前回のがま池から説明板の前にもどり、もとの階段を上ると、六本木ヒルズのビルなど遠景のみえるところがあるが、下の方から賑やかな声が聞こえてくる。右の写真のように、公園からである。この公園まで下りてベンチで一休みする。わきの水の蛇口に子どもが水をくみにきたり、お父さんが子どもを連れてきて手足を洗ったり、賑やかである。
公園のわきの一段低くなった窪地に民家が密集するようにして軒を並べており、下町の雰囲気である。
地図をみて大まかな位置がわかったので、公園を出てちょっとした坂道を下り、道なりに歩いていくと、本光寺のわきにでる。突き当たりの道を左折すると、狐坂の坂下であり、右折して進むと、狸坂の坂下にいたる。
左の写真は狸坂の坂下から坂上を撮ったものである。これは、今回ではなく、10月始めにきたときに撮った写真である(以下も同じ)。まっすぐに中程度の勾配で上っている。
坂下と坂上に新しい標柱が立っている。それには次の説明がある。
「たぬきざか 人をばかすたぬきが出没したといわれる。旭坂ともいうのは東へのぼるためか。」
さらに、まみ坂、切通坂の別名がある(石川)。
この坂上を直進すると、前回の暗闇坂上にいたる。以前、この坂にきたとき、坂下から坂を上りそのまま進んで、突然見覚えのあるところにでて驚いた記憶がある。街歩きをしていてよくあることで、かつて訪れたことのある場所に、そのときとはまったく別方向から接近すると、同じところでありながらまた別の風景のように感じることがある。このため、街歩きを計画するとき、すでに訪れたところの場合、前回とは違ったコースを考えてしまう。
尾張屋板江戸切絵図をみると、暗闇坂上を右折する道がある。この坂であるが、坂名も坂マークもない。この道のさきに次の狐坂がある。近江屋板にも坂名はないが、坂マークの△印がある。戦前の昭和地図には狸坂と坂名がちゃんとのっている。
右の写真は坂上から撮ったものである。この坂の中腹に教会があるらしく、この坂は人通りが意外に多い。
「新撰東京名所図会」には「黒闇坂の南、一本松町と界せる坂を貍(たぬき)坂と言ひ、此の坂の西三軒町に接したる処を狐坂と云ふ」とあり、「麻布区史」には「狸坂は暗闇坂の南、一本松町との境をなす坂、一に旭坂とも云ふ。昔時古狸が出没して人を化かして困ったと云ふ」とあるとのこと(石川)。
石川は、土地の古老の話として、坂下の旧宮村町には、大正初年までススキが生い茂り、この坂の右側に大きな榎がそびえ、その木の根の洞穴に狸の親子がすんでいたのを見かけたことを紹介している。
狸にまつわる話が多いようである。
狸坂下を左手に進むと、本光寺門前のちょっと先あたりから上り始めるのが狐坂である。
左の写真は坂下から坂上を撮ったものである。この坂は、写真のように右に緩やかに曲がっており、その上も少しうねっている。勾配はもっとも急なところで中程度よりもある感じである。
尾張屋板江戸切絵図をみると、坂下の本光寺と坂上の長玄寺があるが、坂名も坂マークもない。これらのお寺はいまもある。近江屋板には坂マークの△印があるが、坂名はない。がま池の方からの道は、江戸切絵図にはなく、後年開かれたのであろう。
狐坂には、標柱が立っていないが、「御府内備考」の麻布宮村町に「一坂 三ヶ所」とあり、くら闇坂、狐坂、鳥居坂で、狐坂は「新道西の方南の通りに之れ有り里俗狐坂と唱申し候」とある。
「麻布区史」には「狐坂 三十一番地(麻布宮村町)長玄寺前の坂、一に大隅坂と称す。此の方は狐の縄張りで古狐が毎夜化けたといふ」とあるとのこと(石川)。
右の写真は坂上から撮ったものである。このあたりは大隅山といったらしく、そのため、別名が大隅坂である。
さきほどの狸に対し、ここは狐の縄張りというのがおかしく、この辺一帯は、狸と狐が化かしあいをやっていたところらしい。
このあたりは、大正初期までたいへん寂しい場所であったという(石川)。狸坂から狐坂にかけていまもそんな感じが残っている静かなところである。
坂を下り、本光寺の門前のさきで右折し、先ほどの公園にもどり、さらに南側へと進む。
(続く)
参考文献
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第四巻」(雄山閣)