東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

善福寺川 桜(2013)

2013年03月25日 | 写真

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新道坂(中目黒)

2013年03月21日 | 坂道

新道坂(駒沢通り)上 新道坂(駒沢通り)上 新道坂(駒沢通り)下 新道坂(駒沢通り)下の道 前回の目切坂上を左折し旧山手通りの歩道に出て、ここを右折する。この先が旧山手通りの終点(始点)の鎗ヶ崎の交差点で、その左右に駒沢通りが延びている。歩道を道なりに歩き、大きく曲がりながら進むと、駒沢通りの歩道となるが、このあたりが坂上で、一枚目の写真のように、緩やかに下っている(現代地図)。

このちょっと坂下側に、二枚目の写真のように金属製の大きめの坂の標識が立っていて、これに新道坂とある。

この歩道を下り、坂下側から坂上を撮ったのが三枚目で、緩やかに上っている。その近くに歩道から下に降りる階段があったので、下りてみると、ガード下に道が続いている。東西に延びる道で、その東側からガード下を撮ったのが四枚目で、ガードの側面に新道坂橋と表示がある。

新道坂下 新道坂下 新道坂下 新道坂下 上四枚目のガード下をくぐり抜けて西へ進むと、まもなく四差路で、ここを右折すると、上り坂となる(現代地図)。ここを直進すると、東横線のガード下を通って前回の目切坂下方面に至り、左折すると、目黒川にかかる橋を通って、中目黒駅方面である。

一枚目の写真は坂下から坂上側を撮ったもので、緩やかに上っている。二、三枚目はそのちょっと上から坂上側を撮ったもので、左側上に東横線が通っていて、右側上は先ほどの駒沢通りである。四枚目はそのあたりから坂下を撮ったもので、坂下の四差路を左折すると、先ほど階段を下ったガード下である。

この坂は駒沢通りの西脇と東横線の間で東北へと上る脇道であるが、新道坂とは、この線路沿いの脇道の坂をいうのか、駒沢通りの坂をいうのか、説が分かれているようである。

横関によれば、新道坂は、明治以後にできた坂で、この線路沿いの道をいうとしている。駒沢通りの坂を新道坂とするのは誤りで、昭和八年ころの東京地形社発行の「目黒区詳細図」には、位置と道筋がはっきりと示されているとする。手元にある「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)も「地形社編」であり、これにも東横線の線路に沿いの道に新道坂とある。

駒沢通りとは、昔からの世田谷道で、この坂は大きな古い坂でありながら不思議なことに坂の名が残っていないとしている。世田谷道は、近江屋板江戸切絵図 渋谷・宮益・金王辺図(嘉永四年(1851))にある古い鎌倉街道で、渋谷の金王八幡前の街道に続き、八幡通りともいわれた。

岡崎は横関と同じであるが、石川は駒沢通りの坂としている。目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」は駒沢通りの坂としてコースを紹介している。山野は、駒沢通りの坂とするが、線路沿いの脇道を旧新道坂とし、いわば折衷説である。

世田谷道は古道で、新道ではなく、部分的にでも新たな道が開かれたのでなければ、古道の坂名にそぐわないように思われ、横関説のとおり、新道坂というのは、文字通り新たな道にできた坂で、明治以降に世田谷道の脇から目黒川方面へ下るように新たに開かれた坂道と考える方が自然のような気がする。

新道坂中腹 新道坂中腹 新道坂中腹 新道坂中腹 一枚目の写真は、坂下からちょっと上ってから坂上側を撮ったもので、この上で左にかくっと曲がっている。二枚目は、その曲がりの上から坂上側を撮ったもので、この上でも右にかくっと曲がっている。三枚目はそのあたりの歩道から坂下側を撮ったもので、東横線が見え、西日でまぶしい。四枚目は、上側の曲がりのあたりから坂上側を撮ったもので、まっすぐに東北へ上っている。これらの写真のあたりで勾配がちょっとあるが、中程度といったところ。

目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」に新道坂の全長、高低差、平均斜度がのっている。これはこの線路沿いの脇道の坂ではなく、駒沢通りの坂のデータと思われるが、参考のために記すと、257m、6.5m、2.68で、かなり長く緩やかである。

横関は、都内のもう一つの新道坂を紹介しているが、それは、文京区西片二丁目14番と白山一丁目24番の間の胸突坂である(以前の記事参照)。この坂は比較的短く、全体が新しく開かれた道である。

新道坂上 新道坂上 新道坂上 新道坂上 一枚目の写真は、坂上近くを撮ったもので、右のフェンスの向こうが駒沢通りの歩道である。二枚目は、そのあたりから坂下を撮ったもので、右に東横線の線路が見える。三枚目はその歩道側から坂下側を撮ったもので、坂の向こうに中目黒駅のホームの端が見えるようで、その線路の右上は、逆光で見えにくいが、目切坂から続く山の中腹のようである。

四枚目は坂上を撮ったもので、駒沢通りとその歩道が見え、この坂道は、駒沢通りのわきにできた道であることがわかる。

上記の標識の説明は次のとおりである(写真から読み取ろうとしたが、不十分であったので「東京23区の坂道」から引用させていただいた)。

「坂名は別所坂と目切坂の間に新しく開かれたため新道坂と呼ぶようになった。坂上の左右に見えるコンクリートのようへきは三田用水のなごりである。三田用水は寛文四年(1664年)芝白金御殿の池水を引くために玉川上水の分水路としてつくられこの尾根を通って三田芝方面に流れていた。人々は農業、工業、雑用水として利用したが、昭和五十年にその流れを止め、約三百年にわたる歴史を閉じた。線路ぎわの狭い坂が旧道である。」

標識によれば、別所坂と目切坂の間に新しく開かれたため新道坂と呼ばれるようになったとあり、いまの駒沢通りの坂が新道坂で、線路沿いの坂が旧道であるということであるが、前半と後半の説明がどうもよく結びつかない。この坂がいずれであっても、別所坂よりも目切坂よりも新しいことになるが、そうすると、古道の世田谷道にあった無名の坂はどうなるのだろうか。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目切坂

2013年03月16日 | 坂道

目切坂下 目切坂下 目切坂下 目切坂下 前回の上村坂下を左折し東へ進む。下町の雰囲気のある通りをしばらく歩くと、一枚目の写真のように、左手に緩やかに上る坂が見えてくるが、ここが目切坂の坂下である(現代地図)。青葉台一丁目6番と上目黒一丁目9番の間。

二枚目の写真は、坂下の左手に立っている標柱の前から坂上側を、三枚目はその先から坂上側を撮ったもので、緩やかに東へ上っているが、その先の第一カーブでちょっとだけ右に曲がってから第二カーブで左へ緩やかに曲がっている。四枚目はちょっと進んでから坂下を撮ったもので、このあたりではほぼ平坦である。

この坂は、右手は樹木のある空地で左手はコンクリート塀、ブロック塀が続き、住宅地が続くところではなく、ときたま下り一方通行で車が降りてくるだけの静かな細い坂道である。坂上の先は、旧山手通り、その先は代官山駅方面で、そちらの方はかなり賑やかであるが、ちょっと入っただけのこのあたりはしんとしている。

目切坂下 目切坂中腹 目切坂中腹 目切坂中腹 一枚目の写真は坂下からさらにちょっと上ってから坂下側を撮ったものである。西日がちょっとまぶしい。二枚目はそのちょっと上の左へ曲がる第二カーブの手前から坂上側を、三枚目はその曲がった先を撮ったもので、このあたりから徐々に勾配がつきはじめる。四枚目は、そのあたりから坂下側を撮ったもので、第一カーブがよく見える。

坂下に立っている標柱に次の説明がある。

「目切坂(めきりざか)
 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の上目黒村の項には「メキリ坂」という坂名が見え、渋谷との境にあり石臼の目を切る職人が住んでいたため目切坂となったと記されています。由来については諸説ありますが、一八○○年代前半には「めきり坂」と呼ばれていたようです。」

坂下の北西角(上一枚目の写真の左端に半分ほど写っている)に「めぐろ風景 目黒区みどりの散歩道 目切坂と旧鎌倉街道」という白い標識が立っている。それには次の説明がある。

「目の前の坂が目切坂。江戸時代、近くに石ウスの目切りをする腕の良い石工が住んでいたことから、この名前がついたという。
 この道はかつての鎌倉街道でもある。源頼朝が鎌倉に幕府を開いた後、変事の際に援軍が鎌倉に急行できるようにとつくられた道の一つ。「いざ鎌倉へ」と、鎧かぶとの武者たちが馬を飛ばしたのは800年も昔の話だ。」

目切坂中腹 目切坂中腹 目切坂中腹 目切坂中腹 一枚目の写真は、第二カーブの先から坂上側を撮ったものであるが、その先に右に曲がる第三カーブが見えてくる。二枚目は、第三カーブを撮ったもので、かなり大きな弧を描きながらカーブしているが、この坂で一番の大きなカーブである。このあたりから勾配が少々きつくなってくる。三枚目は、そのあたりから坂下側を撮ったもので、右へ左へと緩やかに曲がる第一、第二カーブが見える。四枚目は、その上側から坂上側を撮ったもので、第三カーブの上側とその先で緩やかに左へカーブしている第四カーブが見える。

「目切坂と旧鎌倉街道」の標識によれば、この坂は、このあたりにあった鎌倉街道の一部であるという。鎌倉時代から続く坂ということになるが、関東各地にある鎌倉街道伝説によるのであろう。下の近江屋板江戸切絵図には、この坂と思われる道の渋谷川近くに「古カマクラ道ト云う」とあるので、江戸時代からそういわれてきた。目黒区HPのめぐろの道にこの鎌倉街道が説明されている。標柱の方は、もう少しひかえめで、1800年代にはめきり坂と呼ばれていたとする。

目黒区HPの目黒の坂には、この坂名の由来として、坂を斜めに切り通しをしたので、ちょうどひき臼の目切に似ていたという形状由来説も紹介している。また、別名がくらやみ坂、しめ切坂とのことで、前者の坂名はいまの状態からも肯ける。

目切坂中腹 目切坂中腹 目切坂中腹 目切坂中腹 一枚目の写真は、上四枚目のあたりから坂下側を撮ったもので、第三カーブの下側とその下に第二カーブが見える。二枚目はそこから進んで坂上側の第四カーブを、三枚目はさらに進んで坂上側を撮ったもので、この先に左へ曲がる第五カーブが見える。四枚目はそのあたりから坂下側を撮ったもので、第三カーブが見える。

三枚目を見るとわかるように、ここから坂上側には一段高くなった所にも歩道ができており、おまけにこちらの方が広いので、ついこの高く広い歩道の方を歩いてしまうが、写真を撮るため下にもどる。

昭和16年(1941)の目黒区地図を見ると、この坂がのっているが、坂の右側(南)に根津別邸とある。東横線の方までの広い敷地になっている。

目切坂上 目切坂上 目切坂上 目切坂上 一枚目の写真はさらに進んで左へ緩やかに曲がる第五カーブを、二枚目はさらに進んで坂上側を撮ったもので、かなり勾配も緩やかになって、ようやくその先に坂上が見えてきた。三枚目はその途中から坂下側を撮ったもので、第五カーブの下側に第四カーブが見える。四枚目はさらに坂上側から坂下側を撮ったもので、第五カーブがよくわかる。いずれの写真にも高くなった歩道がよく見える。

目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にあるこの坂の全長、高低差、平均斜度は、251m、13.4m、5.27で、ちょっと意外だがかなり勾配がある。第二カーブの上あたりから第四カーブあたりまでちょっと急になっているが、このためであろう。

この坂は、第一カーブ~第五カーブと順序を付けなければ説明できないほどたくさんのカーブが続く(目黒区HPの目黒の坂は四つのカーブとしている)。都内でここまでみごとにうねっている坂はめずらしい。しかも多くの坂は緩やかにカーブしていてもかくっと曲がるように改修されているが、ここはそうでなくみごとに曲線的に曲がっている。たぶんむかしからの坂道がまっすぐに改修されないまま残ったのであろう。奇跡的にむかしのままの坂が現存するといってよいのではないだろうか。しかも人通りの多いところの近くにもかかわらず人から忘れ去られたようにひっそりとしているのもよい。歴史を感じさせ、雰囲気も形状もすばらしい。

目切坂上 目切坂上 目切坂上 目切坂上 地蔵 一枚目の写真は坂上を撮ったもので、坂上の突き当たりを左折すると、旧山手通りである。二枚目は坂上から坂下側を撮ったもので、坂上左側に三枚目の「目黒元富士跡」の標識が立っている。そのわきに「富士信仰と元富士」の白い標識もある。

三枚目に写っているマンションの敷地に文化九年(1812)に上目黒の富士構の人々により築かれた富士塚があったとのことで、この近くの別所坂上に文政二年(1819)に築かれた富士塚が「新富士」と呼ばれたのに対し、ここは「元富士」と呼ばれたとのこと。江戸時代に富士山信仰が流行し、人々は富士講をつくって富士山に登ったが、登れない人のためにつくられたのが人造富士、富士塚であった。

坂上を左折してちょっと歩くと、右手のビルの側に四枚目の地蔵が祀られている。そのわきの説明板によると、この地蔵尊は文政元年(1818)の造立で、台座には「右大山道、南無阿弥陀仏、左祐天寺道」と刻んであり、道しるべの役割も果たしたという。

近江屋板 渋谷・宮益・金王辺図(嘉永四年) 左は、近江屋板江戸切絵図 渋谷・宮益・金王辺図(嘉永四年(1851))の部分図で、元富士と新富士が見えるが、それらの位置がよくわからなかった。近くの川を目黒川と思ったからである(離れた方は渋谷川)。調べたら、いまの旧山手通りのあたりを三田用水が流れていたようで、近くの川は目黒川ではなく三田用水と考えると、辻褄が合う。そうすると、元富士の下の道がこの坂ということになるが。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
菅原健二「川の地図辞典 江戸・東京/23区編」(之潮)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上村坂

2013年03月09日 | 坂道

上村坂下 上村坂下 上村坂下 上村坂下 前回の西郷橋から旧山手通りの歩道を東南へ進むと、まもなく、右手に下り坂が見えてくるが、ここが上村坂の坂上である(現代地図)。青葉台一丁目4番と5番の間。坂下から写真をならべる。

坂下の信号のある交差点の付近でほぼ平坦である。一枚目の写真は、そのあたりから東北の坂上側を撮ったもので、坂下からしばらくかなり緩やかである。交差点の東北角に坂の標柱が立っているが、二枚目はそれを坂上側から撮ったものである。

三枚目は坂下のちょっと先から坂上側を撮ったもので、徐々に勾配がついてくる中腹付近が見える。四枚目は、そのあたりから坂下を撮ったもので、直進すると目黒川である。

上村坂下 上村坂中腹 上村坂中腹 上村坂中腹 一枚目の写真はさらに坂下の先から坂上側を撮ったものである。二枚目はその上の中腹から坂上側を撮ったもので、この上で左にちょっと曲がっている(下一枚目の写真)。三枚目はそのあたりから坂下を撮ったもので、ちょっと急になっていることがわかる。四枚目は二枚目と同じく坂上側である。

坂下に立っている標柱に次の説明がある。

「上村坂(かみむらざか)
 上村坂という名前の由来は、明治時代の軍人で海軍大将・男爵にまですすんだ上村彦之丞(かみむらひこのじょう)の邸宅が、この坂の上にあったためといわれている。」

上村彦之丞は、薩摩藩出身で、嘉永2年5月1日(1849年6月20日)生まれ、大正5年(1916年)8月8日に没している。この坂は、たぶん、明治時代に開かれたのであろう。昭和16年(1941)の目黒区地図には、坂名がちゃんと記されている。

上村坂中腹 上村坂中腹 上村坂中腹 上村坂上 一枚目の写真は、中腹でちょっと曲がったところから坂下を撮ったものである。二枚目は、そのあたりから坂上側を撮ったもので、この上で左にかくっと曲がっている。三枚目はそのちょっと上から坂下側を撮ったもので、西日がちょっとまぶしい。四枚目は、坂上側の左へかくっと曲がったところから坂上を撮ったもので、このあたりではかなりの勾配となっている。

この坂は、坂下側ではかなり緩やかであるが、坂上に近づくにつれてかなり急になっていく。目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にあるこの坂の全長、高低差、平均斜度は、180m、13.8m、6.9で、ずいぶんと急な坂であるが、これは坂上側の勾配から実感できる。

上村坂上 上村坂上 上村坂上 上村坂上 一枚目の写真は、上四枚目の位置よりも上側から坂下側を撮ったもので、曲がっているため、坂下は見えなくなっている。二枚目は、そのちょっと上から坂上を撮ったもので、そうとうに急である。三枚目はそのさらに上側から坂下側を撮ったものである。

四枚目は、坂上を撮ったもので、旧山手通りの交差点が見え、その向こうは渋谷区で、都立第一商高がある。かなり前、渋谷駅の方からこの向かいの道に出て、この横断歩道を渡り、この坂を下って、目黒川方面へと歩いた覚えがある。そのときの印象だが、渋谷駅から目黒川までそんなに遠くない。

この坂は、坂上から下り始めるといきなりかなりの勾配であるため、そのむかしは、この台地の南にできたかなり急な崖地であったのだろうと想像してしまう。目黒区HPのここにこの坂がちょっとだけでてくる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無名坂~菅刈公園・西郷山公園

2013年03月06日 | 坂道

無名坂上 旧山手通り裏道 無名坂上 無名坂上 前回の相ノ坂上を右折し、東南へ向かう。この坂上の旧山手通りを含めた一帯は、笹塚の方から東南へ延びる台地にある。東の渋谷川の流域に発達した谷と、西の目黒川の流域に発達した谷との間で細長く品川方面へと延びる台地であるが、品川の海岸手前の高輪台地で南北に長くなっている。台地といっても、その間に大小の谷が発達し凸凹である。

この台地から渋谷川方面へ下るのが道玄坂で、目黒川方面へ下るのが相ノ坂であるが、坂上から裏道を東南へと歩いていると、次々と、南西(目黒川方面)へ下る坂に出くわす。

一枚目の写真は、坂上からまもなくの所の四差路から下る無名坂である(現代地図)。二枚目は、その先で撮ったこの裏道である。

三枚目は、そこから歩いた先にある階段の上から撮ったものである。四枚目は、その先の四差路から下る坂を撮ったもので、西へまっすぐに下っている。このあたりは、そのむかし、この道のあたりに沿って崖ができていたと思わせるような所が続いている。

無名坂中腹 無名坂中腹 無名坂下 菅刈公園 まっすぐに進めば、西郷山公園であるが、そうせず、上記の無名坂を下ってみる。中程度の勾配で、かなり長い。その坂下で坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、ここが坂下と思ったら、そうではなく、上記のはじめの四差路から下ってくる坂道と合流して、さらに下っている。その中腹から坂下側を撮ったのが二枚目で、この坂の右側(北西)は、相ノ坂の角にあった菅刈小学校の敷地に近い。この坂下から坂上側を撮ったのが三枚目で、全体としてはかなり長く、高低差もかなりあると思われる。

坂下を左に曲がり、そのまま進むと目黒川であるが、途中、左側に入ると、四枚目の写真のように、菅刈公園である(現代地図)。この公園は、西郷隆盛の弟で明治期の政治家・軍人であった西郷従道の邸宅があった所である(目黒区HPの菅刈公園の説明)。

菅刈は古い地名で、中世のころの荏原郡の西部に菅刈の庄があり、目黒も菅刈の庄に含まれていたという(石川)。岡崎は、相ノ坂を、菅刈坂とした方がよいとしているが、先ほど下った無名坂をそう呼んでもよさそうである。

菅刈公園 菅刈公園 無名坂下 西郷山公園 菅刈公園の広場には、一枚目の写真のように、雪がまだ広く残っている。公園内の端の道に行くと、二枚目のように、上り坂が続き、公園内の散策に適したよい坂道となっている。ここを上って、公園の外に出ると、三枚目のように、上り坂がまっすぐに東へ延びているが、ここも無名坂である。先ほど下った分だけ上ると、坂上右に、四枚目のように、西郷山公園の入口がある(現代地図)。

目黒区HPにある西郷山公園の説明によれば、公園名は、旧西郷邸の敷地の北東部分にあたり、「西郷山」という通称で親しまれていたことから決まったとのこと。

昭和16年(1941)の目黒区地図を見ると、先ほど下った無名坂の東から菅刈公園の東端まで西郷邸となっている。約二万坪でかなり広大である。ここに建てられていた西洋館は明治村に保存されているとのこと(目黒区HP)。

西郷山公園 西郷山公園 西郷山公園 西郷橋 公園の中に入って南側に行くと、南西方向の眺めがよい。一、三枚目は、ここから撮ったもので、二枚目は公園内を撮ったものである。この眺望のよい所がこの台地の南西の縁で、崖下も公園の敷地であるが、その先が菅刈公園で、目黒川に沿って広がる谷である。

公園から旧山手通りの歩道に出て東南方向に進むが、すぐのところにかかっている橋が西郷橋である。四枚目は橋から下の道を撮ったもので、この道の先(南側)は、菅刈公園の東端へと延びている。北側は渋谷区鉢山町の方の低地で、そこから先は渋谷川に沿って広がる谷である。西郷橋の下のあたりはこの台地を分断するような谷であったと思われる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
中沢新一「アースダイバー」(講談社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする