東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

礫川公園~富坂(2)

2011年03月04日 | 坂道

富坂下 富坂下側 富坂下側 礫川公園から北側へ出ると、富坂の坂下である。春日通りを西へ上る坂であり、広い道路がまっすぐに上っている。傾斜は中程度であるが距離があるので、高低差はかなりある。歩道も広い。途中、歩道左の公園側に春日局の銅像、その説明板や小石川町の旧町名案内や富坂の説明板などが次々と並んでいる。

小石川の地名は、千川(小石川、礫川)や江戸川(神田上水)や高台から流れる細流は砂や小石や礫が多かったことに由来する。春日の地名の由来は、三代将軍家光の乳母であった春日局が家光から拝領した土地とのことで、江戸切絵図を見ると、富坂下のさきに春日町とある。

富坂下側 富坂中腹 富坂中腹 富坂の説明板には次のようにある。

『富坂  春日一丁目と小石川二丁目の間
「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、えさし町より春日殿町へ下る坂、元は此処に鳶(とび)多くして女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故とび坂と云」と「紫一本」にある。鳶が多くいたので、鳶坂、転じて富坂となった。
 また、春日町交差点の谷(二ヶ谷、にがや)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂ともいわれた。そして、伝通院の方を西富坂、本郷の方を東富坂ともいう。都内に多くある坂名の一つである。
 この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し、"アララギ"の編集にあたっていた。
  「富坂の冬木の上の星月夜 いたくふけたりわれのかへりは」
      島木赤彦(本名 久保田俊彦 1876~1926)』 
 

富坂中腹 富坂中腹 富坂上 横関によると、本当の昔の富坂は、この坂の南、旧歩兵工廠内に消えてしまったらしい。現在、伝通院前の方から来くると、坂上の信号のあたりで左にちょっと曲がってから、まっすぐに下っているが、むかしは、ここで曲がらずにまっすぐに下っていた。いまの富坂は新富坂というべきとのこと。

明治地図を見ると、現在の曲がった後のまっすぐな道筋と、曲がらずに続いた先で何回か曲がりながら下る道筋とがある。その坂下南側は陸軍工廠で、その東側に陸軍砲兵工科学校がある。現在の礫川公園の中あたりに坂道があったのであろうか。

横関に西富坂の坂上からの写真(昭和30年代頃)がのっており、いまと同じようにまっすぐに下っているが、眺望が全然違い、東富坂の向こうまでよく見える。現代の坂は何回も書いたように眺望をまったく失っているが、それはあたかも現代が未来の見通しをまったく失っていることに通ずるような気がする。高い壁があちこちにそびえ立っているのである。思い過ごしであろうか。

富坂上 富坂上 富坂中腹 富坂中腹 東京は故郷でないので、どこに出かけても、むかしの想い出が残るところもなく、まるで異邦人のように歩き回るだけである。それでも長く同じ地域に住んでいると、少しずつ想い出が蓄積されていく。そんな中で、この富坂は悲しい記憶につながるところである。もう十年近く前であるが、畏友が悲しいことに突然亡くなり、葬儀がこの近くの上富坂教会で行われたのであった。地下鉄の駅から出て、富坂下の交差点を渡り、富坂の北側の歩道を上ったことを覚えている。坂が急に感じられた。

坂を下るが、途中で左折し北側へ向かう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)
幸田文「父・こんなこと」(新潮文庫)

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