東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

大沼枕山の墓(瑞輪寺)

2015年11月30日 | 荷風

大沼枕山肖像 瑞輪寺山門 大沼枕山の墓 標識 寛永寺坂で今回の上野台地の東端にある坂巡りは終了した。

坂上からどこへ行こうと考えたが、とりあえず、千代田線の地下鉄駅を目指し、西側の不忍通りの方に向かう。言問通りの北側の住宅地の中の小路を通ってであるが、そのうち谷中の寺院の多い所に至る。いつのまにかちょっと見覚えのある所にいることに気がつく。

広い通りを進み、門前の案内標識を見ると、大沼枕山の墓のある瑞輪寺であった(現代地図)。たしかかなり前、この門前まできたが、見つかりそうもなく、諦めて帰ったことがあったので、ちょっと記憶に残っていた。

寺の内に入って事務所で墓の場所を尋ねると、若いお坊さんが親切にも案内をしてくれた。こういった墓地で目的の墓を探すのはきわめて難しく、ここも塋域がかなり広いので、大変ありがたかった。

大まかな位置は、門前から横に細長い墓地に入って左手にかなり進んでから左の奥である。下の写真のように、墓石の形がちょっと変わっているので、比較的見つけやすいかもしれないが、なんの情報もないとやはり難しい。

大沼枕山の墓 大沼枕山の墓 大沼枕山は、上記の標識の説明にもあるように江戸最後の漢詩人といわれ、永井荷風の「下谷叢話」に詳しい。

荷風は、五歳の頃、弟の貞二郎が生まれたので、下谷の祖母の家にあずけられた。下谷には外祖父である鷲津毅堂が明治四年の春に居を定めていた。毅堂のことからはじめて、尾張国丹羽郡丹羽村の鷲津氏の家の系図や文献などを調べている中で、鷲津家と大沼枕山との関係を知るに至っている。

「わたくしは鷲津氏の家系を討究して、偶然大沼竹渓父子が鷲津氏の族人であることを知り、大に興味を覚え、先その墳墓をさぐり更に大沼氏の遺族を尋ねてこれを訪問した。
 わたくしはわが外祖父鷲津毅堂のことを述るに先立って、しばらく大沼竹渓のことを語るであろう。竹渓は晩年下谷御徒町に住した。その子枕山は仲御徒町に詩社を開き、鷲津毅堂もまたその近隣に帷を下して生徒を教えた。わたくしがこの草稿を下谷叢話と名づけた所以である。」(下谷叢話 第一)

荷風は尾張名所図会を引用し、寛政年間に七丹羽郡にいた鷲津幽林という博学多材の学者を記している。この幽林の長男典が枕山の父で、家を継がず江戸に出て、幕府御広敷添番衆(おひろしきそえばんしゅう)大沼又吉の養子となった。典は竹渓と号して化政の頃江戸の詩壇に名を知られた詩人であった。鷲津家は幽林の三男混(松隠)が継いだ。

枕山は、文政元年(1818)三月十九日生まれ、父竹渓五十七歳の時の子で、幼名が捨吉、他に兄弟はなく、十歳のときに竹渓が亡くなったが、大沼家は、竹渓の実弟次郎右衛門基祐(幽林の末子)が継いだ。

荷風は、長男に生まれた竹渓が何故に鷲津家を継がずに他姓を冒したのか、遂に知る道がない、とするとともに、捨吉は何故父の家をつがなかったのか、これもわたしの知らんと欲して知ることを得ざる大事件である、と記している。これらについて、かなり調べたようだが、遂にわからなかった。

捨吉は、叔父次郎右衛門と折合がよくなかったので、わずかな金子をふところにして家を出て道中辛苦して尾張に往ったことを枕山の娘から聞いたが、その年月が詳らかでない。いずれにしても天保六年(1835)、十八歳の秋に、尾張国丹羽郡丹羽村の叔父鷲津松隠の家にいた。その頃、松隠は隠居し、その嫡子徳太郎(益斎)が家学を継ぎ、有隣舎と名けた家塾で門生を教えていた。

この頃、この家塾で森魯直(春濤)が学んでいた。年十七。ある日、有隣舎の塾生が益斎の蔵書を庭に曝し、春濤にその張番をさせたが、春濤は、番をしながらしきりに詩を苦吟していたので、にわか雨が降ってきたのに気がつかなかった。折から枕山も苦吟しながら外をあちこち歩いている中溝へ墜ち泥まみれになって帰ってきた。塾生らは苦吟のため一人は曝書を雨にぬらし、一人は衣服を泥にしたと言って笑ったという。この逸話は二人が詩を好むこと色食よりも甚しきを証する佳話として永く諸生の間に伝えられたと荷風は記している(下谷叢話 第四)。

この話から、捨吉は、尾張国丹羽村の叔父松隠、従兄弟益斎の親子に迎え入れられ、期間は不明だが、その門で学ぶことができたように想われる。

その天保六年の歳、秋に、捨吉(枕山)は有隣舎を去って東帰の途に上り、江戸に還ってきた。

菊池五山は、かつて枕山の父竹渓と親しかったが、枕山が江戸に還ってきてはじめて五山を訪れたとき、枕山の敝衣(へいい/やぶれた衣服)をまとっているのを見て乞食ではないかと思い戯れにその詩才の如何を試み驚いて席を設けたという。これは有名な逸話らしいが、この事を荷風は疑っている(下谷叢話 第四)。

根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 東都下谷絵図(文久二年(1862)) 枕山は、晩年の明治二十三年春、仲御徒町の三枚橋の旧宅から下谷花園町十五番地暗闇阪(清水坂)に転居し、その新居に明治二十四年(1891)十月一日、七十四才で没した。

大沼家の歴代の墓は三田薬王寺にあるが、枕山の墓が谷中の瑞輪寺にあることについて荷風は薬王寺を訪れたときの住職との会話を次のように記している。

『「これが皆大沼家の墓です。久しく無縁になっていますが、わたしの代になってから倒れているのもこの通り皆建直したのです。枕山先生のお墓はここにはありません。どういう訳でわきの寺へ持って行かれたのでしょう。菩提所が別々になっていると御参りをなさる方も定めてご不便でしょう。」
 住職はわたしが枕山の子孫ででもあるかのように問掛けるので、わたしは人から聞伝えたはなしをそのままに、「枕山先生の葬式は万事門下の人たちが取仕切ってやったのだという話です。谷中の瑞輪寺へ葬ったのはお寺が近かったからだというはなしです。」』(下谷叢話 第二)

大沼家のその後は、鷲津家の益斎の弟に又三郎というものがいたが、この又三郎が次郎右衛門基祐の家を継ぎ下田奉行手附となったという。

三枚目の尾張屋清七板江戸切絵図の東都下谷絵図(文久二年(1862))を見ると、加藤出羽守邸の門前に「大沼又四郎」という家がある。近江屋板を見ると、この家が「大沼又三郎」になっている。枕山の旧宅があった三枚橋に近い。

参考文献
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
永井荷風「下谷叢話」(岩波文庫)
「江戸詩人選集 第十巻」(岩波書店)

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善福寺川11月(2015)

2015年11月21日 | 写真

善福寺川11月(2015) 善福寺川11月(2015) 善福寺川11月(2015) 善福寺川11月(2015) 善福寺川11月(2015) 善福寺川10月(2015)

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寛永寺坂

2015年11月11日 | 坂道

寛永寺坂辺の街角案内図 寛永寺橋への階段 新坂(鶯谷)の坂下(鶯谷駅南口前)の街角案内地図を見て、この北に寛永寺坂があることに気がついたので、芋坂方面へもどることにする。

陸橋を渡り階段を下り、すぐ左折し、ちょっと歩くと、ラブホテル街であるが、ここを通り抜けて線路沿いに北へ歩くと、北口前で、さらに線路沿いに歩いていくと、やがて、陸橋へ上る階段が見えてくる(現代地図)。

最近、西村賢太「東京者がたり」を読んだら、ここが登場し、16歳の頃このあたりに住み、鶯谷駅前で酒を飲んでからの帰り途、この近くでよく吐き、この階段下は酔ったときの「吐きスポット」だったとのこと。

寛永寺橋 寛永寺坂下 寛永寺坂下 寛永寺坂下 階段を上った陸橋が寛永寺橋で、ここの歩道を西へ寛永寺方面に進む。

橋を渡りきった西詰に寛永寺坂の標柱が立っていて(現代地図)、次の説明がある。

『寛永寺坂(かんえいじざか)
 大正年間(一九一二~二五)発行の地図からみて、この坂は同十年ごろ、新設されたように推察される。当初は鉄道線路を踏切で越えていた。現在の跨線橋架設は昭和三年(一九二八)八月一日。名称は寛永寺橋である。坂の名をとったと考えていい。坂の名は、坂上が寛永寺境内だったのにちなむという。寛永寺は徳川将軍の菩提寺だった。坂上、南に現存。』

この坂は大正10年(1921)頃できたとあるが、明治四十年(1907)の明治地図(左のブックマークから閲覧可能)には、たしかにこの坂に相当する道筋はない。その当時は、線路の低地まで下り、踏切で越えていたらしいが、これはとなりの新坂と同じ。かなりの勾配があったと想われる。昭和16年(1941)の昭和地図を見ると、現在のような跨線橋となっている。

寛永寺坂下 寛永寺坂下 寛永寺坂中腹 寛永寺坂中腹 この坂は、往時の線路の通る低地への坂部分が消滅し、現在、橋の西詰から西へかなり緩やかに上っているだけである。

この坂は言問通りにあるが、この通りは、東大農学部と工学部の間の本郷通りの交差点から弥生坂を東北へ下り、不忍通りを横断し、善光寺坂を上り、谷中霊園と東京芸大の間を通って、この坂に至り、この陸橋の先でカーブし、東へと向かい、浅草で隅田川にかかる言問橋に至る。

坂上(上野桜木一丁目の辺)で左折すると寛永寺であるが、坂ができた頃は、上記のように、坂上が寛永寺境内であったので、坂名はこれに因むという。大正年間にでき、名前のわりには新しく、江戸の坂ではない。

寛永寺坂上 寛永寺坂上 寛永寺坂上 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 坂上で右折し、広い道を北へちょっと進むと、谷中霊園で、途中右折すると、御隠殿坂である。

この坂は、橋側でちょっと勾配があるだけで、坂上側はほとんど平坦であるので、普通にあるけば、坂という感じはあまりしない。

四枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))には、この坂は、当然ないが、寛永寺が大きく表示されている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
西村賢太「東京者がたり」(講談社)

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新坂(鶯谷)

2015年11月08日 | 坂道

新坂(鶯谷)街角案内図 新坂(鶯谷)下 新坂(鶯谷)下 新坂(鶯谷)下 御隠殿坂から跨線橋(御隠殿橋)を通って根岸側にもどり、言問通りにでて、鶯谷駅下を右折する。

南側を進むと、階段があり、ここを上ると、そのまま線路を越える陸橋となっていて、車道にもなっている。左下に線路が見える歩道を進むと、前方が緩やかな坂になっているが、ここが新坂である(現代地図)。

陸橋は凌雲橋といい、ちょうど山手線などの線路が上野に向かって南へと大きくカーブを始めるあたりにある。この坂は上野台地の南東端のあたりから北へ下る。

忍岡中学校の校門わきに坂の標柱が立っていて、次の説明がある。

『新坂(しんざか)
明治になって、新しく造られた坂である。それで、新坂という。明治十一年(一八七八)内務省製作の『上野公園実測図』にある「鶯坂」がこの坂のことと考えられ、少なくともこの時期に造られたらしい。鶯谷を通る坂だったので、「鶯坂」ともいわれ、坂下の根岸にちなんだ「根岸坂」という別名もある。』

新坂(鶯谷)下 新坂(鶯谷)下 新坂(鶯谷)下 新坂(鶯谷)中腹 鶯谷駅南口を出て、そのまま進み、横断歩道を渡ると、標柱の所にでるが、横断歩道を渡る前に撮ったのが、一枚目の写真で、車道と右の歩道が切り通しになっていることがわかる。

標柱の立っている左側(中学校側)の歩道が車道よりも高くなっているが、ここが切り通し前の形状を保っているのかもしれない。

この切り通しと左側の歩道の両方を新坂というのか、すぐにはわからないが、左側の歩道が、車道と学校のフェンスの間にできた小径といった感じで、車道よりもかなり高く開放感があり、学校側から伸びた樹木とあいまって、ちょっとよい雰囲気をつくっている。このため、写真はおもにこの歩道のものを掲載した。

新坂(鶯谷)中腹 新坂(鶯谷)上 新坂(鶯谷)上 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 坂上は、寺院がたくさん並んだところの北端で、そこを通り抜けると、上野公園で、右折して行くと、寛永寺方面である。かなり前に訪れたときは、公園側からアクセスし、学校側の気持ちのよい細い坂を下ったことを憶えている。

標柱の説明では、明治になってからの坂で、遅くとも明治十一年(1878)までにできていた。明治四十年(1907)の明治地図(左のブックマークから閲覧可能)をみると、この坂道があるが、台地から北へまっすぐに下り、坂下は線路を踏切で横切って北へと延びているようにみえる。このため、明治時代は、この坂は線路のある低地まで下っていたと想われ、そうだとすると、かなりの勾配があったように想像される。

四枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))には、この坂は、当然ないが、「東漸院」があるあたりにできたと思われる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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善福寺川10月(2015)

2015年11月03日 | 写真

善福寺川10月(2015) 善福寺川10月(2015) 善福寺川10月(2015) 善福寺川10月(2015) 善福寺川10月(2015) 善福寺川10月(2015)

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御隠殿坂

2015年11月02日 | 坂道

御隠殿坂への跨線橋 御隠殿坂手前 御隠殿坂下 御隠殿坂下 芋坂下の羽二重団子の店を出て東へ進み、二本目を右折し、ちょっと広い道路を線路のほうへ進むと、前方に先ほどの芋坂跨線橋と同じような跨線橋が見えてくる。御隠殿橋と呼ぶという(石川)。

階段を上り跨線橋の歩道を進むと、そのまま谷中墓地のある上野台地に続くが、ちょっと先に小さな坂が見えてくる。ここが御隠殿坂である(現代地図)。

芋坂は、かなり前だが、訪れたことがあり、今回がはじめてではなかったが、ここははじめてである。小坂であるが、跨線橋の高さから谷中墓地の方へちょっとだけ上っている。

御隠殿坂下 御隠殿坂下 御隠殿坂下 御隠殿坂下 そのまま進むと、ちょっとだけ勾配がつきはじめる中腹あたりに坂の標柱が立っていて、次の説明がある。

『御隠殿坂
 明治四十一年(一九〇八)刊『新撰東京名所図会』に、「御隠殿坂は谷中墓地に沿ひ鉄道線路を経て御隠殿跡に下る坂路をいふ。もと上野より御隠殿への通路なりしを以てなり。」とある。御隠殿は東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸。江戸時代、寛永寺から別邸へ行くため、この坂が造られた。「鉄道線路を経て」は踏切を通ってである。』

この坂は、要するに、寛永寺住職の別邸であった御隠殿へ行くために造られた。

御院殿坂とも書いた(石川)。

根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 御隠殿坂上 御隠殿坂上 一枚目の尾張屋清七板江戸切絵図(根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856)))を見ると、芋坂の東に御隠殿がある。

二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))には、日光御門跡 御インデン、とある。

芋坂とこの坂の間に御隠殿があったが、明治元年の上野彰義隊の兵火で焼亡し、跡は鉄道敷地になった(石川)。

標柱の立っている所からさらに上ると坂上で、谷中墓地である。

御隠殿坂中腹 御隠殿坂中腹 御隠殿坂下 御隠殿坂下 跨線橋からこの坂にやって来ると、右下(北西側)に下り坂が見える。つまり、標柱の立っている所から坂下を見ると、ちょっと左にずれて、線路の方へとまっすぐに下っている。坂下は左折のL字形であるが、左折すると、四枚目の写真(上側から撮った)のように小径が線路に沿って延びている。

現在の道筋が、むかしからの御隠殿坂であるとは一概には云えないが、こんな感じで現在の線路の低地との間で上下していたのであろう。

この坂は、明治の新撰東京名所図会にあるだけで、江戸の文献にはないようである。また、横関や岡崎には紹介されていない。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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