呼んだ。
  文京区教育委員会  昭和59年3月」

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 暗闇坂下 暗闇坂中腹 暗闇坂中腹 三枚目の写真のように、坂中腹になるとちょっと勾配がきつくなり、その先で、四枚目の写真のように、左にちょっと曲がっている。

一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、前回の境稲荷と寺の間に北西に延びる道があり、これがここの道と思われるが、加賀藩邸と水戸藩邸の境の手前で行き止まりである。ここまで左側(東北)にはずっと寺が並んでいる(片側寺町)。近江屋板では道はもっと手前までしかない。この道が暗闇坂と思われる。

石川は、この坂は加賀藩邸北裏の坂道であるが、林泉の美をつくしたであろう大諸侯の屋敷地も、封建制度崩壊後は荒れるにまかせ、東京大学ができはじめたころは寂しかったようだ、としている。

他の同名の坂と同じように、昼でも薄暗いような坂であったのであろうが、いつごろからそう呼ばれたのか、横関や石川などいずれにも説明がなく、不明である。むかしからここを通る人たちからそう呼ばれてきたのであろうか。

暗闇坂上側 暗闇坂上側 暗闇坂上 暗闇坂上 二、四枚目の写真のように、上側で曲がってからは、次第に緩やかになり、坂上で言問通りにつながっている。坂上の通りの向こう側(北)は東大農学部で、ここが江戸切絵図にある水戸藩邸である。上記の尾張屋板では、水戸藩邸の南西端で道が途切れているが、そこがこの坂上付近であったと思われる。

明治11年(1878)実測東京全図では、この坂道は江戸切絵図と同じく行き止まりであるが、明治地図(明治四十年)を見ると、本郷通りからこの坂上を経て東に延びる道ができている。

この坂は池之端の境稲荷神社側からアプローチすると、かなり長く感じてしまうが、実際の坂道はそんなに長くなく、その非対称的なところが特徴で、またおもしろく感じる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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不忍池~榎坂

2012年01月25日 | 坂道

不忍池 不忍池 不忍池 不忍池 前回の無縁坂下を直進すると、不忍池の畔に出るが、ここにちょうど池の中を通る道があるので、ここを歩く。一枚目の写真はちょっと進んでから池の北側を撮ったもので、こちら側はボートなどが浮かんでいるが、南側は蓮池とのことで、三枚目の写真のように、蓮の枯葉が池を埋め尽くしている。やがてふたたび蓮の葉でいっぱいとなるのであろう。

二枚目の写真のように、キンクロハジロなどの水鳥がさかんに泳いでいる。二羽のカモ(オナガガモか)が仲よく並んで浮いている。カモメもたくさんいるが、隅田川や東京湾の方から飛んでくるのだろうか。四枚目の写真は、ユリカモメと思われるが、人慣れしており、結構近づいても平気なようである。

池の中の道をぐるりと半周して、池の北・西側(不忍通り側)に行き、そこから東側を撮ったのが下一枚目の写真である。向こう側に弁才天が見え、遠くにスカイツリーがにょっきりとそびえ立っているのが見えるが、最近、出かけた先からよく見かけるようになった。

不忍池 境稲荷神社・弁慶鏡ヶ井戸 境稲荷神社と弁慶鏡ヶ井戸の説明板 尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 池の畔から出たところの横断歩道で不忍通りを横断し、西へ直進した突き当たりに、境稲荷神社がある。その裏手に、二枚目の写真のように、義経・弁慶伝説の弁慶鏡ヶ井戸があり、三枚目の説明板が立っている。

四枚目は、尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図であるが、前回の無縁坂の北側で、不忍池の西側近くに、イナリ、とある。これがこの境稲荷神社と思われる。その西側に松平大蔵大輔の屋敷があるが、このあたりが、現在の東大付属病院の敷地であると思われる。

『御府内備考』(文政十二年(1829))の茅町二丁目の書上には、
「一境稲荷社  別当本山派修験 本院持」とだけある。

榎坂下 榎坂中腹 榎坂上 弁慶鏡ヶ井戸のちょっと先に、上二枚目の写真の左端に写っているように、東大の池の端門がある。その先、右手にある緩やかにカーブしながら上る坂が榎坂であるらしい。勾配は中程度よりも緩やかである。

横関は、この坂を「台東区茅町二丁目の境稲荷の前を少し北へ行くと、東大病院の東門に出る。この門を入って西北方へ上る坂路と推定する」としている。

横関によれば、古い榎坂、古い榎地名は、古い街道に並ぶ。江戸時代の榎坂は、江戸以前の街道を示し、榎坂のそばにはかならず榎があり、または榎があったところである、とする。

『御府内備考』の池之端七軒町の書上にはつぎのようにある。

「且又西の方水戸様御屋敷境にて余程高く有之、其下通り町地又は武家方寺院方地境の所往古は往還の由、加州様御屋敷御構の内に榎坂と申処有之由、其坂往還の続にて本郷通え出候道の由申伝に御座候」

加州というのは、加賀前田藩のことで、上記の尾張屋板の上(西)に(加賀)中納言殿とある屋敷であり、現在の東大構内である。加賀屋敷の中にあった榎坂はむかしの街道の続きであったと伝えられているとある。

横関は、上記の御府内備考とともに、一里塚があったことを記す別の書(十万庵遊歴雑記)を引用し、ここに一里塚があったということや、榎坂という名が残っているということは、ここが古い奥州街道であったことを裏書きしているとしている。

榎坂上 榎坂中腹 榎坂下 ところで、上記の尾張屋板にはこの坂が示されていないようである。境稲荷の右(北)の道は、榎坂ではなく、これから向かう暗闇坂の道と思われる。近江屋板にもない。要するに、屋敷内の道ということで、江戸切絵図にはないのであろう。

明治11年(1878)実測東京全図や明治地図(明治四十年)を見ても、この坂道に相当する道はないが、戦前の昭和地図(昭和十六年)には、大学病院の北にこの道が示されている。このように、江戸時代からの地図を年代順に見ただけでは、この坂が御府内備考などで云う榎坂であるかどうかはわからない。横関が推定するとしているのも肯けるような気がする。この坂は、石川や「東京23区の坂道」には紹介されていない。確証が持てなかったからであろうか。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
久保田修「野鳥ポケット図鑑」(新潮文庫)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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無縁坂

2012年01月23日 | 坂道

今回は、湯島・池之端の無縁坂から団子坂などを経て動坂まで、本郷台地の東端にある坂を巡った。前回湯島坂からとなりの切通坂まで歩いたので、その続きの意味でもある。

無縁坂下 無縁坂下 無縁坂下 無縁坂中腹 午後湯島駅下車。

一番出口から出て、切通坂から北へ延びる道に出て右折し直進すると、不忍通りに出たので、左折し、歩道を歩く。次の信号を右折すると不忍池の方であるが、左折し進むと、四差路に至る。そこから、一枚目の写真のように、無縁坂が中程度の勾配で西へほぼまっすぐに上って、上側でやや左に曲がっている。

坂の左側(南)に石垣とその上の古びた煉瓦からなる塀が坂に沿ってずっと続いており、この坂の独特の雰囲気をつくっている。この向こうは旧岩崎邸庭園らしい。右側(北)は坂上側にマンションがあり、現代風になっている。明治の鷗外のころとは大きく異なっているのであろう。

坂上を直進すると、何回か角を曲がって、やがて春日通り(切通坂上)に出る。意外にもたくさん人が行き来するので、裏道といった雰囲気ではない。地下鉄湯島駅への道となっているのであろうか。

坂中腹の旧岩崎邸側の歩道に、一枚目の写真のように、無縁坂の標識が立っている。その裏面に次の説明がある。

「無縁坂(むえんざか)
『御府内備考』に、「称仰院前通りより本郷筋へ往来の坂にて、往古 坂上に無縁寺有之候に付 右様相唱候旨申伝・・・・・・」とある。
 団子坂(汐見坂とも)に住んだ、森鴎外の作品『雁』の主人公岡田青年の散歩道ということで、多くの人びとに親しまれる坂となった。その『雁』に次のような一節がある。
「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れこむ不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。・・・・・・」
 坂の南側は、江戸時代四天王の一人・康政を祖とする榊原式部大輔の中屋敷であった。坂を下ると不忍の池である。
  不忍の 池の面にふる春雨に
     湯島の台は 今日も見えぬかも
  岡 麓(本名三郎・旧本郷金助町生まれ1877~1951・墓は向丘二丁目高林寺)
   文京区教育委員会 昭和55年1月」

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 無縁坂中腹 無縁坂中腹 無縁坂上 一枚目は、尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図であるが、湯島天神のそばに東西に延びる切通坂があり、その北側に榊原式部大輔の長い屋敷がある。この屋敷に沿って東西に延びる道がこの無縁坂である。坂の北側には、坂上に松平飛騨守の屋敷、坂下に講安寺、称仰寺(称仰院)がある。その道の東端は不忍池である。坂名も坂マークもないが、近江屋板には坂マーク△がある。

この坂は、江戸でも古い坂らしく、天和二年(1682)の『紫の一本』に次のようにある。

「無縁坂 松平加賀守屋敷につき、榊原式部大輔の下屋敷の裏門通り、不忍の池の端へ下る坂を云ふ。」

『御府内備考』(文政十二年(1829))は、上記の標識にも引用されているが、稱仰院(称仰院)門前の書上に次のようにある。

「一無縁坂 高凡三丈程、幅三間、登り六拾壹間三尺、右は稱仰院門前より本郷筋へ往来の坂にて、往古の坂上に無縁寺有之候に付右様相唱候旨申伝、尤無縁寺跡相分不申候、」

同じく、講安寺門前の書上には次のようにある。

「一右門前町屋起立の儀寛永五辰年中、寺社御奉行阿部飛彈守様え相願、願の通被仰付候、尤往古は奥州街道にて無縁寺有之、右跡え引地に相成候由、只今以同寺境内古き庚申塚相残有之候、其外委敷儀は相分り兼申候、」

坂名の由来は、そのむかし、前者の書上には坂上に無縁寺があったこととされているが、その跡は分からないとされている。後者によれば、むかしは奥州街道で講安寺門前に無縁寺があったようである。石川は、称仰院が古くは無縁寺であったのが坂のおこりといわれるとする(横関も)。いずれにしても、尾張屋板の講安寺、称仰寺の上側あたりに無縁寺があったと思われる。

江戸図鑑綱目(元禄二年(1689))を見ると、榊原邸の北側には、無縁坂を挟んで、高安寺、正高院があるが、いずれも誤字と思われ、元禄のころには上記の二つの寺があったようである。

無縁坂上 無縁坂上 無縁坂上 無縁坂中腹 石川は、この坂が有名になったのは、森鷗外『雁』のおかげであるとするが、この小説のヒロインお玉はこの坂にある家に住んでおり、無縁坂が主要な背景となっている。

上記の標識の説明で引用されている部分は次のように続く。

「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川(あいそめがわ)のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。それから松源(まつげん)や雁鍋(がんなべ)のある広小路、狭い賑やかな仲町(なかちょう)を通って、湯島天神の社内に這入って、陰気な臭橘寺(からたちでら)の角を曲がって帰る。併し仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。」

さらに、次の部分(弐の冒頭)などに無縁坂が登場する。

「その頃から無縁坂の南側は岩崎の邸であったが、まだ今のような巍々(ぎぎ)たる土塀で囲ってはなかった。きたない石垣が築いてあって、苔蒸した石と石との間から、歯朶(しだ)や杉菜(すぎな)が覗いていた。あの石垣の上あたりは平地だか、それとも小山のようにでもなっているか、岩崎の邸の中に這入って見たことのない僕は、今でも知らないが、兎に角当時は石垣の上の所に、雑木が生えたい程生えて、育ちたい程育っているのが、往来から根まで見えていて、その根に茂っている草もめったに苅られることがなかった。
 坂の北側はけちな家が軒を並べていて、一番体裁の好いのが、板塀を繞(めぐ)らした、小さいしもた屋、その外は手職をする男なんぞの住いであった。店は荒物屋に烟草(たばこ)屋位しかなかった。中に往来の人の目に附くのは、裁縫を教えている女の家で、昼間は格子窓の内に大勢の娘が集まって為事(しごと)をしていた。時候が好くて、窓を明けているときは、我々学生が通ると、いつもべちゃくちゃ盛んにしゃべっている娘共が、皆顔を挙げて往来の方を見る。そして又話をし続けたり、笑ったりする。その隣に一軒格子戸を綺麗に拭き入れて、上がり口の叩きに、御影石を塗り込んだ上へ、折々夕方に通って見ると、打水のしてある家があった。寒い時は障子が締めてある。暑い時は竹簾が卸してある。そして為立物師(したてものし)の家の賑やかな為めに、此家はいつも際立ってひっそりしているように思われた。
 此話の出来事のあった年の九月頃、岡田は郷里から帰って間もなく、夕食後に例の散歩に出て、加州の御殿の古い建物に、仮に解剖室が置いてあるあたりを過ぎて、ぶらぶら無縁坂を降り掛かると、偶然一人の湯帰りの女が彼(かの)為立物師の隣の、寂しい家に這入るのを見た。もう時候がだいぶ秋らしくなって、人が涼みにも出ぬ頃なので、一時人通りの絶えた坂道へ岡田が通り掛かると、丁度今例の寂しい家の格子戸の前まで帰って、戸を明けようとしていた女が、岡田の下駄の音を聞いて、ふいと格子に掛けた手を停(とど)めて、振り返って岡田と顔を見合せたのである。」

坂の南側は岩崎邸であったが、石垣の上に雑木がたくさん生えて大きく育ち、往来から根まで見えるような有様であった。北側は、板塀のある小さいしもた屋、手職をする男なんぞの住いがあり、店は荒物屋に烟草屋程度であった。その中の為立物師の家の隣の寂しい家がお玉の住んでいる家という設定である。

石川によれば、この小説は、鷗外が医学生であった明治15年前後を時代背景とし、明治44年から書きはじめ大正2年に完結したが、岩崎邸の石垣がつくられたのが明治27年中で、そのときまで無縁坂は片側町ではなかったと思われるので、この小説で片側町としたのは、「蛇」の事件とからみ合わせるための鷗外の作為、または、思いちがいではなかったか、と推定されている。

この小説を読んでいると、題名の雁となんの関係があるのかと思ってしまうが、終わりごろになってやっとわかる。一言でいえば、この小説のテーマは「偶然性」であると思う。

坂を下り、直進し、不忍通りを横断し、不忍池に向かう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「鷗外選集 第三巻」(岩波書店)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)

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荷風生家跡~断腸亭跡~偏奇館跡(6)

2012年01月19日 | 坂道

前回の三分坂から南部坂経由で偏奇館跡を目指し、まず、氷川神社に向かう。ここからは一本道のようであるが、付近の地図を見ると、たとえば、六本木通りを横断してから赤坂一丁目に行き、榎坂を上り、霊南坂を上るか、または、潮見坂を下り江戸見坂を上るコースなどがある。しかし、できるだけ裏道を歩くという原則と私的な好みからいうと、やはり南部坂→道源寺坂のルートは外せない。

尾張屋板江戸切絵図(今井谷六本木赤坂絵図) 本氷川坂下 本氷川坂上 氷川坂上 三分坂下を左折し、次の赤坂通りを横断し、南へ進み二本目を左折し、次を右折すると、本氷川坂の坂下である。ちょっと中に入ったところに、二枚目の写真のように標柱が立っている。この坂は、坂下からかなり屈曲しながら上っており、標柱の先で左折し、次の角を左折し、次を右折すると、かなり急な上りとなって、やや左に曲がり緩やかになってから、坂上に至る。三枚目の写真は坂上から下側を撮ったものである。

坂上から氷川神社の境内を通って反対側の氷川坂に出る。四枚目の写真は坂上まで上って坂下を撮ったものである。

一枚目は、尾張屋板江戸切絵図(今井谷六本木赤坂絵図(文久元年(1861))の部分図であるが、氷川明神の右側(北)に盛徳寺のわきを何回か曲がりながら続く道があるが、これが本氷川坂であろう。坂下に勝麟太郎(海舟)の屋敷が見える。反対側(東)にある道が氷川坂と思われる。

氷川坂下 転坂下 転坂上 福吉坂下 まっすぐな氷川坂を下って、坂上側を撮ったのが一枚目の写真である。二本目を右折すると、二枚目の写真のように転坂の坂下である。まっすぐに上っている。左側のマンションの前に植え込みのスペースなどがあるため左側が広々として、このへんにしてはめずらしく広く感じる坂である。三枚目は坂上から撮ったものである。

坂上を右折して直進すると、南部坂であるが、コンビニに行きたかったので、直進する。しばらく歩いてもなく、氷川公園の先を進むとようやく見つかったが、ここで思わぬ坂に遭遇した。コンビニから出ると、通りの向こう側のビルの間に階段坂が見えたのであるが、これが四枚目の写真の福吉坂である。狭いところでまっすぐに上り、途中何箇所か踊り場がある。

階段を上ると、下一枚目の写真のように上側が見えるが、その左の壁に、赤坂福吉町会・福吉坂改修実行委員会による「福吉坂石段の改修工事について」(平成九年三月)という改修工事のことを記したパネルが張り付けてあるので、ここが福吉坂であることがわかる。

この坂は、山野などには紹介されていないが、「東京23区の坂道」にある。これまでこの近くに何回か来たとき、行ってみようと思ってもつい訪れずにいた坂である。ここには、上記の現代地図をよく見ると、階段マークがある。このへんの旧町名が福吉町であったので、坂名はそれに由来するのであろうが、いつごろできたのか不明である。

福吉坂上側 南部坂上 南部坂下石標 南部坂下 福吉坂上から転坂上までもどり、ここから南部坂に向かう。しばらく南へ歩くと、二枚目の写真のように、坂上である。緩やかに下る狭い坂道と、右側の石垣が風情のある雰囲気をつくっている。人もめったに通らず、これぞ裏道といった感じで好ましい。

三枚目の写真は、坂上から下って右に曲がった先の自販機のそばにある南部坂と刻まれた石標で、坂名のわきに、昭和四十五年十一月八日、下に、永富太道建立、と刻まれている(「東京23区の坂道」参照)。

四枚目の写真は坂下から撮ったもので、上側で左に曲がっている。

尾張屋板を見ると、氷川明神の右上(東)に南部坂と多数の横棒による坂マークがある。坂下は麻布谷町である。このあたりは赤坂・麻布台地とよばれるようであるが、南部坂のあたりが赤坂台地の東端(の一部)で、谷町を挟んで向こう側が麻布台地といってよい感じである。

道源寺坂下 道源寺 道源寺坂上 偏奇館跡 南部坂下から六本木通りの歩道に出て、近くの歩道橋で東へ六本木一丁目側に渡るが、この歩道橋は、六本木通りとそこから枝分かれした広い通りを跨いでいるのでかなり長い。六本木一丁目駅の出入口側に降りて、細い道をちょっと進むと、一枚目の写真のように、標柱と、その向こうに道源寺坂が見えてくる。坂下の右側で工事が続いている。

坂を上ると、二枚目の写真のように、新築された道源寺の本堂が見えてくるが、ちょうど一年前、古い本堂が撤去された後に来て、寺そのものがなくなってしまうのではと心配したが、その後新築の工事であることがわかり安心したことを思い出す。

三枚目の写真の坂上を通って、次を右折して南へちょっと歩くと、右手に偏奇館跡の記念碑が立っている。ここがきょうの最終目的地である。四枚目の写真は進んできた歩道をふり返って撮ったものである。このあたりのことはこれまで何回か記事にしている。

尾張屋板には、麻布谷町からまっすぐに延びる道に面して西光寺と道源寺があるが、この道が道源寺坂であろう。いまでは高層ビルに囲まれた坂道で、めったに人も通らない裏道であるが、江戸から続く名坂である。永井荷風も通った坂で、その断腸亭日乗にたびたび登場する(以前の記事参照)。

御組坂下 御組坂上 スペイン大使館わきの道 道源寺坂上からの風景 偏奇館跡からちょっと進んで、次を左折すると、一枚目の写真のように、御組坂の坂下である。いまでは坂下になっているが、いまのように再開発される前までは坂はずっと下の方に続いており、このあたりは坂の上側といった位置であった。二枚目の写真は坂上から撮ったものであるが、坂の左側も工事がはじまっていて、以前に来たときからさらに変貌しようとしている。このあたりは過去の姿がほとんど消えてしまっている。

坂上を左折し、次を左折し、三枚目の写真のように、スペイン大使館わきの小路を西へ進むが、その先は道源寺坂上で、ここから坂上へもどる。

坂上の近くにある公園に行き、ベンチに座るが、ここで、ようやくきょうの坂巡りが終了した気分となる。先ほどの福吉坂近くのコンビニで買った缶ビールでささやかな乾杯をする。坂上近くから撮った四枚目の写真のように、暮れかかってきたが、北側の空を見上げると、まだ青い。

ここから道源寺坂を下って六本木一丁目駅へ。

出発の礫川公園から道源寺坂上近くの公園まで携帯による総歩行距離は19.3km(安養寺坂下から11.0km)で、所要時間は、昼食休憩25分を含めて、4時間20分である。

通常よりもやや長い坂巡りであったが、金剛寺坂近くの無名坂から赤城坂までの平坦な道、朝日坂から宝竜寺坂までの裏道、銀杏坂から断腸亭跡までの小路など、いつもの坂巡りでは通らない道を歩くことができ、なかなかおもしろい体験であった。これまで訪れたことのある坂がほとんどであったが、そのときと逆方向からアクセスした坂もかなりあり、そのようなことだけでまたひと味違う新鮮な感じがした。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
東京人「東京は坂の町」april 2007 no.238

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荷風生家跡~断腸亭跡~偏奇館跡(5)

2012年01月16日 | 坂道

前回の東福院坂から偏奇館跡を目指すが、とりあえず、紀伊国坂に向かう。ここまで来ると、そこに向かうしかないようであるが、次の観音坂下から戒行寺坂を上って信濃町方面に向かうルートがある。しかし、その先は、外苑東通りや青山通りに沿って歩くので、できるだけ裏道を歩くという原則から外れる(今回の道の地図参照)。

観音坂上観音坂下鉄砲坂下鉄砲坂上 東福院坂上を進み、次を右折し、二本目を右折し道なりに進み、一本目を右折すると、一枚目の写真のように、観音坂上である。西南に向けてまっすぐに下っている。南向きの坂上はさきほどから光って、かなりまぶしい。先ほどの東福院坂よりも緩やかであるが、それでもかなり勾配がある。

坂下を左折し、若葉町の商店街を南へ進む。商店街といっても、あまり人通りがないのが常であるが、大晦日のためか、スーパーのあたりはめずらしく混んでいる。

下一枚目は尾張屋板江戸切絵図(千駄ヶ谷鮫ヶ橋四谷絵図 元治元年(1864))の部分図であるが、左端の中ほどにある西側の真成院、蓮乗院、安楽寺と東側の西念寺との間の道がこの観音坂である。東福院坂上からの道も同じようにある。坂下の道は、東福院坂下から延びた道で、上記の商店街の通りである。

スーパーのところを左折すると、三枚目の写真のように、鉄砲坂の坂下である。緩やかにまっすぐに東へ上っている。この坂は、突き当たりを右折した道までいうようで、その右折後の坂上にも標柱が立っている。四枚目の写真は、そこからさらに左折した坂道を撮ったものであるが、この坂道はもはや鉄砲坂ではないと思われる。尾張屋板に観音坂下から右側(南)にテツホウサカとある。

尾張屋板江戸切絵図(千駄ヶ谷鮫ヶ橋四谷絵図)朝日橋から鮫河橋坂への坂道南元町公園鮫河橋坂上 上の四枚目の写真の坂を上り、すぐにある一本目を右折し、南へ進み、道なりに歩くと、中央線の上に架かる朝日橋の上に出る。ここを渡ると、二枚目の写真のように緩やかな下り坂となって鮫河橋坂の上側に出る。三枚目の写真は、その途中から見える下側の南元町公園である。

一枚目の写真の坂道の突き当たりを左折し、鮫河橋坂をちょっと上って坂下を撮ったのが四枚目の写真である。中程度の勾配でまっすぐに下っている。坂下から西側へ上るのが安鎮坂である。大晦日のせいか、車の通行量が少なく、静かである。

前回の記事の永井荷風が余丁町の自宅から紀伊国坂を通って豊川稲荷まで散歩したとき、新宿通りから南への道に入り紀伊国坂に向かったと思われるが、そのコースの一つとして東福院坂または観音坂を下り鮫河橋坂下に出る道順がある。また、四谷の方からいきなり鮫河橋坂上に出る順も考えられる。

尾張屋板で、鉄砲坂上を左折し、すぐ右折し、右(南)へまっすぐに進み、突き当たりを左折し直進すると鮫河橋坂上である。現在の道筋は、後半がこれとちょっと違っているようである。

尾張屋板江戸切絵図(今井谷六本木赤坂絵図)紀伊国坂上(迎賓館前)紀伊国坂中腹紀伊国坂下 鮫河橋坂上を直進し、右折し、東へ進むと、迎賓館前である。この付近で撮ったのが二枚目の写真であるが、このあたりが紀伊国坂の坂上であろうか。道なりに進むと、次第に下り坂となる。外堀通りの歩道であるが、三枚目の写真のように、植え込みで車道と遮断されているので、独立した細い坂道のような感じになる。かなり長い坂で、やがて、坂下の標柱に至る。四枚目の写真は坂下から上側を撮ったものである。

一枚目は、尾張屋板江戸切絵図(今井谷六本木赤坂絵図(文久元年(1861))の部分図であるが、左上に紀伊国坂とあり、その南が紀伊屋敷である。

ところで、坂途中の信号を渡り、東へ進むと、喰違見附で、さらに紀尾井坂上となるが、このコースを選んでもおもしろいと思われる。清水坂、貝坂、諏訪坂、富士見坂を通り、青山通りを横断し、三べ坂、新坂を通り、外堀通りを横断し、丹後坂などを通ることができる。この方が今回のコースよりもかなり長くなるが、たくさんの坂を巡ることができる。

九郎九坂下九郎九坂上豊川稲荷境内弾正坂上方面 紀伊国坂下の標柱のところで右折し、元赤坂一丁目わきの道を進み、信号のところを直進すると弾正坂の上りであるが、左折すると、一枚目の写真のように九郎九坂の坂下である。ここを上ると豊川稲荷の門前に出る。二枚目は坂上の標柱を入れて撮ったものである。ここから境内に入ってみるが、三枚目の写真のように参道では明日の準備に忙しそうである。

境内から出るとすぐわきの道が弾正坂であるが、この坂は四枚目の写真のように、青山通りを横断して、とらやと赤坂警察署との間を南へ延びている。

青山通りを横断し、緩やかな坂を上り突き当たり手前でふり返って撮ったのが下一枚目の写真である。

尾張屋板を見ると、紀伊邸と松平左兵衛督邸のそばの道が弾正坂で、その上側(北)突き当たりを右折した道が九郎九坂と思われる。豊川稲荷は大正になってから現在地に移されたので、江戸切絵図にはない。

弾正坂上薬研坂上新坂上新坂下 弾正坂の突き当たりを左折すると、牛鳴坂や丹後坂の方に行くことができるが、右折する。ちょっと歩くと、青山通りとの交差点に出るが、南の方からこの交差点に上る坂が、二枚目の写真の薬研坂である。この坂は、いったん底部まで下ってからふたたび上る坂で、両方を称して薬研坂と云っている。この坂を下り上れば、稲荷坂上から続く道が合流するが、そうせず、青山通りに沿ってちょっと歩き、高橋是清記念公園の前を通りすぎ、次を左折する。

細い小路がまっすぐに南へ延びており、やがて、三枚目の写真のように新坂上に至る。ここから下っているが、坂上側は緩やかで、坂下側がちょっと勾配があるが、そう急でない。四枚目の写真は坂下から撮ったものである。狭い道で、静かな雰囲気であるため、よい散歩道になっている。

尾張屋板には、坂マーク(多数の横棒)とともにヤケンサカとあり、その下側(西)の青山邸と毛利邸との間に、志んサカ、とある。

稲荷坂下稲荷坂上三分坂上三分坂下 新坂下を左折し、道なりにちょっと歩くと、左手に稲荷坂の上りが見えてくる。ここを直進すると、三分坂のずっと下側に至る。一枚目の写真のように、いきなりかなりの勾配の上りとなる。ちょっと左に曲がりながら上っているので、坂上側から撮った二枚目の写真には坂下が写っていない。

坂上を道なりに北へ進み、途中、クランク状の曲がり道を通って進むと、先ほどの薬研坂上の先の交差点に出る。ここを右折し、東南へ進むが、このあたりは台地にできた道である。

やがて、ちょっとした下り坂になるが、ここが三分坂の坂上で、三枚目の写真はふり返って坂上側を撮ったものである。ここをちょっと下り角を右に曲がると、いきなり急な坂となるが、この歩道を下る。四枚目の写真は坂下側から撮ったもので、右側の石垣の上が一ツ木公園である。

尾張屋板を見ると、イナリ坂と三分坂がちゃんとのっている。

ここまで来ると、最終目的地の偏奇館跡はもうすぐである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)

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荷風生家跡~断腸亭跡~偏奇館跡(4)

2012年01月12日 | 坂道

前回の断腸亭跡(永井荷風旧居跡)から六本木一丁目の偏奇館跡に向かうが、ここから先は、これまで巡った坂をつなぎあわせると、簡単にコースができた。しかし、真っ先に浮かんだ坂を結んだだけで、地図を見ると、当然のことながら他のコースもたくさんある。ここまでのコースも他にもあるので、全体としてもかなりの数のコースが考えられる。ただ、できるだけ裏道や好ましい小坂を通ろうとすると絞られてくる。

尾張屋板江戸切絵図(千駄ヶ谷鮫ヶ橋四谷絵図) 安養寺坂上手前 安養寺坂上側 安養寺坂下 前回の永井荷風旧居跡の説明板の前から東へ向かう。歩道をそのまま進んで、青峰観音のところまで行ってから引き返し、右折し、安養寺坂に向かう。二枚目の写真は、その坂上手前で撮ったもので、左側が住吉町14番地である。ちょっと歩くと、坂上となって中程度の勾配で下っている。三枚目の写真のように、坂上側に標柱が立っており、その先で、左側に緩やかに曲がっている。安養寺は、この坂の右側(南)にあるが、この坂から直接アクセスできない。

一枚目は尾張屋板江戸切絵図(千駄ヶ谷鮫ヶ橋四谷絵図 元治元年(1864))の部分図であるが、安養寺が左端にあり、その左わきの道がこの坂と思われ、むかしはこの坂とつながっていた。

坂下の左右の通りは、あけぼのばし通り商店街で人の往来が多い。ここまで休憩なしで昼食もまだであったので、中華料理店に入って昼食休憩にした。

出発の礫川公園からこの安養寺坂下まで、携帯による歩行距離は8.3kmで、要した時間は1時間46分である。

念仏坂下 念仏坂上 念仏坂上を右折した道 合羽坂上 昼食後、商店街を南に歩き、すぐの一本目を左折すると、一枚目の写真のように念仏坂の坂下である。かなり急な階段坂で、途中、左にちょっと曲がっているので、坂下から坂上が見えない。二枚目の写真のように踊場の端に石標が建っていて、ねんぶつ坂と刻まれている。もう一つ建っているが、こちらは古く前面の文字が消えているようだ。

坂上を左折すると、さきほどの女子医大通りの月桂寺前に出る道である。右折し、三枚目の写真のようにまっすぐな道を東へ向かう。その先が合羽坂上である。

尾張屋板には、安養寺の上(東)に市谷谷町があり、そこに短い道が見え、東へ続く道につながっているが、その短い道が念仏坂で、東へ合羽坂へと至る道がこの道と思われる。 やがて外苑東通りの広い通りに出るが、ここを横断して合羽坂上から撮ったのが四枚目の写真である。

合羽坂下 合羽坂下 津の守坂下 津の守坂上 合羽坂を下り、坂下から撮ったのが一枚目の写真である。二枚目は坂下の埋め込みで、ここに石でできた河童の頭が埋め込まれているが、合羽坂には河童由来説があるから、不思議ではない。

坂下で靖国通りを横断し、ガソリンスタンドのところを右折し、南へ向かうと、三枚目の写真のように津の守坂の坂下である。四枚目は坂上から撮った。

ところで、永井荷風の日記「断腸亭日乗」大正六年(1917)10月24日に次の記述がある。

「十月廿四日。両三日腹具合大に好し。午後家を出で紀の国坂を下り豊川稲荷に賽す。」

当時、荷風はまだ余丁町に住んでいて(以前の記事参照)、この日、腹具合も好かったからか、余丁町の自宅から赤坂の豊川稲荷まで歩いて行ったようであるが、その道順が気になるところである。安養寺坂を下ったことは確実と思われるが、その先は不明である。今回の念仏坂→合羽坂→津の守坂もありえるが、暗闇坂(尾張屋板にも見える)またはその東の新坂を上り、現在の新宿通りに出た可能性が高いような気がする。

円通寺坂上 円通寺坂下 東福院坂下 東福院坂下 津の守坂上を直進したところの交差点で新宿通りを横断すると、一枚目の写真のように、円通寺坂の坂上である。坂上側がちょっと急で、ほぼまっすぐに下っている。二枚目の写真は坂下の標柱のところから撮ったものである。この通りは坂下の先で左に大きくカーブし、次に右に大きくカーブし下り坂になっているが、尾張屋板を見ると、円通寺前の道は右折する道のみで、現在の道筋はない。明治地図(明治四十年)もそうであるから、比較的最近にできたものである。このため、上記の荷風が通った道ではないと思われる。

上記の道を下り、ちょっと歩き、左折すると、東福院坂(天王坂)の坂下である。三枚目の写真のようにかなりの勾配でまっすぐに上っている。尾張屋板には、東福院の前の道に坂マーク(多数本の横棒)があり、この坂と思われる。四枚目の写真は坂上からであるが、坂下を直進すると須賀神社の石段の下に至る。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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荷風生家跡~断腸亭跡~偏奇館跡(3)

2012年01月11日 | 坂道

前回の朝日坂上からとりあえず牛込柳町の宝竜寺坂、銀杏坂を目指し、そこから余丁町の断腸亭跡へ向かう。このコースには別のルートも考えられ、たとえば、前回の赤城坂の坂上側を右折し、早稲田通りの北側を西へ進み、江戸川橋通りで左折し、地蔵坂を上り、早稲田通りを西へ進み、左折し、滝の坂を上り、南へ宝竜寺坂に向かうルートがある。

朝日坂上の先 林氏墓地 尾張屋板江戸切絵図(市ヶ谷牛込絵図) 宝竜寺坂上 朝日坂上から一枚目の写真のように細い通りを西へ進む。この道は大久保通りの北側にあり、途中、牛込中央通りを横断し、さらに進む。やがて牛込一中のところで突き当たるが、右折し、次を左折し、直進すると、二枚目の写真のように左手に林氏墓地が見えてくる。

新宿区教育委員会の説明板によれば、朱子学によって徳川幕府に仕えた林羅山から始まる林氏の一族・子孫の墓所である。林家は武家の子弟に朱子学を教授するため上野忍ヶ岡の別邸内に家塾を開き、孔子を祀る聖堂を建てたが、これが五代将軍綱吉のとき、湯島に移された(相生坂の記事参照)。

三枚目は尾張屋板江戸切絵図(市ヶ谷牛込絵図 安政四年(1857))の部分図であるが、中央下に、林大学頭の屋敷が見える。この一部がいま残っている墓地と思われる。 ここから二本目を右折し、次を左折し直進すると、四枚目の写真のように、宝竜寺坂の坂上である。別名が幽霊坂。下一枚目は坂下から撮ったものである。

宝竜寺坂下 試衛館跡 銀杏坂上 銀杏坂下 上記の尾張屋板に宝竜寺がなく、明治地図(明治四十年)にあるが、御江戸大絵図(天保十四年(1843))に、ホウリウシ、とあり、これが宝竜寺と思われる。江戸切絵図になぜ宝竜寺がないのかわからない。

階段を下り、外苑東通りの歩道を南へ進み、次の交差点を左折すると、大久保通りで焼餅坂の坂下である。尾張屋板に、ヤキモチサカ、とあるが、いまの坂下から上の方を云ったようである。

坂下から二本目を右折し、南へ進むと、二枚目の写真のように、右側に新撰組で有名な近藤勇の試衛館跡が見える。尾張屋板に、市ヶ谷柳町の町屋敷と市谷甲良屋敷との間に道があるが、ここがそうである。この東側が市谷甲良町で、むかしの地名が残っている。

突き当たりを左折し、次を右折し、南へ進む。次の交差点を右折すると、三枚目の写真のように、銀杏坂の坂上で、左側に標柱が立っている。坂下へと西へ歩くが、しばらくほぼ平坦で、勾配もかなり緩やかである。坂下に、四枚目の写真のように、「新宿区 銀杏坂通り」と記した標柱が立っている。坂上とは別種類の標柱のようで、はじめて見た。

「薬王寺坂通り」標柱 「児玉坂通り」 「児玉坂通り」標柱 「児玉坂通り」 このあたりは、コースは逆であるものの以前の坂巡りで経験があるが、これから余丁町までははじめてである。

銀杏坂下の外苑東通りを横断し左折し、次を右折すると、緩やかな坂であるが、その坂下に、一枚目の写真のように、さきほどと同じ種類の標柱が立っている。「薬王寺坂通り」とあるが、上記の尾張屋板の右上に薬王寺があり、その下の道がこの坂と思われる。

尾張屋板では袋寺丁とあるように行き止まりであるが、現代地図を見ると、いまも行き止まりのようである。そこで、引き返し右折しさらに進み、次を右折し、緩やかな坂を上ると、途中に、二枚目の写真のように、こんどは、「児玉坂通り」の標柱が立っている。ここを進み、突き当たりを左折し、クランク状の曲がりを進み、さらに左折すると、三、四枚目の写真のように、そこにも同じ標柱が立っている。

「児玉坂」というのは、このあたりに日露戦争のときの陸軍大将の屋敷があったことに由来するらしいが、無理にひねり出したような感じを受ける。この近く三箇所に同種類の標柱が立っているが、いずれも「・・・坂通り」とするもので、さきの二つは、そんなに違和感はないものの、ここはちょっとどうかと思う。明治や大正時代に、そう呼ばれていたのだろうか。歴史的にそうでなければ、この坂名は長続きしないような気がする。

月桂寺前 医科大学裏階段上 東京女子医科大学裏階段上から 余丁町14番地 上記の標柱のある道の突き当たりを右折する。ここは女子医大通りで、西へ進むが、一枚目の写真のようにすぐ右手が月桂寺前である。ここは上記の尾張屋板の上右端に大きく見える。

さらに歩くと、東京女子医科大学の建物が見えてくるが、大学本部のある交差点を左折し進むと、二枚目の写真のように、階段の上に至る。ここから三枚目の写真のように西南側の展望がよい。かつては崖の上であったのであろうか。

かなり急な階段を下り、直進し、突き当たりを左折し、次を右折し、さらに右折し、西北に進むが、その先で撮ったのが四枚目の写真である。この左側(西)が余丁町14番地で、右側が河田町である。次の四差路を左折して西北側を撮ったのが下一枚目の写真である。この左角が余丁町14番地の北端である。

余丁町14番地 余丁町14番地 断腸亭跡説明板の周辺 断腸亭跡説明板 一枚目の写真の道を直進する。左手の余丁町14番地に永井荷風が明治終わりごろから大正にかけて父母などと住んだ邸宅があった。その敷地内に「断腸亭」を建てたが、それが荷風の日記名「断腸亭日乗」となった。

二枚目の写真は、余丁町の広い通りに出る手前から撮ったもので、このあたりの左手が荷風旧居跡である。広い通りに出て、左折すると、すぐの左手に、三、四枚目の写真のように、永井荷風旧居跡の説明板が立っている。

ようやく第二の目標地点に着いたが、ここから偏奇館跡を目指す。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)

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荷風生家跡~断腸亭跡~偏奇館跡(2)

2012年01月07日 | 坂道

前回の鶯谷の無名坂から新宿区余丁町の断腸亭跡を目指す。ここまでは経験のある道であったが、これから断腸亭跡までは、はじめてのところもあり、今回のコースの中でもっとも道順がはっきりしないところである。だいたいのコースは決めていたが、細かなところはその場で決めるつもりである。

水道通り(巻石通り) 巻石通り交差点の南側 尾張屋板江戸切絵図(礫川牛込小日向絵図) 水道一丁目から二丁目への道 水道通り(巻石通り)に出て左折するとすぐの巻石通り交差点を横断する。一枚目の写真はそこからふり返り水道通りを撮ったもので、無名坂から続く小路が中央右に見える。二枚目の写真のように交差点から緩やかな下り坂を南へ向かい、次を右折し、西へ向かう。

この道は、さきほどの水道通りの南に位置し、そこよりも一段低く、水道一丁目から二丁目へと続き、交差点ごとにちょっと曲がりながら神田川にかかる石切橋へと延びている。

三枚目は尾張屋板江戸切絵図(礫川牛込小日向絵図 万延元年(1860))の部分図であるが、この左下に、金剛寺、その左に金コウシサカ(金剛寺坂)が見える。その間から上(南)へ延びる道が先ほど交差点を南に向かった道で、次を右折し右(西)へ延びる道が先ほどの西へ向かった道である。その先に、江戸川にかかる石切橋がある。北側のいまの水道通りには、神田上水が流れている。

この図の右下には服部坂が見える。また、江戸川の南に細長く馬場があるが、上の現代地図を見ると、西五軒町にこれが一区画になってそっくり残っている。これから先の道もそうであるが、このあたりは、江戸時代の道がそのまま残っているところが多いようである。

石切橋 水道町の通り(北から南側) 尾張屋板江戸切絵図(礫川牛込小日向絵図) 赤城坂下手前 道なりに歩いていくと、やがて道は南向きとなって、石切橋に至る。上記の江戸切絵図にあるように、江戸から続く橋である。橋の近くにある新宿区の説明パネルによれば、江戸初期、寛文年間(1661~73)に架けられたといわれ、このあたりに石工が住んでいたことが由来とされているという。

永井荷風の「断腸亭日乗」に、昭和二年(1927)「正月二日 好晴、今日の如き温暖旧臘より曾て覚えざる所なり、午下自働車を倩ひ雑司ケ谷墓地に赴く、道六本木より青山を横ぎり、四谷津の守坂を下りて合羽坂を上り、牛込辨天町を過ぎて赤城下改代町に出づ、改代町より石切橋の辺はむかしより小売店立続き山の手にて繁華の巷なり、今もむかしと変る処なく彩旗提燈松飾など賑かに見ゆ、江戸川を渡り音羽を過ぐ、・・・」とある。父の墓参に向かう途中、車からの光景を描いたもので、この橋のあたりは、繁華街であったようであるが、いまは、そんな感じはしない。神田川の上に首都高速が走り、そのわきを目白通りが通っているために、車の交通でにぎやかではあるが。

目白通りを横断して橋を撮ったのが一枚目の写真である。そこから南へまっすぐに道が延びているが、その途中で、撮ったのが二枚目の写真である。三枚目は上記の尾張屋板の別の部分図で、その南側である。石切橋から南へまっすぐに延びる道が見えるが、二枚目の写真の道である。この道はずっと低地を通っていたが、やがて、四枚目の写真のように上りにかかるが、ここが赤城坂である。

赤城坂下 赤城坂下側 赤城坂上側 赤城坂上側 この坂は、一、二枚目の写真のように坂下側で緩やかであるが次第に勾配がきつくなって、坂上側まで上ると、三、四枚目の写真のように、そこに標柱が立っている。「赤城坂 赤城神社のそばにあるのでこの名がある。『新撰東京名所圖会』によれば、「…峻悪にして車通ずべからず…」とあり、かなりきつい坂だった当時の様子がしのばれる。」と説明があるように、むかしからかなり急であったようである。

坂下側で二度ちょっと大きめに曲がり、標柱のところでも二度曲がってから、下一枚目の写真のように、緩やかに上っている。

上記の江戸切絵図を見ると、赤城明神の西わきで、先ほどの石切橋から延びる道が二箇所クランク状に曲がっているが、ここが赤城坂と思われる。近江屋板には、尾張屋板よりも緩やかに折れ曲がった道に坂マーク(△と多数の横棒)が記されている。

荷風は『日和下駄』「第十 坂」で、神社の裏手などにある坂の中途に侘び住まいし、読書につかれたとき、着のみ着のまま裏手から境内に入って鳩の飛ぶのを眺めたり額堂の絵馬を見たりすることができたらという願望を述べているが、そのような坂の一つとしてこの坂(赤城明神裏門より小石川改代町へ下る急な坂)をあげている。荷風好みの坂で、荷風なじみの地を結ぶこの散策によく合う。

今回、金剛寺坂などのある小石川台地から赤城坂のある牛込台地までの間をはじめて歩いたが、坂を下り、低地に拡がった街を通り抜け、ふたたび坂を上ると、東京の凹凸をよく実感できる。それでも、山の手とよばれる地域の中で、このあたりは平坦な土地(沖積層)が比較的広いところである。

赤城坂上 朝日坂下 朝日坂上 朝日坂上 赤城坂上を左折し、右折し、南へ進むと、やがてにぎやかな通りに出る。右手に神楽坂駅の出入口があり、往来が多い。この通りは、神楽坂の坂上に相当する位置にあるが、地図を見ると、早稲田通りである。ここを横断し、左折して東へちょっと歩き、一本目を右折すると、朝日坂の坂下である。

二枚目の写真のように、緩やかな坂がまっすぐに南西に延びている。大晦日の午後、買い物帰りの人たちや同じように散歩する人が行き交っている。坂上近くに標柱が立っており、次の説明がある。

「朝日坂 『御府内備考』には、かつて泉蔵院という寺があり、その境内に朝日天満宮があったためこの名がついたとある。明治初年、このあたりは牛込朝日町とよばれていた(『東京府史料』)。」

尾張屋板の市ヶ谷牛込絵図を見ると、神楽坂の坂上から入ったこの道に、ヨコ寺町とあり、その西側に泉蔵寺がある。近江屋板には同じ道に泉蔵院がある。しかし、いずれにも朝日天満宮は記されていないし、坂名も坂マークもない。

この道は坂上からさらに西へと長く延びており、ここを進むが、余丁町の断腸亭跡まではまだかなりある。
(続く)

参考文献
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
東京人「東京は坂の町」april 2007 no.238

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荷風生家跡~断腸亭跡~偏奇館跡(1)

2012年01月04日 | 坂道

年末に永井荷風の生家跡(文京区春日二丁目)から偏奇館跡(港区六本木一丁目)までその間にある坂を巡りながら歩いた。断腸亭跡(新宿区余丁町)経由である。

こういった坂巡りのプランについて以前から地図を見ながら何回か考えたことはあったが、実行に移すにはいたらなかった。通常の休日午後からの予定では、時間不足になるように思えたからである。そこで、今回、休日の続く年末に実行してみた。坂とそれをつなぐ道はできるかぎり裏道を選ぶことにしたので、通常考えられるコースではなく、かなり遠回りとなった。

礫川公園 富坂下 富坂上 西岸寺前 午前地下鉄後楽園駅下車。

地上に出ると、すぐ眼の前が礫川公園である。ここのベンチに腰をかけカメラなどの準備をする。

空を見上げると、一枚目の写真のように、きょうも晴天で空は青い。北国では雪が降り止まないというのに、東京地方は雲一つない青空である。この対比が不思議である。東北の寒村生まれのわたしには、この季節は毎日が雪という記憶しかない。ときたま午前から昼頃にかけて晴れ渡ることがあるが、それも午後になると、次第に雲がふたたび空を覆って、元通りになってしまう。むかし、こちらで生活をはじめたとき、もっとも違いを感じた一つは、この季節にこの天候が続くことであった。生まれてから故郷で暮らした期間よりもずっと長くこちらに住んでしまったので、そういった感じも薄らいでしまいがちであるが、きょうのような空の青さを見つめていると、その反作用からか、むかしの雪の風景の記憶が呼び起こされてしまう。毎日が曇天で雪が降りしきる中での生活は、その雪の処理が必要で晴天の続く所よりも不便で、暗い暮らしではあるが、たまになつかしくなることもある。

ひとしきりむかしの想い出に浸ってから出発。ここからまず荷風生家跡を目指す。

公園から出ると、富坂下の交差点である。春日通りにある坂で、歩道も広い。できるだけ裏道を通るという原則からちょっと外れるが、ここは仕方がない。まっすぐに上るが、坂上側で右に少し曲がってからかなり緩やかになり、富坂上の交差点近くではほぼ平坦になる。ここを左折し、西岸寺前の道を南へ進む。ここは静かな通りである。

牛坂上 牛坂下 安藤坂下 安藤坂下 西岸寺前の通りを歩き、二回ほど曲がると、やがて、牛天神の裏手に出る。そこをちょっと進むと、牛坂上である。一枚目の写真のように、細い坂道がまっすぐに下っているが、近頃の工事をしたばかりの坂のようにきっちりとまっすぐでないのがよい。 天神裏のいかにも裏道といった感じで、石垣などもあり、風情のあるよい坂である。

牛坂を下りるが、途中つま先に力が入り、かなり急であることを感じる。坂下から次を右折し進むと、安藤坂下に出る。

安藤坂は坂上からまっすぐに南へ下っているが、ここで大きく西へと曲がっている。三枚目の写真は、その曲がった先を撮ったものである。横断歩道を渡り、四枚目の写真の安藤坂下から上る。ここも広い通りであるが、春日通りほど通行量は多くない。

安藤坂上を左折した道荷風生誕地 金剛寺坂中腹から荷風生誕地方面 金剛寺坂中腹 安藤坂上の区立三中前の交差点を左折し、一枚目の写真の通りを西へ進み、クランク状に折れ曲がったところを過ぎると、緩やかな下り坂になっている。そこからちょっと下ると、二枚目の写真のように、右手に荷風生育地の標識が立っている。ここが第一の目標地点である。

そのままその緩やかな坂を進むと、金剛寺坂の中腹に突き当たる。その手前から振り返って荷風生家方面を撮ったのが三枚目の写真である。前方左手一帯が荷風の生家のあったところである。 金剛寺坂中腹で右折するが、四枚目の写真のように、うねりながら上っており、好ましい坂である。しかも車もそんなに通らない。

金剛寺坂上 鶯谷無名坂上からの風景 鶯谷無名坂上 鶯谷無名坂下先から東側 一枚目の写真の坂上を左折し、西へ歩くと、やがて左手がちょっと開けて、二枚目の写真のように南側の風景を眺めることができる。このあたりが、かつて鶯谷(うぐいすだに)と呼ばれたところで、谷地の森に鶯がさえずっていたという。上野の同名の地の方が駅名ともなっていて有名であるが、ここは隠れた鶯谷である。

ここから、三枚目の写真のように、細い無名の階段坂が下っている。この石垣と金網のフェンスとの間の狭い階段がなんといえないよい雰囲気をつくっており、坂上から来ても、坂下から来ても、風情のある小坂となっている。隠れた無名の名坂である。

坂下を進むと、すぐに丸の内線の上にかかる橋であるが、そこを渡ってから、東側を撮ったのが四枚目の写真である。

ここまでは、いずれも何回か通ったことがある道のため、私的にはなじんだ道順である。
(続く)

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善福寺川(相生橋~神通橋)2012(1月)

2012年01月03日 | 写真
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