東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

動坂

2012年02月28日 | 坂道

動坂上 動坂上 動坂上 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856)) 前回の大給坂上、狸坂上の本郷保健所通りを右折し、北へ進むと、やがて大きな通りの交差点に至るが、ここが動坂の坂上である。不忍通りに向けて北へほぼまっすぐに下っている。勾配は中程度といったところであろうか。坂上の南側ずっと先は本郷通りにつながり、北側は田端駅へと延びている。一枚目の写真は、交差点を横断してから坂下を撮ったものである。

二枚目の写真は、坂上の交番のちょっと先に立っている標識で、「動坂(不動坂・堂坂)」とある。都内でときどき見かける金属製の大きなもので、下に「東京都 昭和58年3月」とあるように都が設置したものであろう。上側に次の説明がある。

「「千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂ありし旧地なり」(『江戸名所図会』)
 坂上の北側に、日限地蔵堂があったが、ここは目赤不動尊の旧跡である。三代将軍家光の目にとまり、本駒込一丁目に移った。これが江戸時代有名な、五色不動の一つ目赤不動を祭る南谷寺である。」

動坂中腹 動坂下 動坂下 動坂下 上四枚目の尾張屋板江戸切絵図(根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図を見ると、トウカサト云、とあり、坂下の川に橋がかかっている。坂北側に、石不動 杉山とあり、坂上西側が御鷹匠屋敷である。近江屋板には、△ダウサカとあり、坂上の先の道に、コノ辺トウサカトイフ、とある。

『御府内備考』には次の説明がある。

「動坂
 動坂は田端村へ通ずる往来にあり、坂の側に石の不動の像在り、是目赤不動の旧地なり、よりて不動坂と称すべきを上略せるなりといふ、」

『御府内備考』などによれば、坂上北側に石不動があり、それが目赤不動になり、不動坂とすべきを略して動坂となったということらしい。現代地図を見ると、本駒込駅近くの本郷通りのわきに南谷寺があり、目赤不動尊とある。

動坂下 動坂中腹 動坂上 動坂上 動坂は、江戸から続く歴史ある坂であるが、現在、上下一~四枚目の写真のように、大きな通りの一部となって、平凡な坂道となっている。

横関は、「変貌する坂、消えてゆく坂」の章で、昭和8年(1933)ころ、駒込辺をぶらぶらしていたら、この坂路の改修工事にぶつかり、坂が変貌するありさまを眼にしたことを書いている。改修は、道路の中央から左右に分けて行われ、半分はかなり勾配を失い、いまの動坂の傾斜度どおりとなり、残った半分は昔のままのかなりの勾配のある坂らしい形であったという。こうして、特に交通量の多い道路にある坂は、なだらかに坂の平均化が図られて、むかしの形を失ってきたのであろう。同書に昭和40年代ころの動坂の写真がのっているが、坂の傾斜の様子はいまとほぼ同じである。

坂上を南へずっと歩き、本郷通りに出て本駒込駅へ。

いつもの携帯による総歩行距離は、データが残っておらず、不明であるが、たぶん、13~15km程度であろう。

今回は、本郷台地の東端にできた坂を無縁坂から動坂まで巡ったが、江戸から続く坂が意外と少なく、明治以降にできた坂もかなりあった。江戸時代までは、このあたりは北へ行くと人里離れた土地であったようで、江戸切絵図を見ると、それがよくわかる。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「江戸名所図会(五)」(角川文庫)

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狸坂(千駄木)

2012年02月27日 | 坂道

根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856)) 本郷保健所通り 狸坂上 狸坂上 前回の大給坂上から本郷保健所通りに出て右折し、次を右折すれば、狸坂の坂上である。

二枚目の写真の本郷保健所通りを北へ進み、千駄木3-14と15の間を右折する。ちょっと歩くと、三、四枚目の写真の坂上に至る。このあたりで道幅が片側にちょっと広がり、ここからほぼまっすぐに下っているが、勾配はさほどきつくない。

三、四枚目の写真のように、坂上の右の壁際に狸坂の標識が立っており、次の説明がある。

「狸坂   千駄木三丁目12と20の間
 このあたりは、旧千駄木林町で、昔は千駄木山といって雑木林が多く坂上の一帯は、俗に「狸山」といわれていた。その狸山に上る坂なので狸坂と名づけられた。
 狸山の坂下は根津の谷で、昔は谷戸川(藍染川・現在暗渠)が流れて田んぼが開け、日暮里の台地と対している。この日暮里に諏方神社があり、8月27日の祭礼が終わっても、どこからともなく「里ばやし」が毎夜聞こえてきた。
 土地の人たちは、これを千駄木山の“天狗ばやし”とか“馬鹿ばやし”といって、狸山にすむ狸のしわざと言い伝えてきた。民話にちなむおもしろい坂名である。
  文京区教育委員会  平成16年3月」

狸坂上側 狸坂上側 狸坂中腹 狸坂中腹 一~四枚の写真のように、この坂は上側で緩やかで、道幅がとなりの大給坂よりも広いことがわかる。

上一枚目の尾張屋板江戸切絵図(根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図を見ると、団子坂のずっと北側に台地から谷戸川(藍染川)の流れる谷へ続き橋のある道が二本あるが、これらがいまの狸坂であるという確証はない。いずれにしても、江戸時代にあったとすれば、坂上は雑木林の山(狸山)で、坂下は川が流れ、そのわきに田圃があり、里山のある田園地帯であったと思われる。当然ながら、狸と狐もたくさん棲んでいた。

明治地図(明治四十年)を見ると、この坂に相当する道があるが、道筋は現在とちょっと違っており、改修などで変わったのかもしれない。戦前の昭和地図(昭和十六年)で現在とほぼ同じであるが、本郷保健所通りから直接坂上に出る道はなかったようで、いまの坂上左(北)にある駒込林町公園の北側の道から回り込んで坂上に至ったものと思われる。

狸坂下側 狸坂下側 狸坂下 一~三枚目の写真のように、坂下側でちょっと急になっていて、坂下はすぐ不忍通りにつながる。

この坂は、横関と石川には紹介されていない。岡崎にあるが、標識以上の説明はない。江戸から続く坂というには、あまりにも資料がないということなのであろう。

同名の坂が麻布の暗闇坂近くにあるが、その近くに狐坂がある。「東京23区の坂道」には、この坂近くにあるというきつね坂が紹介されている。由来など不明であるが、麻布と同じく、狸と狐がセットになってでてくるところがおかしい。さらにむじな坂も紹介されている。これらの坂は、今回行けなかったが、機会があれば、訪れてみたい。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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須藤公園~大給坂

2012年02月26日 | 坂道

須藤公園 須藤公園 須藤公園南側の坂 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856)) 前回の団子坂下近くの銀行のわきを左折し小路を北へ進む。ちょっと歩くと、前方左側に公園が見えてくる。須藤公園である。中に入ると、一枚目の写真のように、中央に大きな池があり、弁天が祀られている。周りに散歩道があるが、奥に行くと崖で、上りとなる。ここも団子坂の方から続く本郷台地の東端の縁である。二枚目の写真は公園(西側)の上で撮ったものである。

公園の入口にあった文京区の説明パネルによると、江戸時代、加賀金沢藩の支藩である大聖寺藩の下屋敷で、明治維新後、政治家の品川弥二郎の邸宅、その後、実業家の須藤吉右衛門が買い取り、大名庭園を残し、昭和になってから、東京市に須藤家から公園用地として寄付された。戦前の昭和地図(昭和十六年)を見ると、この公園がある。

四枚目は、尾張屋板江戸切絵図(根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図である。団子坂の北側に松平備後守の下屋敷があるが、ここがこの庭園があった所と思われる。屋敷の西側は団子坂上から北へ続く本郷台地の東端まで延びており、屋敷の崖下にこの庭園を造ったのであろう。近江屋板も同様である。

団子坂とこの屋敷との間に、元根津ト云、とあるが、ここが根津神社の前身があった所と思われる。

三枚目の写真は、公園の南わきで西へ上る坂を撮ったものである。みごとにまっすぐに上っているので、思わずシャッタをきった。「東京23区の坂道」によれば、アトリエ坂というらしいが、由来は不明である。

大給坂下 大給坂下 大給坂中腹 大給坂中腹 須藤公園から西に向かい、本郷保健所通りに出て、ここを右折し大給坂に向かうが、右折する所がわからず、その北側の狸坂に先に行ってしまった。狸坂を下り、不忍通りを右折し南へ進み、3~4本目を右折すると、一、二枚目の写真のように、細い道の先が上り坂になっている。ここが大給坂の坂下である。

坂中腹あたりまでまっすぐに上っているが、その先で少し右に曲がっている。中腹の辺りから上側にかけてちょっと勾配がある。この勾配がきついあたりが本郷台地の東端の崖であると思われる。坂上側で緩やかになり、そのまま直進すると、本郷保健所通りである。

坂上近くに標識が立っており、次の説明がある。

「大給(おぎゅう)坂  かつて、坂上に子爵大給家の屋敷があったことから、大給坂と名づけられた。
 大給氏は、戦国時代に三河国(いまの愛知県)賀茂郡大給を本拠とした豪族で、後に徳川家康に仕え、明和元年(1764)、三河西尾に移封された一族である。
 現在残っている大銀杏は、大給屋敷の内にあったものである。この辺りの高台を、千駄木山といい、近くに住んだ夏目漱石は、次のようによんでいる。
  "初冬や 竹きる山の なたの音"(漱石1867~1916)
  文京区教育委員会  平成3年3月」

大給坂上 大給坂上近くの銀杏 大給坂上 大給坂上 上記の尾張屋板を見てもこの坂に相当する所がわからない。このあたりは谷に川(藍染川)が流れ、その周囲に田圃があり、谷側はかなりさみしいところであったと思われる。

明治地図(明治四十年)にもこの坂に相当する道がないが、戦前の昭和地図(昭和十六年)にこの坂と思われる道がある。おそらく明治以後に開かれた坂と思われる。そのためか、横関、石川には紹介されていない。岡崎にあるが、詳しい解説はなく、上記の標識を引用するだけである。

二枚目の写真は、坂上を右折したところにある公園の銀杏の木であるが、これが標識で説明されている大給家の屋敷にあったものと思われる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
菅原健二「川の地図辞典 江戸・東京/23区編」(之潮)

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善福寺川(尾崎橋~宮下橋)2012(2月)

2012年02月24日 | 写真

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団子坂(千駄木)

2012年02月23日 | 坂道

団子坂上 団子坂上 団子坂上 前回の藪下通りから交差点に出ると、団子坂の坂上であるが、そこを横断して坂下を撮ったのが一枚目の写真である。二枚目は、反対側の坂上の先(西側)である。三枚目の写真のように、まっすぐに東へ下って、坂下側で右へ曲がってから不忍通りにつながる。中程度よりもきつめの勾配であるが、坂下側で曲がってからは緩やかになる。坂上の交差点を左折すると、本郷保健所通りが北へ延びている。

漱石旧居跡汐見坂、さきほどの藪下通りまで、人通りが少なく、静かな散歩が続いたが、この坂に出ると、車の通行量が多くなり、雰囲気が一変する。坂下の交差点近くに千代田線千駄木駅があるので人通りも多い。

坂上側の歩道(北)に坂の標識が立っており、次の説明がある。

「団子坂    文京区千駄木2丁目と3丁目の境
 潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。
 『千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ云々』 (御府内備考)
 「団子坂」の由来は、坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。また、「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事があり、ここから「七面坂」の名が生まれた。「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。
 幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治40年頃が最盛期であった。また、この坂上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が居住していた。
  文京区教育委員会  平成10年3月」

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 天保御江戸大絵図 一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、根津権現裏から北へ延びる道(藪下通り)の四差路を右折した道にタンコサカとある。坂下北側に千駄木坂下町がある。近江屋板にも同じ道に、△タンコ坂とある。

二枚目は、天保御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図であるが、これにも、坂マークの横棒とともにダンゴザカとある。

上記の標識に引用されている『御府内備考』の千駄木坂についての全文は以下のとおりである。

「千駄木坂
 千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ、此坂の傍に昔より団子を鬻(ひさぎ)て茶店ある故の名なり、今は団子のみならず、種々の食物をも商ふ繁昌の地となれり。」

上記には、潮見坂について説明はないが、千駄木町の書上に町名由来などともに次のようにある。

「千駄木町
一 町名起りの儀は往古当町に御林有之、日々千駄木宛木を切出し候に付き千駄木と相唱候由、又は栴檀の大木有之候に付き千駄木と相唱候共申伝候、尤も古書物無之分明には無御座候、草分人の名相分不申候、
・・・
一 四隣 東の方下駒込村、南の方同断、西の方世尊院門前、北の方千駄木御林跡地、
・・・
一 坂 登り凡壱町程、幅貳間半、
 右坂上より佃沖相見候に付き汐見坂と唱候由、然る処坂際に団子屋多有之候に付き、いつとなく団子坂と里俗に相唱候由御座候、
一 七面堂 間口九尺、奥行九尺、
 右当町団子坂下往来より九尺程引込有之、木像にて岩に乗座とも丈け三寸程厨 子入、起立作人の名相分不申候、」

千駄木御林跡というのは、二枚目の天保御江戸大絵図に見え、団子坂の北西一帯に広がり、上野寛永寺に属した。千駄木の地名の由来として、『御府内備考』によれば、その御林から、一日に「千」の駄木を切出したから、栴檀(せんだん)の大木があったからの説がある。

団子坂の別名汐見坂について佃沖が見えたからとあり、鷗外は『細木香以』で観潮楼上から「浜離宮の木立の上を走る品川沖の白帆」が上野の山の端と忍岡との間に見えたと書いている。坂上から坂の方向(東)に海が見えたのではなく、かなりずれた方に見えた。汐見坂の方が団子坂よりも古い名のようである。

『江戸名所図会』の根津権現の旧地の挿絵に、(根津権現の旧地を)「千駄木坂のうへわずかばかりの地をさしていへり。この近辺芸花園(うえきや)多く、庭中四時草木の花絶えず。 千駄木坂、旧名を潮見坂ともいひ、また七面の宮あるゆえに、七面坂とも号くるといへり。」とある。

『御府内備考』には、七面堂が団子坂下の往来より九尺程引っ込んであり、木像が岩に乗り座をいれて高さ三寸程で厨子に入っており、作者不明であることが記されている。これが七面坂の由来である。

団子坂上 団子坂上 団子坂上側 団子坂上側 前回の記事で鷗外『青年』の主人公が観潮楼の門前から「身顫をして門前を立ち去った。」までを引用したが、それに以下が続く。

「四辻を右へ坂を降りると右も左も菊細工の小屋である。国の芝居の木戸番のように、高い台の上に胡坐(あぐら)をかいた、人買か巾着切りのような男が、どの小屋の前にもいて、手に手に絵番附のようなものを持っているのを、往来の人に押し附けるようにして、うるさく見物を勧める。まだ朝早いので、通る人が少い処へ、純一が通り掛かったのだから、道の両側から純一一人を的(あて)にして勧めるのである。外から見えるようにしてある人形を見ようと思っても、純一は足を留めて見ることが出来ない。そこで覚えず足を早めて通り抜けて、右手の広い町へ曲った。
 時計を出して見れば、まだ八時三十分にしかならない。まだなかなか大石の目の醒める時刻にはならないので、好い加減な横町を、上野の山の方へ曲った。狭い町の両側は穢(きた)ない長屋で、塩煎餅を焼いている店や、小さい荒物屋がある。物置にしてある小屋の開戸が半分開いている為めに、身を横にして通らねばならない処さえある。勾配のない溝に、芥が落ちて水が淀んでいる。血色の悪い、瘠せこけた子供がうろうろしているのを見ると、いたずらをする元気もないように思われる。純一は国なんぞにはこんな哀な所はないと思った。
 曲りくねって行くうちに、小川に掛けた板橋を渡って、田圃が半分町になり掛かって、掛流しの折のような新しい家の疎(まばら)に立っている辺に出た。一軒の家の横側に、ペンキの大字で楽器製造所と書いてある。成程、こんな物のあるのも国と違う所だと、純一は驚いて見て通った。
 ふいと墓地の横手を谷中の方から降りる、田舎道のような坂の下に出た。灰色の雲のある処から、ない処へ日が廻って、黄いろい、寂しい暖みのある光がさっと差して来た。坂を上って上野の一部を見ようか、それでは余り遅くなるかも知れないと、危ぶみながら佇立している。」

坂下には右も左も菊細工の小屋があり、人買か巾着切りのような男が、どの小屋の前にもいて、うるさく見物を勧めるので、足早に通り抜けて、右手の広い町へ曲った。明治地図(明治四十年)を見ると、団子坂下には、まだ、不忍通りはできていないが、右折すると、ちょっと広い道が南の方へ延びている。この道へと曲がったのであろう。適当に横町を上野の山の方へ曲がると、狭い町の両側は汚い長屋で、塩煎餅の店や、小さい荒物屋があり、勾配のない溝にゴミが落ちて水が淀んでいる。血色の悪いやせこけた子供がうろうろしているのを見て、自分の田舎にはこんなあわれな所はないと思ったなどとあるように、この辺りの当時の様子がよくわかる。

勾配のない溝にゴミが落ちて水が淀んでいることや血色の悪いやせこけた子供などの描写に、鷗外の専門家(衛生学)としての見方があらわれているのかもしれない。

戦前の昭和地図(昭和十六年)を見ると、不忍通りができ、電車も通り、坂下には団子坂下駅がある。この辺も明治~大正から大きく変わったことがわかる。

団子坂上側 団子坂中腹 団子坂中腹 団子坂中腹 夏目漱石『三四郎』にも次のようにこの坂がでてくる。

「団子坂の上まで来ると、交番の前へ人が黒山のようにたかっている。迷子はとうとう巡査の手に渡ったのである。
 「もう安心大丈夫です」と美禰子が、よし子を顧みて云った。よし子は「まあ可(よ)かった」といふ。
 坂の上から見ると、坂は曲がっている。刀の切先のようである。幅はむろん狭い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分遮っている。其後には又高い幟(のぼり)が何本となく立てゝある。人は急に谷底へ落ち込む様に思はれる。其落ち込むものが、這い上がるものと入り乱れて、道一杯に塞がっているから、谷の底にあたる所は幅をつくして異様に動く。見ていると目が疲れるほど不規則に蠢いている。広田先生はこの坂の上に立って、
 「是は大変だ」と、さも帰りたそうである。四人はあとから先生を押す様にして、谷へ這入った。其谷が途中からだらだらと向へ廻り込む所に、右にも左にも、大きな葭簀掛(よしずが)けの小屋を、狭い両側から高く構へたので、空さえ存外窮屈にみえる。往来は暗くなる迄込み合っている。其中で木戸番ができる丈大きな声を出す。「人間から出る声じゃない。菊人形から出る声だ」と広田先生が評した。それほど彼等の声は尋常を離れている。
 一行は左の小屋へ這入った。曾我の討入がある。五郎も十郎も頼朝もみな平等に菊の着物を着ている。但し顔や手足は悉く木彫りである。其次は雪が降っている。若い女が癪(しゃく)を起こしている。是も人形の心(しん)に、菊を一面に這はせて、花と葉が平に隙間なく衣装の恰好となる様に作ったものである。」

一行は、団子坂の上に出るが、坂の上から見ると、坂は曲がっており、刀の切先のようで、幅はむろん狭いとある。坂下側で曲がっている所は、刀の先のとがったところの切先(きっさき)のようである。 坂下側を、人は急に谷底へ落ち込むようだ、と描いているが、急な勾配で狭い道のためそのように見えたのだろうか。落ち込むものと這い上がるものが入り乱れているというのがおもしろい。坂を下る者と上る者をこのように描くと、異様に動くことがいっそうリアルである。

鷗外『青年』と同じように(この『三四郎』の方が早く書かれているが)、坂下の菊人形の小屋のことが詳しく描かれている。

団子坂下側 団子坂下側 団子坂下 団子坂下 団子坂の由来は、『御府内備考』では、坂の傍らに団子を売る茶店があったからとしているが、横関は、急坂でたびたびこの坂でころび、団子のようにころがることから、団子坂とよぶようになったとしている(上記の標識もこの説を紹介している)。これと同じ意味の坂名として炭団坂(ころんで炭団になる、ころんで泥だらけになる)がある。江戸時代の坂は、いまのアスファルトのようなものではなく、土と砂利で固まっていれば上等の方で、ほとんどの坂がでこぼこで、急な坂はころびやすかった。

横関に、坂下の曲がったあたりから坂上を撮った写真(昭和40年頃)がのっているが、一枚目の写真と同じようなカーブとなっている。このカーブが漱石が刀の切先のようとしたところと思われ、この坂の特徴の一つである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「鷗外選集 第二巻、第六巻」(岩波書店)
「漱石全集 第七巻 三四郎」(岩波書店)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
「新訂 江戸名所図会5」(ちくま学芸文庫)
「東京地名考 上」(朝日文庫)

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観潮楼跡と荷風

2012年02月19日 | 荷風

藪下通りから団子坂上方面 団子坂上から藪下通り 前回の藪下通り観潮楼跡の先でちょっと下ってから団子坂の坂上につながる。一枚目の写真は、そのあたりから坂上側を撮ったもので、左側が観潮楼跡で工事中である。二枚目は団子坂上の交差点を横断してから、藪下通りの終点を撮ったものである。

森鷗外は、明治25年(1892)1月末、本郷駒込千駄木町二十一番地に移り、千住から父母・祖母を呼び寄せ、家を建て増し、これを観潮楼と名づけた。二階からはるか遠くに海が見えたからという。以降三十年、日清戦争や日露戦争、小倉転勤などの時期を除き、ここに居住した。

永井荷風は『日和下駄』「第九 崖」で藪下通りと観潮楼を次のように描いている。

「小石川春日町から柳町指ヶ谷町へかけての低地から、本郷の高台を見る処々には、電車の開通しない以前、即ち東京市の地勢と風景とがまだ今日ほどに破壊されない頃には、樹や草の生茂った崖が現れていた。根津の低地から弥生ヶ岡と干駄本の高地を仰げばここもまた絶壁である。絶壁の頂に添うて、根津権現の方から団子坂の上へと通ずる一条の路がある。私は東京中の往来の中で、この道ほど興味ある処はないと思っている。片側は樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く、片側はわが歩む道さえ崩れ落ちはせぬかと危まれるばかり、足下を覗くと崖の中腹に生えた樹木の梢を透して谷底のような低い処にある人家の屋根が小さく見える。」

荷風は、春日町から指ヶ谷町へかけての低地から本郷の高台を見ると、電車の開通しない以前、東京の地勢と風景とが破壊される前、樹や草の生茂った崖が見えたとし、本郷台地の西側の崖について述べ、東側の崖についても、根津の低地から弥生ヶ岡と干駄本の高地を仰ぐと、ここも絶壁であるとしている。このように本当に見えた時代があった。

この藪下通りは、片側が樹と竹藪におおわれ、片側が崖下で人家の屋根が見え、かなり野趣あふれる小道であった。いまとかなり違うが、前回のふれあいの杜に行けば、ちょっと想像がつくかもしれない。

当時の様子がよくわかる名文であるが、他の章は、このような記述で終わるのが常である。この章は、そうでなく、さらに鷗外の観潮楼を訪ねたときの印象について次のように詳しく記している。

「当代の碩学森鷗外先生の居邸はこの道のほとり、団子坂の頂に出ようとする処にある。二階の欄干に彳(たたず)むと市中の屋根を越して遥に海が見えるとやら、然るが故に先生はこの楼を観潮楼と名付けられたのだと私は聞伝えている。(団子坂をば汐見坂という由後に人より聞きたり。)度々私はこの観潮楼に親しく先生に見(まみ)ゆるの光栄に接しているが多くは夜になってからの事なので、惜しいかな一度もまだ潮を観る機会がないのである。その代り、私は忘れられぬほど音色の深い上野の鐘を聴いた事があった。日中はまだ残暑の去りやらぬ初秋の夕暮であった。先生は大方御食事中でもあったのか、私は取次の人に案内されたまま暫(しばら)くの間唯一人この観潮楼の上に取残された。楼はたしか八畳に六畳の二間かと記憶している。一間の床には何かいわれのあるらしい雷という一字を石摺にした大幅がかけてあって、その下には古い支那の陶器と想像せられる大きな六角の花瓶が、花一輪さしてないために、かえってこの上もなく厳格にまた冷静に見えた。座敷中にはこの床の間の軸と花瓶の外は全く何一つ置いてないのである。額もなければ置物もない。おそるおそる四枚立の襖(ふすま)の明放してある次の間を窺(うかが)うと、中央に机が一脚置いてあったが、それさえいわば台のようなもので、一枚の板と四本の脚があるばかり、抽出もなければ彫刻のかざりも何もない机で、その上には硯もインキ壺も紙も筆も置いてはない。しかしその後に立てた六枚屏風の裾からは、紐で束ねた西洋の新聞か雑誌のようなものの片端が見えたので、私はそっと首を延して差覗くと、いずれも大部のものと思われる種々なる洋書が座敷の壁際に高く積重てあるらしい様子であった。世間には往々読まざる書物をれいれいと殊更人の見る処に飾立てて置く人さえあるのに、これはまた何という一風変った癇癖(かんぺき)であろう。私は『柵草紙』以来の先生の文学とその性行について、何とはなく沈重に考え始めようとした。あたかもその時である。一際高く漂い来る木犀の匂と共に、上野の鐘声は残暑を払う涼しい夕風に吹き送られ、明放した観潮楼上に唯一人、主人を待つ間の私を驚かしたのである。
 私は振返って音のする方を眺めた。干駄木の崖上から見る彼の広漠たる市中の眺望は、今しも蒼然たる暮靄(ぼあい)に包まれ一面に煙り渡った底から、数知れぬ燈火を輝し、雲の如き上野谷中の森の上には淡い黄昏の微光をば夢のように残していた。私はシャワンの描いた聖女ジェネヴィエーブが静に巴里(パリ)の夜景を見下している、かのパンテオンの壁画の神秘なる灰色の色彩を思出さねばならなかった。
 鐘の音は長い余韻の後を追掛け追掛け撞(つ)き出されるのである。その度ごとにその響の湧出る森の影は暗くなり低い市中の燈火は次第に光を増して来ると車馬の声は嵐のようにかえって高く、やがて鐘の音の最後の余韻を消してしまった。私は茫然として再びがらんとして何物も置いてない観潮楼の内部を見廻した。そして、この何物もない楼上から、この市中の燈火を見下し、この鐘声とこの車馬の響をかわるがわるに聴澄ましながら、わが鷗外先生は静に書を読みまた筆を執られるのかと思うと、実にこの時ほど私は先生の風貌をば、シャワンが壁画中の人物同様神秘に感じた事はなかった。
 ところが、「ヤア大変お待たせした。失敬失敬。」といって、先生は書生のように二階の梯子段を上って来られたのである。金巾の白い襯衣(シャツ)一枚、その下には赤い筋のはいった軍服のヅボンを穿いておられたので、何の事はない、鷗外先生は日曜貸間の二階か何かでごろごろしている兵隊さんのように見えた。
 「暑い時はこれに限る。一番涼しい。」といいながら先生は女中の持運ぶ銀の皿を私の方に押出して葉巻をすすめられた。先生は陸軍省の医務局長室で私に対談せられる時にもきまって葉巻を勧められる。もし先生の生涯に些(いささ)かたりとも贅沢らしい事があるとするならば、それはこの葉巻だけであろう。
 この夕、私は親しくオイケンの哲学に関する先生の感想を伺って、夜も九時過再び干駄木の崖道をば根津権現の方へ下り、不忍池の後を廻ると、ここにも聳(そび)え立つ東照宮の裏手一面の崖に、木の間の星を数えながらやがて広小路の電車に乗った。」

旧森鷗外記念本郷図書館裏庭 旧森鷗外記念本郷図書館裏庭 荷風が観潮楼に鷗外を訪問したのは、残暑去らぬ初秋の夕暮であった。二階に通され、しばらく待たされるが、その間の部屋の描写が詳しい。尊敬する鷗外を訪れて気分が高揚したのか、そんな感じが伝わってくるかのようである。そして、突然、上野の山から聞こえてきた鐘の音に驚いたことをきっかけに、ついには、鷗外を神格化する気分にまでなる。しかし、鷗外は、書生のように梯子段を上ってあらわれ、シャツ一枚、赤い筋のはいった軍服のヅボンで、兵隊さんのようだったが、この対比がおもしろい。飾らない鷗外の性格や気の置けない年下の友人といった感じがうかがえる。鷗外の生涯にわたる贅沢は葉巻だけとする荷風の観察から、鷗外の質素な生活がかいま見えるようである。

帰りは、ふたたび、藪下通りを根津権現へ下り、不忍池の北側の東照宮のわきを通ってその裏手の崖を眺めながら広小路に出て電車に乗った。

一、二枚目の写真は、現在工事中の観潮楼跡にあった森鷗外記念本郷図書館の裏庭を撮ったものである(2007年11月)。その裏庭の壁に荷風書の鴎外の詩「沙羅の木」の詩碑が埋め込まれていた。下の写真がその詩碑である。

荷風書鷗外「沙羅の木」 「沙羅の木
  褐色の根府川石に
  白き花はたと落ちたり、
  ありとしも青葉がくれに
  見えざりしさらの木の花。」
(明治三十九年九月一日「文藝界」五ノ九)

上記の碑文によれば、荷風が昭和25年(1950)6月に揮毫したものを昭和29年(1954)7月9日鷗外の長男(於兎)らが三十三回忌にあたり供養のため石碑にし建立した。 荷風「断腸亭日乗」の昭和25年6月の分をすべて見てもそのような記述はないが、昭和29年6月20日に次の記述がある。

「六月二十日。日曜日。隂又雨。午前森博士来話。先考鷗外先生詩碑いよいよ建立落成すと云。拙筆揮毫の謝礼なりとて金壱万円を贈らる。午後浅草。隅田公園散歩。晡後飯田屋に飰す。」

上記の揮毫は鷗外の長男(森博士)らが頼んだものか、謝礼として荷風に一万円を贈っている。荷風は、しかし、昭和29年7月9日の観潮楼跡に建てられた詩碑「沙羅の木」の除幕式には出席していない。当日の「日乗」には次の記述があるだけである。

昭和29年「七月初九。晴。午後三菱八幡支店。晡下浅草。天竹に飰す。」

上記の詩碑は谷口吉郎の設計で根府川石からでき、武石弘三郎作の大理石でできた鷗外胸像の傍の煉瓦塀に嵌め込まれたとあるが(秋庭)、これを読んで、このため出席しなかったのかと思ってしまった。というのは、荷風の銅像嫌いは有名であるからである(以前の記事参照)。胸像であっても敬愛する鷗外のそんなものは見たくなかったのではないか。(もっとも、それは若いときのことで、単にそんな人の集まるところに出る気がなかったからかもしれないが。)

昭和31年(1956)「十一月十日。晴。鷗外先生記念館建立の事に付文京区区長井形卓二氏。事務長代理中出忠勝氏来話。」

同年「十一月十三日。隂。又晴。新潮社。印鑑返送。午後浅草。食事。夜「鷗外先生のこと」執筆。」

鷗外記念館建設にあたり、毎日新聞に「鷗外記念館のこと」という記事を載せているが、それを読むと、鷗外を敬愛する気持は生涯変わらなかったことがわかる。この小文は、上記の区長らの依頼で、その三日後に執筆された「鷗外先生のこと」であるが、未発表のままになったものらしく、その記事が載った日を見てちょっと驚いた。昭和34年(1959)5月1日であったからである。荷風が亡くなったのはその前日である。

このときの鷗外記念館は、結局実現しなかったが、その後、森鷗外記念本郷図書館が建設され、それが上記の写真のように観潮楼跡に最近まであったものと思われる。
(続く)

参考文献
「新潮日本文学アルバム 森鷗外」(新潮社)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
「鷗外選集 第十巻」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「荷風全集 第二十巻」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)

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藪下通り

2012年02月18日 | 坂道

藪下通り 藪下通り 藪下通り 尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 前回の汐見坂下を左右に延びている道が藪下通りである。坂下を左折し北へ進むが、一枚目の写真はふり返って反対側(南)を撮ったものである。日本医大付属病院の建物が見え、その向こうは根津裏門坂である。二枚目は進行方向を撮ったもので、細くまっすぐに延びている。途中、少々曲がって団子坂の坂上まで続く。この通りは、細く、人通りも少なく、いかにも裏道といった感じで好ましい。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、根津権現裏の大田備中守の屋敷と千駄木町との間を北へダンゴサカへと延びる道があるが、この道がこの通りに相当すると思われる。近江屋板も同様であるが、その屋敷は、太田摂津守となっている。

この通りの坂上近くの歩道わきに標識が立っているが、次の説明がある。

「藪下通り
 本郷台地の上を通る中山道(国道17線)と下の根津谷の道(不忍通り)の中間、つまり本郷台地の中腹に、根津神社の裏門から駒込方面へ通ずる古くから自然に出来た脇道である。「藪下道」ともよばれて親しまれている。
 むかしは道幅もせまく、両側は笹藪で雪の日は、その重みでたれさがった笹に道をふさがれて歩けなかったという。この道は、森鷗外の散歩道で、小説の中にも登場してくる。また、多くの文人がこの道を通って鷗外の観潮楼を訪れた。
 現在でも、ごく自然に開かれた道のおもかげを残している。団子坂上から上富士への区間は、今は「本郷保健所通り」の呼び方が通り名となっている。
  文京区教育委員会  平成7年3月」

千駄木ふれあいの杜 千駄木ふれあいの杜 千駄木ふれあいの杜 千駄木ふれあいの杜前の石段坂 上三枚目の写真の先で緩やかな上りになるが、その手前を左折し、まっすぐに進むと、前方に鬱蒼とした森がある。一枚目の写真の千駄木ふれあいの杜で、突き当たりに出入口があるので、ここに入ってみる。山道のような道ができていて、上ったり下ったりできる。下側をぐるりと一周してみる。そんなに広くはないが、都会の中で山にいる気分になる不思議な空間である。

二枚目の写真のように、ここはかなりの急斜面である。実測明治地図(明治11年)に示されている本郷台地の外縁は、新坂上、根津神社の境内の崖、根津裏門坂上、汐見坂上を結んで北へ延び、このあたりを通って、団子坂へと続いている。ここもこれまで巡ってきた坂と同じく本郷台地の東端にできた崖の一部である。

入口近くの説明パネルに、このあたりは、江戸時代、太田道灌の子孫の太田摂津守(上記の尾張屋板では大田備中守)の屋敷で、明治になると、屋敷は縮小し、太田が原と呼ばれ、風光明媚な田園地帯であったとある。

先ほど入ったところから外へ出ると、四枚目の写真のように、左手にちょっと急な石段坂がある。ここもまたかつての崖であったのであろう。

藪下通り 藪下通り 藪下通りわきの石段坂 藪下通りわきの石段坂 藪下通りにもどり、左折すると、一枚目の写真のように、緩やかな上りとなっている。二枚目は坂上から坂下を撮ったものである。この通りも汐見坂とよばれるとあるので、このあたりの坂をいったのかもしれないが、確証はない。この坂上の近く左手に、三枚目の石段坂があるが、先ほどよりも緩やかである。四枚目は坂上から坂下を撮ったものである。両わきの石垣とちょっと古びた石段が風情を感じさせる。

新坂の記事で森鷗外『青年』を長々と引用したが、その最後に、主人公が「・・・、急いで裏門を出た。」とあるが、それに以下が続く。

「藪下の狭い道に這入る。多くは格子戸の嵌まっている小さい家が、一列に並んでいる前に、売物の荷車が止めてあるので、体を横にして通る。右側は崩れ掛って住まはれなくなった古長屋に戸が締めてある。九尺二間(くしゃくにけん)というのがこれだなと思って通り過ぎる。その隣に冠木門(かぶきもん)のあるのを見ると、色川国士(いろかはこくし)別邸と不恰好な木札に書いて釘附にしてある。妙な姓名なので、新聞を読むうちに記憶していた、どこかの議員だったなと思って通る。そらから先きは余り綺麗でない別荘らしい家と植木屋のような家とが続いている。左側の丘陵のような処には、大分大きい木が立っているのを、ひどく乱暴に刈り込んである。手入の悪い大きい屋敷の裏手だなと思って通り過ぎる。
 爪先上がりの道を、平になる処まで登ると、又右側が崖になっていて、上野の山までの間の人家の屋根が見える。ふいと左側の籠塀(かごべい)のある家を見ると、毛利某という門札が目に附く。純一は、おや、これが鷗村(おうそん)の家だなと思って、一寸立って駒寄(こまよせ)の中を覗いて見た。
 干からびた老人の癖に、みずみずしい青年の中にはいってまごついている人、そして愚痴と厭味とを言っている人、竿と紐尺(ひもじゃく)とを持って測地師が土地を測るような小説や脚本を書いている人の事だから、今時分は苦虫を咬み潰したような顔をして起きて出て、台所で炭薪の小言でも言っているだろうと思って、純一は身顫をして門前を立ち去った。」

藪下通り 藪下通り 藪下通り 藪下通り 主人公は、根津権現の裏門から出て、この藪下通りに入る。その両側の描写が続くが、やがて、爪先上がりの道を平になるところまで登る、とあるが、ここが先ほどの坂かもしれない。

一枚目の写真はその坂上から進行方向(北側)を撮ったものであるが、ここからさきはほぼ平坦になっている。フェンスのある右側(東)は崖で、その下に小学校のグラウンドが見える。ここを進むと、やがて、二枚目の写真のように小さな公園がある。三枚目はその北側を撮ったもので、さらに進むと、四枚目の写真のように、左側の工事中のところが観潮楼と称した鷗外の住居跡である。鷗外記念図書館があったが、現在、改築中で、ことしの11月に開館予定とのこと。

もとに戻って、主人公は、右側が崖で、上野の山までの間の人家の屋根が見えるところで、鷗村(おうそん)の家を見つけるが、これは自身(鷗村→鷗外)のことである。「干からびた老人の癖に、みずみずしい青年の中にはいってまごついている人、そして愚痴と厭味とを言っている人、竿と紐尺(ひもじゃく)とを持って測地師が土地を測るような小説や脚本を書いている人」などと自虐的なことを書いているが、幾分かはあたっているのかもしれない。特に、老人のくせに青年の中にはいってまごついている人、というのがおもしろい。そして、その苦虫を咬み潰したような顔を思い浮かべて、見震いをして門前を立ち去るが、次に、団子坂に行く。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「鷗外選集 第二巻」(岩波書店)

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汐見坂(日本医科大付属病院北側)

2012年02月15日 | 坂道

汐見坂上 汐見坂上側 汐見坂中腹 汐見坂中腹 前回の夏目漱石旧居跡から引き返し、次を左折し、小路に入る。ちょうど日本医科大学付属病院の北側である。

この小路を東へ進むと、一枚目の写真のように次第に下り坂になる。その先が手摺り付きの小階段で、車止めから下が普通の階段になっている。手摺りは階段下まで続いている。坂下が藪下通りである。

この階段坂は、岡崎、山野に、汐見坂として紹介されているが、横関、石川にはない。

この坂は江戸切絵図にはなく、実測明治地図(明治11年)にものっていない。明治地図(明治四十年)にはあるので、この間にできた坂と思われる。前回紹介のところに漱石が住んでいたころには、たぶんできていたのであろう。

この坂から、そのむかし、他の潮見(汐見)坂と同様に東京湾が見えたことが坂名の由来と思われるが、なにかはっきりしない。

汐見坂中腹 汐見坂中腹 汐見坂下 汐見坂下 この坂は、いつごろからそう呼ばれたのか、その歴史がちょっと不明である。「東京23区の坂道」には、解剖坂として紹介されている。これまた、不思議な坂名であるが、となりの日本医科大学と関係するのであろう。

坂下の藪下通りは団子坂上に向かって緩やかな上りとなる。この通りも汐見坂と云うらしく、同名の坂が続いている。

根津裏門坂は人も車も多いが、坂上を右折してから漱石旧居跡に寄ってこの坂下まで人通りが少なく、静かな散歩が続く。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)

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善福寺池2012(2月)

2012年02月13日 | 写真

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夏目漱石旧居跡(千駄木)

2012年02月12日 | 文学散歩

漱石旧居跡 漱石旧居跡 前回の根津裏門坂上の交差点(日本医大前)を坂下から進んで右折し、ちょっと北へ歩くと、一枚目の写真のように左側(西)に夏目漱石旧居跡がある。二枚目の写真のように、石碑と説明板が立っている(その内容は下二、三枚目の写真のとおり)。

前回の根津裏門坂の標識にも「坂上の日本医科大学の西横を曲がった同大学同窓会館の地に、夏目漱石の住んだ家(“猫の家”)があった。『我輩は猫である』を書き、一躍文壇に出た記念すべき所である。」と紹介されている。

漱石は、明治33年(1900)英国へ留学し、明治36年(1903)1月に帰国した。漱石夫人の「漱石の思い出」には、帰国のことは家族に知らされなかったが、当時、神戸入港などの汽船で帰朝する人々の一覧が新聞に載ったようで、その中に夏目の名を見つけた人がいて、それで知ったとある。

帰国したとき、家族は夫人の実家(牛込区矢来町)のちっぽけな離れに住んでいたので、漱石は毎日借家探しに出かけ、本郷、小石川、牛込、四谷、赤坂と山の手は所かまわず探し歩いた。その結果、運よく探し当てたのがここであったという。本郷区千駄木五十七番地の斎藤阿具という漱石の大学時代からの知り合いの家で、その当時、斎藤は仙台の第二高等学校の教授であったため空屋であった。

この家には森鴎外も明治23年(1890)10月から住み、同25年1月に千駄木二十一番地に転居している。漱石が鴎外と同じ家に住んだことは今回はじめて知った(下二枚目の写真の碑文、下三枚目の説明板にも説明されている)。ここに3月に転居し、4月に第一高等学校の講師となり、同時にラフカデオ・ハーン(小泉八雲)の後任として東京帝国大学英文科講師を兼任した。

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 漱石旧居跡石碑 漱石旧居跡説明板 一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、日本医大付属病院のあたりは大田備中守の屋敷で、その向かい(西側)が有馬邸、海蔵寺であるが、この漱石旧居跡のある道はのっていない。実測明治地図(明治11年)にはのっており、北へ延び、現在のように団子坂上から延びる道へつながっている。

二枚目の写真の漱石旧居跡石碑は、道路に対し直角に立っているが、その道側の側面に「題字 川端康成書」「碑文 鎌倉漱石会」と刻まれている。上二枚目の写真のようにそのわきの文京区教育委員会の説明板は道路に面して立っているので、どうでもいいことだが、なにか妙な具合である。

この家で漱石は『我輩は猫である』を書いたが、それは、その当時、神経衰弱が昂じ、高浜虚子にすすめられ神経を静めるためであったという。

漱石は、明治39年(1890)12月本郷区西片十番地ろノ七号に移るまで、この家に住んだ。この家は、当時のごく普通の家であるというが、現在、愛知県犬山市の明治村に移築され保存されている。実際の地にではなくともいまなお残っていることに驚くが、百年以上前の日本の木造家屋を残すにはこういった方法しかないのであろう。
(続く)

参考文献
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
夏目鏡子述 松岡譲筆録「漱石の思い出」(文春文庫)
「新潮日本文学アルバム 夏目漱石」(新潮社)
「新潮日本文学アルバム 森?貎外」(新潮社)

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根津裏門坂

2012年02月08日 | 坂道

根津裏門坂下側 根津裏門坂下側 根津裏門坂下 前回の新坂を下り、坂下を曲がってからちょっと直進し、左折すると、根津神社の参道である。ここから入って、境内を縦断するようにして進むと、神社の裏門がある。ここから神社の外に出ると、左右に坂道が続いているが、ここが根津裏門坂である。

一枚目の写真は裏門を出たあたりの坂下側から坂上側を撮ったもので、二枚目は坂下を撮ったものである。この坂は、三枚目の写真のように坂下からかなり緩やかにまっすぐに上っているが、一枚目の写真のように中腹の信号のところで右にわずかに曲がり、この前後からちょっと勾配がついている。

裏門近くの歩道に坂標識が立っているが、次の説明がある。

「根津裏門坂
 根津神社の裏門前を、根津の谷から本郷通りに上る坂道である。
 根津神社(根津権現)の現在の社殿は、宝永3年(1706)五代将軍綱吉によって、世継ぎの綱豊(六代家宣)の産土神として創建された。形式は権現造、規模も大きく華麗で、国の重要文化財である。
 坂上の日本医科大学の西横を曲がった同大学同窓会館の地に、夏目漱石の住んだ家(“猫の家”)があった。『我輩は猫である』を書き、一躍文壇に出た記念すべき所である。
  (家は現在「明治村」に移築)
  文京区教育委員会  平成20年3月」

根津裏門坂中腹 根津裏門坂中腹 尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 一枚目の写真のように、坂下側から坂中腹を見ると、信号を越えた右側(北)にある建物は日本医科大学付属病院である。そのためか、タクシーがたくさん並んでいる。

この坂は、東西に延び、坂上を西へ直進すると本郷通りに出て、坂下を東へ行くと不忍通りに出るので、両通りをつなぐ道となっている。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、根津権現の北側に東西に延びる道がある。ここがこの坂と思われるが、この道に「此辺アケホノノ里ト云」とある。近江屋板には坂マーク△があり、境内に「此辺明保野里ト云」とある。江戸名所図会に根津権現社の挿絵があるが、そこに当社の境内を曙の里という、とある。これらから、このあたりを曙の里といったらしいが、その由来などは不明である。明治地図(明治四十年)を見ると、本駒込駅の近く本郷通りの西側を駒込曙町といったが、これと関係はなさそうである。また、西片二丁目に曙坂という石段坂があり、ここから本駒込よりも近いが、関係がなさそうである。

この坂は、江戸切絵図などから遅くとも江戸後半にはできていたが、そのようにいつから呼ぶようになったか不明である。『御府内備考』を見ても、この坂は書上にもなさそうで、根津権現の裏門にあることが坂名の由来であることは確かであるが、その歴史がちょっとよくわからない。

根津裏門坂上側 根津裏門坂上 根津裏門坂上 ところで、根津裏門というと、藤澤清造「根津権現裏」を思い浮かべてしまう。藤澤清造(明治22年(1889)-昭和7年(1932))は、石川県生まれの小説家で、最近までほとんど知られていなかったが、藤澤に傾倒した昭和42年(1967)生れの小説家西村賢太が復活させた。

しかし、大正11年(1922)発表の「根津権現裏」には、このあたりの描写がほとんどないばかりか、その中に出てくる下宿屋がどこなのかもはっきりしない。権現裏とあるからには、この坂の近くであることは間違いないと思われるが。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸名所図会(五)」(角川文庫)
藤澤清造「根津権現裏」(新潮文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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新坂(権現坂・S坂)

2012年02月06日 | 坂道

新坂下 新坂下側 新坂下 新坂下側 前回のお化け階段下から直進し、突き当たりを右折し、次を左折していくと、新坂の坂下に出る。左折し、次を右折すると根津神社の参道であるが、そのまま直進して坂上側(カーブの手前)を撮ったのが一枚目の写真である。右側に坂の標識が写っている。ここをちょっと上ると、右に大きく曲がり、二、四枚目の写真のように、急な傾斜となって上っている。

この坂は、坂下と坂上で大きく曲がっているが、曲がってからがこの坂の主要部分で、かなりきつい勾配である。右側は根津神社の境内の崖である。三枚目の写真は曲がり付近から坂下を撮ったもので、左側が神社である。

上記の標識には次の説明がある。

「新坂(権現坂・S坂)  文京区根津一丁目21と28の間
 本郷通りから、根津谷への便を考えてつくられた新しい坂のため、新坂と呼んだ。また、根津権現(根津神社の旧称)の表門に下る坂なので権現坂ともいわれる。  森鷗外の小説『青年』(明治43年作)に、「純一は権現前の坂の方に向いて歩き出した。・・・右は高等学校(注・旧制第一高等学校)の外囲、左は出来たばかりの会堂(注・教会堂は今もある)で、・・・坂の上に出た。地図では知れないが、割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている。・・・」とある。
 旧制第一高等学校の生徒たちが、この小説『青年』を読み、好んでこの坂をS坂と呼んだ。したがってS坂の名は近くの観潮楼に住んだ森鷗外の命名である。
 根津神社現社殿の造営は宝永3年(1706)である。五代将軍徳川綱吉が、綱豊(六代将軍家宣)を世継ぎとしたとき、その産土神として、団子坂北の元根津から、遷座したものである。
  文京区教育委員会  平成14年3月」

新坂中腹 新坂中腹 新坂上側 新坂上側 一、二枚目の写真の坂中腹を上ると、上側で、三、四枚目の写真のように、左に大きく曲がっている。森鷗外が「Sの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている。」としているが、坂下、坂上のどちらから見てもいわば逆S状になっている。

次は、その『青年』の壱の冒頭である。

「小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った。目まぐろしい須田町の乗換も無事に済んだ。扨(さて)本郷三丁目で電車を降りて、追分から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現の表坂上にある袖浦館という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。
 此処は道が丁字路になっている。権現前から登って来る道が、自分の辿って来た道を鉛直に切る処に袖浦館はある。木材にペンキを塗った、マッチの箱のような擬西洋造である。入口の鴨居の上に、木札が沢山並べて嵌めてある。それに下宿人の姓名が書いてある。」

主人公の純一が、故郷で紹介された人物を訪ねることからこの小説がはじまる。その下宿屋は、根津権現の表坂上にあり、道が丁字路で、権現前から登って来る道が、電車通りから来た道を鉛直に切るところにあったとある。このように、下宿屋は、この坂上から延びる道が突き当たるところにあったものと思われる。

「純一は権現前の坂の方へ向いて歩き出した。二三歩すると袂から方眼図の小さく折ったのを出して、見ながら歩くのである。自分の来た道では、官員らしい、洋服の男や、角帽の学生や、白い二本筋の帽を被った高等学校の生徒や、小学校へ出る子供や、女学生なんぞが、ぞろぞろと本郷の通の方へ出るのに擦れ違ったが、今坂の方へ曲って見ると、まるで往来がない。右は高等学校の外囲、左は角が出来たばかりの会堂で、その傍の小屋のような家から車夫が声を掛けて車を勧めた処を通り過ぎると、土塀や生垣を繞(めぐ)らした屋敷ばかりで、その間に綺麗な道が、ひろびろと附いている。」

尋ね人に会えず、引き返すが、坂下の根津権現の方に向けて歩き、坂の方へ曲がると、それまでとは一変してまるで、往来はない。

「坂の上に出た。地図では知れないが、割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたやうに屈曲して附いている。純一は坂の上で足を留めて向うを見た。  灰色の薄曇をしている空の下に、同じ灰色に見えて、しかも透き徹った空気に浸されて、向うの上野の山と自分の立っている向うが岡との間の人家の群が見える。ここで目に映ずる丈の人家でも、故郷の町程の大さはあるように思はれるのである。純一は暫く眺めていて、深い呼吸をした。
 坂を降りて左側の鳥居を這入る。花崗岩(みかげいし)を敷いてある道を根津神社の方へ行く。下駄の磬(けい)のように鳴るのが、好い心持である。剥げた木像の据えてある随身門から内を、古風な瑞籬(たまがき)で囲んである。故郷の家で、お祖母様のお部屋に、錦絵の屏風があった。その絵に、どこの神社であったか知らぬが、こんな瑞垣があったと思う。社殿の縁には、ねんねこ絆纏の中へ赤ん坊を負って、手拭の鉢巻をした小娘が腰を掛けて、寒さうに体を竦(すく)めている。純一は拝む気にもなれぬので、小さい門を左の方へ出ると、溝のような池があって、向うの小高い処には常磐木の間に葉の黄ばんだ木の雑った木立がある。濁ってきたない池の水の、所々に泡の浮いているのを見ると、厭になったので、急いで裏門を出た。」

そして、坂上を曲がり、上記のように、この坂上にでるのである。ちょうど下二枚目の写真のあたりであろうか。ここから上野の山が見えたとあるが、むかしの眺望のよい時代の話である。坂を下り根津神社に入り、裏門から出た。

以上のような鷗外の小説での描写から、この坂は、新坂、権現坂の名に加えて、S坂ともよばれた。

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 新坂上側 新坂上 新坂上 この坂は、根津神社の境内からいうと南側に位置するが、一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、このあたりは、水戸藩邸と小笠原信濃守邸で、この坂はない。実測明治地図(明治11年)を見てもまだないが、明治地図(明治四十年)には、この坂に相当する道があるので、この間にできた明治の新坂である。

実測明治地図には、本郷台地の外縁が示されているが、その外縁が、南から、無縁坂、暗闇坂の西側、弥生坂上、異人坂上、お化け階段上、新坂上などを結んで北へ延びている。このように、この坂は本郷台地の東端にある崖の一部である。

坂上は、曲がると、三、四枚目の写真のように、すぐに緩やかになり、まっすぐに西へ延びている。この道の左側(南)に、むかし第一高等学校があり、いま東大地震研究所がある。その先の突き当たりに『青年』の主人公が訪ねた下宿屋があったのであろう。

坂上から引き返し、根津神社へ向かう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「鷗外選集 第二巻」(岩波書店)

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異人坂~お化け階段

2012年02月02日 | 坂道

異人坂下 異人坂擁壁改修工事銘板 異人坂下 異人坂下 前回の弥生坂下の交差点を左折し、不忍通りを北に進み、次を左折する。小路を進み、突き当たりを右折すると、一枚目の写真のように、左側に壁が続く道になる。その壁に二枚目の写真の銘板が貼りつけられている。この擁壁の改修工事の記録で、異人坂の名が刻んである。

壁の先を左折すると、三枚目の写真のように、異人坂の坂下である。中程度の勾配でまっすぐに上っているが、細い坂道で、いかにも裏道といった感じで、好ましい。三、四枚目の写真のように、片側が壁となっている坂で、これがこの坂の特徴となっている。

坂下に来たとき、お婆さんがゆっくりと下ってきたのに遭遇したが、この坂は坂上一帯と、不忍通りや根津駅とを結ぶ近道なのであろう。

異人坂中腹 異人坂中腹 異人坂上 異人坂上 尾張屋板江戸切絵図を見ると、この坂のあたりは、水戸藩邸の中で、このため、この坂は描かれていない。明治地図(明治四十年)には、この坂に相当するような道があるが、確かでない。

一枚目の写真のように、坂中腹の壁側に標識が立っているが、次の説明がある。

「異人坂  文京区弥生2-13 北側
 坂上の地に、明治時代東京大学のお雇い外国人教師の官舎があった。ここに住む外国人は、この坂を通り、不忍池や上野公園を散策した。当時は、外国人が珍しかったことも手伝って、誰いうとなく、外国人が多く上り下りした坂なので、異人坂と呼ぶようになった。
 外国人の中には、有名なベルツ(ドイツ人)がいた。明治9年(1876)ベルツは東京医学校の教師として来日し、日本の医学の発展に貢献した。ベルツは不忍池を愛し、日本の自然を愛した。
 異人坂を下りきった東側に、明治25年(1892)高林レンズ工場が建てられた。今の2丁目13番地付近の地である。その経営者は朝倉松五郎で、日本のレンズ工業の生みの親である。
  文京区教育委員会  平成9年3月」

上記の説明によれば、明治の比較的早い時期に開かれた坂のようで、明治の新坂であるためか、横関、石川、岡崎のいずれにものっていない。

お化け階段上 お化け階段上 お化け階段下 お化け階段下 異人坂上を直進し、突き当たりを右折し、次を右折すると、一枚目の写真のように、階段の上にでる。ちょっと下ってから左に曲がり、二枚目の写真のように、まっすぐに下っている。これがお化け階段といわれたところである。

もう5,6年ほど前のことなので、記憶がかなり薄れているが、根津神社の方からこの階段に来たことがあり、そのときは、こんなに幅の広い階段ではなかった記憶がある。三、四枚目の写真は、坂下から撮ったものであるが、左側の階段と手摺りのある右側の階段の色が違っている。以前は、左側の階段しかなく、しかも、石段は荒れて古びていたように思ったので、「東京23区の坂道」や松本泰生「東京の階段」を見たら、確かにそうである。しかも、坂下から見て右側は、低いが石垣が坂に沿ってあり、その上の金網の向こうは傾斜地の荒れ地であった。

お化け階段という名によくあう雰囲気の石段坂であったが、この数年の内で階段が改修されて拡げられ、周囲には民家やマンションができ、すっかり変わったしまった。今回、この階段は、ちょっと楽しみにしていたのだが、変化の激しさをまたもや知ることになってしまった。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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