東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

旧東富坂

2012年11月29日 | 坂道

東富坂下 旧東富坂上 旧東富坂下 旧東富坂下 前回の鐙坂下を北へ道なりに進み、途中左折し小路を西へ歩くと、白山通りの歩道に出る。左折し白山通りに沿って歩くと、やがて春日通りとの大きな交差点に至る。ここが新東富坂の坂下で、一枚目の写真のように、広い通りが左(南東)へ上っている。

この坂は後で紹介するとして、旧東富坂に向かう。一枚目の写真の横断歩道を渡りそのまま南へ歩けば坂下に至るが、そうせず、横断歩道を渡ってから左折し、新東富坂を上り、次を右折すると、旧東富坂の坂上(現代地図)である。二枚目は坂上から坂下を撮ったもので、中程度の勾配でまっすぐに西へ下っている。坂下は白山通りで、その上に架かっている鉄橋を丸の内線が通っている。

三枚目は坂下から撮ったもので、坂下側で緩やかで、中腹あたりでちょっと急になっている。四枚目はそのちょっと上側から坂下を撮ったものである。

旧東富坂中腹 旧東富坂中腹 旧東富坂中腹 旧東富坂中腹 一枚目の写真は坂下からちょっと上って勾配のあるところから坂上を撮ったもので、二枚目はそのあたりから坂下を撮ったものである。三枚目はさらに上ってから坂上を、四枚目はその上側から坂下を撮ったものである。

坂の右側(北)に沿った丸の内線が坂上からよく見える。遠くに見える後楽園駅から出てきた電車がちょうど通過していき、ここで本郷台地の中にできたトンネルへ入っていく。坂下の白山通りでかなりの高さの鉄橋を渡り、坂上で本郷台地の中に入っていくことから、本郷台地と白山通りとの標高差がかなりあることがわかる。タモリが東京に出てきたとき、渋谷の地下鉄銀座線の駅が二階にあることに驚いたというようなことをなにかに書いていたが、同じような光景が洪積層の台地に対し沖積層の谷がよく発達した山の手ではあちこちで見られるということである。

三枚目、下二枚目の写真のように、坂上の南側に坂の標識が立っている。歩道側に次の説明がある。

「旧東富坂(きゅうひがしとみさか)
 むかし、文京区役所があるあたりの低地を二ヶ谷(にがや)といい、この谷をはさんで、東西に二つの急な坂道があった。
 東の坂は、木が生い繁り、鳶がたくさん集ってくるので、「鳶坂」といい、いつの頃からか、「富坂」と呼ぶようになった。(『御府内備考』による)富む坂、庶民の願いがうかがえる呼び名である。
 また、二ヶ谷を飛び越えて向き合っている坂ということから「飛び坂」ともいわれた。明治41年、本郷3丁目から伝通院まで開通した路面電車の通り道として、現在の東富坂(真砂坂)が開かれた。それまでは、区内通行の大切な道路の一つであった。
            文京区教育委員会 昭和63年3月」

旧東富坂上 旧東富坂上 旧東富坂上 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 一、三枚目の写真は、坂上側で坂上を撮ったもので、坂上の向こうが現在の新東富坂(真砂坂)である。二枚目はそのあたりから坂下を坂標識を入れて撮ったものである。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)を見ると、菊坂町の左方(南)に炭団坂上と鐙坂上が北から南へ延びているが、その南側の先がつながっている東西の道がこの坂と思われる。ただし、炭団坂と鐙坂の先が接続したあたりは新東富坂(真砂坂)に吸収されている。新東富坂は鐙坂が接続した付近で坂上から見て右にちょっと曲がってから下っている。

旧東富坂下の左が水戸屋敷で右に松平丹後守邸がある。水戸屋敷跡が現在の東京ドームや小石川後楽園などであろう。

近江屋板(嘉永三年(1850))もほぼ同様であるが、この道に坂マークの△が見える。

『御府内備考』の長右衛門屋敷の書上には次のようにある。

「一東富坂 高凡二丈五尺程、幅五間程、長二十二間程、 右坂の辺往古木立有之、鳶多居候由にて俗に鳶坂唱候由、年代不知富坂と書改候由申伝候、」

上記の標識はこの記述をもとにしているが、要するに、むかしこの坂あたりは木立があって、鳶が多く住んでいたので、鳶坂といわれたが、いつのまにか富坂と書き改められた。

この坂に相対して西富坂(富坂)がある。横関は、もともと二つの坂を飛坂といい、飛坂という一つの名が同時に二つの坂を意味していたが、それがいつのまにか、鳶坂となり、さらに富坂に改名されたとしている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)

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見送り坂・見返り坂

2012年11月26日 | 坂道

見送り坂・見返り坂 見送り坂・見返り坂 見送り坂・見返り坂 周辺地図 本妙寺坂下を右折し、現在の菊坂の通りを南東に進むと、やがて坂上で本郷通りにでる。

歩道を右折するとすぐのところに坂の標識(パネル)が立っている。一枚目の写真はそのあたりから本郷通りの北側を、二枚目は南側(本郷三丁目交差点方向)を撮ったものである。三枚目は、一枚目の写真に写っている標識(車道側)を撮ったもので、これによれば、南側が見送り坂、北側が見返り坂で、その間に別れの橋があった。四枚目の街角地図(上がほぼ南)にも見送り坂と見返り坂が示されている。

標識(歩道側)には次の説明がある。

 「別れの橋跡・見送り坂と見返り坂
                本郷4-37先本郷通り
 「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃追放の者など此処より放せしと・・・・・・・・いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を堀出せり、是なんかの別れの橋なりしといひ伝へり・・・・・・・・太田道灌(1432~86)の頃罪人など此所よりおひはなせしかば、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや」と『改撰江戸志』にある。
 この前方の本郷通りはややへんこんでいる。むかし、加賀屋敷(現東大構内)から小川が流れ、菊坂の谷にそそいでいた。『新撰東京名所図会』(明治40年刊)には、「勧業場本郷館(注・現文京センター)の辺は、地層やや低く、弓形にへこみを印す、其くぼめる所、一条の小渠、上に橋を架し、別れの橋といひきとぞ」とある。
 江戸を追放された者が、この別れの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄)で、親類縁者が涙で見送ったから見送り坂。追放された人がふりかえりながら去ったから見返り坂といわれた。
 今雑踏の本郷通りに立って500年の歴史の重みを感じる。
    文京区教育委員会 昭和59年3月」

見送り坂・見返り坂 見送り坂・見返り坂 見送り坂・見返り坂 見送り坂・見返り坂 一枚目の写真は標識の所から南側にちょっと歩き、ふり返って北側を撮ったもので、写真上側で南から北へ向けてわずかな上りになっている。その手前が上記の標識の説明にあるように、ちょっと凹んでいる。そのかなり緩やかな上りが見返り坂であろうか。

二枚目は本郷三丁目の交差点を北から南を撮ったもので、左右は春日通りである。三枚目は北側に引き返し、菊坂上をちょっと通り過ぎて北側を撮ったもので、先ほどの一枚目の坂上のあたりである。四枚目はそのあたりから南側を撮ったものである。

三枚目のあたりが見返り坂の坂上側とすると、現在、見送り坂に相当する傾斜はほとんどないように見える。

上記の標識に引用されている改撰江戸志の記述は、『御府内備考』の本郷之一の総説にも引用されており、全文は次のとおり。

「別橋跡
別の橋は四丁目にかかる小橋なりしと【紫の一本】云、 むかし太田入道道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ、その頃追放の者など此処より放せしと、又このほとりに住るもののいひしは、いづれのころにかありし、此辺にて大きなる石を堀出せり、是なんかの別れの橋なりしといひ伝へり、今は其石も又うつもれて知人なしとぞ、按に此所の橋をむかし別の橋と名付しは、太田道灌の頃罪人など此所よりおひはなせしかば、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや、北条のころまでも太田家の居邸本郷にありしよしものにみゆれば、この頃の領知もここを境として罪人など此処よりおひはなちしにや、【改撰江戸志】」

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 一枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)で、本妙寺の方から中山道(現在の本郷通り)に出た付近がこれら二つの坂のあたりであろう。二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))や、近江屋板(嘉永三年(1850))も尾張屋板と同様の道筋となっている。

上記の標識によれば、菊坂上すぐ右(南)にある文京センターの辺には、加賀屋敷(現東大構内)から小川が流れ、菊坂の谷にそそいでいた。その小川の上の橋を別れの橋といったらしいが、それは、江戸時代よりももっとむかしの大田道灌の時代のことである。江戸時代の坂が多い中で、ここは江戸以前の故事にちなむ坂名を有する珍しい坂である。

『御府内備考』の本郷四丁目の書上には次のようにある。

「一町内往還中程往古は地ひくくて南北地形小高く坂有之候由、北の方見かえり坂と唱、南の方見おくり坂と唱候由、何故名付候哉相分不申候、乍併当時は一円地形均く相成、坂の様にも相見へ不申候、」

これによれば、江戸時代にも地形は均されていたようで、坂のように見えないとあるので、二つの坂は、江戸時代にあっても伝説の坂であったようである。現在、菊坂上のあたりで北へゆるく上る坂は、見返り坂というよりもその坂のあった所といった方がよいのかもしれない。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)

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小金井公園2012(11月)

2012年11月25日 | 写真
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善福寺川(尾崎橋~宮下橋)2012(11月)

2012年11月24日 | 写真
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鐙坂

2012年11月23日 | 坂道

鐙坂下 鐙坂下 鐙坂下 周辺地図 前回の菊坂下通りをさらに北西に歩き、左折して進むと、鐙坂の坂下である。坂下は広いが、突き当たりを左折すると、一枚目の写真のように、狭い坂の上りとなる。

二、三枚目は坂下から坂上を撮ったものであるが、細くかなりの勾配がある。右側に石垣が続き、左側に塀と住宅が道に沿ってできているので、いっそう狭く感じるが、いかにも裏道といった感じである。

四枚目の街角地図(上がほぼ南)からわかるように、前回の炭団坂の西側に位置し、これと平行に北から南へと上っている。

坂下は菊坂下通りに続く谷で、坂上が本郷台地である。炭団坂と高低差はほぼ同じと考えられ、比較的短いため急な坂になっている。本郷四丁目20番と31番の間である。

一、二枚目のように坂下左側に坂の標識が立っている。

鐙坂下 鐙坂中腹 鐙坂中腹 鐙坂中腹 一枚目の写真は坂下からちょっと上って撮ったもので、二枚目はさらに進んで中腹あたりを、三枚目はそのちょっと先で振り返って坂下を撮ったものである。四枚目はさらに上側を撮ったもので、左側に立っている標識は、下三枚目の写真の金田一京助・春彦旧居跡の標識である。下四枚目の写真は、その標識のあたりから坂下を撮ったものである。

坂下に立っている坂の標識には次の説明がある。

「鐙坂(あぶみざか)
 本郷台地から菊坂の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名前の由来は「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」(『江戸志』)とか、その形が「鐙に似ている」ということから名付けられた(『改撰江戸志』)などといわれている。
 この坂の上の西側一帯は上州高崎藩主大河内家松平右京亮の中屋敷で、その跡地は右京山と呼ばれた。
   文京区教育委員会 平成6年3月」

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 金田一京助旧居跡 鐙坂中腹 一枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)で、菊坂下通りを本妙寺坂の方から進んで一本目を左折した道筋が前回の炭団坂で、その次を左折した道筋がこの坂であろう。二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))にも、本妙寺坂の方から進んで同様に左折する道筋が示されている。

近江屋板(嘉永三年(1850))にも尾張屋板と同様の道筋があるが、坂マークも坂名も記されていない。

上記の江戸絵図のいずれにも、この坂の道筋の右(西側)に松平右京亮の中屋敷がある。

『御府内備考』の本郷之一の総説にある説明は次のとおりかなり長い。

「鐙坂
鐙坂は御弓町より丸山へ下るの坂をいひ、往古この処に武蔵鐙を製し初しものゝ子孫ありて、鐙を作るゆへに坂の名とすといへり、【江戸誌】云、武蔵鐙は古き歌道の伝にして、旧記にも多く此事をのせたり、武蔵鐙とはいまいふ五六の鐙なり、【続日本記】云、元正天皇霊亀二年[716]五月辛卯、高麗の人一千七百九十人武蔵にうつすと見ゆ、かれらが内にて五六の鐙を初て造りけるより、当国の名産とはなれり、高麗郡は今の府中の辺なり、その子孫この所に住せしこと年ありといふ、按に武蔵鐙の事はさもありぬべけれど、それが子孫この所にありしといふに至りては、他の書にいまだ見ざる事にして甚うけあひがたし、例の好事のものゝ鐙坂といふにより、かゝる付会の説を唱へしなるべし、たゞ坂のかたちの鐙に似たるによりて土人かく名付しなるべし、【改撰江戸誌】」

御弓町より丸山へ下る坂とあるが、弓町とは、この坂の南のあたりである。この坂を下ると丸山であった(丸山に対し菊坂下通りの谷をはさんでこの坂の西側は上記のように左京山とよばれていた)。

坂名の由来について、武蔵鐙を初めて製作した子孫が鐙をこのあたりで作っていたからとあるが、改撰江戸誌は、他の書にはそんなことは書いてなく、付会(こじつけ)の説で、たんに坂のかたちが鐙(鞍の両わきに下げて足を踏みかけるときに使う馬具)に似ていたからとしている。

鐙坂上 鐙坂上 鐙坂上 鐙坂上 一枚目の写真は坂上近くから坂上を撮ったもので、二枚目はそのちょっと上から坂下を撮ったものである。三枚目はそのあたりで坂上を撮ったもので、ここを進めば春日通りの真砂坂上である。このちょっと先を左折すると、崖上を通って前回の炭団坂上に至る。四枚目はそのちょっと先でふり返って坂下側を撮ったものである。

『御府内備考』の菊坂町の書上には次のようにある。

「一鐙坂 長四拾間余 幅一間程
 右は本郷御弓町より菊坂町続大下水端え下る坂に御座候、此坂の形ち鐙に似候故相唱候由に御座候、」

ここでも形が鐙に似ているためとしている。鐙が下側で曲がるところが、坂下を右折すると狭い道が広くなる部分に似ているからそう呼んだのだろうか。これについて、横関は、昭和の初めころこの坂を訪れたとき、その形が鐙に似ていたと思ったが、その後、6,7年たってから尋ねたらコンクリートで舗装されてしまっていて、鐙に似た形は感じられなくなった、と書いている。
 (続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
北村一夫「江戸東京地名辞典」(講談社学術文庫)

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菊坂下通り~炭団坂

2012年11月21日 | 坂道

菊坂下通り 菊坂下通り 周辺地図 菊坂下通り 前回の本妙寺坂を下り、坂下近くで左折すると、菊坂下通りである。一枚目の写真は、本妙寺坂下から菊坂下通りを撮ったもので、ここから細い道が西へ緩やかに下っている。二枚目は、ちょっと下ってからふり返って撮ったもので、坂上が本妙寺坂下である。

三枚目の街角地図(上がほぼ南)を見るとわかるように、現在の菊坂に沿ってずっと北西へと、胸突坂下のあたりまで延びている。

狭い通りをしばらく歩くと、右手に階段が見えてくる。四枚目のように、階段の上が菊坂で、この通りが菊坂の通りよりも一段低いことがわかる。 階段をちょっと上ると、右手に下一枚目の宮沢賢治旧居跡の標識が立っている。

宮沢賢治旧居跡標識 菊坂下通り 菊坂下通り 菊坂下通り 一枚目のように、宮沢賢治は大正10年(1921)1月から8月までこの近くの稲垣家の二階に間借りしていた。新潮日本文学アルバムにその家の写真が載っているが、二階建てのひょろりとした日本家屋である。

二枚目の写真は階段下から通りを撮ったもので、このちょっと先を左折すると、炭団坂である。

さらに進むと、三枚目のように、先ほどと同じような階段が右手にある。階段の上は菊坂の通りで、かなり坂下に近い。

四枚目は、その近くに貼り付けてあった旧菊坂町の説明板である。これにあるように、その近くの小路に入ると、下一枚目の写真のように一葉旧居跡の井戸がある。

樋口一葉旧宅跡 炭団坂下 炭団坂下 炭団坂下 先ほどの宮沢賢治の旧居跡の近くの小路に入り、左にちょっと曲がり進むと、二枚目の写真のように炭団坂が見えてくる。三、四枚目はさらに近づいて坂下から撮ったものである。本郷四丁目32番と35番との間にある。

菊坂下通りの方から入り込んだ谷から台地へ上る階段坂である。坂下から見て右側は崖で、石垣になっているが、これから崖にできた坂であることがわかる。南の坂上は本郷台地で、坂上をそのまま直進すると、春日通りの真砂坂上にいたる。

階段の上側に文京区教育委員会の坂の標識が立っていて、次の説明がある。

「炭団坂(たどんざか)
 本郷台地から菊坂の谷へ下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということからつけられたといわれている。
 台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように階段や手すりがないころは、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。
 この坂を上りつめた右側の崖の上に、坪内逍遥が明治17年(1884)から20年(1887)まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。
    文京区教育委員会 平成6年3月」

炭団坂下 炭団坂中腹 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) この階段坂には何箇所かの踊り場があるが、一枚目の写真は下側の踊り場から坂上を撮ったものである。2枚目は中腹から坂下を撮り、坂下の先の狭い小路が見える。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)を見ると、現在菊坂とされる通りと、菊坂下通りが仲よく並んでいるのがわかるが、下通りを本妙寺坂の方から進んで一本目を左折した道筋がこの坂と思われる。四枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))にも、本妙寺坂の方から進んで鋭角に曲がる道筋がこの坂であろう。

近江屋板(嘉永三年(1850))にも尾張屋板と同様の道筋があるが、坂マークも坂名も記されていない。

炭団坂中腹 炭団坂中腹 炭団坂中腹 一枚目の写真は、中腹から坂上を撮ったもので、二枚目はそのちょっと上から坂下を撮ったもので、上記の坂標識が西端に立っている。三枚目は坂の右側の崖につくられた石垣を撮ったもので、この坂のあたりは崖地であった。

この坂は、『御府内備考』の本郷之一の総説に次のように記されている。

「炭團(団)坂
  炭団坂は丸山の方へ下るの坂なり、此処はたどんなど商ふもの多かりしかばかく名付しや、詳にその名の起る所をしらず、【改選江戸誌】」

この改選江戸誌によれば、たどんなどを商う者が多かったのでこのように名付けられたとしているが、その説に自信がなさそうである。

同じく菊坂町の書上には次のようにある。

「一たどん坂
 但此坂切立てにて至て急成坂に有之候、往来の人転び落候故たどん坂と唱申候、
 右二ヶ所共武家方持に御座候、」

これによれば、急坂で、通る人が転げ落ちたのでたどん坂というようになった、としている。たどん(炭の粉を丸くかためた)のように転がり落ちたのか、転がり落ちてたどんのように泥だらけになったのか。横関は、たどんのように泥だらけになったからとしている。

炭団坂中腹 炭団坂中腹 炭団坂上 一枚目の写真は、標識のちょっと上から坂上を撮ったもの、二枚目はそのあたりから坂下を撮ったものである。三枚目はさらに上から坂上を撮ったもので、坂上はまっすぐに南へ延びている。

横関によれば、急坂を意味する坂名として江戸時代から多いのが、高坂で、つぎは胸突坂であるという。江戸には上るときの名である胸突坂だけで、下るときの坂の名がないとする。江戸の川柳に「男坂おりかけて見てよしにする」とあるように、江戸っ子は坂を下る前に急坂を避けたからである。これから、男坂も急坂に含めるべきとする。団子坂も急坂で、転びやすい坂で、これと同じなのが炭団坂である。同名の坂が江戸に二、三ヵ所あり、みんな裏道の、じめじめした、雨上がりにはいつもぬかっているような坂であるという。

また、横関は、この坂の別名を初音(はつね)坂とする。鶯(うぐいす)の初音坂ではなく、ほととぎすの初音坂である。『江戸名所和歌集』の次の歌を紹介している。

  ほととぎすをちかへりなく声をしもけふきく坂やのぼりくだりに

  丸山をさして鳴行ほととぎすしばしば声をきくや菊坂
炭団坂上 炭団坂上 炭団坂上 坪内逍遙旧居跡 この坂は意外なことであるが、坂上からの眺望がよい。坂下側に高い建物がないためである。一~三枚目の写真は、坂上から坂下の北側方面を撮ったものである。階段を上り、ふり返ると、写真のような風景を眺めることができ、その意外性がなかなかよい。方向的には梨木坂方面であろう。

一、二枚目の写真のように、坂上を右折し反転するようにして道なりに進むと、先ほどの崖上を通って、鐙坂の坂上に至ることができる。写真にも写っているが、反転して間もないところに、四枚目の坪内逍遙旧居・常磐会跡の標識が立っている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「新潮日本文学アルバム 宮沢賢治」(新潮社)

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本妙寺坂

2012年11月15日 | 坂道

本妙寺坂下 本妙寺坂下 本妙寺坂下 周辺地図 前回の梨木坂下を左折し、菊坂を南東へしばらく歩き、左右の道が食い違っている四差路を右折すると、本妙寺坂の坂下である。

一~三枚目の写真は坂下から撮ったもので、左へと緩やかに曲がりながら上っている。四枚目は街角地図(上がほぼ南)で、この坂も示されている。二枚目にちょっと写っている右折の道は、菊坂下通りで、ここから菊坂とほぼ平行に北西へ延びている。

本郷五丁目34番と36番との間を南へ上り、中腹あたりでちょっと勾配があるが、坂上側で緩やかになる。坂上の先は春日通りで、東富坂(真砂坂)の坂上からちょっと進んだあたりである。

この坂は、坂下の谷筋(菊坂の通り)に直行するように南へと上り、坂上は本郷台地である。坂下が菊坂とされる道筋のかなり坂上側であるので、高低差はさほどなく、このため胸突坂ほどの勾配もない。

本妙寺坂下 本妙寺中腹 本妙寺坂中腹 本妙寺坂中腹 一枚目の写真は坂下からちょっと上って撮ったもので、二、四枚目はさらに進んでから、振り返って坂下を撮ったもので、菊坂の通りの向こうにこの坂と相対している坂が見えるが、そちら側にかつて本妙寺があった。三枚目はそのあたりから坂上側を撮ったものである。このあたりがもっとも勾配がある。

下の写真のように、坂上の左(東)側に坂の標識が立っていて、次の説明がある。

「本妙寺坂(ほんみょうじざか)
 この坂は、本郷の台地から菊坂へ下っている坂である。菊坂をはさんで真向かいの台地には(現在の本郷5-16あたり)かつて本妙寺という法華宗の寺があった。境内が広い大きな寺で、この寺に向かって下るであったところから「本妙寺坂」と呼ばれた。
 本妙寺は明暦の大火(振袖火事・明暦3年-1657)の火元として有名である。明治43年豊島区巣鴨5丁目に移転した。
   文京区教育委員会 平成6年3月」

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 本妙寺坂中腹 本妙寺坂中腹 一枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)に本妙寺があり、その門前からの道が現在菊坂とよばれる道と交わり、そこから左(南)へ延びる道がこの坂である。二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))にも本妙寺前から左に延びる道がある。

上記の江戸絵図には坂名はないが、近江屋板(嘉永三年(1850))にはこの道に「△本ミウジサカ」とある。

三枚目の写真は、中腹から坂上を撮ったもので、四枚目は坂下を撮ったものである。

『御府内備考』の本郷之一の総説にある説明は次のとおり。

「本妙寺坂 本妙寺坂は丸山のうち、本妙寺のむかひの坂なればなり、これをくだればすなはち本妙寺の表門なり、【改選江戸誌】」

この坂名は、本妙寺の門前へと下る坂であることにちなむことがわかる。

本妙寺坂上 本妙寺坂上 本妙寺坂上 本妙寺坂の反対側から 一枚目の写真は坂上近くから坂上を撮ったもので、二枚目はそのあたりから坂下を撮ったもので、右端に坂標識が立っている。三枚目は坂上の先を撮ったものだが、ちょっと左に曲がってからまっすぐに春日通りへと延びている。

四枚目は坂下までもどって向かい側の坂にちょっと上ってからふり返って撮ったもので、食い違いの道の向こうに本妙寺坂が見える。

この坂は『御府内備考』の菊坂町の書上に次のようにある。

「一本妙寺坂 長貳拾[二十]間余、幅三間程、
 但本妙寺と向合候坂にて、小笠原壹岐守様御一手持に御座候、」

これにも本妙寺と向かい合う坂とあり、小笠原家の持ち(坂の普請、修復の分担)である。小笠原邸は、上記の尾張屋板にはないが、御江戸大絵図(天保十四年(1843))の本妙寺坂の西側に見える。

本妙寺坂の反対側から 本妙寺跡標識 第四校跡標識 本郷菊富士ホテル跡 一枚目の写真は、向かい側の坂をさらに北へ上ってからふり返って坂下側を撮ったもので、このあたりに、そのむかし本妙寺があった。二、三枚目は一枚目に写っている本妙寺跡、第四校跡の標識である。本妙寺には、遠山左衛門尉景元(遠山の金さん)や幕末の剣豪千葉周作の墓があったが、明治44年(1911)巣鴨に移転した。現代地図を見ると、染井霊園のすぐ西にある。

坂をさらにちょっと上り、左折し、突き当たりを左折し進むと、行き止まりになるが、その手前に本郷菊富士ホテル跡の石碑が建っている。本郷菊富士ホテルは、羽根田幸之助が大正三年(1914)に開業した洋風ホテルで、いろんな文士がよく利用したことで知られている。「菊富士」は、菊坂、幸之助の妻の名「きくえ」、台地から富士が見えたこと、にちなむという。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
近藤富枝「本郷菊富士ホテル」(中公文庫)

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梨木坂

2012年11月12日 | 坂道

梨木坂下 周辺地図 梨木坂下 梨木坂下 現在の菊坂下を前回の胸突坂下へ左折する所から南東へ進むと、やがて、一枚目の写真のように左手に細い坂道が見えてくるが、ここが梨木坂の坂下である。二枚目の街角地図(上がほぼ南)からもわかるように、菊坂下から来て左折すると、かなり鋭角に曲がる。

この坂は、本郷五丁目7番と6番との間を北へ上る。二枚目の地図のように、坂上の先は胸突坂の坂上に突き当たる。

三、四枚目の写真は坂下から坂上側を撮ったものであるが、ちょっとうねりながら緩やかに上っている。道はかなり狭い。

この坂は、前回の胸突坂のように谷から本郷台地の西端へまっすぐに上るのではなく、崖をやや横切るように上るためか、胸突坂ほど急ではない。それでも中腹の上あたりでちょっと勾配がある。

梨木坂下 梨木坂下 梨木坂中腹 梨木坂中腹 一枚目の写真は坂下からちょっと進んでから、振り返って坂下を撮ったもので、坂下の菊坂の通りが見える。二、三枚目は坂上側を撮ったものである。四枚目は中腹から坂下を撮ったものである。

下の写真のように、坂上側に坂の標識が立っていて、次の説明がある。

「梨木[なしのき]坂(梨坂)
              本郷五丁目6と7の間
「梨木坂は菊坂より丸山通りなり。むかし大木の梨ありし故坂の名とす。」と『御府内備考』にある。また、『南向茶話』には「戸田茂睡(江戸前期の歌学者、『紫の一本』の著者 1629~1706)という人が、この坂のあたりに住んでおり、梨本[なしのもと]と称した」とある。
 いっぽう、江戸時代のおわり頃、この周辺は、菊の栽培が盛んで、菊畑がひろがっていたが、この坂のあたりから菊畑がなくなるので、「菊なし坂」といったという説もある。
 戦前まで、この近くに古いたたずまいの学生下宿が数多くあった。
                    文京区教育委員会 平成18年3月」

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 梨木坂中腹 梨木坂中腹 一枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)を見ると、菊坂町の町屋が三角形状になっているが、この底辺にあたる道筋がこの坂である。二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))にも三角形状の区画(町屋ではないが)と、その底辺の道筋が見える。

近江屋板(嘉永三年(1850))にはこの道に「キクサカ」とある。

三、四枚目の写真は、中腹から坂上を撮ったもので、このあたりでちょっと勾配がある。

標識が引用している『御府内備考』にある梨木坂の説明は、本郷之一の総説にあり、かなり長い。以下、その全文である。

「梨木坂
梨木坂は菊坂より丸山通りなり、むかし大木の梨ありしゆへ坂の名とす、【南向茶話】云、戸田茂睡といへる隠者此処に卜居して、梨の木の茂睡といひて世に名高き人なりと、今按に茂睡の父を渡邊監物忠といふ、山城守重綱(或は茂綱に作る)に養はる、(重綱は大番の頭たり)実は戸田與五左衛門忠勝が二男なり、慶長五年上杉景勝御征伐の時、父がかはりとして組の大番衆五十人をひきい、十六歳にして供奉しその後父とともに伏見の御城を守る、後又駿河大納言忠長卿の家老となり、別に五千石を領し、かの卿の御事ありし時妻子とともに大関土佐守高増にあづけられ、かの領地下野国那須郡上の庄東山の西黒羽といふ所に閉居し、後赦をかふむりて子孫いまかの家につかふ、茂睡は忠が六男なり、父が実の名字戸田に改む、俗称八兵衛といひ、後茂右衛門とあらたむ、諱は恭光、年老て茂睡と称し、露寒軒と号す、寛永六年五月十九日、駿河国府中の城三の丸にして生る、いとけなきときより父とともに黒羽におれり、後江戸にいたり、和歌をよくするを以て時に名あり、詠ずる所の歌多く人々に膾炙す、宝永三年四月十四日卒す、七十八歳、或云、子孫御家人となり火消与力を勤む、これも家たへたりと、茂睡が庵の前に大なる山梨の木一もとありしにより梨木の本と云、是いまの梨木坂なり著す処の書梨本集、紫一本、隠家百首、鳥の跡、庄九郎物語などいふものありて、世の人もてあそべり、【改選江戸誌】」

梨木坂中腹 梨木坂上 梨木坂上 梨木坂上 一枚目の写真は中腹の上側から坂下を撮ったもので、ちょっとうねっているのがよくわかる。二、三枚目は坂上側で撮ったもので、ここに上記の坂標識が立っている。四枚目は坂標識から進んで坂上を撮ったものである。

上記の『御府内備考』(総説)の説明は、坂よりも戸田茂睡についての説明がかなり長くなっているが、これから、茂睡がこの坂に居住し、その家の前に大きな山梨の木があり、梨の木の茂睡として有名だったことがわかる。『紫一本』の著者である茂睡は、この坂を同著で次のように記している。

「梨木坂  本明[妙]寺の前の谷につきて、小石川へおり下る右の方の坂を云ふ。この坂より菊坂へも出る。このあたりは皆同心屋敷なり。」

この記述によれば、小石川へ下りる右の方の坂が梨木坂であるが、これについて横関は、本妙寺前の谷側へ菊坂(=胸突坂)と並んで下る右の坂といえばこの梨木坂である、というように解している。

ところが、石川は、この坂を、途中は鐙坂に接続し本郷四丁目11番と12番の間を北へ、菊坂の途中まで下る急坂で西側は真砂町台地の石崖である、とまったく別の所と考えている(菊坂は現在の道筋)。ここは、現代地図、上記の街角地図を見ると、現在の菊坂の西側で、鐙坂上側を左折し炭団坂に向かう途中の崖から下る所と思われるが、上記の『紫一本』の記述をもとにした解釈であろうか。異説である。この坂(階段)は現在ない。岡崎はここではなく上記の坂標識のある道筋としている。

『御府内備考』の菊坂町の書上には次のようにある。

「一なし坂 長貳拾[二十]間余 幅九尺程
 但此辺往古菊畑有之候処、此坂辺迄にて菊畑無之候故菊なし坂と申候を、いつの頃よりかなし坂と唱候由に御座候」

この記述によれば、菊畑はこの辺までしかなかったので、菊なし坂とされ、それから、なし坂と呼ばれるようになった。

梨木坂上 梨木坂上 梨木坂上 一枚目の写真は、坂上を撮ったもので、二枚目は坂上をさらに進んで撮ったもので、この突き当たりが胸突坂の坂上である。三枚目はこの突き当たりから振り返って坂上側を撮ったものである。

上記の『御府内備考』にある改選江戸誌の「梨木坂は菊坂より丸山通りなり」とは、この坂は菊坂から丸山通りであるといった程度の意味であろうか。ここで丸山通りとはどの道を指すのか。『御府内備考』の上記の総説に次の記述がある。

「丸山 菊坂町、台町、田町、新町及び小石川片町の辺みな丸山と呼べり、昔林など在てその形の円う成しより、まる山の名は起りしなるべし、」

上記の尾張屋板を見ると、この坂の東にある本妙寺に「此ヘン元々丸山」とあり、その近くに菊坂町、台町があり、現在の石坂の近くに小石川片町があり、本妙寺の現在の菊坂側に田町がある(近江屋板)。これらの本妙寺、菊坂町、台町、小石川片町などを含めた、谷から台地にかけた一帯を、森がこんもりと円くなっていたので丸山と呼んだ。これからただちに丸山通りの道筋を特定できないが、現在の菊坂の道筋を含めた通りのように思える。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)
北村一夫「江戸東京地名辞典」(講談社学術文庫)

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善福寺池・善福寺川2012(11月)

2012年11月11日 | 写真

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胸突坂(本郷五丁目)

2012年11月05日 | 坂道

周辺地図 胸突坂下 胸突坂下 胸突坂下 前回の菊坂下から上ってすぐのピザ屋の手前を左折すると、胸突坂の坂下である(一枚目の街角地図(上がほぼ南)参照)。

二枚目の写真は、左折してちょっと進んだところから坂上側を、三枚目はさらに進み振り返って坂下側を撮ったものである。四枚目はさらに進んで坂上側を撮ったものであるが、このさきでやや右に曲がっている。ここで曲がってから本格的な上りとなる。

(これらの写真は、今回の坂巡りの後、ふたたび訪れたとき撮ったもので、以下もそのときの写真が含まれている。)

この坂は、本郷五丁目33番と9番との間を東へ上る。一枚目の地図からわかるように、坂上の先は本郷通りまで続いている。

胸突坂中腹 胸突坂中腹 胸突坂中腹 胸突坂中腹 一枚目の写真のように右にちょっと曲がってから、三枚目の写真のように、ちょっときつめの勾配でほぼまっすぐに上っている。二、四枚目は、坂中腹から坂下側を撮ったものである。

この坂には、いつもの文京区教育委員会による標識が立っていないが、同名の他の坂と同じく、上るとき胸が地面に突くほど急であるということに由来すると思われる。

近くの新坂と同じように、本郷台地の西端から谷へとまっすぐに下っているため、急になっているが、そのむかしは、名前のとおりもっと急な傾斜であったのであろう。

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 胸突坂上 胸突坂上 一枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)に「ム子[ネ]ツキサカ」とある。近江屋板(嘉永三年(1850))にも同じ道筋に「△ム子[ネ]ツキサカ」と記されている。

二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))には坂名はないが、この坂の道筋がちゃんとある。

三枚目の写真は、かなり上ってから坂上を撮ったもので、四枚目はそのあたりから坂下側を撮ったものである。

菊坂の記事でも触れたが、江戸時代中期ごろ、この坂を菊坂とよんでいたらしく、このため横関はこの坂が本当の菊坂で、胸突坂は別名であるとしている。いずれにしてもこの坂は、江戸初期または中期ごろから続く坂である。

胸突坂上 胸突坂上 胸突坂上 胸突坂上 一、二枚目の写真は坂上を撮ったもので、三枚目はそのあたりから坂下側を撮ったもので、このあたりではかなり平坦になっている。四枚目はさらに進んで坂上を撮ったもので、中程に見えるT字路を右折して進むと梨木坂の坂上に至る。

都内の同名の坂は次のとおり。

・西片の胸突坂
・関口の水神社わきを上る胸突坂
・駿河台の山の上ホテルヘと上る胸突坂
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)

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