東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

道源寺坂・偏奇館跡(2014)

2014年01月30日 | 荷風

年が明けてから六本木一丁目の道源寺坂・偏奇館跡から小石川旧金富町の荷風生家跡まで歩いた。これまで荷風生家跡から偏奇館跡まで二回歩いたが、今回はこれまでと逆方向に歩き、余丁町の断腸亭跡を経由せず、別のゆかりの地を巡った。

道源寺坂下 道源寺坂下 道源寺坂下 道源寺坂下 午後南北線六本木一丁目駅下車。

3番出口から出て右折すると道源寺坂の坂下である(現代地図)。

ここは何回も来ているのですっかりおなじみの所であるが、三四年前からはじまった坂の崖側(西)のビル工事が終わったようで、坂下から見て右側(西)が少々変わっている。工事中の無粋な白いパネルよりはましであるが、右側はなんの変哲もない坂道。

一~四枚目の写真は坂下を撮ったもので、工事完了後の坂の様子がわかる。坂の両側が右側のようになってしまうと、どこにでもある特徴のない坂道になってしまうが、左側に西光寺、道源寺があるため、かろうじてむかしの名残をとどめている。

この坂は、西側のビル工事が終わったので、しばらくこのままの状態が続くと思われる。

この坂は、何回か本ブログで記事にしているが、最近の記事は一年前である。

道源寺坂上側 道源寺坂上 偏奇館跡 偏奇館跡に佇む荷風 道源寺門前の上側から坂下の谷の上を通る首都高速道路がよく見える。一枚目の写真のように、ちょっと古びた山門と超近代的高層ビルとの対比がおもしろい。

坂上まで上ってから振り返って撮ったのが二枚目である。坂・本堂の前に高層ビルがそびえ立っているが、坂も寺も決して負けていない。そのように見えてしまう。

坂上から進み、右折し、歩道をちょっと歩くと、荷風の住んだ偏奇館跡である。三枚目は振り返ってから偏奇館跡の記念碑(写真)を入れて撮ったものである。植え込みなどのため、この裏側は崖下であることがわからなくなっているが、かなりの絶壁であった。

戦後、荷風が昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で焼失した偏奇館の焼け跡を訪ねたときの写真が角川写真文庫「永井荷風」(角川書店 昭和31年2月15日発行)に三枚載っているが、四枚目は、そのうちの一枚である。これからわかるように、偏奇館は崖上にあり、崖下に人家が見え、かなりの高低差があった(松本哉による俯瞰図)。遠くにも建物が見えるが、今井谷の方角であろう。現在とはまったく違った風景が広がっている。

御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 今井谷六本木赤坂図(文久元年(1861)) 一枚目は御江戸大絵図(天保十四年(1843))のこの付近の部分図である。中央やや下側にドウケンジ(道源寺)があり、その近く(左)に大井やヲキという屋敷があるが、このあたりに後に偏奇館が建てられた。そのわきの道が御組坂である。右側に赤坂の南部坂が見えるので、上が西である。その西側に寺がたくさん並んでいるが、この前の道が長垂坂である。

二枚目は、尾張屋板江戸切絵図 今井谷六本木赤坂図(文久元年(1861))の部分図で、道源寺(通源寺と誤っている)と西光寺が見えるので、その前が道源寺坂である。南部坂、長垂(なだれ)坂がある。この地図では、小貝という屋敷のあたりが後の偏奇館である。

ところで、荷風が写っている偏奇館跡の写真であるが、いつ撮ったものかと、「断腸亭日乗」を調べたら、昭和24年10月11日に次の記述がある。

「十月十一日。晴。雲翳なし。午後ふと思立ちて新橋に至り地下鉄にて虎ノ門に出で霊南阪を上り旧宅のあたりを歩む。霊南坂上米国大使官[ママ]裏門前に米国憲兵派出処、向合に日本巡査の小屋あり。市兵衛町大通両側の屋敷の重なるものは米国将校の住宅となれり。我旧宅へと曲る角の屋敷(元田中氏)の門にはコロネル何某五百何番地とかゝれたり。旧宅の跡には日本家屋普請中にて大工二三人の姿も見えたり。門前の田嶋氏は仮普普[ママ]請平家建の家に住めり。折好く細君格子戸外に立ち居たれば挨拶して崖上の小道を辿り道源寺坂の方に徃く。長唄師匠山田舜平の焼けざる家の門には依然としてむかしの門札出でたり。坂を下るに角の西光寺は既に建て直りて在り。崖下箪笥町の横町には人家なく焼跡は皆菜園となり葱の葉青く崖は深く雑草に蔽はれたれば戦災直後来り見し時よりも却て凄惨の気味を減じたり。霊南坂上より此の辺一帯通行人殆無くその閑寂なること大正九年余の初て築地より移居せし時の如し。東久邇の宮邸内の家屋は焼失したれど門前路傍の老桜は枯れずに残りたり。箪笥町横町より電車通に出るに両側にはバラックの商店連りて溜池通に至る光景旧観を思起さしむ。突然一商店の中より余を呼ぶものあり。見れば以前常に物買ひたる薬屋の主人なり。赤坂電話局のとなりの盆栽屋西花園は花屋となり菊の切花多く並べたり。溜池四角にて新橋行電車に乗る。米国歩兵の一隊軍旗を先にして進み来るに逢ひ電車運転を中止すること二三十分の長きに及ぶ。歩みて新橋に至れば日は没して暮靄蒼然たり。銀座通には燈火既にきらめき行人雑踏す。偶然旧知己萬本氏に会ふ。ひとり不二屋に一茶して出れば既に七時なり。有楽町より省線電車にて家にかへる。」

荷風は、この日、ふと思い立って、地下鉄で新橋から虎の門まで来て、霊南坂を上って偏奇館跡まで歩いた。二十数年も住んだ旧宅の付近を歩き、眼にとまったものやその時の出来事をかなり詳しく書き連ねている。感慨深いものがあったに違いない。このとき、荷風、71歳。市川に住んでいた。上記の写真がこの日のものか、日乗からははっきりわからないが、そうと考えて、これを見ながらこの日の日乗を読むと、その感じがよく伝わってくる。

偏奇館跡付近 偏奇館跡付近 偏奇館跡付近 偏奇館跡付近 偏奇館跡の記念碑から南へちょっと歩くと、左に御組坂の坂下が見えるが、そのあたりに右折する車道があり、そこをもどるようにして下ると、かつての崖にちょっとした街ができている。

一枚目の写真は、はじめに下った所から斜めに崖下側(西)を撮ったもので、エスカレータで地下鉄の駅まで行くことができる。このあたりはたぶん偏奇館跡付近の裏側の崖と思われる。

二枚目は、その一段下のところから右側(北)を撮ったもので、かつて(昭和)の風景を想起させる建物が見える。

三枚目は、さらに一段下から右側(北)を撮ったもので、この突き当たりの方へ歩くと、エスカレータがあるが、そのあたりから上に続く階段がある。ここを上ると、地上に出るが、ふり返って撮ったのが四枚目である。上ってきた階段が見える。

偏奇館跡付近 偏奇館跡付近 偏奇館跡付近 偏奇館跡付近 階段から外に出ると、そこには昭和にタイムスリップしたような風景が眼の前に広がっている。一枚目の写真のように、階段下の風景とはまったく違っている。まさに奇跡の一角である。

そこから北側を撮ったのが二枚目で、一枚目と同様に新旧対比の構図とならざるをえないが、それでもどこかなつかしさを感じる光景となっている。新年からよいものを見た感じである。

突き当たりが先ほどの道源寺坂の坂上であるが、そちらの方へ進んでから、ふり返って撮ったのが、三枚目で、先ほどの奇跡の風景がみえる。この道は、かつて小径であったが、ここを上記のように荷風が歩いている。

四枚目は、そのあたりから見上げて撮ったものだが、高層ビルの間から青空が見える。ここから荷風の生家跡を目指して出発。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)

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