東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

吉本隆明「こだわり住んだ町」

2016年05月31日 | 吉本隆明

吉本隆明「背景の記憶」カバー(宝島社)




吉本隆明「背景の記憶」(宝島社)は、筆者の身辺にまつわる文章を集めたもので、多くの短篇が収められているが、そんな中に「こだわり住んだ町」(初出:86・7「MANCLUB」Vol 7)という超短篇がある。吉本が昭和29年(1954)以降に住んだ町のことを書いたものだが、その後半部を次に引用する。

『そんなことをいうわたしも、大学を出てからこのかた、日暮里・谷中のあたりに前後四、五年、田端界隈に前後五年、御徒町に三年ほど、文京団子坂に十年以上、本駒込に十二年ほど住みついてきた。よくかんがえると、山手環状線の御徒町、上野、日暮里、田端、駒込駅の内側を出ないで、こだわりつづけたことになる。なぜこの地域に執着しつづけてきたのか、じぶんの心に問いつめてみると、何となく無意識の愛着を穿[ほじ]くられたような、狼狽した気分になってくる。よくかんがえると、わたしが半生こだわって住みついた界隈は、東京の「下町」が「非下町」と眼に視えない境界を接した場所だ。ちょっと坂道を駆け下りれば下町の情念がまだ濃い色合いを残しており、人々は人懐っこく親愛にみちている。
 またちょっと坂道を駆け上がれば、「下町」的な情緒を逃れて、都会風の素知らぬ顔に帰ることもできる。わたしは無意識のうちに、そんなわがままがきく場所を、匂ひのようにかぎわけて住んできた気がする。これはじぶん自身の資質とも生涯とも、まだ和解できないでいるわたし自身が、幼年のころのじぶんの姿と遊ぶのにふさわしい環境を択んでいることだ。そう言えないだろうか。』

富士神社 動坂上 与楽寺坂下




吉本は、昭和29年(1954)12月に谷中のよみせ通り近くのアパートに住みはじめ(「坂の上、坂の下」)、以降、谷中・日暮里、田端、御徒町、団子坂、本駒込に住み続けてきた。

そうして住みついた界隈は、東京の「下町」が「非下町」と眼に視えない境界を接した場所といっているが、端的にいうと、その下町とは坂の下で、非下町とは坂の上である(「坂の上の漱石、坂の下の鴎外」)。

非下町とは、山の手といわない吉本流のおもしろい表現であるが、坂下の下町から坂を上るにつれて下町らしさが次第に失われる、そんな場所をさしている。もっといえば、坂上でも下町らしさを残すところがあるので、そんな場所も含む。東京でそんな雰囲気をかすかであるが感じさせる坂上は、たとえば、団子坂上から西へ延びる大観音通りや高輪の二本榎通りなど。

団子坂下 団子坂上 団子坂上




「ちょっと坂道を駆け下りれば」「ちょっと坂道を駆け上がれば」と小気味よく響く。人懐っこいが時としてわずらわしい感じを抱かせる下町と、そんな下町の情緒を逃れることができるが時として冷たい感じのする非下町との間で吉本はゆれている。

どちらにも行けるところを無意識のうちにかぎわけて住んできたというが、それは、自身の資質とも生涯ともまだ和解できないでいるじぶん自身が幼年のころを想起してその姿にふさわしい環境を択んでいるから、と自らの心の深層をあばく。この詩人にしか云えない言葉のような気がするのは、こんな超短篇に書いているせいでもある

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善福寺池5月(2016)

2016年05月22日 | 写真

善福寺池5月(2016) 善福寺池5月(2016) 善福寺池5月(2016) 善福寺池5月(2016) 善福寺池5月(2016) 善福寺池5月(2016)

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善福寺川5月(2016)

2016年05月21日 | 写真

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角川庭園5月(2016)

2016年05月15日 | 写真

角川庭園5月(2016) 角川庭園5月(2016) 角川庭園5月(2016) 角川庭園5月(2016) 角川庭園5月(2016) 角川庭園5月(2016)

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大田黒公園5月(2016)

2016年05月14日 | 写真

大田黒公園5月(2016) 大田黒公園5月(2016) 大田黒公園5月(2016) 大田黒公園5月(2016) 大田黒公園5月(2016) 大田黒公園5月(2016)

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「運が勝ちを呼んだとしても負けには必ず原因がある」

2016年05月13日 | 将棋

「負けた対局を後から振り返ると、必ずといっていいほど敗因が見つかるものだ。逆に言えば、人間にとってはとても難しいことだが、ミスをしなければよほどのことがない限り負けることはない。」

「ビジネスでも、将棋でも、勝負に勝った時、それが自分の実力だったということはあるだろう。しかし私は、いくばくかの幸運に恵まれて上手くいったという考え方の方が好きである。実力が全てのように言われる将棋の世界でも、相手の指し手には関与できないし、自分自身それほど将棋を理解できていないことがわかっているからだ。」

将棋棋士・森内俊之(十八世永世名人資格保持)の『勝負の勘どころ』(「中退共だより」15 April 2016)から

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永井荷風と菊池寛

2016年05月08日 | 荷風

永井荷風の代表作である『墨東奇譚』(昭和12年(1937)4~6月の東京・大阪「朝日新聞」夕刊に発表)に次のような一節がある(「五」の最終節)。

『ここにおいてわたくしの憂慮するところは、この町の附近、もしくは東武電車の中などで、文学者と新聞記者とに出会わぬようにする事だけである。この他の人達には何処で会おうと、後をつけられようと、一向に差閊[さしつかえ]はない。謹厳な人たちからは年少の頃から見限られた身である。親類の子供もわたくしの家には寄りつかないようになっているから、今では結局憚[はばか]るものはない。ただ独[ひとり]恐る可べきは操觚[そうこ]の士である。十余年前銀座の表通に頻[しきり]にカフエーが出来はじめた頃、ここに酔を買った事から、新聞という新聞は挙[こぞ]ってわたくしを筆誅[ひっちゅう]した。昭和四年の四月『文藝春秋』という雑誌は、世に「生存させて置いてはならない」人間としてわたくしを攻撃した。その文中には「処女誘拐」というが如き文字をも使用した所を見るとわたくしを陥れて犯法の罪人たらしめようとしたものかも知れない。彼らはわたくしが夜窃[ひそか]に墨水をわたって東に遊ぶ事を探知したなら、更に何事を企図するか測りがたい。これ真に恐るべきである。』 (操觚の士:文筆家)

文藝春秋(文芸春秋)は菊池寛が大正12年(1923)に創刊した雑誌である。それに荷風を攻撃する記事が載ったということだが、世に生存させて置いてはならない人間とは、ちとおだやかでない。両者の間になにがあったのかと思わせる一方、そのような表現にはどうしようもなく暗いものを感じてしまう。

もともと永井荷風と菊池寛は仲が悪かった。というよりも荷風が菊池を嫌っていた。荷風は明治12年(1879)東京生まれ、菊池寛は明治21年(1888)香川県生まれで、荷風が9歳ほど年上。

荷風びいきの当ブログとしては、荷風の日記「断腸亭日乗」から菊池寛や文芸春秋についての記述をみてみる。

大正14年(1925)9月23日に次の記述がある。

「九月廿三日。午前春陽堂主人和田氏来訪。文士菊池寛和田氏を介して予に面会を求むといふ。菊池は性質野卑奸猾、交を訂すべき人物にあらず。・・・。」(全文→以前の記事

菊池寛の方から春陽堂の和田氏を介して荷風に面会を求めたが、菊池は野卑(下品)で奸猾(悪賢い)で交際するような人物ではないと、荷風は断った。菊池寛が「断腸亭日乗」に登場するのはこの日がはじめてであるが、荷風はこのときすでにこのように評価していた。しかし、この記述では両者の間になにがあったのかわからない。ずっと疑問だったが、岩波文庫の永井荷風著「下谷叢話」の成瀬哲生による次の解説に接し、その疑問が氷解した。

『「下谷のはなし」に対して、菊池寛が「自分の名前」『文芸春秋』大正十三年三月・高松市菊池寛記念館『菊池寛全集』第二十四巻所収)と題して、「現代文人の無学無文字を嘲[あざけ]っている荷風先生にして、肝心の姓名を誤書するに至っては沙汰の限りである。」と菊池五山(菊池寛の遠祖の実弟)が菊地五山と誤書されていることを取り上げて批難した。』

荷風著「下谷のはなし」(後に「下谷叢話」に改題)にあった誤記(菊池五山→菊地五山)を取り上げ、菊池寛が荷風を攻撃する記事を文芸春秋(大正十三年(1924)三月)に載せた。このことが両者不仲の原因(の一つ)と思われるが、こういったことがあると、荷風は、相手とは決して和解しない。たとえ自分の誤記のせいであっても、そのような者を許さない。これは徹底している。たとえば、手紙などでそっと教えてあげたら、荷風は感謝し、そのことを日乗などに書いたかもしれず、以降の展開はまったく違ったであろうが、菊池寛の性格からしてそのようなことはありえなかったであろう。

以降、菊池寛や文芸春秋のことが時々日乗に登場するが、そのたびに悪し様に記述している。

同年10月24日に次の記述がある。

「十月廿四日。晡時太陽堂の中山豊三訪ひ来り、プラトン社発行の雑誌に従前の如く寄稿せられたしとて、頻に礼金のことを語り、余の固辤するをも聴かず、懐中より金五百円一封を出して机上に置き去れり。近来書賈及雑誌発行者の文人に向つて其文を求むる態度を見るに、恰大工の棟梁の材木屋に徃きて材木を注文するが如し。そもそも斯くの如き悪風の生じ来りしは独書賈の礼儀を知らざるに因るのみならず、当世の文人自らその体面を重せず、膝を商估の前に屈して射利を専一となせるに基くなり。されば中山の為す所も敢て咎むべきにあらず。悪むべきは菊池寛の如き売文専業の徒のなす所なり。」

太陽堂の中山豊三が訪れて、雑誌に寄稿してくれと、しきりに礼金のことを語り、断っても聴かないで、懐中より金五百円一封を出して机上に置いていった。荷風は、このような無礼な態度に怒っているが、それは、発行人の礼儀知らずのためだけでなく、当世の文人自らその体面をおもんぜず、膝を商人の前に屈して利益を第一にするからである。そうすると中山の所業もあえて咎めるべきではない。憎むべきは、菊池寛のような売文専業の者がなすふるまいであると、終いには、菊池寛の悪口になっている。

同年11月13日には次の記述がある。

「十一月十三日。紙巻煙草値上げとなる。敷嶋一袋二十本入十五銭なりしが、このたび十八銭となれり。最初煙草官営となりし当時は敷嶋一袋たしか八銭なりしと記憶す。その後十銭となり、十二銭となり、遂に二倍の価となりぬ。予家に在る時は巻煙草を喫せず。長煙管にて刻煙草を喫するが故、敷嶋の値上はさしてわが生計には影響せず。この日風雨終日歇まず。窗外落葉狼籍たり。鹿塩秋菊君訪来りて、雑誌歌舞伎に掲載すべき俳句を需めらる。十句ばかり持合せの駄句を録して責を塞がぬ。三時頃雑誌文藝春秋の記者斎藤某、主筆菊池なる者の書簡を持参し面会を求む。来意を問ふに予の草稾を獲たしと言ふ。菊池は曾て歌舞伎座また帝国劇場に脚本を売付け置き、其上場延期を機とし損害賠償金を強請せしことあり。品性甚下劣の文士なれば、その編輯する雑誌には予が草稾は寄せがたしとて、くれぐれも記者の心得違ひを戒め帰らしめたり。」

文芸春秋の記者が主筆菊池の書簡を持参し面会を求めてきた。用件を聞くと、(荷風の)原稿が欲しいとのことだが、菊池はかつて歌舞伎座や帝国劇場に脚本を売りつけ、その上場の延期を機として損害賠償金をゆすったことがあった。品性はなはだ下劣の文士なので、それが編集する雑誌(文芸春秋)などに原稿は書くことはできないと、記者に心得違ひをいさめて帰した、とある。前回に続き、菊池側から荷風へ接触してきて、文芸春秋に掲載する原稿を求めたのであるが、荷風は拒絶している。菊池寛側からしてみれば、和解へと歩み寄ろうとしたのかもしれないが、荷風は受けつけない。

(本題と関係しないが、上記の紙巻煙草の値上げの記述から、荷風は自宅では煙管(キセル)できざみ煙草を喫していたことがわかる。)

その数年後、昭和4年(1929)3月27日に次の記述がある。

「三月廿七日細雨糠の如し、雨中の梅花更に佳なり、大窪詩仏の年譜を編む、晡時中洲に徃く、帰途人形町にて偶然お歌に会ふ、市川団次郎待合の勘定百円ばかりを支払はざるにより、催促のため辯護士を伴ひ明治座楽屋に赴きし帰りなりと云ふ、銀座通藻波に飰す、春雨夜に入りて猶歇まず、風また加はる、お歌自働車を倩うて帰る、是日偶然文藝春秋と称する雑誌を見る、余の事に関する記事あり、余の名声と富貴とを羨み陋劣なる文字を連ねて人身攻撃をなせるなり、文藝春秋は菊池寛の編輯するものなれば彼の記事も思ふに菊池の執筆せしものなるべし、」

この日、偶然、文芸春秋を見たら、自分に対する人身攻撃の記事があり、自分の名声と富・地位をねたみ、卑しい言葉を連ねているが、文芸春秋は菊池寛が編集をするので、これは菊池が書いたに違いないとしている。

前回のことから四年ほどしてから、文芸春秋に掲載された荷風への人身攻撃の記事をたまたま読んで、菊池が書いたに違いないと決めつけている。荷風の富とは、父から相続した財産(以前の記事)で、荷風は資産家であった。これがために荷風はよくねたみに類した攻撃を受けたようである。

上記の記事に憤慨した荷風は、次の日の日乗に「菊池寛に与るの書」を書いたとある。菊池に対する反駁の文であろうが、その内容には触れていない。

「三月廿八日快晴の空薄暮に至つて曇る、菊池寛に与るの書を草す、夜半雨、是日午後小波翁門下の俳師雪松子来りて独活[うど]一束を贈らる、井の頭湖畔の村荘にて自ら栽培せしものなりと云、」

さらに、同年4月5日には次の記述がある。

「四月初五昨夜酒館太牙にて聞きたる事をこゝに追記す、酒館の女給仕人美人投票の催ありて両三日前投票〆切となれり、投票は麦酒一壜を以て一票となしたれば、一票を投ずるに金六拾銭を要するなり、菊池寛某女のために百五拾票を投ぜし故麦酒百五拾壜を購ひ、投票〆切の翌日これを自動車に積み其家に持帰りしと云ふ、是にて田舎者の本性を露したり、」

酒館太牙で女給の美人投票があり、ビール一壜が60銭で一票であった。菊池寛は某女のために150票を投じたが、そのビール150壜は自動車に積んで家に持ち帰ったと云うが、これで田舎者の本性があきらかになった。あんな記事を書いた菊池の悪口だったら、こんなつまらないことでも書き連ねる。荷風の意地が伝わってくる。

それから七年後、昭和11年(1936)7月2日に次の記述がある。

「七月初二。雨ふりてはまた歇む。文藝春秋社活版刷の手紙にて、同社賞金授与に関し推選すべき出版物の事を問来れり。同社は昭和四年四月その雑誌文藝春秋の誌上に於て、甚しく余が事を誹謗したり。然るに今日突然手紙にて同社営業の一部とも云ふべき事を問合せ来る。何の意なるや解すべからず。文藝春秋の余に対する誹謗の文には左の如きものあり。
 一今日荷風の如き生活をしてゐる事は幸福な事でも又許すべき事でもない。かくの如く社会に対して冷笑を抱いてゐ、社会に対して正義感を燃焼させないとしたなら当然社会は彼を葬ってもいゝ。
 一今日かくの如き社会に於て財産を唯一の楯として勝手に振舞ふといふ事ハ許すべからざる卑怯である。
 一其他くだらぬ事のみなれば畧[略]して識さず。」

この日、文芸春秋社から手紙で同社賞金授与に関し推選すべき出版物の事を問い合わせてきた。同社は昭和四年四月文芸春秋の誌上で自分の事をはなはだ誹謗したのに、今日突然手紙にて同社営業の一部とも云うべき事を問合せてきたが、どんな意味かわからない、と書き、その文芸春秋の荷風に対する誹謗の文を挙げている。

すなわち、今日荷風のような生活をしていることは幸福な事でもまた許すべき事でもない。このように社会に対して冷笑を抱き、社会に対して正義感を燃焼させないとしたなら当然社会は彼を葬ってもいい。今日このように社会で財産を唯一の楯として勝手に振舞ふといふ事は許すべきでなく卑怯である。

上記の昭和4年(1929)3月27日の日乗の記述だけでは昭和四年四月の文芸春秋の誌上にどんな誹謗の文が載ったのか不明だが、これでだいたいのことが推測できる。七年もの前の駄文をよく憶えていたものと思うが、それだけ、荷風は衝撃を受けたのだろう。二つの文を書いて、ばかばかしくなったのか、その他くだらぬ事だけなので略して書かないとして終わっている。

荷風の生活を許せないなどとしているが、それは、荷風の余裕のある暮らしぶりにけちをつける意図であろうか。上述のように荷風は父の遺産により働かなくとも生活できたが、それが許せない。勝手に振る舞うことが面白くない。なんだかこれまでの菊池の私憤がこめられているようである。

社会に対して正義感を燃焼させないとしたなら当然社会は彼(荷風)を葬ってもよい旨の文だったらしいが、正義感の押し売りで、それがないなら社会から葬れとは、昭和四年(1929)当時でもずいぶんひどい言い方である。これから、荷風は『墨東奇譚』で上述のように、文芸春秋は世に「生存させて置いてはならない」人間としてわたくしを攻撃したと記したのだろうか。

ちょうどその後、次の昭和11年(1936)9月20日の記述のように墨東奇譚を書きはじめ、上記のことを書く機会がやってきた。やられっぱなしから反撃するにはちょうどよいタイミングである。

「九月二十日日曜日 今にも大雨降来らむかと思はれながら、暗く曇りし空よりは怪し気なる風の折々吹き落るのみにて、雨は降らず、いつもより早く日は暮れ初めたり。晡下家を出て尾張町不二あいす店に飰す。日曜日にて街上雑遝甚しければ電車にて今宵もまた玉の井の女を訪ふ。この町を背景となす小説の腹案漸く成るを得たり。驟雨濺ぎ来ること数回。十一時前雨中家に帰る。
 〔欄外朱書〕墨東奇譚起稿」

また、冒頭に引用の『墨東奇譚』の一節に、『十余年前銀座の表通に頻にカフエーが出来はじめた頃、ここに酔を買った事から、新聞という新聞は挙ってわたくしを筆誅した。』とあるが、これに関連して、昭和4年(1929)10月8日に次の記述がある。

「十月初八日 雨、午後日高氏来訪、頃日青山高樹町に居を卜す、徳富蘆花旧居の跡なりと云ふ、是日大阪朝日新聞社書を寄せて揮毫を請ふ、其辞頗鄭重なり、盖文士の書画を徴集し之を売却して賑恤の資に当つ可と云ふ、朝日新聞は平素事ある毎に余の私行を訐[あば]き毫も斟酌する所なし、曾て余が銀座の酒舗に出入するや虚構の事を掲げて漫罵せしが如きは其の一例なり、是朝日新聞社の平素余に対して好意を抱かざる事を証明するものと謂ふ可し、然るに一たび人の声援を請はむとするや諂言(へつらう)を呈すること幇間の如し、余は固より新聞紙の褒貶を念頭に置くものにあらず、然れども其の為す所豹変常なきを見ては不快の感禁ずべからざるを以て、其の郵書については捨てゝ荅へず、」

朝日新聞もかつて荷風が銀座の酒舗に出入したことで偽りの記事を載せて罵ったようであるが、そのことを上記一節の文は指している。『墨東奇譚』の掲載紙が同じ新聞だったためだろうか、朝日の名を書いていないが、文芸春秋の名は、積極的に記した。遠慮などしない。それだけ荷風の恨みは深かった。

これ以降、墨東奇譚を読んだ読者は、文芸春秋はひどいことを書くものだという悪い感想をたいていは抱いてしまう。かくして荷風は文芸春秋への復讐をなしとげたのである。荷風の死した後にもなおそれは続き、復讐劇は墨東奇譚が読まれる限りこれからもずっと続く。

ところで、その雑誌の発行する出版社は、現在も存続し、そこが発行する週刊誌は、ときたま物議をかもす記事を掲載するようであるが、そのルーツは、上記のような荷風に関わる件といえるかもしれない。そうとすると、同社は、創業者菊池寛以来の悪しき伝統を引き継いでいる。この意味で、菊池が荷風にしかけた争いは、現在の原形をなし、すぐれて現代的な問題なのである。

ついでに、もう一社(出版社)の週刊誌も同じ傾向にあるが、「断腸亭日乗」大正13年(1924)11月24日に次の記述がある。

「十一月廿四日。午前新潮社の番頭来りて拙稿の出版を請ふ。固く之を辞す。新潮社は予が三田文学を編集せし時雑誌新潮にて毎号悪声を放ちしのみならず、森先生に対しても人身攻撃をなしたり。又先生易簀[えきさく/人の死]の際にも更に甚しく罵詈讒謗[ばりざんぼう/そしる]をなしたり。余いかで斯くの如き悪書店よりわが著作を出版する事を得べきや。」

新潮社の社員が荷風の原稿の出版を望んできたが、固辞した。新潮社は荷風が三田文学を編集していた時雑誌新潮で毎号悪口を言い放つだけでなく、森鴎外先生にも人身攻撃をした。また先生が亡くなった際もさんざん謗った。どうしてこのような悪書店から私の著作を出版できようか、とかなり悪く評価している。

これらの週刊誌は現在も問題となる記事を載せてよく話題になるが、たとえ事実であっても決して掲載しない記事があることに注意すべきである。たとえば、その出版社に関係するベストセラー作家の醜聞などは決して掲載しないし、場合によってはもみ消しに走ることもあるだろう。掲載の基準があいまいでいい加減なのである。万が一読むときはその程度のものとして読むべきであろう。

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
永井荷風「墨東奇譚」(岩波文庫)
永井荷風「下谷叢話」(岩波文庫)

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