東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

「浅利坂」~切支丹坂~切支丹屋敷跡

2011年02月28日 | 坂道

荒木坂~切支丹坂地図 地図に「浅利坂」とある坂 地図に「浅利坂」とある坂 水道通りにふたたび出て右折し、荒木坂を上り、切支丹坂方面を目指すことにする。

左の写真は、"谷道~新坂(今井坂)の記事"で引用した通り沿いに立っている地図の部分図である。これを見たら、荒木坂の北の先途中に、浅利坂、という知らない坂があったので、これに寄ってみることにする。

荒木坂上を直進し、しばらくすると、左手に坂が見えてくる。これが地図でいう浅利坂である。勾配はさほどなく、短い坂である。坂上の通りは、荒木坂上を左折し道なりに進んだ道である。

ところが、帰宅後、調べたら、浅利坂は現存しない坂となっていた。横関は、浅利坂を、江戸時代にこのあたりにあった切支丹屋敷のそばの坂とし、分譲地内に入っていて、永久に姿を消してしまったとしている。坂名は、昔、この坂のそばに浅利氏の屋敷があったからという。蜊(あさり)坂ともいう。

切支丹屋敷跡 切支丹屋敷跡説明板 順序が前後するが、切支丹坂上を右折しちょっと歩いたところに「都旧跡 切支丹屋敷跡」と刻まれた石柱が立っている。そのわきの東京都教育委員会の説明板には次の説明がある。

「江戸幕府はキリスト教を禁止し、井上筑後守政重を初代の宗門改役に任じ、キリスト教徒を厳しく取締まった。
 この付近は宗門改役を勤めていた井上政重の下屋敷であったが、正保三年(1646)屋敷内に牢屋を建て、転(ころ)びバテレンを収容し、宗門改めの情報集めに用いた。主な入牢者にイタリアの宣教師ヨセフ・キアラ、シドッチがいた。
 享保九年(1724)火災により焼失し、以後再建されぬまま寛政四年(1792)に廃止された。」

切支丹屋敷は、現在の小日向一丁目14,16,23~25番地にかけてあったという。屋敷創立当時は七千七百余坪といわれ、少なくとも六千坪は超えていたというから、かなり広かった。

幕府は、キリシタン信者を、見せしめとして、往来の多い札ノ辻(江戸芝口)で数多く処刑したが、それは逆効果で、殉教の喜びを与えただけであり、殉教者が出ると海外から宣教師が潜入し、これが繰り返された。このため、幕府は厳罰のみの方針を転換し、転び(棄教)を仕掛けた。九州に潜入した宣教師などを長崎から江戸送りとし、小伝馬町の牢屋で調べ、穴の中へ逆さ吊りにするという虐待により転ばせてから、この切支丹屋敷に収容した。この任に当たったのが、本人もかつては信者であり寛永四年(1627)筑後守に任ぜられた井上政重であった。

横関は、浅利坂を昭和12年(1937)6月3日に訪ねたのだという。当時は、この辺りは分譲地であり、そこの管理人に頼んでようやく許可を得て、切支丹屋敷内の「八郎衛石」と「浅利坂」を見学したが、石ころ畳の坂みちで、なんともいえない、いい坂であったとある。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、荒木坂の北に、アサリサカ、とある。近江屋板も同様である。荒木坂上は突き当たりで、左右(東西)に分かれた道を進むと浅利坂の坂上、坂下に出たようである。

『御府内備考』には、「浅利坂とは荒木坂上の方より切支丹屋敷へゆく間の坂なり、ここも切支丹屋敷の上地の内なりといふ、【改選江戸志】」とある。

横関には、浅利坂は、旧小石川茗荷谷町と小日向第六天町の境界を東に下る坂とある。この境界に相当するところを見ると、現在の切支丹坂の少し南のあたりであるが、地図上に道はない。横関は、この坂を上記のように訪れ、その位置は間違いないように思われるので、道路沿いに立つ上記の地図の示す「浅利坂」の位置は、誤りということになる。

切支丹坂下 切支丹坂下 切支丹坂中腹 切支丹坂上 「浅利坂」の坂下を左折し、しばらくすると、突き当たりになるが、左側に延びる坂が切支丹坂である。右折すると庚申坂の方に続くトンネルの入口である。左の写真はトンネルの中にちょっと入って、坂上を撮ったものである。まっすぐに上っており、勾配は中程度といったところで、途中、坂上側で道幅が狭くなる。

『御府内備考』は、「切支丹坂は御用屋敷のわき新道の坂をいへり。わつかの坂なり、世に庚申坂をあやまりて切支丹坂と唱ふ、【改選江戸志】」と説明する。

尾張屋板を見ると、浅利坂下の北、突き当たり右(東)に、キリシタンサカ、とある。近江屋板も同様である。ちょうど、"谷道~新坂(今井坂)"の記事で紹介した谷道から東へ上る位置にある。ここは、庚申坂であり、上記の改選江戸志の説明のように誤りともいえそうであるが、切支丹坂は庚申坂の別名ともなっている(御府内備考)。

上記の尾張屋板は、東都小石川絵図(1857)であるが、礫川牛込小日向絵図(1860)に、服部坂の東の道に、切支丹坂、とある。服部坂上から横町坂を下ると、この道に出る。ここを北へ進むと、薬罐坂にいたり、生西寺わきを右折していくと、切支丹屋敷跡の方に行くことができるが、かなり距離がある。なぜ、ここに切支丹坂とあるのかよくわからない。

永井荷風『日和下駄』「第九 崖」にこのあたりが次のように書かれている。

「私の生れた小石川には崖が沢山あった。第一に思出すのは茗荷谷の小径から仰ぎ見る左右の崖で、一方にはその名さえ気味の悪い切支丹坂が斜に開けそれと向い合っては名前を忘れてしまったが山道のような細い坂が小日向台町の裏へと攀(よじ)登っている。今はこの左右の崖も大方は趣のない積み方をした当世風の石垣となり、竹藪も樹木も伐払われて、全く以前の薄暗い物凄さを失ってしまった。 まだ私が七、八ツの頃かと記憶している。切支丹坂に添う崖の中腹に、大雨か何かのために突然真四角な大きな横穴が現われ、何処まで深くつづいているのか行先が分らぬというので、近所のものは大方切支丹屋敷のあった頃掘抜いた地中の抜道ではないかなぞと評判した。」
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
山田野理夫「東京きりしたん巡礼」(東京新聞出版局)

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鶯谷~無名の階段坂(2)

2011年02月26日 | 坂道

無名の階段坂上 無名の階段坂上 断腸亭日乗S8.1.2左図 断腸亭日乗S8.1.2右図 『御府内備考』の小石川の総説に「鶯谷は金剛寺の傍の谷なり、此地よりいずる鶯は聲他に勝れてよかればかくいふなりとぞ、【改選江戸志】」とある。鳴き声のよい鶯(うぐいす)がいたことにちなむらしい。

荷風「断腸亭日乗」昭和8年(1933)正月元旦に次の記述がある。

「正月元日。晴れて暖なり。午後雑司谷墓地に徃き先考の墓を掃ふ。墓前の蠟梅馥郁たり。先考の墓と相対する処に巌瀬鷗所の墓あればこれにも香華を手向け、又柳北先生の墓をも拝して、来路を歩み、護国寺門前より電車に乗り、伝通院に至り、大黒天に賽す。堂の屋根破損甚し。境内の御手洗及び聖天の小祠も半朽腐し丸太にて支えたり。瓦は尽く落ちトタン板にて処ゝ修繕をなしたるまゝなり。聖天祠軒下の賽銭箱に願主□□吉弥市川小団治と彫りたるを見る。近寄りて年号を撿したれど無し。歩みて表町の通に出で、金富町の横町をまがり、余が旧宅の塀外をめぐり、金剛寺阪の中復に出でたり。それより小径を辿り崖を下りて多福院の門前に至り、崖下の道を過ぎて小日向水道町の大通に出でたり。此のあたりの事は大正十三年の春礫川徜徉記といふものに書き置きたり。思へばこれさへ十年のむかしとなりぬ。江戸川端を歩み諏訪町の路地を抜け、諏訪神社に賽し、牛天神男阪の麓に出でたり。諏訪町路地裏の貧家は余が稚きころ見たりし時に異らず。昔と今と異るものは砲兵工廠の建物半取払れて機械の響を聞かざる事、また牛天神の樹木の枯死して幽邃の趣を失ひし事なり。崩れたる練瓦塀に沿ひ飯田橋の河岸に出づる頃短き日は忽暮れかゝりぬ。去年の如く今年も神楽阪上の田原屋に憩ひ夕飯を食し車にて家にかへる。風吹出でゝ寒くなりぬ。是日見るところ委しく書きしるさんと思へど指の繃帯筆持つに不便なれば歇みぬ。」

荷風は、この日、雑司谷墓地で亡き父のお墓参りをし、電車で伝通院に来て金富町の旧宅の塀外をめぐり、金剛寺坂の中腹にでて、それより小径を辿り崖を下りて多福院の門前に至り、崖下の道を過ぎて小日向水道町の大通に出た。崖下の道が現在の無名の階段坂であろう。父久一郎の命日が1月2日で、このため、荷風は毎年よく新年早々雑司が谷に墓参りに行っている。

次の日の日乗に、そのときの多福院あたりのスケッチがのっているが、それが、上右二枚の写真である。右図は、多福院で、寺ノ後ハ高地ノ崖ナリ、と手書きのメモがある。左図は、右図に続く図(ちょうど頁が別々になっている)で、同じく手書きで、礫川鶯谷竹林山多福院之圖 小石川金富町金剛寺阪ノ上崖下ノ窪地昔鶯谷ノ名在り今福岡子爵邸崖ノ下也、とある。

無名の階段坂から 無名の階段坂下 無名の階段坂下 小石川鶯谷見取図 上記から8年あまり後の昭和16年(1941)9月28日の日乗("永井荷風生家跡"の記事参照)に、「・・・(金剛寺)坂を上り左手の小径より鶯谷を見おろすに多福院の本堂のみむかしの如くなれど、懸崖の樹木竹林大方きり払れ新邸普請中のところ二三箇処もあり。昭和十一二年頃来り見し時に比すれば更に荒れすさみたり。牛込赤城の方を眺むる景色も樹木いよいよ少くセメントの家屋のきたらしさ目に立ちて、去大正十二年地震後に来り見し時の面影はなし。その時筆にせし礫川徜徉記を今読む人あらば驚き怪しむべし。・・・」とあるように、左手の小径より鶯谷を見おろす処にあるのが無名の階段坂であろう。

上記の日乗のいずれにも「礫川徜徉記」がでてくる。前回の記事のとおりであるが、昭和16年の日乗では、そのときの面影はない、と慨嘆している。

松本哉「永井荷風の東京空間」(河出書房新社)を見たら、「礫川徜徉記」の「門前の小径は忽にして懸崕の頂に達し紐の如く分れて南北に下れり。」について詳しく書いてあった。松本も実際にここにでかけたようで、やはり、階段坂の南西の低地あたりが鶯谷であろうとしている。 同著にこのあたりの見取図があるが、その部分図が上右の図である。金剛寺坂上(前回の記事の最初の左の写真)を左折したさきにある南へ延びる道が階段坂である。荷風の言い方にならうと、紐のように分れて南に下る道が階段坂で、北に下る道が緩やかに曲がりながら下り多福院の方への道である。荷風がそう書いたころは、もっと道が狭く紐のように分かれていたのであろう。

著者による坂上あたりのスケッチものっているが、そのころは、現在よりも見晴らしがよかったらしく、新宿のビル群が描かれている。

無名の階段坂下 無名の階段坂下 無名の階段坂下の橋から 無名の階段坂下の橋の先 階段を下ると、丸の内線にかかる橋である。ちょうど電車が通ったので、東方面を写した。向こうに金剛寺坂にかかる橋が見える。この地下鉄が開通するまでは、さらに坂道が続いていたのであろう。

橋を渡り、線路に平行な下り坂を通って水道通りに出た。3~4年前にもきているが、下り坂のあたりがそのときの印象とだいぶ違っている。確か工事中であったが、もうすこし広々としていたような気がする。その後、建物が建ったのであろう。
(続く)

参考文献
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)

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鶯谷~無名の階段坂(1)

2011年02月25日 | 坂道

金剛寺坂上 金剛寺坂上の先 無名の階段坂上 金剛寺坂上を左折し進むと、やがて下りながら右へ曲がる小道に至る。その下りの途中左に階段坂がある。南へ下る緩やかな階段である。南側の眺望がちょっとよい。そのまま道なりに進み、途中左折すると、多福院である。その近くに、昭和41年までの旧町名のプレートが取り付けてあり、「旧同心町」とある。幕府の先手組の同心屋敷があったことにちなむという。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、多福院の北側に小さな屋敷がたくさん並んでおり、そこの道に、小石川同心町、とあるが、このあたりをいうのであろう。

多福院の東隣に、明地此下ヲウクヒスタニト云、とある。その明地の東隣が小石川金杉水道町である。金剛寺坂上南側から西へ延びる道と、坂上北側から西へ延びる道がともに円弧状に曲がってから一緒に南北の道となって多福院に至る。近江屋板では、円弧状の道に坂マーク△があり、多福院が谷側である。この南北の道の東が江戸切絵図でいう明地であるから、多福院のあたりを鶯谷(うぐいすだに)というのだろうか。

多福院近く 多福院 無名の階段坂上 右の写真が円弧状の坂道の一方(南側)を坂下から撮ったものである。ここを上ると、先ほどの無名の階段坂上である。

このあたりが永井荷風の随筆「礫川徜徉記」に次のように描かれている。

「・・・電車通を行くことなほ二、三町にしてまた坂の下口(おりくち)を見る。これ即金剛寺坂なり。文化のはじめより大田南畝の住みたりし鶯谷は金剛寺坂の中ほどより西へ入る低地なりとは考証家の言ふところなり。嘉永板の切絵図には金剛寺の裏手多福院に接する処明地の下を示して鶯谷とはしるしたり。この日われ切絵図はふところにせざりしかど、それと覚しき小径に進入らんとして、ふと角の屋敷を見れば幼き頃より見覚えし駒井氏の家なり。坂路を隔てて仏蘭西人アリベーと呼びしものの邸址、今は岩崎家の別墅(べっしょ)となり、短葉松植ゑつらねし土墻(ついじ)は城塞めきたる石塀となりぬ。岩崎家の東鄰には依然として思案外史石橋氏の居あり。遅塚麗水翁またかつてこのあたりに鄰を卜(ぼく)せしことありと聞けり。正徳のむかし太宰春台の伝通院前に帷(とばり)を下せしは人の知る処。礫川(こいしかわ)の地古来より文人遊息の処たりといふべし。さてわれは駒井氏の門前より目指せし小路を西に入るに、ここにもまた幼き頃見覚えたりし福岡氏の門あり。福岡氏は維新の功臣なり。門前の小径は忽(たちまち)にして懸崕(けんがい)の頂に達し紐の如く分れて南北に下れり。崕下に人家あり。鶯谷は即このあたりをいふなるべし。さるにても南畝が遷喬楼の旧址はいづこならむ。文化五戊辰の年三月三日、南畝はここに六秩の賀筵を設けたる事その随筆『一話一言』に見ゆ。・・・」

「(福岡氏の)門前の小径は忽(たちまち)にして懸崕(けんがい)の頂に達し紐の如く分れて南北に下れり。崕下に人家あり。鶯谷は即このあたりをいふなるべし。」とあるが、門前の小径からすぐに崖上に達し紐のように分れて南北に下る道とは、どこであろうか。南へ下る道とは、先ほどの無名の階段坂をいっているのだろうか。いずれにしても、鶯谷とは、階段坂の南西側の低地と思われる。
(続く)

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金剛寺坂

2011年02月24日 | 坂道

金剛寺坂下 金剛寺坂下 金剛寺坂中腹 荷風生家跡の前の緩やかな下りの道を西へ進み、金剛寺坂の中腹を左折し坂下に向かう。丸の内線にかかる橋を通り、先ほど通った水道通りに出てから引き返す。ここまでは中程度の勾配でほぼまっすぐに上下している。先ほどの荷風生家跡の前からの道が合流する中腹のちょっと上に金剛寺坂の少々古くなった説明板が立っている。次の説明がある。

「金剛寺坂(こんごうじざか)  春日2-4と5の間
 江戸時代、この坂の西側、金富小学校寄りに金剛寺という禅寺があった。
 この寺のわきにある坂道なので、この名がついた。小石川台地から、神田上水が流れていた水道通り(巻石通り)に下る坂の一つである。
 この坂の東より(現・春日2-20-25あたり)で、明治12年に生まれ、少年時代をすごした永井荷風は、当時の「黒田小学校」(現在の旧第五中学校のある所、昭和20年廃校)に、この坂を通ってかよっていた。
 荷風は、昭和16年ひさしぶりにこの坂を訪ずれ、むかしを懐しんでいる様子を日記に記している。」

別名は、新鳶坂、コウモリ坂(横関)。

金剛寺坂中腹 金剛寺坂中腹 金剛寺坂中腹 中腹から上側は勾配が少しきつくなっており、左に緩やかに曲がり、石垣などがあって、むかしながらの坂道という感じがする。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、アカコバシ、とある前の道を西に向い、突き当たりの南北に延びる道に、コンカウシサカ、とあり、現在の道筋とほぼあっている。坂下西側に金剛寺がある。近江屋板も同様で、△コンカウシサカ、とある。この坂上が小石川金杉水道町で、金杉稲荷がある。

金剛寺は切絵図をみるとかなり大きな寺院であったようであるが、いまはない。明治地図、戦前の昭和地図にはあるので、戦災にあったのであろうか。

荷風「断腸亭日乗」昭和16年(1941)9月28日に、「・・・金剛寺坂左側の駒井氏、右側の岩崎氏、其鄰の石橋氏なり。その筋向に稲荷の祠あり。余の遊びし頃には桐畑なり。・・・」(前回の記事)とあるが、その稲荷が金杉稲荷であろう。現在はないようである。

説明板にある昭和16年云々は、上記の日乗のことと思われる。黒田小学校については、"服部坂~横町坂"の記事で触れた。

金剛寺坂中腹 金剛寺坂上 金剛寺坂上 『紫の一本』には、「金剛寺坂 小石川の内なり。江戸水道の川の際に、金剛寺と云ふ禅寺あり。そのうしろの坂なり。この坂をのぼれば、伝通院前の町屋にでる。」とある。

『御府内備考』には次のようにある。

「金剛寺坂は水道の東の方より伝通院前の方にゆくの坂なり、金剛寺といへる禪林のたてるかたはらの坂なれば、かく呼べり、坂のすそは水道流れ、上はよほど高き地勢なれば、これより西の方は小坂多し、」

確かに坂下の水道通りから坂上まで上ると、かなりの高低差があることがわかる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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永井荷風生家跡(3)

2011年02月23日 | 荷風

荷風は、小石川金冨町の生家の近くには、何回も訪れており、「断腸亭日乗」にたびたび登場する。

大正八年(1919)9月29日「九月廿九日。東京建物会社々員某来り、小石川金冨町に七十坪程の売地ありと告ぐ。秋の日早くも傾きかけしが、社員に導かれて赴き見たり。金冨町は余が生れし処なれば、若し都合よくば買ひ受け、一廬を結び、終焉の地になしたき心あり。金剛寺阪を上り、余が呱呱の声を揚けたる赤子橋の角を曲り行けば、売地は田尻博士の屋敷と裏合せになりし処にて、鄰家は思案外史石橋先生の居邸なり。傾きたる門を入るに、家の雨戸は破れ、壁落ち、畳は朽ちたり。庭には雑草生茂りて歩む可からず。片隅に一株の柿の木あり。其の実の少しく色づきしさま人の来るを待つが如く、靴ぬぎ石のほとりに野菊と秋海棠の一二輪咲き残りたる風情更に哀れなり。門を出で近巷の模様を問はむと石橋先生を訪ふ。玄関先にて立話をなし辞して帰りぬ。余は先生の俄に老ひたまひし姿を見て、また多少の感なきを得ざりき。此の日目にするもの平生に異り、一ツとして人の心を動かさざるは無し。晩秋薄暮の天、幽暗なること夢のやうなりし故なるべし。」

荷風は、この日、生家近くに売地があるということで、検分に来たが、かなり乗り気であったようである。終焉の地にしたいというすこし大げさな言い方がそれを物語っている(もっとも荷風はよくこういった言い方をするが)。この当時、荷風は、大久保余丁町の屋敷を引き払い築地に住んでいたが、そこでの生活に飽き、さらには嫌気もさしてきて、山の手方面への移転を考えていた(以前の記事参照)。このため、単に生まれた処であるというだけでなく、こういった当時の事情もあって、いっそう心動いたのではないだろうか。こういったときは、売地の荒れた様子も風情があって好ましく感じられる。この日のことは特別に印象に残ったようである。

売地は田尻博士の屋敷と裏合せで、隣は石橋思案先生の家であった。松本にある地図によると、田尻邸は生家の北隣で(赤子橋から坂を上った先)、石橋邸は、その先(春日通りの手前)を左折してちょっと歩いたところであった。これからその売地の位置がだいたいわかる。荷風が訪ねた石橋思案とは、尾崎紅葉率いる硯友社の一員で、荷風の師広津柳浪の先輩に当たる(松本)。

その後、十月六日の日乗によると、ここは、結局、価格のことであきらめている。このとき石橋先生に挨拶に行っているが、荷風の律儀さがよくあらわれている。

昭和11年(1936)「十一月十二目。天気牢晴。正午窓前蝶の舞ふを見たり。一は白一は黄なり。立冬の節を過ること数日にして蝶を見るは珍しきことなり。午後写真機を携へ、小石川金剛寺阪上に至り余が生れたる家のあたりを撮影す。蜀山人が住みたりし鶯谷に至りて見しが陋屋立て込み、冬の日影の斜にさし込みたれば、そのまゝ去りて伝通院前より車に乗りて帰る。燈刻尾張町不二アイスに飯す。帰宅後執筆。
 〔欄外墨書〕金冨町四十五番地赤子橋」

この日、荷風は写真機を持って生家のあたりを撮影したとあるが、そのときの写真はどうなったのだろうか。蜀山人が住んだ鶯谷とは金剛寺坂の近くである。欄外に、赤子橋の住所を記しているのが注意を引く。

昭和16年(1941)9月28日「九月念八。秋陰暗淡薄暮の如し。午後小石川を歩す。伝通院前電車通より金富町の小径に入る。幼時紙鳶あげて遊びし横町なり。一間程なる道幅むかしのまゝなるべく今見ればその狭苦しきこと怪しまるゝばかりなり。旧宅裏門前の坂を下り表門前を過ぎて金剛寺坂の中腹に出づ。暫く佇立みて旧宅の老樹を仰ぎ眺め居たりしが、其間に通行の人全く絶えあたりの静けさ却てむかしに優りたり。坂を上り左手の小径より鶯谷を見おろすに多福院の本堂のみむかしの如くなれど、懸崖の樹木竹林大方きり払れ新邸普請中のところ二三箇処もあり。昭和十一二年頃来り見し時に比すれば更に荒れすさみたり。牛込赤城の方を眺むる景色も樹木いよいよ少くセメントの家屋のきたらしさ目に立ちて、去大正十二年地震後に来り見し時の面影はなし。その時筆にせし礫川徜徉記を今読む人あらば驚き怪しむべし。此のあたりの屋敷の門札にてむかしと変りなきはわが生れし家の跡に永田とかきたるもの、又金剛寺坂左側の駒井氏、右側の岩崎氏、其鄰の石橋氏なり。その筋向に稲荷の祠あり。余の遊びし頃には桐畑なり。今は小屋むさくろしく立ち込みたり。・・・」

荷風生家跡わき坂上 金剛寺坂中腹 この日、荷風は、春日通りの方から小路に入ったが、そこは子供のころ凧あげをして遊んだ横町である。子供時代の記憶は消えることはない。旧宅裏門前の坂を下り表門前を過ぎて金剛寺坂の中腹に出たとあるが、裏門前の坂は赤子橋に下る坂である。左の写真は坂上を坂下から撮ったもので、この坂上に裏門があった。右の写真は金剛寺坂の中腹から坂上側を撮ったもので、右折すると荷風生家跡へ至る。そこで、旧宅の老樹を仰ぎながめたが、人通りがまったくなく、静けさはむかしに優るといっている。今もかなり静かなところである。

昭和24年(1949)10月22日「十月廿二日。微雨。午後に歇む。小石川の焼跡を見むとて省線電車飯田橋駅より江戸川端を歩みて安藤坂を登る。牛天神の岡は樹本さへ無し。坂上三井の屋敷も草原なり。余の生れたる赤子橋際の家も焼けて樹木もなし。金剛寺裏鶯谷も焼払はれ多福院の堂宇もまた見るべからず。茗荷谷も草原なり。切支丹阪上にて亀井戸行の電車に乗り本郷を過ぐ。富坂上焼けざるところあり。厩橋にて電車を降り浅草を歩み押上より京成電車にてかへる。」

荷風は、69歳、戦後のこの頃、市川に住んでいたが、この日、飯田橋駅まで省線(いまの総武線)できて、神田川沿いに歩き、安藤坂を上ったようである。生家あたりの戦災の様子を知りたかったのであろう。まだ生家のあたりに愛着を持っていたようである。牛天神の岡、安藤坂上の三井屋敷、赤子橋際の家(生家)、金剛寺裏鶯谷、多福院の堂宇、茗荷谷すべて焼けて、なにもなかった。

以上以外にも日乗には生家近くに来たことが記されている。たとえば、大正13年(1924)4月20日、昭和8年(1933)正月元旦、昭和19年(1944)9月21日("牛天神~牛坂"の記事参照)。

荷風は、まさしく、生涯にわたって、「おのれの生れ落ちた浮世の片隅を忘れる事は出来」(「伝通院」)ないのであった。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
松本哉「荷風極楽」(朝日文庫)

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永井荷風生家跡(2)

2011年02月22日 | 荷風

荷風生家跡近く 荷風生家跡近く 荷風生家跡近く 『御府内備考』の金杉水道町の書上に荷風生家近くの赤子橋があることを前回の記事で紹介したが、尾張屋板江戸切絵図を見ると、アカコバシとある道の北側に小石川金杉水道町がある。現在、説明板のある角を曲がった上り坂を北へ進むと、やがて、春日通りに至るが、その手前一帯付近と思われる。写真は次の週に再訪し、春日通りから入って撮ったものである。

荷風は、明治43年(1910)執筆の随筆「伝通院」の冒頭で生家のことを次のように回想している。

「われわれはいかにするともおのれの生れ落ちた浮世の片隅を忘れる事は出来まい。
 もしそれが賑な都会の中央であったならば、われわれは無限の光栄に包まれ感謝の涙にその眼を曇らして、一国の繁華を代表する偉大の背景を打目戌(うちまも)るであろう。もしまたそれが見る影もない痩村(やせむら)の端れであったなら、われわれはかえって底知れぬ懐しさと同時に悲しさ愛らしさを感ずるであろう。
 進む時間は一瞬ごとに追憶の甘さを添えて行く。私は都会の北方を限る小石川の丘陵をば一年一年に恋いしく思返す。
 十二、三の頃まで私は自分の生れ落ちたこの丘陵を去らなかった。その頃の私には知る由もない何かの事情で、父は小石川の邸宅を売払って飯田町に家を借り、それから丁度日清戦争の始まる頃には更に一番町へ引移った。今の大久保に地面を買われたのはずっと後の事である。
 私は飯田町や一番町やまたは新しい大久保の家から、何かの用事で小石川の高台を通り過る折にはまだ二十歳にもならぬ学生の裏若い心の底にも、何とはなく、いわば興亡常なき支那の歴代史を通読した時のような淋しく物哀れに夢見る如き心持を覚えるのであった。殊に自分が呱々(ここ)の声を上げた旧宅の門前を過ぎ、その細密(こまか)い枝振りの一条(ひとすじ)一条にまでちゃんと見覚えのある植込の梢を越して屋敷の屋根を窺い見る時、私は父の名札の後に見知らぬ人の名が掲げられたばかりに、もう一足も門の中に進入る事ができなくなったのかと思うと、なお更にもう一度あの悪戯書で塗り尽された部屋の壁、その窓下へ掘った金魚の池なぞあらゆる稚時(おさなどき)の古跡が尋ねて見たく、現在其処に住んでいる新しい主人の事を心憎く思わねばならなかった。
 私の住んでいる時分から家は随分古かった。それ故、間もなく新しい主人は門の塀まで改築してしまった事を私は知っている。乃(すなわ)ち私の稚時の古跡はもう影も形もなくこの浮世からは湮滅(いんめつ)してしまったのだ……」

生家(の想い出)に対してかなりの入れ込みようである。前回の小作品「狐」もこの文脈で理解すべきなのかもしれない。この世のほとんどのおさなどきの古跡などは消え去っているのが常であろう。それゆえに「狐」のような過去に執着する作品が生まれるのであろうか。(なお、金富町から大久保余丁町に移るまでについては以前の記事参照。)

荷風生家跡 荷風生家跡 金剛寺坂付近地図 荷風の父久一郎は明治26年(1893)11月この金富町の屋敷を売却したが、その売却先は、永田清三郎という人で、この人の孫の諸井勝之助(その屋敷で生まれ、20年を過ごした)が家にあった売却時の証書や屋敷の図面を、戦後、荷風に郵送したという。

昭和27年(1952)12月23日「断腸亭日乗」に次の記述がある。

「十二月廿三日。晴。諸井勝之助(文京区真砂町十七)といふ人より余が父小石川金冨町の邸宅を売払ひし時の証書及地図を送り来る。返書を裁して其厚情を謝す。証書地図面は買主の家に在りし由。大畧左の如し。」

証書の内容も記しているが、それによると、屋敷の坪数は、実測で463坪 内54坪崖地であった。1500平方m程度で、当時でもかなり広い屋敷であったと思われる。

概略位置は、上右の写真の地図で、春日二丁目の下に赤字で「現在位置」とあるところの右側一帯であった。

松本哉「荷風極楽」(朝日文庫)によれば、諸井勝之助に「荷風の手紙」という一文があり、それによると、金剛寺坂の中腹と、前回のクランク状の道筋との間の道(上中の写真の道)に面して正門があり、金剛寺坂から来て門前を過ぎてすぐ左折すると、坂のある小道に入るが、その小道に入る際に渡る橋が赤子橋(昭和初期には平らな自然石を溝の上に敷き並べただけの橋であったという)で、上り坂の終わるあたりに裏門があったとのことである。

松本に、上記の一文を参照して文字を入れた屋敷の図面がのっている。それによると、ケヤキやムクなどの大木などとともに広い庭があったようである。この片隅に狐の穴があったのであろう。この図面を見ながら「狐」を読むのもおもしろいと思う。
(続く)

参考文献
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)

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永井荷風生家跡(1)

2011年02月21日 | 荷風

安藤坂上側から西への道 荷風生家跡近く 荷風生家跡近く 荷風生家跡近く 安藤坂上側の三中前の横断歩道を渡り、そのまま西へ進むと、突き当たるので、左折し、次に右折する。ここは、写真のように、すこし下り坂のみごとなクランク状の道筋である。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、安藤坂から西に延びる道が同様になっているが、突き当たり手前に右折する小路がある。近江屋板、明治地図、戦前の昭和地図も同様である。こういった特徴は色んな地図を見るときの目印になる。

クランク状の道筋を西へ進む。緩やかな下り坂が金剛寺坂中腹へと続いている。ちょっと進むと、右折する上り坂となった小路があるが、その角に「永井荷風生育地」の説明板が立っている。

荷風生家跡 荷風生家跡 荷風生育地説明板 永井荷風、本名壯吉は、ここ小石川区金富町45番地(文京区春日二丁目20番25号あたり)で明治12年(1879)12月3日に父久一郎、母恆(つね)の長男として生まれた(以前の記事参照)。久一郎はこのとき洋行帰りの少壮官吏であった。この生家のことは、荷風初期の作品「狐」(明治42年(1909)1月1日発表)に詳しい。以下、少々長いが、その冒頭である。

『小庭を走る落葉の響、障子をゆする風の音。
 私は冬の書斎の午過ぎ。幾年か昔に恋人とわかれた秋の野の夕暮を思出すやうな薄暗い光の窓に、ひとり淋しく火鉢にもたれてツルゲネーフの伝記を読んでゐた。
 ツルゲネーフはまだ物心もつかぬ子供の時分に、樹本のおそろしく生茂った父が屋敷の庭をさまよって、或る夏の夕方に、雑草の多い古池のほとりで、蛇と蛙の痛しく噛み合ってゐる有様を見て、善悪の判断さへつかない幼心に、早くも神の慈悲心を疑った……と読んで行く中に、私は何時となく理由なく、私の生れた小石川金富町の父が屋敷の、おそろしい古庭のさまを思ひ浮べた。もう三十年の昔、小日向水道町に水道の水が、露草の間を野川の如くに流れてゐた時分の事である。
 水戸の御家人や旗本の空屋敷が其処此処に売物となってゐたのをば、維新の革命があって程もなく、新しい時代に乗じた私の父は空屋敷三軒ほどの地所を一まとめに買ひ占め、古びた庭園や木立をそのまゝに広い邸宅を新築した。私の生れた時には其の新しい家の床柱にも、つやぶきんの色の稍(やや)さびて来た頃で。されば昔のまゝなる庭の石には苔いよいよ深く、樹木の陰はいよいよ暗く、その最も暗い木立の片隅の奥深いところには、昔の屋敷跡の名残だといふ古井戸が二つもあった。その中の一つは出入りの安吉といふ植木屋が毎年々々手入の松の枯葉、杉の折枝、桜の落葉、あらゆる庭の塵埃を投げ込み、私が生れぬ前から五六年もかゝつて漸くに埋め得たと云ふ事で。丁度四歳の初冬の或る夕方、私は松や蘇鉄や芭蕉なぞに其の年の霜よけを為し終へた植木屋の安が、一面に白く乾いた茸の黴(か)び着いてゐる井戸側を取破してゐるのを見た。これも恐ろしい数ある記念の一つである。蟻、やすで、むかで、げじげじ、みゝず、小蛇、地蟲、はさみ蟲、冬の住家に眠って居たさまざまな蟲けらは、朽ちた井戸側の間から、ぞろぞろ、ぬるぬる、うごめき出し、木枯の寒い風にのたうち廻って、その場に生白い腹を見せながら斃死(くたば)ってしまふのも多かった。安は連れて来た職人と二人して、鉈で割った井戸側へ、その日の落葉枯枝を集めて火をつけ高箒(たかぼうき)でのたうち廻って匍出す蛇、蟲けらを掻寄せて燃した。パチリバチリ音がする。焔はなくて、湿った白い烟ばかりが、何とも云へぬ悪臭を放ちながら、高い老樹の梢の間に立昇る。老樹の梢には物すごく鳴る木枯が、驚くばかり早く、庭一帯に暗い夜を吹下した。見えない屋敷の方で、遠く消魂(けたたま)しく私を呼ぶ乳母の声。私は急に泣出し、安に手を引かれて、やっと家へ帰った事がある。

荷風生家跡 荷風生家跡 荷風生家跡  安は埋めた古井戸の上をば奇麗に地ならしをしたが、五月雨、夕立、二百十日と、大雨の降る時々地面が一尺二尺も凹むので、其の後は縄を引いて人の近かぬやう。私は殊更父母から厳しく云付けられた事を覚えて居る。今一つ残って居る古井戸はこれこそ私が忘れやうとしても忘られぬ最も恐ろしい当時の記念である。井戸は非常に深いさうで、流石の安も埋めようとは試みなかった。現在は如何なる人の邸宅になって居るか知らぬけれど、あの井戸ばかりは依然として、古い古い柳の老木と共に、あの庭の片隅に残って居るであらうと思ふ。』

「狐」は荷風29才の時の作品であるが、その当時の描写が詳しく、ついこの間のごとくのように書いている。こういった圧倒的な表現は荷風のもっとも得意とするところで、読む者は当時の光景を生き生きと思い描くことができる。それにしても、三十年も前の少年時代をこのように表現できる文章力、感性とその持続力は、やはり、生来のものなのであろう。

この作品は、その古庭に狐が出没し雞(にわとり)を喰い殺したことをめぐる父や住み込みの書生や出入りの人たち大人の振る舞いを少年の眼を通して描いたものである。この少年の眼を荷風は生涯持ち続けたように思う。なお、この作品は、確か文庫本にはなく、全集や作品集で読むしかないようであるが、文庫本に入れるべき作品と思う。

荷風生家跡 荷風生家跡 荷風生家跡 尾張屋板に、現在説明板の立っている角を曲がったところに「アカコバシ」とあるように、ここに、赤子橋という橋があった。近江屋板にも「アカコバシ」とあり、その先に、坂マーク(△)があり、現在も短いがちょっとした坂になっている。この坂下に橋があったようである。

この橋について『御府内備考』の金杉水道町の書上に次のようにある。

「一橋 右南の方同町続武家屋敷前に石を三枚並有之、字赤子橋唱申候、尤同所に往古御駕の衆拝領地面有之候に付御駕橋を赤子橋と言誤候哉、又は橋の上え赤子を捨有之儀も有之哉にて右より赤子橋と相唱来候得共、矢張町内付きの分も同様里俗に赤子橋と相唱候に付、町内より隔候得共申上候、」

この橋は、道幅からいって当然であろうが、石を三枚並べた小さなものであった。橋名のいわれは、このあたりにむかし御駕(おかご)の衆の拝領地があり、御駕橋を赤子橋と言い誤ったのか、橋の上に赤子が捨ててあったからか、などとしている。
(続く)

参考文献
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「荷風全集 第六巻」(岩波書店)

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安藤坂

2011年02月18日 | 坂道

安藤坂下 安藤坂下 安藤坂下 牛坂下を道なりに進むと、先ほどの石段の前の方にでるので、右折して安藤坂の坂下にもどる。四車線の広い坂道がまっすぐに上っている。傾斜は中程度であると思われるが、広いためか、かなり勾配があり迫力あるような印象を受ける坂である。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、牛坂の西に、安藤坂とあり、まっすぐに北へ延びている。その先は伝通院であるが、現在の坂上の伝通院前の交差点近くが門前であったようである。近江屋板も同様で、△安藤坂とある。坂下は、牛天神の方へ曲がりまた曲がって神田上水へと延びている。坂西側に安藤飛騨守の屋敷があるが、これが坂名の由来とされている。

坂右(東側)の歩道を上ると、中腹歩道わきに「萩の舎跡」(春日1-9-27)の説明板が立っている。樋口一葉(1872~96)は、父の知人の紹介で14歳のとき萩の舎に入門し、18歳のとき一時内弟子になってここに寄宿していたという。

安藤坂下 安藤坂説明板 安藤坂上 「萩の舎跡」の説明板ではなく、坂の説明板はないのかと、まわりを見回したら、第三中学校の入口側に立っていた。次の説明がある。

「安藤坂  文京区春日1・2丁目の境
 この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが、1909年(明治42)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。 坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」、戦後になって「安藤坂」とよばれるようになった。
 古くは坂下のあたりは入江で、漁をする人が坂上に網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛(おたかがかり)の組屋敷があって鳥網を干したことから「網干坂」ともよばれた。」

永井荷風「伝通院」に、「安藤坂は平かに地ならしされた。」とあるのは、上記の路面電車を通す工事のことをいっているのであろう。江戸時代には、九段になっている急傾斜の坂だったらしい(岡崎)。

『御府内備考』の小石川の総説に網干坂として次の説明がある。

「網干坂は伝通院前より上水の端に下る坂なり、今安藤坂と云り、又牛天神裏門の前の坂ともいへり、むかし此坂下入江の時、この辺多く獵(猟)師の住て網を干したるよりの名なりと、又或説に此辺むかし御鷹野に預る人の住居ありて、日毎に鳥網などほしたる頃いひならわせし名あり、此両説とも全くうけかひかたき事なり、近き頃迄このほとりに船宿などありしかは、 今も諏訪町内に船宿あり、 恐くはその類ひ多くありて、魚とる網などほしたるよりの名なるもしるべからず。【改選江戸志】」

坂下の諏訪町あたりに船宿があり、そこで、魚をとる網などをほしたことに因むという説のようである。

安藤坂上 安藤坂上伝通院前交差点 荷風は、『日和下駄』の「第十 坂」で次のように名文調でもって眺望の佳い坂をあげている。

「今市中の坂にして眺望の佳(か)なるものを挙げんか。神田お茶の水の昌平坂は駿河台岩崎邸門前の坂と同じく万世橋を眼の下に神田川を眺むるによろしく、角(さいかち)坂 水道橋内駿河台西方 は牛込麹町の高台並びに富嶽を望ましめ、飯田町の二合半坂は外濠を越え江戸川の流を隔てて小石川牛天神の森を眺めさせる。丁度この見晴しと相対するものは則ち小石川伝通院前の安藤坂で、それと並行する金剛寺坂荒木坂服部坂大日坂などは皆斉(ひと)しく小石川より牛込赤城番町辺を見渡すによい。しかしてこれらの坂の眺望にして最も絵画的なるは紺色なす秋の夕靄(ゆうもや)の中より人家の灯のちらつく頃、または高台の樹木の一斉に新緑に粧(よそ)わるる初夏晴天の日である。もしそれ明月皎々(こうこう)たる夜、牛込神楽坂浄瑠璃坂左内坂また逢坂なぞのほとりに佇(たたず)んで御濠の土手のつづく限り老松の婆娑(ばさ)たる影静なる水に映ずるさまを眺めなば、誰しも東京中にかくの如き絶景あるかと驚かざるを得まい。」

これまでたどってきた坂が安藤坂から次々とあげられている。しかし、これらすべての坂でそのような眺望は失われている(何回も繰り返すが)。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)

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牛天神~牛坂

2011年02月17日 | 坂道

牛天神 牛天神 牛天神 中島歌子歌碑 新坂(今井坂)を下り、交差点を左折し水道通りを東南へ進むと、金剛寺坂の坂下を通り過ぎ、安藤坂の坂下に至るが、これらの坂は後で来ることにし、安藤坂下の信号を渡り、北野神社(牛天神)を目指す。

ちょっと細い道を直進すると、突き当たりが牛天神である。急傾斜の石段が正面に見える。石段を見上げると、紅梅が咲いており、紅梅祭りというのもわかる。この神社は、江戸時代金杉天神、俗に牛天神と呼ばれ、菅原道真を祀る。

階段を上り、境内に入ると、南側に大きめの石碑が立っている。安藤坂にあった歌塾「萩の舎」の塾主である中島歌子(1844~1903)の歌碑である。次の歌であるという。(樋口一葉は「萩の舎」の塾生であった。)
 「雪 中 竹
  ゆきのうちに根ざしかためて若竹の
        生ひ出むとしの光をぞ 思ふ」

牛天神 牛天神 断腸亭日乗S19.9.21手書地図 尾張屋板江戸切絵図(東都小石川絵図)を見ると、ちょうど南東の端に牛天神がある。その南に神田上水が流れているが、そこにかかる橋が参道であったようである。その北が牛坂である。いまの石段はのっていない。

永井荷風は、この近く(金富町)で生まれたので、たびたび、このあたりを訪れているが、次は昭和19年(1944)9月21日「断腸亭日乗」の記述である。

「九月廿一日。秋陰漫歩によし。小石川牛天神附近の地理を知る必要あり三時頃家を出でゝ赴き見たり。砲兵工廠の構内むかしとは全くちがひたれば従つて其裏手なる仲町の様子も今は全く旧観を存せず。西岸寺日限の不動に賽し電車通に出で大門町の陋巷を過ぎ金冨町を歩む。余の生れし家の門には永田甚之助といふ札かゝげられ、裏隣の昔田尻子爵の邸には東方社の札下げられたり。もと来し道をたどり安藤坂に出で、牛天神の境内を見て後、表の石段を降るに安藤坂の下民家取払はれ、諏訪神社の社殿のみ空地の上に取残されたり。諏訪町の民家半分ほど取壊されたり。五時過家に帰るに不在中凌霜子来りしとおぼしく其名刺勝手口に置きてあるを見る。」

この日、荷風は、牛天神附近の地理を知る必要があり、このあたりに来た。旧生家のあたりに行ってから安藤坂にでて牛天神に来たようである。境内を見てから表の石段を下りたが、安藤坂の下や諏訪町では民家が取り払われていた。敗色濃厚の戦争末期の頃である。この日の日乗には、荷風手書きの牛天神付近の地図(右の写真)が添えられている。この地図を見ると、牛天神の参道はこの頃切絵図と同じく南側にあった。いまの石段はこの頃すでにあったようである。急坂とある。安藤坂上付近はこの当時からあまり変わっていないように思われる。

ところで、次の日の日乗にも手書きの地図が説明なく添えられているが、どこかわからない。上記の諏訪神社のあたりの地図かもしれない。この神社や西岸寺は以前訪れたことがあるが、再訪したい。

牛坂上 牛坂上 牛坂上 境内を出て本殿の裏側に回ると、左手が牛坂の坂上である。坂上側がちょっと急勾配でほぼまっすぐに下っている。長さはさほどない。石垣が風情のある坂の風景をつくっている。右手に進むと、西岸寺を左に見て富坂上にでる。

上記の荷風手書きの地図に、ウラ門とあり、そこから右側の細い道がこの坂と思われる。

中腹に説明板が立っており、次の説明がある。

「牛(うし)坂  春日一丁目5 北野神社北側
 北野神社(牛天神)の北側の坂で、古くは潮見坂・蛎殻(かきがら)坂・鮫干(さめほし)坂など海に関連する坂名でも呼ばれていた。中世は、今の大曲あたりまで入江であったと考えられる。
 牛坂とは、牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石があり、それが坂名の由来となったといわれる。(牛石はもと牛坂下にあった)
 『江戸志』に、源頼朝の東国経営のとき、小石川の入江に舟をとめ、老松につないでなぎを待つ。その間、夢に菅中(菅原道真)が、牛に乗り衣冠を正して現われ、ふしぎなお告げをした。夢さめると牛に似た石があった。牛石がこれである。と記されている。」

牛坂下 牛坂下 牛坂下 尾張屋板には、上記のように、牛天神の北に牛サカとあり、坂下に、牛石とあり、そばに石らしき微小な絵が描かれている。近江屋板も同じように、△牛サカと牛石とあり、わきに小さな石がある。

『御府内備考』の小石川の総説に「牛坂は天神の社の後の坂をいへり、この所にも裏門あり、牛石は坂のもとなり、水埜家屋敷の前にあり、根入の深きことはかるべからず、【江戸志】」とある。牛石は根が深かったらしい。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第二巻」(雄山閣)
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)

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谷道~新坂(今井坂)

2011年02月16日 | 坂道

新坂付近地図 谷道 谷道 谷道 荒木坂下を左折して進むとすぐに小日向の交差点であるが、左手を見ると、坂ではなく平坦な道が延びている。左の写真は交差点を渡ってすぐのところに立っていた地図であるが、この道は、小日向一丁目と春日二丁目との境を通っている。どこに延びているのだろうかと思い、左折して歩いてみた。右手は石垣が続き、なかなか風情のある道であるが、ときどき車がスピードをだして通る。道の左側は地下鉄の車輌場・工場のようである。やがてトンネルが見えてくるが、トンネルの手前で引き返した。

地図からわかるように、この道は直進しトンネルを通り過ぎると、藤坂の坂下を通り、さらにトンネルを通り、拓殖大学前の深光寺へ至り、茗荷坂へと続く。

この道は、小日向台地と小石川台地との間にできた谷道のようである。これらの台地の間の谷は茗荷谷と呼ばれるが、江戸時代、茗荷畑が多かったといわれるためらしい。写真を撮ったあたりも茗荷谷と呼ばれたかわからないが、そう思いたいほどの静かな谷道である。

『御府内備考』の小日向の総説に「茗荷谷は七間屋敷の北の谷なり、・・・【改撰江戸志】」とあるが、七間屋敷というのが切絵図で見つけることができない。深光寺の近くに小日向茗荷谷町というのがあるので、そのあたりをいうのかもしれない。

この谷道を境にして、坂が上下する台地が変わるようで、これまでの坂は、厳密にいえば、小日向台地を上下したが、次の新坂からは小石川台地を上下する坂となる。

徳川慶喜屋敷跡 新坂(今井坂)下 新坂(今井坂)下 金富小学校 小日向の交差点にもどりここを左折し、次の交差点を左折すると、新坂(今井坂)の坂下である。ここに来てまた驚いた。坂左側(西)がまったく変わっていたからである。3~4年前に来ているが、そのときは、ここは樹木で鬱蒼として、坂もそのため、ちょっと古びた感じであったような記憶があるのだが、坂の印象がまったく違っている。

坂西側に仏教大学ができているが、その門の前に徳川慶喜屋敷跡の新しい石碑が立っており、その裏に碑文が刻んである。以前は、確か坂の中腹あたりに標識があったような気がするが。

勾配は中程度よりもない程度で、まっすぐに上り、丸の内線にかかる橋で平らになり、その先でやや右に曲がって緩やかに春日通りまで上っている。現在工事中のようで、完成すると、新しげな坂となるのであろう。(写真は二週続けてこの辺に行ったので同日でないものもある。)

尾張屋板江戸切絵図を見ると、シンザカ、とある。その西側に北に延びる道があるが、これが上記の谷道と思われ、切支丹坂を横切ったちょっと先まで延びている。近江屋板にも、△シンサカとある。明治地図では、この道が現在のように深光寺の先までずっと延びている。

坂東側は、金富小学校で、金富町という旧町名が小学校名に残っている(以前の記事参照)。

新坂(今井坂)中腹 新坂(今井坂)中腹 新坂(今井坂)中腹 坂の下側に説明板(文京区教育委員会平成13年3月)が立っており、次の説明がある。

「今井坂(新坂)  文京区春日2丁目7番と8番の間
 『改撰江戸志』には、「新坂は金剛寺の西なり、案(あんずる)に此坂は新に開けし坂なればとてかかる名あるならん、別に仔細はあらじ、或はいふ正徳の頃(1711~16)開けしと、」とある。新坂の名のおこりである。
 今井坂の名のおこりは、『続江戸砂子』に、「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平桜(今井四郎兼平の名にちなむ)と名づけた大木があった。これにより今井坂と呼ぶようになった。」とある。
 この坂の上、西側一帯は、現在財務省の宿舎になっている。ここは徳川最後の将軍、慶喜が明治34年(1901)以後住んだところである。慶喜は自分が生まれた、小石川水戸屋敷に近い、この地を愛した。慶喜はここで、専ら趣味の生活を送り、大正2年に没した。現在、その面影を残すものは、入り口に繁る大公孫樹のみである。
    この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶ深くなりたり(釈 迢空)
    (この町とは旧金富町をさす)」

新坂というのは、都内に他にもたくさんあり、要するに新しく開かれた坂であるが、その開かれた時期が問題で、江戸から続く坂にも新坂とついた坂がある。

新坂(今井坂)上 新坂(今井坂)上 新坂(今井坂)上 今井坂の坂名について、『新編江戸志』は「新坂 金剛寺坂ならび、江戸砂子に今井坂といふは誤りなり」と否定しているとのこと(石川)。理由は不明。

慶喜が大正まで生きたことにちょっと驚いた。また、大日坂の説明板と同じ釈迢空(折口信夫)の歌がのっているが、やはり、金富町に住んでいたときのものらしい(前回の記事参照)。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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荒木坂

2011年02月15日 | 坂道

本法寺門前 荒木坂下 荒木坂下 荒木坂中腹 横町坂の坂下から水道通りに出て左折し東へ進む。善仁寺、日輪寺、本法寺、称名寺が続けて通り沿いに並んでいる。本法寺の門前に立っていた説明板によると、夏目漱石の実家の菩提寺とのことで、漱石もここにしばしば訪れたとある。「坊つちゃん」の清のお墓は小日向の養源寺となっているが、ここがモデルらしい。

永井荷風にゆかりのある寺院があったはずと思って、帰宅後、「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)を見たら日輪寺であった。しんという永井家で働いていた老婆のお墓がここにあり、その墓参りに訪れている。「礫川徜徉記」に次のようにある。

「しんは武州南葛飾郡新宿の農家に生れ固(もと)より文字を知るものにもあらざりしかど、女の身の守るべき道と為すべき事には一として闕(か)くところはあらざりき。良人にわかれて後永く寡を守り、姑を養ひ、児を育て、誠実の心を以てよく人の恩義に報いたり。われ大正当今の世における新しき婦人の為す所を見て翻ってわが老婢しんの生涯を思へば、おのづから畏敬の念を禁じ得ざるも豈(あに)偶然ならんや。しんの墓は小日向水道町なる日輪寺にありと聞きしのみにて、いまだ一たびも行きて弔ひしことなければ、この日初夏の晷(ひあし)のなほ高きに加へて、寺は一牛鳴の間にあるをさいはひ杖を曳きぬ。路傍に石級あり。その頂に寺の門立ちたり。石級の傍別に道を開きて登るに易からしむ。登れば一望忽(たちまち)曠然として、牛込赤城の嵐光人家を隔てて翠色(すいしょく)滴(したた)らむとす。供養の卒塔婆を寺僧にたのまむとて刺を通ぜしに寺僧出で来りてわが面を熟視する事良久(しばらく)にして、わが家小石川にありし頃の事を思起したりとて、ここに端なく四十年のむかしを語出せしもまた奇縁なりけり。」

荷風は、しんの死後もなおその人柄を偲んで、日輪寺にでかけている。川本三郎が、荷風にとってしんは、「坊つちゃん」の清に相当する存在である旨のことを書いていたことを思い出したので引用した。

このあたりは、漱石、荷風などにゆかりのお寺が多いようであるが、現在のスタイルは感心しない。門を固く閉ざしているからである。お寺や神社というのはフリーアクセスであるべきと思う。閉ざしているところに強いて入ってみようとは思わない。逆に、入るもの拒まずの雰囲気のあるお寺は親しみが持てる。街歩きをしているとそんな感覚が自然に身についてしまう。

荒木坂中腹 荒木坂中腹 神田上水路説明板 神田上水路説明板 称名寺の東側を左折すると、荒木坂の坂下である。中程度の勾配でまっすぐに上っているが、そんなに長い坂ではない。坂上を直進すると、切支丹坂の坂下に至る。

坂中腹の左側に文京区教育委員会による「荒木坂と巻石通り」と題する説明板が立っており、次の説明がある。

「称名寺の東横を、小日向台地に上がる坂である。
 『江戸砂子』によれば「前方坂のうへに荒木志摩守殿屋敷あり。今は他所へかはる」とある。坂の規模は「高さ凡そ五丈程(約15m)、幅貮軒貮尺程(約4m)(『御府内備考』)と記されている。この坂下、小日向台地のすそを江戸で最初に造られた神田上水が通っていたことから、地域の人々は、上水に沿った通りを"水道通り"とか"巻石通り"と呼んでいる。
 神田上水は、井の頭池を源流とし、目白台下の大洗堰(大滝橋付近)で水位を上げ、これを開渠で水を導き、水戸屋敷(後楽園)へ入れた。そこからは暗渠で神田、日本橋方面へ配水した。明治11年頃、水質を保つため、開渠に石蓋をかけた。その石蓋を"巻石蓋(まきいしぶた)"と呼んだ。その後、神田上水は鉄管に変わり、飲料水としての使用は明治34年(1901)までで、以後は、水戸屋敷跡地に設けられた兵器工場(陸軍砲兵工廠)の工業用水として利用された。」

神田上水の説明があるが、通り沿い二箇所にあった神田上水路の説明板を撮った写真をのせる。簡単な歴史がわかる(以前の記事参照)。

荒木坂上 荒木坂上 『御府内備考』は、小日向の総説に「荒木坂は新坂の西なり、荒木志摩守の屋敷この坂の上にありしより名付けり、今はなし、【改選江戸志】」と記している。新坂とはこの東の別名今井坂である。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、小石川称名寺門前と小日向第六天前町との間を北へ延びる道に、アラキサカ、とある。近江屋板も同様で、△アラキサカとある。江戸から続く坂で、坂名の由来は服部坂と同じパターンである。

水道通り沿い新坂の手前に旧第六天町の旧町名案内が立っているが、それによると、もと小日向村に属し、正徳三年(1713)町方支配となった、神田上水堀の土手の上に、第六天社が祭られており、その北側の前の町ということで第六天前町と称し、その後、明治になって他と合併し、第六天町と町名を変更したとのことである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
川本三郎「荷風と東京『斷腸亭日乗』私註」(都市出版)
「大日本地誌体系 御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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新渡戸稲造旧居跡~小日向公園~薬罐坂

2011年02月14日 | 坂道

新渡戸稲造旧居跡 新渡戸稲造旧居跡説明板 新渡戸稲造旧居跡 埋込プレート 横町坂上にもどり、右折し、服部坂上を右手に進むと、やがて、左手に樹木でこんもりとしたところが見えてくる。その道路わきに新渡戸稲造旧居跡の説明板が立っている。以前も確か服部坂上からこの辺に来ているはずであるが、はじめてである。

新渡戸稲造(1862~1933)は、農学者、教育者で、明治37年(1904)から昭和8年(1933)までここに住み、その住居はニトベ・ハウスと呼ばれていたとのこと。内村鑑三や廣井勇などとともに明治10年(1877)から札幌農学校で学んだ(以前の記事参照)。

ちょっと荒れた感じもするが、古くなった説明板とよくあっている。いずれは工事がはじまって、なにかになるのであろう。説明板近くの道路面に案内プレートが埋め込まれているが、これで水道通りに面した日輪寺に真山青果のお墓があることを知った。

小日向台町小学校わき交差点 小日向台町小学校わき交差点 小日向台町小学校わき交差点 新渡戸稲造旧居跡からそのまま北へちょっと進むと、小日向台町小学校わきの交差点に至る。この交差点に来ておもしろいと思った。直進方向と直交方向ともに食い違っているからである。二方向とも食い違いの珍しい交差点である。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、服部坂上を直進すると四差路に至るが、ここがこの交差点であると思われる。直進方向(南北方向)に食い違っているが、直交方向(東西方向)はまっすぐに描かれている。近江屋板も同様である。

現在も、左と右の写真からわかるように、南北方向はかなりの食い違い量である。これに比べると、東西方向は中の写真のように、少ないもののやはり食い違いがある。街歩きをしていると、このような交差点によく出くわす。なぜこのような食い違いができるのかいつも疑問に思う。別々に道をつくって、一直線にならなかっただけのことなのかもしれないが。

小日向公園 小日向公園 小日向公園 薬罐坂途中 食い違いの交差点を右折し東へ進むと、すこし下り坂になる。一本目を右折し南へ進むと、生西寺の前に出て薬罐坂(やかんざか)の坂上となるが、その手前、左手に小日向公園の標識があり、上り階段があるので、上って公園に行ってみる。 こじんまりとした公園である。小日向台地の南端の一画のようで、眺めがちょっとよいが、下側のみならず正面にお墓が並んでいる。水道通りの日輪寺や善仁寺の墓地と思われる。

薬罐坂のいわれなどは別の薬罐坂で書いたとおりである("上荻の薬罐坂"、"目白台の薬罐坂")。

尾張屋板を見ると、薬罐坂が上記とちょっと違った位置で、上記の交差点を右折したさきの道筋に、ヤカンサカ、とある。生西寺の北側である。近江屋板も同様で、△ヤカンサカとあり、坂マークの方向が東側上りを指している。

横関は、文京区小日向一丁目10番の生西寺北わきの坂であるとし、尾張屋板の絵図をのせている。

薬罐坂途中 薬罐坂下 薬罐坂下 薬罐坂下 石川は、横町坂の北方、小日向一丁目10番の浄土宗生西寺の上(北側)を、東南に曲がって下る坂道で、嘉永年間の東都小石川小日向絵図に「ヤカンサカ」と記入されているとし、その絵図はいわゆる尾張屋板(二版の最終版、安政四年(1857))とほぼ同じと思われるが、同書にある地図は、上記の道筋から右折し南へと下る道を薬罐坂とし、山野と同様である。

生西寺の上(北側)を東南に曲がって下る坂道とは、右折し南へ下る道ではなく、同じ道筋を指すと思われるのだが。

岡崎は、横町坂の坂下の道を迂曲しながら北に上る坂、坂の西に浄土宗生西寺があるとし、尾張屋板を同様にあげているが、石川の地図と同様の道筋を地図に示している。

今回のせた写真はいずれも上記の食い違いの交差点から東に進んで一本目を右折した先で撮ったもので、石川の地図、山野、岡崎が示すところである。薬罐坂とは、幽霊坂と同じような寂しいところの坂をいったが、ここもいかにも寂しそうな坂である。しかし、江戸切絵図(東都小石川絵図)が示す位置は、右折する前の道で、明らかに異なり、いずれが薬罐坂であるのか、ちょっとわからない。岡崎、石川は同じ切絵図を引用しながら、なぜ切絵図と同じ位置を示さないのか理由が不明である。このことはこれを書いていて気がついたので、切絵図が示す坂の写真は撮れなかった。この点は今後の課題である。

上記の写真の坂を下って二回屈曲しながら進み、やがて前回の横町坂の坂下が右に見えると、すぐに水道通りである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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服部坂~横町坂

2011年02月11日 | 坂道

黒田小学校跡地説明板 服部坂下 服部坂下 服部坂下 大日坂の坂下の水道通りを左折する。水道通りはここを流れていた神田上水を明治はじめに暗渠にした道で、このあたりの旧町名が小日向水道町である。この通りをちょっと歩くと、歩道左わきに黒田小学校の説明板が立っている。ここは、文京区立第五中学校となっていたが、最近、閉校となったらしく、門に、筑波大学理療科教員養成施設の標識が貼りつけてある。それで、説明文の該当個所に旧区立第五中学校の訂正シールが貼られている。

説明文にもあるように、黒田小学校は、この近くに実家のあった永井荷風が通ったところである。映画監督の黒澤明もここの卒業生とのこと。

荷風「断腸亭日乗」昭和11年(1936)に「十一月十六日。小石川服部坂上に黒田小学校とよぶ学校あり。余六七才のころ通学せしことありき。今より五十二三年前の事とはなるなり。・・・」という記述がある。この後、荷風は、その学校からの度々の寄附金募集のことを不快の念をもって記している。「余は事の善悪に係らず、現代人の事業には一切関係することを欲せざれば、いづれも知らぬ振にて取り合はざるなり。」と拒否している。いかにも荷風らしい。

その説明板の先の交差点を左折すると、服部坂の坂下である。ここからまっすぐに中程度の勾配で上っている。坂下東側に、旧第五中学校の門があって、その脇の壁に服部坂の説明板が貼り付けられている。

服部坂下 服部坂説明板 服部坂説明板 服部坂中腹 説明板には次のようにある。

「坂の上には江戸時代、服部権太夫の屋敷があり、それで「服部坂」と呼ばれた。服部氏屋敷跡には、明治2年(1869)に小日向神社が移された。
 永井荷風は眺望のよいところとして、『日和下駄』に「金剛寺坂荒木坂服部坂大日坂等は皆斉(ひと)しく小石川より牛込赤城番町辺を見渡すによい。・・・・」と書いている。
 坂下にある旧文京区第五中学校はもと黒田小学校といい、永井荷風も通学した学校である。戦災で廃校となった。」

説明板には、写真のように、尾張屋板江戸切絵図のこのあたりの絵図が添えられている。この切絵図からもわかるように、ハツトリサカ、とあり、坂下に神田上水が流れている。近江屋板にも、△ハツトリサカとある。坂の両側に小日向水道町とある。坂上に服部権太夫の屋敷があるが、ここが、小日向神社となった。前回の記事のように、小日向神社は、八幡坂下の田中八幡が日輪寺境内にあった氷川神社と合併して明治二年(1869)にできた。写真のようにまっすぐな坂を上ると坂上左側にいまもある。樹木が少ないのがちょっと寂しい。

服部坂上 服部坂上 小日向神社 小日向神社 服部坂は『御府内備考』に、「服部坂は荒木坂の西なり、此坂の上に服部氏代々おれり、ゆへに坂の名となす、寛永の江戸圖にも服部氏の屋敷をのす、【改選江戸志】」とある。服部氏は、江戸時代、かなり長い間坂上に屋敷があったようで、そのため、坂名となった。

この坂が三遊亭円朝作の怪談ばなし「真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)」にでてくる。

「宗悦は前鼻緒のゆるんだ下駄を穿いてガラガラ出て参りまして、牛込の懇意の家へ一、二軒寄って、すこし遅くはなりましたが、小日向服部坂上の深見新左衛門と申すお屋敷へ廻って参ります。この深見新左衛門というのは、小普請組で、奉公人も少ない、至って貧乏なお屋敷で、殿様は毎日御酒ばかりあがっているから、畳などは縁がズタズタになっており、畳はただばかりでたたは無いような訳でございます。」

「真景累ケ淵」のはじまり"一"の後半部分である。宗悦は、江戸・根津七軒町に住む鍼医で高利貸で、この後、借金の督促をめぐる口論の果てに、服部坂上の屋敷で深見新左衛門に斬り殺されてしまう。ここからこの怪談ばなしが始まり、登場人物が次々と変わりながら延々と続く。

横町坂上 横町坂上 横町坂下 横町坂下 服部坂上の神社前を右折すると、横町坂の坂上である。中程度の勾配だが服部坂よりも緩やかに東へ下っており、途中で坂下側の道幅がちょっと狭くなる。坂上北側が福勝寺である。江戸切絵図にも福勝寺があり、その前の道に、近江屋板には坂名はないが、坂マーク(△)がある。ということで、この坂も江戸時代から続く坂である。

『御府内備考』の小日向の水道町の書上に次のようにある。

「一坂 登凡廿六間程、幅凡壹間程、右者町内横町福勝寺前の通より御持筒屋敷え出候横町に有之候、」

横町にあった坂であるのが坂名の由来のようである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第二巻」(雄山閣)
三遊亭円朝作「真景累ケ淵」(岩波文庫)
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)

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大日坂

2011年02月10日 | 坂道

鼠坂上東側 旧小日向台町 大日坂上 大日坂上 鼠坂上から東へ直進し、一本目を右折したところに、旧小日向台町の旧町名案内が立っている。尾張屋板江戸切絵図を見ると、この道筋の両側から、八幡坂の西、鼠坂の南一帯まで御賄組の屋敷であったようである。静かな住宅街が続いている。しばらく歩くと、やがて緩やかな下りとなるが、このあたりが大日坂の坂上であろう。

坂上から右に少しカーブしてからちょっと下に四差路があるが、坂と直交する東西の道が若干食い違っている。このずれは地図上にもあらわれている。このあたりから中腹にかけてほぼまっすぐに下っている。勾配は中程度といったところである。

尾張屋板には、大日坂とあり、坂上東側に八幡坂町があり、西側は久世大和守の屋敷である(鷺坂の記事)。近江屋板にも、△大日坂とある。切絵図で坂上は突き当たりで、左折し西に向かうと、田中八幡に至る。

大日坂上側 大日坂上側 大日坂中腹 大日坂中腹 坂をまっすぐに下ると、T字路となっている中腹に、文京区教育委員会による坂の標識が立っている。例によって、車道側に大日坂とあり、その歩道側の裏面に次の説明がある。

「・・・・坂のなかばに大日の堂あればかくよべり。」(改撰江戸志)
 この「大日堂」とは寛文年中(1661~73)に創建された天台宗覚王山妙足院の大日堂のことである。
 坂名はこのことに由来するが、別名「八幡坂」については現在小日向神社に合祀されている田中八幡神社があったことによる。
 この一円は寺町の感のする所である。
   この町に遊びくらして三年居き
     寺の墓やぶ深くなりたり  折口信夫(筆名・釈空1887~1953)」

尾張屋板に、坂下近く東側に、大日如来明息寺、があり、近江屋板にも、大日明息寺、とあるが、ここが上記の妙足院であろう。切絵図の寺社名は誤字が多いが、明治地図には同じ位置に妙足院大日堂とある。

大日坂標識 大日坂中腹 大日坂下側 大日坂下側 標識の前から西へ(坂上側から見て右側)延びる道は、前回の鷺坂上から上る無名坂へと続く。

八幡坂の別名は、上記のように、かつて坂上近くに八幡坂町があったことから想像がつく。田中八幡神社があったとあるが、ここからいったん現在の今宮神社のあるところに移ったのであろうか。尾張屋板には、この坂の東にある服部坂上から西に延びる道に、八マンサカニツヅク、とある。

折口信夫は、手元にある年譜を見ると、大正四年(1915)十月、小石川金富町の鈴木金太郎の下宿に寄寓とあり(29歳)、同六年(1917)六月、豊多摩郡野方村の井上哲学堂内の小庵讃仰軒に移る、とあるので、この間の歌であろうか。金富町は坂下から東へ1kmほどのところで近い。

大日坂下側 大日坂下 大日坂下 大日坂下 この坂は上から来て坂下側で右にくっきりと曲がる(曲がりはわずかだが)ところがアクセントになっている。

岡崎に、江戸時代、旗本の根岸鎮衛(やすもり)が天明から文化にかけて三十余年間に書継いだ奇談・雑話の聞き書「耳袋」にある次の話が紹介されている。

『大日坂大日起立(きりゆう)の事
 いにしへは八幡坂と唱へ候よし。右は同所久世家抱屋敷の地尻に桜木町の八幡ある故にや。[ ]の頃、久世家にて右抱屋舗起発之頃、右屋舗脇にあやしげなる庵室有て尼壱人住居せしが、其頃は至て物淋しき土地故、博徒の輩集りて其辺にて賭奕をなし、茶或は酒肴等の煮たきを右の尼に頼けるが、「日々世話に成候礼を何か報(むくい)ん」と、彼博徒等申合(もうしあい)けるが、其内壱人、「尼が信仰せる本尊は大日なるよし。此大日に利益あるよし申触(もうしふら)し流行出(はやしだ)し侯はゞ、一廉(ひとかど)の助成ならん」と、所々より集りし博徒等申触しける故、流行出し、一旦殊之外繁昌せしゆへ、右大日を今の所へ堂を建、当時は別当もありて、地名も大日を以唱(もってとなえ)けるなりと、彼所の古老の物語りなり。』

大日堂が建立されたいわれを「土地の古老」の話として書き留めている。こういった話は、どこまでそうでどこまでそうでないのか、ボーダーレスのことで、それがいっそうおもしろく感じさせる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「折口信夫集」(筑摩書房)
根岸鎮衛著 長谷川強校注「耳袋(中)」(岩波文庫)

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鼠坂(小日向)

2011年02月09日 | 坂道

鼠坂上 鼠坂上 鼠坂上 鼠坂上 八幡坂上の細い道を北へまっすぐ進む。左手下側が鳩山御殿で、そこから常緑の樹木が伸び、右手は静かな住宅街が続いている。やがて突き当たりであるが、ここが鼠坂の坂上である。左側に細い階段坂が下っており、少し曲がりながらほぼまっすぐに下っている。ここを下ってから上ったので、下り坂、上り坂の順に写真をのせる。

何年か前はじめてこの坂を訪れたとき、音羽通りの方から坂下に来たのだが、細い階段坂がまっすぐにかなりの勾配で上っているのを見て感動したものである。しかも単にまっすぐでなく中腹で少しだけ曲がっているのもよい。むかしはもっと曲がりくねっていたらしい。坂中腹に南へ上る階段があるが、その先にも階段が続いている(以前の記事)。

坂は真ん中の手すりを境にコンクリートの階段とスロープとからでき、両側もブロック塀やコンクリート塀となっているが、それ相応の年月が経っているようで、古びた感じとなって落ち着いた雰囲気を醸し出し風情のある坂となっている。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、八幡坂上を北に進むと突き当たるが、そこを左折した道に、子ツミサカ、とある。坂下に音羽川が流れ、そこから音羽町六丁目、五丁目へと続き、音羽通りに出る。近江屋板も同様で、△子ツミサカ、とある。この坂は江戸から続く坂である。

鼠坂説明板 鼠坂中腹 鼠坂下 鼠坂下 坂中腹に文京区教育委員会の説明板が立っており、次の説明がある。

「鼠坂  音羽一丁目10と13の間
 音羽の谷から小日向台地へ上る急坂である。
 鼠坂の名の由来について『御府内備考』には「鼠坂は音羽五丁目より新屋敷へのぼるの坂なり、至てほそき坂なれば鼠穴などいふ地名の類にてかくいふなるべし」とある。
 森鴎外は「小日向から音羽へ降りる鼠坂と云ふ坂がある。鼠でなくては上がり降りが出来ないと云ふ意味で附けた名ださうだ・・・人力車に乗って降りられないのは勿論、空車にして挽かせて降りることも出来ない。車を降りて徒歩で降りることさへ、雨上がりなんぞにはむづかしい・・・」と小説『鼠坂』でこの坂を描写している。
 また、“水見坂”(みずみざか)とも呼ばれていたという。この坂上からは、音羽谷を高速道路に沿って流れていた、弦巻川の水流が眺められたからである。」

いまは残念ながら音羽谷西側を流れていた旧弦巻川の方などを眺めることはできない。

鼠坂下 鼠坂中腹 鼠坂中腹わきの階段 鼠坂中腹 上記の説明で引用されている森鷗外の短編小説「鼠坂」の冒頭部分を省略せずにのせる。

「小日向(こびなた)から音羽へ降りる鼠坂と云ふ坂がある。鼠でなくては上がり降りが出来ないと云ふ意味で附けた名ださうだ。台町の方から坂の上までは人力車が通ふが、左側に近頃刈り込んだ事のなささうな生垣を見て右側に広い邸跡を大きい松が一本我物顔に占めてゐる赤土の地盤を見ながら、ここからが坂だと思ふ辺まで来ると、突然勾配の強い、狭い、曲がりくねった小道になる。人力車に乗つて降りられないのは勿論、空車にして挽かせて降りることも出来ない。車を降りて徒歩で降りることさへ、雨上がりなんぞにはむづかしい。鼠坂の名、真に虚しからずである。」

「鼠坂」の初出は明治45年(1912)4月1日(「中央公論」27ノ4)であり、明治時代の鼠坂は、階段ではなく、勾配の強い、狭い、曲がりくねった小道であったようである。鼠坂は細くて狭く長い坂をいったが(横関)、ここは、まさしくその名のとおりで、「鼠坂の名、真に虚しからず」であったことが偲ばれる。

以前の記事で紹介した麻布の鼠坂もその名のとおり狭く細い坂でよい坂であるが、この坂の方が長さの点で、コンクリートの階段とスロープになっているものの鼠坂の名にふさわしい。

鼠坂中腹 鼠坂中腹 鼠坂上 鼠坂上 戦前の昭和地図を見ると、この坂に階段を示すと思われる多数の横棒が描かれている(関口の水神社わきの胸突坂も同様)ので、大正以降に、階段坂に改修されたものと推測される。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「鷗外選集 第三巻」(岩波書店)

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