東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

善福寺川7月(2017)

2017年07月19日 | 写真

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九段坂下(2017)

2017年07月10日 | 坂道

前回の千代田区役所から出て、交差点を渡り、九段下の交差点に向かう。

九段会館 九段坂下 途中、九段会館前を通るが、ここは、旧軍人会館で、昭和11年(1936)の2・26事件のとき戒厳司令部が置かれた。昭和9年(1934)にできたかなり古い建物で、3・11(2011)東日本大震災で被害を受けたため、現在、使用されていない。名前は知っていたが、この建物を実際に見るのははじめてのような気がする。

まもなく九段下の交差点に至るが、ここは九段坂の坂下である。二枚目の写真は、交差点を左折したところにある地下鉄の出入口付近から坂上を撮ったものである。この坂は靖国通りにあり、坂上を左折すると田安門である。

九段坂下 九段坂下 坂下側に進み、九段下の交差点を横断するが、この坂は進行方向(東側)にまだわずかであるが下りになっている。横断して歩くと、地下鉄出入口、さらにバス停があるが、その辺りがもっとも低い(現代地図)。

一枚目の写真はバス停前の辺りを撮ったもので、その向こうは首都高速の下の俎橋であるが、この橋に向かってわずかに上りになっている。

はじめてこの坂にきたとき、靖国通りと目白通りとの交差点(九段下)から上ったため、交差点の辺りを坂下として記事にしたが、この辺りを坂下とした方がよかった。二枚目の写真は、そのバス停の辺りから坂上側を撮ったもので、この辺りから見ると、この坂がいっそう長く感じられる。

「江戸の坂 東京の坂」カバー写真 飯田町駿河台小川町絵図(文久三年(1863)) 横関英一著「江戸の坂 東京の坂」は坂愛好者のバイブル的存在であるが、一枚目は、そのちくま文庫版のカバー写真で、次の註がある。

「東京九段坂」明治26年 画像提供 国立国会図書館『写真の中の明治・大正』

現在の九段下の交差点の辺りから撮ったものであろうか。道はかなり広いが、現在はもっと広い。道の右端に屋敷の塀が見え、坂上左側の淵際に街路樹が見える。道いっぱいに広がってたくさんの人が往来をしている。いちばん手前の女性がなにかを背負っていて、下駄を履いている。その左にちょっと離れて子供がいるが、その後ろに横顔の見える若い男は裸足である。荷車を引いている(押している)人が多く見えるが、この坂の上りには難渋したであろう。傘を差している人もいる。右手の白い服の男は警官であろうか。当時の人々や坂の様子がわかる貴重な写真である。地図ではわからない。

二枚目は、尾張屋清七板の飯田町駿河台小川町絵図(文久三年(1863))の部分図である。田安門の下側(北)に九段坂が表示されている。小笠原加賀守の屋敷や水野監物の屋敷などの角の四差路が現在の九段下の交差点付近であろうか。

橋を渡って神保町方面に向かい、古本屋街をうろうろしたが、収穫なし。東京堂で柴田哲孝「下山事件 暗殺者の夏」(祥伝社文庫)を購い、神保町駅へ。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)

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吉本隆明展(千代田区図書館)

2017年07月09日 | 吉本隆明

千代田区図書館で吉本隆明展が開催されていることをネットで知ったので、梅雨空だったが出かけた。

千代田区図書館吉本隆明展 午後地下鉄九段下駅下車。

九段下の交差点を右折し、内堀通りを南へ向かい、九段会館を過ぎてから交差点を渡ると、千代田区役所のビルがあるが、この9階に千代田区図書館がある(現代地図)。この展示スペースで開かれていた(そんなに広くない)。著書や愛用品などが展示されていたが、書斎を写した複数枚の写真パネルもあって、書棚の前に浅草寺の「大吉」のおみくじが写っていたのが目についた(めったに出ないらしく、うれしくて、捨てるに忍びなかった?)。

吉本隆明全集37カバー 現在、晶文社から「吉本隆明全集」が刊行中だが、これにあわせた企画らしい。その最新刊(第37巻)は、川上春雄宛全書簡で、他に吉本夫妻や両親や友人との会見記(メモ書きなど)を含む川上春雄ノートが収録されている。いずれも初めて世に出たものばかりで(たぶん)、興味深い内容でいっぱいである。

何箇所かに衝撃的な記事があった。その一つが、会見メモに「ぼくには婚約者がいたんです」とあったこと(ちょっと前の東京新聞夕刊「大波小波」にも書かれていた)。そのあとに「組合を追われてまったく無気力なその日ぐらしの生活をしている一方で、女のことでそれもどうにもいかなくなりまして」とある。マチウ書試論を執筆していた頃らしいが、それを昭和29年(1954)とすると、その年の12月に吉本は葛飾の上千葉の実家から谷中のアパートに移っている。その頃のことを背景にした超短編小説「坂の上、坂の下」に『二つの女性の影が通り過ぎる。』とある理由がわかる。もっとも、吉本にそういうもう一人の女性がいたことを以前に何かで読んだことがある(記憶に間違いがなければ、門前仲町の今氏乙治の学習塾で一緒だった女性?)。また、これらのことに関連して、川上宛書簡の中に衝撃的に感動的なものがあった。

もう一つ、遠山啓(1909~1979)東工大教授による「退官の辞 八月十五日前後」の記事(『工業大学新聞』(昭和四十五年三月二十日))の全文が載っている。吉本が終戦間もない大学時代、数学者の遠山に弟子入りを願ったことは知られているが、そのことを遠山は紙幅の1/3も割いて書いているので、かなり印象に残ったことがわかる。きわめて興味深い記事である。

吉本隆明質疑応答集①表紙 さらに最近、「吉本隆明 質疑応答集①宗教」(論創社)が出版された。講演後の質問に対する回答をまとめたもので、色んな疑問に核心をつく答えをしている。その一つに親鸞に惹かれた理由を問われて次のように答えている。

『僕は昔から親鸞が好きでして、学生の頃に「歎異抄に就いて」という文章を書いたこともあります。その関心が現在まで持続しているわけです。では僕は、親鸞のどこが好きなのか。みなさんはそうじゃないと思うんですが、宗教を信じている人にはいい子になりたいという気持ちがあるんですよ。そして僕自身にも、自分を偽ってでも正しいことをいいたいという気持ちがあると思うんです。ところが親鸞は、人間は正しいことをいうためになぜ自分を偽らなきゃいけないのか、ということを非常によく考えて、自分を偽ることと正しいことをいうことの間に橋を架けたような気がするんです。』

吉本は自らを非信仰者とし、このことを信仰ではなく思想として捉えている。その橋を架けることの意味として、『自分の主体的な思想として、少なくとも自分が正しいことをいうばあい、「こういう言い方しかできないよ」というかたちで主体的に橋が架かっていなきゃいけない。』と述べている。簡単だが、実行することは困難なことである。橋を架けるという表現は、はじめてのような気がするが、おもしろい言い回しである。

吉本が亡くなってからもう5年になるが、新しい資料が出てくる。まだまだ出てくるのかもしれない。

参考文献
「吉本隆明全集第4巻」(晶文社)

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