東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

偏奇館あたりの風景(1)

2010年07月31日 | 荷風

永井荷風の「断腸亭日乗」昭和7年(1932)3月3日に次の記述がある。

「三月初三、曇りて風なく暖なり、西鄰の家の紅梅も花さきぬ、余大正九年の夏築地本願寺のほとりより麻布に居を遷して、正に十有三年になりぬ、されば近巷の花の開落も今は見るに及ばずして悉く之を知れり、市兵衛町箪笥町及谷町辺にはささやかなる貸家の庭にも柿桃梅無花果の樹などあり、是維新前組屋敷の名残なるべし、午後虎ノ門より愛宕下を歩む、去月以来の風邪も漸く全癒したるが如し、」

荷風は、麻布(偏奇館)に移り住んでからもう13年になったので近隣の花の開落も見なくともすべてわかるようになったが、それにしてもこの辺りには、小さな貸家の庭にも柿桃梅無花果の樹があるが、これは、明治維新前の組屋敷の名残りであろう、としている。

庭先の柿桃梅無花果などの樹からその歴史的背景を見抜く視点のみならず、江戸時代からの歴史的連続性を感知する荷風独特の感覚に驚かされる。組屋敷とは、御組坂の由来ともなった御先手組の屋敷と思われる(御組坂(1)の記事参照)。

上記のように、偏奇館の近隣の家々の庭には柿桃梅無花果の樹などがたくさん植えられていたが、このような風景は、現在の東京では、なかなか見ることはできない。

次の日、三月四日の「日乗」に偏奇館の窓から見た風景のスケッチがのっている。これは、前月に風邪で臥したとき、退屈の余り、病室の窓からの風景を描いたものらしい。
この風景は偏奇館の南西側にあたるが、これをながめていて飽きない。偏奇館の周囲を想像することのできるよい資料である。

手前下側に、崖下箪笥町人家梅花□□(二字不明)とメモがあり、人家の屋根と花の咲いた梅の木らしきスケッチがある。その上右側に、審美書院とメモされた二階建てがあり、そのわき中央に審美書院写真撮影所とある小さな建物がある。そして、向こうの崖上左側に山形ホテルが描かれている。その崖の石垣や樹木がある。ホテルの右側に空地があり、その奥側に、市兵衛町二丁目道路 此肩ヨリ霞関議事堂見ユ、とあり、自動車と人が小さく描かれている。市兵衛町二丁目道路とは、長垂坂、丹波谷坂方面へ至る道であろう。

このスケッチから偏奇館と山形ホテルとの位置関係がよくわかる。また、手前の崖下には、御組坂の下側部分の道が続いていたと思われる。
(続く)

参考文献永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
川本三郎「荷風と東京 『斷腸亭日乗』私註」(都市出版)

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偏奇館跡そばの古びた階段

2010年07月30日 | 荷風

御組坂(2)の記事の再開発前の案内地図(写真)によれば、御組坂を下りたところにあった偏奇館跡(六本木一丁目六番地)から道源寺坂の坂上に至るには、左折、右折、左折、右折をするが、このはじめの右折部の角から北西に延びる道があり、地図上では三叉路になっている。

荷風は偏奇館からここを崖づたいに道源寺坂の坂上にでたと書いている(道源寺坂(1)の記事)。

一方、このあたりの再開発前の住宅地図(1997年版)を図書館で見る機会があったが、それには、上記の右折部の角から西方向に下る階段が示されている。この西方向に下る階段が案内地図(写真)の北西に延びる道であると思われる。

偏奇館跡のあった六本木一丁目六番地のあたりは高台で、その北西側は案内地図(写真)でもわかるように高速下の低地であるから、下りの階段で間違いないと思われる。

ところで、以前の記事で、偏奇館跡そばの古びた階段の写真がのっている松本泰生「東京の階段」(日本文芸社)を紹介したが、この古びた階段が上記の右折部の角から西方向に下る階段と思われる。(その写真は同氏による「Site Y.M.建築・都市徘徊」でも閲覧できる。)

この階段には、途中、踊り場があったようであるが、上記の住宅地図にもそれらしき部分が示されている。

案内地図(写真)によれば、階段を下りてから道なりに進むと、御組坂の下側にでる。

これで、偏奇館跡そばの古びた階段の位置がわかったが、いつ頃できたのかは、依然として、不明である。荷風が偏奇館に住んでいたとき存在していたものかわからない。しかし、この古びた階段も偏奇館跡とともに消滅し、もはや見ることはできない。

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御組坂(3)

2010年07月29日 | 坂道

永井荷風の住居であった偏奇館は御組坂の途中の崖の上にあったからか、石川及び岡崎はともに、御組坂の説明で、偏奇館跡に言及している。

前回の記事の再開発前の案内地図(写真)からもわかるように、偏奇館からは、御組坂を上ると表通り(霊南坂から延びる通り)に至り、下ると箪笥町から谷町の電車通りに至り、さらに道源寺坂にも至ることができ、三方向に行けて、自在に使い分けることができた。道源寺坂からは谷町にも表通りにも行けた。この自在性を荷風は気に入っていたのではないかと思う。例えば、嫌な訪問者が来ると裏木戸から道源寺坂の方に逃れることができた(道源寺坂の記事参照)。

このような偏奇館の周囲の地形的特徴はもはや実際に眼で見て確認することはできない。

冨田均は「東京坂道散歩」(東京新聞出版局)で、偏奇館跡が消えたと聞かされて、見たい気持ちと見たくない気持ちとがあってなかなか行けなかったが、意を決して訪れたときのことを次のように書いている。

「御組坂上から下を見た。何もない。崖そのものがなくなっている。御組坂が偏奇館跡を貫き、見覚えのない通りへと繋がっているのだ。目を疑った。ある筈の崖が消え、ない筈の道路が通っている! そして、以前の崖下には超高層ビル! ああ、今という時代は地形は不変、などと言っていられる時代ではないのだ。
 更に詳しく偏奇館跡を求めた。結論は御組坂の麓の上空―。そう、空中に「跡」が浮上したのだ。」

岡崎は、偏奇館跡は御組坂の坂上から見ると北西が高くなっているところにあったと書いているが、ここを再開発で削り取り、その土で御組坂の下側を埋めたのかもしれない。

現在の御組坂を下り右折し、冨田のいう「見覚えのない通り」(泉ガーデンの通り)を少し歩くと、歩道わきに、上左の写真(2008年末撮影)のように、偏奇館跡の記念碑が立っている。その内容は、以前の記事のとおり。

御組坂を下り左折すると、ある筈の崖はなく、そのまま通りを進むと、突き当たり右角に、右の写真(2008年末撮影)のように、「山形ホテル跡」の説明板が立っている(以前の記事参照)。

写真の奥側に御組坂の坂下や偏奇館跡の記念碑があり、そこからさらに進み、左折すると、道源寺坂の坂上である。

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)

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御組坂(2)

2010年07月28日 | 坂道

上の写真は、2007年10月に六本木一丁目駅の近くに立っていた六本木一丁目周辺の案内地図を撮影したものである。

少々汚れているが、よく見るとわかるように、再開発前のもので、六本木一丁目駅もまだできていない。再開発前の地図がよくわかる貴重なものである(少なくともわたしにとっては)。

周辺の坂名がちゃんとのっているところが、坂歩き愛好者としてはうれしい。すなわち、御組坂、道源寺坂、なだれ坂(長垂坂)、霊南坂、落合坂、行合坂、雁木坂。また、落合坂の南側は我善坊谷で、その交差点の右側は我善坊谷坂に至り、左側は三年坂に至る。

御組坂がほぼ中央に見えるが、この坂を下ったところが六本木一丁目6番地で、偏奇館跡があった。ここにヴィラヴィクトリアというマンションが建っていたらしい。偏奇館跡の前の道を左折しまっすぐに進み、右折、左折、右折すると、道源寺坂の坂上に至る道にでる。この道が拡幅されていまもある(道源寺坂の記事参照)。

御組坂の下りの途中、左折し、道なりに進むと高速の下の谷町にでた。左折してからも下り坂であったと思われるが、この途中から下側の坂はもはや存在せず、前回の記事のように、上側部分のみ残ったようである。下側は、再開発のとき、埋め立てられたのであろう。

再開発前の御組坂については、岡崎清記「今昔 東京の坂」が詳しい。次の説明がある。

「麻布グリーン会館前を下る急坂。坂はいったん下り切ってから左折し、再び急傾斜で落ちる。つづいて細い裏道となり、屈曲しながら高速二号線下の低地まで下る。坂の北側は高い崖になって蔦がびっしり這っていたが、久しぶりに訪れてみると、崖は姿を消し、ビルになっていた。」

「『麻布区史』は、旧麻布市兵衛町一ノ一の地を古く紅葉屋敷と呼んだが、そこから七番地に下る紅葉坂という坂があり、その北に御組坂があった、と説明している。二つの坂は別個の坂だが、地形の変化もあり、いまは旧紅葉坂のことを御組坂と呼んでいる。」

岡崎は偏奇館跡近くに住んだことがあった。上記の著書に次のように書いている。

「五年余りまえ、わたしたち夫婦は冬から翌年の初夏までの半年を、偶々ここに寓居した。六本木一丁目七番地である。坂南の、むかし御手先組屋敷のあった一隅にある。一番地違いの偏奇館跡はすぐそこであった。
 わたしは、毎日、この坂を上り下りした。雪の翌朝には、凍りついた坂で何度も足を滑らせて肝を冷やしたし、暑い夏の朝は汗を拭きながら、この坂に喘いだ。
 それまで、長いあいだ、武蔵野の起伏に乏しい地域に住んでいたので、洪積層の台地と美しい傾斜に富むこのあたりの地形の変化がたいへんもの珍しく感じられた。そして、荷風が『麻布襍記』の中で、「わたしは麻布の土地を愛している。これはわが家の近隣、坂と崖ばかりなので、樹木と雑草を見ることが多い故である。」と書いているのも肯けた。到るところに坂があり、それらがそれぞれに個性を有していることに心ひかれた。江戸、明治の坂も多く、由緒ある坂名がついていて、坂名の由来を書いた木の標柱が坂上と坂下に建ててある。」

著者は、その後、港区の坂から始めて現存する東京の坂を遍歴するようになったが、そのきっかけは、この御組坂であったと述べている。また、荷風の「断腸亭日乗」を愛読したようである。

以前、この本の存在を知らず、古本屋で見たとき、御組坂の説明を読んで共感するところがあったので、すぐに購入した記憶がある。

著者は、御組坂の説明の最後に、昭和二十年(1945)三月十日夜半の空襲による偏奇館炎上を記録した「日乗」を全文引用しているが、本記事にも以下引用する(以前の記事に部分的に引用したが)。上の地図を見ながら読むとよいと思ったからである(昭和20年の頃とは違っているかもしれないが、現在の地図よりもはるかによい)。

昭和二十年「三月九日、天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、火は初長垂坂中程より起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す、余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり鄰人の叫ぶ声のたゞならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出でたり、谷町辺にも火の手の上るを見る、又遠く北方の空にも火光の反映するあり、火星は烈風に舞ひ紛々として庭上に落つ、余は四方を顧望し到底禍を免るゝこと能はざるべきを思ひ、早くも立迷ふ烟の中を表通に走出で、木戸氏が三田聖坂の邸に行かむと角の交番にて我善坊より飯倉へ出る道の通行し得べきや否やを問ふに、仙石山神谷町辺焼けつゝあれば行くこと難かるべしと言ふ、道を転じて永坂に到らむとするも途中火ありて行きがたき様子なり、時に七八歳なる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通に出で溜池の方へと逃しやりぬ、余は山谷町の横町より霊南坂上に出で西班牙(スペイン)公使館側の空地に憩ふ、下弦の繊月凄然として愛宕山の方に昇るを見る、荷物を背負ひて逃来る人々の中には平生顔を見知りたる近鄰の人も多く打まぢりたり、余は風の方向と火の手を見計り逃ぐべき路の方角をも稍知ることを得たれば麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴れし偏倚館の焼倒るるさまを心の行くがきり眺め飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ、巡査兵卒宮家の門を警しめ道行く者を遮り止むる故、余は電信柱または立木の幹に身をかくし、小径のはづれに立ちわが家の方を眺る時、鄰家のフロイドルスペルゲル氏褞袍(どてら)にスリツパをはき帽子もかぶらず逃げ来るに逢ふ、崖下より飛来りし火にあふられ其家今まさに焼けつゝあり、君の家も類焼を免れまじと言ふ中、わが門前の田島氏そのとなりの植木屋もつゞいて来り先生のところへ火がうつりし故もう駄目だと思ひ各その住家を捨てゝ逃げ来りし由を告ぐ。余は五六歩横町に進入りしが洋人の家の樫の木と余が庭の椎の大木炎々として燃上り黒烟風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るゝを見定ること能はず、唯火焰の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ、是偏奇館楼上少からぬ蔵書の一時に燃るがためと知られたり、火は次第にこの勢に乗じ表通へ焼抜け、住友田中両氏の邸宅をも危く見えしが兵卒出動し宮様門内の家屋を守り防火につとめたり、蒸気ポンプ二三台来りしは漸くこの時にて発火の時より三時間程を経たり、消防夫路傍の防火用水道口を開きしが水切にて水出でず、火は表通曲角まで燃えひろがり人家なきためこゝにて鎮まりし時は空既に明く夜は明け放れたり、」
(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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御組坂(1)

2010年07月27日 | 坂道

御組坂は、道源寺坂からむかしながらの道順でたどると、坂上から直進し、霊南坂から続く通りを右折し、一本目を右折して下りとなる坂である。

右の写真(2008年末に撮影。以下も。)は、霊南坂から続く通りで、写真の道路の奥側が虎ノ門方面である。

道源寺坂から来ると、写真奥側から歩道を進み、左端中央に御組坂の標柱のある坂上に至る。

標柱の説明には、おくみざか 幕府御先手組(おさきてぐみ。戦時の先頭部隊で、常時は放火盗賊を取締まる)の屋敷が南側にあったので坂名となった、とある。

尾張屋版江戸切絵図を見ると、汐見坂と榎坂との間から上る霊南坂が見え、そこから続く通りに市兵衛町とある。その先から下る坂下に御先手組の屋敷がある。

左の写真は、御組坂の坂上から撮ったものである。右端に標柱が見える。

坂下は再開発でできた泉ガーデンの通りであるが、そこに向かってまっすぐに下っている。

下ったところが、偏奇館跡であったが、再開発により消滅した(「荷風散策事始め」参照)。

このあたりは、明治維新後に上収された武家地を合して町とし、明治五年(1872)、市兵衛町一丁目になったとのこと。

右の写真は、坂下から撮ったものである。いまは平凡な坂になっているが、再開発前までは坂はさらに下側の谷町まで続いていた。
(続く)

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)

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荷風の同名異人(2)

2010年07月25日 | 荷風

荷風の同名異人に関し、続いて、「断腸亭日乗」大正12年9月26日に次の記述がある。

「九月廿六日。本月十七八日頃の新聞紙に、予が名儀にて老母死去の広告文ありし由、弔辞を寄せらるゝ人尠からず。推察するに是予と同姓同名なる上野桜木町の永井氏の誤なるべし。本年五月同名異人とは知らずして、浅草の高利貸予が家に三百代言を差向けたることもあり。諺にも二度あることは三度ありといへば、此の次はいかなる事の起来るや知るべからず。此日快晴日色夏の如し。午後食料品を購はむとて澀谷道玄阪を歩み、其の辺の待合に憩ひて一酌す。既望の月昼の如し。地震昼夜にわたりて四五回あり。」

これまた同じ人違いで、その同名異人の母が亡くなったらしく、その新聞広告を見た何人かが誤って荷風にお悔やみをよこしたことを少し驚きを持って記述している。

借金取りのときと同じく、永井尚志の家を継いだ上野桜木町の永井氏の誤りで、二度も同じような人違いが起きて、次は何が起きるかわからないなどと書いている。(三回目はなかったようであるが。)

この月1日に関東大震災が発生しており、余震が続いている。荷風は、食料品を買いに渋谷道玄坂まで出かけ、その辺りで一杯やっているが、地震も含め色々なことがあってやれやれという感じが伝わってくる。

ペリー来航などがあった江戸末期、老中阿部正弘は、幕府の外交対策の一環として人材登用をさかんに行い、勝麟太郎(海舟)や岩瀬忠震(ただなり)などを抜擢した。永井尚志(なおむね)は、旗本で小禄の者であったが、俊秀であったらしく、このときの抜擢組であった。

永井尚志は、目付、長崎海軍伝習所の総監理、外国奉行、軍艦奉行に次々と任ぜられた。安政の大獄で一橋派であったため失脚したが、その後、一橋慶喜が徳川15代将軍となり、京都町奉行として復帰し、大目付となり、さらに、それまでは大名でなければ任命されなかった若年寄に大抜擢された。若年寄であったことは荷風が日記に書いているとおりである。幕府瓦解の後、榎本武揚らとともに蝦夷へ向かって函館奉行となり、五稜郭で新政府軍と戦ったが、敗れて降伏した。その後、明治政府に出仕し、明治24年(1891)76歳で没した。

この永井尚志の養子大審院判事岩之丞尚忠とその配松平氏高子との間に生まれたのが、荷風と同名異人の永井壯吉であり、その妹夏子である。

夏子は、樺太庁長官平岡定太郎に嫁ぎ、その息子が梓で、その孫が公威、すなわち、三島由紀夫である。

三島由紀夫からみると、荷風と同名異人の永井壯吉は父方の祖母の兄にあたる。

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
小西四郎「日本の歴史19 開国と攘夷」(中公文庫)
秋庭太郎「永井荷風傳」(春陽堂)

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荷風の同名異人(1)

2010年07月23日 | 荷風

永井荷風の日記「断腸亭日乗」大正12年5月2日におもしろい記述がある。

「五月二日。朝台所にて牛乳をあたゝめ居たりしに、頻に表の呼鈴を鳴して案内を請ふものあり。戸を開くに洋服を着たる見知らぬ男、浅草田島町の金貸小室梅次郎といふ者より依頼されたる用件ありとて名刺を出し面談を請ふ。書斎に導くに其男直に折革包より一片の証書を示し、返済の期限は既に過きたり、いつ頃返済の見込なるやと言ふ。証書を見るに債務者の姓名は余と同じなれど、筆跡は全く別人なり。書面の原籍を見て考るに余と同姓同名にて海軍造船所技師を勤むる人なるが如し。余何故に之を知るやといへば、先年逗子の別荘売却の折、横須賀の登記所にて海軍技師をつとむる人にて余と同姓同名のものあるを知り、不思議の思をなしたる事あればなり。余審にこの事を語り人ちがひなる由を告げむとは思ひしかど、相手の態度甚無礼なれば翻弄するも一興なりと思ひ、此の証書に付きては少しく仔細あれば返金の如何は即荅しがたしとて、押問答の末日を定めて再会する事となしたり。余と同名の人は旧幕府瓦解の当時若年寄をつとめし永井玄番頭の家を継ぎし人なり。曾て上野桜木町に邸宅ありしが今はいかゞなりしや。」

要するに、永井荷風と本名が同姓同名(永井壯吉)の別人がいたようで、その別人への借金取りが誤って荷風を偏奇館に訪ねてきたが、荷風は、相手の態度が無礼であったので、からかってやろうと思ったらしく、人違いであることを告げず、わざといいわけがましいことを言って押し問答の末、追い返したようである。

人違いであることをいえばそれで終わりなのに、荷風も人が悪いというか、それを楽しんだのか、面白い人である。

荷風は自分と同名異人の存在を横須賀の登記所で知っており、不思議と思ったと書いている。その同名異人は、海軍造船所技師で、幕末に若年寄であった永井玄番頭尚志の家を継ぎ、上野桜木町に邸宅があった人である。

横須賀に海軍造船所があり、その関係でその同名異人はその辺りに土地か何かを所有していたのだろうか。

荷風は、この見ず知らずの同名異人に親密さを覚えていたため借金取りに人違いであることを言わなかったのではないか、そんな気もするが、どうであろうか。

結果論であるが、荷風のおかげでその同名異人は借金取りから逃れられたと思われる。

荷風の同名異人は、荷風と年齢も殆ど同じであるが、昭和4年に没したらしい。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「永井荷風傳」(春陽堂)

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道源寺坂(2)

2010年07月22日 | 坂道

道源寺坂の標柱には江戸時代のはじめから坂の上に道源寺があったとある。

江戸切絵図(尾張屋版、近江屋版)を見ると、坂名はないが、道源寺と西光寺が見え、そのわきに谷町へと続く道があるが、これが道源寺坂と思われる。なお、切絵図の尾張屋版では、通源寺、近江屋版では、道玄寺となっているが、誤りであろう。

荷風は「断腸亭日乗」に次のように書いている。

昭和10年「六月三日。道源寺坂は市兵衛町一丁目住友の屋敷の横手より谷町電車通へ出づる間道に在り。坂の上に道源寺。坂の下に西光寺といふ寺あり。この二軒の寺の墓地は互に相接す。西光寺墓地の生垣は柾木にて其間に蔦と忍冬の蔓からみて茂りたり。五六月の交忍冬の蔓には白き花さき甘き薫りを放つ。花の形は図に描けるが如し。此日くもりて風涼し。朝の中銀座一丁目川崎銀行に徃く。途上水木京太に逢ふ。」

右の写真は坂途中の大木の近くから坂下を撮ったものである(2008年年末撮影)。西光寺の塀は柾木の生垣ではなさそうだが蔦がいっぱい絡まっている。

荷風の「墨東綺譚」は何回か映画化されているが、その最新作(といってもかなり前と思われるが)で津川雅彦扮する荷風が道源寺坂を歩くシーンがあるらしい。

「断腸亭日乗」にはさらに道源寺が何回かでてくる。

昭和2年「十一月廿六日 今日もまた好く晴れて風なければ、午後庭に出でゝ落葉を焚かむとするに洋服きたる記者体の男入り来りし故、裏木戸より道源寺の方に逃れ箪笥町の崖下をめぐりて帰り来れば、かの怪しき男も既に在らず、秋草の霜枯れたるを刈りて落葉と共に焚き尽すほどには日は早くも傾きたり、草稾に筆をとること二三枚、夕餉の後壺中庵を訪ふ、」

荷風は、夏の曝書と、秋の落葉焚きが楽しみであることを何かに書いていたが、この日も落葉焚きの準備をしていたら、嫌いな記者風の男が来るのを見つけたので、裏木戸から道源寺の方に逃れ、崖下を一回りして帰ると、いなくなっていた。道源寺方面はよい逃げ道であったらしい。

昭和4年「十二月十日 曇りて風なし、夕五時半頃榎坂町崖上屋敷火を失す、道源寺墓地より望み見るに消防人足のはたらくさま家屋の焼倒るゝさま一目に見ゆ、半時間ばかりにして熄む、初更の頃より雨ふる、」

道源寺から火事見物であるが荷風らしい。榎坂町とは、現在のアークヒルズの辺りと思われる。

昭和9年「十一月一日。・・・。帰途乗合自動車より降りむとするに大雨車軸のごとし。道源寺門前の阪を登るに路傍の溝水淙々として激流の響をなす。草廬の門に至れば雨既に歇む。此日梓月君再び寸書あり。深更風雨窗を撲つ。」

谷町の方で乗合自動車から降りたのか、大雨の中、道源寺坂を上って帰宅した。このときの道順は、坂を直進し住友の屋敷の横手を通って大通りにでたと想われる。そうでないと、雨が止むのが早すぎる。

昭和10年「二月十日日曜日 春雨霏々。森先生の妄人妄語を読む。燈刻雨歇みて暴に暖なり。不二氷菓子店に飲して亜凡に憩ふ。竹下高橋広瀬の三子に逢ふ。帰途月おぼろなり。道源寺の犬余の跫音をきゝつけ従ひ来りし故バタとパンとを与ふ。即興の句を得たり。 雨霽れて起きでる犬や春の月」

道源寺の犬は、荷風になついているようで、この日ついてくるので、バタとパンをやり、即興の句をつくっている。おぼろ月でなついた犬のせいか、なんとなく気分がよい。そんな雰囲気が伝わってくる。

参考文献
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く 明治大正東京散歩」(人文社) 

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道源寺坂(1)

2010年07月21日 | 坂道

道源寺坂は、わたしにとって荷風散策と分かちがたく結びついている。この辺りを初めて訪れたとき、まずこの坂を上ったからである(「荷風散策事始め」参照)。

この坂への近道は、地下鉄六本木一丁目駅の改札をでて、3番出口から地上にでるとよい。出口を直進し、道路を右折して進むと、西光寺があり、道源寺坂の坂下である。そこに標柱が立っている。

左の写真(2010年1月撮影)のように、標柱の後ろの蔦の絡む塀に沿って道源寺坂の上りが見える。

東京メトロの六本木一丁目駅の出入口案内図で3をクリックすると、出口付近のパノラマ写真がでるが、その中に道源寺坂方面もでてきて、西光寺の門と標柱が見える。

左の写真は、坂の途中にある大木のわきから坂上を撮ったものである(2008年年末撮影)。

左に見えるのが道源寺の門である。

道源寺坂は、大木のある坂の途中までは、二度ほど緩やかにうねっているが、大木の上からはほぼまっすぐに上っている。

坂上左側にも標柱が立っているが、そこを右に進むと、ちょっと広めの道路がある。ここを進み、突き当たりの階段を下りると六本木一丁目駅の改札の方に至る。突き当たりの手前、左側に古くからと思われる奥ゆかしい民家があり、その後方にアパートらしき建物が建っている。この二軒がこの辺一帯の再開発前の姿を残すものと思われる。

荷風の「断腸亭日乗」大正12年11月11日に次の記述がある。

「十一月十一日。吾家の門前より崖づたいに谷町に至る阪上に道源寺という浄土宗の小寺あり。朝谷町に煙草買ひに行く時、寺僧人足を雇ひ墓地の石垣の崩れたるを修復せしめ居たり。石垣の上には寒竹猗々として繁茂せるを、惜し気なく掘捨て地ならしをなす。予通りかがりに之を見、住職に請ひ人足には銭を与えて、其の一叢を我庭に移し植えさせたり。寒竹は立冬の頃筍を生ずるものにて、其の頃に植れば枯れざる由。曾て種樹家より聞きしことあり。・・・」

上記のように偏奇館から崖づたいに道源寺坂の坂上に至ることができたが、その道の一部が現在の拡幅された道路と思われる。偏奇館跡が跡形もなくなっている現在、改修されたとはいえ荷風が頻繁に通った道と思うと感慨無量である。

裏側に大きな通りができているため、道源寺坂は人通りが少なく、また、訪れる人も少ないようでひっそりとした感じになっている。

西光寺、道源寺、道源寺坂がかろうじてかつての名残りをとどめているように思えるが、このままそっとしておいてほしい。変わらずに残ってほしいと思う。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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丹波谷坂と荷風

2010年07月20日 | 荷風

丹波谷坂は永井荷風の偏奇館跡の近くにある。

偏奇館跡の小さな四角柱の記念碑を右に見て進み、突き当たりを右折していくと、高速の下の大きな通りの信号にでる。ここを横断しそのまま直進し、突き当たりを左折し、次を右折すると、丹波谷坂の下りである。

坂上右側が六本木三丁目5番地である。

左の写真は丹波谷坂の坂上から撮ったものである(標柱を入れたら坂下が写らなかった)。

坂上と坂下に標柱が立っているが、その説明によると、元和年間(1615~1621)旗本岡部丹波守の屋敷ができ、坂下を丹波谷といった。明治初年この坂を開き、谷の名から坂の名称とした、とある。

尾張屋版江戸切絵図にはのっていないが、近江屋版には「俗に丹波谷と云」とのっている。しかし、いずれにも坂道は見えない。明治初年に開かれたらしいので、江戸時代の坂ではない。

右の写真は丹波谷坂の坂下から撮ったものである。狭くかなりの勾配である。

丹波谷は荷風の「断腸亭日乗」によくでてくる。

始めは大正12年6月18日である。

「六月十八日。雨ふる。市兵衛町二丁目丹波谷といふ窪地に中村芳五郎といふ門札を出せし家あり。囲者素人の女を世話する由兼ねてより聞きゐたれば、或人の名刺を示して案内を請ひしに、四十ばかりなる品好き主婦取次に出で二階に導き、女の写真など見せ、其れより一時間ばかりにして一人の女を連れ来れり。年は二十四五。髪はハイカラにて顔立は女優音羽兼子によく似て、身体は稍小づくりなり。秋田生れの由にて言語雅馴ならず。灯ともし頃まで遊びて祝儀は拾円なり。この女のはなしに此の家の主婦はもと仙台の或女学校の教師なりし由。今は定る夫なく娘は女子大学に通ひ、男の子は早稲田の中学生なりとの事なり。」

当時の偏奇館から、霊南坂から続く大通りに出て、右折し、そのまま道なりに歩くと、途中、右手に長垂坂の坂上を見てさらに進み、突き当たりを左折し、次を右折すると丹波谷坂の坂上である。いまの道筋とほぼ一致していたと思われる。

荷風はおそらくこの道順で丹波谷坂を下り、その窪地に至ったものと想像される。偏奇館から近く、10分程度ではないだろうか。そこは、女を斡旋するいわゆる私娼宿であった。このような風俗に関する話が断腸亭日乗に時々登場する。荷風は巷でこの種の情報を仕入れていたのであろうか。そういった情報は興味ある者にはすぐ伝わるものである。この日は荷風自らでかけたようである。

荷風はここが気に入ったのか、その後、大正12年だけでも9月1日の関東大震災を挟んで何回もでてくる。

「六月廿二日。風雨一過。夜に入つて雲散じ月出づ。丹波谷に遊ぶ。」
「七月五日。日暮風雨。丹波谷の女を見る。」
「九月廿七日。心身疲労を覚え、終日睡眠を催す。読書に堪えされば近巷を散歩し、丹波谷の中村を訪ふ。私娼の斡旋宿なり。此夜月また佳し。」
「十月十五日。積雨午後に至って霽る。丹波谷の地獄宿中村を訪ふ。」
「十一月五日。払暁強震。午後丹波谷の中村を訪ふ。震災後私娼大繁昌の由。」

丹波谷の斡旋宿は、その後、引っ越したらしく、昭和2年4月3日に次の記述がある。

「四月初三 快晴、薄暑五月の如し、心身疲労を感ず、午後睡を貪る、夜蒲田の新開地御園町と云ふ処に中村と云ふ者の住居を尋ぬ、主婦不在にて空しく帰る、曾て震災の頃市兵衛町丹波谷に居住し素人の女を、斡旋せしものなり、去年より蒲田に転居し松竹活動写真女優の下廻りを周旋する由なり、」

荷風は、蒲田に転居後も尋ね、未だ相当に未練が残っていたものと思われる。川本三郎は、後年、「墨東綺譚」で玉の井のお雪を訪ねる「わたくし」の萌芽が見られるとする。

荷風は、一方で震災後、お栄という若い女性と知り合いになり交情を深めている。

「九月廿三日。朝今村お栄と谷町の風呂屋に赴く。途上偶然平岡画伯に邂逅す。其一家皆健勝なりといふ。午後菅茶山が筆のすさみを読む。曇りて風寒し。少しく腹痛あり。夜電燈点火せず。平沢夫婦今村母子一同と湯殿の前なる四畳半の一室に集り、膝を接して暗き燈火の下に雑談す。窗外風雨の声頻なり。今村お栄は今年二十五歳なりといふ。実父は故ありて家を別にし房州に在り、実母は芸者にてお栄を生みし頃既に行衛不明なりし由。お栄は父方の祖母に引取られ虎の門の女学館に学び、一たび貿易商に嫁し子まで設けしが、離婚して再び祖母の家に帰りて今日に至りしなり。其間に書家高林五峯俳優河合の妾になりゐたる事もありと平沢生の談なり。祖母は多年木挽町一丁目萬安の裏に住み、近鄰に貸家多く持ち安楽に暮しゐたりしが、此の度の災火にて家作は一軒残らず烏有となり、行末甚心細き様子なり。お栄はもともと芸者の児にて下町に住みたれば言語風俗も藝者そのまゝなり。此夜薄暗き蠟燭の光に其姿は日頃にまさりて妖艶に見え、江戸風の瓜実顔に後れ毛のたれかゝりしさま、錦絵ならば国貞か栄泉の画美人といふところなり。お栄この月十日頃、平沢生と共にわが家に来りてより朝夕食事を共にし、折々地震の来る毎に手を把り扶けて庭に出るなど、俄に美しき妹か、又はわかき恋人をかくまひしが如き心地せられ、野心漸く勃然たり。ヱドモン・ジヤルーの小説Incertaineの記事も思合されてこの後のなりゆき測り難し。」

「この後のなりゆき測り難し」などといっているが、この後、お栄を連れてあちこちに出かけたことが「断腸亭日乗」に何回もでてくる。

「断腸亭日乗」は、その性格上、荷風が交情を深めた女性との間の記録といった面があることを否定できず、荷風と関係した実に色んな女性が登場するが、荷風自身、その総括のつもりか、昭和11年1月30日に「余が帰朝以来馴染を重ねたる女を」列挙している。上記のお栄も挙げられている。

2~3年前、世田谷文学館で荷風展があったが、そのとき、「断腸亭日乗」原本の当該頁(昭和11年1月30日)が開かれて展示されていた。有名な部分なのであろう。

丹波谷坂からかなり話が進んで離れてしまったのでこれで終わる。

なお、上記の写真は、二枚とも2008年の年末に撮ったものであるが、坂上からの写真でもわかるように、坂下一帯で工事が始まっていた。もう大きなビルか何かが建っているのであろうか。

参考文献
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く 明治大正東京散歩」(人文社)
川本三郎「荷風と東京 『斷腸亭日乗』私註」(都市出版)

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善福寺川緑地公園

2010年07月19日 | 散策

梅雨明けしてから猛暑が続き、とても街歩きにはでかけられないので、夕方、近くの善福寺川緑地公園へ。 

かなり陽が傾いているが、場所によっては陽があたるので、両岸から暗くなっている方を選んで歩く。

それでも、川がかなり蛇行しているので、陽があたらない側を歩いていても、あたるようになったりしてうまくいかない。

途中涼しげなところのベンチで休んでいると、ジョギングの人がたくさん通る。陽が傾いてきたのでジョギングにでてきたのであろう。日中はやはりきついと想像される。

村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」の影響からか、走っている人をつい観察してしまう。軽やかに走る人、ちょっと重そうな人、ゆっくり走る人、スピードをだして走る人。苦しそうな人。同じ走るにしても、色んな人がいる。

ときおり風が少し吹くと、気持ちよいが、長く続かない。

川は流れているが、いつものとおり水量は少ない。下の方を静かに流れている。

普段はこの程度が精一杯であるが、それでも水鳥はかなり集まってくる。水かさが増えるのは豪雨のときである。

1時間とちょっと歩いてから帰る。

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烏山川緑道(4)

2010年07月16日 | 散策

烏山川緑道は、西に進むと環八通りの千歳台の交差点に至る広い道路でいったん中断するが、信号を渡り、道路に沿い西に進むと、すぐに千歳橋がある。右の写真はそこから撮ったものである。

橋の上からながめると、水が大量に流れているため、一見、川であると思えるほどである。途中に人工的な流れがあったが、久しぶりに大量の水を見たので、ちょっと錯覚したのかもしれない。

まっすぐに、流れに沿って散歩道が続いている。階段を下りて振り返ると、地下道ができており、信号を渡らなくともこちらに来ることができるようである。

ここを上流側に進むが、水がすぐそばを流れているため親水的な散歩道となっている。途中で流れは終わる。

しばらく歩いていると、八幡山遺跡の案内板が緑道わきの壁に埋め込まれている。

八幡山遺跡はこのあたりの烏山川の左岸の台地に位置し、縄文中期の集落や江戸時代の炭焼窯等が調査され、遺構(住居跡・小竪穴・土坑・ピット)や遺物(土器・石器・土製品)などが発掘されたとのこと。

緑道がしだいに環八通りに近づいているようで、車の騒音が大きくなってくる。

左の写真は、緑道の終点を下流側から撮ったものである。写真の奥で環八通りの芦花公園前の交差点脇にでるが、ここで烏山川緑道は終わっている。世田谷区八幡山三丁目37番地である。

道路を渡ると、右の写真のように、かつての烏山川と思われる堀がある。

堀の底は青草でいっぱいではっきりと確認できないが、水は流れていないようである。

写真の左は環八通りで車がひっきりなしに通る。

川を右に見て環八通りの歩道を北側に進むと、途中、堀が埋め立てられたり、また、堀になったりするが、やがてそれも終わる。地図を見ると、環八通りを挟んで反対側に続いているようであるが、きょうの緑道歩きはここで終わりとする。

さらに環八通りを進んで、京王線のガード手前で右折し、京王線八幡山駅へ。

携帯の歩数計による総歩行距離は15.8km。

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烏山川緑道(3)

2010年07月15日 | 散策

東急世田谷線が横切るため玉橋跡の先で緑道がちょっと中断する。一般道に出て踏切を渡り、右折して北側に進むと、宮坂駅前の四差路に至る。

ここの右手が宮坂駅で、左手が世田谷八幡宮である。

信号を渡ると、宮の坂の坂下である。世田谷八幡宮のわきを緩やかに上る。右の写真は坂下から撮ったものであるが、左側に神社の樹木が見える。

永井荷風もこの辺に来ているはずと思って調べたら、「断腸亭日乗」に次の記述があった。

大正13年「十二月五日。立冬以後日々快晴。気候温和なり。午後世田ヶ谷村三軒茶屋を歩み大山街道を行くこと数町。右折して松陰神社の松林に憩ひ、壟畝(ろうほ)の間を行く。朱門の一寺あり。勝園寺のへん(匚+扁)額を見る。門前の阪を下り、細流を踰(こ)え豪徳寺の裏門に至る。老杉欝然。竹林猗々。幽寂愛すべし。本堂の檐に参世仏及び天谿山のへん額あり。豪徳寺は井伊掃部頭の菩提所なること人の知る所なり。松陰神社を去ること遠からず、また祠後ろの松林に頼三樹等の墓碑を見る。呉越同舟の感なきを得ず。」

荷風は、この日、三軒茶屋から松陰神社、勝園寺、豪徳寺を訪れたようである。勝園寺はどこかと、地図を見ると、松陰神社の近くに勝国寺があるが、ここであろうか。

勝園寺から門前の坂を下り、細流をこえて豪徳寺の裏門に至る、とあるので、細流とはこの烏山川で、荷風はこの川を近くの橋で渡ったものと思われる。

頼三樹は、頼三樹三郎、頼山陽の三男で、幕政を批判し、安政の大獄で刑死した。その墓が松陰神社にある。この近くに豪徳寺があることについて荷風は呉越同舟の感なきを得ず、と上手いことをいっている。

宮の坂を下り、交差点を渡り、もどるようにして直進すると、右手に八幡橋跡がある。ここを右折し緑道にもどる。

左の写真はここから上流側を撮ったものである。細い緑道が続いている。

ここから順に、宮前橋跡、谷中橋跡、菫(すみれ)橋跡、鴎友橋跡、小川橋跡、経橋跡、中橋跡を通過する。

中橋跡の先、経堂大橋公園の辺りに烏山川緑道、北沢川緑道、目黒川緑道の説明板が立っている。烏山川は次のように説明されている。

「昔の烏山川の水源は、現在の高源院(北烏山4丁目)の池に武蔵野の伏流水が湧出したものだと言われ、自然発生した川です。江戸時代に、飲み水や田畑の用水を求めて、烏山村などの農民が幕府から許可を得て、玉川上水から烏山川へ分水して烏山用水として利用されました。大正末期以降、人口が増え、農地から宅地に転用が進むにつれて、農業用水の利用が減り、住宅などの生活排水が流されるようになりました。昭和40年代に排水路化された川に下水道幹線を埋めて排水を流しています。烏山川の上流右岸は、給田5丁目4番先:左岸は北烏山9丁目32番先(三鷹市と世田谷区の境界線)です。それより上流は水路です。下流は目黒川合流点です。」

烏山川の水源の一つは、北烏山の寺院通り(寺町通り)の北にある高源院の鴨池といわれるが、ここは、以前の記事のように訪れたことがある。水量はかなりあった。

しかし、上記の説明板によると、烏山川の上流は高源院よりも西側とされている。

大橋跡、中村橋跡、新道橋跡を通りすぎ、経堂橋跡で小田急線の下を通過する。その先に石仏公園がある。さらに、橋場橋跡を過ぎ、千歳丘高の先あたりで、右の写真のように、緑道が道路脇の歩道に沿っているが、すぐにもとのようになる。緑道が歩道と並行するのは、蛇崩川緑道でも見られた。

かなり前からぽつぽつきていたが、この先で、とうとう本格的に降り出してきたので携帯傘をさす。

左の写真は希望丘小の前の通りを渡ってから緑道の上流側を撮ったものである。両脇に団地の公園があるようで、広々としている。

ここを進み、道路下の短いトンネルを通り抜けたりしてさらに進むと、東西に延びる広い道路に至る。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
永井荷風「新版 断腸亭日乗 第一巻」(岩波書店)
横山吉男「江戸・東京名墓碑ウオーク」(東京新聞出版局)

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烏山川緑道(2)

2010年07月14日 | 散策

環七通りを越えて進むと、天神橋跡の手前に烏山川緑道の地図のある説明板が立っている。それには、「烏山川緑道は昭和49年に開園し、現在、全長約6.9kmに及び、世田谷区船橋七丁目から三宿一丁目まで続いています。」とある。

これは、この説明板の当時のことで、現在、下流側は目黒川の暗渠が始まるところまで続いている。これは前回の記事のとおり。上流側へはこれから歩く。

右の写真は、中堰橋跡の先で撮ったものである。

ここから、谷中橋跡、本村橋跡を通りすぎ、松陰橋につく。ここを左折し松陰神社に行ってみることにする。

しばらく歩くと、右手に松陰神社が見えてくる。右折し戻るようにして参道を進むと、本殿の右手に、左の写真のように松下村塾が建っている。これは山口県萩に保存されている松下村塾を模したものらしい。

吉田松陰は、安政の大獄で安政6年(1859)10月に伝馬町牢内で処刑され、その墓は荒川区の回向院にある。文久3年(1863)に伊藤博文等の門人によって、長州毛利藩の所領で大夫山と呼ばれていたこの地に改葬され、その後、明治15年(1882)、この松陰神社が創建されたとのことである。

来た道を引き返し、緑道にもどり進む。

厚徳橋跡、杉大門橋跡、やませき橋跡を過ぎて、ちょっと広い通りにでる。勝橋跡である。

ここで、緑道が消えたように通りの向こうで急に左に曲がっている。

勝橋跡を進むと、左手が崖であったのであろうか、右の写真のように、法面がしばらく続く。

むかし、この辺りで烏山川は崖下を流れていたと想像される。

品川橋跡、稲荷下橋跡、城下橋跡、青葉橋跡、城向橋跡、豪徳寺橋跡、清涼橋跡を通りすぎて玉橋跡に至る。

左の写真は、豪徳寺橋跡の先で撮ったものである。両側は緑でいっぱいである。この辺りになると、歩道が狭くなっているところが多くなる。

地図を見ると、豪徳寺橋跡を右折していけば、豪徳寺に至るようである。ここには安政の大獄のときの大老井伊直弼の墓があるが、先ほどの松陰神社と意外なほど近い。偶然であろうが、なにか因縁めいた感じもする。

玉橋跡の先で東急世田谷線が横切るため緑道はここで中断する。
(続く)

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烏山川緑道(1)

2010年07月13日 | 散策

烏山川緑道と北沢川緑道との分岐点(合流点)から烏山川緑道へと進む。ここから上流側を目指す。

分岐点からも歩道沿いの小川が流れているが、三池橋跡の辺りで終わっている。

右の写真は、三宿橋跡と多門寺小橋跡の間で撮ったものである。

緑道の両側が植え込みの緑でいっぱいである。

この緑道の特徴として道路が頻繁に横切っていることが挙げられる。

たぶん、50~100m程度の間隔で道路を横切る感じである。そこがむかしの橋があったところであると何らかの表示がある。

やがて右手に三宿神社が見えてくる。

左の写真は下ノ谷橋跡の先で撮ったものである。

ふたたび川が流れている。ここは雰囲気がかなり人工的であるが、ないよりはずっとましである。大きい池のようになったところで流れが終わっている。

やがて八幡橋跡につき、茶沢通りを横切る。

ここを左折し南側に進むと三軒茶屋方面のようで、人通りが多い。北側が太子堂銀座となっているようだ。

太子小学校を過ぎると、烏山緑道起点より1.5kmの標柱が立っている。起点とは北沢川との分岐点(合流点)であろう。

少し歩くと、「右 目黒川方面、左 区役所方面」と刻まれた石柱が立っている。

さらに歩いていくと、同じような形の水車橋跡、耕整橋跡、稲荷橋跡(右の写真)の石柱が立っているところを順に横切る。

やがて若林橋の石柱が見えてくるが、この先が環七通りである。ちょっとずれた位置にある歩道橋を渡り、緑道に戻る。ここの先で東急世田谷線の路面電車が環七通りを横切るのが見えた。ちょっと面白い光景である。
(続く)

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