東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

狸坂~狐坂

2010年10月30日 | 坂道

前回のがま池から説明板の前にもどり、もとの階段を上ると、六本木ヒルズのビルなど遠景のみえるところがあるが、下の方から賑やかな声が聞こえてくる。右の写真のように、公園からである。この公園まで下りてベンチで一休みする。わきの水の蛇口に子どもが水をくみにきたり、お父さんが子どもを連れてきて手足を洗ったり、賑やかである。

公園のわきの一段低くなった窪地に民家が密集するようにして軒を並べており、下町の雰囲気である。

地図をみて大まかな位置がわかったので、公園を出てちょっとした坂道を下り、道なりに歩いていくと、本光寺のわきにでる。突き当たりの道を左折すると、狐坂の坂下であり、右折して進むと、狸坂の坂下にいたる。

左の写真は狸坂の坂下から坂上を撮ったものである。これは、今回ではなく、10月始めにきたときに撮った写真である(以下も同じ)。まっすぐに中程度の勾配で上っている。

坂下と坂上に新しい標柱が立っている。それには次の説明がある。

「たぬきざか 人をばかすたぬきが出没したといわれる。旭坂ともいうのは東へのぼるためか。」

さらに、まみ坂、切通坂の別名がある(石川)。

この坂上を直進すると、前回の暗闇坂上にいたる。以前、この坂にきたとき、坂下から坂を上りそのまま進んで、突然見覚えのあるところにでて驚いた記憶がある。街歩きをしていてよくあることで、かつて訪れたことのある場所に、そのときとはまったく別方向から接近すると、同じところでありながらまた別の風景のように感じることがある。このため、街歩きを計画するとき、すでに訪れたところの場合、前回とは違ったコースを考えてしまう。

尾張屋板江戸切絵図をみると、暗闇坂上を右折する道がある。この坂であるが、坂名も坂マークもない。この道のさきに次の狐坂がある。近江屋板にも坂名はないが、坂マークの△印がある。戦前の昭和地図には狸坂と坂名がちゃんとのっている。

右の写真は坂上から撮ったものである。この坂の中腹に教会があるらしく、この坂は人通りが意外に多い。

「新撰東京名所図会」には「黒闇坂の南、一本松町と界せる坂を貍(たぬき)坂と言ひ、此の坂の西三軒町に接したる処を狐坂と云ふ」とあり、「麻布区史」には「狸坂は暗闇坂の南、一本松町との境をなす坂、一に旭坂とも云ふ。昔時古狸が出没して人を化かして困ったと云ふ」とあるとのこと(石川)。

石川は、土地の古老の話として、坂下の旧宮村町には、大正初年までススキが生い茂り、この坂の右側に大きな榎がそびえ、その木の根の洞穴に狸の親子がすんでいたのを見かけたことを紹介している。

狸にまつわる話が多いようである。

狸坂下を左手に進むと、本光寺門前のちょっと先あたりから上り始めるのが狐坂である。

左の写真は坂下から坂上を撮ったものである。この坂は、写真のように右に緩やかに曲がっており、その上も少しうねっている。勾配はもっとも急なところで中程度よりもある感じである。

尾張屋板江戸切絵図をみると、坂下の本光寺と坂上の長玄寺があるが、坂名も坂マークもない。これらのお寺はいまもある。近江屋板には坂マークの△印があるが、坂名はない。がま池の方からの道は、江戸切絵図にはなく、後年開かれたのであろう。

狐坂には、標柱が立っていないが、「御府内備考」の麻布宮村町に「一坂 三ヶ所」とあり、くら闇坂、狐坂、鳥居坂で、狐坂は「新道西の方南の通りに之れ有り里俗狐坂と唱申し候」とある。

「麻布区史」には「狐坂 三十一番地(麻布宮村町)長玄寺前の坂、一に大隅坂と称す。此の方は狐の縄張りで古狐が毎夜化けたといふ」とあるとのこと(石川)。

右の写真は坂上から撮ったものである。このあたりは大隅山といったらしく、そのため、別名が大隅坂である。

さきほどの狸に対し、ここは狐の縄張りというのがおかしく、この辺一帯は、狸と狐が化かしあいをやっていたところらしい。

このあたりは、大正初期までたいへん寂しい場所であったという(石川)。狸坂から狐坂にかけていまもそんな感じが残っている静かなところである。

坂を下り、本光寺の門前のさきで右折し、先ほどの公園にもどり、さらに南側へと進む。
(続く)

参考文献
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第四巻」(雄山閣)

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がま池

2010年10月29日 | 散策

一本松坂上を進み、この道路が左にちょっと折れ曲がるところで右折してしばらく歩くと、下り階段がある。そこを下りると、マンションの前にがま池の説明パネルが立っているが、字が薄くなってなかなか読むことができない。

それで諦め、ここを背にして進むと、右の写真のように、前方の樹々の緑の中に港区教育委員会の説明板が立っている。以前もこのあたりに来ているが、そのときは気がつかなかった。それには次の説明がある。

『がま池  「がま池」のあるこの土地は、江戸時代には五千石の旗本、山崎主税助治正の屋敷であった。言い伝えによると、同家の家来が屋敷内の夜回りに出た時、大がまのために殺された。そこで、治正はがま退治を決意して寝たその夜、がまが白衣の老人となって夢枕に立ち、その罪を深くわび、今後当家の防災に尽くすことを誓った。その後、文政のころ、高台下の古川岸に火災が起こり、この付近まで延焼してきた時大がまが現われ、池の水を吹きつけて火を防いでくれたといわれている。怪奇な伝説が生まれたこの池も、今ではなかば以上が埋めたてられたが、昔の面影はわずかに残っている。 昭和五十年十二月』

上記の説明パネルのあるあたりは窪地で、そのむかしは、池の一部であったと思われる。現在残っている池は、マンションや住宅に囲まれて一部からしか見えない。

左の写真は、上記の説明パネルを背にして坂下から撮ったものである。この左側の建物の後ろが池の位置である。坂道を上り左折し、時間貸し駐車場のところからかすかにみえる。

この池は、以前の記事で紹介したが、あらためて江戸切絵図をみると、一本松坂の道を南に進み、左にちょっと折れ曲がるところ(この道筋は現在も同じである)に山崎主税助の屋敷がある。一本松坂の道からがま池のあるあたりまで広がる大きな屋敷であったようである。屋敷内の池であるためか、切絵図にはでていない。なぜかはわからないが明治地図にもこの池はでていない。しかし、戦前の昭和地図にはちゃんとのっている。

この池は涸れずに大地の底からまだ水が湧いている。力強い生命体のようである。中沢新一は「アースダイバー」で、この池には巨大な蝦蟇の精が棲んでいると昔の人は信じていた。土地に精霊が宿っているという考えはばかばかしい迷信のようだが、そうではなく、大地の中を動いている見えない力の流れと、その近くに住む人間の深層の心とは深いレベルでつながっている。人の心は深層で自然につながっているとする。

人の心と自然との関係については、昔の人の方が自然を前にして感覚的にその本質をより深く捉えていたのかもしれない。それが伝説となって残っているのかもしれない。
(続く)

参考文献
廣田稔明「東京の自然水124」(けやき出版)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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大黒坂~一本松坂

2010年10月28日 | 坂道

暗闇坂の坂上は、坂道が集まったところになっている。直進すると、一本松坂、右折して進むと、狸坂の坂上、左折すると、大黒坂の坂上となるからである。

右の写真は大黒坂の坂上から撮ったものである。中程度の勾配でほぼまっすぐに下っている。坂下側で右に緩やかに曲がっている。坂上に立っている標柱には次の説明がある。

「だいこくざか 大国坂とも書く。坂の中腹北側に大黒天(港区七福神のひとつ)をまつる大法寺があったために呼んだ坂名である。」

坂を下ると、中腹左側に大法寺があり、いまも大黒天がある。門に、榮久山と刻んだ石柱、大黒天と刻んだ石柱が立っている。

尾張屋板江戸切絵図をみると、本法寺、となっているが、大法寺の誤りであろう。この坂は、一本松サカ、となっている。近江屋板では、大黒天 大法寺となっているが、坂名はなく、坂マークの三角印があるだけである。

左の写真は坂下から撮ったものである。中ほど右側に見えるのが大法寺である。坂上を直進すると、標柱が立っている一本松坂である。

今回、この坂下にある七面坂には行かなかった。というのは、大法寺のわきの道と間違えてしまったからである。後で気がついた。いずれまた訪れてみたい。

坂上にもどる。横関の「江戸の坂 東京の坂」に、ちょうどいまの大黒坂上のあたりから坂下を撮った写真がのっているが、これをみてその変わりように驚いた。坂もそうだが、その背景の方である。東京タワーがよく写っているからである。天辺(てっぺん)から下の方のアーチ状に拡がっている部分までみえる。全体がほとんどみえるのである。現在はどうかというと、上右の写真にも写っているが、天辺部分だけがかろうじて見えるだけである。この間、いかに、眺望を失ってしまったかを物語っている。現在は、ここに限らず何処の坂でも、坂上に立っても坂下が見えるだけで、その向こうも、左右両側もビルが見えるだけである。

右の写真は、大黒坂上から撮ったものである。左の歩道わきに一本松坂の標柱が立っている(下左の写真に写っている)。

標柱には、次の説明がある。ただし、かなり古くなっており、判読不能の部分があるので、「東京23区の坂道」を参考にさせていただいた。

「いっぽんまつざか 源経基(みなもとのつねもと)などの伝説をもち、古来植えつがれている一本松が坂の南側にあるための名である。」

大黒坂と一本松坂は違う坂とされているが、尾張屋板江戸切絵図には、上記のように、現在標柱で大黒坂とされる道筋に一本松坂とある。横関は、大黒坂を一本松坂の別名とし、石川も一本松坂の別名を大黒坂、相生坂とし、岡崎も同様である。相生坂は前回の暗闇坂と同じ理由から別名となっている。

また、「新撰東京名所図会」には「一本松坂、大黒坂、坂下町より一本松町に進み来り、徳正寺門前より上りて長伝寺門前に至る迄を一本松坂と云ひ、町内東の方、横町入口の坂を大黒坂と称せり」とあるという(石川)。

左の写真は、標柱の立っている歩道を撮ったもので、左側が長傳寺である。正面に写っている木が現在の一本松である(上右の写真にも写っている)。

一本松は、明治時代に枯死し、二代目の松が植えられたが、これも戦災で焼け、いまのは戦後に植えられたものらしい(石川)。

この一本松は、「江戸名所図会」にその伝説とともに次のようにのっている。

「同所北の裏通り、一本松町道の傍にあり。一株の松に注連(しめ)を懸け、その下に垣を廻らせり。里諺に云く、六孫王経基この地を過ぐる頃、この松に衣冠を懸け給ひしとて、冠松の名ありとも、その余さまざまの説あれども分明ならず。今この辺を一本松と号して地名となれり。或いは云ふ、小野篁(たかむら)が植ゆる所なりとも。(按ずるに、氷川明神の別当徳乗院より、この松樹の注連をかけかゆる事怠らず。或人いふ、この松は氷川の神木なればなりとぞ、この説是なり。されど昔の松は枯れて今若木を植ゑ置けり。)」

六孫王経基が源経基で、清和天皇第六皇子貞純親王の長子。承平年間武蔵介となって下向、足立郡司武蔵武芝と衝突。平将門の乱などの鎮定につとめた。その冠松とは、平将門の館入りをしての帰途この地に寄り民家に宿し、翌日装束を麻の狩衣に改め、いままでの衣裳を松に懸けたという伝説らしい。

右の写真は、一本松坂の坂上側から撮ったものである。このあたりではもうほとんど平坦な道となっている。右に写っているのが一本松である。以前は、坂上側にも標柱が立っていたらしいが、いまはない。

「江戸名所図会」には、麻布一本松の挿絵がのっており、松の前の道を通る色んな人々が描かれている。左手奥が長傳寺で、その反対側右手の道がいまの狸坂の方に行く道か、または、暗闇坂の方であろうか。眺めていて飽きない絵である。

坂上をちょっと進むと、左側に大きなマンションが建っているが、途中から上が膨らんだ形をしている。以前から、この建物は遠方からみておもしろい形と思っていたが、それとこの一本松坂上で遭遇した。これからは、この建物を遠望するたびにこの坂を思い出すことであろう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

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あひる坂~暗闇坂

2010年10月27日 | 坂道

鳥居坂を下り、坂下の横断歩道を渡り、直進すると、ちょっとした下りになるが、ここがあひる坂のようである。 この坂は、山野と岡崎に紹介されているが、由来は不明とのこと。

右の写真は、麻布十番の通り手前から鳥居坂下側を撮ったものである。この坂は、広い通りから入って麻布十番通りと交差するまでの通り(小路)をいうのであろうか。広い通りからの入り口は急であるが、この小路に入ると、かなり緩やかである。

この交差点に、以前、麻布十番温泉があったが、閉じたようであり、いまはない。

山野には、麻布十番通りを左折しまた左折したところに、すべり坂というのが紹介されているが、ここには行きそびれた。

麻布十番通りを横断し、直進すると、暗闇坂の坂下にいたる。坂下からまっすぐに上っているが、坂上側で左にカーブしている。

ここは上り一方通行のようで、坂上をみていると、後ろからどんどん車がやってくる。

坂下に標柱が立っているが、それには次のようにある。

「くらやみざか 樹木が暗いほどおい茂った坂であったという。以前の宮村(町)を通るため宮村坂ともいった。」

江戸からの坂で、尾張屋板江戸切絵図をみると、鳥居坂から続く道に、クラヤミザカ、とある。近江屋板にも、△クラミザカ、とある。両切絵図で坂下両側が宮下町で、その西側に宮村町がある。

石川に土地の人の談がのっており、それによると、終戦後しばらくはことに寂しい坂道で、追剥や痴漢が出没するために夜分はとても婦女子の通れる坂道ではなかったという。いまでも、坂上側右手は高崖で樹木が生い茂って暗い感じがする。

右の写真は坂上を少しカーブしたあたりから坂下を撮ったものである。地図をみると、右手はオーストリア大使館のようである。

この坂は相生坂ともいった。以前の記事でも引用したが、横関によると、江戸から現代までの相生坂は次の3タイプに分類できるとのこと。

A 坂路が途中でY字型に別れているもの。
B 二つの坂が平行しているもの
C 二つの坂が離れて向き合っているもの

この坂上を直進したところが一本松であるが、そこからの道がこの坂と大黒坂(一本松坂)とに二股に分かれ、Y字型であるので、A型の相生坂である。そういえば、前回の恵比寿のビール坂も二股に分かれて同じ坂名がついているが、ここも、相生坂という坂名がついてもよいのかもしれない。

横関は、A型のもう一つの例として、品川区下大崎五丁目の相生坂を挙げている。品川台町のほうから、雉子神社前で左右に分かれていくY字型の相生坂であるという。ここは、以前に行った(下大崎坂)が、もう一つの坂は確認していない。

左の写真は坂上から撮ったものである。かなりカーブしてから坂上にいたる。ここにも標柱が立っている。

岡崎は、相生坂の坂名に関し、鳥居坂と相対するので相生坂というとしているが、そうすると、C型であるとの説のようである。

暗闇坂(闇坂)という坂は、他にも都内にたくさんあり、以前、新宿愛住町須賀町の同名の坂を訪れた。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)

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於多福坂~潮見坂

2010年10月26日 | 坂道

鳥居坂上を進む。道路が北側にまっすぐに延びている。左手は大きな屋敷(もと)が続き、右手はやがて東洋英和女学院となり、静かな通りである。

この通りは、外苑東通りまで続き、先ほど通った芋洗坂から延びる通りと平行である(高低差はある)が、両方の通りをつなぐ道がない。江戸切絵図をみると、大きな屋敷が並んでいるため、そのような道はなく、それがいまに続いているようである。もし道が開かれていたら坂ができていた。

しばらく歩き、みなと保健所の看板のあるところを右折する。突き当たりを右折すると、於多福坂の坂上で、右の写真のように、標柱が立っている。お多福とはおもしろい坂名である。標柱には次の説明がある。

「おたふくざか 坂の傾斜が途中でいったんゆるやかになって、また下ったので、顔のまん中の低いお多福面のようだと名づけられた。」
 
左の写真は坂上から少し進んだところから撮ったものである。ほぼまっすぐに道が延びている。

坂上からかなりの傾斜で下り、左の写真のように、下った先は、確かにかなり緩やかになる。

この坂は、先ほど通った鳥居坂上の通りと、ここから東側の長坂との間にある。東洋英和女学院の裏手で、静かな住宅街である。

はじめの坂下を左折していくと、永坂にでるが、ここは首都高速の下でかなりうるさいところであるので、今回は遠慮する。

右の写真は、はじめの坂下を少し歩き、次の下りを坂上から撮ったものである。勾配がある程度あってまっすぐに下っている。ここが緩やかになってからふたたび下る部分のようである。ここからは、少々南側の展望がよい。

東京23区の坂道」をみると、この坂下にも標柱が立っており、見逃したようである。

尾張屋板江戸切絵図には、鳥居坂と長サカとの間に、この坂名ではなく、シオミサカ、とある。潮見坂は、この坂下の突き当たりを右折して上る坂であるが。近江屋板をみると、坂名はなく、坂マークだけである。

「麻布区史」に、「永坂町との境を於多福坂といひ、十番地の角より曲折して上る坂を汐見坂と呼んでゐる。」とあるとのこと(石川)。

尾張屋板江戸切絵図に、なぜ於多福坂のところに潮見坂とあるのか不明である。また、岡崎は、近江屋板には、オタフクサカ、とあるとしているが、これはなく、不明である。板が違うのであろうか。

坂下を進み、右折すると、潮見坂の坂下である。

左の写真は坂下から撮ったものである。かなりの勾配でまっすぐに上っている。標柱は立っていない。この坂下を反対方向に進むと、永坂の下の方にでる。

この坂も以前、きたことがあるが、こんなに急坂であった記憶がない。あいまいな記憶である。

尾張屋板江戸切絵図をみると、坂名も坂マークもなく、近江屋板には坂マークの三角印があるだけで、坂名はない。ここも、岡崎は、近江屋板には、△シオミサカ、とあるとしている。

同名の坂は、都内にたくさんあり、以前、虎ノ門霞ヶ関の潮見坂を訪れた。坂名からして海がみえたのであろうが、いまは望むべくもない。これはここに限ったことではないが。

右の写真は坂上から撮ったものである。坂上近くに車止めがあり、車の通行は不可能である。

「江戸地名字集覧」に「汐見坂 麻布永坂町鳥居坂の間」とあるとのこと(石川)。

この坂は、上左の写真の坂上で左に直角に曲がってから、少し上ったところが最終的な坂上である。下左の写真は、その坂上から撮ったものである。ここを下り、右折すると、上右の写真の下りとなる。

坂上側は樹木で緑が濃くなっており、いかにも裏道といった雰囲気であり、上りは少々きついが、散歩道にはよさそうである。

この坂上にも車止めがあり、二重になっている。確かに、ここは、傾斜がある上に直角に折れ曲がっているので、車の上下は大変な気がする。

坂上を進み、道なりに歩いていくと、シンガポール大使館の前にでて、そのさきが前回の鳥居坂上である。左折し坂を下る。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)

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鳥居坂

2010年10月25日 | 坂道

芋洗坂を下り、平坦部を歩く。ここが日ヶ窪である。荷風がいうように、昔は、六本木交差点の坂上からみえたらしい。現在は、ビルが並んでいるためとてもみえない。

商店街が続いている。麻布十番ほどの賑やかさはないが、落ち着いた雰囲気で散歩道としてもよい。芋洗坂、饂飩坂ははじめてなので、この通りもはじめてである。なにか新鮮な感じがする。

しばらく歩き、途中、左にカーブして進むと、鳥居坂の坂下である。

右の写真は坂下手前から撮ったものである。おもしろいことに左側の坂道と歩道をつなぐための階段がついている。このように坂に続く階段というのははじめてである。この坂は二度目だが、以前は、反対方向からきたため、このような階段があることを知らなかった。この階段は、松本泰生「東京の階段」に紹介されている。

この坂は、右の写真でもわかるように、坂下がかなり道路側(写真右側)に突き出ており、坂下を横断する歩道も坂を横切る感じである。道路を拡幅したため道路の方が坂に近づいたというべきか。

左の写真は坂下から撮ったものである。かなりの勾配でまっすぐに上っている。

左端に写っている標柱には次の説明がある。

「とりいざか 江戸時代なかばまで、坂の東側に大名鳥居家の屋敷があった。元禄年間(一六八八~一七〇三)ごろ開かれた道である。」

尾張屋板江戸切絵図をみると、芋洗坂の道を南から東へと曲がりながら進むさきに鳥居坂の坂下がある。この道筋はいまの道とほぼ一致しているようである。近江屋板にも坂名と坂マークがのっている。

「御府内備考」には次の説明がある。

「鳥居坂は、六本木より一本松の方へ下る坂をいへり、坂の上に鳥居家の屋敷あり、砂子云、慶長のころ、此地は鳥居彦左衛門に賜ひしところなり、よりてかく鳥居坂の名ありと、江戸志云、一説に麻布の氷川明神むかしは大社なりしかば、この所にこの鳥居ありしゆえの名なりと、三の鳥居は長坂にありしといふ、案に慶長年中鳥居氏にこの地を賜ひしといひ、又氷川の社の鳥居こゝにありしといふはともに無稽にして妄説ときこゆ、さらにとりかたし改選江戸志」

慶長年間(1596~1615)に鳥居氏がこの地を賜ったこと、氷川神社の鳥居がここにあったことは、坂名の由来としてともに妄説としている。一方で、標柱の元禄年間(1688~1703)に開かれたというのは何に基づくのか不明である。

右の写真は坂上から撮ったものである。かなりの急坂であるが、車はけっこう通り、路線バスも走っている。

坂上右側の歩道にも標柱が立っている。その右にはシンガポール大使館がある。

横関は、寛文図を見ると、この坂のできる前、このあたり一帯は、「トリイ兵部」の屋敷になっている、としているが、この寛文年間(1661~1673)は元禄の前であるので、元禄年間ごろ開かれた道という標柱の説明と矛盾しない。

ここで、中沢新一「アースダイバー」の地図をみると、鳥居坂のあたりは坂下まで洪積台地で、そのさき、麻布十番の通りは、縄文海進期に海で、そのさきは芋洗坂の朝日稲荷の付近まで延びている。六本木通りの市三坂では、標柱の立っているあたりまで海が溜池の方から延びていたようである。
(続き)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌体系 御府内備考 第四巻」(雄山閣)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)

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芋洗坂と饂飩坂の位置

2010年10月23日 | 坂道

前回、芋洗坂と饂飩坂(うどんざか)の位置が書物や絵図でかなり違うことがわかったが、横関の著書に詳しい説明がある。


横関は、麻布の芋洗坂と饂飩坂の道筋をめぐってはしばしば問題が起き、その原因は、地誌や絵図に正反二説が同数くらいに発表されているからとする。

上の図は、横関の「続 江戸の坂 東京の坂」にある地図で、道筋Aが六本木から朝日神社(朝日稲荷)を日ヶ窪のほうへ下る坂道で、道筋Bが材木町(昔の御書院番組屋敷/現在の麻布警察署裏あたり)のほうからAへ下る坂道である。

右の写真は、道筋Aの坂下を道筋Bの合流地点の少し下側から撮ったものである。

横関は、芋洗坂と饂飩坂の道筋を上の地図のA、Bのいずれにするかで地誌・絵図を次のようにわけている。

道筋Aを芋洗坂とするもの:
・「江戸砂子」享保17年(1732)
・「続江戸砂子」享保20年(1735)
・「新編江戸志」安永のころ(1773)
・「御府内備考」文政12年(1829)
・「北日下窪町書上」文政12年(1829)

道筋Bを芋洗坂とするもの:
・「万世江戸町鑑」宝暦3年(1753)
・「賤のをだ巻」享和2年(1802)
・「江戸大名町案内」文政6年(1823)
・「江戸図解集覧」
・「江戸切絵図」(近吾堂嘉永二年版)嘉永二年(1849)*近江屋板のこと

道筋Aを饂飩坂とするもの:
・「江戸町づくし」文政4年(1821)
・「江戸大名町案内」文政6年(1823)
・「東京地理沿革志」文政6年(1823)

道筋Bを饂飩坂とするもの:
・「御府内備考」文政12年(1829)
・「教善寺門前書上」文政12年(1829)

左の写真は道筋Aの坂下から坂上を撮ったものである。この坂途中の左側に朝日神社(朝日稲荷)がある。

上記のように、諸説入り乱れているが、横関は、幕府の編纂した「御府内備考」と、その引用書が正しいように思われるとし、芋洗坂は道筋A、饂飩坂は道筋Bが正しいとしている。

横関がそう決定したのは坂名の意味からであるという。すなわち、芋洗坂の由来はこの坂の近くに芋問屋があったからなどとされているが、それならば、芋坂でよいはずで、芋洗としたのは別の理由がある。芋洗地名が日本中にあり、芋洗という地名の「いも」の意味は、単なる「芋」のことではなく、痘痕、いもがさ、疱瘡(ほうそう)のことである。種痘のない時代の疱瘡予防には神仏に頼る以外なかったため、日本中いたるところに疱瘡神があったという。疱瘡神のお水を患者に飲ませるとか、その水に酒を加えて体を洗うとかした。これが芋洗である。

麻布の芋洗坂にも疱瘡に関係する神様がなければならないとし、「いもあらい」とは疱瘡を洗うことで、この坂のほとりに小川や池がなければならないが、朝日稲荷の前に昔から吉野川という小川が流れていたものの朝日稲荷が疱瘡神であったという記録はない。

寛永3年(1750)ころの江戸絵図に、この芋洗坂に沿って西側に「弁才天」とあり、朝日稲荷の近くの法典寺の弁才天と推測し、弁天様には池はつきものであり、この弁天様の池が疱瘡のお水となったと思いたいとしている。日本各地に弁才天またはその他の疱瘡神にその例が多く、このお水で体を洗って疱瘡を治そうとした。この弁天様が疱瘡の神でなければならず、でなければ、ここに芋洗坂があるはずがないとしている。

以上のように、横関は、弁才天の存在を確かめ、芋洗坂という疱瘡地名が残っていることから、この坂付近に疱瘡神があったと確信し、この坂名を生み出した根拠が道筋Aにあったことが上記の道筋の決定の理由であるとする。

(ただ、道筋Bに疱瘡神と思われる神社や弁才天はなかったのだろうか。これについて横関は触れていない。)

横関は、さらに、江戸の昔、駿河台の淡路坂上、神田川べりにあった大田姫稲荷は、もと一口稲荷といって、江戸時代の有名な疱瘡神であり、その前の坂を一口坂(いもあらいざか)といったという。種痘により疱瘡神が必要なくなると、疱瘡神が他の神様に転向してしまい、瘡守稲荷は、笠守、笠森に、芋洗稲荷が太田姫稲荷、さらに太田姫神社になった。九段上の一口坂(いもあらいざか)などは、ひとくち坂と呼ぶようになったという。

芋洗坂という坂名と疱瘡神との関係について、この横関の著書ではじめて知ったが、疱瘡という病気がなくなった現在、そこまで考えることは少なくなっている。他のことでも過去を想像するときの注意すべき点のように思えてくる。

横関の考察は、坂名がついた理由を探求し、そこで得た結論を具体的な坂にあてはめて考えることが多く、その展開方法がおもしろい。今回の芋洗坂もそうであるが、三年坂もそうであった。

ところで、芋洗坂、饂飩坂の位置に関し、一つ疑問に思うのは、前回の記事の現在標柱の立っている饂飩坂がどう位置づけられるのかである。標柱のある饂飩坂は上の地図で教善寺の右の短い道であるが、尾張屋板江戸切絵図では、この道が芋洗坂の坂上である。ちょうど前回の記事の台形状の区画が上の地図と江戸切絵図のいずれにもあることからわかる。

「御府内備考」を再掲すると、「芋洗坂は、日ヶ窪より六本木へのぼる坂なり、坂下に稲荷社あり、」とあり、江戸切絵図で坂上は六本木町となっているので、現在の饂飩坂は芋洗坂の坂上でその一部ということになる。

芋洗坂の標柱は、横関説とは反対で、前回の記事のように、もともと道筋Bを正しい芋洗坂としているから、饂飩坂を道筋Aと現在饂飩坂の標柱の立っている短い坂道とが続く道筋であるとしても、標柱には矛盾が生じない。饂飩坂の標柱が「昔の芋洗坂とまちがうことがある」としているのも同じ解釈からと思われる。

一方で、芋洗坂の標柱は、「六本木交差点への道が明治以後にできて、こちらをいう人が多くなった」とし、現在標柱のある芋洗坂の坂上(六本木交差点)から下る道筋(道筋Aを含む)を芋洗坂とした。

以上の理由から同じ道筋に二つの坂名が重複する(別名ではなく)ことになるが、これを避けるために、上記の饂飩坂の範囲から芋洗坂とした道筋Aを差し引くと、残るのは、現在饂飩坂の標柱の立っている短い坂となる。

明治以後にできた道を含めて道筋Aを芋洗坂としながら、饂飩坂を道筋Aのままとしたため現在標柱のある短い坂道が饂飩坂となったように思える。

標柱全体の立場は、以上のように、明治以後の道を考慮に入れた折衷説と理解したがどうなのであろうか。

今回、道筋Bについては、後で知ったので、行けなかった。いつか訪れてみたい。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
横関英一「続 江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌体系 御府内備考 第四巻」(雄山閣)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)

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芋洗坂~饂飩坂

2010年10月22日 | 坂道

市三坂上の六本木交差点を西側に渡り、ほんのちょっと進むと、左手に芋洗坂の真新しい標柱が立っている。坂上から繁華街の中をまっすぐに下っている。標柱には次の説明がある。

「いもあらいざか 正しくは麻布警察署裏へ上る道をいったが、六本木交差点への道が明治以後にできて、こちらをいう人が多くなった。芋問屋があったからという。」

尾張屋板江戸切絵図をみると、現在の坂上よりも少し下側(南側)に、芋洗坂、とある。坂途中に朝日稲荷があり、坂下には、北日ヶ窪町、南日ヶ窪町が道の両脇にある。

しかし、近江屋板の位置は違う。現在の坂上から下り、一本目を右折した西向きの道に、芋洗坂とあり、西側が坂上である。尾張屋板の芋洗坂に相当する坂には坂マークの三角印△があるだけである。坂上側の道に、西丸御書院組とある(尾張屋板では、道の両側に御書院番組の屋敷がある)。

左の写真は、標柱の立っている坂上から下ったところから坂上を撮ったものである。

左側に赤いトラックがみえるが、この道のさきが近江屋板で示す芋洗坂である。

この道を進むと、右手に麻布警察署裏があるので、「正しくは麻布警察署裏へ上る道をいった」とする標柱の説明は、近江屋板が示す芋洗坂を正しい位置とする立場に基づくものである。

「御府内備考」には、「芋洗坂は、日ヶ窪より六本木へのぼる坂なり、坂下に稲荷社あり、麻布氷川の持なり、」とあり、尾張屋板と同じである。

標柱のある坂上から下って芋洗坂の中ほどを左折して進むと、上り坂になるが、ここに饂飩坂の標柱が立っている。下右の写真は坂下から撮ったものである。

写真左に写っている標柱には次の説明がある。

「うどんざか 天明年間末(1788)頃まで松屋伊兵衛という、うどん屋があったために、うどん坂と呼ぶようになった。昔の芋洗坂とまちがうことがある。」

この坂はまっすぐ北側に上り、短く、坂下側で勾配がちょっとあるが、坂上側で緩やかになる。坂上は外苑東通りにつながる。

この坂下はちょっと複雑で、芋洗坂から左折すると、この北に向いた坂道以外にもう一本、東(右の写真の右手)に延びる道がある。地図によれば、その東向きの道を進み、突き当たりを左折すると、すぐに外苑東通りにでる。饂飩坂と、そこから東向きの道と、左折した短い道と、外苑東通りとで台形状の一区画を形成している。

江戸切絵図をみると、この台形状の区画があり、江戸時代から続くものであることがわかる。この外苑東通りの反対側には、前回の閻魔坂の坂上がある。

左の写真は坂上から撮ったものである。坂上にも標柱が立っている。

この饂飩坂について「御府内備考」は、温飩坂と書き、「六本木より日ヶ窪へ下る芋洗坂中程より右へ組屋敷の方へ行坂なり。江戸志」とし、饂飩坂は、近江屋板が芋洗坂と示す坂となってしまう。

以上のように、芋洗坂と饂飩坂の位置は、江戸切絵図の尾張屋板・近江屋板、御府内備考を参照しただけでそれぞれまちまちで、違っていることがわかる。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
横関英一「続 江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
「大日本地誌体系 御府内備考 第四巻」(雄山閣)

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市三坂

2010年10月21日 | 坂道

閻魔坂から階段を通って六本木通りの市三坂にでる。

右の写真は、さきほど、寄席坂下で坂上を撮ったものである。大きな通りとなっていて、まっすぐに上っている。写真の車線は上り方向(西向き)である。

坂の途中に標柱が立っているが、それには次の説明がある。

「いちみざか 明治二十年代に開かれた坂。名主の名がついた市兵衛町と松平三河守忠直邸のあった三河台町との間で両頭文字をとった。」

江戸切絵図にはないが、明治地図をみると、六本木通りができており、市兵衛町二丁目が南側からこの道路を越えたところまで延びている。道路の北側は三河台町である。この頭文字をとってついた坂名のようで、少々安易であるが、二つの町から不満がでないようにしたものであろうか。そうならば、日本的解決方法である。

「江戸名所図会」の氷川明神社の説明に、「赤坂今井にあり。(この所を世に三河台といふ。天和の頃松平参河守様御屋敷なりし故に名とす。)」とある。石川は、三河台町の名称は、越前宰相松平三河守忠直の下屋敷があったことによるとしている。六本木通りの反対側には、三河台公園があり、三河台の地名が残っている。

左の写真は標柱のところから坂下を撮ったものである。この標柱は坂の中腹あたり。他にあるのか不明である。

永井荷風の「断腸亭日乗」昭和3年(1928)に次の記述がある。

「十二月三十日 晴れて風静かなり、午後睡を貪りて薄暮にいたる。山形ホテル食堂に徃き夕餉をなし六本木辺を歩む、歳暮商舗の光景山の手とは思はれぬばかりなり、喫茶店カツフエーの如きもの軒を連ね怪し気なる女酔客の袖を引くさま宛然浅草千束町の夜に異らず、二十年前始めて此辺の電車の布設せられし頃には、六本木の阪上より南の方は芋洗坂より日ヶ窪の低地を見おろし、北の方は谷町の陋巷を隔てゝ麹町山王の森を望見みたりし前後の眺望、恰も峠の頂に立ちたるが如き心地したり、市中の繁栄日に日に甚しきを見るにつけ老来の嘆いよいよ禁ずべからず、そのあたりの店にて明日の食料品を購ひて家に帰る、机を炉辺に移し草稾をつくりて夜半に及ぶ、」

荷風は二十年も前のことを回想し、六本木の阪上からの眺望を語っているが、市三坂の向こうに山王日枝神社の森がみえたらしい。(芋洗坂は、これから向かう。)

峠の頂上に立っているようだとあるが、確かに六本木交差点のあたりは、この台地の頂上である。六本木通りを坂上の交差点からそのまま西側に直進すると、やがて霞坂の下りとなるが、ここもかなり長い坂である。市三坂の坂下から霞坂の坂下まで、かなりの距離があり、この台地の広さを物語っているようである。

右の写真は坂上近くから坂下を撮ったものである。上は首都高速3号渋谷線である。

荷風が六本木通りを通る電車を利用したとき、前回の記事で長垂坂を通ったかもしれないとしたが、昭和11年(1936)の冬に次のような記述があった。

「二月廿三日。朝八時目覚めて窓外を見るに雪紛々として降りしきる。昼過ぎてより北風吹き添ひていよいよ降り増されり。黒麺麭(パン)其他食料品尽きたれば五時近く家を出るに門前の小径積雪編上靴を没す。今井町なだれ阪を下るに電車既に二三台市三阪下に停留し自働車も行き悩む様子なり。姑く(しばらく)にして青バス来りたれば之に乗るに乗客一人在るのみ。今夜は何時まで運転するやと女車掌に問ふに今のところ何時に切上るとも命令なし。先日大吹雪の夜には十時に渋谷車庫を出でたるが最終なりしと云ふ。尾張町四辻にて下車するに風烈しく傘も帽子も吹き取られんばかりなり。三越にて栗きんとん豚佃煮を購ひ三丁目角の不二あいすに入りて夕餉を食す。再び乗合自動車にて今井町なだれ阪の道を取りて家に帰る。円タク路傍に停り行悩む処尠からず。霊南阪其他の阪地は車登らざる由。・・・」

昭和11年(1936)は、2・26事件があったが、雪が異常に多い冬で、1月末から2月にかけて何度か東京の交通が雪で途絶したらしく、その様子が書かれている。なだれ坂を下って電車通りにでたが、市三坂下に電車が二三台雪のため動けず停まっていた。帰りも乗合自動車でなだれ坂の道を通ったとある。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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不動坂~閻魔坂

2010年10月20日 | 坂道

丹波谷坂上を右折し、次を右折すると、そこが不動坂の坂上である。

右の写真は坂上から撮ったものである。すぐに急に下っているが、長さはさほどない。ここには標柱は立っていない。

尾張屋板江戸切絵図をみると、不動院があり、そこへ至る行き止まりの短い道であったようである。近江屋板も同じであるが、その道の南側に、門前、とあり、北側に、俗ニ六軒町ト云、とある。

明治地図では、現在のようなまっすぐな道があり、道の左側に不動院がある。

戦前の昭和地図も同じであるが、不動坂と坂名がのっている。この坂は前回の丹波谷坂とほぼ平行で、両方の坂を結ぶ道があったようである。

現在、坂の中ほどに、不動院があり、門には、「高野山 真言宗」「五大山 不動院」とある。

石川には、坂下に不動院があったが戦災で焼けて、坂南に移ったとあるが、ここが現在の不動院と思われる。

左の写真は坂下から撮ったものである。左上にビルの白い看板がみえるが、ここに、綜合法律事務所 六本木不動坂ビル、とあり、標柱のかわりに、不動坂であることを示している。

石川によれば、不動院の門前町を不動院門前町といい、坂名の由来となった。もと麹町平河町にあったが江戸城築城のためこの地に移されたといわれ、玄海和尚を中興の祖とする真言宗大和長谷寺末の寺院で五大山と号し、その本尊が不動明王であった。境内にあった児(ちご)稲荷とよぶ小祠が子育ての神様として庶民に人気があったが、明治初年の神仏分離で廃絶されたという。

坂下は、ほぼ平坦となっていて、まっすぐに続いているが、この先、都会とは思われない不思議なところにでる。

坂下を進むと、左に少し曲がり、道が細くなり、そのまま進むと、突き当たるが、その左右がかなり狭い道になっている。そこを左折すると緩やかな上りとなって外苑東通りの方へと続くが、その途中、ふり返って、通ってきた道を撮ったのが右の写真である。右側が不動坂方面で、左側が六本木墓苑である。

狭い道が続いているためなんとも不思議な空間を造りだしており、樹木で暗くなっているためいっそう異次元に迷い込んだ雰囲気に陥ってしまう。

この道は、写真の奥側に進むと、すぐに前回の丹波谷坂下にでる。坂下を右に見て道なりに進めば、六本木通りの市三坂の下側にでるので、外苑東通りと六本木通りとの近道になっているのかもしれない。

上記の狭い道を写真奥側に進み、左折し、次を左折すると、閻魔坂(えんまざか)の坂下である。

左の写真は坂下から撮ったものである。ここにも標柱は立っていない。写真の左側が六本木墓苑で、写真奥側の坂上は外苑東通りである。勾配ははじめ緩やかであるが、次第に急になっていく。

石川によれば、「麻布区史」に「八番地(三河台町)の横、崇巌寺に下る急坂は里俗閻魔坂と呼ぶ。これは崇巌寺の閻魔堂に因んだ呼称である」と記されているという。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、上記の不動院の西隣に浄圓寺があり、その南隣に崇岸寺とあるが、これは、崇巌寺の誤りと思われる。六本木通り(いまの外苑東通り)から道が浄圓寺まで延びている。

近江屋板では、浄円寺、崇巌寺が並び、浄円寺までの道に坂マークの三角印△がある。この道が閻魔坂で、江戸からの坂であるが、坂下で行き止まりの道である。これは不動坂と同じである。

明治地図にも崇巌寺があり、坂は行き止まりである。戦前の昭和地図でもそうであるが、別の道ができている。

右の写真は坂上側から撮ったものである。ほぼまっすぐに下っている。

石川によれば、崇巌寺は見生山官養寺と号した浄土宗知恩院末の寺院で、開山は玄貞和尚といい、境内にあった閻魔堂は同寺の開基よりも古いものといわれていたが、戦災で本寺とともに焼亡し、その跡地は、不動院や浄円寺の焼け跡とともに共同墓地(六本木墓苑)となったという。

上記の説明から想像すると、墓地のさきまで延びる坂下の平坦な部分はたぶん戦後できたのであろう。この坂は、外苑東通り側が江戸からの坂と思われる。

このあたりの坂は、以前にも訪れているが、この坂ははじめてである。

坂を下ると、途中左側に二箇所連続して階段があり、六本木通り(市三坂)につながる。階段下から撮った写真が下左の写真である。

下側は段数が少ないが、上側(奥側)はかなり急で段数も多い階段である。

この階段は、松本泰生「東京の階段」に六本木・不動坂として紹介されているが、上記の不動坂との関係が不明である。こちらもそう呼ぶのか、または、単なる間違いか。

階段を上り直進し、市三坂の坂上にでる。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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寄席坂~丹波谷坂

2010年10月19日 | 坂道

長垂坂上を右折し進み、突き当たりを右折すると、緩やかな下り坂が長く続き、下側で左折するが、この左折したあたりから下側が寄席坂のようである。

右の写真は、左折し少し進んだところから坂下を撮ったものである。勾配は中程度といったところである。

この坂は右の写真の坂下で左に曲がってさらに下り、六本木通りにでるが、そこに立っている標柱に次の説明がある。

「よせざか 坂の途中の北側に、明治から大正三年にかけて、福井亭という寄席があったために、寄席坂とよびならわすようになった。」

この標柱は古く、字もかなり薄くなっている。いま、港区の坂の標柱は、ところどころ新しくなっており、前回の長垂坂もそうであったが、ここもそのうちに新しくなるのであろう。

江戸切絵図には、この坂に相当する道はないようであり、明治地図にもないが、戦前の昭和地図にはちゃんとあり、現在の坂と同じ道筋である。この間につくられた坂である。

左の写真は、坂下から坂上を撮ったものである。

標柱は写真左側の角に立っている。

坂下側で勾配がちょっときつい。坂下は、六本木通りの市三坂であり、まだ坂下側である。

坂下を左折し、市三坂を上り方向に進み、次を左折する。細い道が斜めに延びているが、右手の六本木通り側は高層ビルの工事中である。しばらく歩くと、道が人一人程度しか通れないほど一段と狭くなる手前で左折すると、丹波谷坂の坂下である。

この坂は、以前、丹波谷坂と荷風という記事で紹介した。

標柱の説明を再掲する。

「たんばだにざか 元和年間旗本岡部丹波守の屋敷ができ、坂下を丹波谷といった。明治初期この坂を開き、谷の名から坂の名称とした。」

この坂は、尾張屋板江戸切絵図にはないが、明治地図にはちゃんとある。近江屋板には、「大御番組」「俗に丹波谷と云」とあり、坂道はないが、坂マークの三角印△がのっているので、屋敷内の坂であったのだろうか。

戦前の昭和地図には、丹波谷坂、と坂名がちゃんとのっている。

右の写真は坂上から撮ったものである。細い坂道がかなりの勾配でまっすぐに上下している。

標柱は坂上と坂下に立っている。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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長垂坂

2010年10月18日 | 坂道

今回は、港区六本木、麻布界隈の坂を巡った。

午後六本木一丁目駅下車。 1番出口からでる。右折し、すぐに右折し、大きなビルの間を道なりに進み、坂を下り、突き当たりを左折する。ここが長垂坂(なだれざか)の坂下である。

右折すれば、すぐそこが六本木通りで、六本木の交差点に向かって坂が西に上っているが、市三坂である。この市三坂の南側(六本木三丁目)の坂をまず巡る。

右の写真は長垂坂下をちょっと進んだところから坂上を撮ったものである。このあたりは勾配はまだ緩やかである。右に写っている新しい標柱には次の説明がある。

「なだれざか 流垂・奈太礼・長垂などと書いた。土崩れがあったためか。幸国(寺)坂、市兵衛坂の別名もあった。」

この坂は、江戸からの古い坂のようである。尾張屋板江戸切絵図をみると、ナダレ、とあるが、坂マークはない。坂上でつながる道に、麻布市兵衛丁、とある。近江屋板には、坂マークの三角印△の下に、ナダレト云、とある。いずれにも「サカ」は付いていないが、江戸の道である。

この坂は、上右の写真のように、坂下を少し上ると、右にちょっと曲がるが、そのさきから坂上を撮ったのが左の写真である。

近江屋板でも同じように曲がっている。ここから上はちょっとうねりがあるがほぼまっすぐに上っていて、坂上側で勾配がちょっときつくなる。全体としてかなり長い坂である。

「新撰東京名所図会」に次のようにあるという。「なだれの義は、勾配強からずして斜に傾きたるを邦語なだれ(『言海』に長垂の意かとあり)といへるより、蓋し其地勢上に得たる名なるべし」。要するに、勾配はないが傾斜している地形から長垂(なだれ)となったらしい。

別名の幸国寺坂について横関は、文献を探し幸国坂が幸国寺坂であると知ったものの、その寺がこの辺にあったという記録がなったが、寛文の江戸図に幸国寺をこの坂のそばに見つけたと書いている。横関の著書に、その寛文図がのっているが、坂の西側にたくさんのお寺が並んでいるところに「カウコクシ」とある。

右の写真は坂上近くから撮ったものである。坂上にも標柱が立っている。

坂上を左折して進めば、大きな通りを横断しさらに進み、左折するところに、以前の記事のように山形ホテル跡の説明パネルが立っている。

永井荷風の住んだ偏奇館は、昭和20年(1945)3月10日未明の東京大空襲で焼失した。その日の「断腸亭日乗」(以前の記事参照)は有名であるが、その冒頭に、「三月九日、天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、火は初長垂坂中程より起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す、・・・」とある。長垂坂の方から火が風にあおられて延焼したようである。坂上から偏奇館まで直線距離にすれば、300mほどであるので、かなり近い。

明治地図をみると、坂の西側にたくさんのお寺があったようだが、現在は、円林寺、善学寺だけである。

戦前の昭和地図には、長垂坂とあり、坂下近くに市電の今井町停留所がある。 荷風は、市電の乗降にはこの停留所を利用したかもしれないが、「断腸亭日乗」にその記載をみつけることができない(または、その一つ手前の停留所か)。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
川本三郎「荷風と東京 『斷腸亭日乗』私註」(都市出版)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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恵比寿の無名坂~ビール坂

2010年10月16日 | 坂道

今回の白金界隈の坂巡りは、白金台地とその周囲の谷とをつなぐ坂であった。最後にきた日東坂下も、上に首都高速の通る道路の近くで谷である。

帰りは日東坂を上り白金台駅に行くのが近いが、坂下での休憩中に、恵比寿方面に行ってみることに決める。ここから比較的近い。恵比寿四丁目にあるビール坂を目指すことにする。

坂下を進み、首都高速の下の道路を横断し、西へと延びる通りを進み、二本目を右折すると、上り坂(恵比寿三丁目34と35の間)がある。この無名の坂を上ると、途中でクランク状に折れ曲がっているところがあり、その上側から撮ったのが右の写真である。

写真手前左側からの道がここで直角に曲がりながら下ってから、すぐにガードレールの下で右に直角に曲がりながらさらに下る。坂でこのようなクランク状の折れ曲りがあるのは珍しい。近くで客を降ろしたタクシーが慎重にカーブを切りながら下っていく。

この先も坂が続き、坂上は、すでに白金台地とは違う台地(山)である。

坂上突き当たりを左折し、何本目かを右折し、突き当たりを左折して進むと、北西角に加計塚小のある交差点に至る。ここを横断し右折し、交番の前を北にちょっと進んだ坂上から撮った写真が左の写真である。

写真のように、まっすぐに下る坂と、左に曲がって下る坂とが二股に分かれている。

山野によれば、ビール坂とは、上記のまっすぐに下る坂と、左に曲がって下る坂との二つの坂をいうとされている。このように、二股に分かれた二つの坂が同じ坂名を持つというのも珍しい。

岡崎は、ここにきたとき、そば屋の老人に二本ある道のどちらがビール坂であるのかたずねたら、不機嫌そうに「どっちもだ」と突っけんどんに答えたことを書いている。

現代地図をみると、交差点の南西側の坂上に相当するところにサッポロビール本社があるが、坂名は、これに因むとのことである(岡崎)。

右の写真は、二つのうち、左に曲がった坂の中途で坂上側を撮ったものである。こちらの坂の方がうねっており、いかにもむかしからの坂らしい感じがする。

この坂は、緩やかに曲がりながら大きな道路を横断してから、渋谷川の恵比寿橋に至るようである。現代地図をよくみたら、その大きな道路とは、白金三光町の商店街の通りから西に延びてきた道で、東側で桜田通りにつながっている。

明治20年(1887)9月に日本麦酒醸造有限会社(いまのサッポロビール)が設立されたが、創立者は桂太郎の弟・桂二郎で、同22年にエビスビールが発売され、そのビールびんに恵比寿様のレッテルを貼った。同36年に専用貨物駅としてできたのが恵比寿駅である。ビール工場は、現在の恵比寿四丁目20番で、現在、サッポロビール本社と恵比寿麦酒記念館がある。

恵比寿という地名も、駅名も、エビスビールからきている。その根底には恵比寿信仰があるといわれる。

左に曲がった坂上にもどり、左折し、まっすぐに下る坂を下る。坂下の信号のところから坂上を撮ったのが左の写真である。

ほぼまっすぐで、勾配は坂上側がちょっときつい程度で、下側は緩やかである。

以前、ビール坂にきたとき、上記のように二つの坂をいうとは知らず、坂上側から左に曲がる坂だけで、こちらの方は下らなかったので、今回、ようやく両方の坂を訪れることができた。

この坂も、白金三光町の商店街の通りからの道路を横断して進むと、渋谷川の新橋に至る。

坂上にもどり、恵比寿駅へ。

今回の携帯による総歩行距離は9.7km。

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
朝日新聞社会部「東京地名考 上」(朝日文庫)

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明治坂~日東坂

2010年10月15日 | 坂道

蜀江坂を下り、商店街の通りを左折し、次の信号を過ぎてから、左折すると、ここの通りも下町らしい商店街であるが、やはり閉じている店が多く、さびれた感じである。

ちょっと歩くと、左手に明治坂の標柱がみえるが、ここが坂下である。右の写真のように、細い坂が曲がりながら延びている。真新しい標柱には次の説明がある。

「めいじざか むかしから存在していた道であるが、明治坂と呼ばれたのは、大正初年からであると伝える。」

むかしから存在していた道とあるので、尾張屋板江戸切絵図をみると、「イナリ」神社を回る道があり、そこからさらに左に続く道があるが、そのあたりであろうか。

明治地図をみると、雷神社の近く西に延びる道があり、その途中に北側に延びる道があるが、ここであろう。戦前の昭和地図には、坂下の通りと、明治坂がみえ、坂名もちゃんとのっている。

今回の白金の坂巡りでは、この明治坂にもっとも興味があり、楽しみにしていた坂であった。というのは、以前、ここにきたとき、細くうねりながら下っていて、むかしながらの雰囲気が残ったよい坂という印象が強く残っていたからである。周囲の家々の雰囲気もよかった。

そのときは蜀江坂上からたどってきて下ったので、今回、坂下からアプローチしたのである。

前回きたとき、心配なことが一つあった。それは、この坂の下りに向かって左側でマンション工事が始まっていたことであった。

坂下では、上右の写真のように、細く曲がって坂が続く感じで、以前と同じような雰囲気である。坂下から右に曲がって進み、曲がったさきあたりから坂上を撮ったのが上左の写真である。細い坂が続いているが、この上ではそうでなくなる。坂下では緩やかであったのが次第に急になってくる。

右の写真は坂の中程から坂上側を撮ったものである。

道幅が拡がり、歩道が右側にでき、以前の坂道がどこであったのかわからない。坂下と同じ坂とは思えないほど変わっている。心配していたことが的中した。

坂のこれほどまでの改変前後を眼のあたりにしたのはこれが始めてである。

このような変化は、坂巡りを始める前に同じようなことがあってさんざん感じたことで、すでに耐性ができており、いまさら驚くにあたらないことであるが、それでもやはり残念である。

ここでちょうど変わる前後の坂をみることができたのも一つのめぐりあいである。これまで訪ね歩いてきた坂も、かなり変わった後のすがたをみているに過ぎないのであろうが、変わる前のすがたを想像できればまた坂巡りの楽しみも増えるというものである。

左の写真は坂上から撮ったものである。

写真の標柱の立っている右側の歩道が以前からの坂の位置のような気がする。それを左側に拡げたのであろう。

坂上でむかしの坂の一部が残り、中間ではそれが消滅しているようで、さらに坂下ではむかしのままの坂道である。このように、この坂は新旧混在型になっているが、そのため、むかしの坂道を想像するのは比較的簡単である。

この坂は坂下から上るのがよく、旧→新の変化を感じることができるであろう。これもまた一興である。

東京23区の坂道」で新しくなる前の明治坂の写真を見ることができる。

坂上を左手に進む道があるが、以前にきたとき通ったところと思われたので、ここに入ってちょっと歩いてみた。何回か直角に曲がるが、むかしながらの雰囲気のある通りである。この道の方がいまの明治坂よりも以前の雰囲気を残しているような気がする。

坂上にもどり、坂からの道を直進すると、かなりの下り坂になっている。

ここを下り、外苑西通りを横断し、そのまま進むと、日東坂の通りを横断するところにでる。このあたりが坂上である。

右の写真は、そこを右折した日東坂の通りで坂下側を撮ったものである。まっすぐに下っており、始め勾配はきつくないが、中腹から下側がちょっときつくなる。

写真右端に写っている標柱には次の説明がある。

「にっとうざか 日糖坂ともいい、日東紡あるいは日本製糖の用地があったからと伝える。大正初年に開かれたと推定される。」

ここも比較的新しい坂のようである。明治地図をみると、この道はまだないが、戦前の昭和地図にはある。しかし、その用地はどこかわからない。

左の写真は坂下から撮ったものである。坂下側でちょっと右に曲がっている。坂下にも標柱が立っている。

以前、このとなりの国立科学博物館附属自然教育園にきたことがあり、その帰りにうろうろしていたら、この坂にたどり着いた記憶があるが、今回は、そのとき以来である。

これまでほとんど休憩しなかったので、坂下のパン屋さんで珈琲休憩。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社) 

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蜀江坂

2010年10月14日 | 坂道

三光坂下の商店街通りを西へ歩き、朝日中学を通りすぎてから、次の信号で左折する。右側が北里大学の門である。

左折してちょっと進んだところに蜀江坂の標柱が立っている。右の写真はその標柱を入れて坂上側を撮ったものである。

このあたりはまだほぼ平坦な道である。休日であるが、なにか行事があったらしく、子ども連れの人がたくさん通る。

坂下の標柱は古くちょっと読みづらかったので、坂上の真新しい標柱の説明を以下に記す。

「しょっこうざか 坂上の丘を、紅葉が美しい中国の蜀江にちなんで蜀江台と呼んだことからつけられた。むかしの字名は卒古台であった。」

石川も、この坂上の台地はもと蜀江台と称したので蜀江坂の名がついたが、むかしの中国の紅葉の名所蜀江(また蜀江錦とよばれる錦織の産地)になぞらえた名であろうとしている。

同名の坂が新宿の成子坂の近くにあるが、ここは蜀江山とよばれたということが坂名の由来であった(以前の記事参照)。

標柱を過ぎて少し進み、聖心女学院の門のあたりから上り坂となる。左の写真は門をすぎたところあたりから撮ったものである。

細い坂がまっすぐに上っている。左側の聖心女学院の赤い煉瓦壁があじわい深い彩りとなっている。

「御府内備考」に「蜀光の台は雷電の社のほとりをいへり・・・」とあるという(岡崎)。

尾張屋板江戸切絵図をみると、このあたりは屋敷と寺で、この坂らしきところはなさそうである。小さく、イナリ、とあるが、ここが、その雷電の社(「江戸名所図会」で、雷電の宮)であろうか。

三光坂下の方からずっと延びる商店街の通りは、明治地図にはなく、蜀江坂に相当するような道もなさそうである。戦前の昭和地図には、商店街の通り、聖心女学院、蜀江坂があり、しかも坂名までのっている。この間にこれらができたのであろう。

右の写真は坂上を撮ったものである。坂上まで行くと、真新しい標柱が立っている。このあたりが紅葉の美しい台地(山)であったのであろう。

坂上左に曲がって道が続くので、塀に沿って歩くが、静かで落ち着いたところである。途中で引き返し、坂を下る。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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