東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

神田川(和田廣橋~月見橋)2013

2013年12月31日 | 散策

年末に神田川に沿って善福寺川との合流地点から上流へ月見橋まで歩いた。途中、寄り道をした。

鍋屋横丁 十貫坂 和田さくらの坂公園 善福寺川との合流地点 午後丸の内線新中野駅下車。

青梅街道から鍋屋横丁を南へ歩き、中野通りを横断し、十貫坂に向かう。坂を下り、直進すると、右手に和田さくらの坂公園とそのわきの上り坂が見える。

さらに進んで左折し、南へ歩いていくと、交差点があり、そこを横断すると、神田川沿いの道で、ここを右折し、上流に向かう(現代地図)。

まもなく善福寺川との合流点である。昨年の年末に、青梅街道の淀橋から神田川に沿ってここまで歩き、それから善福寺川に沿って上流へと歩いた(以前の記事)。

和田廣橋上流 方南通りから上流 環七通りの上流から 環七通り近くの緑地公園 合流地点のすぐ上流の善福寺川にかかる和田廣橋から神田川の上流を目指す(現代地図)。

しかし、ここから神田川沿いの道はなく、橋から延びる道をちょっと南に歩き突き当たりを左折すると、川沿いの塀が見えてくる。ここをまっすぐに歩くが、その途中で撮ったのが一枚目の写真である。

まもなく方南通りに至るが、そこを横断する前に撮ったのが二枚目で、川は通りを越えてさらにまっすぐに南へと延びている。

やがて環七通りに至る。三枚目は通りのすぐ下流側の上水橋から撮ったもので、このあたりで川は西へと延びている。通りを横断すると、川沿いの道に車止めがあり、ここから上流は遊歩道となる。

ちょっと歩くと、四枚目のように右に公園風の広場(泉南緑地)があり、このあたりでこれまでの道とはっきりと違うことを実感できる。川沿いの道は、この方が断然よい。

弁天橋から上流 宮前橋から西へ上る坂 井の頭通りから上流 永福橋の下流 やがて弁天橋の近くになるが、一枚目の写真は橋から上流側を撮ったものである(現代地図)。

このコースは、たしか5~6年ほど前に同じ方向に歩いた覚えがあるが、このあたり(環七の前後?)は工事中であったような気がする。このためはじめて歩く部分もある。

しばらく歩いて、和泉小のところで宮前橋の西側を見ると、二枚目のように、熊野神社のわきを西へ上る坂が見える。このあたりになると、川に向かう道は下り坂になっているところが多い。

ここからちょっと歩くと、井の頭通りの手前が工事中で、そのわきを通り抜け、横断歩道手前から撮ったのが三枚目で、その向こうに井の頭線が通っている。

この先をしばらく歩くと、永福橋であるが(現代地図)、四枚目はその手前の橋から撮ったもので、左右の道が永福通りで、右折していくと、井の頭線を越え、井の頭通りで、わきに永福駅がある。左折すると、甲州街道。

永福橋から南へ上る坂 玉川上水公園 築地本願寺和田堀廟所 吉本家の墓 永福橋で左折し、甲州街道方面に向かうが、橋から進行方向南側を撮ったのが一枚目の写真で、上り坂となっている。

坂を上りしばらく歩くと下高井戸橋に至るが、その下がかつての玉川上水で、いまは、玉川上水公園となっている。

橋を渡ると、眼の前が甲州街道で、ここを左折し、ちょっと歩くと、公園に入ることができるので、ここを東へ歩く。途中で撮ったのが二枚目の写真である。

歩道に出てしばらく歩く。ここは上に高速道路が通っているので、ちょっと騒がしい。しばらくすると、築地本願寺和田堀廟所である(三枚目の写真)。

来春から2012(平成24年)3月16日に亡くなった吉本隆明の全集が晶文社から刊行されるが、その広告パンフレット(HP版)に石関善治郎作成の略年譜(秀逸である)が載っている。これの最後に、同年9月15日に和田堀廟所の吉本家の墓に納骨とある。法名・釋光隆。同年10月9日に亡くなった夫人・和子の法名は釋清和。

吉本は、晩年、墓について糸井重里との対談で次のようなことを語っている。

『ぼくんちのお墓は、浄土真宗で、明大前にあるんですよ。
とても小さいお墓です。
親父が無理して、きっと郷里から持ってきたんですね。

親戚の人とかが、ときどきおまいりに来たりしますけど、そういうときは明大前で電車を下りてそこの墓地のいちばん小さいお墓を探すと出てきます、と案内します。
だけどぼくらも、もう何年も行ってるのに、お墓に着くまでに迷ってしまいます。 』

『そうそう。 それで、のちに食料品の佃煮屋さんに商売替えしたんですけど、その兄貴には、息子がいました。
いまは大きくなってるけど、その子が小さいときに親父が亡くなったんですよ。

そのときみんなでいっしょにぞろぞろ、お墓に行ったわけです。
そして、その息子がお墓を見て、「ちいせぇ墓だなぁ」と言ったんです。
「もっと大きいの、建てればいいじゃねぇか」とか、言ったんですよ。

そしたら、兄貴の商売関係の、商店街の会長さんみたいな人がそこにいて、こう言ったんです。
「ぼうず、お墓っていうのは小さいほどいいんだぞ」』

これから小さい墓であることがわかる。また、同廟所の案内板には佃墓地のエリアが表示されている。これらを手がかりにして以前に来たとき探し当てたが、今回、近道をしようとしたら、ちょっと迷ってしまった。四枚目のように墓には花が供えられていた。お墓参りをしてからコーヒー缶で一休み。

上記の「小さいほどいいんだぞ」の話は、吉本隆明作超短篇小説「ヘンミ・スーパーの挿話」にも登場する。

永福橋から上流 鎌倉橋の手前 高井戸橋の手前 佃橋から上流 和田堀廟所から永福橋までもどり、左折して川沿い散歩を再開する。

一枚目の写真は橋の上流ちょっとのところで上流側を撮ったものである。寄り道をしたためかなり暮れかかってきて、ちょっと心細くなる。寄らなくてもよかったのだが、つい引き込まれるように訪れてしまった。これは吉本思想に引き込まれるようにしてのめり込んだのと似ているような気がしてきて、歩きながら一人苦笑いをしてしまう。

二枚目のように、やがて鎌倉橋に至る。ここを右折して行けば浜田山駅方面であるが、目的地を目指す。

やがて高井戸駅に近づいてくるが、三枚目は、駅近くの環八通りの手前にある高井戸橋から上流側を撮ったものである。ちょっとずれた位置の横断歩道で渡り、環八にかかる佃橋にもどり、そこから撮ったのが四枚目である(現代地図)。

月見橋の手前 月見橋から上流 ほとんど暮れてしまったが、川沿いの道をひたすら歩くと、遠くに交通量がちょっと多い橋が見えてくる。ここが月見橋である。かなり疲れたが、ようやく目的地についた。

一枚目の写真は、橋の手前から撮ったもので、二枚目は、橋から上流側を撮ったものである。

ここから井の頭線富士見ヶ丘駅へ。

月見橋から神田川の水源の井の頭池までは以前の記事参照。

参考文献
「文藝別冊 さようなら吉本隆明」(河出書房新社)

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石神井公園2013(12月)

2013年12月27日 | 写真

石神井池~三宝寺池 2013.12.22
石神井池 石神井池 三宝寺池 三宝寺池 三宝寺池 三宝寺池 三宝寺池 三宝寺池

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皀角坂~富士見坂

2013年12月26日 | 坂道

皀角坂上 皀角坂上 皀角坂上からお茶の水坂 飯田町駿河台小川町絵図(文久三年(1863)) 前回の淡路坂上(聖橋南詰)から西へ進み、丸善のわきを通り、JRお茶ノ水口前(現代地図)を横断し、さらに西へと歩く。

ちょっと歩いてから進行方向を撮ったのが一枚目の写真である。このあたりは、賑やかな駅周辺とはうって変わり、休日のせいもあってか、とても静かである。ここをさらに西へ進むと、皀角(さいかち)坂上である。

二枚目はさらに西へ歩き左に少々曲がってから撮ったもので、ちょっとだけ下り勾配になっている。そのあたりに、直下に中央線や神田川が見え、その向こうに対岸がよく見える一角がある。そこから撮ったのが三枚目で、左から右へとお茶の水坂が緩やかに上っているのが見え、中央に建部坂の坂下が見える。

四枚目は、尾張屋板江戸切絵図の飯田町駿河台小川町絵図(文久三年(1863))の部分図である。神田川に沿ってスズキ丁とある道筋が先ほどの一枚目の付近の道で、その先(西)にサイカチサカ(皀角坂)が見える。

皀角坂上 皀角坂上 皀角坂上から女坂、男坂方面への道 分間江戸大絵図(文政十一年(1828)) 先ほどの緩やかな下り道をさらに西へと歩くと、皀角坂が坂下までよく見えるところに至る(現代地図)。

そこから坂下を撮ったのが一枚目の写真である。白いセンターラインがうねっているのがわかる。このうねりはむかしの坂道の名残であろうか。徒に改修されてまっすぐになっていないのがよい。

一枚目の撮影位置で、坂上側をローアングルで撮ったのが二枚目で、この坂名を刻んだ小さな石標が埋め込まれている。ここは坂下から上ってくると、二股になっているが、左折し、もう一方の道に入り、もどるようにして東へ進む。そのあたりから進行方向を撮ったのが三枚目の写真である。

四枚目は、分間江戸大絵図(文政十一年(1828))の部分図で、サイカチサカ(皀角坂)が見える。坂上がいまと同じように二股になっている。

女坂(駿河台)上 男坂(駿河台)上 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 官版東京大絵図(明治四年(1871)) 東へちょっと歩くと、一枚目の写真のように、女坂の坂上で、ここから階段が下っている。

さらに歩くと、こんどは、男坂の坂上である。

両坂とも、駿河台の崖にできた坂で、台地の縁から谷底へ急激に下っている。

三枚目は、御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図で、サイカチサカとあり、坂上が二股に分かれており、その先に、駿河台袋町がある。

四枚目は、官版東京大絵図(明治四年(1871))の部分図で、△サイカチサカとあり、同じように二股で、その先が大袋町になっている。

錦華坂への道 錦華坂の坂上 山上ホテルから北側 山上ホテル方面 さらに進むと、右折する道が見えてくる。一枚目の写真は右折方向を撮ったものである。二枚目は、突き当たりを左折すると、下り坂となるが、この坂下側を撮ったもので、ここを下っていくと、錦華坂である。

この道は上記の地図のいずれにもない。錦華坂に関連して勧学坂と云う坂がでてくるが、この道ではなく、尾張屋板にある同じように右折する道を云うように思われる。この切絵図に松下大学の屋敷が見える。他の二つの江戸地図にも見える。

坂を下ると、中腹に左折して山上ホテルへと東へ上る坂があるが、ここを上って、左折し、その北側を撮ったのが三枚目である(現代地図)。

この道を北へ進むと先ほどの皀角坂からの道に突き当たるが、そのあたりからふり返って南側(山上ホテル側)を撮ったのが四枚目である。この道が勧学坂といわれた道に相当すると思われるが、いまはほとんど平坦である。

胸突坂上(駿河台) 山上ホテル前からの下り坂(西側) 錦華坂上 富士見坂(駿河台) 引き返し、ホテルの前を通って突き当たりを左折すると、一枚目の写真のように、胸突坂の坂上である。この坂は、その名にふさわしくかなりの勾配があるが、尾張屋板では甲賀坂となっているのがちょっと不思議である。甲賀坂は、胸突坂下の先、東側の緩やかな坂とされている。

引き返し、左折し、先ほどの坂を下り(二枚目の写真)、左折して坂を下ると、三枚目のように、錦華坂の標柱が立っている。

坂を下り道なりに進むと、やがて突き当たるが、その手前から撮ったのが四枚目で、この左右の道が富士見坂である。

神保町 富士見坂下が靖国通りで、ここを横断して神保町へ行く。

古本祭りであったので、あちこち覗いてから神保町駅へ。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)

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淡路坂~聖橋

2013年12月10日 | 坂道

淡路坂下 昌平橋から上流 飯田町駿河台小川町絵図(文久三年(1863)) 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 前回の新坂下からもどり、昌平橋方面に進むと、左手遠くに幽霊坂が見えるが、そのままさらに進むと、中央線のガード下である(現代地図)。

ガード下の手前が淡路坂下で、ここから左手(西側)へ坂が延びている(以前の記事)。

一枚目の写真は、淡路坂下から坂上側を撮ったもので、緩やかな坂下の向こうに勾配のつきはじめるところが見える。そこから高度をぐんぐん上げ、坂下は中央線のガード下であるが、坂上は、お茶の水駅のホームのはるか上となる。

ガード下は古風な煉瓦造りで、中がビアホールのような店になっている。神田川を眺めながら一杯やれるのだろうか。つい入ってみたくなるが、これからの予定を考えてあきらめ、昌平橋へと進む。

そこから上流側を撮ったのが二枚目の写真で、左に先ほどの店の窓が見え、小さな船が上流に向かい、遠くに聖橋が見える。上に架かっているのは総武線の鉄橋である。

三、四枚目は、尾張屋板江戸切絵図の飯田町駿河台小川町絵図(文久三年(1863))、小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図である。三枚目は神田川の内側(南)の図で、神田川に沿ってアワジサカ(淡路坂)が見え、坂上の川際に太田姫神社がある。淡路坂の上(南)にユウレイサカ(幽霊坂)、フミサカ(ゴミサカ)が平行に延びている。

四枚目は神田川の外側(北)で、昌平橋は三枚目に描かれているためかないが、川沿いに聖堂が見え、その上(北)に神田明神があり、さらにその北にツマコイサカ(妻恋坂)、立爪サカ(立爪坂)がある。

以上の位置関係は現在とほとんど同じである。

相生坂下 相生坂下 湯島聖堂 分間江戸大絵図(文政十一年(1828)) 昌平橋を渡り、次の交差点を左折すると、相生坂(昌平坂)の坂下である。そのあたりから坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、かなり緩やかである。

二枚目は、坂上側にちょっと歩いてから坂上側を撮ったもので、このあたりもまだ緩やかである。

この先の湯島聖堂の中に入って聖橋に向かうが、その途中の階段から聖堂方面を撮ったのが三枚目である。相生坂から聖橋に行こうとすると、このルートがもっとも近い。

四枚目は、分間江戸大絵図(文政十一年(1828))のこの近辺の部分図で、昌平橋の北詰から上(西)へ延びる道が相生坂で、その途中に聖堂が見える。神田川の反対側(南)には、淡路坂幽霊坂が見える。

上の二枚の尾張屋板江戸切絵図にも、神田川に沿ってこの相生坂が見えるが、坂名は記されていない。

聖橋から東側 淡路坂上 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 官版東京大絵図(明治四年(1871)) 聖橋から東側を眺めていると、ちょうど丸の内線の電車がトンネルから出てきたので、シャッタをきろうとしたら、突然爆音が轟き、橋下を見ると、モータボートが連続して猛スピードで走り去っていく。何回かシャッタをきったが、そのうちの1枚が一枚目の写真である。

聖橋は、駿河台の山にかかる橋で、はるか下を神田川が流れ、とくに東側の眺望がよいためか、同じようにカメラで風景を撮っている人をよく見かける。よい撮影ポイントである。

橋を渡り、左手を見ると、そこがちょうど淡路坂の坂上である(現代地図)。二枚目の写真はその聖橋の南詰から坂上を撮ったものである。

三枚目は、御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図で、昌平橋の北詰から川に沿ってまっすぐに延びる道筋が相生坂で、途中聖堂があり、その上に、ヲチャノミヅとある。

四枚目は、官版東京大絵図(明治四年(1871))の部分図で、御江戸大絵図と同じように相生坂が描かれている。

聖橋は昭和のはじめにつくられたので、上記の地図のいずれにもない。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)

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善福寺川・善福寺池 紅葉(2013)

2013年12月08日 | 写真

善福寺川~善福寺池 2013.11.23~12.08
善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺池 善福寺池 善福寺池

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大田黒公園(2013)12月

2013年12月05日 | 写真

大田黒公園 大田黒公園 大田黒公園 大田黒公園

 



 
  
 

大田黒公園 大田黒公園 大田黒公園 大田黒公園 

 

 
 

大田黒公園 大田黒公園 大田黒公園 大田黒公園

 

 


 

 大田黒公園  2013.12.01

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