東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

高尾稲荷

2010年11月29日 | 散策

水天宮をでて交差点を渡り新大橋通りを西に進む。この辺りは、はじめてであるが、どこでもそうであるようにビルばかりで面白みのない通りである。それでもかすかに新橋や虎ノ門あたりとは雰囲気が違っている。高層ビルがあまりないせいだろうか。

日本橋川の手前を左折し進み、首都高速の下を通り抜けると、まもなく湊橋である。この橋のたもとに高尾稲荷の案内表示と古びた説明板がある。

さらに進むとやがて左側に高尾稲荷の幟が見えてくる。左折し少し中に入ったところに小さな祠がある。よく手入れされており、いまでも信仰を集めていることがわかる。

ここは小さな稲荷だが、現代地図にはちゃんとのっている。江戸のころには、ちょっと離れたところにあったようで、尾張屋板江戸切絵図を見ると、永代橋のたもとにある。ただし、当時の永代橋は、現在よりも少し上流で豊海橋の北側にあった。

明治地図にはのっていないが、この地で明治15年(1882)10月日本銀行が開業したので、そのときに移ったらしい。戦前の昭和地図には、現在とほぼ同じ位置にのっている。

祠のわきに掲げてある由来書には次のような説明がある。

「万治二年(1659)十二月江戸の花街新吉原京町一丁目三浦屋四郎左衛門抱えの遊女で二代目高尾太夫、傾城という娼妓の最高位にあり、容姿端麗にて艶名一世に鳴り響き、和歌俳諧に長じ、書は抜群、諸芸に通じ、比類のない全盛をほこったといわれる。生国は野州塩原塩釜村百姓長助の娘で当時十九歳であった。その高尾が仙台藩主伊達綱宗侯に寵愛され 大金をつんで身請けされたが、彼女には既に意中の人あり、操を立てて侯に従わなかったため、ついに怒りを買って隅田川の三又(現在の中州)あたりの楼船上にて吊り斬りにされ川中に捨てられた。その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着し、当時そこに庵を構えていた僧が居合わせて引き揚げてそこに手厚く葬ったといわれる。高尾の可憐な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て彼女の神霊高尾大明神を祀り高尾稲荷社としたというのが当社の起縁である。現在この社には、稲荷社としては全国でも非常に珍しく、実体の神霊(実物の頭骸骨)を祭神として社の中に安置してあります。江戸時代より引きつづき昭和初期まで参拝のためおとずれる人多く、縁日には露店なども出て栄えていた。」

頭にまつわる悩み事(頭痛、ノイローゼ、薄髪等)、商売繁昌、縁結び、学業成就の御神徳があるとのこと。

「東京人」10月号(2010)は、特集「悪女」(時代を惑わせた妖花たち)で、阿部定などとともに二代目高尾太夫があげられている。昭和はじめの数年間荷風の愛人であった関根歌(以前の記事参照)もあるのがおもしろい。高尾太夫には、「江戸の悪所で、意気地と反発を見せた女」のタイトルが付いている。

荷風は、高尾稲荷を何度か訪れており、「断腸亭日乗」昭和4年(1929)に次の記述がある。

「四月初一旧二月廿二日 春風駘蕩桜花将に開かむとす、午下中州に徃く、永代橋にて電車を降り豊海橋を渡る、郵舩会社倉庫の後の路傍に小祠あり、高尾稲荷の扁額を挂けたり、俗謡にあかつきかたの雲の帯鳴くか啼かずのほとゝきすと言ひしはこのあたりなるべし、三番町を過ぎて帰る、夜雨ふる、」

永代橋は、現在の場所に昭和元年(1926)に竣工しており、この日、荷風は、中州病院に行くのに、橋のたもとで電車を降り、豊海橋を渡って、高尾稲荷に立ち寄ったようである。三番町とは、関根歌がやっていた待合のあったところである。

同年「十一月初一旧歴十月朔 晴、晡時中州に徃く、高尾稲荷祠前三菱倉庫の石垣に腰かけて釣するもの多し、帰途銀座太訝楼に憩ひ三番町に立寄り夕餉を食す、夜細雨糠の如し、此日午後聖上赤坂見附御通行の際直訴をなせし者ありし由、帰路自働車運転手の語る所なり、」

この日も、同じ道順で中州病院に行ったのか、高尾稲荷前の日本橋川で釣りをする人が多かった。帰りに三番町にも行っている。天皇に直訴とは誰が何を訴えたのであろうか。こういったことの記事はたぶん新聞などにはないと思われ、貴重な記録である。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水天宮

2010年11月26日 | 散策

午後水天宮前駅下車

地下鉄半蔵門線の駅からでるとすぐ前が水天宮である。階段を上り中に入ると、参拝客でいっぱいである。敷地がさほど広くないせいもある。水天宮は、前回の記事のように、江戸時代には芝赤羽橋近くの有馬邸内にあったが、それがここに移ってきた。

神社案内でもらった水天宮由緒記によると、その起源は、壇ノ浦の合戦までさかのぼり、安徳天皇とともに入水した祖母の二位の尼の命を受けた官女の按察使局が筑後川の辺に小祠を建てたことであるという。その後、久留米藩主有馬忠頼により現在の久留米市瀬下町に敷地が寄進され現在に至る。

東京の水天宮は、文政元年(1818)当時の藩主有馬頼徳が久留米水天宮から分霊し江戸屋敷内(尾張屋板江戸切絵図参照)に祀ったのがはじまりである。明治4年(1871)屋敷の移転とともに赤坂に移り、その翌年現在の日本橋蛎殻町に移転した(明治地図参照)。安産・子授け・水難除け・渡航安全の神様として信仰を集めているとのこと。

鈴木理生によれば、昔から江戸に多いものの例として、「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」という言葉があるが、稲荷に関しては、士農工商の身分に関わりなく、その屋敷神=地主神として圧倒的に多くの稲荷が祀られていたことをいったものという。現在でも残るものとして元赤坂の豊川稲荷がある(以前の記事参照)。江戸の大名屋敷で稲荷を祀らなかった方が珍しく、水天宮を含め次の三例だけであるとのこと。

・金刀比羅宮 讃岐丸亀の京極家の屋敷神(港区虎ノ門)
・塩竃神社 奥州仙台の伊達家の屋敷神(港区新橋五丁目)
・水天宮 筑後久留米の有馬家の屋敷神

芝の有馬邸の水天宮は、江戸っ子の信仰が篤く、塀越しに賽銭を投げ込む人が後を絶たなかったため毎月五日の縁日に限り屋敷を開放し、一般の参拝を許可したとのことである。

水天宮は、永井荷風の日記「断腸亭日乗」によく登場する。例えば、昭和3年(1928)に次のような記述がある。

「四月廿五日 快晴 北風未歇まず、中央公論社の島中氏に書を贈りて当分病のため執筆しがたき由を告ぐ、午後関君来談、倶に京橋に出で中州病院に赴きて薬を請ふ、茅場町より水天宮のあたり砂塵、濛々として渦巻くが中に泥まみれの自働車列を乱して右方左方に馳せちがふさま、日々眼に馴れたるものなれど、東京の市街はなにとてかくは醜きやと今更の如く驚嘆せざるを得ざるなり、是日中州河岸より深川に渡る新鉄橋既に工事落成せるを見たり、帰途三番町に立寄り夕餉を食し初更家に帰る、風漸く歇む、」

隅田川沿いの中州に荷風行きつけの病院があり、そこに行くのに水天宮のあたりをよく通った。蛋白尿検査などのことが「日乗」にでてくるが、その結果に一喜一憂している。この日、北風が強く、砂塵が濛々と渦巻いていて自動車が泥まみれで行き交うさまを見て、東京の市街は醜いと嘆じている。

昭和6年(1931)「七月五日、晴、晡下お歌の病を問ふ、帰途人形町通りを歩む、水天宮の賽日にて賑なり、」

中州病院に入院の歌を見舞いに訪れたが、その帰途、五日は水天宮の縁日であるので、賑やかであった。このころは今などよりもいっそうにぎやかであったと想像される。現在、周りはビルばかりで住民も少なくなっていると思われるからである。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
鈴木理生「江戸の町は骨だらけ」(ちくま学芸文庫)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

荒木町~策の池

2010年11月19日 | 散策

津の守坂下から西側の横町に入ると、荒木町の北側をぐるりと半周して階段の上につく。津の守坂の一本上の横町に入ればすぐにここにつけた。

この階段を下り、階段下から撮ったのが右の写真である。 この階段を仲坂というらしい。写真のように階段下の両脇に礎石があり、そこに仲の字が見える。昭和7年(1932)の施工である。この坂は、「東京23区の坂道」や「東京の階段」に紹介されている。

津の守坂の西側一帯は、窪地となっていて、荒木町料亭街がある。明治地図には特にのっていないが、戦前の昭和地図には荒木町に三業地とあり、昭和6年(1931)に芸者屋85軒、芸者数230名で、荒木町の芸者は「津の守芸者」といわれ、気品が高く、新橋、赤坂をさけて通う客も多かったという。

階段下を進み、Y字路を右手に歩いていくと、策の池がある。以前、津の守坂に初めてきたとき、この池を訪ねようとしてこのあたりをぐるぐる回った覚えがある。

左の写真のように池は水がいっぱいであり、湧水がまだかなりあるのであろう。池のそばに弁天を祀る小祠がある。

この池はもと策の井ともいった。

「紫の一本」に策の井について次のようにある。

 「四谷伊賀町の先にあり。いま尾張の摂津守殿屋敷の内にあり。東照宮御鷹野へ成らせられし時、ここに名水あるよし聞し召し、御尋ねなされ、水を召し上げられ、御鷹の策の汚れたるを洗はせなされ候ゆゑえと云ふ。」

家康が鷹狩りに来たとき、ここに名水があることを尋ね、その水で御鷹のむちの汚れたのを洗ったため、この名があるということである。尾張の摂津守とは、尾張徳川家二代光友の次男で、のちに美濃高須藩主となった。

宮島資夫(1886~1951)は「大東京繁昌記」の「四谷・赤坂」で津の守附近として次のように書いている。

「この坂を少し下って行くと、右側に木立が繁っていた。木立の下には名ばかりの茶店があった。茶店の下が崖で、不動尊の像か何かあった下の竹の筒から、細い滝が落ちていた。津の守の滝といった。その辺り一帯は、今も残る通りの凹地であって、底には池があった。周囲の崖には昼も暗い程大木が矗々(ちくちく)と茂っていた。夏は赤く水の濁った池で子供が泳いだ。巡回の巡査が時々廻って来て子供を叱る。『お廻り来い、裸で来い、こっちで罰金とってやる』悪たれ口をついて、子供達は裸で逃げ出した所である。秋になると、崖ぶちの恐ろしく高い木に、藤豆のような大きな平たい莢の実が生った。簪(かんざし)玉位な真紅の美しい実のなる木もあった。クルミもあった。私達はよくそれを拾いに来たが、夕方近くになると恐ろしくなるような所であった。それに荒木町よりの崖のところには、誰かの家で幽閉した気狂の部屋があって、終日鳥のような声を出して怒鳴るのが、崖や木立に気味悪くこだました。余り英語を勉強して気狂になったという話であった。」
「津の守坂の下に水車小舎があった。往来から見える凹みの下で、水車がぎいぎい廻っていた。暗い家だったが、水車の水は、池の水が廻って来るという話だった。水車小舎について左の方、河童坂の下を通って、現在の刑務所に行く。谷町通りにはまだ、水田があった。秋の夕方、家の庭で空を仰いでいると、雁やその他の渡り鳥が、その方面飛んで来るので、子供の私はあの辺に雁や鴨は巣喰っているものと信じていた。
 津の守の坂下、右手の方は昔は蓮池と称えた。私は蓮を見た記憶はないが、恐らく池はあったであろう。」

宮島資夫は明治19年(1886)生まれで、少年の頃を回想しているので、明治三十年代の話であろうか。策の池で昔は泳いで遊んでいたようである。現在からはとても想像できない。その当時、津の守坂の下に水車小舎があり、谷町通りには水田があったとのことで、これもまた想像できない。

池からぶらぶら歩いていくと、先ほどとは別の階段の下につく。池の近くにもあるが、ここは四方に階段がある。階段を上り左折し道なりに歩いていくと、先ほどの津の守坂上にでる。

この横町の入り口の上の方に右の写真のように四谷荒木町の看板がある。ちょっと見上げるような高い位置にある。写真は坂上の道の反対側から撮ったものである。よく見ると、看板の上に上に人力車と車夫をモチーフにした金細工がのっている。

荷風は、大正2年(1913)に妻と別れた後、次の年、八重女(金子ヤイ)と結婚するが(以前の記事参照)、そのころ八重女は四谷荒木町27番地に住むようになった。荷風はここを別宅としていた。余丁町と荒木町とは市ヶ谷谷町の窪地を隔てた近距離にあったので、八重女は日毎に余丁町の荷風邸に来たという。また、荷風も荒木町に出かけ、親友の井上啞々子と三人で唄三味線踊りの稽古などをしたらしい。秋庭太郎の著書に荒木町別宅でくつろぐ荷風、啞々の写真がのっている。

坂をふたたび下る。左の写真は坂下の標柱を撮ったものである。ここを北に直進すると、靖国通りである。

靖国通りを横断し、西に向かうと、合羽坂の坂下である。坂上から曙橋の下に降り、靖国通りを西に進み横断歩道を渡り、南に向かい新坂を上る。坂上から全勝時、西迎寺を通って闇坂の坂上にでる。

階段を下り、横断歩道を渡り、自証院坂を上り、小学校のわきを下ると、禿坂にでる。坂下を右折すると、靖国通りの安保坂で、坂上の信号を左折し、さらに左手に進むと、茗荷坂の坂上である。坂上から靖国通りを進むと、瓶割坂らしいがほぼ平坦でどこが坂かわからない。新宿三丁目駅へ。

今回の携帯による総歩行距離は9.8km

新宿区のHPに今回のコースを含む散策マップ(今回のは市ヶ谷コース)があった。坂名がたくさんのっていて坂好きとしてはうれしい。

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「大東京繁昌記」(毎日新聞社)
秋庭太郎「考證 永井荷風」(岩波書店)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

津の守坂

2010年11月17日 | 坂道

坂町坂上を右折し突き当たりを左折し、三栄通りにでて、ここを右折して進むと、広い通りにでる。ここが津の守坂の坂上であるが、傾斜はほとんどなく、まだ平坦である。北側に歩いていくと、突然かなり急に下る。

右の写真は坂上から撮ったものである。まっすぐに下って、その先は靖国通りにつながる。

坂の途中に標柱が立っているが、この近くにある新宿歴史博物館の案内標識をかねている。標柱には次の説明がある。

「荒木町と三栄町の境を靖国通り手前までくだる坂である。別名を小栗坂ともいう。昔坂上の西脇に松平摂津守の屋敷があったので、その名を略して津の守坂と称した。」

尾張屋板江戸切絵図をみると、松平範次郎の屋敷の東側に道があり、その北側に坂マーク(多数の横棒)があるが、ここがこの坂と思われる。近江屋板では、坂マークがないが、この道にアラキヨコ丁とあり、その西側に美濃高須藩松平摂津守の屋敷がある。

左の写真は坂の途中から坂上を撮ったものである。写真左側に標柱が立っている。

石川によれば、坂は明治30年(1897)ごろまでは狭くて険しかったが改修された。小栗坂の別名は、松平摂津守邸がその前は小栗氏の邸地であったからという。

永井荷風「断腸亭日乗」大正7年(1918)に次の記述がある。

「三月二日。風あり。春寒料峭たり。終日炉辺に来青閣集を読む。夜少婢お房を伴ひ物買ひにと四谷に徃く。市ヶ谷谷町より津ノ守阪のあたり、貧しき町々も節句の菱餅菓子など灯をともして売る家多ければ日頃に似ず明く賑かに見えたり。貧しき裏町薄暗き横町に古雛または染色怪しげなる節句の菓子、春寒き夜に曝し出されたるさま何とも知れず哀れふかし。三越楼上又は十軒店の雛市より風情は却て増りたり。」

このころ荷風はまだ大久保余丁町に住んでおり、そこから市ヶ谷谷町、津の守坂を通って四谷に買い物に出かけたが、津の守坂あたりの風景がよく描かれている。「貧しき裏町薄暗き横町に古雛または染色怪しげなる節句の菓子、春寒き夜に曝し出されたるさま何とも知れず哀れふかし」というのを読むといかにも荷風らしいと思ってしまう。

右の写真は坂下から坂上を撮ったものである。坂下にも標柱が立っている。坂の両側はほとんどビルであり、荷風が描いた風景はもはやすべて過去のものである。

明治地図をみると、新宿通りから北側にまっすぐに延びる道路が明治時代にできていたことがわかる。戦前の昭和地図には、ちゃんと津守坂とのっている。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坂町坂

2010年11月15日 | 坂道

比丘尼坂下を右折し進むと、靖国通りにでるが、ここを左折し、一本目を左折すると、細めの道が延びている。

はじめ平坦な道が続き、少しうねっており、坂らしき雰囲気はない。やがて緩やかな上り坂になる。坂町坂である。

右の写真は、坂下から撮ったものである。このあたりはまだ勾配は緩やかである。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、比丘尼坂下から尾張屋敷の前の道にでて、左折すると、市谷本村丁だが、次を左折すると、南に延びる道がある。ここが坂町坂と思われるが、坂名も坂マークもない。近江屋板では、坂名はないが坂マークの△印がある。坂上側が坂丁(町)となっている。

明治地図を見ると、このあたりは四谷坂町となっており、坂下の旧尾張屋敷跡に陸軍士官学校ができてから発展したとのことで、士官候補生たちがこのあたりに息抜きに来たのであろう。戦前の昭和地図には坂町坂とある。

上右の写真の中ほどが四差路になっているが、そのさきあたりから傾斜がついてくる。

左の写真は、四差路の先で撮ったものである。右に曲がりながら勾配がだんだんときつくなってくる。

写真右側に見えるように標柱が立っているが、次の説明がある。

「坂名は「坂町」という町名にちなんで、呼ばれていたようである。『御府内備考』では、坂の名称はつけられていないものの、百メートルを越す長さがあることが記されている。」

「御府内備考」の「坂町」に、「一坂 登六十二間程巾三間程」「右往古より町内往還に之有り四谷大通りより北の方に相當り市ヶ谷七軒町より當町え入夫より尾州様御長屋下え出東の方御同所田町通の道筋にて北の方は市谷五段坂通同所柳町えの道筋に御座候尤名目之無き候右坂に添之有り候町屋に付き當町の名目相起候儀に御座候」とある。

一間を1.8mとすると、江戸のころ、長さ111m、幅5.4m程の坂であった。この坂に添ってある町なので坂町の町名がついたとある。町名の由来が坂の存在であり、それがまた坂名の由来となったという関係のようである。

昔はこの坂下あたりまで蓮池という大池で、水鳥が多く飛来したので、三代将軍家光が狩猟に訪れたといわれ、その後、埋め立てられて町屋ができ、下坂町と称し、坂上を上坂町としたが、明治維新後は武家地を併合して四谷坂町となったとのことである(石川)。

右の写真は坂上から撮ったものである。坂上にも標柱が立っている。まっすぐに下っているが、写真の坂下が上左の写真で右に曲がったあたりである。

この坂上に向かう勾配は坂下側よりもかなりきつくなっている。

この坂はどこかの坂と似ていると思いながら上ったが、最近出かけた六本木の長垂坂である。坂下ではさほどの勾配はないが、坂上側で次第にきつくなる点、かなり長い坂である点、道幅はさほどない点(こちらの方がより狭い)、何回か緩やかに曲がりうねっている点、江戸の坂である点などである。特にうねって長いのが坂歩きに興趣を添えている。この坂の方が場所柄からか庶民的な感じがするが。

以前もこの坂を訪れているが、津の守坂の方から来たので、この坂を下った。今回、坂下に来て上ったが、かなり感じが違う。下るよりも上る方がよい坂と思う。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第三巻」(雄山閣)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

比丘尼坂

2010年11月13日 | 坂道

高力坂上から北に靖国通りへとまっすぐに下る坂があるが、ここを下り、一本目を左折する。細い道をちょっと歩くと、比丘尼坂(びくにざか)の坂上である。

狭い道がまっすぐに下っている。勾配は中程度といったところで、長さもさしてない。右の写真は、坂上から撮ったものである。

坂上と坂下に標柱が立っているが、次の説明がある。

「『御府内備考』によると、昔、この坂の近くの尾張家の別邸に剃髪した老女がいたことから、こう呼ばれたという。」

尾張屋板江戸切絵図を見ると、前回の高力邸の北側に東西の道があり、坂名も坂マークもないが、これがこの坂であると思われる。近江屋板では、ビク尼ザカとあり、坂マークの三角印△もある。坂を下り坂下を右折し直進すると、尾張屋敷の前の道(いまの靖国通り)にでる。

上記の標柱が引用する「御府内備考」には次のようにある。

「比丘尼坂は四谷御門市ヶ谷御門の間御堀端へ出るの坂なりここに尾張殿の屋敷ありて昔は老女の剃髪せるものを皆此屋敷へ置れしゆへ里俗の呼名となりしといふ」

左の写真は坂途中から坂上を撮ったものである。ここを直進し、突き当たりを右折すると、高力坂上である。

「新撰東京名所図会」に「比丘尼坂は堀端より北の方陸軍士官学校の前に下る阪をいふ。もとは狭くして且つ急なりしが、今は広くして其の勾配を緩ふせり。此阪は尾張家に当れるに因り、紀伊国阪に対して尾国阪といひしを、後に訛りて比丘尼に作れるなり。」とあるという(岡崎)。

「新撰東京名所図会」は比丘尼坂につき二つの点で異説を示している。第一は堀端から北の方陸軍士官学校の前に下る坂としている点、第二は紀伊国阪に対して尾国坂といったが、後に訛り比丘尼となったという点。

第一の点は、現在の高力坂上から北にまっすぐに下って靖国通りにでる坂を比丘尼坂とするが、この道は、明治地図にはあるが江戸切絵図にはなく、比丘尼坂は御府内備考から江戸の坂といえるから、比丘尼坂ではないと思われる。第二の点は、正誤不明であるが、坂名の由来は御府内備考説が主流のようである。

石川と岡崎にある地図は、高力坂上から北にまっすぐに靖国通りまで下る坂を比丘尼坂と示し、これは「新撰東京名所図会」と同じ道筋である。なにかの間違いと思われる。

 左の写真は坂下から坂上を撮ったものである。坂上側の方が勾配があるようである。

前回の2・26事件と荷風の記事を書いているとき、荷風の「断腸亭日乗」に次のような記載を見つけた。

昭和11年(1936)「五月十一日。晴れて稍暑し。夜浅草公園活動小屋の絵看板を見歩き、千束町を過ぎ、吉原遊郭を歩む。大門より乗合自働車に乗り、銀座に少憩してかへる。是日午後三笠書房店員来談。此人稲垣氏と云ふ其父は橘屋といふ周旋宿の主人にて昭和五六年頃市ヶ谷比丘尼阪下に住せし時余屡用談に赴きしことあり今は四谷津守坂に移居し無事とのことなり代地稲垣の息子なりと思ひしは余の誤りなり。」

その店員の父を荷風は知っていたらしく、その父が比丘尼坂下に住んでいた頃訪ねたことがあった。津守坂に移居したとあるが、この坂には、これから向かう。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第三巻」(雄山閣)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高力坂

2010年11月12日 | 坂道

今回は、新宿通りの北側で市ヶ谷から新宿方面の坂を巡った。

午後四谷駅下車。

3番出口からでて、信号を渡り、北側に進と、外濠公園に下る坂道があるので、そちらに進む。坂下から階段を上り、歩道を歩くと、先ほどの公園の奥の方に野球場が見える。まもなく信号のある所につくが、このあたりが高力坂の坂上のようである。ここで外濠に沿って右に曲がり、坂下で靖国通りにつながる。

外濠側の歩道を進む。坂は緩やかに下っており、その途中で坂下側を撮ったのが右の写真である。片道二車線の広い通りが中程で左に緩やかに曲がっている。ここから少し進むと、ちょうど曲がったところ付近に石の坂の標識が立っている。以前、この坂には来ているが、たぶん、外濠側の歩道を歩かなかったので、この標識ははじめてである。次の説明が刻まれている。

「高力坂 新撰東京名所図会によれば、「市谷門より四谷門へ赴く、堀端辺に坂あり、高力坂という。幕臣高力小次郎の邸あり、松ありしかば此名を得たり、高力松は枯れて、今、人見の合力松を存せり、東京電車鉄道の外濠線往復す。」とある。すなわち、高力邸にあった松が高力松と呼ばれ有名であったので、その松にちなんで、坂名を高力坂と名づけたものと思われる。 昭和58年3月 東京都」

通常、坂の標柱や説明板は、その区の教育委員会が立てているが、これは都によるものらしい。

標識から坂下に向け進むと、右手に外堀の水面が見えてくる。

左の写真は坂下近くから坂上側を撮ったものである。写真左が外濠側の歩道である。このあたりになるといっそう緩やかになりほぼ平坦である。

標識の説明に、幕臣高力小次郎の邸があったとあるので、尾張屋板江戸切絵図をみると、四谷見附の北側、坂上に高力主税助の屋敷がある。近江屋板を見ると、高力小太郎となっている。いずれにも坂マークは見えない。

坂名の由来は、高力邸の松が高力松と呼ばれ、それから高力坂となったようで、松が介在しているところがおもしろい。

新撰東京名所図会にいま合力松があるとされていたが、岡崎は、大正のころの古い写真に見られる、樹齢四百年といわれたこの松は、さすがに巨大である、と記している。

昭和2年(1927)に宮島資夫がこのあたりのことを次のように書いている。

「木村町の高力松、現在では救世軍の学校と変圧所がある、あのあたりは、昔は辻斬のあったという場所である。・・・高力松から喰違い見附まで、あの濠端は、子供の頭に無気味な印象を深く残した。が、然し今日では、濠は、大半埋められた。」(大東京繁昌記)

戦前の昭和地図を見ると、この坂の北側に救世軍村井奨學寮というのがある。そして、靖国通りの北側の広い土地に陸軍士官学校がある。ここは尾張藩の上屋敷だったところである。いまは防衛庁となっているが、戦後東京裁判が行われ、また、三島由紀夫が自決したのはここであった。

坂下の交差点を渡り、反対側の歩道を進み坂上にもどる。右の写真は坂上の信号を渡った歩道から坂下を撮ったものである。緩やかだが、このあたりで少し傾斜がついている。

永井荷風は「断腸亭日乗」にこのあたりのことを次のように書いている。

昭和5年(1930)「十月廿八日 薄曇りの空風もなくて静なり、籬菊ひらく、灯ともし頃番街に徃く、途上四谷見附辺より市ヶ谷八幡の岡を望むに遠近の樹影暮靄につゝまれ濃淡描くが如し、余曾てこの処の眺望をよろこび拙著日和下駄の書中にもその風趣を細述せしことありき、今日濠は殆埋めつくされ、見附の橋の中央には公設市塲建造せられ、土手の下には工夫の小屋散在し、材木砂石塵芥の置場となれり、本村町濠端の高力松は猶枯死せず、救世軍寄宿舎の門前に屹立せり、されど、高きあたりの枝次第にまばらになりたれば余命のほども思ひやらるゝなり。」

松(合力松であろう)は、このときもあったらしく、救世軍寄宿舎の門前に立っていたが、松の様子から荷風は余命が短いのではと心配している。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大東京繁昌記」(毎日新聞社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2・26事件と荷風(6)

2010年11月11日 | 荷風

永井荷風「断腸亭日乗」昭和11年(1936)7月3日の最後に「夕刊新聞に相沢中佐死刑の記事あり。」とある。

5月7日に第1師団軍法会議は相沢中佐に対し死刑判決を下し、相沢中佐は高等軍法会議に上告したが、6月20日に上告棄却で死刑が確定していた。2・26事件の将校らが収容されていた代々木の陸軍刑務所の刑場で執行された。3日の朝早く空包射撃の音が鳴り響き、しばらくすると止んだが、これは相沢中佐の処刑の銃声を打ち消すためのカムフラージュであったという。

一方、2・26事件の裁判も進んでいたが、これは、戦時や戒厳令下の地域に設けられる特設陸軍軍法会議で行われ、弁護人なし、非公開、上告なし(一審制)という暗黒裁判であった。当時の東京はまだ戒厳令下にあったが、治安は回復し弁護人の選任にも困らないので特設陸軍軍法会議で裁く必要はなかったにもかかわらず、そうした理由は、政府・陸軍は5・15事件や相沢事件の裁判闘争で懲りて、決起将校の裁判闘争を封じ、裁判を簡単に素早く片づけようとしたからであった。

「七月七日。くもりて雨無し。忽然新蝉の声を聞く。午後三笠書店店員来る。朝日新聞社日高君を介して連載小説執筆を申来る。両三日前の事なり。長篇小説をつくる気力なきを以て手紙にて辞す。夜尾張町不二家に飯す。
 〔欄外朱書〕二月二十六日叛乱軍将卒判決の報出ヅ」

荷風が「日乗」に記したのは新蝉の声を聞いた7月7日であるが、判決は5日に出ており、死刑17名、有罪76名であった。

「七月十二日日曜日陰。為永春水の人情本数種を読む。盖徃年一読せしものなり。晩食後雲重く風断ゑ溽暑甚しければ、漫歩銀座に徃き久辺留に一茶す。高橋邦氏来る。杉野教授萬本氏と新橋際なる駒子の酒場に立ち寄りて帰る。寝に就かんとする時俄に雨声をきく。
 〔欄外朱書〕叛軍士官代代木原ニテ死刑執行ノ報出ヅ」

この日、15名に対し午前7時から1時間おき位に三回に分けて処刑が行われた。刑場は代々木陸軍刑務所の北西に造られた。塀に沿って五つの壕が掘られ、そこに十字架(刑架)が設けられ、十字架の前に正座させられて銃殺されたという。このときもまた隣の代々木練兵場では朝から演習が行われ、軽機関銃の空砲の音が刑務所の房内まで聞こえてきたという。磯部、村中は北一輝、西田税の裁判の証人として刑の執行が延期された。

荷風は、7月になると事件について上述のように単に報道結果を記すだけであったが、欄外に朱書きにしていることから、特記すべき事項と考えていたのであろう。

この事件の年、荷風の心境に変化が見られたようで、例えば、1月30日(以前の記事参照)の「日乗」に過去関係のあった女性を列挙したり、2月24日には遺書めいたことを書いている。

また、雪が多く寒い冬が過ぎ暖かくなると、荒川放水路や玉の井などにしばしば出かけ、それが「放水路」「玉の井」の散策記となり、玉の井通いはやがて翌年発表の代表作「墨東奇譚」へとつながっていく。

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
平塚柾緒「2・26事件」(河出文庫)
池田俊彦「生きている二・二六」(ちくま文庫)
秋庭太郎「新考 永井荷風」(春陽堂)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2・26事件と荷風(5)

2010年11月10日 | 荷風

事件後にも荷風は「断腸亭日乗」に時々事件のことを記している。

「三月四日。晴れて風寒し。晩食後銀座に徃き総菜を購い久辺留に休む。高橋邦氏より騒擾の詳報をきく。車を与にしてかへる。此日午後千香女史来訪。余が旧著礫川逍遙記を再刻したしといふ。草稿をわたす。
 〔朱書〕大森区久ケ原五七九  相田光代」

高橋邦氏から事件の詳報を聞いている。高橋邦とはちょっと調べたが誰かわからない。荷風は食堂やレストランなど同じ店に毎日のように行く傾向があり、この時期は銀座の茶店久辺留であったようである。

「三月十一日。晴。初めて春らしき暖さなり。午後食料品を購はむとて銀座に行くに何といふこともなきに人出おび〔夥〕ただし。田舎より出で来りし人も多し。過日軍人騒乱の事ありし為め其跡を見むとするものも多き様子なり。塵まみれの古洋服にゴムの長靴を穿ち、薄髯を生し陰険なる眼付したるもの日比谷のあたりには殊に多し。其容貌と其風采とは明治年間の政党の壮士とも異り一種特別のものなり。燈刻前家にかへる。」

この日、この冬で初めて春らしくなり、暖かった。銀座に行くと何事もないのに人出が多く、田舎から出てきた人も多いようで、2・26事件の跡を見物する人も多いようである。異な風体のものが日比谷のあたりに多いとあるが、事件の共鳴者なのであろうか。巷の色んなところで事件の影響がでているようである。

「三月十四日。くもりて風暖なり。午後日高君来談。晡下鼎亭に徃きて浴す。帰途竹葉亭に飯し久辺留に憩ふ。一客あり。二月廿六日兵乱の写真十数葉を携来りて示す。叛軍の旗には尊皇討姦と大書したり。深夜杉野教授と車を共にしてかへる。」

いつもの茶店久辺留に行くと、2・26事件の写真をもっている客がいて、尊皇討姦と大書した旗が写っていた。決起部隊は山王ホテルの屋上にそれと同じ文言の旗を掲げたらしいが、その写真はホテル屋上を撮ったものであろうか。

「三月十八日。・・・むかし一橋の中学にてたびたび喧嘩したる寺内寿一は軍人叛乱後陸軍大臣となり自由主義を制圧せんとす〔以上補〕。・・・」

寺内寿一(てらうちひさいち)は、当時、陸軍大将で、2・26事件で岡田啓介内閣が総辞職した後に成立した広田弘毅内閣の陸軍大臣であった。荷風とは高等師範附属中学の同級生で、総理大臣にもなった陸軍大将寺内正毅の長男である。その喧嘩とは、秋庭太郎によると、軟派の代表であった荷風(壯吉)が髪を長くのばしていたのを寺内寿一はじめ硬派の連中が苦々しく思い、あるとき荷風を校庭でみんなで押さえ付け、むりやりバリカンで頭を刈ってしまい、なぐったりもした。これに対し、壯吉少年は、なぐった連中の家を一軒一軒まわって、その親たちに「君の家の息子がおれをこんなにした、いつかひとり、ひとりの時にやっつけてやるから、その時になって親が苦情をいうな」といったら、親たちはみんなあやまる。帰ってきた連中は親からうんとしかられた、といったことらしい。

自由主義の制圧とは、当時、寺内が広田内閣の閣僚名簿をみて、自由主義的・現状維持的であり、全軍一致の要望に合わないなどと干渉したらしいが、そのようなことを指しているのだろうか。

「三月廿七日。晴。瑞香の花馥郁たり。午後平山生出版物の事につき来談。夜銀座に徃き久辺留に憩ふ。〔此間三行強末梢。以下行間補〕人の話に近刊の週刊朝日とやらに余と寺内大将とは一橋尋常中学校にて同級の生徒なりしが仲悪く屡喧嘩をなしたる事など記載せられし由、可恐可恐、〔以上補〕また両三日前の朝日及び日々の紙上に丸ノ内美術倶楽部の広告に事よせ陰謀の暗号をなせしものあり。昨日に至り此事露見し検閲局係りの者免職せられしとの風説あり。帰途芝口にて八重子女給なりに逢ひ車を与にし門前にて別る。」

上記の寺内との中学時代のことが週刊誌に載ったようで、その権勢から何かの反作用をおそれてか、恐るべし恐るべしと書いている。

「四月六日。籾山梓月、山本実彦、拙著を贈呈せし返書を寄せらる。山本君の手紙封筒には戒厳令に依り開緘の朱印を捺したり。何の故にや恐しき世の中なり。終日読書。夜銀座に行き食料品をあがなひ茶店久辺留に少憩すること例の如し。空くもりて雨を催す。」

荷風宛の手紙の封筒に戒厳令に依り開緘(かいかん)の朱印があった。東京はまだ戒厳令下にあり、それを理由に手紙が勝手に開封されたようである。荷風は、おそろしき世なり、と嘆いている。

ところで、荷風は2・26事件のことをどのように感じていたのであろうか。事件の直前であるから直接の感想ではないが、次のような記述がある。

「二月十四日。晴れて風静なり。この頃新聞の紙上に折々相沢中佐軍法会議審判の記事あり。〔此間一行強末梢。以下行間補〕相沢は去年陸軍省内にて其上官某中将を斬りし者なり、新聞の記事は其の〔以上補〕最も必要なる処を取り去り読んでもよまずともよきやうな事のみを書きたるなり。されど記事によりて見るに、相沢の思想行動は現代の人とは思はれず、全然幕末の浪士なり東禅寺英国公使館を襲ひ或は赤羽河岸にヒユウスケンを暗殺せし浪士と異なるものなし。西洋にも政治に関し憤怒して大統領を殺せしもの少からず、然れども日本の浪士とは根本に於て異る所あり。余は昭和六七年来の世情を見て基督教の文明と儒教の文明との相違を知ることを得たり。浪士は神道を口にすれども其の行動は儒教の誤解より起り来れる所多し。そは兎もあれ日本現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり。政党の腐敗も軍人の暴行も之を要するに一般国民の自覚に乏しきに起因するなり。個人の覚醒ぜさるがために起ることなり。然り而して個人の覚醒は将来に於てもこれは到底望むべからざる事なるべし。〔以下六行抹消〕」

相沢三郎中佐は、昭和10年(1935)8月12日午前陸軍省内で執務中の軍務局長永田鉄山少将を斬り殺した。その前におきた真崎教育総監更迭劇に絡んで永田少将がその中心人物とされたらしい。それに怒った相沢中佐が「永田天誅だ!」と叫びながら軍刀で襲いかかったという。

相沢事件は2・26事件の決起将校に大きな影響を与えたという。前月28日にはその事件の軍法会議の初公判があった。

荷風は、その軍法会議の新聞報道について、最も必要なる事を取り去り、読んでも読まなくてもよいような事だけを書いていると批評しているが、これは昨今の報道を見ているといまでも当てはまりそうである。新聞もむかしから余り変わっていないようである。

荷風は、この事件につき、幕末の浪士と同じだと酷評しているが、その例としてあげているのが、長州藩などのいわゆる尊王攘夷派が起こした事件であるところがおかしい。明治以来陸軍の主流は山県有朋をはじめとする長州閥であったから皮肉の意味もあったかもと想像してしまう。

日本現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三つとしているが、荷風がこのような政治のことを書くのはめずらしい。客観的な見方で、当時としては思い切った考え方であったと思われる。要するに一般国民の自覚に乏しいことが根本原因だが、この個人の覚醒は将来においても望むことができないとしている。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
大内力「日本の歴史24 ファシズムへの道」(中公文庫)
林茂「日本の歴史25 太平洋戦争」(中公文庫)
平塚柾緒「2・26事件」(河出文庫)
秋庭太郎「新考 永井荷風」(春陽堂)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2・26事件と荷風(4)

2010年11月09日 | 荷風

事件四日目の「断腸亭日乗」は次のとおりである。これは偏奇館近くの柳のだんだんの記事で引用した。

「二月廿九日。陰。朝小山書店主人電話にて問安せらる。午後門を出るに市兵衛町表通徃来留なり。裏道崖づたひに箪笥町に出で柳のだんだんとよぶ石段を上り仲の町を過ぎ飯倉片町に出づ。電車自働車なければ歩みて神谷町より宇田川町を過ぎ銀座に至り茶店久辺留に憩ふ。四時過より市中一帯通行自由となる。杉野教授と金兵衛酒店に飯す。叛軍帰順の報あり。また岡田死せずとの報あり。電報通信社々員宮崎氏より騒乱の詳報を聞く。夜十二時家に帰る。」

この日の朝に小山書店主人が電話にて安否を問い合わせてきた。武力鎮圧の可能性もあったため心配になったのであろうか。午後家を出たが、市兵衛町の表通りが通行止めである。

前日夕方、戒厳参謀長の安井藤治少将は明29日早朝の武力行使を決め、周辺住民の立ち退きなどの準備を指令した。朝から重武装の鎮圧軍が霞ヶ関一帯に進出し、反乱軍を包囲した。このため、市兵衛町の表通りも通行止めとなり、電車も自動車もなかったのであろう。

荷風は、徒歩で、裏道崖づたい(道源寺坂)→箪笥町→柳のだんだん→仲の町→飯倉片町→神谷町→宇田川町→銀座のコースで茶店久辺留に至る。かなりの距離であるが、街歩きの好きな荷風にとって大したことではなかった。

武力鎮圧の前に決起部隊に脱走兵がでたりして、決起将校も次々と下士官兵を兵営に帰した。結局、決起将校の中で最先任であった野中四郎大尉が自決し、最後に山王ホテルを占拠していた安藤輝三大尉率いる歩兵第三連隊第六中隊159名だけが残ったが、安藤大尉の自決(未遂)で終わった。午後3時、戒厳司令部は事件の終結宣言を出した。

4時過ぎから市中一帯の通行が自由となったとあるが、終結宣言から1時間ほど後のことのようである。荷風は杉野教授と金兵衛酒店で夕飯をとり、そこで、叛乱軍の帰順や岡田首相死せずの報を聞いた。さらに電報通信社々員宮崎氏から詳しい話を聞いたためか、遅くなり、夜十二時家に帰った。

以上が昭和史の一大事件である2・26事件の激動の4日間における荷風「断腸亭日乗」の記述である。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
平塚柾緒「2・26事件」(河出文庫)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2・26事件と荷風(3)

2010年11月08日 | 荷風

事件三日目の「断腸亭日乗」は次のとおりである。

「二月廿八日。朝来雪また降り来る。午後銀座に徃く。霞関日比谷虎の門あたり一帯に通行留なり。叛軍は工事中の議事堂を本営となせる由。雪は四時頃に至りて歇む。茶店久辺留に少憩し薄暮宇田川乗替の電車にて帰る。燈下マルクオルランの小説女騎士エルザを読む。春寒尚料峭たり。」

事件三日目も朝から雪が降ったが、午後銀座に行った。この日は、霞ヶ関、日比谷、虎の門のあたりが通行留になったためと思われるが、宇田川(浜松町のあたり)乗替の電車で帰った。まだ寒かったようだ。

事件についての報道はまだ少なかったようで、日乗の記述も少ないが、叛軍となっているのが、眼にとまる。この日、午前5時8分、決起部隊の原隊復帰を命ずる奉勅命令が厳戒司令官によって公布され、このときから決起部隊は一転して叛乱軍となったが、そのことが報道されたのであろうか。

戒厳参謀の石原莞爾大佐は奉勅命令が下ったのだから従わなければ武力鎮圧をするとしたようで、そういった動きのためか霞ヶ関や虎の門などが交通留となって緊迫感が出てきたようである。


工事中の議事堂を本営とするようだとあるが、誤報のようである。上の首相官邸周辺地図(昭和11年頃)は、大内力「日本の歴史24 ファシズムへの道」(中公文庫)426頁からの引用であるが、決起部隊は、首相官邸、山王ホテル、警視庁、陸軍大臣官邸などを占拠し、陸軍中枢の陸軍省、参謀本部、陸相官邸を包囲・遮断し、陸相官邸を作戦本部とした。

陸軍省、参謀本部が三宅坂にあったので、上記の奉勅命令にも「三宅坂附近ヲ占拠シアル将校」とある。いまの憲政記念館のあたりであろう。

陸軍省、参謀本部、陸相官邸と首相官邸、山王ホテルとの間に議事堂があり、地理的にはここが中心となっている。

上の地図で首相官邸と外務大臣官邸との間から南へ延びる道が霊南坂、荷風の偏奇館近くの市兵衛町の表通りと思われる。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
平塚柾緒「2・26事件」(河出文庫)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2・26事件と荷風(2)

2010年11月06日 | 荷風

事件の次の日の「断腸亭日乗」は次のとおりである。

「二月廿七日。曇りて風甚だ寒し。午後市中の光景を見むと門を出づ。東久邇宮門前に憲兵三四名立つ。道源寺阪を下り谷町通りにて車に乗る。溜池より虎の門のあたり弥次馬続々として歩行す。海軍省及裁判所警視庁等皆門を閉ぢ兵卒之を守れり。桜田其他内曲輪へは人を入れず。堀端は見物人堵をなす。銀座尾張町四辻にも兵士立ちたり。朝日新聞社は昨朝九時頃襲撃せられたる由なれど人死は無之。印刷機械を壊されしのみなりと云ふ。銀座通の人出平日より多し。電車自働車通行自由なり。三越にて惣菜を購ひ茶店久辺留に至る。居合す人々のはなしにて岡田斎藤等の虐殺せられし光景の大畧及暴動軍人の動静を知り得たり。〔此間約一行抹消〕歌川竹下織田の三子と三十間堀河岸の牛肉店末広に至り晩餐をなす。杉野教授千香女史おくれて来り会す。談笑大に興を添ふ。八時過外に出るに銀座通の夜店遊歩の人出いよいよ賑なり。顔なじみの街娼一両人に逢ふ。山下橋より内幸町を歩む。勧業銀行仁寿公堂大坂ビル皆鎮撫軍の駐屯所となる。田村町四辻に兵士機関銃を据えたり。甲府より来りし兵士なりと云ふ。議会の周囲を一まはりせしが〔此間約六字抹消、以下行間補〕さして面白き事なく〔以上補〕弥次馬のぞろぞろと歩めるのみ。虎の門あたりの商店平日は夜十時前に戸を閉すに今宵は人出賑なるため皆燈火を点じたれば金毘羅の縁日の如し。同行の諸氏とわかれ歩みて霊南阪を上るに米国大使館外に数名の兵あり。人を誰何す。富豪三上の門内に兵士また数名休息するを見たり。無事家に帰れば十一時なり。此日新聞には暴動の記事なし。」

市中の光景を見たためこの日の「日乗」は記載量が増えている。巷の観察者荷風の本領発揮のときである。

曇りで風が強く寒かったが、午後、家を出た。道源寺坂を下って谷町通りから車に乗ったが、溜池、虎の門のあたりは弥次馬がたくさんいた。堀端では賭けまでやる見物人もいた。銀座通の人出は平日よりも多く、電車も車も通行が自由である。茶店久辺留から歌川竹下織田の三子と三十間堀河岸の牛肉店末広に行き夕食をとった。杉野教授と千香女史がおくれてきたが、話が盛り上がった。八時過外に出ると、銀座通の夜店、人出がいっそう賑やかであった。

この日、三時五十分東京全市に戒厳令が公布され、戒厳司令部が九段の軍人会館に置かれたが、戒厳令下の時とは思えない様子が描かれている。このとき、陸軍上層部は方針が定まらず、右往左往していたから当然といえば当然であった。

前日(事件当日)の午後に陸軍大臣告示が出たが、それは決起将校に目的達成の期待感を抱かせるものであった。この日は、午後に決起部隊に宿営命令が出されたので、将校も兵士も安心しきっていた。そして、決起部隊は戒厳令公布と同時に戒厳部隊に組み入れられ、第一師団隷下に属して南部麹町地区の警備に任じていたという。

一方、天皇は、決起将校を弁護する本庄繁侍従武官長に決起部隊の鎮定を督促し、本庄があまりにも言い訳をするのにたまりかねて、自分が近衛師団を率いて鎮定に当たるとまで言い切ったらしい。

荷風らは、そんな上層部の動きを知らず、銀座から山下橋を通って内幸町、勧業銀行などを過ぎて田村町四辻に至り、そこで機関銃を据えた兵士と話をしたらしく、甲府からきた兵士であった。さらに、議会の周囲を一回りしたが面白いことはなく、弥次馬だけがぞろぞろと歩いていた。虎の門あたりの商店は平日は夜十時前に閉じるのに人出が多いためまだ開いて灯りを点じているので金毘羅の縁日のようだった。同行の諸氏とわかれて霊南坂を上って帰宅した。途中米国大使館の外で兵に誰何された。

上記のように、事件翌日は、多くの野次馬が自由に霞ヶ関や虎の門あたりに繰り出しており、まだのんびりした感じであったようである。

(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
平塚柾緒「2・26事件」(河出文庫)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2・26事件と荷風(1)

2010年11月05日 | 荷風

最近、赤坂渋谷新宿の記事で何回か2・26事件の現場などがでてきたので、永井荷風の日記「断腸亭日乗」でそのときの市中の様子をみてみたい。

事件の年の昭和11年(1936)は雪が異常に多い冬であったらしく、その様子は、例えば2月23日の「日乗」に記してあるが、これは市三坂の記事に掲載した。

前日の「日乗」は次のとおり。

「二月廿五日。晴。午後三菱銀行に用事あり。それより銀座を歩む。蓄音機屋の店頭に人多く立たずみ三味線くづれとやら云ふ流行唄を聞けり。日未だ暮れやらぬ時、銀座通の人のゆききと蓄音機の俗謡と貧し気なる建築物とはいかにも浅薄なる現代的空気をつくりなしたり。夜となりて燈火かがやき汚らしき商店の建物目に立たぬ頃に至れば銀座通は浅草公園仲店の賑ひを呈するなり。いづれにしてもこれが東京一の繁華なる町とは思はれぬなり。新橋停車場に去年の暮より仏蘭西料理屋開店せし由聞き居たれば立ち寄りて晩餐を命ず一人前弐円ぶどう酒五十銭肉汁あしからず葡萄酒又良し。烏森芳中に立寄りてかへる。風甚寒し。」

夕暮れ時の銀座通の人のゆききと蓄音機の俗謡と貧し気なる建築物とが浅薄なる現代的空気をつくっている。これが東京一の繁華街とは思われないほどみすぼらしい。寒さもありいっそうそういう感じになったのかもしれないが、やはり、当時の市中の様子はそんなものであったのであろう。

次が事件当日の「日乗」である。

「二月廿六日。朝九時頃より灰の如きこまかき雪降り来り見る見る中に積り行くなり。午後二時頃歌川氏電話をかけ来り、〔此間約四字抹消。以下行間補〕軍人〔以上補〕警視庁襲ひ同時に朝日新聞社日々新聞社等を襲撃したり。各省大臣官舎及三井邸宅等には兵士出動して護衛をなす。ラヂオの放送も中止せらるべしと報ず。余が家のほとりは唯降りしきる雪に埋れ平日よりも物音なく豆腐屋のラツパの声のみ物哀れに聞るのみ。市中騒擾の光景を見に行きたくは思へど降雪と寒気とをおそれ門を出でず。風呂焚きて浴す。
 〔朱書〕森於菟 台北東門前町一五八文化村四条通
九時頃新聞号外出づ。岡田斎藤殺され高橋重傷鈴木侍従長又重傷せし由。十時過雪やむ。」

当日も灰のようにこまかい雪が降りどんどん積もった。午後二時ごろに歌川氏が電話で知らせてくるまで事件のことは知らなかった。降りしきる雪で普段よりも物音がせず、豆腐屋のラツパが物哀れに聞こえるだけ。物見高い荷風は、市中の様子を見に行きたかったが、雪と寒さで諦め、風呂に入った。

号外がでて、岡田斎藤殺され高橋鈴木侍従長重傷とあるが、高橋是清はほとんど即死だったらしい。岡田首相は人違いであった。

事件当日は外に出ないで終日自宅で過ごした。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「新考永井荷風」(春陽堂)
平塚柾緒「2・26事件」(河出文庫)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神明坂(三田)

2010年11月04日 | 坂道

前回、日向坂上の南側の歩道から無名坂経由で綱坂に向かい、綱の手引坂を下り、そのまま駅に向かったので、日向坂上の北側の歩道から北に下る神明坂に行けなかった。ここは今年の1月に訪れている。写真はそのときに撮ったものである。

日向坂を上ると、左側に当光寺、そのとなりに龍原寺がある。ちょうどオーストラリア大使館の前である。龍原寺わきの信号のある交差点が神明坂の坂上で、歩道の側に標柱が立っている。その信号を直進すると前回の簡易保険事務センターである。

坂上西側に、志ほあみ地蔵尊の祠があり、花が供えられていた。

右の写真は坂上から撮ったものである。坂下の天祖神社に向けて緩やかに下っている。標柱には次の説明がある。

「しんめいざか 天祖神社を元神明というところから神明坂と呼んだ。馬場坂という説もあるが、綱の手引坂との混同があるらしい。」

尾張屋板江戸切絵図をみると、竜原寺と筑後久留米藩有馬中務大輔の屋敷との間に坂マークのある道があり、坂下東側に、元神明、がある。そこを直進すると、有馬邸内に水天宮がある。近江屋板も同様で坂マークの△印があるが、水天宮はのっていない。

左の写真は坂下の天祖神社の門前を撮ったもので、本殿への階段がみえ、左に坂下の標柱がみえる。正月であったので、初詣の飾り付けがある。

「御府内備考」の「龍原寺門前」に「一里俗この辺一円小山と相唱え申し候右者高キ所故右の様に相唱え候の由申し伝えニ御座候」とあり、小山とよんだことが記されている。しかし、この坂の説明はないようである。

「東京府志料」に「無名坂 三田小山町と赤羽町との間を北へ新堀川中ノ橋の方へ下る坂」とあるので、ここが神明坂であるが、この無名坂を馬場坂と考える説(港区史)があるらしく、この馬場坂説に関し、横関は、この神明坂は、坂下に馬場はないから、馬場坂ではなく、馬場坂が有馬邸の裏(西わき)にあると書いたものもないようである、としている。馬場坂というからには、坂下に馬場がなければならず、それは、前回の記事のように、綱が手引坂下にあったので、その坂の別名ということらしい。

同名の坂は都内に他に二箇所あるが、そのうちの一つは、以前の記事のように、目黒の呑川緑道を歩いたときに訪れた。ここも坂のそばに神明社があった。

右の写真は坂下から撮ったものである。右側が龍原寺で、左上が簡易保険事務センターの敷地である。

この坂には二度ほど訪れているが、はじめにきたとき、なんとなく昔の風景を想像できたような気がした。小高い丘のお寺のわきから下る石垣のある細い坂がある。そんなに急でもなく、坂下には神社がある。お祭りのときには子供たちは心おどらせて坂道を下った。

坂下で右に緩やかにカーブしているが、ここを進み、このときこの坂が最後であったため大江戸線赤羽橋駅に向かった。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
横関英一「続 江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌体系 御府内備考 第四巻」(雄山閣)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

綱の手引坂~赤羽橋

2010年11月03日 | 坂道

綱坂を上り平坦な道から、さきほどまでの日向坂からの通りにでると、通りの向こうに古めかしいが堅牢そうな建物が建っている。この古風な建物は、日本郵政公社の東京簡易保険事務センターのようである。昭和に建築されたのであろうか、高層ビルが多い現代に、こういった建物を見ると懐かしい感じがする。

通りを横断すると、綱の手引坂(綱が手引坂)の坂上である。坂上から撮った右の写真のように、まっすぐに下っており、桜田通りまでかなり長い坂である。勾配は中程度であるが、坂下側は緩やかになる。

坂上に標柱が立っているが、次の説明がある。

「つなのてびきざか 平安時代の勇士源頼光の四天王の一人渡辺綱にまつわる名称である。姥坂(うばざか)とも呼んだが、馬場坂との説もある。」

この坂名もまた、前回の綱坂と同じく、渡辺綱伝説によるものらしい。綱の子供時代、姥が手を引いて上ったり下りたりした坂の意味で、綱が手引坂と呼び、姥坂ともいったのであろうとされている(横関)。

左の写真は坂下から撮ったものである。坂下にも標柱が立っている。西の空は明るいが、だいぶ暮れかかってきた。

別名が小山坂であるが、この坂名について、横関は、この坂の頂上、いま簡易保険局のあるところ一帯の地は、かつて三田小山と汎称されたところで、自然に小山坂と呼ばれたのである、とする。また、別名の馬場坂は、綱には関係なく、この坂のふもとに馬場があったので、そう呼ばれた。この坂下に馬場があったことは江戸絵図や各地誌にも記してあるとのこと。

尾張屋板江戸切絵図では、この坂に坂マークはあるが、坂名はない。近江屋板も坂マークの△印だけである。北側一帯に筑後久留米藩有馬中務大輔の広い屋敷がある。明治地図をみると、この北側一帯は赤羽町で、明治5年創設で海軍の兵器の製造、修理、購買を行う海軍造兵廠があった。

永井荷風は「日和下駄 第八 閑地」に「芝赤羽根の海軍造兵廠の跡は現在何万坪という広い閑地になっている。これは誰も知っている通り有馬侯の屋敷跡で、現在蛎殻町にある水天宮は元この邸内にあったのである。」と記している。尾張屋板江戸切絵図をあらためてみると、確かに有馬邸の北西隅に、水天宮、とある。中ノ橋の近くである。

坂下を進み、桜田通りにでるが、ここを左折し、北に向かうと、右の写真のように、前方に東京タワーが見えてくる。暮れかかった空ににょっきりと立っていてよく目立つ。

中沢新一は「アースダイバー」で、東京タワーは縄文海進期に海原に突きだした大きな半島であったところに建てられたが、この芝の半島のミサキはここに住んだ縄文人たちにとって重要な聖地で、死者を埋葬し、死霊の棲む空間である海の彼方との交感地帯であったとし、このような場所に建てられた東京タワーは超越的領域とのあいだに掛け渡される橋で、いわば既知と未知とをつなぐものであるとする。人々は東京タワーに無意識のうちにミサキの機能を感じとっている。

東京タワーは、来年7月で地上アナログテレビ放送が終了すると、放送塔としての役割を終え、墨田区押上に建設中の東京スカイツリーから地上デジタル放送が送信されるというが、このとき、場所の変化はどのような変化をもたらすのであろうか。

桜田通りの歩道を進むと、東京タワーが大きくなってくる。古川にかかる赤羽橋の手前に、左の写真のように、赤羽橋と刻まれた大きな石柱が立っている。むかしの橋に使ったものであろうか。

荷風は、このあたりのことを「日和下駄 第六 水」で次のように書いている。

「麻布の古川は芝山内の裏手近くその名も赤羽川と名付けられるようになると、山内の樹木と五重塔の聳ゆる麓を巡って舟楫の便を与うるのみか、紅葉の頃は四条派の絵にあるような景色を見せる。」

また、赤羽橋の近くに江戸中期の儒者・漢詩人の服部南郭が住んだことがあったらしく、荷風は「断腸亭日乗」大正12年(1923)に次のように記している。

「十二月三十日。晴天旬に及ぶ。午後赤羽橋に服部南郭が旧居の跡を尋ねしが得ず。森元町新網町辺より新門前町の辺人家多く倒潰するを見る。赤羽川の沿岸土地柔きがためなるべし。夜執筆深更に至る。」

服部南郭の旧居跡は残念ながらわからなかったらしい。この年9月1日に関東大震災が起きているが、その被害の様子を書いている。なかなか観察が細かい。現代の調査結果はこれにあっていると思う(以前の記事参照)。

今回は、六本木の長垂坂から始まって六本木、元麻布、三田まで坂を巡り歩いたが、主に山野を参考にした。橋を渡って左折し、大江戸線赤羽橋駅へ。

今回の携帯による総歩行距離は14.5km。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
横関英一「続 江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
野口冨士男編「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする