東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

善福寺川・善福寺池2013(7月)

2013年07月18日 | 写真

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諏訪山

2013年07月17日 | 散策

諏訪山橋 烏森稲荷神社 諏訪山 前回の稲荷坂下を直進すると、蛇崩川緑道の諏訪山橋跡に至る(現代地図)。

一枚目の写真は、諏訪山橋跡の標柱を入れて緑道の上流側を撮ったもので、ここから先ほどの支流緑道の入口まで1km程度と思われる。この近くのベンチでちょっと休憩する。

ここから北に向かい、すぐに左折して西へ進むと、右手に二枚目のように烏森稲荷神社がある。この稲荷は、半兵衛坂上の壽福寺の境内にあったが、元禄(1688~1703)の頃に移したものという(壽福寺の説明パネル参照)。

以前、中目黒駅前から蛇崩川緑道を水源に向けて歩いたとき知ったが、このあたりから北側の丘を諏訪山と呼んだ(以前の記事)。三枚目は、諏訪山橋から北へ坂を上り、坂上から坂下側を撮ったものである。

諏訪山 諏訪山 諏訪山 下りの東横線に乗って中目黒駅を出るとまもなく、右手に小高い丘が見えてきて、このあたりも起伏の多い土地であることがわかるが、ここが諏訪山と思われる。

一枚目の写真は、上三枚目のあたりから反対側を撮ったもので、このあたりは平坦であるが、直進すると、下り坂になる。ここを北へ進むと、山手通りを越え、目黒川の宿山橋に至る。

諏訪山の北側に小川坂が東西に延びており、烏森稲荷神社の北側には烏森小(門前が小川坂上)があるので、この山は小川坂上とともにこのあたり一帯の山塊を形成している。蛇崩川を挟んで南側が稲荷坂上・謡坂上の丘陵地帯である。

現代地図を見ると、このあたりには諏訪山の名の付いた建物が多い。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図を見ると、「字諏訪山」とあるが、先ほどの諏訪山橋から北へ上ってきた道以外に道はほとんどない。こんもりとした森のある山であったのだろうか。昭和16年(1911)発行の目黒区の地図でも同じように見える。

上記の現代地図から昭和22年の航空写真を見ると、建物は少ないが、昭和38年になると、かなり増えていることがわかる。

二枚目の写真は、山の東側に行ったら出くわした坂を坂下側から、三枚目は、さらに下ってから坂上側を撮ったものである。まっすぐにちょっと急に下っており、一挙に高度を下げる。二三回曲がりながら下ると、ふたたび蛇崩川緑道に出る。ここから中目黒駅へ。

携帯による総歩行距離は10.4km。

参考文献
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)
「坂道ウォーキングのすすめ」(目黒区発行)

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稲荷坂(上目黒)

2013年07月16日 | 坂道

稲荷坂上 稲荷坂上 稲荷坂上 稲荷坂上 前回の謡坂上を直進すると、やがて東横線のガード下が見えてくる。それを右に見ながら左折し、北へちょっと歩くと、稲荷坂の坂上である。

一、二枚目の写真は、坂上から坂下側を撮ったもので、北側の眺めがよい。左右の視界は狭いが、現代の坂でこれだけ遠望できればよい方と云える。

目黒区上目黒四丁目11番と14番の間を北へ下る(現代地図)。

三枚目はふり返って坂上側を、四枚目は坂下側を撮ったものである。ほぼまっすぐに中程度の勾配で下っている。

稲荷坂上 稲荷坂中腹 稲荷坂中腹 稲荷坂中腹 一枚目の写真はちょっと下ってから坂上を撮ったもので、二枚目はそのあたりから坂下側を撮ったものである。

以前、この坂を訪れたときは、坂下からであったが、そのときとちょっと印象が違うような気がした。こんなに長い坂ではなかったように思うが、記憶も当てにならない。

三枚目は、さらに下ってから坂上側を、四枚目は、坂下側を撮ったものである。このちょっと下側に坂の標柱が立っていて、次の説明がある。

「稲荷坂(いなりざか)
 この近くに刺抜稲荷大明神があるので、稲荷坂と呼ばれるようになった。一説に、この道はかつての鎌倉道の一部とも言われ、目黒でも古い道の一つである。」

稲荷坂中腹 稲荷坂中腹 稲荷坂中腹 稲荷坂中腹 一枚目の写真は、中腹に立っている標柱を入れて坂上側を、二枚目は、そのあたりから坂下側を撮ったものである。

三枚目は、ちょっと下ってから坂上側を撮ったもので、標柱も小さく写っているが、そのちょっと下側から左(東)へ入る道がある。ここを入って、ちょっとの所に標柱の説明にある刺抜稲荷大明神がある(「東京23区の坂道」)。今回、直接確かめることができなかったが、google地図で確かめることができた。

四枚目は、さらに下ってから坂上側を撮ったものである。

石川と岡崎は、坂下の蛇崩川にかかる諏訪山橋を超えて諏訪山の方にある烏森稲荷神社がこの坂名の由来と考えているようであるが、この神社はこの坂からちょっと離れているので、標柱の説明の方が正しいように思われる。

稲荷坂下 稲荷坂下 稲荷坂下 稲荷坂下 坂下になるとかなり勾配が緩やかになって、左へ、右へとちょっと曲がっている。

一枚目の写真はかなり下ってから坂下側を、二枚目はそのあたりから坂上を撮ったものである。

三枚目は坂下側を、四枚目は坂上側を撮ったもので、このあたりが坂下と思ったら蛇崩川の諏訪山橋が坂下らしい(横関)。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図を見ると、前回の謡坂を東に進むと、四差路があり、ここを左折すると、北へほぼまっすぐに蛇崩川へ続く道筋があるが、ここがこの坂と思われる。この坂の周辺の字が蛇崩であった。

昭和16年(1911)発行の目黒区の地図では、東横線が通っており、現在とほぼ同じ道筋となっている。

目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にあるこの坂の全長、高低差、平均斜度は、168m、7.6m、4.18で、全長が短めなので、坂下の小カーブあたりを坂下としたのかもしれない。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)

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謡坂

2013年07月15日 | 坂道

謡坂下 謡坂下 謡坂下 謡坂下 前回の蛇崩川支流緑道を出たところを左折しちょっと歩くと、行く手に緩やかな上り坂が見えるが、謡坂である。

反対に右折すると、急カーブしてから、先ほどの蛇崩川緑道の蛇崩橋跡、半兵衛坂下の蛇崩の交差点へと続く。

目黒区上目黒四丁目30番と五本木一丁目6番との間を東に上る(現代地図)。

一枚目の写真はそのあたりから坂上側を、二枚目はさらに歩いてから坂上側を、三枚目はさらに進んで坂下の交差点のあたりから坂上側を撮ったもので、緩やかにまっすぐに上っている。

四枚目はそのあたりから坂下側を撮ったもので、この坂名が付いた駐車場が見える。

坂上側に標柱が立っているが、次の説明がある。

「謡坂(うたいざか)
 昭和の初め頃、この坂の近くに謡の好きな人が住んでいたので、謡坂と呼ぶようになったといわれる。」

謡坂中腹 謡坂中腹 謡坂中腹 謡坂中腹 坂をちょっと上ると、一枚目の写真のように、右側の建物の歩道わきの敷地にこの坂名を刻んだ石柱が立っている。

二枚目はさらに進んだ中腹から坂上側を、三枚目はそのあたりから坂下側を、四枚目はさらに上ってから坂上側を撮ったものである。

目黒区HPに次の詳しい説明がある。

 『「謡坂[うたいざか]」という坂は、近畿以東に40余りもあるという。そのひとつが目黒区にある。

この坂は、東横線ガード下から蛇崩川へ下る上目黒四丁目と五本木一丁目との境の道となっている。

坂名の由来については、資料が少なく、確かなものはない。目黒区郷土研究会の資料によると「ウタイ」の語源が、アイヌ語のウタ、出崎を意味するとある。蛇崩川は、昔、かなり大きな川だったらしく、その川に出崎があり、そこをこの坂がう回していたのではないかとある。

昭和17年から坂の中ほどに住む小沢夏哉さんに話を伺った。

「私が、ここに来た当時は、道幅もせまく、もっと坂らしい坂でしたよ。道幅は1間半ぐらいだったかな。追いはぎが出た寂しい坂でしたよ。坂名の由来ね… 古くから住む地元の人でないとわからないんじゃないですか」 2人、3人にきいてみたが、わからない。そこで、地元の人で祐天寺かいわいでは、一番の長老といわれる田中守太郎さんに話を伺うことにした。

「この辺には、昔は何もなかった。周囲は、畑とナラ林だけ。震災の後だったか、坂のわきに16軒長屋なんてものが建って、人がぽつりぽつりと住み始めたっけ。そこの人たちが、「坂に何か名をつけよう」ということで「うたい坂」とつけたんだね。この長屋に長唄か踊りを教える人がいたなんて話も聞いたことがあったな」

年々、古くから地元に住む人が減っていることもあって、区内にあるたくさんの坂の中でも、その名やそれにまつわる話の分かる人が少なくなってきている。

現在の謡坂は、左右にギッシリ家が建ち並らび、アスファルトで舗装された道となっている。』

謡坂中腹 謡坂上 謡坂上 謡坂上 一枚目の写真は、中腹上側に立っている標柱を坂上側から撮ったものである。

二~四枚目は、坂上近くで、坂上側、坂下側、坂上側を順に撮ったもので、坂上も坂と同じく東へまっすぐに延びている。

横関は、近畿以東には、「うとう坂」と呼ぶ坂が、四十もあるが、それらと同じような意味を持った坂は、東京には少なく、三つの坂をあげているが、その一つがこの謡坂である。他の二つは、北区王子神社近くの宇都布坂(うとうざか/旧日光街道の地蔵坂の古称)、市ヶ谷の歌坂(以前の記事)。 これらに共通した点は、かつて坂下に川あったこと、いまでも川や橋があること、その坂が岡の終わりで、平地に突き出ていること、の三つであるという。「うとう坂」は、日本の北半分に多いが、全国的に散在しているといってよく、東京に少なく地方に多い。「うとう」や「おとう」の読みであるが、当て字がきわめてい多いとある。烏頭坂、善知烏坂、鵜頭坂、宇都布坂、鵜取坂、・・・。真鶴の謡坂は、うたい坂ではなく、うとう坂であるという。結論的には、「うとう」とは、「烏頭」であって、善知烏(うとう)の「くちばし」に似たような地形、山や海浜の出崎を言ったのであろうとしている。横関は、実際の坂を取りあげて検討しているが、この坂には言及していない。

この謡坂が全国的に散在するという「うとう坂」から転訛したものか、あるいは、標柱にあるように、まったく別なことに由来するのか不明である。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図にこの坂に相当する道が見え、坂下の先で蛇崩川を横断しているが、そこまでの道筋が左へ右へと二回大きくカーブしており、この形状がウトウのくちばしに似ていたからかなどと思ってしまう。昭和16年(1911)発行の目黒区の地図には坂上の先に東横線が通っている。

目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にあるこの坂の全長、高低差、平均斜度は、171m、3.4m、1.91で、平凡な坂であるが、その坂名の由来は不思議さを感じさせる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)
「坂道ウォーキングのすすめ」(目黒区発行)

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蛇崩川緑道~蛇崩川支流緑道

2013年07月09日 | 散策

蛇崩川緑道 蛇崩川橋跡 蛇崩川緑道 蛇崩川緑道から上る坂 蛇崩川緑道 前回の半兵衛坂下を左折し、南へちょっと歩くと、蛇崩川緑道が交差する地点に至る。一枚目の写真のように、ここが蛇崩橋(蛇崩上橋)跡である(現代地図)。

ここを左折し、緑道に入り、下流側(東)に進む。以前もここを歩いたが、そのときは、上流(水源)に向かってであった(以前の記事)。それ以来であるが、なんとなくなつかしい気分になる。

二枚目は、緑道に入ってすぐのところから下流側を撮ったもので、樹木がよく育っている。

まもなく、蛇崩下橋跡に至るが、その近くから左手の一般道を撮ったのが三枚目である。西へとまっすぐに上る坂であるが、坂上は、先ほどの半兵衛坂下の蛇崩の交差点である。ここから見ると、半兵衛坂下から蛇崩川にはさらに下る。

蛇崩川は、かつては大変な暴れ川で谷も深く、このあたり一帯の旧地名でもあった「蛇崩」の名は、川が蛇のようにうねって流れていたから、とか、両岸を深く浸蝕しそこに土砂が崩れていたからなどの説がある(以前の記事)。

 しばらく歩くと、川端橋のずっと手前に右に入る小路がある。その小路のちょっと手前で蛇崩川緑道の下流側を撮ったのが四枚目である(現代地図)。この小路の入口が右側に見える。

蛇崩川支流緑道 蛇崩川支流緑道 蛇崩川支流緑道 蛇崩川支流緑道 一枚目の写真は、上四枚目の小路を緑道側から撮ったもので、ここが蛇崩川支流緑道である。この支流緑道は、ここから南へと謡坂下まで延びている。

ここは初めてで、目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」で知り、今回の坂巡りに入れた(というよりも、ここが組み入れられた坂コースを参考にした)。

二枚目、三枚目のように、先ほどまでの緑道よりも狭い道が家と家との間をくねくねと延び、本流緑道とちょっと違った雰囲気で緑道歩きを楽しむことができる。

やがて一般道に出るが、ここは、先ほどの半兵衛坂下の蛇崩の交差点から東へと延びる道である。この出たところをふり返って撮ったのが四枚目で、アーチ状のコンクリートの門に「蛇崩川支流緑道」と記されている。

蛇崩川支流緑道 蛇崩川支流緑道 蛇崩川支流緑道 蛇崩川支流緑道 上四枚目の門を出たところで、進むべき道が見つからず、一瞬迷うが、突き当たりを左折し、次を右折すると、先ほどまでの細い道とは違った一般道のような道が続く。

まもなく、一枚目の写真のように、階段に至る。

階段上の道の向こうに先ほどと同じコンクリートの門が見える。ここから入ると、二、三枚目のように、ふたたび先ほどまでと同じような細い道が続く。

やがて一般道に出るが、ここでこの支流緑道は終わりで、そこをふり返って撮ったのが四枚目である。ここにも同じ形の門が立っている(現代地図)。

このあたりから支流が南から北へと流れ、先ほどの蛇崩川緑道のあたりで本流へ注いでいたのであろう。そう思い、明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図を見ると、この支流と思われる川がさらに南の方へ延びていたことがわかる。

蛇崩川は、この当時、蛇のようにくねくねと流れていた。半兵衛坂の左手(上から見て)東側は、崖のようになって、その谷底に蛇崩川が流れていたように想像される。
(続く)

参考文献
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)
「坂道ウォーキングのすすめ」(目黒区発行)

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半兵衛坂

2013年07月06日 | 坂道

野沢通り手前 宿山の庚申塔 寿福寺参道 寿福寺山門 前回の小川坂上を右折し、細い道を西へ進む。

一枚目の写真は、野沢通りの手前から進行方向(西側)を撮ったものである。

やがて野沢通りに出るが、その角に「宿山の庚申塔」が立っている(現代地図)。

二枚目は、その庚申塔を撮ったもので、説明パネルによれば、江戸時代の農村で盛んであった庚申信仰によるもので、元禄五年(1692)、延宝三年(1675)、宝永五年(1708)の造立であるという。このあたりの字名を宿山といった。

ここを左折し、野沢通りを南西へちょっと歩き、右手を見ると、参道が見えたので、入ってみる。壽福寺(寿福寺)という天台宗の寺である(説明パネル参照)。

三枚目は、通りから撮ったもので、むかしを偲ばせる参道が延びている。四枚目は参道を進んで、山門を撮ったもので、樹木で鬱蒼としているのがよい。境内には紫陽花なども咲いていてほっとする空間をつくり出している。

半兵衛坂上 半兵衛坂上 半兵衛坂上 半兵衛坂上 参道を出て右折しちょっと歩き、信号をすぎると、通りは左にわずかにカーブしている。ここをすぎると、半兵衛坂の坂上が見えてくる。

一枚目の写真はそのあたりから進行方向を撮ったものである。

二枚目は坂下が見えるところまで歩いてからふり返って坂上側を、三枚目はちょっと下ってから坂下を撮ったもので、まっすぐに下っている。四枚目はそのあたりから坂上側を撮ったものである。

この坂は、上目黒五丁目19番と20番の間を南西に下る(現代地図)。

坂下の交差点を左折しちょっと歩くと、蛇崩川緑道が交差し、蛇崩橋(蛇崩上橋)跡がある。 以前、この緑道を中目黒から西へと水源の方まで歩いたとき、蛇崩橋跡からこの坂に寄り道をしたが(以前の記事)、今回は、そのときと違って、坂上からのアクセスである。

半兵衛坂中腹 半兵衛坂中腹 半兵衛坂中腹 半兵衛坂中腹 一~四枚目の写真は、中腹で坂下側、坂上側、坂下側、坂上側を順に撮ったもので、中程度よりも緩やかな勾配でまっすぐに上下している。

二枚目のように中腹に坂の標柱が立っている。標柱の説明は次のとおり。

「半兵衛坂(はんべいざか)
 江戸時代、この辺りに清水半兵衛を代々名乗る旧家があったため、半兵衛坂と呼ぶようになった。尚、この道路は昭和15年の幻の東京オリンピックの際に整備されたので、通称「オリンピック道路」とも呼ばれる。」

坂名は、このあたりにあった旧家に由来するが、先ほどの壽福寺に清水家の墓があるとのこと(岡崎)。

この坂は、石川や横関には紹介されていない。また、目黒区HPにも説明はないので、標柱程度のことしかわからない。小川坂の説明に、鎌倉街道は、坂を上ると寿福寺から碑文谷八幡宮、下野毛へと通ずるとあるので、この坂も鎌倉街道の一部と思われるが。

半兵衛坂下 半兵衛坂下 半兵衛坂下 半兵衛坂下 さらに下ると、蛇崩の交差点に近づくが、ここが坂下である。

一、三枚目の写真は坂下を、二、四枚目は坂下から坂上を撮ったものである。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図を見ると、壽福寺の参道に接して、現在の野沢通りの旧道らしき道が東北から西南へと蛇崩川近くまで延びている。宿山の西南の斜面にできた坂である。

昭和16年(1911)発行の目黒区の地図では、現在とほぼ同じ道筋となっている。

目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にあるこの坂の全長、高低差、平均斜度は、180m、3.7m、1.84で、高低差はもっとあるように感じる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)

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小川坂

2013年07月04日 | 坂道

今回は、代官山から目切坂を下り、目黒川を渡り、小川坂などの上目黒の坂を巡った。

目切坂上 目黒川宿山橋 宿山橋上流 午後東横線代官山駅下車。

駅前から旧山手通りを歩道橋で渡り、交番のわきを左折すると、道しるべがある。ここを通りすぎ、右折すると、目切坂の坂上である。

一枚目の写真は坂上から撮ったもので、坂上の左手は樹木で鬱蒼としている。この坂は、今年はじめに訪れたので(目切坂の記事)、まだ記憶に新しい。

うねうねと曲がった坂を下り、坂下を右折し、すぐの信号を左折し直進すると、目黒川にかかる宿山橋である(現代地図)。

二枚目はそのちょっと下流から橋を、三枚目は橋から上流を撮ったものである。

川に沿って両側に道ができているが、たくさんの人が行き来している。

小川坂標識 小川坂標識地図 小川坂下 小川坂下 宿山橋から山手通りに出て、横断し、斜めに延びる道に入る。

一枚目は坂上の烏森小学校前の坂の標識であるが、その地図部分が二枚目である。この地図によれば、小川坂の坂下は、目黒区東山一丁目7番と上目黒三丁目17番の間のあたりである(現代地図)。

斜めの道を進むが、小川坂の坂下がどの辺なのかすぐにはわからない。ちょっと歩いてから坂上側を撮ったのが三枚目であるが、このあたりが上記の地図で示す坂下のようである。四枚目はそこから進んで坂上側を撮ったものである。このあたりはまだかなり緩やかである。

小川坂下 小川坂下 小川坂下 小川坂下 さらに進むと、ちょっと坂らしくなってくる。

一枚目の写真は、坂下から上り方向を、二枚目はそのちょっと上から上り方向を撮ったもので、西へと上っており、緩やかである。

三枚目はそのあたりから坂下を撮ったもので、このあたりはちょっと道幅が広くなっている。四枚目は、さらにその上側から上り方向を撮ったものである。

上一枚目に写っている標識には、次の説明がある。

「小川坂(おがわざか)
 かつて、この一帯を「小川」といい、坂下に広がっていた田んぼを「小川田んぼ」と呼んだ。この辺りの旧家小川家が地名の由来といわれる。また、この坂のある道は、鎌倉へ通じる道として中世の頃開かれた鎌倉道であった。」

目黒区HPに次の詳しい説明がある。

「中目黒駅から山手通りを大橋方面へ向かって歩くと、上目黒交差点から西へ斜めに入る道がある。東山一丁目と上目黒三丁目の境を、烏森小学校のほうへと上るこの道が小川坂。弓のような弧を描く緩やかな坂で、周辺に旧家小川家所有の土地が多かったのが、名前の由来ときく。
 小川坂上の寿福寺辺りは、小高い丘陵地帯で、旧小字名を宿山[しゅくやま]と呼んだ。鎌倉街道のひとつがここを通過していたから、その宿駅という意味であろうか。
 小川坂も鎌倉街道の一部で、坂を下ると目黒川に架かる宿山橋から目切坂を経て渋谷へと続き、坂を上ると寿福寺から碑文谷八幡宮、下野毛へと通ずる。昔、坂東武者が鎌倉目指して駆けたこの坂も、現代の馬「自動車」にとっては下りだけの一方通行路である。」

このあたりの旧家小川家所有の土地が多かったことが坂名の由来とされ、中世の鎌倉街道の一部であるという。いま通ってきた宿山橋から目切坂へと延び、その先は渋谷へと続く。

小川坂中腹 小川坂中腹 小川坂中腹 小川坂中腹 しだいに勾配がついてくるが、そんなにきついほどではなく、中程度よりも緩やかといったところ。

一枚目の写真は、さらに上ってから坂上側を、二枚目はそのあたりから坂下側を撮ったものである。

やがて左に緩やかに曲がるカーブにさしかかる。三枚目はそのカーブの手前から上り方向を撮ったものである。四枚目はさらに上ってからふり返って坂下側を撮ったものである。緩やかなカーブがアクセントになって、この坂でもっとも印象的なところである。

このあたりは、いつもの江戸切絵図の範囲外で、手元にある地図でもっとも古い明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図を見ると、緩やかにカーブする道があり、この坂と思われる。坂上を西へ進み、野沢通りを左折しちょっと進むと、壽福寺があるが、この明治地図にも現在と同じ場所と思われるところに見える。坂下近くの目黒川は、いまと違って、かなり蛇行して流れている。この流域にできた田んぼを小川田んぼと呼んだのであろう。

この地図で、目黒川からちょっと離れたところにある四差路にこの坂がさらに交差している。この五差路のあたりが標識の地図が示す坂下付近と思われる。

小川坂中腹 小川坂中腹 小川坂中腹 小川坂中腹 一枚目の写真のように緩やかなカーブをすぎると、ほとんどまっすぐな上りとなる。

二枚目はそのさらに上側から坂上側を、三枚目はそのちょっと上側でふり返って坂下側を撮ったものである。

四枚目はさらにその上側で上り方向を撮ったもので、次第に緩やかになってくる。

昭和16年(1911)発行の目黒区の地図を見ると、現在とほぼ同じ道筋となっているのがわかる。目黒川も改修されたようで、蛇行していない。

現代地図から昭和22年の航空写真を見ることができるが、緩やかにカーブしているこの坂がよくわかる。坂上側は空き地が目立つが空襲によるものだろうか。畑もかなりあるように見える。しかし、昭和38年の航空写真では建物がかなり建っている。

小川坂上 小川坂上 小川坂上 小川坂上からの眺望 この坂は長く、坂上の烏森小学校前までかなりの距離があるが、ようやく坂上が見えてくる。

一枚目の写真は、坂上近くを撮ったもので、突き当たり左側が小学校前である。

二枚目は、坂上近くから坂下側を撮ったもので、まっすぐな坂道がよく見える。

三枚目は坂上で、左が小学校前で、ここに上記の標識が貼り付けられているが、このあたりに標柱も立っていたような記憶がある。坂上を右折して行くと、野沢通りに出る。

坂上を左折し、ちょっと進むと、南側の眺望がよく、このあたりは坂上の高台であることがわかる。四枚目はそこから撮ったもので、下りの階段がある。以前、初めてこの坂に来たとき、この階段を下ったことを思い出した。

目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にある小川坂の全長、高低差、平均斜度は、395m、9.8m、2.27で、緩やかであるが、かなり長い。このデータからも、また、歩いた実感からも丘陵地帯にできた坂のように感じられる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)

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