東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

芥川龍之介と忠臣蔵(3)

2011年09月29日 | 文学散歩

前回の築地訪問の後、芥川龍之介が幼年時代から十代後半まで過ごした本所小泉町を訪ねた。

両国橋東側 回向院前 芥川龍之介生育の地の標柱 芥川家跡 柳橋の方から両国橋を渡って、東へ京葉道路の北側の歩道を進む。一枚目の写真は、両国橋を渡り、振り返って撮ったもので、欄干のわき遠くに神田川の河口にかかる柳橋が見える。

橋からちょっと歩き二つ目の信号のところが、二枚目の写真のように、回向院前である。この横断歩道を渡り、進むとまもなく、左手に横綱横町の小路が見えてくる。ここの歩道の右側(車道側)に三枚目の写真のように「芥川龍之介の生育の地」の標柱が立っている。四枚目の写真は、標柱の背面と、その向こうの龍之介が育った芥川家跡を撮ったものである。現在、食堂となっている。

尾張屋板江戸切絵図(本所絵図)を見ると、回向院の北側に小泉丁、横綱丁があり、東側に土屋平八郎邸がある。その北側に道を隔てて細川若狭守の屋敷がある。この本所絵図は、三版中最終版(1863)で、初版が嘉永五年(1852)であるが、この嘉永の本所絵図に、細川若狭守邸はなく、芥川などの小さな屋敷がある。近江屋板を見ると、回向院東側の土屋佐渡守邸、その東側の本多内蔵助邸の北側に、ひとまとめにして多数の姓が記してあり、その右の筆頭に「芥川」とある。芥川家は、代々御奥坊主をつとめた家柄で、この回向院の近くに屋敷があったものと思われる。

横綱横町と芥川家跡付近 芥川龍之介生育の地の説明板 説明板の写真 芥川龍之介文学碑 一枚目の写真は、横綱横丁の門構えの看板と、その左側の芥川家跡のあたりを撮ったものである。その看板の下右側に、二枚目の写真のような芥川龍之介生育の地の説明板が立っている。この説明文の下に、本所小泉町芥川家の写真がのっているが、三枚目は、その拡大写真である。私的には説明文よりもこの写真の方に興味がある。

芥川家は、本所区小泉町十五番地にあったが、明治地図を見ると、同番地は、両国橋から延びる電車通りに面し、そのわきに小路があるが、これがいまの横綱横町であろう。上記の説明板の写真は、明治時代の芥川家であるが、当時の雰囲気がよく伝わってくる。龍之介の養父道章は、東京府の土木課に勤務していたというが、これが当時の中産階級にふさわしい家なのであろうか。

標柱の所から東へちょっと歩くと信号があるが、ここで京葉道路を横断し、そのまま南へ直進し、一本目の左角に、四枚目の写真のように芥川龍之介文学碑が建っている。これが上記の説明板にある小学校前の文学碑と思われる。石碑には「杜子春」の一節が刻まれている。

吉良邸跡 本所松坂町公園由来 吉良邸跡 吉良邸跡 芥川龍之介文学碑を左に見て南へ進み、二本目を右折し、西へ歩くと、すぐの四差路の右側に、一枚目の写真のように吉良邸跡が見えてくる。ここは、二枚目の写真の説明板(三枚目の写真に写っている)のように、元禄15年(1702)12月14日赤穂浪士が討ち入った吉良上野介の上屋敷があったところである。昭和9年(1934)地元の有志が旧邸跡の一画を購入し史蹟公園とし、現在、墨田区管理の本所松坂町公園となっている。中に入ると、稲荷社があり、四枚目の写真のように、奥隅に上野介のみしるしを洗ったという井戸が再現され、吉良上野介の座像などがある。

吉良上野介の屋敷は、もちろんもっと広く、東西73間(133m)、南北35間(64m)、2550坪(約8400平方m)ほどで、この邸跡は86分の1程度という。この邸宅が本所松坂町一丁目、二丁目(現、両国二丁目、三丁目)にあったが、芥川家のあった本所小泉町十五番地の近くで、歩いて3~4分程度である。

芥川家は、下町的な江戸趣味の濃い一家で、家族全員が文学や美術を好んだというが、こういう雰囲気の中で、たとえば、大正5年(1916)2月作の短篇「孤独地獄」の冒頭に「この話を自分は母から聞いた」とあるように、龍之介は養母や伯母たちからいろんな物語や歴史話を聞いて育ったと想われる。そんな中に忠臣蔵物語もあったことは想像に難くない。なんといっても討ち入りの現場はすぐ近くであるから、話が真に迫りリアルであったに違いない。

上記の本所松坂町公園由来の説明板に「赤穂義士」とあるが、これが世間一般の忠臣蔵感であったし、いまでもまだそうであろう(「忠臣蔵」という言葉も「赤穂義士」とほぼ同義であるが)。勧善懲悪的な物語は世間に受けるものであるが、大石内蔵助ら赤穂浪士が艱難辛苦の末、主君の仇を討ったという忠臣蔵物語は、その最たるものである。龍之介の聞いた話もそういったニュアンスの濃いものであったであろう。

芥川龍之介は、前回の記事の短篇小説「或日の大石内蔵之助」を書いた大正6年(1917)8月当時、「鼻」(大正5年1月作)の発表後、師の漱石から讃辞を受け、大正5年(1916)12月から横須賀の海軍機関学校の英語教師の職を得て、その後漱石の死に遭遇したが、養父母らの実家から離れて鎌倉に住んで創作に打ち込んでいた。

そんな中で書かれた「或日の大石内蔵之助」は、単に歴史上の人物を俎上に載せて独自の解釈を加えただけのものではなさそうである。それは少年時代に聞いた物語を元にしながら、そんな物語を育む江戸から明治へと綿々と続く下町的な固定観念や親和的な雰囲気、それはおそらく、龍之介がもっとも馴染んだものであったに相違ないであろうが、そういったものを対象化した結果のように思えてくる。

誕生の地(鉄砲洲)がかつて赤穂藩浅野家の屋敷であったことを、感受性が強く人一倍鋭敏であったに違いない少年は、知ったのではないだろうか。それと育った近所が仇討ちの現場であったこととが結びついて少年の心に深く残った。そういったことが、この短篇を書くきっかけになったように思えて仕方がない。二つの偶然性が芥川の内部で必然性に転化したのである。

時津風部屋 吉良邸跡から両国駅方面にもどるが、写真は、その近くにある相撲部屋の時津風部屋である。
(続く)

参考文献
芥川龍之介全集1(筑摩書房)
新潮日本文学アルバム「芥川龍之介」(新潮社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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芥川龍之介と忠臣蔵(2)

2011年09月25日 | 読書

芥川龍之介に「或日の大石内蔵之助」という短篇小説がある。或日というのは、大石内蔵之助が、吉良邸への討ち入りの後、高輪の細川家に他の同志十六名とともに預かりの身であったときである。

内蔵之助は、快い春の日の暖かさの中、安らかな満足の情があふれるのを感じる。もちろん本意を遂げたからであるが、そういった平安の心にさざ波が生じる。小さな出来事をきっかけにして、そこから心が乱れてしまう。内蔵之助の内面を芥川流に描き出している。

討ち入りに余りにも過剰に反応する世間、その世間話を伝える細川家の家臣で赤穂浪士の接伴係の一人である堀内伝右衛門、それを面白がり話題にしようとする早水藤左衛門、しかしそれを聞いて不愉快になる内蔵之助。

『「手前たちの忠義をお褒める下さるのは難有いが、手前一人の量見では、お恥しい方が先に立ちます」
 こう云って、一座を眺めながら、
「何故かと申しますと、赤穂一藩に人も多い中で、御覧の通りここに居りまするものは、皆小身者ばかりでございます。尤も最初は、奥野将監などと申す番頭も、何かと相談にのったものでございますが、中ごろから量見を変え、遂に同盟を脱しましたのは、心外と申すより外はございません。その外、進藤源四郎、河村伝兵衛、小山源五右衛門などは、原惣右衛門より上席でございますし、佐々小左衛門なども、吉田忠左衛門より身分は上でございますが、皆一挙が近づくにつれて、変心致しました。その中には、手前の親族の者もございます。して見ればお恥しい気のするのも無理はございますまい」』

これは、一同の会話が不愉快な話になるのを阻むためとっさに内蔵之助が語ったこと、というのがこの小説の設定である。

しかし、上記の大石内蔵之助の話をきっかけに、変心して同盟を脱した者に対する同志達の罵りがはじまると、接伴係の伝右衛門までもが同調して同じように憤る有様である。大石独りが変心した彼等を心の内で擁護する。彼等の変心の多くは自然すぎる程自然であった。気の毒な位な真率(まじめで率直なこと)である。そして、「何故我々を忠義の士とする為には、彼等を人畜生としなければならないのであろう。我々と彼等の差は、存外大きなものではない。」

話はさらに別の望まぬ方向にそれて、一年程前の内蔵之助の京都島原や橦木町での遊蕩さえも仇の細作(スパイ)の目を欺くためと絶賛されてしまう。しかし、内蔵之助は、そのような遊びの中に「復讐の挙を全然忘却した駘蕩たる瞬間を味わった」ことを否定できない。「彼の放埒の全てを、彼の忠義を尽す手段として激賞されるのは、不快であると共に、うしろめたい。」

大石は、変心した者に対しては寛容の心を持ち、彼等と大きな差はないとまで思い、遊蕩三昧の京都時代のことは本気でもあったことを否定せず、うしろめたさもあるという、きわめて人間性に富んだ人物、あるいは、それ以上に内省する者として描かれている。

明治42年(1909)刊行の福本日南「元禄快挙録」は、その題名からもわかるように、忠臣蔵礼賛・讃美に貫かれている。善と悪の二極が存在し、絶対的な善が悪・敵の存在によりいっそう浮かび上がるという構図である。善はもちろん赤穂浪士で(それゆえ、義士、義徒)、敵は仇討ち対象の吉良上野介だが、それ以上の存在である悪は、変心した背盟の七十四名の輩である(それゆえ、七十四醜夫)。

芥川のこの短篇は、大正6年(1917)8月15日作であるが、当時、日南のように赤穂浪士を義士・義徒とし正義とする風潮が一般的であった中でどう受けとめられたのであろうか。その内容からかなり特異なものとされたに違いない。特に背盟者に対する大石の寛容な心持ちなどは、日南などによる礼賛史観、それの裏返しの裏切者罵倒史観からすればまったく認められない。彼等と大きな差はないなどとすることは、あり得ず、理解を超えたものであったと想われる。

芥川は、大石の心を多面的に描き、その内面に肉薄することで、善・正義という一方向で平板な視点から大石という人物像を解放した。旧来の大石像を壊そうとした。芥川によってはじめて忠臣蔵物語は善悪二元論を越える地平に達したのである。

数年前にこの短篇を読んだとき、さほどの違和感を感じなかったが、元禄快挙録をその後に読むと、両者の刊行の時期はさほど離れていないのに、その違いに愕然とするほどである。

吉田精一は芥川文学の材源、出典の考察で、『主として「堀内伝右衛門覚書」か。福本日南「元禄快挙録」も参看か。』としている。真山青果もこの短篇はその覚書が題材であるとしている。堀内伝右衛門覚書とは、上記の細川家の接伴係であった伝右衛門によるメモである。その覚書を日南も参考としており、「二六五 細川邸における内蔵助」に、上記の内蔵之助による「皆小身者ばかりで・・・」の語りと同じセリフが出てくる。すなわち、『「・・・。そのうちには拙者親族さえ交りおり、寔(まこと)に御恥かしい次第でおざりまする」と慨然たるものこれを久しゅうした。』というのがそれであり、恥ずかしい次第であると大石が憤り嘆いたとしているが、これを芥川は、上記のように、嫌な話の方向転換のための方便から語ったことという位置づけに変えた。これから始まって、変心した者達と大きな差はないとするにまで至るのである。

芥川が題材にしたという堀内伝右衛門覚書自体がすでに赤穂浪士礼賛の立場に立つ者によるもので、それから壊しにかかったことは、伝右衛門の描き方から想像される。日南は、その著書でさかんに史実に忠実に描くとしているが、その史実自体がそういう主観性の強いものに基づくから、忠臣蔵讃美になることは当然のことであった。この意味で、芥川は当時の世間一般の忠臣蔵感のみならず堀内覚書に象徴される江戸元禄という過去をも俎上に載せなければならなかったのである。
(続く)

参考文献
芥川龍之介「戯作三昧・一塊の土」(新潮文庫)
芥川龍之介全集1(筑摩書房)
福本日南「元禄快挙録(上)(中)(下)」(岩波文庫)
真山青果「元禄忠臣蔵(下)」(岩波文庫)

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芥川龍之介と忠臣蔵(1)

2011年09月22日 | 文学散歩

築地川跡公園 浅野内匠頭邸跡 浅野内匠頭邸跡説明板 元禄江戸図(一部) 前回の築地三丁目から本願寺横を南に七丁目方面へ進むと、途中、公園風のところを横断するが、ここは一枚目の写真のように築地川を埋め立てたあとの公園らしい。位置的にはこのあたりに築地川にかかっていた備前橋があったと思われる。

橋の跡を越えてから左折し、次の信号を越えてちょっと歩くと、右手の歩道わきに樹々が茂った狭く細長い公園のような所がある。ちょうど聖路加看護大学の裏手のあたりである。ここに、浅野内匠頭邸跡と刻まれた石柱が建っている。

石柱のわきの説明板には、ここから南西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯八千九百余坪の地は、忠臣蔵で有名な赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南二面は築地川に面していたとある。浅野内匠頭長矩は、元禄十四年(1701)三月十四日、江戸城内松の廊下で、高家の吉良上野介に斬りつけ、傷を負わせ、その咎で即日、切腹を命ぜられ、この上屋敷などは没収され、赤穂藩主浅野家は断絶となった。

四枚目は、元禄六年(1693)作の元禄江戸図(江戸図正方鑑)の部分拡大図(下が東)である。西本願寺の川を挟んで右斜め下に、「ハリマ アカシ アサノ □□」とあるが、ここが赤穂藩主浅野家の上屋敷であろう。西本願寺側の橋が、尾張屋板江戸切絵図にある備前橋で、そこから横に離れたところの橋が、同じく軽子橋と思われる。

現在の湊、明石町あたりの地は、鉄砲洲と呼ばれていた。寛永(1624~44)のころ、井上、稲富の両家が大筒(大砲)の試射をしたためこの名がついたという。出洲の形が鉄砲に似ているからとの説もある。

浅野家の鉄砲洲邸の立退きのときに、屋敷の後ろにたくさんの船を用意し、主家の重宝什器を始め、思い思いに立ち退き行く家中の財産家具を積み載せ、一々番号の札を付けて運搬させたので、さほどの混雑もなくその夜のうちに方付いたという伝説がある。

浅野内匠頭邸跡と芥川龍之介生誕の地芥川龍之介生誕の地芥川龍之介生誕の地の説明板 一枚目の写真のように、浅野内匠頭邸跡の石柱の右方十数m程度のところに、二、三枚目の写真の芥川龍之介生誕の地の説明板が立っている。

芥川龍之介は、明治25年(1892)3月1日京橋区入舟町八丁目一番地に父新原敏三、母フクの長男として生まれた。上記のように、現在、聖路加看護大学があるところである(下のgoo地図参照)。父は渋沢栄一経営の牛乳販売業耕牧舎の支配人で、このあたりに乳牛の牧場があった。ハツ、ヒサの姉がいたが、ハツは龍之介が生まれる前年に病没した。

辰年辰月辰日の辰の刻に生まれたので、龍之介と命名されたという。これは、師の夏目漱石が誕生日と生まれた時刻によると大泥棒となるという迷信から、それを避けるには金の字や金偏のつく字がよいとのことで、金之助と命名されたことと似ている。もっとも、当時は、一般的に誕生日の干支やその迷信などから命名することも多かったと思われる。

父42歳、母33歳の大厄の年の子であったため、旧来の迷信により形だけの捨て子にされたという。拾い親は、父敏三の友で耕牧舎の松村浅二郎であった。

芥川龍之介の生誕の地は、上記のように、かつて赤穂藩主浅野家の鉄砲洲の上屋敷があったところと重なる。といっても、赤穂藩主浅野家断絶の後、他家の屋敷となり、しかもかなりの時を経ているが。文久元年(1861)の尾張屋板江戸切絵図(京橋南築地鉄炮洲絵図)では、南西端が田沼玄蕃頭邸、そのとなりが松平周防守邸である。
 

誕生八ヶ月後、生母フクが発狂したため、龍之介は本所区小泉町十五番地(現、墨田区両国3-22-11)の母方の伯父(生母フクの実兄)である芥川道章に引き取られた。道章には妻トモとの間に子がなく、また、同家には道章の妹フキ(フクの直姉で生涯独身だった)がいて子育ての人手には困らず、龍之介は、主にこの伯母フキの手で育てられ教育されたという。姉ヒサも同家に引き取られたと思われる。

龍之介は、本所の芥川家で育ち、江東尋常小学校、江東小学校高等科、東京府立第三中学校(現、両国高校)を経て、明治43年(1910)9月、18歳のとき、第一高等学校第一部乙類に推薦入学した。同年、秋、芥川家は、本所小泉町から内藤新宿二丁目七十一番地に移った。その後、大正3年(1914)10月末、北豊島郡滝野川町字田端四百三十五番地に新築した家に転居した。ここが龍之介終生の住まいとなる。

この間、明治37年(1904)8月、12歳の時、龍之介は、芥川家と正式に養子縁組を結んだ。前々年12月に実母フクが亡くなっている。実父新原敏三は、耕牧舎の事業もきわめて順調で、龍之介を愛し手元で育てることを願っていたが、種々の理由からそれを断念したらしい。芥川家の上記の内藤新宿の転居先は、耕牧舎牧場の一隅にあった新原敏三の持家であったというから、両家は普通以上のつき合いがあったと思われる。

芥川家のあった本所小泉町は隅田川に近く、隅田川では明治43年8月に豪雨のため堤防が決壊し大水害が起きたので(以前の記事参照)、この年の秋の上記の転居は、これが理由であったかもしれない。
(続く)

参考文献
福本日南「元禄快挙録(上)」(岩波文庫)
朝日新聞社会部「東京地名考 上」(朝日文庫)
新潮日本文学アルバム「芥川龍之介」(新潮社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)

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永井荷風住居跡近く(築地)

2011年09月19日 | 荷風

永井荷風は大正9年(1920)5月麻布市兵衛町の偏奇館に移るが、その直前には築地に住んでいた。今回は、その築地の住居跡を訪ねた。
 

荷風は築地に大正7年(1918)12月余丁町から移ったのであるが、その住所は、京橋区築地二丁目30番地であった。現在の築地本願寺隣り(東北側)の築地三丁目10,11,12番地のあたりであるが、ある程度の広さがあり、秋庭太郎の著書を見ても具体的な位置の記述はなく、実際にどこにあったか不明である。(秋庭太郎「考証 永井荷風」は、昨年、岩波現代文庫(上)(下)の二冊として新仮名遣いに改められて出版されたが、この新版の文庫本を参考にした。)

荷風が父から相続した余丁町の邸宅を売り払い、築地に移った理由などは以前の記事のとおりである。築地から麻布市兵衛町に移った事情なども以前の記事にある。 

築地本願寺と築地三丁目の間の道路 午前日比谷線築地駅下車。

上の地図で「goo地図へ」をクリックした地図画面から古地図(明治地図、昭和22年・38年の航空写真)を見ることができるが、その明治地図(人文社発行の「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」と同じ)では、本願寺側に築地郵便局があり、そこを西の角として京橋区築地二丁目30番地がほぼ正方形状に広がっている。

明治地図と戦前の昭和地図を見ると、本願寺前の道路は、電車通りでなく、その北西方向の次の通りが電車通りであった。本願寺の敷地が明治地図の時代から変わらないとすると、本願寺前の道路が現在の広い新大橋通り(その地下を日比谷線が通っている)である。戦前の昭和地図では、本願寺前が市場通りとなって茅場橋の方へと延びており、いまの新大橋通りがほぼできていたと思われる。

左の写真は、築地駅1番出口を出ると、本願寺の塀が見えるが、ここから新大橋通りを左に見てちょっと進み、すぐの信号を渡って右折したところから撮ったもので、右の道路の向こうが本願寺で、左が築地三丁目11番地の西の角である。この角が明治地図と同じ位置とすると、ここに築地郵便局があった。

築地三丁目11番地付近 築地三丁目10,11番地付近 築地三丁目10番地付近 築地三丁目12番地付近 上記の道路の歩道を本願寺を右に見てちょっと歩くと、左手にガソリンスタンド(ENEOS)があるが、ここを左折して撮ったのが一枚目の写真で、そこをちょっと進んで撮ったのが二枚目の写真で、左手が築地三丁目10,11番地の境で、右手が12番地である。道はまっすぐに東北へ延び、両わきはビルばかりであり、住宅地というよりも商業地といった方がよいところである。

三枚目の写真は、さらに進み、築地三丁目10番地の角から延びる小路を撮ったもので、写真奥側は新大橋通りである。その小路の反対側に延びる小路を撮ったのが四枚目の写真で、右手が12番地である。

ふたたび明治地図を見ると、京橋区築地二丁目30番地には、築地本願寺前の道路と平行な道が一本ほぼ中央に通っている。これが現在の上記のガソリンスタンドを左折した道と同じ通りか否か不明である。現在の道は中央というよりも築地本願寺前の道路に近いからである。戦前の昭和地図では、現在の道筋とほぼ同じである。この間に変わったのであるが、関東大震災の影響かもしれず、荷風が住んだのは震災前であるから、明治地図の方に近かったと想像される。

上の五枚の写真を見てもわかるように、当時を偲ぶことのできるものはなにもないといえそうである。もっとも、これは、荷風生誕地偏奇館跡などみなそうであるが。相違点はただ一つ、教育委員会などによる案内標識が立っていないことだけ。

築地三丁目界隈 築地七丁目界隈 築地七丁目界隈 上記の写真を撮った後、築地三丁目や七丁目のあたりをぶらついたが、三枚の写真は、そのとき撮ったものである。いずれも下町ふうの雰囲気を醸し出しているような感じがして思わずシャッタをきった。

荷風に、この築地を背景にした短篇小説「雪解」がある。主人公兼太郎は、五年前の株式の大崩落に家をなくし妻とは別れ妾の家から追い出され、丁度五十歳の時人の家の二階を借りるまでに失敗してしまった。その家が京橋区築地二丁目本願寺横手の路地にあるという設定である。

「路次の雪はもう大抵両側の溝板の上に掻き寄せられていたが、人力車のやっと一台通れる程の狭さに雪解の雫は両側に並んだ同じような二階屋の軒からその下を通行する人の襟頸(えりくび)へ余沫(しぶき)を飛ばしている。それを避けようと思って何方かの楣(のき)下へ立寄ればいきなり屋根の上から積った雪が滑り落ちて来ないともわからぬので、兼太郎は手拭を頭の上に載せ、昨日歯を割った下駄を曳摺りながら表通りへ出た。向側は一町ほども引続いて土塀に目かくしの椎の老木が繁茂した富豪の空屋敷。此方はいろいろな小売店のつづいた中に、兼太郎が知ってから後自動車屋が二軒も出来た。銭湯も此の間にある。蕎麦屋もある。仕出屋もある。待合もある。ごみごみした其等の町家の尽る処、備前橋の方へ出る通りとの四辻に遠く本願寺の高い土塀と消防の火見櫓(ひのみやぐら)が見えるが、然し本堂の屋根は建込んだ町家の屋根に遮られて却って目に這入らない。区役所の人夫が掻き寄せた雪を川へ捨てにと車に積んでいるのを、近処の犬が見て遠くから吠えて居る。太い電燈の柱の立って居るあたりにはいつの間にか誰がこしらへたのか大きな雪達磨が二つも出来ていた。自動車の運転手と鍛冶屋の職人が野球の身構で雪投げをしている。」

主人公が銭湯へ出かける道すがらの描写であるが、表通りとは本願寺前の通り、備前橋の方へ出る通りとの四辻とは表通りと本願寺横の通り(上一枚目の写真の通り)との交差点と思われる。この四辻で、自動車屋、銭湯、蕎麦屋、仕出屋、待合などのごみごみした町家が尽き、その向こうは本願寺の土塀であった。荷風のすぐれた描写によりその当時のこの街の様子がよくわかる。

「何しろここでお前に逢はうとは思はなかった。お照、すぐそこだから帰りに鳥渡(ちょいと)寄っておくれ。お父(とツ)さんはすぐそこの炭屋と自転車屋の角を曲がると三軒目だ。木村ツていふ家にいるんだよ。曲って右側の三軒目だよ。いいか。」

主人公は銭湯で昔に別れた娘のお照と偶然に会い、訪ねてくるように間借りの家の位置を説明しているが、そこは、表通りから炭屋と自転車屋の角を曲がって右側の三軒目である。明治地図には表通りから入る小路が中程にあるが、この小路に、その角を曲がって右側の三軒目の家があったのかもしれない。この小説で主人公が間借りをしている家が荷風の住居と同じ所という設定であれば、荷風の住居は、表通り近くにあったということになる。また、その小路がいまの築地三丁目10番地の角から新大橋通りへ延びる小路とすれば、上三枚目の写真の左側ということになるが、はたしてどうであろうか。

荷風はこの小説を大正11年(1922)2月に脱稿しているが、断腸亭日乗に次のように記している。

大正11年「二月八日。小説雪解前半の草稾を明星に寄送す。風雨屋上の残雪を洗ふ。」

「二月十日。残雪跡なく雨後の春草萋々たり。夜月明なり。風月堂にて晩食を喫し、築地旧居のあたりを歩む。目下執筆の小説雪解の叙景に必要の事ありたればなり。」

「二月十四日。短篇小説雪解の稾を脱す。七草会末広に開かるゝ由通知ありしが徃かず。此日も温暖四月の如し。梅花咲く。」

2月10日には、銀座の風月堂で夕食をとってから、この築地の旧居のあたりに小説の参考のために散歩に来ている。
(続く)

参考文献
秋庭太郎「考証 永井荷風(上)」(岩波現代文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「荷風全集 第十四巻」(岩波書店)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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玉川上水・内藤新宿分水散歩道2011(9月)

2011年09月17日 | 写真

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中坂(平河町)~三べ坂~富士見坂

2011年09月16日 | 坂道

中坂下 中坂上側 中坂中腹 中坂中腹 前回の鍋割坂から中坂へ行く。ここは、すでに訪れたことがあり、以前、記事("貝坂~中坂")にしているが、鍋割坂の近くということで再訪した。前回は、坂上側からであったが、今回は坂下側からアクセスした。

国立演芸場の前を通って突き当たりを右折し、次の信号を左折すると、中坂の坂下である。その突き当たりを左折するとすぐに青山通りで、右側は、中坂下をすぎ、天満宮を左に見て、新宿通りを横断し、永井坂や御厩谷坂などを通って靖国通りに至る道筋である(前回の記事の街角案内地図参照)。

坂下からまっすぐに西へ緩やかに上っているが、途中、右へ少し曲がってからふたたびまっすぐ緩やかに上っている。坂上左側に標柱が立っているが、これは上記の前回の記事で紹介した。

中坂中腹 中坂上側 中坂中腹 平河天満宮 千代田区のホームページに次のように紹介されているが、前回の記事にある標柱と説明がちょっと違うようである。

「17.中坂(なかざか)  平河町一丁目、平河天満宮の西裏付近から社殿の南を報知新聞社わきまで下る坂です。元禄4年(1691)の江戸図には平河天満宮の西裏参道はまだ描かれていなく、宝永(1704-1710) 以降の江戸図に現在のような道筋が現れて来ます。坂の名の由来ははっきりしませんが、中坂をはさんで北側に町屋、南側に武家屋敷があったことによるかも知れません。同名の坂は「39.」にもあります。」

上記の同名の坂とは、九段坂と冬青木坂との間の中坂のことである。この中坂の記事で、江戸時代、既設二坂の中間に新坂ができると、中坂と呼び、中坂は左右二つの坂よりも新しい坂であることはまず原則であるといってよい、という横関説を紹介したが、ここはどうなのであろうか。上記の説明は横関説とは違う。

尾張屋板江戸切絵図(麹町永田町外桜田絵図)を見ると、この坂路の北側には平河天神わきの道があり、南側にはかなり離れて駒井小路という道があるが、これら両わきの道には坂名は特にないようである。近江屋板では、駒井小路に坂マーク△がついており、四枚目の写真の左のように平河天神わきの道も坂であったと考えれば、その両わきの坂よりも新しい坂で、中坂となったともいえそうであるが、想像の域を出ない。

三べ坂上 三べ坂中腹 三べ坂中腹から坂下 三べ坂中腹 次に、三べ坂の途中まで行ったが、中坂から直行したわけではなく、国会前庭などに行ってから梨木坂を下り、突き当たりを左折し、青山通りの南側歩道を西へ歩いた。中坂からも青山通りの隼町の交差点を横断すればすぐである(横断できないときは三宅坂までもどる)。

南側歩道をしばらく歩き、大きな交差点を渡り、次を左折すると、三べ坂の坂上である。まっすぐ緩やかに下っている。ここも、以前に訪れたことがあり、記事にもした。そのときは坂下からアクセスした。

千代田区のホームページに次のように紹介され、ここも標柱と説明がちょっと違う(矛盾点があるということではなく)。

「12.三べ坂(さんべざか)水坂(みずざか)  永田町二丁目、参議院議長公邸と旧永田町小学校の間を、日比谷高校グラウンドを右に見て日枝神社の方に下る坂です。『新撰東京名所図会』には、「華族女学校前より南の方に下る坂を、世俗三べ坂といふ。昔時、岡部筑前守・安部摂津守・渡辺丹後守の三邸ありしより名づくといふ。」とあります。また、坂上の西側一帯は松平出羽守の屋敷で、松平家が赤坂御門の御水番役をかねていたところから、この坂は水坂とも呼ばれました。」

坂を下る途中、右手に広い屋敷があるが、参議院議長公邸である。さらに下ると、四差路の坂中腹であり、まだ坂は続き、ここからさき少し勾配がつく。この近くに標柱が立っており、また、右折していくと新坂の坂上に至る。このあたりは、青山通りからちょっと離れているので、喧噪さはなく静かである。坂中腹から坂上に戻る。

富士見坂上 富士見坂上側 富士見坂から諏訪坂下 富士見坂中腹 青山通りの南側歩道をさらに西へ歩くと、次第に下りになるが、このあたりが富士見坂の坂上のようである。この富士見坂とは、反対の北側歩道の方に近いのか、こちらの南側歩道に近いのかよくわからない。横関が「千代田区永田町二丁目衆議院議長公邸前を赤坂の方へ下る坂。今は高速道路の下になっている」としているように、通り全体と考えた方がよさそうで、むかしの細い道が吸収されてしまったのであろう。

標柱は立っていないが、千代田区のホームページに次のように紹介されている。

「14.富士見坂(ふじみざか )  永田町二丁目、衆参議院議長公邸の北側を赤坂見附の方に下る坂です。『江戸鹿子』には「赤坂松平出羽守の屋舗の前なり、空はれたる折は、遥かに富士山見ゆ、よってしかいふ。」とあります。なお、同名は「35.」「45.」にも出てきます。」

ちょっと下ると、左手にまた広い衆議院議長公邸があるが、このあたりから青山通りの反対側を見ると、三枚目の写真のように、諏訪坂の坂下が見える。この坂下を右折しちょっと下ると、右手に赤坂門のあった赤坂見附の跡が一部残っている。

富士見坂下側 富士見坂下側 富士見坂下側から赤坂見附交差点 富士見坂下 横関は、この坂を江戸のむかしから、その名のとおり、いつもりっぱな富士の見えた坂の一つとしている。他に、靖国神社の裏の富士見坂大塚仲町の護国寺前の富士見坂をあげている。

尾張屋板江戸切絵図(麹町永田町外桜田絵図)を見ると、貝坂から三べ坂へと続く道があり(この道は現在も両坂をつなぐ)、その途中、西へ赤坂門に延びる道があるが、この道の南に松平出羽守の屋敷があるので、この道がこの冨士見坂と思われる。近江屋板も同様で、この道に坂名はないが坂マーク△がある。松平出羽守邸はかなり広く、いまの両議長公邸を含んでそれよりも広いようである。

明治地図を見ると、三宅坂の方から西へまっすぐに延びる電車道があるが、ここが現在の青山通りである。明治時代にこの坂は青山通りの一部となったのであろう。

さらに下ると、歩道橋があり、その下あたりから赤坂見附の交差点をよく見渡すことができる。左にカーブしながら外堀通りの歩道へと下りて行くが、このあたりは、本来の富士見坂下からはかなり離れたところと思われる。

今回もかなり暑かったので、赤坂の繁華街の中華料理店に入り、冷たいビールでのどを潤してから赤坂見附駅へ。

携帯による総歩行距離は、12.5km。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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鍋割坂(隼町)

2011年09月14日 | 坂道

隼町周辺案内地図 鍋割坂下(内堀通り反対側から) 鍋割坂下 鍋割坂下 前回の英国大使館裏の通りから新宿通りを横断し、三宅坂の西側の坂上から南へ下る途中に、一枚目の写真の街角案内地図が立っている。これから向かう鍋割坂は、北からきて三本目を右折したところにある。この坂は、標柱が立っていないので、その手前の道と間違いそうである。

横関は、「もと警視総監官舎の南わきを西に入って、弥生神社前から平河天神前へ下った坂、現在は国立劇場敷地の北わき、半蔵門会館の南わきを平河天神社へ向って行く坂路」とする。

戦前の昭和地図を見ると、半蔵門前から二本目と三本目との間に警視総監官舎があり、その西側に神社のマークがある。ここが弥生神社なのであろうか。横関に昭和35年9月東側から撮った隼町の鍋割坂の写真がのっているが、坂の西側に大きな鳥居が写っている。これがその弥生神社のものか、平河天神のものか、よくわからないが、横関の同43年5月の写真に鳥居はない。goo地図の昭和22年、38年の航空写真を見ると、坂西側の中ほどに鳥居らしきものが写っているので、この鳥居は、戦前のものが残ったのかもしれない。

一番下三枚目の写真のように、坂下の突き当たりから平河天満宮が見えるので、ここが横関のいう隼町の鍋割坂であろう。現在、半蔵門会館のところは、グランドアーク半蔵門となっている。

鍋割坂下 鍋割坂上 鍋割坂上 鍋割坂上 鍋割坂は、千鳥ヶ淵戦没者墓苑の近くの一番町の鍋割坂で紹介したように、鍋を逆さにして鍋を割った形をしていることに由来する(横関)が、現在の形状は、通り側からいったん短く上ってから緩やかに下る点が特徴的にみえる。上三枚の坂下の写真を見ると、それがよくわかる。一番町の鍋割坂もそうなっているが、ここの方がよりいっそう目立っている。上記の横関にある二枚の写真も、いまのように通り側からいったん短く上っている。通りからちょっと入ったところが小山のようである。

尾張屋板江戸切絵図(麹町永田町外桜田絵図)を見ると、松平兵部大輔邸とその北側の京極飛騨守邸(お堀側は定火消御役屋敷)との間の道がこの坂と思われ、坂下近くに平川(平河)天神がある。近江屋板も同様で、西の坂下側に坂マーク△がある。

鍋割坂中腹から坂上 鍋割坂中腹から坂下 鍋割坂中腹から坂下 鍋割坂中腹から坂上側 通り側から入ると、ちょっと上るとすぐ坂上で、そこからかなり緩やかに西側へ下っている。 下る途中、左にちょっと曲がっている。

この坂は、千代田区のホームページで次のように説明されている。

「18.鍋割坂(なべわりざか)  隼町の国立劇場の北側を「内堀通り」から西に上り、ほぼ半ばからまた西に下る坂です。『御府内沿革図書』の図では、延宝元年の図には明示されていません。天保6年(1835)~文久元年(1861)の各図には、堀側から平河天満宮のわきに向かって一直線に通じています。その後、町筋の変動によって現在のようになったと考えられます。坂の名の由来は、鍋を伏せたような台地につくられた切り通しなので、この名が起こったといわれています。」

上記説明に、内堀通りから西に上りほぼ半ばからまた西に下る坂とあるが、ほぼ半ばから西へ下る坂というのが現在の状態とあわない。いったん短く上ってから緩やかに下る現在の形と違っている。

横関が「東の坂下は、半蔵御門に近いところのお堀で、西の坂下前は平河天神社である」としているように、東側は、内堀通りが拡幅される前には、お堀の近くまで下ってもっと長かったとすると、上記の説明も理解できる。一番町の鍋割坂もここも、通り側の坂はむかしもっと長かったと考えると、対称的な逆さの鍋本来の形に近かったということかもしれない。それにしても、坂上から坂下の平河天神まではかなり距離がある。

鍋割坂下 鍋割坂下 鍋割坂下から平河天満宮 鍋割坂下近道

明治地図には、この隼町に陸軍の東京衛戌(えいじゅ)病院があるが、この道がなく病院の敷地に吸収されていたようである。戦前の昭和地図や上記の昭和22年、38年の航空写真にこの道があるが、これらを見てもわかるように、明治以降かなり道の変遷があった(石川、岡崎)ようなので、現在の坂からむかしの坂を想像するのは無理があるのかもしれない。

坂下は、突き当たりであるが、そこから撮ったのが三枚目の写真で、ビルの間の敷地から平河天満宮が見える。ここから直進できないと思って、左折し、国立演芸場の前などを通って、半蔵門駅や永井坂の方から延びる道に出て、中坂と、平河天満宮に行ったが、そこから引き返すとき、先ほどの坂下の突き当たりの方から歩いてくる通行人が見えた。近道があると思って進むと、四枚目の写真のように狭く短い階段による通り抜けがあった。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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千鳥ヶ淵公園~英国大使館裏の無名坂

2011年09月10日 | 坂道

千鳥ヶ淵公園から半蔵門 千鳥ヶ淵公園 千鳥ヶ淵公園標識 前回の三宅坂上の半蔵門前から北へ進むと、すぐ右に公園が見えてくる。写真のように、公園の端から半蔵壕が見える。公園は、この半蔵壕に沿って南北に細長く延びているが、公園名は千鳥ヶ淵公園で、なぜかとなりの堀の名がついている。

三枚目の写真の公園標識によると、この公園は、半蔵壕に面した敷地、内堀通りを挟んだ反対側の英国大使館前の桜並木、千鳥ヶ淵交差点角の敷地、の三箇所にわかれているとのことで、半蔵壕に沿って南北に延びる細長い公園だけではないようだ。

この公園を半蔵壕に沿って北へ進み、千鳥ヶ淵の交差点を右折すると、竹橋方面であり、直進すると、千鳥ヶ淵緑道の入口に至る。その内堀通りの反対側もこの公園の敷地である。ちょうどむかしの五味坂下にあたるところまで延びているようである。

英国大使館裏無名坂上 英国大使館裏無名坂上 英国大使館裏無名坂上 英国大使館裏無名坂上側 千鳥ヶ淵公園から半蔵門前の交差点にもどり、内堀通りを横断し、右折し、北側へ歩く。まもなく英国大使館であるが、その手前角を左折する。ここまで三宅坂(内堀通り)に沿って歩き、その騒がしさに少々辟易してきたので、ちょうどよかった。歴史のある坂でもなつかしい坂でも、広すぎて交通量の多い坂はやはり苦手である。

突き当たりを右折すると、英国大使館裏の通りで、北側へ歩いていくとやがて坂上に至る。ここは、以前、五味坂下に近い無名坂として紹介した。そのとき、坂上まで行かなかったが、今回、前回とは逆に坂上からアクセスし、往復した。といっても、ここは、はじめから予定していたのではなく、上記のように、大きな通りの喧噪から逃れてきたら、ここに行きついたといった方が正確である。ときおり車が通る程度できわめて静かな散策となる。ちょうど油っこい食事の後にさっぱりとしたお新香や酢の物が欲しくなるといったようなものである。

英国大使館裏無名坂下 英国大使館裏無名坂下 英国大使館裏無名坂下 五味坂下から無名坂 この坂は、大使館の裏で、中程度の勾配でほぼまっすぐに五味坂下へと下っている。大使館側の石垣と樹木がよい風情をつくっている。特に坂名はないようで、無名の坂であるが、長さと、勾配と、片側の風情とからなかなかよい坂となっている。坂名がないのが不思議に感じるほどである。

尾張屋板江戸切絵図(東都番町大絵図)を見ると、この坂のところが五番丁となっているが、坂マークはない。いまの大使館側には、南から、南部丹波守、永井信濃守、水野兵部、前田丹後の屋敷が並んでいる。近江屋板には、坂マーク△がある。坂下は、ゴミ坂、ハキダメ坂の坂下で、坂上を直進した突き当たりの、半蔵門前のあたりは、御用地、騎射調練馬場となっている。

明治地図には、英国公使館があり、その裏手にこの道がある。

五味坂下を左折した無名坂 五味坂下を左折した無名坂下 五味坂下を左折した無名坂上から南側 五味坂下を左折した無名坂上から北側 坂下を北側へ直進すると、最近、通いなれた五味坂下であるが、その北側(五味坂下を左折)は驚いたことに上り坂となっている。この上り坂は、大使館裏の無名坂を下るときに、遠望して気がついた。(これまで何回か来たが気がつかなかった。)

この坂も無名坂である。近江屋板では、ハキダメ坂(ゴミ坂)を左折したこの北側の道に坂マーク△があるが、この坂と思われる。坂上から南側に、三枚目の写真のように大使館裏の無名坂が見え、北側は、四枚目の写真のように、いったん下ってから、また上っている。近江屋板に、この坂上から下る坂、その先の上り坂に、それぞれ坂マーク△がある。

地図をよく見ると、この道を直進すると、前回、紹介した永井荷風旧宅跡の交差点に至ることがわかる。この道は、御厩谷坂永井坂のある通りの東側に位置し、大使館裏の無名坂から永井荷風旧宅跡を通って靖国通りに至るまで何回かアップダウンを繰り返すようである。御厩谷坂のある通りもそうであったが、ここもその地形の影響が続いている。

この無名坂上から引き返し、大使館裏の無名坂を上り、南へと新宿通りの方に進み、ふたたび、騒がしい方へもどる。
(続く)

参考文献
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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国会前庭(憲政記念館、水準原点)~井伊邸跡

2011年09月08日 | 散策

前回の梨木坂上を進み、突き当たりを左折し東へちょっと歩くと、信号のある憲政記念館前の交差点に至るが、その向こうに憲政記念館が見えてくる。上の地図は、三宅坂の南西に位置する憲政記念館、国会前庭のあたりを示す。

憲政記念館前 憲政記念館前坂上 憲政記念館 国会前庭 憲政記念館前の道路は、二枚目の写真のように、北へ下る坂で、坂下は三宅坂につながっている。上の地図の右下の「ユーザー地図へ」または左下の「goo地図へ」をクリックし、表示された地図の上のタブから古地図(明治地図、昭和22年・38年の航空写真)を見ることができるが、いずれにもこの道路はなく、比較的最近つくられたものであろう。

明治地図によれば、西が前回の梨木坂、北が青山通り、東が三宅坂、南がいまの国会正門前と国会前の交差点との間の道路で囲まれる地域に陸軍の中枢があった。この地域が井伊邸跡で、北東側に陸軍省があり、その東南に参謀本部があった。

内に入ると、憲政記念館があり、その右側から国会前庭へと行くことができる。この憲政記念館という施設の近くに来たのは初めてである。
そのホームページに次の説明がある。

「憲政記念館は、1970年(昭和45)にわが国が議会開設80年を迎えたのを記念して、議会制民主主義についての一般の認識を深めることを目的として設立され、1972年(昭和47)3月に開館しました。当館のある高台は、江戸時代の初めには加藤清正が屋敷を建て、その後彦根藩の上屋敷となり、幕末には藩主であり、時の大老でもあった井伊直弼が居住し、後に明治時代になってからは参謀本部・陸軍省がおかれました。1952年(昭和27)にこの土地は衆議院の所管となり、1960年(昭和35)には、憲政の功労者である尾崎行雄を記念して、尾崎記念会館が建設されました。その後これを吸収して現在の憲政記念館が完成しました。」

上の地図からこのあたりの昭和22年の航空写真を見ると、ほとんどなにもないようである。このとき、すでに陸軍省も参謀本部もそれらの建物はなかったのだろう。今回、戦後、これらの建物をどこがどう処理したのか、調べようとしたが、書いているものは見つからなかった(そんなに探したわけではないが)。おそらく終戦の日の8月15日から遠くない時期に徹底的に破壊されたのではないだろうか、そんな気がする。すべてを隠蔽するために。

日本水準原点 日本水準原点標庫説明板 国会前庭から 憲政記念館から国会前庭の方へ行くと、上右の写真のように、ちょっと高い時計塔が建っている。どういう意味、いわれがあるのか不明だが、なにもないところだけに目立っている。ちょうどむかしの参謀本部の代わりに目立とうとしているかのようである。

その先へ進むと、左の写真のように日本水準原点がある。水準原点標庫のわきに立っている石板の標識には次の説明がある。(二枚目の写真は、東京都教育委員会が設置した説明板である。)

「日本水準原点について
 日本水準原点は、全国の土地の標高を決める基になるもので、明治24年8月国がここに設けたものです。
 水準原点の位置は、この建物の中にある台石に取り付けた水晶板の目盛りの零線の中心で、その標高は、24.4140メートルと定められています。この値は、明治6年から長期にわたる東京湾の潮位観測による平均海面から求めたものです。 国土地理院」

国土地理院のホームページによると、明治に水準原点をつくったとき、隅田川河口の霊岸島で行われた潮位観測により、この内部の水晶板のゼロ目盛りの高さが、東京湾平均海面上24.500mと決定されたが、大正12年(1923)の関東大地震で、この付近一帯にも相当の地殻変動があり、測量の結果、原点の高さは東京湾平均海面上24.4140mと改定された。

3・11の東日本大地震でも変化したらしく、近い将来、改定されるとのこと(wikipedia)。日本経緯度原点は、麻布台のロシア大使館の南にあり、以前の記事で紹介したが、ここも今回の大地震で動いたと思われる。

明治地図には、参謀本部の南に陸地測量部があるが、水準原点の近くであった。陸地測量部は参謀本部の組織であったが、ここが水準原点を管理していたのではないだろうか。

戦前の昭和地図(人文社)には、陸地測量部のところに次のような註が付されている。「陸測図の販売禁止 昭和12年(1937)10月、参謀本部陸地測量部発行の地図が販売禁止になった。これ以前にも地図上で軍事施設のある要塞地帯や国防上の要地は空白にして販売していた。」

同地図では、確かに、このあたりは空白になっている。また、陸軍省のところには、昭和10年(1935)8月12日におきた相沢事件がのっている。

憲政記念館、時計塔、水準原点をながめてきたが、かつてこの地に明治中頃から昭和20年まで日本陸軍の中枢の参謀本部や陸軍省があったことを示すものはなにも残っていない。当時から残っているものは水準原点だけといってよい。これ以外は、きれいさっぱりと、横暴と愚策を繰り返した忌まわしい過去を塗りつぶしたかのようだ。

そう思うと、三宅坂の記事で紹介した最高裁判所角の区立三宅坂小公園にある平和女人像が思い出される。ここには戦前まで陸軍元帥の寺内正毅の銅像があった。その記事で引用した「大東京写真案内」(復刻版)にある昭和8年(1933)頃の三宅坂付近の写真を見ていると、馬に乗った寺内の銅像がのっている台座は、現在、平和女人像がのっている台座と同じもののように思えてきた。平和女人像がつくられたのは昭和25年(1950)であるが、物不足の当時、あえて台座を代える必要もなく前のものをそのまま利用したと考える方が自然であるが、そう考えると、さして必要のなさそうな広告記念像などというものをここにつくった理由も怪しく思えてくる。実際どうだったか不明だが、同じ台座であれば、ここには戦前の軍の遺跡が珍しく残っているといえそうである。

国会前交差点 井伊邸跡 桜の井説明板 江戸名所図会 桜が井 上右の写真のように国会前庭の東側に行くと、先ほど通った三宅坂下方面がよく見える。ここの階段を下り公園の外にでて、左の写真の手前の歩道を道なりに歩いていくと左にカーブして三宅坂下の歩道になるが、そのちょっと先に、井伊邸跡の標柱と桜の井跡がある。標柱に次の説明がある。

「井伊掃部頭邸跡(前加藤清正邸)
この公園一帯は、江戸時代初期には肥後熊本藩主加藤清正の屋敷でした。加藤家は2代忠広の時に改易され、屋敷も没収されました。
その後、近江彦根藩主井伊家が屋敷を拝領し、上屋敷として明治維新まで利用しています(歴代当主は、掃部頭を称しました)。
幕末の大老井伊直弼は、万延元年(一八六〇)三月に、この屋敷から外桜田門へ向かう途中、水戸藩主等に襲撃されました。」

井伊直弼は、このあたりの表門からでて桜田門外で暗殺されたが、ここから桜田門まで距離はさほどなく、出発してまもなく襲撃された。

標柱の左わきに、井戸跡があるが、これが桜の井である。傍らにある説明板(三枚目の写真)によると、この井戸は加藤清正由来のものらしく、また、昭和43年(1968)の道路工事で交差点内から原形のまま10m離れた現在の場所に移設復元された。ということで、桜の井のあった位置は正確にはここでなく、また、井伊邸の表門の位置もこの場所ではないようだ。

右は、江戸名所図会にある「桜が井」の挿絵である。説明に「井伊侯の藩邸表門の前、石垣のもとにあり。亘り九尺ばかり、石にて畳みし大井なり。釣瓶の車三つかけならべたり。・・・」とある。絵を見ると、確かに釣瓶の滑車が三つもあり、大きな井戸であった。

井伊邸跡から引き返し、水準原点のわきを通って、国会前庭から梨木坂へもどるが、この間、この公園にいたのは、私以外に一人だけである。休日の午後、三宅坂の堀側の歩道はジョギングの人がたくさん通るが、その反対側の公園は人気のないところであった。
(続く)

参考文献
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「江戸名所図会(三 )」(角川文庫)
大江志乃夫「日本の参謀本部」(中公新書)

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梨木坂

2011年09月04日 | 坂道

梨木坂下 梨木坂下 梨木坂下 梨木坂中腹 前回の三宅坂中腹から青山通りを南へ横断し、右折し、社会文化会館の角を左折すると、梨木坂の坂下である。まっすぐに上っている。平坦な道がちょっと長いが、坂自体は短く、勾配は中程度よりも緩やかといったところか。右側は石垣が続いており、坂上で右折すると国会図書館の出入口である。

坂上西側の歩道わきに標柱が立っているが、次の説明がある。

「この坂を梨木坂(なしのきざか)といいます。『江戸紀聞』では"梨木坂、井伊家の屋の裏門をいふ。近き世までも梨の木のありしに、今は枯れてその名のみ残れり"とかかれています。さらに『東京名所図会』には"陸軍省通用門と独逸公使館横手の間なる坂を梨木坂といふ"とかかれています。」

梨木坂中腹 梨木坂中腹 梨木坂上 梨木坂上 尾張屋板江戸切絵図(麹町永田町外桜田絵図)を見ると、井伊邸と三宅邸との間に三宅坂から南西へ続く道があるが、その先に南への道が井伊邸の裏手を通っている。ここが梨木坂と思われるが、坂名も坂マークもない。近江屋板には、坂名はないが、坂マーク△がある。坂上近く西側は、細川豊前守の屋敷である。

『御府内備考』には「梨の木坂」としてのっているが、上記の標柱と同じ『江戸紀聞』が引用されている。

石川は、坂下が井伊邸の裏門口にあたり、そこにあった梨の木が目印とされたのであろう、としている。

明治になってから旧井伊邸跡が陸軍省などの敷地になったが、明治地図(左欄のブックマークから閲覧可能)を見ると、この坂下の東側(いまの社会文化会館のあたり)に近衛師団などがあり、その東南に陸軍省がある。その通用門がこの坂にあった。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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三宅坂(2)

2011年09月03日 | 坂道

三宅坂上 三宅坂上 三宅坂上 三宅坂上 半蔵門前から三宅坂の西側の歩道を下るが、こちらの歩道を歩くのははじめてである。堀側よりもゆったりとして歩きやすく、おまけに歩く人も少ない。鍋割坂への入り口をすぎると、まもなく、国立劇場である。

三宅坂の坂上は、半蔵門前としてきたが、このあたりという解説がある(石川や千代田区の説明)。国立劇場から北側はほとんど平坦であるので、こちらがたぶん正解だろうが、半蔵門前の方がきりがよい。

尾張屋板江戸切絵図(麹町永田町外桜田絵図)を見ると、このあたりは、三宅邸の北で、松平兵部大輔の屋敷である。近江屋板も同様である。明治地図では、このあたりは隼町で、陸軍第一師団管理の東京衛戌(えいじゅ)病院があった。

戦後、この国立劇場のあたりの台地には、アメリカ軍用宿舎が並び建っていたという(石川)。

三宅坂上 三宅坂上 三宅坂上 三宅坂上 国立劇場をすぎると緩やかな下りとなって、最高裁判所前に至る。このあたりは石垣などがあって散歩の雰囲気ができているが、内堀通りの車の往来がやはり騒がしく、差し引きゼロといった感じである。

昭和31年の23区地図を見ると、この隼町のあたりには何もない。昭和41年(1966)に国立劇場、昭和49年(1974)に最高裁判所が竣工している。

この最高裁判所の建物は、三宅坂の堀側の歩道から見ると、その全体がよくわかるが、石をむやみにたくさん使ったごつごつとしたもので、異な感じがし、あまり好きになれない。なんか外形だけ威厳を持たせようとしたところという印象を受ける。

三宅坂中腹 三宅坂中腹 三宅坂中腹 渡辺崋山誕生地の標識 最高裁判所の前を下ると、前方南側に先ほど歩いてきた坂下方面が見え、右に青山通りが西へ延びている。この角を右折すると異な一角がある。区立三宅坂小公園というらしいが、階段を上ったちょっと高台となったところに「平和女人像」が台座の上に建っている(下二枚目の写真)。

右の写真のように、その像の裏手に渡辺崋山誕生地の標識がある(下二枚目の写真に像の後に白く写っている)。三宅坂の由来となった三河田原藩主三宅家の上屋敷は、いまの最高裁判所のところにあったが、寛政5年(1793)、この邸内にあった長屋で生まれたとある。文人画家、蘭学者として有名で、麹町で塾を開いていた高野長英らと蘭学研究をはじめたとあるが、高野長英の塾があったのは、この近くの貝坂である。

天保10年(1839)、幕府の保守派として悪名高い目付鳥居耀蔵らによるでっち上げである「蛮社の獄」に連座し、在所での永蟄居処分を受けたが、その後の風聞などがもとで、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、田原の池ノ原屋敷の納屋にて切腹した(wikipedia)。

三宅坂中腹 平和女人像 平和女人像の台座裏面 小公園の「平和女人像」は、二枚目の写真のように、最高裁判所を背にして建っているが、右の写真のように、日本電報通信社(電通)が広告記念像として昭和25年(1950)に建立したものである。「広告先覚者」の名として多数の人の名が刻まれているが、それらの名は、ホームページ「東京都千代田区の歴史」にのっている。

ところで、「平和女人像」のところには、戦前まで、寺内正毅元帥の銅像が建っていたという(石川)。

下左の写真は、1933(昭和8年)博文館発行の「大東京写真案内」(復刻版)にある三宅坂付近である。市電の軌道が青山通りの方に延びているが、その右に、馬に乗った人物の銅像が見える。これが寺内正毅の銅像と思われる。その後ろの現在、最高裁判所のあるあたりが陸軍の航空本部であった。

このあたりは、明治中頃から陸軍省や参謀本部のあったところで、三宅坂の地名は、陸軍省や参謀本部の枕詞のように使われてきた。

下右の地図は、明治42年6月森林太郎(森鷗外)立案の東京方眼図(坂崎重盛『一葉からはじめる東京町歩き』の付録)の一部であるが、ちょうど銅像のある青山通りの南側一帯は、陸軍の中枢で、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣邸などがあったことがわかる。2・26事件の時、決起した青年将校は、このあたりを占拠した。

戦前の三宅坂付近 三宅坂周囲の明治地図 上記の「大東京写真案内」にある三宅坂付近の写真の説明を次に掲げる。

「桜田門を過ぎて間もなく、道は爪先上りの名も涼しげな青葉通り、この辺りが名にし負ふ陸軍首脳部の割拠する三宅坂で、写真正面が航空本部、軌道を挟んで手前、遠くは猛勇加藤清正公、近くは果断井伊大老の邸跡にあるのが、これまた昭和の名将連の屯(たむろ)する参謀本部である。」

当時は名将連などといっているが、実は愚将連といった方が実態にあっていた。

陸軍省や参謀本部は旧井伊邸跡につくられたが、いまは跡形もない。寺内の銅像は、どうなったかわからないが、戦後、現在のような「平和女人像」に代わった。三宅坂一帯は、戦後、あったことをなかったように見せかける隠蔽が行われたように思えてくる。存在したことが存在しなかったようになったのである。このことは、三宅坂から憲政記念館のある公園へ行くとよりいっそう感じる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
北島正元「日本の歴史18 幕藩制の苦悶」(中公文庫)

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