東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

清戸坂~幽霊坂

2010年12月31日 | 坂道

清戸坂下 薬罐坂下を左折すると、広い不忍通りがかなり緩やかに上っている。ここが清戸坂である。写真は薬罐坂下を出たあたりから坂上を撮ったものである。

岡崎によれば、延宝四年(1676)尾張徳川家の御鷹場御殿が中清戸(現清瀬市内)にできてから、将軍が鷹狩りに通う道ができ、これを「清戸道」(いまの目白通り)というが、この清戸道から護国寺に下る脇道が清戸坂で、清戸道に上るので、清戸坂といった。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、目白台の日無坂の入口付近から護国寺へと延びる道筋があり、ここであると思われるが、二三度折れ曲がっている。坂の北西側は畑が広がっている。近江屋板も同様である。いずれにも坂マークも坂名もない。別名清土坂とあるが、これは、坂の途中北西側に雑司ヶ谷清土村があったためであろうか。

清戸坂上 写真は坂上の目白通りとの合流点近くから坂下を撮ったものである。坂上側も緩やかな下りである。

明治地図を見ると、目白通りからほぼまっすぐに下っているが、薬罐坂下のあたりで左に緩やかにカーブし、護国寺の手前で右にカーブしている。戦前の昭和地図では、広い通りとなって現在のようにほぼまっすぐに護国寺の方に延びているので、明治から戦前にかけていまのような広い通りになったものと思われる。それ以前は細い道であったと想像され、狭い坂道が大きな通りに吸収されたのであろう。

この坂は、横関と石川にはない。また、説明板が立っているようであるが、どこかわからなかった。かなり暗くなってきて、急いでいたせいもある。

幽霊坂下 歩道を坂上側に進むと、日本女子大学の西側で左折する細い道があるが、ここが幽霊坂の坂下である。かなり緩やかに目白通りに向かって上っている。写真の左が大学側である。

尾張屋板江戸切絵図に、目白台の通りと清戸坂との合流地点の近くに本住寺があり、その東側の道に、ユウレイサカ、とある。近江屋板にも、坂マークの△印とともにユレイサカとある。 明治地図では、坂の東側が日本女子大學校となっており、戦前の昭和地図も同様である。現在本住寺はないようで、目白通りと不忍通りとを結ぶ歩道となって、二つの歩道の近道となっているようである。

「新撰東京名所図会」には、「幽霊坂は本住寺の脇より雑司ヶ谷清土へ出る坂をいふ。往来より疎籬(そり)を隔てて同寺墳墓地の見ゆるを以て、土人はかく唱へ来れるらん」とあり、「若葉の梢」には、「本住寺脇の坂は幽霊坂と云ふ、寺の脇きなれば・・・」とあるように寺院の墓場のそばなどの坂に幽霊坂、薬罐坂の坂名が多いとしている(石川)。

幽霊坂上 写真は坂上側から撮ったもので、かなり緩やかである。 この坂のいまの姿はそんなことを想起させる雰囲気はない。現在は名ばかりの幽霊坂で、前回の記事のように、この近くの別の幽霊坂の方がその名にふさわしくなっている。

目白通りを右折し、西に歩き、このとき不忍通りとの交差点で上記の清戸坂上の写真を撮った。

この季節暮れるのが早い。かなり暗くなった道を雑司が谷駅へ。

今回の携帯による総歩行距離は13.9km。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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薬罐坂

2010年12月30日 | 坂道

薬罐坂上 三丁目坂上を西に進む。目白坂から三丁目坂までいずれも目白台地から音羽谷に下る東側の坂であったが、ここからは台地の北側にある坂である。直進すると、食い違いのようにちょっとずれた交差点に至るが、ここを右折すると、薬罐(やかん)坂の坂上である。かなり緩やかにまっすぐに下っている。途中に立っている説明板に次の説明がある。

「薬罐坂(夜寒坂) 目白台2丁目と3丁目の境
 江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、維新後上地され国の所有となった。現在の筑波大学付属盲学校一帯にあたる。また、西側には広い矢場があった。当時は大名屋敷と矢場に挟まれた淋しい所であったと思われる。
 やかん坂のやかんとは、野カン(豸+干)とも射干とも書く。犬や狐のことをいう。野犬や狐の出るような淋しい坂道であったのであろう。また、薬罐のような化物が転がり出た、とのうわさから、薬罐坂と呼んだ。夜寒坂のおこりは、この地が「夜さむの里道」と、風雅な呼び方もされていたことによる。
 この坂を挟んで、東西に大町桂月(1869~1925、評論家、随筆家)と、窪田空穂(1877~1967、歌人、国文学者)が住んでいた。
  この道を行きつつみやる谷こえて蒼くもけぶる護国寺の屋根(窪田空穂)」

薬罐坂途中 尾張屋板江戸切絵図を見ると、上記の説明のように、松平出羽守の屋敷の西側に道が南北に延びており、この北側の道がこの坂と思われる。坂下東北側に護国寺(五代将軍綱吉が生母桂昌院のために建てた寺)が大きく描かれている。近江屋板にも同じ道筋があるが、東側が青山百人組添地となっている。坂マークや坂名はいずれにもない。

同名の坂が他にもあり(以前の記事参照)、坂名の由来について諸説があるが、横関は、その一つ野干坂は地方ではきつねざかと仮名を振っているとし、野干から薬罐に転じた理由について次のようにおもしろいことを書いている。

「安永六年(1777)ころの流行語に、そのころの美人、笹森おせんが欠落(かけおち)して、茶店におせんの代りとして老爺が出ていたので、世間では「とんだ茶釜が薬罐に化けた」といって、さわいだものであった。茶釜は美人を意味し、薬罐は、はげ頭の老爺のことをいったのである。
 薬罐は、そのころの流行語であったから、本当は野干であるべきを、薬罐と書いて、銅薬罐を化け物に仕立てたのではないだろうか。狐坂では平凡なので、野干坂と書くべきところを、流行語を使って、薬罐坂と書いたのではないだろうか。だから、幽霊坂と同じような寂しいところの坂は、みな、やかん坂といったのであろう。」

なお、横関の坂の名著「江戸の坂 東京の坂」「江戸の坂 東京の坂(続)」は中公文庫のものを参考としていたが、最近、二冊を併せ一冊となった文庫本がちくま学芸文庫として出版され、索引も合体している。こちらが便利で、以降、これを参考図書とする。

薬罐坂下 写真は坂下から撮ったもので、坂下側で少し勾配がついている。坂下の不忍通りと坂上の目白通りとを結ぶ一方通行の細い道で、静かな住宅街となっている。(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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鳥尾坂~鉄砲坂~三丁目坂

2010年12月29日 | 坂道

鳥尾坂上 佐藤春夫旧居跡から引き返し、もとの道を左折し直進し、独協中・高の裏手を通り、突き当たりを右折すると、鳥尾坂の坂上である。かなりの勾配でまっすぐに下っている。音羽通りの西側に平行に延びる首都高速が下に見える。

中村雅夫は、坂の写真を撮るポイントはカメラを水平に構えて撮ることで、カメラの構えが仰向いたり下向いたりすると、坂が平らな道のように撮れてしまう、と述べている。しかし、坂上から下を撮る場合、そうすると、坂がよく撮れない。このため、のぞき坂でもそうであったが、この写真もやや下向きに構えて撮った。中村は、だから坂は下からのほうが撮りやすいとしているが、これは、私の経験でもそうである。

坂下の公園わきに立っている説明板には次の説明がある。

鳥尾坂下側 「鳥尾坂 文京区関口3-9と11の間
 この坂は直線的なかなり広い坂道である。坂上の左側は独協学園、右側は東京カテドラル聖マリア大聖堂である。
 明治になって、旧関口町192番地に鳥尾小弥太(陸軍軍人、貴族院議員、子爵)が住んでいた。西側の鉄砲坂は人力車にしても自動車にしても急坂すぎたので、鳥尾家は私財を投じて坂道を開いた。
 地元の人々は鳥尾家に感謝して「鳥尾坂」と名づけ、坂下の左わきに坂名を刻んだ石柱を建てた。」

説明板のように、この坂は明治以降に開かれたらしいが、明治地図どころか戦前の昭和地図にものっていない。ということで、この坂は比較的新しい坂のようである。横関、石川、岡崎にはのっていないが、山野にのっている。

鳥尾坂下 写真は坂下から撮ったものである。この少し上でちょっと曲がっている。写真左に写っている石柱が上記の説明文にある石柱で、近づいて見ると、鳥尾坂と刻んである。坂下北側が関口台公園である。説明板と並んで旧関口町の旧町名案内も立っている。

森内俊雄にこのあたりが出てくる小説があることを思い出した。この公園も出てきたような記憶があるのだが、題名が思い出せない。図書館で手に取ってはじめて読んだ森内の小説だが、なぜそうしたかというと、よく似た名の将棋棋士(当時の名人)がいるからである。そのファンのため思わず手が伸びた。たくさんの未知の小説からいずれかを選ぶとき、そのようなことが作用することもあるということか。なにか虚無的な匂いを感じさせる小説であった。

以前はじめてこのあたりに来たとき、鉄砲坂の中腹から公園の高台に出た覚えがある。夏の暑い日で、高台から音羽の方を見ながら水分をとった。 今回は、坂下の首都高速の下の道を進む。ここにはかつて弦巻川が流れていた(以前の記事参照)。それが暗渠化されたのであろう。

鉄砲坂下 まもなく左手に細い道が見えてくる。鉄砲坂の坂下である。かなり狭い道がうねりながら上っている。写真右のように坂下に説明板が立っており、次の説明がある。

「鉄砲坂 文京区関口3丁目と目白台3丁目の境
 この坂は音羽の谷と目白台を結ぶ坂である。坂下の東京音楽学校学生寮のあたりは、江戸時代には崖を利用して鉄砲の射撃練習をした的場(角場・大筒角場ともいわれた)であった。その近くの坂ということで「鉄砲坂」とよばれるようになった。」

説明文のわきに、安政四年(1857)「音羽繪圖」がのっており、これに鉄炮サカとあり、坂下北側に的場とある。この絵図は、尾張屋板江戸切絵図の「雑司ヶ谷音羽繪圖」の一部である。近江屋板にも、坂マークの△印の下に鉄炮坂とあり、坂下に同じく的場がある。

鉄砲坂途中 写真は学生寮の前近くで坂上を撮ったものである。坂上側でかなり急になる。部分的には東京一の急坂という(のぞき坂の記事参照)。

「御府内備考」の音羽五丁目には次のようにある。

「一坂 幅壹間程長六拾間餘右町内西之方裏通目白臺之方え登り候坂に而里俗鐵炮坂と唱來唱之儀北之方大筒角場有之御先手春日八十郎様御組依田大助殿御預場所に御座候右角場有之候に付相唱申候一體小日向飛地に而昔高低に相成り候土取場之由に御座候」

鉄砲坂の坂名は北の方にある大筒角場からであるとしているが、大筒角場とは、上記のように、的場、角場、大筒稽古場などと同じく鉄砲の練習のための射的場のことである(横関)。

鉄砲坂上 写真は坂上から撮ったものである。このあたりで勾配がきつくなっている。

同名の坂は都内に他にもあり、以前鮫河橋坂近くの鉄砲坂を記事にした。横関によれば、坂名の由来はいずれも同じで、鉄砲の練習のための射的場があったからであるが、これを坂の崖下を削ってつくった。横関は、ここの鉄砲坂だけが昔の施設の概要を残しているとし、写真をのせている。それを見ると、坂下の右手(北側)に崖があり、そこが的場であったのであろう。射撃場の形がはっきりと残っているとしているが、それは昭和30~40年頃のことであると思われる。

この写真に見える鉄砲坂下が現在とまったく異なっていることに驚いた。その北側は低地で広場のようになっていて、その低地のわきに崖ができて、そこから坂が上っており、坂の崖側には塀があり、坂途中から広場をよく見渡せたようである。現在は塀に囲まれた学生寮と、その東側が首都高速の下につくられた道や公園になっており、写真とまったく異なった光景となっている。この写真は、この坂の変貌をよくあらわす貴重なものである。

三丁目坂下 鉄砲坂上から坂下に戻り、左折し、高速の下の旧弦巻川跡を北側に少し歩くと二車線の通りに出る。ここが三丁目坂の坂下(の近く)である。緩やかにカーブしながら上っている。ここにちょっと古めいた説明板が立っており、次の説明がある。

「三丁目坂(さんちょうめざか)
 旧音羽三丁目から、西の方目白台に上る坂ということで三丁目坂とよばれた。
 坂下の高速道路5号線の下には、かつて弦巻川が流れていて、三丁目橋(雑三橋)がかかっていた。
 音羽町は江戸時代の奥女中音羽の屋敷地で、『新撰東京名所図会』は、「元禄12年護国寺の領となり町家を起せしに、享保8年之を廃し、又徳川氏より町家を再建し、その家作を奥女中音羽といへるものに与へしより町名となれり。」と記している。」

この坂も7丁目坂と同じく坂下の旧町名にちなむとの説明である。

三丁目坂上 ちょっと長めの坂を上り、坂上から撮った写真である。首都高速はかなりの下に見える。坂上はかなり緩やかでどこが坂の終わりなのかよくわからないほどである。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、鉄砲坂の北に桂林寺があって、その北側に、三丁目と四丁目の間から南西に延びる道があるが、ここが三丁目坂と思われる。近江屋板には坂マークの△印がある。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
中村雅夫「東京の坂」(晶文社)

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目白新坂~七丁目坂

2010年12月28日 | 坂道

目白新坂下 目白坂下を首都高速の下のあたりで左折し、北側に進むと、左手から緩やかに下ってくる大きな通りに出る。ここが目白通りの目白新坂である。坂上で少し右にカーブして先ほどの椿山荘や大聖堂の前に至る。坂下で音羽通りにつながる。

明治20年代(1887~1896)半ば頃、新しく開かれた坂で、古い目白坂のバイパスである(岡崎)。椿坂、新坂ともいう。

 「新撰東京名所図会」に次のように記されているとのこと(岡崎、石川)。

「椿坂 音羽八丁目と同九丁目の間より西の方関口台町へ上る坂あり椿坂といふ、近来開始する所。坂名は椿山の旧跡に因むなり。里俗また新坂ともいへり。道巾広く傾斜緩なり。」

椿山について「御府内備考」に次のようにある。

「椿山 椿山は鎌倉合戦の頃此邊の伏勢を入置し事あり其頃より椿多くありて名もきこへけるとそ」

目白新坂上むかしは椿の名所であったらしい。椿山荘は山県有朋の隠邸で、土地にちなんで椿山荘と号した(石川)。

写真はカーブした先の坂上から撮ったものである。

明治地図を見ると、この坂ができており、目白坂よりも幅広である。戦前の昭和地図には新坂とある。

坂上北側に獨逸協會學校が明治16年(1883)西周を校長として設立された。独協大学の前身で、いま、独協中学・高校がある。

この坂には説明板が立っているらしいが、気がつかなかった。といっても広い通りで、反対側に立っているとわからない。

7丁目坂上 目白新坂の坂上を独協中・高の手前で右折し、小路を進み、突き当たりを右折し道なりに歩くと、7丁目坂の坂上(頂上)に至る。石段坂でまっすぐに下り、下側で左にカーブしている。

石垣と壁で狭くなっているが、風情のある坂である。中腹に樹が一本立っている光景がよい。坂上から音羽の方が見える。ここは、ちょうど先ほどの目白新坂と平行に延びる道筋である。

山野の坂ガイドにしたがってはじめてこの坂を訪れたとき、階段坂であることを知りうれしくなって、階段をかけ下りたことを覚えている。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、目白坂上を北側に進み、途中右折すると、御賄組のわきに東へ北へと曲がりながら続く道筋があるが、いまの坂に相当するとしたらここかもしれない。

7丁目坂下 写真は7丁目坂下側から坂上を撮ったものである。坂はこの下でカーブして坂下の先に関口三丁目公園がある。

明治地図を見ると、獨逸協會學校の南側に目白新坂から入る小路があり、そこをたどっていくと、この坂に至るようである。坂下を進むと、音羽の谷筋に至り、そこが音羽7丁目であることからこの坂名がついたのであろうか。

戦前の昭和地図にもこの道筋はのっているが、現在のような石段であったかどうかはわからない。 ここは、説明板がなく、また、横関、石川、岡崎のいずれにものっていないので、これ以上のことはどうもよくわからない。

坂上にもどり、来た道を引き返すが、このあたりに佐藤春夫旧居跡があるはずと思って探し、ようやく見つかった。独協中・高の南側の小路の突き当たりを右折し、次を右折した突き当たりである。

佐藤春夫旧居跡 説明板によると、佐藤春夫(1892~1964)は、昭和2年(1927)から終焉の昭和39年5月6日までここの異国風の住居に住んだとのことである。

佐藤春夫は、永井荷風を師と仰いでおり、「小説永井荷風伝」もあることから(以前の記事参照)、そんなに読んでいないが親しみのある作家・詩人である。

「ことし四月四日に私は小石川の大先輩、Sさんを訪れた。Sさんには、私は五年前の病気の時に、ずいぶん御心配をおかけした。ついには、ひどく叱られ、破門のようになっていたのであるが、ことしの正月には御年始に行き、お詫びとお礼を申し上げた。それから、ずっとまた御無沙汰して、その日は、親友の著書の出版記念会の発起人になってもらいに、上がったのである。御在宅であった。」

太宰治「東京八景」の一節である。小石川の大先輩、Sさんというのは、佐藤春夫と思われる。これを読むと、太宰は佐藤春夫をかなり頼りにしていたようである。第1回芥川賞の選考(以前の記事参照)のとき、佐藤春夫は「僕は本来太宰の支持者であるが・・・」のコメントを残しており、二人の関係がわかる。このころ既に太宰の才能を認めていたようである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
太宰治「走れメロス」(新潮文庫)
永井龍男「回想の芥川・直木賞」(文春文庫)

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目白坂

2010年12月27日 | 坂道

東京カテドラル聖マリア大聖堂 クリックすると拡大します 胸突坂上から目白通りに出て右折し少し歩くと、右手が椿山荘で、その通りの反対側に東京カテドラル聖マリア大聖堂が見えてくる。やや湾曲した大きな壁が特徴的で金属製の表面が白銀色に反射し、左側にある高い鐘の塔とともによく目立っている。写真は、椿山荘前の歩道橋の上から撮ったものである。

ここの歴史は明治から始まるようである。明治10年(1877)築地の外人居留地に敷地千坪余を買い求め聖ヨゼフ教会を設け、その後、明治19年(1886)ここ関口の四千八百坪の土地を購入し、明治32年(1899)聖堂ができ、翌年関口聖母教会と称した。その後、東京大空襲で焼失し、昭和39年(1964)に現在のカテドラルが完成した。

持参の携帯音楽プレーヤーから森田童子の懐かしい歌声が聞こえてくる。
東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤 1978年7月29日 盛夏

きょう電車に乗ってこのライブ盤を聞いていたら急に目白通りを思い出し、それで行き先を変更した。何時まで何処何処に行かねばならないという外出ではないので気のむくまま変更自在である。

森田童子とは不思議な歌手で、本名も素顔も不明であり、昭和58年(1983)12月にそれまでのライブ中心の音楽活動を終了し、いまどこで何をしているのかもほとんど知られていないらしい。かなり前にでた何枚かのCDで聞くことができるのみで、アルバムのジャケットで音楽活動の履歴がわかる程度である。本人にとっては、つくりたいときに詩と曲をつくり、歌いたいときに歌い、それが終わったらやめるというのがきわめて自然なことであったのであろう。その鮮やかな引き際からそんなことを思ってしまう。

目白坂上 椿山荘の前から右手の道を進むと、やがて緩やかな下り坂になるが、ここが目白坂の坂上である。緩やかだが長い坂で坂下の音羽通りへと東に下る。これまでの坂は目白台地から神田川の低地へと南に下る坂であったが、ここは、目白台地の東端にあたるため東側へと音羽通りに下る坂である。坂下右手に進むと神田川にかかる江戸川橋に至る。この坂は、緩やかに曲がってうねっており、わたし好みである。

このあたりの旧地名は関口村の高台である目白台にあったので関口台町といった。坂下側は関口駒井町であった。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、目白坂とあり、その坂上側に関口臺町、坂下側に関口駒井町とある。坂上の南側に目白不動があり、別當新長谷寺とある。近江屋板も同様である。このため別名を不動坂といった(石川)。明治地図にもあり、戦前の昭和地図には目白坂とある。目白不動は前回の記事のように戦災で焼失し、宿坂下の金乗院に移った。

目白坂上側 坂下に立っている説明板には次のようにある。

「西方清戸(清瀬市内)から練馬経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、このあたりから音羽谷の底地へ急傾斜で下るようになる。
 この坂の南面に、元和4年(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。
 そもそも三代将軍家光が特に「目白」の号を授けたことに由来するとある。坂名はこれによって名付けられた。『御府内備考』には「目白不動の脇なれば名とす」とある。
 かつては江戸時代「時の鐘」の寺として寛永寺の鐘とともに庶民に親しまれた寺も、明治とともに衰微し、不動尊は豊島区金乗院にまつられている。
     目白台の空を真北に渡る雁
        稀に見る雁の四・五十羽かも       窪田空穂(1877-1967)」

目白不動は、二代将軍秀忠の命で建立され新長谷寺と称し、目白の号は三代将軍家光の命名ということらしい。

目白坂下側 坂下側に永泉寺というお寺があるが、ここに太宰治の心中相手の山崎富栄(以前の記事参照)のお墓があるらしい。ここは江戸切絵図にも見え、江戸時代から続く寺院のようである。

永井荷風は大正13年(1924)4月このあたりのことを「礫川逍遥記」に次のように記している。

「日輪寺を出で小日向水道町を路の行くがままに関口に出で、目白坂の峻坂を攀(よ)ぢて新長谷寺の樹下に憩ふ。朱塗りの不動堂は幸いにして震災を免れしかど、境内の碑碣(ひけつ)は悉くいづこにか運び去られて、懸崖の上には三層の西洋づくり東豊山の眺望を遮断したり。来路を下り堰口の瀑に抵(いた)り見れば、これもいつかセメントにて築き改められしが上に鉄の釣橋をかけ渡したり。駒留橋のあたりは電車製造場となり上水の流れは化して溝瀆(こうとく)となれり。」

荷風は目白坂の峻坂をよじ登って、新長谷寺に出たとあるが、これは音羽通りから台地に緩やかに上るこの坂でなく、いまの神田川わきの江戸川橋公園から高台に上る急な坂道であったと思われるが。あるいは、坂上でやや傾斜がついているので、そこを峻坂といったのか。来た道を下って、堰口の滝に行くと、セメントになっており、駒留橋のあたりは電車製造場となり上水の流れはどぶとなっていた。

目白坂下 写真は坂下から坂上を撮ったものである。歩道わきに上記の説明板が立っている。この説明板は車道側に坂名が大きく表示され、その裏の歩道側に説明文がある構造となっている。

20年ほど前この坂を上ったことがある。坂上の椿山荘に行くためだが、有楽町線の江戸川橋駅から江戸川橋を渡って、この坂を上ったことを妙によく覚えている。ちょっと薄暗くだらだらと上る、時間のかかる坂であったからであろうか。

当時は街歩きや坂巡りなどにはまったく関心などなく、その後、いまのように坂巡りと称してわざわざ出かけるようになるとは変われば変わるものである(と我がことながら驚いてしまう)。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
山田野理夫「東京きりしたん巡礼」(東京新聞出版局)

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胸突坂~水神社

2010年12月26日 | 坂道

胸突坂上 幽霊坂上を進み、目白通りにもどり右折し、歩道を進む。途中、旧町名案内が立っており、このあたりは、旧高田老松町であったようである。三本目を右折し、南側に進むと、途中、永青文庫の入口がある。

ここは、旧細川家下屋敷内で、南北朝時代からこれまで蒐集された細川家の歴史資料や文化財などを展示しているとのこと。先ほどの新江戸川公園に続く台地にあり、ここからも公園に出入りできるようである。

この前をちょっと進むと、胸突坂の坂上である。真ん中に手すりのある階段で、神田川にかかる駒塚橋のたもとに向けてまっすぐに下っている。その名からわかるように、坂を上る人の胸がつくほどの急坂であった。

この坂については以前の記事でもちょっと書いたが、そのときは、神田川に沿って歩き、今回のような坂巡りではなかった。

胸突坂 説明板 坂下の遊歩道わきに写真のように説明板が立っているが、次のような説明がある。

「胸突坂(むなつきざか)
 文京区関口2-11と目白台1-1の間
 目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永清文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。
 坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。
 ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人びとの苦労がしのばれる。」

写真に見えるように説明板の下に小さな石柱があるが、この坂名が刻んである。右が神田川沿いの遊歩道で、川のフェンスが見える。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、坂下の水神社わきから上る坂道があるが、坂マークも坂名もない。近江屋板には、△印の坂マークとともに、ムナツキサカとある。明治地図にも、戦前の昭和地図にもあるが、坂名はない。

胸突坂下 「御府内備考」に「胸突坂は牛込家の屋敷脇なり此坂を下れは上水のはたなり 名付といふあまりに坂のけはしくて胸をつくばかりなれは名付といふ」とある。ここは江戸からの坂である。

写真は坂下から撮ったものである。この左側(西側)に水神社がある。

このあたりを江戸時代に関口村といったが、關口村(関口村)について「御府内備考」に次のようにある。

「關口村は、小石川小日向牛込等にとなれり地名の起りを詳にせす此所より西の方に行は宿坂といへるあり其處はむかし鎌倉街道にて宿坂の關といひて關の有しよしなれは是等によりて斯唱るにや何れ古きよりの名なるへし改選江戸誌 今案に關口の名は恐らくは上水堰出来しより後の唱へなるへし他国にもかかる類の地名多し堰を假借して關と書きしより古關の蹟なといふ説は起りしならむ・・・」

水神社前 その名が宿坂の関からきたとの説に対し、この近くの神田上水につくられた上水堰(関口大洗堰)の「堰」を借りて「関」と書いたのであろうとする。

江戸切絵図に水神社の少し下流に堰があり、ここで神田上水は左右に分流しているが、滝つ瀬になって流れ落ちていた。

神田上水は、井之頭池を水源とし、関口大洗堰で、左右に分れ、左側を上水として水戸藩の江戸上屋敷(現在の小石川後楽園)方面に流し、右側を余水とし江戸川と呼ばれるようになった。関口大洗堰が設置された年代は不明だが、『水戸紀年』によると水戸藩邸に上水が引かれるようになったのが寛永六年(1629)とあるから、それ以前に建設されたとされている(Wikipedia)。

「江戸名所図会」に大洗堰として「目白の崖下にあり。・・・」と説明され、その挿絵に勢いよく流れ落ちる滝が描かれている。

水神社 坂東側に関口芭蕉庵があるが、ここは、水神別当で、境内の竜隠院に藤堂家の家臣の松尾芭蕉が住み、貞享年間(1684~1688)に上水工事の監督をしていたが、そのことを記念する旧跡である。

坂西側に水神社(すいじんじゃ)の鳥居が建っており、その前の説明板によれば、『江戸砂子』に「上水開けてより関口水門の守護神なり。」とあり、上水の恩恵にあずかった神田、日本橋方面の人たちの参詣が多かったという。

「江戸名所図会」に挿絵に芭蕉庵や水神宮の挿絵がのっており、坂は見えないが、対岸に田圃が広がり、田園風景となっている。

写真は石段を上った境内で神社を撮ったものである。石段上わきに立っている二本の大きな銀杏からの落ち葉が周りにいっぱいである。ここは、坂の中腹にあり、右手に胸突坂の階段が見える。

水神社から南西方向 ふり返って南西方向を見ると、銀杏の古木に冬の午後の日差しがあたり、まだ残っている葉がやわらかな黄色になって弱々しいがきらきらしている。

神社のわきから坂の階段にもどり、坂上から目白通りにもどる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(四)」(角川文庫)

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新江戸川公園~幽霊坂

2010年12月25日 | 坂道

新江戸川公園 池 豊川稲荷の先を進むと、行き止まりになったので、引き返し、もとの道を左折し、次を左折すると、新江戸川公園の入口が見える。これまでこのあたりには何回かきているが、この公園ははじめてである。

公園内に入ると、中央に大きな池があり、その周りに散歩道ができている。散歩道を進むと、小さめの池が続いており、そのわきに紅葉が残った樹木がある。ことしの秋は、紅葉狩りには出かけなかったので、思わずここで遅れた紅葉見物ができた。

文京区HPに次の説明がある。

「細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした回遊式泉水庭園です。目白台台地が神田川に落ち込む斜面地を活かし、変化に富んだ景観をつくり出しています。湧水を利用した流れは「鑓り水(やりみず)」の手法をとりいれて、岩場から芝生への細い流れとなり、その周辺に野草をあしらっています。 新江戸川公園 山 池はこの庭園の中心に位置し、広がりのある景観をつくりだし、池をはさんで背後の台地を山に見立てています。その斜面地は深い木立となっていて、池に覆いかぶさるようにヤマモミジやハゼノキの一群が、秋には真っ赤に紅葉した姿を水面に映し出します。山に続く園路は深山の中の自然の尾根道のようです。所々に開けた空き地があり、ベンチが置かれています。もともとそこからは、木々の梢の間から池や低地の町並みを見渡せるようになっていましたが、木の生長とともに森の中にいるような雰囲気となりました。」

上記の説明のように、この公園は池のある低地とそこから台地に向かう斜面につくられているので、上下する散歩道もあって、池のわきから上ると、山道のようで、山の雰囲気がしてなかなかよかった。都心で山にいる感じがするところはそんなになく、貴重な場所である。

上の方に水がかなりの勢いで流れ出ているところがあったが、これはポンプで池から汲み上げて強制循環させているのだろうか。

幽霊坂下 公園から出て右折し、ふたたび台地に向かう。まっすぐに進むと、やがて上り坂となって、車止めの先で左に目白台運動公園の入口があり、写真はそのちょっと先から坂上を撮ったものである。ここが幽霊坂である。近くの日本女子大学の西わきにもう1つ幽霊坂があるが、ここは台地から南に神田川方向へと下る。

両わきがコンクリート塀で狭くなった坂道が続いている。ちょっと薄暗くなってそういう雰囲気がなきにしもあらずである。以前きたときは、落葉の前であったのか、もっと暗かったように思う。樹木が伐採されたのかもしれない。

説明板がないので、横関、石川、岡崎を調べたら、いずれも大学わきの幽霊坂はのっているが、こちらはのっていない。山野には次のようにある。

「和敬塾を左折して進むと幽霊坂に入る。大きな古木が両側に茂り、緑のトンネルの中を下っていく。いつ訪ねても薄暗く、ひんやりとしている。静寂の中で小鳥の声だけが響き渡る。坂下は新江戸川公園だ。」

幽霊坂途中 尾張屋板江戸切絵図を見ると、小笠原信濃守の屋敷と細川越中守の屋敷との間に台地から谷へと続く道筋が見えるが、これが現在の幽霊坂であろうか。上記のように、細川家屋敷の庭園の跡地がそのまま新江戸川公園となったとあるので、位置的にはあっている。近江屋板にも同様の道筋がある。

上記の道筋は明治地図には見えない。戦前の昭和地図にも見えないが、台地側に細川邸がある。ここが、旧細川侯爵邸で、昭和11年(1938)細川家16代護立が建てた昭和初期の代表的華族邸宅で、現在和敬塾本館となっているとのこと。

念のために昭和31年の東京23区地図を見たが、これにもどうものっていないようである。ということで、この坂は、比較的最近にできたものらしいが、江戸切絵図にはあるので、百年もたってから、ふたたび同じような道筋ができたのであろうか。そうならば、江戸時代の坂が幽霊のように復活したといってもよいのではないか(と勝手なことを思ってしまう)。

幽霊坂上 上記のように、この幽霊坂は比較的新しいようであるが、その暗がりの雰囲気は断然こちらの方がその名にふさわしくなっている。都内には同名の坂がたくさんあるが、すべてを比較したわけではないものの、現在の状態で比べると、ここがもっともその名にあっているのではないか。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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小布施坂~豊坂

2010年12月24日 | 坂道

小布施坂中腹 日無坂を下って進み、突き当たりを左折し、次を左折してから直進すると、小布施坂の上りとなる。日無坂までは豊島区であったが、ここは文京区である。

この坂は坂上からアクセスすることが多いが、坂の雰囲気が一変している。坂上左側で工事が始まっており、坂は養生のためゴムシートで覆われている。左に階段が露出し、その上では中央に階段があらわれている。工事中とはいえ、無残な姿となっており、ちょっと残念であった。

この坂は、もっと樹木で覆われ、薄暗い感じだったと記憶しているが、妙に明るくなっている。この季節、落葉樹が落葉してももっと風情があるはずである。以前に撮った写真をアップできればよいが、これまでのパソコンが故障したため写真を取り出せない。山野や東京23区の坂道にこの坂の写真があるので、見ると、樹木で鬱蒼としている。

小布施坂上近く 写真のように坂上に近づくと、もとの階段があらわれており、かろうじてむかしの坂の雰囲気が残っている。

坂上(写真の右手)に説明板が立っており、次の説明がある。

「小布施坂(こぶせざか)
 江戸時代、鳥羽藩主稲垣摂津守の下屋敷と、その西にあった岩槻藩主大岡主膳正の下屋敷の境の野良道を、宝暦11年(1761)に新道として開いた。その道がこの坂である。
 坂の名は、明治時代に株式の仲買で財をなした小布施新三郎という人の屋敷がこのあたり一帯にあったので、この人の名がとられた。古い坂であるが、その名は明治のものである。」

尾張屋板江戸切絵図に、稲垣・大岡両家の屋敷があるが、その新道はのっていない。近江屋板も同様である。

小布施坂上 写真は坂上から撮ったものであるが、以前は、こんなに遠くは見えなかったと思うが。やはり樹木が伐採されたのであろう。

明治地図には、この坂と思われる道筋はなさそうであるが(一部重なる道がありそうではある)、戦前の昭和地図には坂名はないが、この道筋があり、坂上東側に小布施邸がある。ここはいま、日本女子大学付属豊明小学校になっている。

小布施は信州の生まれで、明治12年に株式の仲買ならびに金銀売買の小布施商店をはじめて巨富をつみ、後年は株式取引所取締役そのほか株式金融方面の役員をつとめたという(石川)。

工事の後、この坂はどうなるのであろうか。願わくはこの秋にでかけた明治坂のようにならず、もとのような雰囲気のある坂道にしてほしいものだが。

坂上東側の公園で一休みしてから目白通りを東に進む。通りの向こう側に日本女子大学が見えてくる。次の交番のところで右折する。

豊坂上 写真は右折してちょっと進んだ豊坂の坂上から撮ったものである。まっすぐに下っており、坂下側で勾配がきつめになり、坂下で大きく二回カーブしている。

坂下に立っている説明板に次の説明がある。

「豊坂(とよさか) 文京区目白台一丁目7と9の間
 坂の名は、坂下に豊川稲荷社があるところから名づけられた。江戸期この一帯は、大岡主膳正の下屋敷で、明治になって開発された坂である。坂を下ると神田川にかかる豊橋があり、坂を上ると日本女子大学前に出る。
 目白台に住んだ大町桂月は『東京遊行記』に明治末期このあたりの路上風景を次のように述べている。
 「目白台に上れば、女子大学校程近し、さきに早稲田大学の辺りを通りける時、路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが、ここでは海老茶袴をつけたる女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ、云々」
 坂下の神田川は井之頭池に源を発し、途中、善福寺川、妙正寺川を合わせて、流量を増し、区の南辺を経て、隅田川に注いでいる。江戸時代、今の大滝橋のあたりに大洗堰を築いて分水し、小日向台地の下を素堀で通し、江戸市民の飲料水とした。これが神田上水である。」

上記の説明文中の云々以下を補うと、「早稲田よい処目白をうけて魔風恋風そよそよと、といふ俗謡が思ひ出さる。魔風恋風とは小杉天外の小説の名にして、一時青年男女の間に愛読せられたるものなり」(石川)。

豊坂カーブ 坂を下ると、左へ大きく曲がり、ちょっと進むと、右へふたたび大きく曲がっている。写真はこれらのカーブを坂下側から撮ったものである。見事に二回カーブしてクランク状の坂道となっている。以前、初めてこの坂に坂下から訪れたとき、このクランク状の折れ曲がりを見て感動した覚えがある。坂道でこのように見事に折れ曲がっているのは珍しい。しかも、ここは二車線で、かなり車の往来がある。

江戸切絵図に台地の通りから入るまっすぐの道があるが、途中で途切れている。明治になってからの坂ということだが、明治地図にはない。戦前の昭和地図には豊坂とあり、いまのようにクランク状に折れ曲がっている。 坂下の先の神田川に豊橋がかかっている。

大正6年(1917)、東京市電が豊橋南方の早稲田車庫前まで延長されてからは、この坂道は女子大への通学路としてにぎわうようになったとのこと(石川)。

豊坂下 写真は坂下から撮ったものであるが、このあたりはかなり緩やかである。写真中央右に上記の説明板が見えるが、そのとなりに旧町名案内板が並んで立っている。ここは旧高田豊川町といったらしく、次のように説明されている。

 「旧高田豊川町(昭和41年までの町名)
 もと、小石川村の内である。延享年間(1744~48)以前に町屋を開き、小石川四ッ家町(伝通院領)といった。
 明治2年、町内の豊川稲荷の豊川と、付近一帯を下高田と呼んでいたので、町名を高田豊川町とした。
 同5年、旧大岡主膳正、稲垣摂津守、小笠原信濃守などの大名屋敷地及び武家地を併せた。
 同34年、元小石川村飛地字豊川、高田村字神明下を併せた。
 明治34年、日本女子大学校(日本女子大学)が、目白台2丁目に、成瀬仁蔵によって創立された。成瀬記念講堂は、コンドルの孫弟子田辺淳吉の設計により建てられた。」

坂下を進み、突き当たりを左折し、次を左折しちょっと進むと、豊川稲荷がある。上記の説明のように、ここから豊坂や旧高田豊川町の名がきている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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富士見坂~日無坂

2010年12月23日 | 坂道

富士見坂下 稲荷坂下の突き当たりを左折しすぐに左折すると、富士見坂の坂下である。かなり勾配がありそうな坂が直線状に上っている。気持ちよいほどまっすぐに延びている。以前、ここに初めて訪れ、坂下の南蔵院の方からきてこの坂を見たとき、あまりの真っ直ぐさに感動した覚えがある。

豊島区HPに次の説明がある。

「富士見坂 目白通りに面した酒屋さんと、写真館の間から高田方面に下る坂で、石碑があります。 豊島区高田1-33、40辺り。」

尾張屋板江戸切絵図を見ると、このまっすぐな坂はなく、宿坂の東側二本目にある道筋はかなり折れ曲がっており、途中に、ヒナシサカ、とある。近江屋板にも折れ曲がった道筋に坂マークの△印とともにヒナシサカとある。

この坂ははじめは緩やかだが、すぐにかなりの勾配で上りはじめる。上り一方通行で、ときおり車が上ってきて坂上で信号待ちをしている。

富士見坂上 写真のように坂上から南西方面がよく見え、西新宿の高層ビル群が見える。坂名からしてかつてはここから富士山が見えたのであろうが、いまはどうなのであろうか。坂上西側の民家の塀に「明治百年記念 富士見坂 田富士見会」と刻まれた石碑がはめ込まれているが、これが豊島区HPでいう石碑であろう。

横関、石川、岡崎は、この坂を、富士見坂として説明しておらず、日無坂としている。このため、調べていてちょっと混乱した。

まず、横関は、日無坂を「豊島区高田一丁目と文京区目白台一丁目十五番五号(旧高田豊川町)との境を南に下る坂。鳳山という酒屋と写真屋との間から南へ下る坂、東坂とも」としている。

石川は、「文京区と豊島区の境界辺、目白台一丁目十五番から西に曲がって江戸川のほうへ南下する急坂。東坂の別称もあって、宿坂の東に並行している。・・・新しく富士見坂と称している。」とする。

岡崎は、「護国寺方面から上ってくる清戸坂が目白通りに交わるところから、左へ豊島区(高田へ)南下する急坂である。この坂道が、文京区と豊島区の境になっている。」とし、別名を東坂、富士見坂とする。

山野は、富士見坂を「明治以降の新坂で、坂上で江戸時代の日無坂と合流する。」とする。

富士見坂、日無坂の坂上 山野が日無坂とするのは、写真のように、左から上ってくる細い坂である。右が上記の富士見坂である。このあたりで合流する。

まとめると、横関、石川、岡崎は、この坂(写真右の坂)を日無坂とし、写真左の細い坂については触れていない。石川、岡崎は掲載の地図でもそのように示しており、また、日無坂(写真右の坂)の別名を富士見坂、東坂(横関も)としている。

再度、江戸切絵図を見ると、宿坂の東側二本目のヒナシサカとある道筋は、現在の写真左の坂下側の道筋とあっているようであるが、折れ曲がって一部で写真右の坂側にずれているようにも見え、また、坂上で現在のように清戸坂が目白通りに交わるところに出ている。

以上から、写真左の坂は、江戸時代の坂と完全に重なり合うものではないかもしれないが、江戸切絵図のヒナシサカに相当すると思われるので、日無坂とし、写真右の坂は、江戸切絵図になく、山野が説明するように、明治以降に開かれた新しい坂であり、新しい坂名である富士見坂とするのがふさわしい気がする。

日無坂上 写真は日無坂の坂上から撮ったもので、坂上のすぐ下は石段となっており、大人二人程度がやっと通れるほどの狭い坂だが、風情のある坂となっている。

豊島区HPに次の説明がある。

「日無坂 江戸時代からの歴史ある坂で、豊島区と文京区の境にあり、階段道もあります。別名は東坂。 豊島区高田1-23辺り。」

豊島区と文京区の境にある坂、という説明も混乱のもとになった。現代地図を見ると、豊島区と文京区の境界は、上記の説明のとおり、日無坂であり(google地図などを見ると正確には坂よりも東側)、富士見坂は、豊島区内であり、坂上でようやく両区の境界を通るにすぎない。

富士見坂と日無坂を別の坂とするのは、上記の山野、豊島区HP以外に、調べた範囲では、東京23区の坂道、三船康道監修「歩いてみたい東京の坂 上」(地人書館)がそうである。

日無坂途中 写真は日無坂の途中から坂上を撮ったものである。このあたりまで石段であるが、坂下側はそうではなく、細く緩やかな坂道となっている。

坂名の由来は「新撰東京名所図会」が次のように説明しているとのこと(石川)。

「ひなし坂は当町(高田豊川町)の南西角、即ち駒塚橋の通りより北の方雑司ヶ谷に上る坂をいふ。其の路甚だ狭隘にして小車の通ずるを得ず。僅かに一人づつの歩を容るゝのみ、左右樹木等にて蔽ひ居れば、日無坂の義にてかく呼ぶらんか」

かなり狭い道で樹木で蔽われていたので、それから日無しとなって、坂名となったとの説明である。

別名の東坂については、横関はヒナシ坂から自然になまって転訛し、ヒガシ坂となったとし(三船も)、岡崎は宿坂の東に平行しているからとする(石川も)。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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稲荷坂

2010年12月22日 | 坂道

稲荷坂上 宿坂上の目白通りを右折し、歩道を東へしばらく歩くと、信号が見えてくる。その信号を右折すると次に行く富士見坂の坂上であるが、その信号の手前を右折しちょっと進むと、稲荷坂の坂上である。のぞき坂ほどではないが、かなりの勾配でほぼまっすぐに下がっている。

標柱や説明板はないが、豊島区のHPに次の説明がある。

「稲荷坂 富士見坂の西側にある小さな坂です。坂上東側の住宅庭先に坂名のもととなったと思われるお稲荷さまの小さな社があります。別名はあべ坂。豊島区高田1-33、34、39、40辺り。」

坂上左側の住宅の庭先に小祠があったが、これから坂名がきているらしい。石川によれば、この稲荷は通称高田稲荷大明神といわれ、もと土地の有志数家が旧高田本町一丁目303番地につくったもので、稲荷と称していたものという。

稲荷坂下 尾張屋板江戸切絵図を見ると、宿坂の東側に平行な道筋があるが、この道筋といまの稲荷坂の関係は不明である。近江屋板にも同じ道筋があり、坂マークの△印がある。直感的に切絵図の道筋がこの稲荷坂と思ったが、裏付けがない。

明治地図ではこのあたりはまだ範囲外で不明である。戦前の昭和地図でも範囲外だが、かろうじてこの坂が示されているようである。

この坂にはさらに浅間(せんげん)坂という由来不明の別名があるとのこと(岡崎)。

上記のようにこの坂はいつできたのか確証がなく、二つの別名の由来もわからない。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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宿坂

2010年12月21日 | 坂道

宿坂下 のぞき坂の坂下を高南小学校で左折し少し歩くと、四差路につくが、ここを左折すると、金乗院の門前で、宿坂の坂下である。坂下から見るとわずかにうねりながら緩やかに上っている。のぞき坂と同じ低地から同じ高台まで上っており、高低差は変わらないと思われるが、坂の長さが長くなっているため、のぞき坂ほどの勾配はない。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、前回の記事のように、金乗院前を通って目白台に上る宿坂の道筋があるが、その神田川よりの道に、ジヤリバト云、とあり、近江屋板にもほぼ同じ位置に、コノヘンジヤリバト云、とあるので、この坂下の低地には砂利場があったのであろう。このため、砂利場坂の別名がある(石川)。

金乗院は、門前の説明板によると、真言宗豊山派の寺院で、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音像を築いたのが草創とされ、永順の没年が文禄三年(1594)六月であることから天正年間(1573~1592)の創建と考えられるとのこと。関口駒井町にあった目白不動堂は戦災で焼失したため金乗院に合併され、本尊の目白不動明王像が移ってきた。

江戸名所図会 門前には宿坂道の説明板も立っており、次の説明がある。

「中世の頃、「宿坂の関」と呼ばれる場所がこの辺りにありました。天保七年(1836)出版の『江戸名所図会』には、金乗院とともに「宿坂関旧址」が描かれています。金乗院の裏門の辺りにわずかな平地があり、立丁場と呼ばれ、昔関所があった跡であるとの伝承が記されています。この坂の名が「宿坂」といわれているのは、おそらくこれにちなむものと思われます。
 また金子直徳著『若葉の梢』(寛政十年・1798)によれば、宿坂の関は関東お留めの関で、鎌倉街道の道筋にあったといわれています。鎌倉街道は、高田馬場から雑司ヶ谷鬼子母神方面へ抜ける街道で、現在の宿坂道よりやや東寄りに位置していたようです。
 江戸時代には竹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみ坂と呼ばれ、狐や狸が出て通行人を化かしたという話がいまに伝わっています。」

上記の説明文の左となりに写真のような江戸名所図会の挿絵(宿坂関旧址 金乗院 観音堂)が転写されている。これを見ると、金乗院の前の道に宿坂とあり、緩く曲がりうねりながら上っている。

宿坂中腹から坂下 この坂は、金乗院前から坂上の高台までずっと傾斜が続き、かなり長い。中腹まではわずかながらうねっているが、これは旧道の名残であろう。その上はまっすぐに上っている。

ところで、前回の記事の千駄ヶ谷八幡(鳩森八幡神社)の前の道やその近くの榎坂勢揃坂を横関の著書で調べると、古道(鎌倉街道、奥州街道など)との関係で一緒に説明されており、この宿坂も同様である。

横関は、各地の榎坂に着目し、その榎は一里塚に植えられた榎の場合が多く、江戸時代の榎坂と榎地名またはそれに関係するものを東京図に記してつなぎあわせることで、一時代昔の奥州街道や鎌倉街道、甲州街道を再現できるとしている。これによれば、これまで巡ってきた都内のいくつかの坂が古道という一本の線でつながりそうで、はなはだ興味ある視点である。

千駄ヶ谷八幡から宿坂までは次のように説明されている。すなわち、千駄ヶ谷八幡の前から、内藤新宿の内藤屋敷の東わきを四谷大木戸に出て、さらに一里塚のある大久保百人組を通る。つづいて、ここから尾州家の山屋敷そばを通り、高田の馬場から神田上水(江戸川)を姿見橋のところで渡る。そして、南蔵院わきから金乗院前へやって来るが、ここが宿坂である。宿坂の先は雑司が谷の鬼子母神の並木道であるという。

以上の道筋を尾張屋板江戸切絵図でたどろうとしたら、かなり大変であった。この範囲だけでもそうであるから、横関が示している道筋をすべてたどるのはかなり難しそうである。

宿坂上 写真は宿坂の坂上から撮ったもので、坂上でまた少しうねっている。坂上は目白通りであるが、のぞき坂の入口からそんなに進んでいない。今回の坂は、目白通りから下る坂で、台地と谷の間を平行に上り下りするので、これからも目白通り方向(西から東へ)にはなかなか進まない。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(四)」(角川文庫)

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のぞき坂

2010年12月20日 | 坂道

今回は目白台、関口界隈の坂巡り。

のぞき坂上 ここをクリックすると拡大します 午後、副都心線雑司が谷駅下車。

目白台から下る坂は名坂が多く、よく訪れるが、副都心線が開通してから、前よりもずっとアクセスしやすくなった。特に、のぞき坂へのアクセスがよく、駅出口からすぐである。数年前に初めて来たときは、高田馬場駅から歩き神田川を渡った記憶がある。

三番出口から出ると、目白通りであるが、ここを横断し、コンビニのとなりの道に入りちょっと進むと、のぞき坂の坂上である。写真のようにかなりの急坂である。岡崎は恐るべき急坂であるとしているが、都内でも有数の急坂であろう。この東側の宿坂とほぼ平行に南に下っており、その先には神田川が流れ、その流域に広がる低地に向けてまっすぐに下る。

江戸切絵図を見ると、坂下の低地は神田上水(神田川)流域に広がった田圃となっている。

今回の目白台から南への坂はすべてほぼ平行に神田川流域の低地に下る坂であるが、その高低差のためかなりの勾配がついている。

のぞき坂下(やや上) 尾張屋板江戸切絵図には金乗院から上る坂道(宿坂)があり、これと平行な道筋がすぐ西側にある。近江屋板にも同様の位置に道筋があるが、これがかつてののぞき坂であるか不明である。明治地図、戦前の昭和地図ともにこのあたりは範囲外で不明。昭和31年の23区地図にはちゃんとある。

山野によれば、坂の開設時期については江戸、明治の両説があるとのことで、上から下を恐る恐るのぞき見た様子が坂名になったのか、としている。別名胸突坂。

この坂のすぐ西側に平行に明治通りがあり、この坂は渋滞のときの抜け道に利用されているらしい。

米国の古いアクション映画などで、サンフランシスコあたりの坂道をスピードを出した車がジャンプして疾走するようなシーンが出てくるが、ここでもスピードを出せば、そんなシーンができるかもしれない。でも目白通りから曲がってから坂上まで距離が短いのでそれはやはり無理か。

のぞき坂下 中村雅夫「東京の坂」(晶文社)という坂の写真集があるが、この坂ものっていて、子供たちが自転車で坂を駆け下りている。今回も自転車がスピードを出しながら下っていったが、さぞかし気持ちよいであろう。逆に上りは大変であり、自転車はまず無理で、以前に来たとき、原付がようやく上っていったのを思い出した。

上記の写真集には、作者考案の傾斜計で測定した坂の傾斜角が各坂ごとにのっているが、この坂の角度は15.5°である。ちなみに、東京一の急坂(石段を除く)は、関口の鉄砲坂で、一番急なところで17°とのことである。この坂も今回訪れたが、かなり幅狭で車一台がやっとであるのに対し、のぞき坂は二車線の幅があり、まっすぐに下っているので、こちらの方が堂々とした急坂である。

以前に行った世田谷の岡本三丁目の坂とよく似ている。この世田谷の坂には歩道にステップができていたが、こちらは雪が降ったときなどはどうするのだろうか。冗談ではなくアイゼンが必要であろう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「東京人(特集 東京は坂の町)」2007年4月号

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旧渋谷川歩道~ネッコ坂~穏田神社

2010年12月19日 | 坂道

原宿橋跡 熊野神社前で、どのコースで表参道の向こうのネッコ坂まで行こうかと思って地図を見ていたら、近くに旧渋谷川跡の歩道があったので、そこから表参道方面にアクセスすることにする。

熊野通りを西に進み、外苑西通りを横断すると、下り坂になって、谷に向かう感じになる。しばらく歩くと、自販機のそばに「原宿橋」と刻まれた石柱が立っていた。ここが渋谷川にかかっていた原宿橋の跡であろう。

渋谷川は、新宿御苑内の池を水源とし、現在の外苑西通りに沿って南に流れ、先ほどの龍厳寺の手前あたりで通りから離れ南西に流れる。現代地図を見ると、龍厳寺の裏手に南西に延びる細い道があるが、この道が、ちょうど原宿橋跡の辺りまで延びている。渋谷川は、水源からずっと暗渠になって、JR渋谷駅東口の稲荷橋で開渠し、南側へ流れ、港区に入ると、古川と名を変える。

旧渋谷川歩道 尾張屋板江戸切絵図をみると、竜岩寺(龍厳寺)の裏を川が流れているが、これが渋谷川であろう。竜岩寺のとなりの應覚寺の裏に橋がかかっているが、その下流の橋が原宿橋であろうか。

原宿橋の石柱のあるところを左折し、少し歩くと、うねった道が続いている。坂道のうねりとちょっと印象は違うが、川跡のうねりもなかなかおもしろい。こういった道の散歩はまっすぐの道よりも私には楽しい。同じように感じている人もいるはずである。

道の両側に民家が続くが、次第に店が多くなってくる。途中、四差路を過ぎると、急に人通りが多くなる。足早に通り過ぎようと思っても、そうもいかない。都会の静かな散歩を楽しむ場合には、ここから先は避けた方が賢明である。

表参道の広い道路に至るが、この歩道も人通りが多く、歩道橋を渡るのに並ぶ感じである。後で知ったが、このあたりに参道橋と刻まれた石柱があるとのことである。

ネッコ坂下 表参道を超えて、さらに渋谷川跡を南側に進むが、ここもかなりの人通りである。すぐに左折し、その裏道に入る。ちょっと南側に歩き、左折すると、ネッコ坂の坂下である。ここもうねりながら上っており、中腹で右に緩やかに曲がっている。坂上側で少し勾配がきつくなり、また、左に緩やかに曲がっている。

標柱はないが、石川によれば、木の根っこのように曲がっているので、ネッコ坂といったらしい。「府内場末其他往還沿革図書」の天保年度の図によると、旗本稲葉長門守屋敷の北わきを西方穏田村へゆく道をネッコサカとしているとのことである。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、稲葉長門守屋敷の北端から渋谷川に向かう道があり、いまのように湾曲しているが、坂マークも坂名もない。近江屋板に、ちょうど湾曲した道に、△印の坂マークがあり、子ツコサカとある。岡崎に、上記の「府内場末沿革図書」の図がのっているが、子ッコ坂と記された位置が湾曲部分の上側になっている。しかし、このあたりの坂をネッコ坂といったことは間違いないようである。

ネッコ坂上側 切絵図では坂下から川にかけて百姓地が広がっており、渋谷川の水で耕作していたのであろう。

坂上まで行き、引き返す。坂上から下っていくと、坂道がむかし農道であったことを感じさせるほどに細く、その周りに広がっていたであろう田園風景を何となく想像できる感じがする。 今回巡った坂のいくつかと同じように、ここもうねっているが、左右に二度ほど曲がっており、変化にとんだ道筋である。ネッコ坂としたわけも頷ける。

坂下で左折し、南側に進む。下側の川跡のにぎやかな通りとちょっと離れているだけだが、この道は人通りはほとんどなく、ときたま車が通る程度で、静かである。しばらく歩くと、右手に穏田神社の参道が見えてくる。

穏田神社 参道から穏田神社に入るが、ちょっと違和感がある。参道の両わきにはわずかにあるが、本殿の周囲に、ほとんど樹木がないのである。これでは神社が丸裸にされたようなものである。やはり神社にはたくさんの樹木が似合う。

このあたりを穏田といった。この地名は、古いらしく、その確かな由来は不明だが、北条氏の家臣の恩田なる人物が住んでいたから、あるいは隠し田からなどの説があるとのこと。隠田とも書かれたが、明治以降は、穏田が主流であるらしい。家康入国の翌天正十九年(1591)、伊賀者に給付した土地で、その子孫は明治維新まで住んでいたという。

明治末に飯野吉三郎という怪人物が世にあらわれ、朝、白装束で祈禱し、神様のお告げと予告し、なにかの予言があたったとかで政財界にも心酔者ができたらしい。穏田に千坪の土地を購入してここに新興宗教団体を設立したため穏田の神様とか穏田の行者とかいわれ、全国的に有名な存在であったが、その乱行から信者が離れ、不遇な晩年を送り、昭和19年(1944)に病没した。穏田にはそのような意外な歴史もあったようである。

穏田神社の横からでて、表参道方面にもどるが、川跡のにぎやかな通りを避けて、明治通り側の裏道を進み、表参道と明治通りとの交差点にでるが、人通りが多い。たくさんの人が信号待ちをしている。ここは東京の中でもにぎやかな繁華街の一つであるようである。明治神宮前駅へ。

今回の携帯による総歩行距離は9.0km。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「東京地名考 上」(朝日新聞社会部)
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)

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勢揃坂~熊野神社

2010年12月18日 | 坂道

勢揃坂下 榎稲荷の前の道を左折し、榎坂下を左にみて坂を下り、坂下の大きな通りを横断し、そのまま道なりに歩いていくと、外苑西通りの大きな通りに至る。ここの霞ヶ丘団地の横断歩道を渡り直進し、一本目を右折すると、道がまっすぐに延びている。南に向けて緩やかな上り坂が続いているが、ここが勢揃坂である。ここも以前にきたことがあり、二度目だが、いつきても裏道のような雰囲気で静かなところである。人通りもほとんどない。

上り坂中腹右側に龍厳寺の山門が見え、そのちょっと先に説明板が立っている。次の説明がある。

「勢揃坂(せいぞろいさか) ここのゆるい勾配の坂を勢揃坂といい、渋谷区内に残っている古道のひとつです。後三年の役-永保三(一〇八三)年に八幡太郎義家が奥州征伐にむかうとき、ここで軍勢を揃えて出陣して行ったといわれ、この名が残されております。このとき従軍した武士の中に坂東八平氏(平氏の一族)のひとり河崎重家(渋谷の領主)がおり、手柄をたてたという伝説があります。真偽についてはもちろんわかりませんが、区内に伝わる源氏に関する伝説のひとつとして注目されます。」

説明板にあるように、坂名の由来は11世紀の相当に古い故事である。現在、東京都心とよばれている地域には色んな名所・名跡があるが、それらは、ほとんど江戸期以降のものである。徳川家康の関東入国が天正18年(1590)であるので、正確にはこれ以降である。

勢揃坂上竜岩寺(龍厳寺)から熊野権現へと南に延びる道が尾張屋板江戸切絵図にのっているが、坂名も坂マークもない。しかし、近江屋板には、△印の坂マークとともに、里俗源氏坂とある。この別名は、もちろん上記の故事によるのであろう。

「新編武蔵風土記稿」巻之十に次の説明があるという(横関)。

「原宿町 当所は古へ相模国鎌倉より奥州筋の往還係て宿駅を置し所故此名ありと、又村内竜岩寺の伝に、往昔源義家奥州下向の時、渋谷城に滞溜当所にて軍勢着到せし故、今に門前の小坂を勢揃坂と唱ふと云、当時街道なりし事証しへし、村の東青山五十人町の通衢は今も相模国矢倉沢に達する往還なり。」

横関によれば、竜岩寺には天満宮があって、源義家がここで出陣の連句をやり、社前に奉納したことがあって、この天満宮は俗に句寄の天神とも呼んだとのことである。

「江戸名所図会」に竜岩寺庭中の挿絵があるが、大きな庭が描かれ、枝のわたり三間あまりの笠松というのが有名だったらしいが、これが真ん中に大きく描かれている。

熊野神社 横関に、龍厳寺前の下り坂の写真(昭和30~40年頃)がのっているが、両脇から木々が伸びて、いまよりさらに静かな感じである。

坂上を進むと、左手が熊野神社である。交差点を左折すると参道がある。この神社は尾張屋板江戸切絵図で熊野権現であり、原宿の鎮守であるという。この神社の前の道を熊野通りというらしい。現代地図にのっている。

勢揃坂下と熊野神社との間の距離は短いが、静かな坂の散歩を楽しむことができる。都会の隠れた静寂な散歩コースである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)

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観音坂~榎坂

2010年12月17日 | 坂道

観音坂中腹 鳩森八幡神社を出て将棋会館に行ってみる。ここには来たことはあるがかなり以前(たぶん30年ほど前)で、今回がはじめてといってよいが、入口付近はテレビなどでよく見る。一階のショップを見てから会館を出て、もとの道を右折し、次の四差路を横断し直進して東に進む。しだいに下り坂となり、前方で左に緩やかに曲がっている。ここが観音坂である。こういった曲がりのある坂道にくると何となくほっとした感じになる。これはいつものことであるが。

尾張屋板江戸切絵図をみると、観音坂と思われる道が緩やかにカーブしながら聖輪寺に向けて下っている。その寺に、観音、とあるから、下の標柱の説明にもあるように、これが坂名の由来であろう。

坂途中に標柱が立っているが、それには次の説明がある。

「坂名は、真言宗観谷山聖輪寺の本尊であった如意輪観音像に由来します。観音は当寺の開山とされる行基の作と伝えられていましたが、残念ながら戦災によって焼失してしまいました。「江戸名所図会」によると、身の丈は三尺五寸で、両眼は金でつくられていたといいます。」

観音坂標柱 「江戸名所図会」は、千駄ヶ谷観音堂とし、次のように紹介している。

「本尊如意輪観音像は、当寺開山行基大士の彫像にして、御丈三尺五寸あり。世俗目玉の観音と字し奉る。(往古慶長三年の春、盗賊来り、この本尊の御双眼は精金なりと聞伝へ、鑿りとりて去らんとせしが、冥罸にやよりけん、自ら持てる所の刃に貫かれて死せり。この地の高橋氏某、目のあたりこれをみて驚嘆し、堂宇を再興す。この故に里民目玉の観音と字したてまつるよし、本尊縁起にみゆ。菊岡沾凉翁の説に、江戸寺院の中千有余歳を歴たるものは、浅草寺と当寺なりといへり。)」

「江戸名所図会」には千駄ヶ谷観音堂の挿絵ものっており、聖輪寺のわきに続いている道が観音坂であろうか。この絵や千駄ヶ谷八幡宮の挿絵を見ると、このあたりは、江戸のころ、幽邃(ゆうすい)の地であったことがよくわかる。

榎坂上 坂下からもどり、途中、左折して進み、右手に瑞圓寺の山門を見てさらに歩くと、やがて下り坂になる。榎坂である。ここも気持ちよくうねっており、坂下側で右に曲がっている。

尾張屋板江戸切絵図では、緩やかにカーブした道が描かれており、その坂下は、神社の四差路から南に下った道につながっている。これはいまも同じであるが、現在はさらに南に延びている。近江屋板では、この坂下からそのまま西へ南へ延びる道がある。

坂下から広くなった道に出た歩道わきに標柱が立っている。標柱には次の説明がある。

「「榎坂」とは、ここから右手に瑞円寺の門前へ向かって登る細い坂道のことです。かつて、榎の巨木があったことから「榎坂」と名づけられたといわれており、現在は鳩森八幡へ向かうこの道の右手に商売繁盛・縁結び・金縁・子授かりや子供の病気平癒などの信仰を集める榎稲荷があります。」

榎坂下 横関には、もとこの坂の途中西側に「お万榎」があったとある。

坂下の標柱のあるところから北にちょっと坂道を上ると榎稲荷がある。石段を曲がりながら上ると、小祠があり、いかにも昔らしい雰囲気が残っている所である。この榎稲荷と榎坂は離れているがワンセットという感じがする。

今回の観音坂、榎坂はともに緩やかに湾曲しており、いかにもかつての田園風景を想起させる雰囲気を持つ坂である。こういった坂が都心にあることは驚きであり、このまま残ってほしいと思う。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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