東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

善福寺川の桜

2010年03月31日 | 散策

善福寺川緑地公園の両岸には桜の木が植えられており、花見の名所となっている。

特に、五日市街道にかかる尾崎橋とその上流側の相生橋との間がもっとも多い。

写真は尾崎橋から上流側を撮ったものである。

この間に花見客も集中するが、先週日曜日は、かなり寒く、このためか、例年よりも人の出が少なかった。桜もまだ満開ではなかった。

尾崎橋から川に沿って上流側に歩いていくと、善福寺川緑地公園であるが桜の木はまばらになってきて花見客もほとんどいなくなる。

途中、橋のたもとに善福寺川の案内板がたっていた。そこに、桃園川緑道の記事のときにでてきた新堀用水路について次のような説明があった。

「善福寺川には、今も忘れてはならない歴史があります。1840年(天保11年)、天保の大飢饉を契機に、当時水不足で困っていた旧桃園川流域へ善福寺川の水を分水する用水路を開削しました。現在の大谷戸橋付近から一部トンネルで潜る大工事でしたが、江戸(天保)時代の農民の汗と労苦の結晶は、その後大正時代まで中野・高円寺・馬橋村の水田を潤したのでした。」

説明文となりの新堀用水路図(写真)によると、いまの荻窪団地近くの大谷戸橋付近で取水し、善福寺川にほぼ沿い天神橋公園を通って南下してから、東北方向に向きを変え、トンネルを通し、杉並高校の西側、須賀神社の脇の弁天池、スズラン通りの東側、馬橋児童遊園などを通って桃園川に接続したようである。途中、弁天池から先、青梅街道に向けて標高が高くなるためトンネルで青梅街道を横断している。これが天保10年(1839)の工事のようである。

天保11年(1840)の工事では、大谷戸橋付近からトンネルを通して弁天池にほぼ最短距離で接続させたようである。須賀神社脇の弁天池は中継池として利用された。

3本のトンネル工事を含めかなりの苦心の工事であったことがしのばれる。

天保の大飢饉は天保4年(1833)から始まり、慢性的な大飢饉が続き、天保7年(1836)に頂点に達した。6年冬の暖冬異変が翌7年の春夏には低温・多雨にかわり、しかも稲の出穂期に大風雨、ついで大霜が襲い、諸作すべて凶作となった(北島正元「日本の歴史18」中公文庫)。

新堀用水路は、このような天保の大飢饉をきっかけに作られたとのことで、現在、一部が遊歩道として残っている小道は工事に携わった農民の労苦の跡を記憶するものである。

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荷風偏奇館に至るまで(5)

2010年03月28日 | 荷風

「断腸亭日乗」大正9年1月3日「快晴。市中電車雑踏甚しく容易に乗るべからず。歩みて芝愛宕下西洋家具店に至る。麻布の家工事竣成の暁は西洋風に生活したき計画なればなり。日本風の夜具蒲団は朝夕出し入れの際手数多く、煩累に堪えず。」

同1月8日「寒気稍寛なり。大工銀次郎を伴ひ麻布普請場に徃く。」

同3月5日「くもりし空昼頃より晴る。麻布普請場に赴く。近鄰の園梅既に開くを見る。」

同3月11日「午後麻布に行く。帰途愛宕山に登る。春日遅々。夕陽白帆に映ず。藕花の的歴たるに似たり。」

同4月13日「風あり塵烟濛々落花紛紛たり。麻布普請場よりの帰途尾張町にて小山内君に逢ふ。・・・」

同4月16日「半蔵門外西洋家具店竹工堂を訪ひ、麻布普請塲に至る。桜花落尽して新緑潮の如し。」

同5月2日「晴天。麻布普請塲に徃き有楽座楽屋に立寄り夕刻帰宅。」

年が明けると、早速、麻布の家での西洋風の生活のため西洋家具店に行っている。日本風の蒲団の出し入れは面倒だからという理由であるが、かなり合理的な考えである。しばしば市兵衛町の普請場にも行っているが、新居での生活をそのたびに想像したのであろう。

同5月23日「この日麻布に移居す。母上下女一人をつれ手つだひに来らる。麻布新築の家ペンキ塗にて一見事務所の如し。名づけて偏奇館といふ。」

5月23日市兵衛町の新居に移転した。ペンキ塗りであったことから、ペンキ館→偏奇(へんき)館と名づけた。

偏奇館は、麻布区市兵衛町一丁目6番地(goo明治地図参照)で、住友邸背後の角地崖上に、西南に向かって立っていた。

土地は九拾九坪余の借地契約で、地主は荷風が借地したときは廣部銀行の廣部清兵衛であったという。後年荷風はこの土地を坪五拾円余で買い入れた(昭和11年5月27日契約)。

そこに建つ総建坪三拾七坪の木造瓦葺二階建ペンキ塗り洋館は買い入れである。偏奇館は建て増しの厨その他の造作をなしたものである。

荷風は、偏奇館が昭和20年(1945)3月10日の空襲で焼亡する(前の記事参照)までここに約26年住むことになる。以降、「断腸亭日乗」の主要な背景となる。

永井荷風「おもかげ」(岩波文芸書 初版本 復刻シリーズ)には荷風自ら撮影した写真が24枚あるが、写真はその内の一枚で偏奇館外観である。

参考文献
「新版 断腸亭日乗 第一巻」(岩波書店)
秋庭太郎「永井荷風傳」(春陽堂書店)
川本三郎「荷風と東京『斷腸亭日乗』私註」(都市出版)

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荷風偏奇館に至るまで(4)

2010年03月27日 | 荷風

「断腸亭日乗」大正8年11月8日「麻布市兵衛町に貸地ありと聞き赴き見る。帰途我善坊に出づ。此のあたりの地勢高低常なく、岨崖の眺望恰も初冬の暮靄に包まれ意外なる佳景を示したり。西の久保八幡祠前に出でし時満月の昇るを見る。・・・」

同11月12日「重て麻布市兵衛町の貸地を検察す。帰途氷川神社の境内を歩む。岨崖の黄葉到処に好し。日暮風漸く寒し。」

同11月13日「市兵衛町崖上の地所を借る事に決す。建物会社社員永井喜平を招ぎ、其手続万事を依頼せり。来春を俟ち一廬を結びて隠棲せんと欲す。・・・」

11月8日に見た麻布市兵衛町の貸地を12日に再び見て、次の日に借りることを決めている。かなり速い決断である。これは崖上という立地条件が好ましかったからと思われるが、氷川神社の境内や我善坊など近隣の風景がよかったせいも幾分かはあるかもしれない。

一方で母との和解も急速に進んでいる。

同11月1日「(氷川神社から)夕刻家に帰るに慈君の書信あり。去年の此頃は人をも世をも恨みつくして、先人の旧居を去り寧溝壑(こうがく)に填せむことを希ひしに、いつとはなく徃時のなつかしく思い返さるる折から、慈君のたよりを得て感動する事浅からず。返書をしたため秋雨街頭のポストに投ず。終夜雨声淋鈴たり。」

母からのたよりに喜んですぐ返事を書き、10日に母が訪ねてきたので風月堂に案内して昼飯を一緒にし、次の日約束の精養軒の食パンを母に送っている。この直後上記のように市兵衛町の土地を借りる事を決めており、荷風としては狭苦しい生活を終わりにするめどがつき、母とも普通の関係に戻り、気分が晴れてきた時期であったと思われる。

同11月15日「威三郎不在と聞き、西大久保に赴き慈顔を拝す。鷲津牧師も亦来る。始て一家団欒の楽を得たり。」

鷲津牧師とは、母恆の実家、鷲津家を継いだ弟貞二郎で、キリスト教の牧師となっていた。荷風と兄弟仲はよかった。この日、荷風は一家団欒の時を楽しんだようである。

同12月8日「晴れて風暖なり。風月堂にていつもの如く晩餐をなし酔歩蹣跚(まんさん)出雲橋を渡る。名月天に在り。両岸の楼台影を倒にして水上に浮かぶ。精養軒食料品売場にて明朝の食麺麭を購ふに、焼き立とおぼしく、携ふる手を暖むる事懐炉の如し。采女橋を渡り水に沿うて歩めば月中溝渠の景いよいよ好し。波除神社の角より本願寺裏の川づたひに路地の家に帰る。明月屋根の間より斜に窗を照したり。留守中箱崎町の大工銀次郎麻布普請の絵図面を持参す。」

すべてが好転し、このようなとき、ほろ酔い機嫌で帰宅の途中焼き立ての食パンの暖かさも懐炉のようで心地よく、月夜の水路の光景も好ましく見える。しかも市兵衛町の普請の絵図面もできてきた。

話が前後するが、10月13日に姪光代から女学校の催し案内の絵葉書をもらい感動し、浅草七軒町の女学校に行き、そこで弟貞二郎、母に逢い、「感慨窮なし」。この日、心和んだせいか、家に帰ってようやく筆を持つ心になりこれを嬉しがっている。

この日のこと、11月1日の母からのたより、10日の母の訪問などの一連の出来事は母か誰かが荷風との関係正常化のため仕組んだような気がする。よく計画されているように思えるからである。荷風も久しぶりの母との対面を素直に喜んでいる。

これ以降、築地での暮らしの不満が嘘のように「日乗」から消えている。
こうして大正8年が過ぎていった。

参考文献
「新版 断腸亭日乗 第一巻」(岩波書店)
秋庭太郎「考證 永井荷風」(岩波書店)

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荷風偏奇館に至るまで(3)

2010年03月26日 | 荷風

「断腸亭日乗」大正8年3月26日「築地に蟄居してより筆意の如くならず、無聊甚し。此日糊を煮て枕屏風に鴎外先生及故人漱石翁の書簡を張りて娯しむ。」

同3月30日「築地本願寺の桜花を観る。・・・」

同4月4日「夜寒からず。漫歩佃の渡し場に至り河口の夜景を観る。」

同4月6日「日は高くして猶起出るに懶し。朝の中褥中に在りて読書す。感興年と共に衰へ、創作の意気今は全く消磨したり。読書の興も亦従つて倦みがちなり。・・・」

同5月23日「・・・。去年築地に移り住みてより筆全く動かず。悲しむべきなり。」

荷風は築地に移ってから肝心の創作意欲がまったく湧かないことを嘆いている。結局、10月13日まで筆を持つ心にならなかった。一方、近くの築地本願寺の桜や佃渡しの河口の夜景を観たりしている。その他、あちこちに散歩にでかけているようで、荷風の散歩好きはどこに住んでも変わらない。

同7月5日「雨歇みて俄に暑し。黄梅の時節既に過ぎたるが如し。近鄰いづこも洗濯にいそがはしく、水汲みては流す音止む時なく、安石鹸の悪臭あたりに漲りわたりて胸わろし。」

同8月5日「陰雲散じて快晴の天気となる。涼風秋を報ず。午後散策。山の手の電車に乗り図らず大久保旧宅のほとりを過ぐ。感慨限りなし。」

同9月16日「風雨甚し。陋屋震動して眠り難し。路地裏の侘住居にも飽き果てたり。外遊の思禁ずべからず。」

同9月22日「後の彼岸といへばわけもなく裏淋しき心地せらる。此日空好く晴れ残暑猶盛なり。裏屋根の物干よりさし込む日の光、眩しきこと夏の如し。曾て大久保の村居に在りし時、今日のやうなる残暑の昼過ぎ、鳳仙花、葉鶏頭の種を縁側に曝したりし事ども、何となく思ひ返されて悲しさ限りなし。折から窓の外に町の子の打騒ぐ声、何事かと立出でて見るに、迷犬の自働車にひかれたるを、子供等群れあつまりて撲ちさいなむなり。余は町の悪太郎と巡査の髭面とを見る時、一日も早く家を棄てて外国に徃きたしと思ふなり。」

荷風は、下町の路地裏の生活に飽きてきたらしく、厭なことがあると外国に行きたいと思った。外国への逃避願望である。一方で、余丁町での暮らしを思い出して懐かしむようになっている。そして、山の手に居を移したいと思うに至り、売家を見に芝白金三光町にでかける。

同9月23日「芝白金三光町日限地蔵尊の境内に、頃合ひの売家ありと人の来りて告げければ、午後に赴き見たり。庭の後は生垣一重にて墓地につづきたるさま、静にて趣なきにあらねど、門前貧民窟に接せし故其儘になしたり。現在の寓居はもとより一時の仮越しなれば、此の頃はほとほと四鄰の湫隘なるに堪へやらぬ心地す。軍馬の徃来大久保の如くに烈しからずして、而も樹木多き山の手に居を卜したきものなり。・・・。悔恨禁じ難しといへど又つらつら思返へせば、孤独の身の果如何ともすべからず。我が放恣の生涯も四十歳に及びて全く行詰りしが如し。・・・」

下町の陋巷へのあこがれはもはや消え果て、周りの湿気のある狭苦しさにほとほと嫌気がさした。余丁町の家を手放したことを悔やみもしたようである。再び山の手の暮らしを望むようになったが、やはり荷風は山の手むきの人だったのである。

「自分はいつまでも、いつまでも、暮行くこの深川の夕日を浴び、迷信の霊境なる本堂の石垣の下に佇んで、歌沢の端唄を聴いていたいと思った。永代橋を渡って帰って行くのが堪えられぬほど辛く思われた。いっそ、明治が生んだ江戸追慕の詩人斎藤緑雨の如く滅びてしまいたいような気がした。
 ああ、しかし、自分は遂に帰らねばなるまい。それが自分の運命だ、河を隔て堀割を越え坂を上って遠く行く、大久保の森のかげ、自分の書斎の机にはワグナアの画像の下にニイチェの詩ザラツストラの一巻が開かれたままに自分を待っている・・・・・・」

明治41年(1908)作の短篇「深川の唄」の終わりである。下町にあこがれを抱きつつ山の手に帰らざるをえない自らの境遇を描いているが、今回も形を変えて同じようなことが起きたのである。しかも下町へのあこがれは消え去って。

9月27日に高輪南町に売家を見に行き、9月29日には小石川金富町に七十坪程の売地を見に行っている。金富町は自らの生誕の地であるため心動いたようであるが、結局、10月6日に価格のことで諦めている。さらに、11月1日に赤坂氷川町の売家を見ている。このとき氷川神社の境内を通り、喬木鬱蒼とした幽邃(ゆうすい)の地であることに驚いたようである。このためか、麻布の地を気に入ったらしく、11月5日には麻布辺りを散歩している。

参考文献
「新版 断腸亭日乗 第一巻」(岩波書店)
永井荷風「すみだ川・新橋夜話 他一篇」(岩波文庫)

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荷風偏奇館に至るまで(2)

2010年03月24日 | 荷風

次に、断腸亭日乗により偏奇館に至るまでをたどる。

大正6年9月20日「昨日散歩したるが故にや今朝腹具合よろしからず。午下木挽町の陋屋に赴き大石国手の来診を待つ。そもそもこの陋屋は大石君大久保の家までは道遠く徃診しかぬることもある由につき、病勢急変の折診察を受けんが為めに借りたるなり。南鄰は区内の富豪高嶋氏の屋敷。北鄰は待合茶屋なり。大石君の忠告によれば下町に仮住居して成るべく電車に乗らずして日常の事足りるやうにしたまへとの事なり。されど予は一たび先考の旧邸をわが終焉の処にせむと思定めてよりは、また他に移居する心なく、来青閣に隠れ住みて先考遺愛の書画を友として、余生を送らむことを冀ふのみ。此夜木挽町の陋屋にて独三味線さらひ小説四五枚かきたり。深更腹痛甚しく眠られぬまま陋屋の命名を思ふ。遂に命じて無用庵となす。」

荷風は生来胃腸が弱かったようで、腹具合の悪いことがよく「日乗」にでてくる。この時期、大石医師の往診の便宜のため木挽町(こびきちょう)に家を借りた。三十間堀川の出雲橋に近い木挽町九丁目(goo明治地図参照)の路地にある格子戸づくりの二階建ての小家であった。荷風はこのとき先考(亡父)の旧邸である余丁町の邸宅に住み続けるつもりであったようである。余生云々とは37歳にしては早すぎるが、腹痛で気弱になったためかもしれない。しかし、本人は案外本気だったような気もする。

大正7年8月8日「筆持つに懶し。屋後の土蔵を掃除す。貴重なる家具什器は既に母上大方西大久保なる威三郎方に運去られし後なれば、残りたるはがらくた道具のみならむと日頃思ひたりしに、此日土蔵の床の揚板をはがし見るに、床下の殊更に奥深き片隅に炭俵屑籠などに包みたるものあまたあり。開き見れば先考の徃年上海より携え帰られし陶器文房具の類なり。之に依つて窃に思見れば、母上は先人遺愛の物器を余に与ることを快しとせず、この床下に隠し置かれしものなるべし。果して然らば余は最早やこの旧宅を守るべき必要もなし。再び築地か浅草か、いづこにてもよし、親類縁者の人々に顔を見られぬ陋巷に引移るにしかず。嗚呼余は幾たびか此の旧宅をわが終焉の地と思定めしかど、遂に長く留まること能はず。悲しむべきことなり。」

亡父が上海から持ち帰った陶器文房具の類が土蔵の床下から見つかったが、これにより荷風は母に対し疑念を持ってしまう。しかし、その程度のことで母を疑いさらには陋巷へと移ろうとするのもなにか変である。この時分、母恆が余丁町の家から西大久保の三男威三郎宅に移っていたことと関係するのかもしれない。荷風は八重次のことなどもあって母としっくりいっていなかった感じがする。また、7月3日の「日乗」に母が来て永井家に長くいた老媼しんを連れて行ったため炊事に不便を来たしたと不満を述べているが、このことも関係しているかもしれない。

しかし、どんな理由にせよ、決心は変わらないようで、10月19日に呉服橋外建物会社に行き社員永井喜平に面会して売宅のことを依頼し、11月12日に戸川秋骨の紹介で吉井俊三(俊二が正しいとのこと)が訪れ、吉井俊二に売宅することを決めた。

その後、蔵書、書冊書画、家具什器などを売り払い、売宅などと築地引越先家屋の買入などとの収支決算が12月5日の「日乗」にある。差引残金弐万参千参百〇四円弐拾弐銭(23,304円22銭)也。

12月9日荷風は見返りながら余丁町の旧邸を出たが、築地二丁目に買い入れた家が明け渡しに至らず、近くの旅館に投宿した。

12月22日京橋区築地二丁目30番地の家がようやく空いたので家具などを運び入れた。

ここは、goo明治地図を見ると、西本願寺の東北側隣りで、近くに築地郵便局が見える。現在の築地本願寺隣りの築地三丁目の辺りである。

荷風はお妾横町・お妾新道といわれた所の新居で大正8年(1919)の正月を迎えた。

参考文献
「新版 断腸亭日乗 第一巻」(岩波書店)
秋庭太郎「考證 永井荷風」(岩波書店)
同「新考 永井荷風」(春陽堂書店)

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荷風偏奇館に至るまで(1)

2010年03月22日 | 荷風

永井荷風が麻布市兵衛町の偏奇館に至るまでの居所の変遷を簡単にたどってみる。

生家は小石川区金富町45番地。現文京区春日二丁目20番25号あたり。安藤坂金剛寺坂との中間に位置する。荷風、本名壯吉はここで明治12年(1879)12月3日に生まれた。

父久一郎は明治8,9年ころ旧幕の御家人旗本の空屋敷を三軒ほど買い、古びた庭や二つもの古井戸や木立をそのままに広い邸宅とした。小日向水道町に水道の水が露草の間を野川のように流れていた時分であるという。邸内の古井戸などのことは荷風の少年時代の回想記である「狐」(明治42年)に詳しい。

明治26年11月麹町区飯田町三丁目黐ノ樹(もちのき)坂下に移転。黐ノ樹坂は別名冬青木坂で、九段坂の北側に位置する。

明治27年10月麹町区一番町42番地に移転。二松学舎の裏側。借家であったが、銀杏の老樹が茂る宏壮な屋敷であったという。

明治35年(1902)5月牛込区大久保余丁町79番地に移転。現新宿区余丁町14番地。

久一郎は千数百坪の地所に二階建の式臺附玄関のある大きな屋敷を買い入れた。余丁町表通りに面し、横町のある角地、黒門と黒塀に沿って杉、枳殻(からたち)が植えられ、樹木茂る邸内には東屋やテニスコートがあり、その冬景色も見事であったという。この邸宅を来青閣、その書斎を小丁香館と呼んだ。久一郎は禾原(かげん)と号し、来青は禾原の別号であった。

荷風はこの間、明治36年(1903)9月から明治41年(1908)7月までアメリカとフランスに。

大正2年(1913)1月久一郎急逝。荷風は2月に、前年9月に結婚した妻ヨネとはやくも離婚した。

荷風が家督を相続した。

大正3年(1914)8月荷風はかねてから交情のあった狎妓八重次と再婚したが、翌年2月離婚。このことから荷風は母や弟(威三郎)の手前もあって、余丁町の家から大正4年(1915)5月中旬京橋区築地一丁目6番地に移転した。次の年正月に浅草旅籠町一丁目13番地の通称代地河岸の小意気な小家を借りて転宅した。

大正5年(1916)3月末に余丁町邸内に離れを新築しこれを斷膓亭(断腸亭)と名づけた。荷風は斷膓花(秋海棠)をもっとも好んだという。5月はじめに代地河岸の住居を引き払って余丁町に還り、斷膓亭に起居するようになった。

大正6年(1917)9月16日に中断していた日記をつけ始めた。これが「断腸亭日乗」である。荷風37歳。以降、昭和34年(1959)4月29日の死の前日まで続いた。

以上が荷風が偏奇館に至るまでのいわば前史である。

参考文献
秋庭太郎「考證 永井荷風」(岩波書店)
同「新考 永井荷風」(春陽堂書店)

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貫井神社~念仏坂

2010年03月20日 | 散策

貫井神社は地元の鎮守で創建が天正15年(1590)。水神である弁財天を祀ったのが始まりで貫井弁天とも呼ばれる。

神社に入るとかなり大きな池がある。

この池もハケからの湧水を水源とする。かなりの湧水量である。この池からも野川に流れ込んでいるのであろう。

むかしはもっと湧水量があったらしく、水神(弁財天)として祀られたことも頷ける。

地図をみると、国分寺のお鷹の道・真姿の池の近くにも弁財天があり、湧水が水神として人々に信仰されたことがわかる。

国分寺崖線に沿って深大寺や等々力不動尊などがあるが、いずれも豊かな湧水があったため修行者の滝行が行われたという。

ハケの湧水が信仰の対象や滝行地となったことがわかる。

神社から東側に進む。この道はハケ下で立川段丘面である。

しばらく歩き、新小金井街道の下を通り抜け、信号を左折すると平代(へいだい)坂の坂下である。

くらぼね坂と同じくまっすぐに長く延びている。

平代坂は上小金井村名主梶平代夫(かじへいだゆう)の名にちなむ(遺跡の説明板)。

標柱の説明では梶平太夫。別名へいでい坂。

坂途中の平代坂遺跡の説明板によると、この遺跡は平代坂の両側の武蔵野段丘上にある。昭和46年の発掘調査で先土器時代・縄文時代・中世の遺構・遺物が出土したとのこと。

縄文時代の遺跡としては中期(約4500年前)の住居址二軒が発見されているとのことである。

これらの遺跡は古代多摩川やハケの湧水と関係するのであろうか。

坂上を右折し、先ほど滄浪泉園へと通った道を反対の東側に進む。

少し歩き右折し、南側に進むと、念仏坂の坂上にでる。

念仏坂は上側が階段で、下側で薬師通りにつながっている。

坂名の由来ははっきりしないが、坂東側の旧家鈴木家の墓があったことにちなむという。 

薬師通りを東側に進み、小金井街道の下を通り抜けてから街道に上がると、前原坂の坂下に近いところにでる。前原坂はかなり長いことがわかる。

坂を上るが、やがて右側に先ほどの妙貫坂が見えてくる。坂上の交差点を直進し武蔵小金井駅に戻る。

今回は、前原坂の途中にある妙貫坂に行き、国分寺崖線の上(ハケ上)から滄浪泉園を訪れ、くらぼね坂を下り、ハケ下を戻り、貫井神社、平代坂、念仏坂に行ったが、これらの坂はすべて国分寺崖線に位置し、ハケ上とハケ下とを結ぶものである。

前原坂上の交差点近くから薬師通りに下る質屋坂と、妙貫坂の東側に位置する自伝坊坂に行けなかった。また、なそり坂、大さか坂、中念坂というのがまだある。

この坂巡りは、国分寺崖線に位置する坂ということで、世田谷の坂巡り(1)(2)に関連する(前の記事参照)が、時間的にはこの方が先である。

国分寺崖線に位置する坂と湧水はまだあるようである。またの機会にしたい。

参考文献
村弘毅「東京湧水せせらぎ散歩」(丸善)
岡崎清記「今昔東京の坂」(日本交通公社) 

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滄浪泉園~くらぼね坂

2010年03月18日 | 散策

前回の記事の黒井千次「たまらん坂 武蔵野短篇集」に「そうろう泉園」という短篇があったことから昨年10月に行った滄浪(そうろう)泉園やその近くの坂を思い出しながらの散策記です。

武蔵小金井駅から小金井街道を南側に進むと、前原坂上の交差点に至る。

この交差点を直進するとまもなく左側に下る石段坂がある。妙貫坂である。

小金井街道のちょうど脇にあり、前原坂の下りと同じ方向に急に下る坂である。

標柱の説明によると、急な坂の東側に墓地があり、その南側に明治中ごろから大正の初めごろまで「妙観(貫)」といわれる僧が「庵」を造り住んでいたので、妙貫坂と呼ばれるようになったとのこと。

はけ上の農家が野川沿いの田圃へ通うために開いたという(岡崎清記「今昔東京の坂」)。

小金井街道よりもこの坂の方が薬師通りなどのはけ下方面への近道のようである。

前原坂上の交差点に戻り、左折し西側に向かう。

小金井工業高校を過ぎてから左折すると、滄浪泉園の入口がある。

滄浪泉園は、明治・大正期に三井銀行等の役員、 外交官、衆議院議員など歴任した波多野承五郎の別荘であり、その名は、大正8年、この庭園を訪れた犬養毅元首相によって名づけられたとのこと。

「手や足を洗い、口をそそぎ、俗塵に汚れた心を洗い清める、清々と豊かな水の湧き出る泉のある庭」の意味らしい。

入口前にある石の門標の文字は、犬養の筆による。

滄浪泉園は傾斜地にあり、中に入ると遊歩道が下りになっている。この傾斜地が国分寺崖線に位置する。

説明板によると、滄浪泉園は、武蔵野台地から沖積層低地に移るところに位置しており、この傾斜地は古代多摩川が南に移っていった途中作った古い段丘の一つで、これが国分寺崖線である。

段丘崖下の窪みから水が湧き出しており、このような地形がハケである。

小道を下ると、鬱蒼とした森の中に池があり、滄浪泉園の中心となっている。

園内の何カ所かある湧水を水源とする。ここから野川に流れ込んでいるとのこと。

園内には、馬頭観音、おだんご地蔵、鼻欠け地蔵尊などが所々に位置しており、始めからあったものではなさそうであるが、むかしの面影を残すものとなっている。

滄浪泉園をでてさらに西側に進む。 新小金井街道を横断ししばらく歩くと、東京経済大学の東端に至る。くらぼね坂の坂上である。

左折すると坂の標柱が建っていて、南側にまっすぐに下っている。 ここも国分寺崖線に位置するのであろう。

くらぼねとはおもしろい坂名である。

標柱の説明にはこうある。

 『今の貫井北町や小平、国分寺方面から府中方面に行くこの道は、急坂の東が切り立つような赤土の崖で、雨の降る時などは人も馬も滑って歩くことができなかったといわれる。鞍(くら)(馬)でも骨を折るとか、「くらぼね」は断崖の連続した段丘崖を意味するともいわれ、諸説がある。』

もし坂名が鞍(馬)でも骨を折るからついたとすると、坂がいかに通るのに大変であったかを示し、国立と国分寺との境のたまらん坂ほど直接的ではないが、坂を通る人々の難儀さをあらわす名である。

まっすくに長いが、坂下側で少し曲がっている。

坂下右側に大学構内が見えるが、緑の濃い公園となっており、湧水がありそうである。このときは構内まで行くことができなかったが、湧水自然水のガイド本に、湧水を集めた「新次郎池」というのが紹介されている。

坂下で左折し、こんどは戻るようにして東側に進む。やがて貫井神社に至る。(続く)

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国立駅~たまらん坂

2010年03月16日 | 散策

 
以前(2008年11月)にでかけた国立駅からたまらん坂までの散策記です。

国立駅南口にでると、駅前から大学通りがまっすぐ広く延びている。

黄色くなったイチョウがきれいである。

街路樹となって通りに沿って並んでいる様が秋らしさを感じさせる。

イチョウの黄色がよくにあう風景はこの季節ならではのものである。

遅めの出発だったので日がだいぶ傾いてきている。すっかり晩秋の風景となっている。

国立は、昭和初期、国分寺と立川との間に箱根土地株式会社の堤康次郎による大学都市構想に基づいてつくられた街である。その中心として、神田一ツ橋にあった東京商科大学(現一橋大学)が誘致され移転してきた。 

通りを進んで一橋大学の構内に入ると、ここもイチョウが黄色くなっており、芝生が落ち葉でいっぱいである。

イチョウの黄色が日の傾きかけた光線とよくあう感じがした。

しばらく中を見学してから通りに戻り、横断歩道を渡る。駅側に戻り旭通りにでればよいが、そうせずさらに進み適当なところで左折し、東側に向かう。

なにもなかった原っぱからつくった街であるので、大通りから入った道もまっすぐに延びている。静かな住宅街が続く。

黒井千次に「たまらん坂 武蔵野短篇集」という小説集がある。

黒井千次は昭和7年(1932)5月現杉並区高円寺に生まれた。父の転勤があったが、5歳以後現在までの大半を、中野・小金井・府中など、東京西部のJR中央線沿線で過ごす(講談社文芸文庫「年譜」)。

この小説集は、それぞれ独立した、武蔵野のたまらん坂・おたかの道・せんげん山・そうろう泉園・のびどめ用水・けやき通り・たかはた不動を背景にした中年男性の物語である。

たまらん坂は以前これを読んでから訪れてみたいと思っていた坂である。 このたまらん坂を目指す。

なんどか曲がってラクビー場の脇などを通って坂下についた。

坂下の交差点が国立市と国分寺市との境であり、坂は国分寺市、坂上の先で府中市になる。

勾配は中程度であるが、比較的長いので、毎日の上下となるときついかもしれない。

国立と国分寺、府中とを結ぶ街道であるからなのか、車がひっきりなしに通るためシャッターチャンスをなんどか待った覚えがある。車が続いている坂道の写真はやはり感じがでないからである。

「たまらん坂」は坂名の由来をめぐっての物語である。

多摩蘭坂の坂上に家のある主人公は、この坂名についてかねてから疑念を持っていた。

「たまらん坂」、いや「堪らん坂」ではないか。

「多摩蘭」などと呼ばれる蘭の種類など聞いたことがないし、わざとらしい名前に思えてくる。

坂上のバス停は「多摩蘭坂」である。地図のバス停もそうなっている。

(ちなみに、石川悌二「江戸東京坂道辞典」、岡崎清記「今昔東京の坂」はどちらも多摩蘭坂としている。)

そんなおり、たまたま息子がRCサクセションのレコードをかけ、始めは拒否反応だったが、『三曲目は慎しやかなギターの伴奏に導かれてすぐ歌詞が現れた。スローテンポの、言葉を引き伸ばした上で切り離し、一つ一つ眼の前に貼りつけていくような歌い方だった。』

そして、その曲の途中に、「多摩蘭坂」がでてきて、息子に曲名を聞き、歌詞をかりる。

しかし、曲のタイトルは『多摩蘭坂』であり「たまらん坂」でないのでがっかりしてしまう。でも、多摩の蘭ではなく、やはり、堪らない坂である、と思う。

RCサクセション 多摩蘭坂の入ったアルバム「BLUE」がリリースされたのが1981年11月で、作者がこの小説を発表したのが「海」1982年7月号であるから、でてまもないアルバムでこの歌を聴いたのであろうか。作者は「多摩蘭坂」の曲をかなり気に入ったように思える。

主人公は、RCサクセションの忌野清志郎か誰かがこの曲について雑誌かなにかに書き、それにあったという「落武者伝説」を息子から聞き、それに興味を覚える。

そのむかし近くで戦があったとき落武者がこの坂を、たまらん、たまらん、といいながら登って逃げたことから坂の名前がついたというのである。

やっぱりそうか、多摩の蘭なんか嘘っぱちじゃないか。

『『多摩蘭坂』はいい歌だよ。』

『息子の方により近い歳頃の若者が、あの坂の歌を作っているのが理由もわからずに嬉しかった。』

坂名の由来について調べ始めるが、調べてもそのような故事はみつからず、かえって、この坂は昭和6年に林の小道を切り開いてつくったという地名事典の説明にでくわしてしまう。

結末は読んでのお楽しみであるが、坂下にある標柱は次のように説明している。

 『この坂は、国立から国分寺に通ずる街道途中の国分寺市境にあたります。大正時代国立の学園都市開発の際、国立と国分寺をつなぐ道路をつくるために、段丘を切り開いてできた坂です。諸説もありますが、一橋大学の学生が「たまらん、たまらん」といって上ったとか、大八車やリヤカーをひく人が、「こんな坂いやだ、たまらん」といったことからこの名がついたと言われています。当字で「多摩蘭坂」とも書きます。』

標柱の手前に国立駅と国分寺駅の方向を示す標識であった石柱が建っており、「昭和四年十二月 国分寺村青年団」とある。

忌野清志郎はかつて、「多摩蘭坂」の曲にあるように『多摩蘭坂を登り切る手前の坂の途中の家』に住んだことがあり、これからこの曲ができた。2009年5月に亡くなったが、惜しむファンはたまらん坂を訪れて献花などをし、たまらん坂は、RCファン、忌野ファンの聖地(の一つ)となっているという。

坂下から道を進み、こんどは旭通りを通って駅に戻るとすっかり日が暮れていた。

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桃園川緑道

2010年03月15日 | 散策

以前(2008年10月)にでかけた桃園川緑道の散策記です。                   

阿佐ヶ谷駅からでて中杉通りを横断し、三菱東京UFJ銀行のわきの道に入り、商店街を進む。

けやき公園の先で中央線の高架下をくぐると、その先に桃園川緑道の出発・到着地点のつもりか、緑のゲートがある。 

ゲートのわきに、桃園川緑道 杉並区と刻んだ大きな石が置いてあり、その上にカエルの人形がたくさん並んでいる。

ここから緑道が遊歩道となって延びている。

中央線と青梅街道との間を杉並区から東側に中野区へと延びて神田川まで続いている。

途中、高円寺のパル商店街、環七通り、大久保通り、山手通りなどを横切って、神田川の末広橋(中野区東中野一丁目1番の地先)の付近に至る。

桃園川は天沼弁天池と呼ばれた湧水池(天沼三丁目十七番)を水源とした。

弁天池は現在、杉並区立天沼弁天池公園となっている。

この緑道散策よりも前にこの弁天池公園に行ったことがあったが、小さな池があった。これはむかしの弁天池ではないらしい。水が流れ込んでいたが、自然水ガイド本にもなく、湧水ではなさそうである。近くには弁天様を祀る小さな祠があり、よく手入れされていた。

桃園川は天沼弁天池の湧水量がわずかなため旧千川上水を練馬区関町から分水したが、これでも田植えのとき流域の馬橋、高円寺、中野周辺で水が不足したので、天保12年(1841)善福寺川から引水する新堀用水路がつくられたとのこと。

この新堀水路の跡らしい遊歩道が阿佐ヶ谷南一丁目から高円寺南三丁目へと桃園川緑道の近くまで続いているようである。

10月であったのでコスモスが咲いていた。コスモスはちょうどこの季節の花である。

緑道の名のとおり植え込みなどによる緑が多い。

緑道のよい点は、車が通らないことは当然であるが、花や緑が多いことである。この点、この緑道は、沿道の人々の協力もあるのだろうか、花や緑が多く、よい散歩道となっている。

緑道は通勤、通学や日常生活の通り道にもよくあい、むかしの川の跡の有効利用になっている。こういった散歩道のある地域はよい街となっていると思う。

出発の緑のゲートから高円寺のパル商店街までの間には、親子亀や河童などの置物がたくさんあってなかなか楽しい遊歩道にもなっている。

この商店街は高円寺駅から新高円寺駅の近くの青梅街道まで延びている。

ここにはよい古本屋もあることから、ときどき散歩にくるが、そのとき、この緑道を一部通ることがある。全体を歩き通すのはこれが始めてである。

 『江戸名所図会』に「享保の頃この辺の田畝に悉く桃樹を栽ゑしめ給ひ、その頃台命によりてこの地を桃園と呼ばせ給ひしといへり。」とある。すなわち、享保20年(1735)八代将軍吉宗この地に鷹狩りの折、犬小屋御囲跡地(桃園町北隣の囲町に元禄八年(1695)犬小屋設置。宝永6年(1709)取り払い)の辺りを桃園にした。

この桃園の地名がもとで昭和5年(1930)に中野区桃園町となった。現在の中野三丁目の辺りである。近くに桃園三小などがある。この地名から昭和初期以降、桃園川と呼ばれるようになった。中野川とも。

桃園川はよく氾濫したらしく昭和35年(1960)からの河川改修工事で暗渠化された。

桃園川緑道はまっすぐに延びていて、以前歩いた井草川緑道とはかなり違う。

井草川緑道はゆるやかにカーブしているところが多かったが、桃園川緑道は中野駅の南側の大久保通りと交差する辺り(桃園三小の北側)で大きく曲がっている以外は、さほどカーブせずに続いている。

むかしは蛇行していたが、大正14年(1925)からの土地区画整理でまっすぐに改修されたとのことである。

中野区に入ってしばらくすると、ちょっとした公園が道そばにあり、一休みにちょうどよい(宮前公園)。

山手通りを越えると、ゆるやかに下る階段があり、進むと、小さな公園がある。その先が神田川である。桃園川はこの近くで神田川に注いでいた。

この小公園の一角にフォークソング「神田川」の詩碑が建っている。

近くの末広橋に行くと神田川の上流側に新宿の高層ビル群が見える。

「神田川」の曲はこの辺りの情景からできたと想像されるが、実際の歌の舞台はもっと下流であるとのこと(Wikipedia)。いずれにしてもその当時(昭和40年代)はいまとかなり違った風景だったのであろう。

ところで、桃園川緑道は阿佐ヶ谷駅近くの緑のゲートから出発したが、その出発点と水源の弁天池との間はどうなっているのかと、地図を見ると、中杉通りから天沼一丁目付近までの間に残っているようであるが、緑道ではなさそうである。

参考文献
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)

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長崎誠三「戦災の跡をたずねて」

2010年03月12日 | 読書

「戦災の跡をたずねて」(アグネ技術センター)は、副題を-東京を歩く-とし、東京の『戦災の跡』を紹介するが、哀しみをともなうガイド本である。筆者自身の痛恨の戦災体験をもとに本書ができたからである。

東京は、第二次世界大戦中に米軍により昭和19年(1944)11月24日のマリアナ基地からの初空襲以降百回以上の空爆を受けたが、特に以下のように昭和20年3月10日、4月13日、4月15日、5月25日に大規模な空襲を受けた。

3月10日には0時7分深川地区への空爆から始まり、その後、城東地区にも爆撃が開始された。0時20分には浅草地区や芝地区(現・港区)にも爆撃が開始された。死亡・行方不明者は10万人以上といわれ、一回の空襲で東京市街地の東半分、東京35区の3分の1以上の面積(約41km²)が焼失した。

4月13日には王子・赤羽地区を中心とした城北地域が、15日には大森・蒲田地区を中心とした城南地域が空襲・機銃掃射を受け死傷者4千人以上、約22万戸もの家屋が焼失した。さらに5月25日には、それまで空襲を受けていなかった山の手に470機ものB29が来襲した。これにより死傷者は7千人以上、被害家屋は約22万戸と3月10日に次ぐ被害となった。(Wikipedia)

筆者の自宅は、旧牛込区と淀橋区の境、淀橋側に50mほど入ったところ(現新宿七丁目)にあったが、4月13日深夜投下された焼夷弾により焼き尽くされた。

20年間東京の戦災遺跡を求めてカメラに収めたとのことで、それが本書となった。

永井荷風は大正9年(1920)5月麻布市兵衛町の洋館に居を構え、これを偏奇館と称したが、偏奇館は3月10日の大空襲で焼亡した。このことも本書で紹介されている。

断腸亭日乗3月9日「天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、・・・麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くがきり眺め飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ、・・・近づきて家屋の焼倒るるを見定ること能はず、唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ、是偏奇館楼上少からぬ蔵書の一時に燃るがためと知られたり、・・・」

荷風はいったん避難した後、戻ってきて偏奇館から上る火炎を見たようである。荷風は事実を客観的に語っているが、二十六年住み馴れた家と多くの蔵書を失った痛恨の一大事であった。これは筆者の想いにつながる。

荷風はこの後代々木の杵屋五叟宅で避難生活を送るが、同じく4月13日「晴天、夜十時過空襲あり、爆音砲声轟然たり、人皆戸外に出づ、路傍に立ちて四方の空を仰ぎ見るに省線代々木駅の西南方に当り火焔天を焦す、明治神宮社殿炎上中なりと云、又新宿大久保角筈の辺一帯火焔の上るを見る、・・・」このとき大久保にあった著者の家も炎上したのであろうか。

本書に紹介されている戦災の跡は、イチョウなどの樹木と、石垣、石碑、石像、石灯籠、敷石、墓石などの石に残っているものが多い。本書で、戦災を受けた地域の大木、神社、寺には焼かれた跡が残っている可能性があることを知った。

イチョウは火災に強く、防火樹としても植えられたらしい。イチョウの大木で木肌や中心部が焼かれても元気な姿で残っているものがあるという。1月に麻布山善福寺に行き、戦災にあった善福寺公孫樹も見たが、焼かれた跡には気がつかなかった。昭和20年5月25日の空襲によるものらしい。

各地の戦災の跡は、本書で紹介されてからも、すでに10年以上たっている。どれだけの跡がいまなお残っているであろうか。重い記録であるが、街歩きの度に思い出さざるを得ないであろう。

本書の付録として東京空襲記録や全国主要都市の戦災一覧などがのっているが、米軍は広島・長崎への原爆投下を含め空襲による攻撃を繰り返し無差別に行ったことがわかる。本書で紹介の戦災の跡はその爪痕を何十年後にもなお残している。酷い記憶はいつまでも消え去ることがないかのように。しかし、人々の記憶はやがて消滅してしまう。戦災の跡もやがて消え去るかもしない。そうした中で本書はガイド本というよりも戦争を記憶する貴重な記録というべきかもしれない。

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廣田稔明「東京の自然水124」

2010年03月11日 | 読書

東京の『自然水』のガイド本である。紹介の自然水は前回の「東京湧水せせらぎ散歩」の湧水と共通するが、この「東京の自然水124」(けやき出版)の方が多い。

紹介されている多くの都内の湧水のうち、特に印象に残ったのが小日向の今宮神社付近の石垣と元麻布のがま池である。

今宮神社付近の石垣の湧水は道そばであるが、以前はかなり水量があったという。今宮神社を訪れたとき気がつかなかった。そういえば、鷺坂を下り右折し神社に向かった通りの右側が石垣であったが、そこかもしれない。

元麻布のがま池は意外なところにある。涸れないから湧水があるのであろう。

左は1月に撮ったがま池の写真である。

がま池は本村町の高台の窪地で江戸時代五千石の旗本山崎主税助治正の屋敷があったところである(小沢信男、冨田均「東京の池」)。goo地図の江戸切絵図を見ると、池は示されていないが、山崎主税助の屋敷がある。

復刻版「戦前昭和東京散歩」(人文社)では、かなり大きく示されており、現在よりも相当広かったと思われる。この戦前の地図を見ると、蟇(がま)池には橋があり、周囲には道が一周し、階段も見え、散歩に適していたようにも思えるがどうだったのであろうか。また、近くの麻布中學との間に小さな池がある。この一帯には他にも湧水があったのであろう。

がま池は中沢新一「アースダイバー」で知った。「その都心部に涌き出してくる温泉や湧水池などは、そういう大地が空中に向かって吐息を吐く、大事な呼吸口なのだ。」と中沢はいう。確かに呼吸口は大切である。

麻布山善福寺に至る道の途中にある柳の井戸も紹介されている。

左は1月に撮った写真である。水が溜まっているのでわずかにでも湧き出るのであろう。

正面の説明板には、大正12年(1923)の関東大震災や昭和20年(1945)の空襲による大火災のとき、この良質な水が多くの人の困苦を救ったとある。

本書は飲み水の基本は自然水であるとし、自然水を新鮮な順から並べると、雨水、湧水、地下水、地上水(河川水)、池水(湖沼水)。自然水の選び方は、流れている水、空中水とするが、要するに、流れ落ちる水である。

水汲みの人気スポットであるところはその旨紹介されているが、いずれも郊外である。いつか出かけて、子供の頃ごくりと飲んだ冷たい清水でのどを潤してみたい。

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村弘毅「東京湧水せせらぎ散歩」

2010年03月10日 | 読書

東京の『湧水』のガイド本である。
善福寺川の湧水は、この「東京湧水せせらぎ散歩」(丸善)と、廣田稔明「東京の自然水124」(けやき出版)で知った。いずれも写真主体であるため眺めるだけでも楽しめる。湧水の位置もわかりやすく紹介されている。

 「東京湧水せせらぎ散歩」には、国分寺崖線の湧水がお鷹の道・真姿の池から等々力渓谷まで19カ所紹介されている。

武蔵野台地で多摩川により形成された河岸段丘の低位面を立川段丘・立川面、高位面を武蔵野段丘・武蔵野面とよび、立川面と武蔵野面とを分けるのが国分寺崖線(こくぶんじがいせん)である。これを武蔵野の方言で「ハケ」とか「ママ」などとよぶ。(Wikipedia)

1月の世田谷の坂巡りと関連するが、国分寺崖線の湧水の19カ所の内、成城三丁目緑地は世田谷通りを砧小の方からきて砧中学で右折して上った病院坂付近の緑地で崖からの湧水があり、大蔵三丁目公園は千川に沿った歩道わきにあった公園である。

世田谷区国分寺崖線発見マップを見ると、国分寺崖線のおおよその位置がわかり、世田谷の多摩川に近い坂はほとんど国分寺崖線にあるものと思われる。昨年12月の坂巡りと上記の1月とをあわせて国分寺崖線に沿って歩いたことになる。なるほど長いはずである。改めて地図をみると、喜多見の不動坂から先にも行ってみたくなってしまう。

本書によれば、東京の湧水は700を越えるが、その数字も湧水量も年々減少傾向にあるという。緑地面積と樹木の増加による雨水の保水および雨水の浸透による水源涵養の必要性が強調されている。

ところで、わざわざ善福寺川の湧水を見に行ったようにわたし自身がなぜ湧水にこだわるのか考えていたら、むかしの記憶が突然よみがえった。わたしは山と川の田舎で生まれ育ったが、子供のころ山などで遊んでのどが渇いたとき、よく湧水(清水とよんでいた)でうるおした。このような経験は誰にでもあると思う。そのような清水をいまでも二カ所思い出すことができる。斜面や崖にあった。冷たい清水をごくりと飲んで渇きをいやしたおさないころの記憶が湧水へと本能的に向かわせるのかもしれない。そうだとしたら何十年後にも影響を及ぼす水の記憶とはげにおそろしいものである。

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中村みつを「お江戸超低山さんぽ」

2010年03月09日 | 読書

東京の『山』というと、最高峰雲取山や高尾山や奥多摩の山を思い浮かべてしまうが、「お江戸超低山さんぽ」(書肆侃侃房)が紹介するのは、そういった山ではなく、東京23区内の山である。「超低山」のタイトルがおかしく、これにひかれて思わず買ってしまった。著者はイラストレーターで、山の案内図がよいため登ってみたくなる。

十一峰が紹介されているが、最高峰は戸山公園にある箱根山である。標高44.6m。最低山は品川富士で標高約6m。ただし、登り口の標高との関係で実感的高さは単純に標高に比例しないかもしれない。

西郷山は、目黒の西郷山公園で、西郷隆盛の弟で海軍大臣も務めた西郷従道の別邸があったことに由来する。従道は兄を招くためこの地を得て庭園と邸宅を構えたとのことだが、隆盛は西南戦争で敗れ訪れることはなかった。旧山手通り方面から行けば、登るようなピークはなくほぼ平坦であるが、目黒川方面から行けば、坂道でなく「山道」を登らなければならず、なるほど山である。なお、坂は上るでよいが、山はやはり登るである。ここは西側の眺望がよい。夕焼けを見てみたいところである。

道灌山近くの富士見坂もあるが、ここも日暮里駅から諏訪台通りを通って行けば、そのまま坂上に至るので、山という感じはしない。したがって、坂下からか、西日暮里駅から行かないと山の実感はない。この坂でいつかのんびり遠方を眺めていたら、突然車が坂を上ってきたのにはびっくりした。ここは車道である。坂上からさらに進み諏方神社に入ると、右手に展望のよいところがある。東側の眺望がよく、眼下に山手線などの電車が通る。ここから西日暮里駅方面に下る坂が地蔵坂(階段)である。近くの浄光寺の地蔵尊から名がついた。

千駄ヶ谷富士と品川富士はいわゆる富士塚である。江戸時代に富士山信仰がさかんになり、富士講をつくって富士山に登ったが、登れない人のためにつくられたのが人造富士、富士塚である。本書によると、都内に残っている50ほどの富士塚の内、千駄ヶ谷富士が最も富士の姿をとどめているとのこと。千駄ヶ谷の将棋会館近くの鳩森八幡神社内にある。坂巡りの途中立ち寄り登った記憶がある。品川富士は第1京浜そばの品川神社にある。かつて北品川を訪れたとき御殿山方面に進みここには行けなかった。

紹介の中で知らない山があった。池田山(標高29m)。東五反田五丁目にあり、備前岡山藩主池田家の下屋敷の一部が池田山公園となったとのこと。超低山といえども、山であるから、登山口から登りに行きたい。いきなり頂上では興ざめである。アプローチの仕方が問題のようである。

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松本泰生「東京の階段」

2010年03月08日 | 読書

東京のガイド本はたくさんでているが、地域ごとに名所・名跡などを網羅的に案内するものが伝統的に多いようである。他方、特定の分野にこだわったガイド本もあり、なかなかユニークなものも多い。このような中で知っているものを私的体験を交えて紹介する。

まず、『坂』に関しては、山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)が
以前の記事のように坂巡りの必携本である。

『階段』という意外な分野があることを、松本泰生「東京の階段」(日本文芸社)で知った。副題が、都市の「異空間」の楽しみ方、となっている。

階段は、坂の親戚、変形バージョンみたいなものであるが、この本を書店で見たとき、その発想がおもしろいと思った。階段でこれだけまとめたものはこれしかないような気がする。

坂が階段になっているものも多い。この本は写真がカラーで大きいので、めくりながら、かつて訪ねた坂名のついた階段を思い出した。

飯倉の雁木坂、我善坊谷の三念坂(三年坂)、赤坂の丹後坂、市谷柳町の宝竜寺坂、抜弁天近くの梯子坂、西片の曙坂、茗荷谷の庚申坂、関口の胸突坂、目白台の日無坂、西日暮里の地蔵坂、湯島の実盛坂、関口台の七丁目坂、市谷仲之町の念仏坂、音羽の鼠坂、本郷の炭団坂、田端の不動坂、目黒の別所坂(最上部のみ階段)、谷中銀座の夕やけだんだん、市谷の浄瑠璃坂近くの芥坂など。いずれもよい坂である。

小日向の八幡坂、目白台の小布施坂、牛込神楽坂の袖摺坂、本郷一丁目の新坂などがないようで、坂好みからするとちょっと残念であるが、坂名の有無に関わらず魅力ある階段を多く紹介する目的から仕方がないのであろう。

名のない階段の内で、市谷柳町の試衛館跡の階段、念仏坂の反対側の市谷台町から下る階段、本郷の菊坂わきの階段、荒木町の階段などを坂巡りの途中で通って覚えているものの、知らないところがほとんどである。

坂の中でわたしの体験上こころひかれるのは、車が通らないような狭く細い坂で、むかしながらの雰囲気をわずかにでも残したところである。高輪の洞坂、偏奇館跡近くの道源寺坂・我善坊谷坂、狸穴の鼠坂、小日向の鷺坂などである。上記の坂名のある階段もこれと同じ特徴があるものが多く、同じようにこころひかれる。行ったことのない階段にもそのような雰囲気のあるところが多いに違いない。本書の写真の効果であろうか、興味をそそられて訪れてみたい名のない階段が多く、これから街歩きの楽しみの一つになりそうな予感がする。

なくなった階段として荷風の偏奇館跡そばの階段が紹介されているが、これが
消失前の偏奇館跡を知らない者にとってはもっともよかった。三枚の写真が載っているが、階段が古びていて寂れた感じでむかしの雰囲気がよくあらわれた貴重なものである。この写真の風景を見ていると、消失の事実を知ったときの以前の感情がふたたび湧いてくるようである。

ところで、この階段と消失前の偏奇館跡との位置関係がよくわからない。筆者の松本氏が管理する
Site Y.M.建築・都市徘徊に同じ写真とともに六本木1丁目地区の鳥瞰CGがのっているが、これによれば、階段は全体としてほぼ北向きに上下し、この階段の少し南に偏奇館跡があったとある。しかし、どの辺から下る階段なのか、いつ頃できたのか不明である。手持ちの資料だけではわからなかった。いずれまた調べてみたい。

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