東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

永井坂~御厩谷坂(2014)

2014年02月21日 | 坂道

永井坂上 永井坂下 袖摺坂下 袖摺坂上 前回の貝坂通りから新宿通りに出て右折し、通りを横断し、麹町1丁目の交差点を左折する(現代地図)。

ちょっと平坦な道が続くが、まもなく下り坂となる。ここが永井坂で、一枚目の写真のように、中程度の勾配でまっすぐに北へ下っている。坂の両わきはビル街で、この地下に半蔵門駅がある。

坂を下ると、坂下近くに、二枚目のように、坂の標柱が立っている。

二、三枚目のように、坂下の谷底には東西に延びる道が通っていて、左折すると、南法眼寺坂下、善国寺坂方面、右折すると、英国大使館裏の無名坂下である。

二、三枚目の坂下はV字谷で、その向こうに上っているのが袖摺坂である。ここの坂下は飲食店やコンビニなどが集中しているが、坂下でよく見られる光景である。下の尾張屋板江戸切絵図を見ると、ここには江戸時代に町屋(谷町、麹町谷町)があったことがわかるが、それを引き継いでいる。

四枚目は袖摺坂の坂上で標柱を入れて撮ったもので、坂上に来ると、ふたたび、ビル街で無機質な冷たい感じとなる。

五味坂上 御厩谷坂上南側手前 御厩谷坂上 御厩谷坂下 袖摺坂上を右折すると、五味坂の下りになる(現代地図)。

一枚目の写真は坂上を左折し、すぐに振り返って五味坂を撮ったもので、緩やかに下っている。ここを直進すると、千鳥ヶ淵緑道、千鳥ヶ淵戦没者墓苑にいたる。

坂上をさらに北へ進むが、しばらくほぼ平坦な道が続く。この通りは、新宿通りと靖国通りを結ぶが、北に向かって先ほどの永井坂の下り、袖摺坂の上りと続き、この先も下りと上りがあり、かなり激しく凹凸が繰り返される。二本の谷筋が東から西へと台地に入り込んだ地形で、その谷を横切るようにしてこの道が南北に延びているためである。

ちょっと歩くと、前方に二枚目のように御厩谷坂が見えてくる。三枚目は、坂上南側から坂下を撮ったもので、先ほどと同じように、坂下がV字谷のようになっている。

四枚目は谷底から北側へ坂をちょっと上ったところから坂上側を標柱を入れて撮ったものである。

御厩谷坂上 御厩谷坂上の先の交差点から東 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 東都番町大絵図(元治元年(1864)) 御厩谷坂を北側へ上ってから振り返って撮ったのが一枚目の写真で、V字谷が見える。

坂上を直進し、次の交差点から東側を撮ったのが二枚目で、この先(旧麹町区一番町42番地)が永井荷風の父久一郎が明治27年10月に居を移した所である(永井荷風旧宅跡) 。

三枚目は御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図で、左の縦に延びる道がいまの新宿通りで、そこから右(北)へ延びる道が今回の道である。多数の横棒の坂マークのある坂が永井坂で、その両わきに永井邸が見える。

四枚目は尾張屋板江戸切絵図 麹町永田町外桜田絵図(元治元年(1864))の部分図で、中央の左から右へ延びる道がこの道で、ここにも両わきに永井邸が見える。この江戸切絵図は、坂マークを近江屋板と同じに△としているが、その表示が誤っている。△の頂点の向いた方向が坂上で、永井坂はあっているが、袖摺坂の△は反対を向いていなければならない。これは御厩谷坂も同じである。

今回の通りも前回の貝坂通りと同じく江戸から続く道である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
秋庭太郎「考証 永井荷風(上)」(岩波現代文庫)
中沢新一「アースダイバー」(講談社)

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貝坂通り(2014)

2014年02月17日 | 坂道

貝坂通り 貝坂通り 貝坂通り 貝坂通り 前回の三べ坂上から青山通りを越えると、そのまま道がまっすぐに延びている(現代地図)。現在は青山通りで分断されているが、下の江戸地図からもわかるように、三べ坂からずっと北へと続く道であった。

一枚目の写真は、青山通りを越えてすぐのあたりから進行方向(北)を撮ったもので、まっすぐに延びているが、この先で、ちょっと右に曲がっている。

その曲がりのあたりから撮ったのが二枚目で、わずかに右にカーブしながらずっと延びているが、緩やかな下り坂になっている。このずっと先に貝坂がある。

この近くに立っている案内地図をみると、この道は貝坂通りとなっている。青山通りと新宿通りとを結び、その中間に貝坂があるので、そうよぶのであろうが、わずかにカーブして緩やかにずっと下っている道の様子がいかにもむかしの雰囲気を残しているようで好ましく、この道を新宿通りまで歩いたこともあって、タイトルを単に貝坂とするよりもよいと思い、この通りの名を拝借した。

三枚目は、そのあたりで振り返って、南側を撮ったもので、青山通りと、その上の首都高速道路が見える。

四枚目は、貝坂通りを北へ進んで、緩やかな下り坂の底付近から北側を撮ったもので、貝坂が見えるが、少し左に曲がっている。ここは何回か来ているが、最近は、昨年、荷風生家跡から偏奇館跡まで歩いたときである(この記事)。

貝坂下 貝坂上 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 麹町永田町外桜田絵図(元治元年(1864)) 貝坂の坂下に来ると、飲食店が並んでいるのが見えるが、この通りでこのようになっているのはこの一画だけである(現代地図)。一枚目の写真は坂下側から、二枚目は坂上から撮ったものである。

坂下で右折して行くと、中坂の下りで、坂を上って次の交差点を左折していくと、清水谷坂の下り、その先は、紀尾井坂の上り坂である。ここから余丁町の断腸亭跡に向かうのであれば、紀尾井坂、喰違跡を通って紀伊国坂上を経由すればよい(上記昨年の記事参照)。

坂名は貝塚があったことに由来するが、この坂下まで海が入り込んでいたと云われる(縄文海進期)。

三枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図に、左の三べ坂から右(北)へと延びる道の途中に多数の横棒の坂マークとともにカヒサカとある。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図 麹町永田町外桜田絵図(元治元年(1864))の部分図にも、右端の「三辺坂」から左(北)へとずっと長く延びる道が見え、途中にカイサカとある。

永井荷風の「断腸亭日乗」大正11年(1922)6月4日に次の記述がある。

「六月四日。百合子を訪ひ貝阪の洋食店宝亭に飰し、星岡の林間を歩む。薄夜風静にして月色夢の如く、椎の花香芬々として人を酔はしむ。」

荷風は、この日、百合子とこの坂の洋食店に来て、山王日枝神社の星ヶ岡のあたりを散歩しているが、その様子が妙である。その三日前の日乗にある次のことと関係するのかもしれない。

「六月朔。帝国劇場初日。帰途平岡画伯田村百合子と共に自働車にて平川町なる田村女史の家に至る。余は直に帰る。」

平川町は、平河町のことと思われ、この坂の東側(平河天神などがある)の地名で、この坂に近い。

貝坂上をそのまま進んで新宿通りに出るが、坂上からは平坦な道が続き、なんの変哲もないビジネス街である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社) 「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
中沢新一「アースダイバー」(講談社)

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三べ坂(2014)

2014年02月15日 | 坂道

三べ坂下 三べ坂下 三べ坂下 三べ坂中腹 前回の山王坂下を山王日枝神社側から来て左折し、細い道を北へ進む(現代地図)。ここは意外なことに数軒の民家が並んでいるが、突き当たりにあった民家はなくなっている。

そのちょっと手前から撮ったのが一枚目の写真で、ここは突き当たりを左折し、すぐ次を右折し、北へ進むクランク状の道筋となっている。 このクランク状の道の北側あたりが三べ坂の坂下と思われるが、このあたりはまだ平坦である。

さらに北へ歩いて坂下から坂上側を撮ったのが二枚目である。中程度の勾配でまっすぐに上っている。

この坂は、中腹が四差路になっており、三枚目は、その下側から撮ったもので、四枚目は、その交差点から坂上側を撮ったもので、左手は、参議院議長公邸の敷地である。この右側に標柱が立っている。交差点から上側は緩やかな上りとなって、青山通りまで続いている。

坂下側は、議員会館の裏手にあたり、また、坂右側(東)が空き地状態なので、さっぱりとした感じで静かである。

交差点を左折して行き、メキシコ大使館の前を通って日比谷高校の前を右折すると新坂の細い下りとなる。この坂はなかなか風情のある好い坂で、三べ坂に来ると、ついそちらに行ってしまう。今回はそちらには行かず、三べ坂を上る。

三べ坂上 三べ坂上 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 麹町永田町外桜田絵図(元治元年(1864)) 一枚目の写真は、三べ坂の上側から坂下側を撮ったものである。二枚目は、坂上から地下道を通って青山通りの反対側に出てから坂上を撮ったものである。

この坂は、坂下から中腹の四差路までと、四差路から坂上までとで坂の感じがかなり違っている。坂下側は下町チックな雰囲気をどことなく漂わせているが、坂上側は山の手というよりもつんとして、まったく面白みのないところである。

明治十二年(1879)生まれの永井荷風(壯吉)は小石川金富町の生家で育ったが、秋庭太郎によれば、明治二十三年春、官僚であった父久一郎は、文部大臣官房秘書官として家族とともに麹町区永田町一丁目二十一番地三べ坂上なる文部省官舎に移った。そのときの文部大臣は芳川顕正であったが、翌二十四年六月芳川が大臣を罷めたので、久一郎は、文部省会計局長に転じ、家族とともに金富町の本邸に帰った。当時久一郎は乗馬で通勤したという。

明治四十年の明治地図(左のブックマークから閲覧可能)を見ると、その官舎のあった番地は、坂上から青山通りに沿って東へ約200mほどの所で、そこから三べ坂に近い所に文部大臣官舎がある。

壯吉は、ここに住んでいた明治二十四年四月に神田一ツ橋の東京高等師範学校附属尋常中学科に入学した。

三枚目は御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図で、左上に山王権現が見え、その下(東)のまっすぐな道が山王坂で、その坂下から右(北)へ延びる道が三べ坂である。

四枚目は、尾張屋板江戸切絵図 麹町永田町外桜田絵図(元治元年(1864))の部分図で、神社から上(東)に延びる道が山王坂で、その坂下から左(北)へ延びる道の途中に「三辺坂」とある。坂の下側(西)に岡部筑前守、上側(東)に安部摂津守、そのとなり(北)に渡辺丹後守の屋敷が見えるが、これら三つの「べ」から、この坂名がつけられた。

山王坂を上り左折したところに永田馬場とある(御江戸大絵図にもある)ので、前回の記事の江戸名所図会で云う永田馬場山王権現とは、この山王権現のことである。

山王坂下からこの坂方面に入ったところに山王門前町があるが、その北側(坂側)に現在のクランク状の道筋の元と云えそうな道が見える。ここは明治地図ではクランク状になっている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
秋庭太郎「考証 永井荷風(上)」(岩波現代文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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円通寺坂~山王坂(2014)

2014年02月14日 | 坂道

円通寺坂上 円通寺坂上 円通寺坂中腹 円通寺坂下 前回の一ツ木公園から出て三分坂下を左に見て、その坂上へと上り、横断歩道を渡り、そのまま直進する。 ちょっと歩いてから右折すると、細い道が東へ延びているが、ここが円通寺坂の坂上である(現代地図)。

坂上に一枚目の写真のように、坂の標柱が立っている。 このあたりは赤坂の台地で、標高が高いが、範囲は狭く、ちょっと歩くとすぐに下りとなる。この手前は先ほどの急坂(三分坂)で、ここを直進すると、まもなく薬研坂の下り、その手前を右折すると、稲荷坂の下り、左折しちょっとすると、もう一つの稲荷坂の下りである(二つの稲荷坂)。台地というと平らで広いイメージがあるが、そうではなく、小高い山の頂上を押しつぶしたような、切り取ったような地形で、意外と狭く、そこに谷が入り込んで、複雑な地形になっている。

ここも右折してまだ平坦であるが、まもなく下りとなる。坂上右に、坂名の由来の円通寺(圓通寺)の門が見えるが、ここまで来ると、坂下が見える。二枚目は、門前手前の坂上から坂下を撮ったもので、中程度の勾配で下って、緩やかに曲がっている。

三枚目は中腹から坂下を、四枚目は坂下の標柱を入れて坂上を撮ったもので、かなり細い。

同名の坂が四谷三丁目にある。新宿通りへ上る坂で、坂下に同名の寺がある。

永井荷風の「断腸亭日乗」大正13年(1924)2月24日に次の記述がある。

「二月廿四日。午下高木井阪の二氏来り、兼子伴雨初七日の法事赤阪円通寺にて営まるゝ由を語らる。倶に同寺に赴き、法会終りし後一木町なる其家に赴き、蔵書画を一覧す。伴雨子は去年十二月半中風にて卒倒し、本月に入りて病いよいよ革み、去十八日世を謝したり。円通寺に葬り謚して梨花庵好雨日居士といふ。」

兼子伴雨とは、演芸記者で、芝口土橋際の米問屋の息子であったが勘当同様となり、内縁の妻と向嶋柳畠の辺りに侘び住まいをしていた頃、後に荷風の二番目の妻となる藤蔭静枝(内田八重)と向嶋で知り合いになって、静枝に密かに恋心を抱いたのだという(「断腸亭日乗」昭和15年12月1日)。明治40~43年頃のこと。

伴雨が亡くなり、その初七日の法事にこの赤坂の円通寺に来て、その後に一ツ木町のその家に行き、蔵書画を見ているが、次の日の日乗に「故兼子伴雨の蔵書若干を購ふ。」とある。

円通寺坂下 黒鍬谷 黒鍬谷 丹後坂下 一枚目の写真の円通寺坂下を東に向かう。この坂下がこの辺りの谷底と思われるのであるが、左を見ると、さらに下りとなっている。この辺りを黒鍬谷とよんだが、その谷底であろう。坂下から進んで三本目を左折し、谷底への坂を下る(二枚目の写真)。

先ほどの坂上の道を薬研坂の方に北へ向かい、その手前を右折すると稲荷坂が下っているが、その道と、円通寺坂の道との中間に地形上の谷底があることがわかる。

谷底への坂を下り、突き当たりを右折し、次の突き当たりを左折すると、三枚目のように、小路の上りとなる。小路からでた通りが稲荷坂から続く道で、ここを右折しちょっと歩くと、左手に階段坂が見える(現代地図)。ここが丹後坂で、四枚目のように、かなりの勾配がある。

山王日枝神社 山王坂下 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 今井谷六本木赤坂図(文久元年(1861)) 丹後坂下を左に見てそのまま進み、赤坂の繁華街を通り抜けると、外堀通りに出るが、ここを横断し、山王日枝神社に入り、一枚目の写真の階段を上る。

境内に入って、東側の階段を下り、左折し右折すると、ちょっと下りとなっていて、その坂下から向こう側に坂が上っているのが見えるが、山王坂である。そのあたりから山王坂を撮ったのが二枚目で(現代地図)、まっすぐに東へ国会議事堂の裏の方に上っている。

三枚目は御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図で、上左側にエンツウジが見え、その前の道が円通寺坂で、その途中で左折し右折して行くと、クロクハタニ(黒鍬谷)とあり、その左に多数の横棒の坂マークがあり、タンゴサカ(丹後坂)とある。その下側に、堀が見えるが、溜池である。この溜池を挟んでその向こう(東)に山王権現が見える。溜池があった頃は、赤坂側から山王神社に直接行くことができなかった。神社の東側(下)に見える坂道が山王坂で、ここが表参道であったことがわかる。

四枚目は、尾張屋板江戸切絵図 今井谷六本木赤坂図(文久元年(1861))の部分図で、多数の横棒の坂マークとともに各坂名が記されている。中央下側に、円通寺サカ、その左に、ヤケンサカ(薬研坂)がある。円通寺坂の道を左折し、突き当たりを右折し、次の突き当たりを左折するクランク状の道筋が見えるが、ここが先ほどの谷底の道かもしれない。そこから出た道に、黒鍬谷とあり、その先に丹後坂が見える。

以上のように、このあたりは江戸から続く道がかなり残っているように見える。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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南部坂~三分坂(2014)

2014年02月11日 | 坂道

南部坂下 南部坂上 氷川坂上 本氷川坂上 前回の道源寺坂下の長い歩道橋で二本の大きな通りを西側へ横断し、裏道に入ると、まもなく、南部坂の坂下である(現代地図)。

坂下からちょっと上ると、一枚目の写真のように、きれいなカーブを描きながら緩やかに上っている。カーブを曲がるとまっすぐに上り、二枚目のように、坂上に標柱が立っている。

標柱の説明は次のとおり。

「なんぶざか 江戸時代初期に南部家中屋敷があったためといい「忠臣蔵」で有名である。のち険しいため難歩坂とも書いた。」

この坂は、かなり道幅が狭く、いかにもむかしながらの坂道と思えてくるが、実際はどうだったのか、と御府内備考を見ると、「一 南部坂 登凡三拾八間巾凡貳間三尺」とある。長さが約38間(69m)、幅が約2間3尺(4.5m)で、現在の幅が3.2m(中村の測定データ)であるので、江戸時代よりも狭い。(ただ、当時の道の状態がわからず、現在よりもやや広かった程度かもしれない。)

坂上を進み、次の交差点を左折し、ちょっと歩くと、右手に下り坂が見えてくるが、ここが氷川坂で、三枚目は坂上から撮ったものである。

そのままさらに直進するが、右手一帯が氷川神社の境内で、まもなく参道が見える。その前をちょっと進んで境内のわきを右折し(現代地図)、直進すると、本氷川坂の坂上である。四枚目は、右折しちょっと歩いてから坂上方面を撮ったもので、右が氷川神社である。

本氷川坂上 本氷川坂下 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 今井谷六本木赤坂図(文久元年(1861)) まもなく本氷川坂の坂上で、一枚目の写真のように、かなりの勾配で下っている。この下で左に曲がると緩やかになって、さらに右折していくと、二枚目のように、坂下である。道幅が坂上側で狭い坂で、坂下側でかなり広い。

三枚目は御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図で、下に南部坂が見え、坂上を左折していくと、氷川明神の手前を右に下る坂が氷川坂、その先を右折していくと、坂マーク(多数の横棒)のある屈曲した道が本氷川坂である。

四枚目は、尾張屋板江戸切絵図 今井谷六本木赤坂図(文久元年(1861))の部分図で、上記と同じ道筋が見える。本氷川坂は、同様に屈曲しており、それが現在まで続いている。

以上のように、氷川坂はわからないが、南部坂と本氷川坂は江戸時代の道の様子をかなり残しているように思えてくる。

江戸名所図会 赤坂氷川社 江戸名所図会 赤坂氷川社 一、二枚目は、江戸名所図会にある赤坂氷川社の挿絵である。

一枚目に裏門が見えるが、ここが現在と同じ位置とすると、ここを出て右折して行った先が本氷川坂上である。

本文に、「赤坂の総鎮守にして、祭礼は隔年六月十五日、永田馬場山王権現と隔年に修行す。」とある。(永田馬場山王権現とは、山王日枝神社のことか?)

永井荷風は、大正8年(1919)の夏~秋ごろ、当時住んでいた築地からの引っ越し先を探していたが、「断腸亭日乗」11月1日に次の記述がある。

「十一月朔。赤坂氷川町の売家を見る。其の途次氷川神社の境内を過ぐ。喬木欝蒼たること芝山内また上野などにまさりたり。市中今尚かくの如き幽邃の地を存するは意外の喜びなり。夕刻家に帰るに慈君の書信あり。去年の此頃は人をも世をも恨みつくして、先人の旧居を去り寧溝壑に填せむことを希ひしに、いつとはなく徃時のなつかしく思返さるゝ折から、慈君のたよりを得て感動する事浅からず。返書をしたゝめ秋雨街頭のポストに投ず。終夜雨声淋鈴たり。」

荷風は、この日、赤坂氷川町の売屋を見に来て氷川神社の境内を通ったが、その樹木で鬱蒼とした風景は芝山内や上野よりも優り、このような幽邃の地が今なお残っていることに驚き喜んでいる。その後の慈君云々については、以前の記事参照。

さらに、同年11月12日に次の記述がある。

「十一月十二日。重て麻布市兵衛町の貸地を検察す。帰途氷川神社の境内を歩む。岨崖の黄葉到処に好し。日暮風漸く寒し。」

この日、麻布市兵衛町の土地を見に来たが、その帰りに、氷川神社に立ち寄っている。崖地の紅葉がどこも好いと賞賛している。後の偏奇館となるその土地を気に入ったようで、次の日、この土地を借りることを決めている。

氷川神社の境内の紅葉が気に入ったようで、1年後(大正九年)の日乗に「十一月十八日。氷川境内の黄葉を見る。」とあり、さらに、「十二月四日。風烈し。氷川社頭の黄葉を見る。」とある。

次の年(大正十年)にも「十月廿二日。午後百合子と相携へて氷川社境内の黄葉を賞す。此夜百合子鶴見の旅亭に帰る。」とある。

大正十三年(1924)には次のような記述がある。

「十一月廿一日。昨夜深更より大に雨ふり、今朝に至りてやむ。午餉の後氷川神社の境内を歩む。見渡すかぎり銀杏の落葉に埋れたり。額堂神楽堂の屋根も黄金の瓦にて葺くたるが如し。」

昨晩は大雨で、昼飯の後、氷川神社の境内に行くと、見渡す限り銀杏の落ち葉で、額堂・神楽堂の屋根も黄金の瓦で葺いたようであった。

気に入った処があると、何回も訪れる性癖があったようであるが、これは多かれ少なかれ誰にでもあることである。

三分坂下 三分坂下 三分坂上 一ツ木公園から北西 本氷川坂の坂下を左折し、道なりに進み、赤坂通りの交差点を過ぎると、前方に三分坂の坂下が見えてくる。

一枚目の写真は、その途中から撮ったもので(現代地図) 、坂のスロープが見え、そこを右折して行くと坂の上りとなる。

二枚目は、右折したところから坂上を撮ったもので、かなりの勾配でまっすぐに上っている。ここから反対側を見ると、坂が続いているので、このあたりは、正確には、坂中腹下側である。

三枚目は、坂上突き当たりから坂下を撮ったもので、かなり急であることがわかる。ここから見ると、目白台の都内随一の急坂であるのぞき坂を思い出してしまう。ここもスキーのジャンプ台のように見えてくる。

坂上わきの一ツ木公園に寄る。北西の眺めがよいが、その方向を撮ったのが四枚目である。

上記の尾張屋板江戸切絵図に三分坂とあるが、御江戸大絵図には、坂名はなく、坂マークだけである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
中村雅夫「東京の坂」(晶文社)

「大日本地誌大系 御府内備考 第四巻」(雄山閣)

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善福寺川雪景色2014

2014年02月10日 | 写真

善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺川 善福寺川

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