水天宮をでて交差点を渡り新大橋通りを西に進む。この辺りは、はじめてであるが、どこでもそうであるようにビルばかりで面白みのない通りである。それでもかすかに新橋や虎ノ門あたりとは雰囲気が違っている。高層ビルがあまりないせいだろうか。
日本橋川の手前を左折し進み、首都高速の下を通り抜けると、まもなく湊橋である。この橋のたもとに高尾稲荷の案内表示と古びた説明板がある。
さらに進むとやがて左側に高尾稲荷の幟が見えてくる。左折し少し中に入ったところに小さな祠がある。よく手入れされており、いまでも信仰を集めていることがわかる。
ここは小さな稲荷だが、現代地図にはちゃんとのっている。江戸のころには、ちょっと離れたところにあったようで、尾張屋板江戸切絵図を見ると、永代橋のたもとにある。ただし、当時の永代橋は、現在よりも少し上流で豊海橋の北側にあった。
明治地図にはのっていないが、この地で明治15年(1882)10月日本銀行が開業したので、そのときに移ったらしい。戦前の昭和地図には、現在とほぼ同じ位置にのっている。
祠のわきに掲げてある由来書には次のような説明がある。
「万治二年(1659)十二月江戸の花街新吉原京町一丁目三浦屋四郎左衛門抱えの遊女で二代目高尾太夫、傾城という娼妓の最高位にあり、容姿端麗にて艶名一世に鳴り響き、和歌俳諧に長じ、書は抜群、諸芸に通じ、比類のない全盛をほこったといわれる。生国は野州塩原塩釜村百姓長助の娘で当時十九歳であった。その高尾が仙台藩主伊達綱宗侯に寵愛され 大金をつんで身請けされたが、彼女には既に意中の人あり、操を立てて侯に従わなかったため、ついに怒りを買って隅田川の三又(現在の中州)あたりの楼船上にて吊り斬りにされ川中に捨てられた。その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着し、当時そこに庵を構えていた僧が居合わせて引き揚げてそこに手厚く葬ったといわれる。高尾の可憐な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て彼女の神霊高尾大明神を祀り高尾稲荷社としたというのが当社の起縁である。現在この社には、稲荷社としては全国でも非常に珍しく、実体の神霊(実物の頭骸骨)を祭神として社の中に安置してあります。江戸時代より引きつづき昭和初期まで参拝のためおとずれる人多く、縁日には露店なども出て栄えていた。」
頭にまつわる悩み事(頭痛、ノイローゼ、薄髪等)、商売繁昌、縁結び、学業成就の御神徳があるとのこと。
「東京人」10月号(2010)は、特集「悪女」(時代を惑わせた妖花たち)で、阿部定などとともに二代目高尾太夫があげられている。昭和はじめの数年間荷風の愛人であった関根歌(以前の記事参照)もあるのがおもしろい。高尾太夫には、「江戸の悪所で、意気地と反発を見せた女」のタイトルが付いている。
荷風は、高尾稲荷を何度か訪れており、「断腸亭日乗」昭和4年(1929)に次の記述がある。
「四月初一旧二月廿二日 春風駘蕩桜花将に開かむとす、午下中州に徃く、永代橋にて電車を降り豊海橋を渡る、郵舩会社倉庫の後の路傍に小祠あり、高尾稲荷の扁額を挂けたり、俗謡にあかつきかたの雲の帯鳴くか啼かずのほとゝきすと言ひしはこのあたりなるべし、三番町を過ぎて帰る、夜雨ふる、」
永代橋は、現在の場所に昭和元年(1926)に竣工しており、この日、荷風は、中州病院に行くのに、橋のたもとで電車を降り、豊海橋を渡って、高尾稲荷に立ち寄ったようである。三番町とは、関根歌がやっていた待合のあったところである。
同年「十一月初一旧歴十月朔 晴、晡時中州に徃く、高尾稲荷祠前三菱倉庫の石垣に腰かけて釣するもの多し、帰途銀座太訝楼に憩ひ三番町に立寄り夕餉を食す、夜細雨糠の如し、此日午後聖上赤坂見附御通行の際直訴をなせし者ありし由、帰路自働車運転手の語る所なり、」
この日も、同じ道順で中州病院に行ったのか、高尾稲荷前の日本橋川で釣りをする人が多かった。帰りに三番町にも行っている。天皇に直訴とは誰が何を訴えたのであろうか。こういったことの記事はたぶん新聞などにはないと思われ、貴重な記録である。
(続く)
参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)