東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

吉本隆明展(千代田区図書館)

2017年07月09日 | 吉本隆明

千代田区図書館で吉本隆明展が開催されていることをネットで知ったので、梅雨空だったが出かけた。

千代田区図書館吉本隆明展 午後地下鉄九段下駅下車。

九段下の交差点を右折し、内堀通りを南へ向かい、九段会館を過ぎてから交差点を渡ると、千代田区役所のビルがあるが、この9階に千代田区図書館がある(現代地図)。この展示スペースで開かれていた(そんなに広くない)。著書や愛用品などが展示されていたが、書斎を写した複数枚の写真パネルもあって、書棚の前に浅草寺の「大吉」のおみくじが写っていたのが目についた(めったに出ないらしく、うれしくて、捨てるに忍びなかった?)。

吉本隆明全集37カバー 現在、晶文社から「吉本隆明全集」が刊行中だが、これにあわせた企画らしい。その最新刊(第37巻)は、川上春雄宛全書簡で、他に吉本夫妻や両親や友人との会見記(メモ書きなど)を含む川上春雄ノートが収録されている。いずれも初めて世に出たものばかりで(たぶん)、興味深い内容でいっぱいである。

何箇所かに衝撃的な記事があった。その一つが、会見メモに「ぼくには婚約者がいたんです」とあったこと(ちょっと前の東京新聞夕刊「大波小波」にも書かれていた)。そのあとに「組合を追われてまったく無気力なその日ぐらしの生活をしている一方で、女のことでそれもどうにもいかなくなりまして」とある。マチウ書試論を執筆していた頃らしいが、それを昭和29年(1954)とすると、その年の12月に吉本は葛飾の上千葉の実家から谷中のアパートに移っている。その頃のことを背景にした超短編小説「坂の上、坂の下」に『二つの女性の影が通り過ぎる。』とある理由がわかる。もっとも、吉本にそういうもう一人の女性がいたことを以前に何かで読んだことがある(記憶に間違いがなければ、門前仲町の今氏乙治の学習塾で一緒だった女性?)。また、これらのことに関連して、川上宛書簡の中に衝撃的に感動的なものがあった。

もう一つ、遠山啓(1909~1979)東工大教授による「退官の辞 八月十五日前後」の記事(『工業大学新聞』(昭和四十五年三月二十日))の全文が載っている。吉本が終戦間もない大学時代、数学者の遠山に弟子入りを願ったことは知られているが、そのことを遠山は紙幅の1/3も割いて書いているので、かなり印象に残ったことがわかる。きわめて興味深い記事である。

吉本隆明質疑応答集①表紙 さらに最近、「吉本隆明 質疑応答集①宗教」(論創社)が出版された。講演後の質問に対する回答をまとめたもので、色んな疑問に核心をつく答えをしている。その一つに親鸞に惹かれた理由を問われて次のように答えている。

『僕は昔から親鸞が好きでして、学生の頃に「歎異抄に就いて」という文章を書いたこともあります。その関心が現在まで持続しているわけです。では僕は、親鸞のどこが好きなのか。みなさんはそうじゃないと思うんですが、宗教を信じている人にはいい子になりたいという気持ちがあるんですよ。そして僕自身にも、自分を偽ってでも正しいことをいいたいという気持ちがあると思うんです。ところが親鸞は、人間は正しいことをいうためになぜ自分を偽らなきゃいけないのか、ということを非常によく考えて、自分を偽ることと正しいことをいうことの間に橋を架けたような気がするんです。』

吉本は自らを非信仰者とし、このことを信仰ではなく思想として捉えている。その橋を架けることの意味として、『自分の主体的な思想として、少なくとも自分が正しいことをいうばあい、「こういう言い方しかできないよ」というかたちで主体的に橋が架かっていなきゃいけない。』と述べている。簡単だが、実行することは困難なことである。橋を架けるという表現は、はじめてのような気がするが、おもしろい言い回しである。

吉本が亡くなってからもう5年になるが、新しい資料が出てくる。まだまだ出てくるのかもしれない。

参考文献
「吉本隆明全集第4巻」(晶文社)

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吉備真備『乞骸骨表』

2017年05月05日 | 吉本隆明

「思想のアンソロジー」 吉本隆明「思想のアンソロジー」は、古今の色んな分野からテキストを選び、その中から択んだ要部に吉本流の独自の解説を加えた一冊である。それらの選択のみならず、その凝縮された思想のエッセンスにはっとさせられる。その射程は深く広い。

その一つが奈良時代の学者・政治家の吉備真備(きびのまきび)の「乞骸骨表」(骸骨を乞うの表)。〈隠退の願いをお許し下さい〉という意味の辞表である。古典古代晩期の公職辞表のうち最古のものという。

漢和辞典(大修館書店)には、骸骨を乞う(ガイコツをこう):主君にさしあげた自分のからだを返してほしいと乞い求める、辞職を願い出ること、とある。

右大臣・中衛大将であった吉備真備が神護景雲四年(770)九月七日に提出した辞表であるが、その全文(書き下し)は次のとおり。

『乞 骸 骨 表
 側かに聞かく、力任へずして強ふる者は廃し、心逮ばずして極むる者は必ず惛し、と。真備、自から観るに、信に験ありと為すに足れり。
 
去る天平宝字八年、真備生年数へて七十に満ちぬ。その年の正月、致事の表を大宰府に進り詑りぬ。いまだ奏さざるの間に、即ち官符ありて、造東大寺長官に補せらる。これに因りて京に入りて、病を以て家に帰り、仕進の心を息む。忽ち兵の動くことあり、急に召されて入内し、軍務を参謀す。事畢りて功を校ふるとき、この微労に因りて、累りに貴職に登され、辞譲することを聴されずして、すでに数年を過ぎたり。即今老病、身に纏りて、療治すれども損え難し。天官の劇務は、暫くも空しくすべからず。何ぞ疾を抱くの残体にして、久しく端揆を辱しめ、数職を兼帯して、万機を佐くることを闕くべけむや。自から微躬を顧みて、靦顔すでに甚しく、天に慚ぢ地に愧ぢて、身を容るるに処なし。
 伏して乞ふらくは、事を致して以て賢路を避け、上は聖朝の老を養ふの徳を希ひ、下は庸愚の足るを知るの心を遂げむ。特に殊恩を望みて、矜済を祈り、慇懃の至りに任へず。謹みて春宮の路の左に詣でて、啓し奉りて陳べ乞ふ、以て聞せよ。』

「吉備真備の世界」 この現代語訳が中山薫「吉備真備の世界」にあるが、平易な訳文でわかりやすい。以下は、これを参考にした。

真備は、天平宝字八年(764)に七十歳になったので、その年の正月、辞職願を大宰府に提出したが、それが天皇に届く前に、造東大寺長官に任命された。そこに戦乱が起き、軍事作戦や戦略を立てた。乱が平定されると、功績により高い官位を賜り、辞職が許されず、数年が過ぎた。いま老いて、病身で、治癒しない。病身の自分が長く右大臣で、他の官職も兼務して、どうして天皇の政治を補佐できようか。辞職ののち隠遁させてほしい。謹んで辞職のお願いを申し上げる。

かなり大ざっぱであるが以上のようなことが書かれている。吉本は、この本文を短文だが日本人離れのした達意の漢文で、学者、文章家としての真備の面目があらわれていると評価しつつ、その本文といえども、現在の感覚からいって「骸骨を乞う」という、〈公職を辞任したい〉という表現の面白さに及ばないので、この表題そのものを択んだとしている。

古典古代の吉備真備の「乞骸骨表」は、現在、辞表に「一身上の都合により」と書く習慣になって、現在も辞表の模範だが、別の意味では事の真相に触れず一身上の都合にしてしまう、日本だけでなく東洋の悪習の元とし、一身上のことと、公的・社会的なこととの区別があいまいなのだ、と断じている。自身も同じことに当面したことがあるとして、自らの体験を次のように綴っている。

『ドイツ留学の化学者の草分けともいうべき長井長義の長子である長井亜歴山[アレキサンダー](共働経営者江崎氏)の特許事務所にアルバイトで隔日勤務していたころ(一九六〇)、全学連主流派の雑兵として一般学生たちと拘留されたことがあった。世間を騒がせたというので、辞表を出し、同時に口頭で長井氏に理由を述べたことがあった。長井氏は即座にそれは貴方個人のことで事務所には関わらないものと理解できるから、辞表の必要はないと即答された。日本の会社や事業所だったらそうはならないで即刻リストラであるにちがいない。もちろん辞表には「一身上の都合」と記した。真備以来の伝統的習慣だからだ。
 長井氏はもともと武士道的な古風な「義」と日本人離れした感性をもつ人だったが、わたしはこの時、個人としての個人(私人)と公共社会人としての個人の理念を分離できている長井氏にいたく影響をうけたのを覚えている。
 吉備真備の「乞骸骨表」は、東洋的道義で個の全体を覆おうとする礼儀と、個の恩愛をかくそうとする礼節(社交)をよく象徴して興味深い。』

長井亜歴山 吉本が何故に吉備真備の「乞骸骨表」に惹かれたのか、以上から、それが自らの体験からであることがわかる。そのゆえんを古典古代の「辞表」から解き明かしているわけで、その展開はいつものことながら新鮮である。

長井亜歴山が即答したのは、その逮捕・拘留は個人の範疇に属することであり、事務所には関係しないことであるから辞表の必要などない、ということで、しごくまっとうな見解であるが、日本的な一般慣習からすると、現在でも異端的意見とされてしまうかもしれない。

60年安保の次の年に吉本は「試行」を創刊し、「言語にとって美とはなにか」を発表し、その後、昭和43年(1968)12月に「共同幻想論」を刊行しているが、上記の体験は、共同幻想論の成立に影響を与えたといえるかもしれない。

「共同幻想論」の「全著作集のための序」で『個々の人間の観念が、圧倒的に優勢な共同観念から、強制的に滲入[しんにゅう]され混和してしまうという、わが国に固有な宿業のようにさえみえる精神の現象は、どう理解されるべきか』ということがもう一つの共同幻想論の基本的モチーフであるとしている。そのわが国に固有な宿業を反射的に想起させる具体例の一つとして上記の体験があり、それらから自らの精神の現象をえぐり出したことは想像に難くない。

共同幻想論(角川文庫) 吉本が長井から感じとった個人としての個人(私人)と公共社会人としての個人の理念の分離ということは、共同幻想論において個人幻想と共同幻想とを分けて考えることと通底するようにおもえてくる。しかし、個別具体的にみると、個人幻想が圧倒的に優勢な共同幻想から強制的に滲入され混和されてしまう結果、日本では個人幻想の共同幻想からの分離は困難になってしまうということか。

「角川文庫版のための序」に次の記述がある。

『国家は幻想の共同体だというかんがえを、わたしははじめにマルクスから知った。だがこのかんがえは西欧的思考にふかく根ざしていて、もっと源泉がたどれるかもしれない。この考えにはじめて接したときわたしは衝撃をうけた。それまでわたしが漠然ともっていたイメージでは、国家は国民のすべてを足もとまで包み込んでいる袋みたいなもので、人間はひとつの袋からべつのひとつの袋へ移ったり、旅行したり、国籍をかえたりできても、いずれこの世界に存在しているかぎり、人間は誰でも袋の外に出ることはできないとおもっていた。わたしはこういう国家概念が日本を含むアジア的な特質で、西欧的な概念とまったくちがうことを知った。』

日本を含むアジアにおける国家概念を考える上で重要な記述であるが、その西欧的思考にふかく根ざして云々は、主要な部分ではないものの、西欧的思考の片鱗を感じさせる長井の影響もあったのかもしれない。長井の母はドイツ人で、家庭内ではドイツ語で会話していたというから、吉本が感じた日本人離れした感性はそんな中で培われたのであろうか。

こんなことから、長井亜歴山の存在は共同幻想論の成立にわずかながらでも影響を与えたのかもしれないとおもったのである。これは、戦前の少年時代に接した看護婦の一人が確固としたキリスト教の信者であったことを戦後になってから理解してその面影から異性の優しさ以外のものも受けとったと別のところで書いているが、これが吉本を聖書や教会に向かわせるきっかけになった可能性があることと似ている(以前の記事)。

元にもどって、真備のような辞表の文体的な理由は、中国語を公文書の正規の公用文の形式にきめたからとし、これから、中国四千年の文化の高度さを、背伸びして採用したために、急速に上層からアジア的な段階に入ったものの、原始や未開の遺制は〈本音〉になり、中国古代の様式は「建て前」となって二重化したとし、現在でもおなじかもしれないとしている。その二重化は、吉本のいうとおり本質的に現在でも同じか、あるいは、それ以上の問題となっている。これは古代から続くことで、根は深いというべきか。

参考文献
吉本隆明「思想のアンソロジー」(ちくま学芸文庫)
「日本思想体系8 古代政治社會思想」(岩波書店)
中山薫「岡山文庫 210 吉備真備の世界」(日本文教出版)
飯沼信子「野口英世とメリー・ダージス 明治・大正 偉人たちの国際結婚」(水曜社)
吉本隆明「改訂新版 共同幻想論」(角川ソフィア文庫)

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吉本ばなな「イヤシノウタ」

2016年08月25日 | 吉本隆明

「イヤシノウタ」カバー

最近刊行(2016年4月)のエッセイである。

独特の語り口からなるばななワールドが広がっているが、私的には2012年3月に亡くなった父(吉本隆明)についての部分が印象に残った。

『あんなに人にばかりつくし、自分の好きなことを最低限しかできなくて、いろいろな人の心の支えになって、体を壊し、最後のほうはいちばん大好きな散歩や買い食いやTVを観ることや読書もできなくなって、いちばん嫌いな病院で管につながれて痛がりながら死んでいった父。』

『あれほどに人を助けてきた人だから、きっと安らかな、望むような死に方で死ぬだろうと私は幼い頃から信じていた。』

「あんなに人にばかりつくし、自分の好きなことを最低限しかできなくて、いろいろな人の心の支えになって」からうかんでくるイメージは、著作からかってにつくりあげた吉本像とはまったく違う。とりわけ「あんなに人にばかりつくし」には驚いた。たんなる一読者で、身近に接したことなどないので、具体的にどのようなことかわからないが、やはりそういう人だったのか。そのような話を書くことなどなかったが、それでも、いわれてみればなんとなく想像ができる。

「いろいろな人の心の支えになって」はよくわかる。これまでわたし自身がその著作から心の支えを探しだし、かぎりなく慰安を感じ、内面的に多くの恩恵をうけてきた。その思想をどこまで理解できたかは、はなはだ心もとないが、その行間から伝わってくる迫力や情熱を感受すれば充分であったし、その責を負うべきどんな存在もなかった。書物はいったん作者の手からはなれると独立した客観的な存在となって、普遍的に人の心を支えることがあるが、「あれほどに人を助けてきた人」とあるので、いろんな具体的な人助けもあったことがわかる。

散歩や買い食いやTVを観ることなどが好きなことはなにかで読んで知っていたので、物書きの時間以外は、そんなことをしていたようにおもっていたが、そうではなかった。それらを止めてまで人につくし、人の心の支えになり、人を助けてきた人ということから、どうしても宗教者のイメージがうかんできてしまう。しかし、「目の前の人を助けるかどうかというのは、相対的な善悪にすぎない」と親鸞をとおして語っている吉本自身が人助けをしたとしても、それは相対的な善にしかすぎず、このため、黙ってするほかなかったし、そのことを文章にするはずもなかった。たんなる一読者にはわからなくて当然であったのである。善いことをするときは黙ってなせというようなことを書いていたのも、この脈絡から理解できる。

『なんであんな死に方をしなくちゃいけなかったんだろう?』という疑問を抑えることができない中、娘である著者は、イギリスにある神聖な丘の上で神の声をきいたという。

これまでは、どちらかといえば、家族(娘)の眼による父親像であったが、その神の声をきいてからは作家の眼が加わる。

『父は常に自分を後回しにし、不快な状況にはストイックによく耐え、常になにかと闘っていた。闘いを望んでいた。愛と安らぎよりはむき出しの真実を好んだ。』

さっそく作家の眼をとおして父を見て、その本質にせまっている。「不快な状況にはストイックによく耐え」るというイメージは、吉本自身が父親から学んだという父の像そのものではなかったか。自らの思想による絶対的感情から外の世界をみると、それを問い直そうとすると、闘わざるを得なく、闘いを望まざるを得なかった。愛と安らぎよりもむき出しの真実を好んだ、という見方はまさしく作家の眼による。たしかに、いつも真実に向きあい、真実にせまり、愛と安らぎを説く思想ではなかった。愛について語ることもあり、精神的にも肉体的にも疲れたら休息をとるのがよいと安らぎの極意も語った。しかし、それらよりも真実に肉薄するほうから主調音がきこえてくるのである。やはり、若いとき、「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によって ぼくは廃人であるさうだ」、と詠んだ詩人である。

そういった父なら、あの状況を受け止められたかもしれず、理解さえしていたかもしれないと納得することで、『父の苦しそうな姿よりも優しい笑顔のほうがリアルに思える』ようになって、著者はそんな面影を抱きつつふたたびやさしい父と向かい合っている。

著者は、最終近くで、「私も私の書いたものも、誰のことをも癒すことはできない」とした上で、「できるたったひとつのこと」として「その人の中に埋まっているその人だけの癒しのコードに触れて、活気づけることはできる。自分の足で歩む力を奮い立たせることはできるかもしれない。」と書いているが、かなりシビアな問題意識である。

人や書物がたくさんの人を癒したといっても、じつはだれをも癒していないことはよくあることである。逆に、だれをも癒していないといっても、じつはたくさんの人を癒していることもありえることである。よくある主観と客観の乖離の問題にすぎないからである。著者がだれのことをも癒すことはできないというが、それは現実に人を癒すこととは関係がない。

癒しという言葉は、吉本父の時代にはほとんどなかったが、最近、どんな理由からか、さかんに語られる。かなり主観的な言葉で、その意味合いやその方法が人によってかなり違っている。原因を問わず治癒のイメージが先行する。個々人を取りまく様々な状況を前提にするが、その状況そのものは問われない。この状況論を父はさかんに語って真実にせまったわけであるが、その癒しを語る娘はそれを受け継いでいるといってよい。

著者がその人だけの癒しのコードに触れて、活気づけることができる、自分の足で歩む力を奮い立たせることができるというとき、これらはすべて、人を癒しに向かうように励ます応援歌のようにきこえてくる。

参考文献
吉本隆明「今に生きる親鸞」(講談社+α新書)
「吉本隆明全著作集1 定本詩集」(勁草書房)

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吉本隆明「こだわり住んだ町」

2016年05月31日 | 吉本隆明

吉本隆明「背景の記憶」カバー(宝島社)




吉本隆明「背景の記憶」(宝島社)は、筆者の身辺にまつわる文章を集めたもので、多くの短篇が収められているが、そんな中に「こだわり住んだ町」(初出:86・7「MANCLUB」Vol 7)という超短篇がある。吉本が昭和29年(1954)以降に住んだ町のことを書いたものだが、その後半部を次に引用する。

『そんなことをいうわたしも、大学を出てからこのかた、日暮里・谷中のあたりに前後四、五年、田端界隈に前後五年、御徒町に三年ほど、文京団子坂に十年以上、本駒込に十二年ほど住みついてきた。よくかんがえると、山手環状線の御徒町、上野、日暮里、田端、駒込駅の内側を出ないで、こだわりつづけたことになる。なぜこの地域に執着しつづけてきたのか、じぶんの心に問いつめてみると、何となく無意識の愛着を穿[ほじ]くられたような、狼狽した気分になってくる。よくかんがえると、わたしが半生こだわって住みついた界隈は、東京の「下町」が「非下町」と眼に視えない境界を接した場所だ。ちょっと坂道を駆け下りれば下町の情念がまだ濃い色合いを残しており、人々は人懐っこく親愛にみちている。
 またちょっと坂道を駆け上がれば、「下町」的な情緒を逃れて、都会風の素知らぬ顔に帰ることもできる。わたしは無意識のうちに、そんなわがままがきく場所を、匂ひのようにかぎわけて住んできた気がする。これはじぶん自身の資質とも生涯とも、まだ和解できないでいるわたし自身が、幼年のころのじぶんの姿と遊ぶのにふさわしい環境を択んでいることだ。そう言えないだろうか。』

富士神社 動坂上 与楽寺坂下




吉本は、昭和29年(1954)12月に谷中のよみせ通り近くのアパートに住みはじめ(「坂の上、坂の下」)、以降、谷中・日暮里、田端、御徒町、団子坂、本駒込に住み続けてきた。

そうして住みついた界隈は、東京の「下町」が「非下町」と眼に視えない境界を接した場所といっているが、端的にいうと、その下町とは坂の下で、非下町とは坂の上である(「坂の上の漱石、坂の下の鴎外」)。

非下町とは、山の手といわない吉本流のおもしろい表現であるが、坂下の下町から坂を上るにつれて下町らしさが次第に失われる、そんな場所をさしている。もっといえば、坂上でも下町らしさを残すところがあるので、そんな場所も含む。東京でそんな雰囲気をかすかであるが感じさせる坂上は、たとえば、団子坂上から西へ延びる大観音通りや高輪の二本榎通りなど。

団子坂下 団子坂上 団子坂上




「ちょっと坂道を駆け下りれば」「ちょっと坂道を駆け上がれば」と小気味よく響く。人懐っこいが時としてわずらわしい感じを抱かせる下町と、そんな下町の情緒を逃れることができるが時として冷たい感じのする非下町との間で吉本はゆれている。

どちらにも行けるところを無意識のうちにかぎわけて住んできたというが、それは、自身の資質とも生涯ともまだ和解できないでいるじぶん自身が幼年のころを想起してその姿にふさわしい環境を択んでいるから、と自らの心の深層をあばく。この詩人にしか云えない言葉のような気がするのは、こんな超短篇に書いているせいでもある

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「坂下の鴎外、坂上の漱石」

2016年04月09日 | 吉本隆明

吉本隆明は「私の下町」(『サライ』14号 2007 小学館)という記事で下町とともに坂について次のように語っている。

『月島や深川のことばかり申しましたが、私が戦後に主に暮らしたのは谷中、千駄木一帯で、こちらもまごうことなき下町です。家内の実家が谷中でして、この辺りを転々と移り住みました。谷中には坂がありましょう。その坂の上と下では、何となく格差があるのが面白いんです。
 坂の上は寺町でちょっといい家がある。坂下はもう庶民の町で荒っぽい。人物でいいますと、坂上をすまして歩いているのが、劇作家岸田國士のお嬢さんで詩人の岸田衿子さん。坂下を赤い顔して歩いているのが古今亭志ん生。おふたりには散歩の折によく行き合いました。岸田さんが下の商店街に来ると、美人ではないのですが(笑)よく目立つのですな。もちろん私は坂下派です。つい最近まで、坂下の谷中銀座の散髪屋に通っていました。
 下町の楽しさのひとつに路地歩きがあります。以前は同じ道を通らずに、一筆書きのように谷中、千駄木の路地を歩いては悦にいっていました。でも最近は目と足が弱くなって、ほとんど出歩かなくなってしまいました。
 坂にこだわるようですが、千駄木に住んだ森鴎外[鷗外]と夏目漱石を、私は勝手に「坂下の鴎外、坂上の漱石」と呼んでいます。鴎外は団子坂下の谷中を、漱石は坂上の本郷をよく散歩していたと考えるからです。昔の話ですが散歩中、谷中蛍坂下に鴎外の小説『青年』に登場するような古い家を見つけましたよ。』

谷中銀座 御殿坂 吉本隆明の晩年の談話であるが、これから坂に興味・関心を持っていたことがわかる。もっとも、「坂の上、坂の下」という、若い時の坂にまつわる超短篇小説を書いているので、坂は、このあたりに住みはじめたときから日々の生活でよくなじんでいた。

もともと、月島生まれ(大正13年(1924)11月25日)、新佃島育ちで、十歳(1934)の頃から深川・門前仲町にあった学習塾に通い、十三歳(1937)で入学した東京府立化学工業学校も深川で、ずっと坂のない所で育っている。十八歳(1942)のとき米沢高等工業学校に入学したが、米沢は盆地で坂のある土地ではない。その頃、一家は葛飾区上千葉(現・お花茶屋二丁目)に移住したが、ここは坂のない下町である。その後、二十歳(1944)のとき東京工業大学に入学したが、大岡山や大学の周辺には坂はあるが(以前の記事)、駅のあたりはそうでもなさそうである。このように、吉本隆明は、坂とはほとんど縁のないところで育ち生活してきた。

団子坂下 谷中 そんな吉本が坂とであったのは、「坂の上、坂の下」からもわかるように、谷中である。

「その坂の上と下では、何となく格差があるのが面白いんです」と云うように、坂上と坂下の違いを感じとっているが、これは吉本の感性からすればしごく当然のことであった。坂上は山の手、坂下は下町、であるが、一般的な意味での山の手と下町ではない。都内西側の山の手地域内にある坂の上と下のことで、坂下の下町とは、いわば、山の手内下町である。

この地域(台東区、文京区、千代田区、新宿区、港区、・・・)は、標高のある台地が単に広がるのではなく、いたるところで浸食され、たくさんの谷が入り込んで、複雑に凹凸が形成され、このため多数の坂ができている。このことは、当ブログでも度々書いてきた。

いまでも、坂のある山の手地域を歩けば、静かでつんとすました冷たい感じの住宅街やビル街のある坂上から、坂を下ると、うるさくわい雑であるが人々との親和性を感じさせる坂下に至る。そんな坂上と坂下があちこちにある。

鴎外の「青年」に次のように、主人公が下宿を見つける場面があるが、そこが初音町(旧町名)で、ここに下る蛍坂下に、吉本は、そのような家を発見した(「坂の上、坂の下」にもある)。

『今日も風のない好い天気である。銀杏の落葉の散らばっている敷石を踏んで、大小種々な墓石に掘ってある、知らぬ人の名を読みながら、ぶらぶらと初音町に出た。
 人通りの少い広々とした町に、生垣を結い繞らした小さい家の並んでいる処がある。その中の一軒の、自然木の門柱に取り附けた柴折戸に、貸家の札が張ってあるのが目に附いた。』

鴎外は坂下の谷中をよく歩いたとあるが、それは、「青年」のたとえば次のような描写からだろうか。

『時計を出して見れば、まだ八時三十分にしかならない。まだなかなか大石の目の醒める時刻にはならないので、好い加減な横町を、上野の山の方へ曲った。狭い町の両側は穢(きた)ない長屋で、塩煎餅を焼いている店や、小さい荒物屋がある。物置にしてある小屋の開戸が半分開いている為めに、身を横にして通らねばならない処さえある。勾配のない溝に、芥が落ちて水が淀んでいる。血色の悪い、瘠せこけた子供がうろうろしているのを見ると、いたずらをする元気もないように思われる。純一は国なんぞにはこんな哀な所はないと思った。
 曲りくねって行くうちに、小川に掛けた板橋を渡って、田圃が半分町になり掛かって、掛流しの折のような新しい家の疎(まばら)に立っている辺に出た。一軒の家の横側に、ペンキの大字で楽器製造所と書いてある。成程、こんな物のあるのも国と違う所だと、純一は驚いて見て通った。
 ふいと墓地の横手を谷中の方から降りる、田舎道のような坂の下に出た。灰色の雲のある処から、ない処へ日が廻って、黄いろい、寂しい暖みのある光がさっと差して来た。坂を上って上野の一部を見ようか、それでは余り遅くなるかも知れないと、危ぶみながら佇立している。』

漱石の「三四郎」には次のような場面があるが、これなどはたしかに坂上(本郷台地)からの描写である。

『団子坂の上まで来ると、交番の前へ人が黒山のようにたかっている。迷子はとうとう巡査の手に渡ったのである。
 「もう安心大丈夫です」と美禰子が、よし子を顧みて云った。よし子は「まあ可(よ)かった」といふ。
 坂の上から見ると、坂は曲がっている。刀の切先のようである。幅はむろん狭い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分遮っている。其後には又高い幟(のぼり)が何本となく立てゝある。人は急に谷底へ落ち込む様に思はれる。其落ち込むものが、這い上がるものと入り乱れて、道一杯に塞がっているから、谷の底にあたる所は幅をつくして異様に動く。見ていると目が疲れるほど不規則に蠢いている。広田先生はこの坂の上に立って、
 「是は大変だ」と、さも帰りたそうである。四人はあとから先生を押す様にして、谷へ這入った。其谷が途中からだらだらと向へ廻り込む所に、右にも左にも、大きな葭簀掛(よしずが)けの小屋を、狭い両側から高く構へたので、空さえ存外窮屈にみえる。往来は暗くなる迄込み合っている。其中で木戸番ができる丈大きな声を出す。「人間から出る声じゃない。菊人形から出る声だ」と広田先生が評した。それほど彼等の声は尋常を離れている。』

吉本は、坂下派を自認しているが、それは谷中などの坂下に長く住んだためだけでなく、その感性・思想に由来するように想われ、興味深い。いってみれば、坂上の高級性の中に低俗性を見て、坂下の低俗性の中に高級性を見るような感性・思想。

参考文献
石関善治郎「吉本隆明の東京」(作品社)

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吉本和子「寒冷前線」

2012年10月14日 | 吉本隆明

俳人、吉本和子の句集である。

作者は、三月に亡くなった吉本隆明の妻にして、二人の娘(ハルノ宵子、吉本ばなな)の母でもある。京都の三月書房からのメールで10月9日に死去したことを知った(ニュース)。

この句集は、吉本隆明の妻によるものということで購ったが、よい句が多いように思った。追悼の意味から、ぱらぱらとめくって印象に残ったものや気に入ったものをいくつか、以下に、掲げる。(写真は、私のアルバムからあうようなイメージのものを選んだが、無理にこじつけたものもある。)

 生き暮れて猫を抱けば猫温し


 三月の景蒼ざめて日蝕す


 夢で行くいつもの街に迷う春


 男坂のぼり梅観て女坂

湯島天神男坂 湯島天神女坂


 仲春の坂のぼりゆく下りるため

三崎坂 三崎坂


 余命への祭りたけなわ蝉しぐれ

玉川上水公園


 小さき花集め紫陽花掌に余る

紫陽花


 露路裏にコスモス招く入りてみる

昭和記念公園


 逝く猫の目を閉じやれば月のぼる


 老猫の目も和みたる小春かな

昭和記念公園


 風は北風に変わるや遠く貨車の音


 病み猫を抱けば部屋染む冬茜

坂好きとしては、坂の句がうれしい。はじめのは、湯島天神の男坂・女坂であろうか。次のは、どこか不明だが、谷中の三崎坂のような比較的長い坂かと思い、その写真を貼り付けた。谷中の生まれだそうであるので、ちょうどよいと思ったからでもある。(吉本隆明「坂の上、坂の下」)

吉本家は、猫好き一家のようで、そのためか、猫を詠んだ句も多い。

最後の二句などは、その貨車の音が聞こえるようで、また茜色に染みた部屋が思い浮かんできて、北風の夜の寂寞や病み猫の様子が心にしみ込んでくるかのようである。

「「寒冷前線」は、わたしがこの一年十ヶ月間に「秋桜」誌に投稿した全句である。二年前までの私は、自分が俳句という表現方法で、自己表出を試みる事になろうとは、思ってもみなかった。」

「あとがき」(平成十年七月)の冒頭である。晩年になってから句作をはじめたようであるが、その才能がよくあらわれていると思う。

吉本隆明は、昭和36年(1961)から平成9年(1997)まで『試行』を編集発行していたが、その事務を和子が担当していた。

「周知のように『試行』は直接予約購読制という独特の販売方式をとっていた。当然のことながら名簿、会費、発送の事務作業が欠かせないものになる。作業は煩雑を極める--最盛時七千部を上廻った購読者の受付、予約切れの通知、住所変更etc.。創刊以来、その事務作業を担ってきたのが、隆明の妻・和子だ。」(石関善治郎「吉本隆明の東京」)

そうとうにむかしだが、私も、ほんの短い期間、購読したことがある。そのときの思い出であるが、あるとき、住所表記の変更かなにかの手違いで、二冊送られてきたことがあって、一冊を送り返したところ、お詫びの手紙が送られてきた。送り返すのに要した分の切手も同封してあり、その簡潔だが丁寧な文面とともにこちらがかえって恐縮する思いであった。しかし、もっと驚いたことがあった。その手紙の書体である。ペン字であったが、流れるようにすらすらと書いたうつくしく品格のあるすばらしいものであった。おもわず、私は、隆明はこの字に惚れたのか、などと思ったのであった。

参考文献
吉本和子「寒冷前線」(深夜叢書社)
石関善治郎「吉本隆明の東京」(作品社)

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吉本隆明「坂の上、坂の下」

2012年08月08日 | 吉本隆明

『冬はじめの午後五時は、もう薄ら闇につつまれていた。西の空かわずかに残りのひかりをあげている。男は坂の上から傾斜に沿ってひろがる街筋を眺めるのが好きだと言って遠い眼をすると、わたしを物影に追いやるような手つきをして、谷中商店街を見下ろす急な階段の上で佇ちどまった。こんな表情になったら、男を放っておくより仕方がない。わたしは階段の二段目のところに腰を下ろして、煙草をとりだした。商店街の背景には駒込台の木立や家並みがシルエットの黒になって、薄明るいだけの空の下にもり上っている。学生時代はじめて家を出る男の言うままに、この坂上に佇ったとき、思わず「此処だ」と口のなかで声を呑んで、彼と顔を見合わせたときのことを思い出す。男はこの商店街の外れを右に曲ったところに下宿を決めた。男はそのときの思いにふけるかのようだった。』

谷中銀座 谷中銀座 吉本隆明が三月に亡くなってから、さかんに追悼特集が組まれたり、追悼号が出たりしているが、その中の『文藝別冊 さようなら吉本隆明』(河出書房新社)に載っていた「吉本隆明 未刊行小説」には少々驚いた。いずれもかなり短い三つの短篇であるが、小説を書いていたということにびっくりしたのである。

上記は、その一つ「坂の上、坂の下」の冒頭部分である(といっても、きわめて短いから、これだけで全体の1/4程度にもなる)。他の二つは、「ヘンミ・スーパーの挿話」「順をぢの第三台場」。

その後に載っていた樋口良澄の「解題 物語を書く吉本隆明」によれば、これらの短篇は「週刊新潮」の企画広告として掲載されたもので、このため、目次にも掲載されなかった。上記は1999年1月14日号に載った。「スーパー」の一部は、なにか別のもので読んだような記憶があるが、なにか思い出せない。

一枚目の写真は、前回の七面坂上を左折しちょっと歩き坂上の手前から見た谷中銀座、二枚目は坂上から見た谷中銀座である。

谷中銀座(夕やけだんだん) 谷中銀座 一枚目は階段下で、この階段が「夕やけだんだん」である。二枚目は、階段下の谷中銀座である。日暮里駅からは、御殿坂を上りそのまままっすぐに西へ向かうと、この階段の上にでる。

この坂上に来たとき、思わず「ここだ」と声を呑んだという「男」と「わたし」が吉本自身で、その体験が投影されている。

『昭和二十九年(1954)十二月、隆明は上千葉の家を出た。工場のある青砥=京成青土駅と住まいのある上千葉=京成お花茶屋駅は電車で一駅だ。が、いまの隆明は、母校・東京工業大学へ「長期出張」で通う身だ。山手線に乗り換えるためには、工場と反対、上野、日暮里方向に向けて京成線に乗る。そんなある日、日暮里に下り立ち、「この辺りにきめた」のだろう。』

石関善治郎「吉本隆明の東京」(作品社)からの引用である。以下も、同著を参考にした。

吉本一家は、昭和十六年(1941)十二月頃、新佃島から葛飾区上千葉四一八(現・葛飾区お花茶屋2-15-8)の営団住宅を勇(隆明の長兄)名義で購入し、引っ越していた。

上記のように、昭和29年(1954)12月、吉本は上千葉の家を出たが、そのころ、日暮里駅で下車し、御殿坂を上り、谷中の坂上にはじめてやってきたことが上記の短篇の背景となっている。隆明三十歳のときである。

七面坂上 昭和31年(1956)の東京23区地図をみると、階段(夕やけだんだん)はまだなく、日暮里駅から西へ進むと、そのまま七面坂を下る道となっているので、坂上とは、七面坂の坂上と思われるが、物語では階段の上となっている。

この家を出るときのことを妹の橋紀子は『兄隆明の思い出』の「ファンファーレ」で次のように書いている。

『家には、父と私と隆明の三人がいた、早春の午後のことだった。
「いやー、そのー、あのー、」と隆明が、今でも照れ隠しの時にする、頭をボリボリと掻く動作をしながら、父と私のいる部屋に入ってきた。
 隆明は、"ちゃぶだい"の前に正座し、父に向かって言った。「親父さん、俺、やっと世の中に出ていく自信が出来ました。永い間お世話になり、有難うございました」と、深々と一礼したのだ。
 父は「ああ、そうか」と、一言、お腹の底から搾りだした様な、そして呻く様な声で応え、老いて小さく萎んだ目蓋を、さらにしばたいていた。父は泣いていたのだ。父は素早い動作で、キセルに刻み煙草を詰めると、傍らの火鉢に、長いあいだ顔を埋めていた。それを機に、隆明は、静かにその場を離れたのであった。』

感動的な情景が思い浮かぶようである。吉本隆明にしても三十歳にしてやっと世の中に出ていく自信ができたと云ったこともそうだが、なりよりもそういわせた父の存在が大きく感じられる。

吉本隆明は、自身を少年から青年になりかかる頃を顧みて、『べつのことではかなり鋭敏な感受性と理解力とをもちながら、生活については、「貧乏人の箱入息子」といった程度の理解力しかもたなかった少年』(「過去についての自註」)などと卑下しているが、親父さんは、その箱入息子がいよいよ独立のときになって、寂しくてそれに黙って耐えている。それはつらいことに違いないが、明治生まれの父にとって別離はそうしてやり過ごすしかなかった。

隆明は、「この商店街の外れを右に曲ったところに下宿を決めた」が、そこは、谷中銀座通りから右折し、よみせ通りを北へちょっと進んで左折した小路の途中にあった。駒込坂下町一六三番地(現・文京区千駄木3-45-14)の三和荘である。小説では下宿となっているが、四畳半の部屋が上下で十六室ある単身者用のアパートであった。

よみせ通り よみせ通り近く 前回の富士見坂下を右折し、北へちょっと歩き左折し、小路を通り抜けると、よみせ通りの延命地蔵尊の前にでる。ここを左折し、南へ向かう。一枚目の写真はその途中で撮ったものである。

途中、右折すると、三和荘であるが、残念ながら、このときすでになく、こぢんまりとした戸建て住宅に変わっていた。そのあたりで近所の人に尋ねたら、三和荘はここにあったとわきを示した。数年前はじめてこの辺りを訪れたとき、かなり古くなった三和荘を見ているが、すっかり変わっている。写真を撮ったような記憶もあるが、残っていないので、記憶違いかもしれない。石関の著書には、その古くなった三和荘の写真が載っている。記憶が薄れているが、わたしが訪れたのは、この石関の著書(2005年12月発行)を参考にしたのであろう。

三和荘のあった小路を通り抜け、不忍通りに出て、千代田線千駄木駅に向かったが、その通りに出る前に振り返って撮ったのが二枚目の写真である。

隆明は、ここに住みはじめた次の年、昭和30年(1955)6月東洋インキ製造株式会社を退職し失職している。これについて次のようなことを書いている。

『ある時期から、ここでも、労働組合の仕事を負い、あたうかぎりの準備ののち壊滅的な徹底闘争を企てたが敗北におわり、たらい廻しのように職場をめぐりあるき、ついに本社企画課勤務を命ずという辞令によって捕捉されるに至って、不当労働行為であると主張して転勤を肯んぜず、つめ腹を自らの手できって、退職した。』(「過去についての自註」)

また、そのころの谷中のあたりを次のように書いている。

『わたしはまだ独りでこの界隈のアパートに住んでいたとき、どうしようもない孤独感にさらされると、よく銭湯へゆき、見知らぬ群衆のすぐとなりで湯にひたり、いわば生理的にこの孤独感を中和した。この界隈の商店の人々は、二、三度、買い物をして顔をおぼえただけで、朝でかけるときや、夕刻かえるとき眼が合うと挨拶をしかけてきた。それは時としてわずらわしい感じを抱かせたが、銭湯のようにその挨拶を浴びて、慰安を感じたこともあったのは確かである。』(「都市はなぜ都市であるか」)

このアパートは、隆明が自宅を出てはじめて一人で暮らしはじめ、以降、この界隈に住み続けることになる点で、特筆すべきところであるが、それだけではない。自身が人生最大と云う事件が起きたのもここに住んでいたときである。

以下は「吉本隆明全著作集 7 作家論」(勁草書房)の「鮎川信夫」からの引用である。

『わたしは当時、回復するあてのない失職と、ややおくれてやってきた難しい三角関係とで、ほとんど進退きわまっていた。
 職を探しにでかけて、気が滅入ってくると、その頃青山にあったかれの家へ立ち寄った。そのままとりとめのない話をしては、夜分まで入りびたったりしていた。』
『この時期、わたしの人性上の問題について、もっとも泥まみれの体験をあたえ、じぶんがどんなに卑小な人間にすぎないか、あるいは人間はいかに卑小な人間であるかを徹底的に思いしらせ、わたしのナルチシズムの核を決定的に粉粋したのは、失職後の生活上の危機と、難しい恋愛の問題との重なりあった体験であった。そうして、この体験においてわたしの人性上にもっとも痛い批判を与えたのは、記憶によれば、一方は鮎川信夫や奥野健男であり、一方は遠山啓氏であった。わたしは、ひとかどの理念上の大衆運動をやったうえで、職をおわれたとおもって無意識のうちにいい気になっていたが、現実のほうは、ただわたしをひとりの失職して途方にくれた無数の人間の一人としてしか遇しはしなかった。これはしごく当然であるが、当時の幼稚なわたしには衝撃であった。また、いっぽうでわたしは女の問題で足掻き苦しみながら、じぶんの精神を裸にされたただの人間にすぎなかった。』

戦後まもないころ隆明は、千代田稔という日本人名をもった朝鮮人の編集者を通じて荒井文雄と知り合い、二人で「時禱」というガリ版の詩誌をはじめた(昭和21年(1946)11月~22年3月頃)。

難しい三角関係とはその友人の妻との恋愛である。上記の石関が吉本和子に問い合わせた返信などによれば、その友人は、昭和24年(1949)6月に和子と結婚し、詩のみならず絵画にも通じていたことから、住んでいた文京区向ヶ丘弥生町のアパートは、ある時期、隆明を含めた若い芸術家のたまり場であったという。昭和31年(1956)初め頃から隆明と和子との個人的なつき合いが始まり、和子は同年6月頃家を出て、入谷でひとり暮らしを始めた。

そして、和子は同年7月頃三和荘で隆明と同棲を始めた。その間のことは、川端要壽「墜ちよ!さらば -吉本隆明と私-」(檸檬社)に詳しい。著者は隆明の東京府立化学工業学校(府立化工)の同級生である。その直接的なきっかけは、同著によれば、次のようなことであった。

『ある日、突然彼はウチのの衣類一切からふとん一式まで、自分の家に持ち運んでしまったんだ。ウチのはいくところもなく、俺のところへ転がりこんできたわけだ。そう、彼から離婚届の用紙が送られてきたのは、それから三ヵ月ほど経ってからだったかな。そして、彼はその用紙を受け取りにきた際、俺にこう言ったんだ。七年間のうちには、君たちの恋愛の結末がつくよ、ってね』

その頃の二人の生活について隆明は「わたしが料理をつくるとき」で次のように書いている。

『わたしにとって、その料理(おかず)を作ると、ある固有な感情をよびさまされるものを二、三記してみる。
(一) ネギ弁当
 (イ) カツ節をかく。カツ節は上等なのを、昔ながらの削り箱をつかってかく。
 (ロ) ネギをできるだけ薄く輪切りにする。
 (ハ) あまり深くない皿に、炊きたての御飯を盛り、(ロ)のネギを任意の量だけ、その上にふり撒き、またその上から(イ)のカツ節をかけ、グルタミン酸ソーダ類と、醤油で、少し味つけをして喰べる。
 (略)
(一)のネギ辨は、職なく、金なく、着のみ着のまま妻君と同棲しはじめた頃、アパートの四畳半のタタミに、ビニールの風呂敷をひろげて食卓とし、よく作って喰べた。美味しく、ひっそりとして、その頃は愉しかった。』

この短篇物語にある次の部分は、この頃が背景となっている。

『二つの女性の影が通り過ぎる。ひとりの女性には不倫を仕掛けて下宿の部屋で共棲しながら、この商店街を往き来した。まるで修羅街であるかのように男の脳裏には暗く映った。お茶やの小母さんだけが、まるで新婚の幸福な若いカップルをいたわるような優しさと親身で対応してくれて、男の苦しみや迷いを和らげてくれた。』

ネギ辨を食べてひっそりと愉しかったが、一方で、職がなく生活の危機が迫ってくる。商店街が修羅街のように暗く映った。その苦しみや迷いの感情を和らげてくれたのは、お茶やの小母さんだけであった。

現実的には、隆明は、同棲を始めた次の月(昭和31年(1956)8月1日)から、大学時代の恩師である遠山啓の紹介で、長井・江崎特許事務所に勤め始める。その後、アパートの契約切れ前の同年10月頃、三和荘を出て北区田端へ引っ越しをしている。そして、和子の離婚が同年11月2日に成立し、次の年5月31日に入籍している。三和荘を出る直前から田端へ引っ越した頃、ようやく、いろんな問題の解決が見え始めてきた。

吉本隆明にとって、谷中の坂の上は、思わず「ここだ」とこころの中で叫んだところだが、その坂の下での生活は苦難の連続であった。坂上に来た時期は、失職の問題も三角関係もすでにあったか、あるいは、遠くない将来に予見されるときであったことを考えると、なにかそういった困難な境遇に自ら意志を持って飛び込んでいくかのように見えてくる。そうすることが初めから決まっていたことであるかのように。

坂の上で自らの運命を感知したともいえるが、その感性は、変移し易い恣意的なものではなく、もっと根源的で本質的なものであった。たとえば、初期の幻想恋愛詩「エリアンの手記と詩」でイザベル・オト先生に次のようなことを云わせている。

『エリアンおまえは痛ましい性だ おまえは誰よりも鋭敏に、哀しさの底から美を抽き出してくる そしておまえはそれを現実におし拡げるのではなく地上から離して、果てしなく昇華してしまうのだ それは痛ましいことなのだよ おまえは屹度(きっと)人の世から死ぬ程の苦しみを強いられる 誰でもが人の世の現実はその様なものだときめている、その醜さ、馴れ合い、それから利害に結ばれた絆--そんなものがおまえには陥し穴のように作用する 何故陥されるのかも知らない間に陥ちて傷つくだろう おまえはきっと更めて人の世を疑い直す そうして如何にもならなくなった時、又死を考えはしないかと寂しくおもうのだ』

哀しさの底から抽き出される美を地上から離して、果てしなく昇華してしまうという純粋さ、それゆえ、人の世から死ぬ程の苦しみを強いられるという予感、そんな感性が基底にあることは間違いなく、もっといえば、それがすべてのはじまりである。

話がいきなり変わるが、後年、吉本和子は、自らの句集「寒冷前線」のあとがき(平成十年七月)で次のちょっと驚くことを書いている。

『結婚して間もなく夫から「もし、あなたが表現者を志しているのだったら、別れたほうがいいと思う」と云われた。理由は、一つ家に二人の表現者がいては、家庭が上手く行く筈がないという事であった。吃驚したけれど夫は既に、二冊の本を自費出版していたし、ちょっと辛どい恋の後でもあったので、友人とも相談し「ま、子育ても表現のうちか」と納得することにした。』

これまで発表されてきたものをつなぎ合わせると、その経過がわかってくる。しかし、それでもよくわからないことがあるが、これなどもその一つである。

この短篇には、森鴎外『青年』の主人公の下宿先のモデルにちがいない家が「谷中螢坂の片方が崖になった細く右に曲って商店街に出る道のつき当りに」あったとある。この家は隆明が散歩の途中に見つけたのであろうが、その「右に曲って」は、「左に曲って」であると、この細い坂を下ってきて左に曲がってからまっすぐに下る実際の道筋とあう。

参考文献
石関善治郎「吉本隆明の東京」(作品社)
「資料・米沢時代の吉本隆明について-その八
 兄隆明の思い出」(編集発行 齋藤清一)
吉本隆明「詩的乾坤」(国文社)
「吉本隆明全著作集 15 初期作品集」(勁草書房)
「吉本隆明全著作集 7 作家論」(勁草書房)
「吉本隆明全著作集 1 定本詩集」(勁草書房)
川端要壽「墜ちよ!さらば -吉本隆明と私-」(檸檬社)
吉本和子「寒冷前線」(深夜叢書社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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哀悼 吉本隆明

2012年03月17日 | 吉本隆明

きのうの朝、パソコンを立ち上げメールを見ると、京都の三月書房からメールが入っていて、それにより吉本隆明が死去したことを知った。1月に肺炎にかかり、日本医科大付属病院に入院していたところ、3月16日午前2時13分に亡くなったという。

高齢であったので、遠くない将来にこういったときがくると覚悟していた。しかし、いざなると、単なる一読者ではあるが、やはりショックであり、それがまだ続いている。その明け方、ちょっと大きめの地震で起きてしまったが、そのときすでに亡くなっていたと思い返すと、それを知らせるものだったなどというらちもない思い込みに陥るほどである。平成8年(1996)伊豆の海岸での水泳事故のときも同じであったが、その後、一命をとり止めたので、その衝撃感は和らいだのであったが。

その前日、仕事帰りによく行く書店によって、ちょうど、吉本本を二冊購ったところだった。そのうちの一冊は、石川九楊(書家・評論家、京都精華大学教授)との対談本『書 文字 アジア』(筑摩書房)で、もう20年も前の対談であるが、新刊である。吉本の発言を読むと、言語について基本的で重要な考えが随所にあらわれる。

「言語以前の言語
 吉本 ・・・〈言語以前の言語〉、つまり人間で言いますと胎内にあるときから生まれて一歳ぐらいまでのあいだが要するに〈言語以前の言語〉の段階です。歴史的に言うならば、未開・原始のある時期までがたぶん〈言語以前の言語〉ということになる・・・」(29~30頁)

言語を考えるとき、言語以前の言語から入るという、根源的な方法が示されている。もとへもとへとたどり、初源的なところまで突きつめる。

「内臓の言葉と感覚の言葉
 吉本 言葉というものを考えるときにですね、言葉以前の言葉というところまで考えを突きつめていきましてね。結局いちばん確からしいと思えるから、そう考えるようになったんですが、言葉以前の言葉を考えれば、〈内臓の言葉〉と〈感覚の言葉〉というところまでいっちゃうのです。〈内臓の言葉〉というのは、ぼくが『言語にとって美とはなにか』を書いたときに、自己表出といったものです。内臓の言葉以前の言葉というのと、感覚の言葉つまり語感からつくられていく言葉以前の言葉というのが、結局は両方は違うんだということ。そのふたつが綯い交ぜ(ないまぜ)の状態になって表出されてくるということ。言葉以前ということを考えていけば、そうなっちゃうんじゃないかと思ったのですけどね。・・・」(53~54頁)

吉本が云うところの自己表出とは内臓の言葉であり、そうだとすると、指示表出は感覚の言葉ということになる。発生学的な解剖学の三木成夫の考えから根拠を得たという。三木は、『胎児の世界-人類の生命記憶』(中公新書)などの著者で、吉本がたびたび引用するので、かなり前だが読んでみた。これで個体発生は系統発生の繰り返しという考えがあることを知った。人類史を考える上で、きわめて根源的な世界が広がっている。

「自然観と言語
 吉本 ・・・この人たち(ソシュールやヤコブソンのこと/引用者註)の言語観や言語論の背後に何かあるのかというと、もちろんやはり自然ということについての観念があるかもしれない。また自然ということの観念の背後に何があるかというと神という概念があるかもしれない。そうすると、この人たちにとっては神があって、自然というのは神がつくったものだ、もちろん人間もその被造物のひとつだということになる。そうすると、どうしても神というものが出てくる。つまり一神教の神ですね。これでいけば、どう考えたって、「れ」なら「れ」をどう書こうと意味は「れ」なんだ、また白で書こうが黒で書こうが、色つきで書こうが「れ」は「れ」だという観点になっちゃうような気がするんですよ。ところが、日本語みたいな、あるいはまたある特異な自然観をもっているところの言語では、自然ということと人間ということとが同じになっちゃうし、あらゆるものが、神というものでさえ自然と同じになってしまう。自然の動きが全部神と同じだということになって、滝が落ちていれば滝津姫だとかね、神の名前になってしまう。自然物すべてに神がくっついてくるみたいな世界になってしまうと、その世界では言葉というのは具象性から離れられないということになってしまうし、この特質がなければ少なくとも仮名文字の書というのはどうしても成り立たないのではないでしょうか。そこだと言語観自体もそうならざるをえないということに思えてくるのですね。そこがどうしても、ソシュールの言語観でも、ヤコブソンの言語観でやられても、どうも納得できないのですね。だから、日本の自然観は特殊というのではなくて、日本と同じ共通の自然観というのは環太平洋的にあるんでしょうけれども、そういうところの自然観は言語観と結びつくし、それはどうしても具象性とどこまでいっても切り離せないから、やっぱり、つまり「れ」は「れ」じゃないか、記号は記号じゃないかとどうしてもいけない。言っても言えなくはないけど、何かそれじゃおもしろくはないなといますかね、何か余っちゃうな、残っちゃうなという、どうもそこじゃないかという気がしますね。自然現象を擬人化してしまうようなところというのは、文字あるいは言語感覚や書くということが具象性から離れられないということと関わっているのじゃないかなという感じがするんですけどね。だから、ぼくらも言語以前の言語というのを考えてきたら、どうもその問題と引っかかってきたんですね。神という意識がないならば、性ということになって、背後には父がいるんですね。こちらの日本語という言葉の場合には背後に母がいるみたいなことになっちゃって、どこまでいってももうべったりということになるんですね。イメージと言葉との共通に通用する理論をなんとかしてやりたいと考えてきたんですけどね。」(59~61頁)

ソシュールやヤコブソンの言語観に対する違和感を突きつめて考え、自然と神との関係の違いに至っている。向こうは自然のみならず人間でさえ神の被造物であるが、日本を含む環太平洋的な自然観では、自然と人間が同じで、自然がなんでも神となる。滝があれば滝津姫である。このような自然現象の擬人化は、文字・言語感覚や書くことに具象性がついて離れないことになるとする。

この後、角田忠信(1926~)の日本人の脳についての研究から次のようなことを云っている。

日本人とかポリネシアの人たちに母音の「あ」と発音させると、ちゃんと左の脳で考え、ヨーロッパ人とか中国人とかは右の脳で感じる。ポリネシア語圏に属する人々は日本人も含めて全部左の脳の言語脳といわれる部分で感じるように、風の音や鳥のさえずりまで人語に近いことをしゃべっているように聞こえてしまう語圏と、そうじゃない語圏がある。

きわめて興味のある視点である。これから上記の自然現象の擬人化が起きるのだとすれば、日本人を含めてポリネシア語圏に属する人々の自然観、宗教観は、本源的なもので、そう簡単に変わるものではなく、そこから考えはじめるべきであるということになる。

本著では、主題の「書」に関し、いろんな人の書をそれぞれの視点から論じているが、特に、良寛、岡本かの子、高村光太郎についてのものが、その本質に肉薄しているようでおもしろかった。これらの人(特に、岡本)のことをさらに知りたくなってしまう。

以上、新刊本に対する簡単な感想であるが、それにしても、吉本は、表現に関する論点になると、つねに根源的な考察をすることにあらためて気がつかされる。そして、それは、これに限らず、彼がとりあげるどんな分野でもそうである。いってみれば、平面的な思考に対し、別の根本的な思考軸をうち立て、立体的な思考から不知の対象に切り込んでいく。この思考の魅力から離れられそうにない。

吉本は亡くなったが、少なくともわたしにとっては膨大な著書が残されている。荷風のいい方をまねて、余生はこれらの書物を読んで過ごしたいという気分であるというのは大げさであろうか。

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佃大橋~佃島(1)

2011年10月10日 | 吉本隆明

佃大橋西詰から佃島 佃大橋西詰から佃島 佃大橋から隅田川上流 佃大橋から隅田川下流 前回の佃島渡船の石碑のところから階段で佃大橋の歩道へ上る。一枚目の写真はそこから佃島側を撮ったもので、歩道がまっすぐ延びている。二枚目の写真は階段を上る前に佃島を撮ったものである。

上流側の歩道を佃島方面へ歩くが、上流の眺めがよい。三枚目の写真のように、橋の中程から中央大橋が見え、その向こう遠くにスカイツリーが見える。下流側には、四枚目の写真のように、勝鬨橋が見えるが、もうかなり遠くなっている。

隅田川は川幅が広いだけあって、川岸近くに高層ビルが建っていても、眺望がよい。東京の街中では見られない風景である。たまにはこういった広々とした風景のところを歩くのもよい。周りの風景は人工的だが、さわやかな風も吹くし、さらに、余りにも大量であるが、水もある。そんなことを感じながら歩いている途中、大型トラックが通ると、橋がかなり上下に揺れる。

佃大橋から佃島佃大橋東詰から湊三丁目佃島から佃大橋佃島から上流側 やがて佃島が近くなってくる。一枚目の写真は佃大橋から撮った佃島、二枚目、三枚目は橋を渡ってから対岸を撮ったもの、四枚目は佃島の防波堤付近を撮ったものである。

このあたりにくると、吉本隆明の「佃渡しで」というよく知られた詩を思い出してしまう。

佃大橋ができて佃渡しが廃止になったのが昭和39年(1964)8月で、この詩が収められた『模写と鏡』(春秋社)の「あとがき」の日付が同年11月5日である。佃大橋ができかかるころ、娘と二人で佃島に佃渡しで来たときの詩であるという。


佃渡しで

佃渡しで娘がいった
〈水がきれいね 夏に行った海岸のように
そんなことはない みてみな
繋がれた河蒸気のとものところに
芥がたまって揺れているのがみえるだろう
ずっと昔からそうだった
〈これからは娘に聴えぬ胸のなかでいう〉
水はくろくてあまり流れない 氷雨の空の下で
おおきな下水道のようにくねっているのは老齢期の河のしるしだ
この河の入りくんだ堀割のあいだに
ひとつの街がありそこで住んでいた
蟹はまだ生きていてそれをとりに行った
そして泥沼に足をふみこんで泳いだ

佃渡しで娘がいった
〈あの鳥はなに?〉
〈かもめだよ〉
〈ちがうあの黒い方の鳥よ〉
あれは鳶だろう
むかしもそれはいた
流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)を
ついばむためにかもめの仲間で舞っていた
〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉
水に囲まれた生活というのは
いつでもちょっとした砦のような感じで
夢の中で堀割はいつもあらわれる
橋という橋は何のためにあったか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあった

〈あれが住吉神社だ
佃祭りをやるところだ
あれが小学校 ちいさいだろう〉
これからさきは娘に云えぬ
昔の街はちいさくみえる
掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪みにはいって
しまうように
すべての距離がちいさくみえる
すべての思想とおなじように
あの昔遠かった距離がちぢまってみえる
わたしが生きてきた道を
娘の手をとり いま氷雨にぬれながら
いっさんに通りすぎる


佃の渡しで「現在」と「過去」が交差する。「現在」しか知らない娘によって「過去」への回想が誘発され、月島生まれ新佃島育ちの詩人は失われた風景へと還っていく。河、蟹、泥沼、堀割、橋、欄干・・・

眼の前の風景から過去がよみがえる。掘割と橋と欄干は少年が発見した悲しみ処理装置であった。そこから身をのりだして流れたが、それでも残った悲しみが掘割・橋・欄干とともにうかび上がる。記憶の中の風景が感情をよびおこし、情景の中にズームアップされるかのようである。

眼の前の風景とともに記憶の中にある街はちいさくなる。ちいさくなった距離や風景は過去だけでなく、その未来である現在を暗示する。過去から現在への歩みをふりかえる。むかし遠くてわからなかったことがわかる。すべてを知ってしまった詩人は、虚無的なところに陥らず、悲しみの風景をうちにひめながら、なお力強く、「生きてきた道を」「いま」「いっさんに通りすぎる」。
(続く)

参考文献
「吉本隆明全著作集1 定本詩集」(勁草書房)

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