東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

偏奇館近くの柳のだんだん

2010年09月11日 | 荷風

昭和11年(1936)2月26日前後の永井荷風「断腸亭日乗」を見ていたら、その日起きたいわゆる2・26事件に直接関係しないことであるが、2月29日におもしろい記述があった。山形ホテル跡の記事でふれた柳の段々についてである。

「二月廿九日。陰。朝小山書店主人電話にて問安せらる。午後門を出るに市兵衛町表通徃来留なり。裏道崖づたひに箪笥町に出で柳のだんだんとよぶ石段を上り仲の町を過ぎ飯倉片町に出づ。電車自働車なければ歩みて神谷町より宇田川町を過ぎ銀座に至り茶店久辺留に憩ふ。四時過より市中一帯通行自由となる。杉野教授と金兵衛酒店に飯す。叛軍帰順の報あり。また岡田死せずとの報あり。電報通信社々員宮崎氏より騒乱の詳報を聞く。夜十二時家に帰る。」

荷風は、この日、外出しようとして偏奇館から御組坂上の表通りに出たら、人も通行止めだったらしい。それで、裏道崖づたひに箪笥町に出た、とあるが、この裏道崖づたい、というのがどこなのかが疑問である。単に箪笥町に出るのであれば、御組坂を下ればよく、崖づたいにはならないからである。

裏道崖づたいとは、道源寺の方にでる崖そばの裏道で、道源寺坂を下ってから、箪笥町にまわったのではないだろうか(以前の記事の松本氏による俯瞰地図を参照)。たぶん道が雪で悪かったためとかの理由で。

柳のだんだんは、箪笥町の谷の通りから台地に上る石段であったと思われる。その石段は、偏奇館からちょっと離れており、山形ホテル裏の道ではなさそうである。なんとなく、荷風はこの日、柳のだんだんをはじめてか、または、滅多に通らない所のように描いているような気がするからである。

柳のだんだんから台地に上り、そこから南側に歩き、たぶん仲の町の行合坂を通って飯倉片町にでたと思われる。そこから銀座に出るのにも苦労したらしい。神谷町から東側に向かい、現在の浜松町にでて、そこから北側に歩いたようである。

ところで、段々(だんだん)とは階段のことであるが、階段よりもなんとなく軽やかな響きがある。これが名についた階段があることを思い出した。日暮里駅北口から西に向かい、御殿坂を通って谷中銀座の商店街に下る階段である。夕やけだんだんという。人通りの多いにぎやかな段々である。

参考文献
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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2 コメント

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柳のだんだん (加藤 守)
2021-06-09 14:33:01
柳のだんだんの上の家に住んでいました。麻布台地のはずれの崖の上の家で、柳のだんだんが目の下にみえていました。名前の通り、段々の途中の曲がり角のところに柳の木が生えていました。この段々を降りると谷町へでます。谷町を抜けて六本木からの坂道を下る電車通りへでると箪笥町の駅(都電の)です。
だんだんを上がったところにはしゃれた洋館があり、たしか、日石の社長さんの家だったっと思います。
柳のだんだんなんて懐かしくて思わず書きました。
コメントありがとうございます (asaichibei)
2021-06-14 15:58:06
加藤様
当ブログの管理人です。
六本木一丁目の崖にかつてあった「柳のだんだん」についてコメントをありがとうございます。
柳のだんだんが谷町の方に突き出た麻布台地と崖下の箪笥町とを結ぶ階段であったことは、本文引用の永井荷風の日記(昭和11年(1936)2月29日)と以下の奥野信太郎の随筆から想像していましたが、それを裏付けるコメントで貴重なものです。
「段々の途中の曲がり角のところに柳の木が生えていました」とのことですが、この階段は、途中で曲がり、そこに柳があったことからその名になったことがわかりました。
柳のだんだんが目の下にみえていた住居にお住まいだったようですが、その崖を挟んだ向こう側の台地に昭和20年(1945)3月9日まで永井荷風の住居「偏奇館」がありました。その後、偏奇館跡には、現在のようになる前(六本木一丁目の再開発前)には、ヴィラ・ヴィクトリアという五階建てのマンションが建っていたはずですが、ご記憶に残っていますでしょうか?
現在の六本木一丁目駅(南側?)の階段やエスカレータの辺りが柳のだんだんのあった所かもしれないと想像しています。

奥野信太郎の随筆「市兵衛町界隈」(奥野は、戦前近くの丹波谷坂の中途に住んでいた)
「(市兵衛町)一丁目六番地に荷風の偏奇館があった。通称"柳の段々"と称する石段を降りて谷町の谷を通り、さらにその対岸にあたる崖の上に出れば、その小さな平地に偏奇館が建っていたのである。山形ホテルというのがちょうどこの柳の段々の上にあって、そのホテルのロビーから眺めると、偏奇館はほとんど真向かいにあたっていた。」

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