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東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

なかにし礼「血の歌」

2022年01月08日 | 森田童子

森田童子の出自に関し、2021年末に衝撃の本が出版された。新年早々これに気づき、電子書籍で購入し、短編なのですぐに読み終えた。

「血の歌」本カバー

なかにし礼は2020年12月に亡くなったが、この短編小説「血の歌」は、巻末の子息の説明によれば、その原稿を2021年夏父の遺品を別荘で整理していた母・中西由利子が父の机の引き出しから発見したが、1995年に執筆されたと推定している。本文では、森○△子と、○△に別の漢字を当てているが、本カバーにサングラスをかけた森田童子の写真が使われているのが暗示的である。

ネット上では、以前から、森田童子が作詞家なかにし礼の姪(兄の娘)である説が流布されていたが、これが立証されたことになった。もっともそれが明らかになったもののまだ不明な点が多く、また、この本によりさらなる疑問点も出てきた。

岩波現代文庫「赤い月(上)」カバー 岩波現代文庫「赤い月(下)」カバー 私も「なかにし礼の姪」説の存在を知って興味を覚え、1~2年前、なかにし礼の本を何冊か読んだが、読んだ範囲ではそのことに言及した記述はなかった。ただ一つ関係しそうなことは、生まれ故郷の中国旧満州を背景にした小説「赤い月」(2001年5月新潮社発行)の主人公一家の姓が「森田」であったことだけ。やはり姪の芸名を意識したのだろうか。

1938年なかにし礼(中西禮三)は中国黒龍江省牡丹江市で生まれ、中西一家は、父政太郎、母よき、兄正一、姉宏子、弟禮三の五人家族となった。1934年中西一家四人は小樽から満州に渡り、牡丹江で造り酒屋を始めていた(「翔べ! わが想いよ」参照)。

小説「赤い月」は、父母が中国満州で創業した森田酒造を中心にして展開する。酒造経営は軌道にのって順調に業績を伸ばし、経営者の父は当時満州でも指折りの成功者となり、一家は裕福であった。しかし、それも1945年8月ソ連軍の満州侵攻で終焉し、今度は、母子の壮絶な逃避行が始まる。避難先のハルピンで母は生活のため大福餅をつくり路上で売ったりもした。父は栄養失調で死んだ。つい数ヶ月前までは想像もできなかったことである。そんな子供の時の体験に基づく激動の時代を背景とした物語であるが、どこまでが実際に経験したことでどこから物語としての創作であるか分からないほど両者がとけ合って読み応えのある長編小説となっている。作詞家なかにし礼は、ヒット曲をたくさんつくり、戦後の歌謡曲全盛時代を築いた立役者といってよさそうであるが、作家という別の才能を感じさせる。

(以下、若干のネタバレがあるので、ご注意!)

「跳べ! わが想いよ」(新潮文庫)カバー 「兄弟」(文藝春秋)」カバー なかにし礼が兄との壮絶な確執を描き話題となった小説「兄弟」(初出「オール讀物」1997年6-8、10-12月号)に兄の次女(姉、本人、弟の3人兄弟)として「美以子」が出てくるが、これが森田童子。今回の「血の歌」では「美納子」となっている。

「血の歌」では、誕生は、青森、1953年1月15日夜9時、厳寒の日。礼三が吹雪の中助産婦さんを迎えに行っている間に生まれた。「兄弟」(第4章)には、戦後の一時期、礼三(なかにし礼)が母や姉と青森市に住んでいた頃、米軍三沢基地に勤務する通訳という設定で兄が登場するが、このとき誕生した。しかし、「兄弟」にはこれと矛盾する記述があることに驚いてしまう。「第5章 大井町」の冒頭すぐに、「上京してすぐに生まれた美以子はまだ三歳・・・、」とある。青森か東京か、どちらが本当の出生地なのか。同章のその後に、昭和28年(1953)10月に兄は私たちを引き連れて青森から東京に出てきた、とあるが、「血の歌」のとおりであれば、このとき生後9ヶ月の赤ちゃんであった。「兄弟」のとおりであれば、1954年生まれになる。いずれが正しいのかにわかにはわからないが、兄の次女について「兄弟」は「血の歌」と違うように意図的に書かれたような気もするが、たんなる思い違いかもしれない。

「血の歌」は、兄が実名で登場し一人称で語り、その次女「美納子」との関わり合いについてかなり書かれてあることから、なかにし礼の「美納子」に対する関心の深さが見て取れる。これに対し、「兄弟」は兄との関係・確執が主題で「美以子」の記述はきわめて少ない。誕生について「血の歌」はかなりリアルに描いており、これが本当であろうと思ってしまう。

中西一家は青森から東京に出てきて大井町に住んだが、「血の歌」に、その頃5歳の美納子が父と一緒に夏祭りに出かけたときに起きた、ちょっと悲惨な出来事が描かれている。父はそのせいで美納子の声が変わったなどと回想する。

「兄弟」(第6章)によれば、なかにし礼が浅草にいた頃、兄の家族5人と母が住んでいた田無の家に行くと、12歳の美以子など3人兄弟は「兄ちゃん」と呼んで実の兄のように慕った。なかにし礼は兄と14歳も違い、兄の子供たちにとってはまさしく兄のような存在であったのであろう。

なかにし礼がヒット曲を連発し収入も増えたことから30歳のとき(1968年)、中野区江原町に大きな家を新築し、兄の家族5人、母、弟子4人と一緒に住むようになった。この頃のことであるが、「血の歌」に美納子(15歳)とは気が合い、歌を書くことについて自分なりの秘密を話して聞かせたとある。歌をつくることについてなかにし礼からの影響があったかもしれないと想像させる場面である。

中野時代は短かったが平穏な暮らしで、美納子はギターをおぼえ、ピアノも弾けるようになっていた。兄はアコーディオンの名手で、音楽的才能があったようでそんな父の血を受け継いだのか。

この後、「兄弟」(第7章)によれば、兄の会社が倒産し、個人にとっては莫大な負債をなかにし礼が肩代わりしたなどのことがあって、兄一家は1971年10月に母を連れて中野の家を出て、逗子の久木の高台にある借家に移った。森田童子は18歳、一緒に移らなかったらしく、今回の「血の歌」には、父が引き起こした家庭崩壊の混乱の中で、家を出て恋人と同棲を始めたとある。相手や住居は不明だが、後に結婚することになる人(前田亜土)で、中央線沿線と想像される。この前後、これまでいわれてきた高校中退や友の死などがあったのであろう。

さらに兄一家は1973年10月に鎌倉の今泉に移った。「兄弟」(第8章)によれば、この家で1977年9月、中西兄弟の母が亡くなったが、子供たち3人(中西兄弟)とその家族全員がその死を看取り、火葬のとき、兄夫婦と3人の子供たち、姉夫婦、・・・全部で20人ばかりで骨拾いをした。森田童子も祖母の死に立ち合い、葬式に出ている。

「血の歌」には森田童子のデビューのときの話も出てくるが、なかにし礼や女性音楽プロデューサーも深く関わっていて、芸名も語っている。昭和49年(1974)の秋の終わり頃のこと。その次の年にデビューし、西荻のロフトとされているが、そのときのことをロフトオーナー(平野悠)が伝える雰囲気とはかなり違っている(週刊朝日記事)。ここからは想像であるが、恋人である前田亜土が森田童子となかにし礼や女性プロデューサーとの間に立って、いろいろと調整していたのではないだろうか。その初期が上記のデビュー話ではないのか。森田童子は、メジャーなデビューなど望まず、コンサートに集まってくれる観客の前で思いを込めて歌えるシチュエーションがあれば満足であったのではないか。そう考えないと、全国各地でミニコンサートを開いたことなどを理解できない。

前田亜土は、恋人で、マネージャーであったが、やはり森田童子の望みや好みを無視できず、ほぼその望み通りになるよう音楽活動をサポートしたのであろう。

森田童子は1983年12月に引退したが、1993年1月、「ぼくたちの失敗」(1976年発売)がテレビドラマ「高校教師」の主題歌に採用され、そのシングルCDが100万枚に迫る大ヒットとなった。このことに関連する記述が「血の歌」にある。

「血の歌」は1995年に、1997年執筆の「兄弟」の習作として書かれたとあるが(巻末の説明)、その間の1996年に兄正一が亡くなっている。「兄弟」(第8章末)に、兄は1年の闘病生活のすえ死んだとあることから、想像するに、そんなことに誘発されて「血の歌」を書いたが、まだ習作の段階であった。そして、兄の死後、ようやく本格的に「兄弟」の執筆に取りかかった。

「血の歌」の巻末の子息の説明に、なぜ父がこの作品だけをすぐに見つかるようなところに置いていたのかをこれからその意味を考えていきたいとある。2018年4月に森田童子が亡くなったことと関係するような気がするが、どうなのであろうか。私的には、他にも解明を期待したいことがある。たとえば、上記の誕生のことや引退後に大ヒットした姪の曲を想起させるような作詞を載せていることの意味など。

今回の「血の歌」の発表に続いて、新たな資料や情報が明らかになることを期待したい。

参考文献
 なかにし礼「血の歌」(毎日新聞出版)
 なかにし礼オフィシャルサイト
 なかにし礼「赤い月(上)(下)」(岩波現代文庫)
 なかにし礼「翔べ! わが想いよ」(新潮文庫)
 なかにし礼「兄弟」(文藝春秋)平成11年3月10日第21刷
 「週刊朝日」2018年6月29日号

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桜桃忌(2021)

2021年06月22日 | 森田童子

6月19日(土)は桜桃忌で三鷹市の禅林寺まで出かけた。太宰治の墓を掃苔するのは久しぶり。帰りは、禅林寺から玉川上水の新橋に行き、上水沿いに牟礼橋まで歩き、そこから井の頭線久我山駅方面に向かった。
玉川上水わき歩道 本町通り 禅林寺 太宰治の墓 森鷗外の墓





午後三鷹駅下車

駅から出ると、傘がいるようないらないようなほんの小雨であった。前夜の天気予報では雨となっていて、かなり降るのかなと案じていたので、ちょっと救われた気分。雨はずっとこんな調子で、梅雨の季節を感じさせる一日であった。梅雨は桜桃忌によく似合っている。

玉川上水わきの歩道(一枚目の写真)をちょっと歩いてから、本町通り(二枚目)に入り、ひたすら南下する。

下連雀通りから禅林寺に入り、墓近くを見ると、けっこうたくさんの人が来ている。五年前のとき(桜桃忌(2016))よりも多かった。

この頃、しきりに太宰の影響ということを考える。最近読んだ福島泰樹の岸上大作論に、その自死は太宰の影響がなかったとはいえないようなことが書いてあった。その死の前年11月4日に「斜陽」「ヴィヨンの妻」「桜桃」を読んでいる。

   『太宰忌はその命日にしてわれの喪は父の墓標を雨に濡らしむ』

岸上大作歌集「意志表示」にある「太宰忌」全五首のうちの四首目。福島は、一年後の岸上の死を思うとこの一首を読み過ごすことができないと断じ、「さて私の死はと問い、その問いの応えを、「父の墓標」に移行させているのである。自らの死の予感を巧みなレトリックのうちに韜晦[とうかい]させている。」と論じている。

純粋で内向する青年に死の予感を感受させて止まない何かが太宰にはあるのだろうか。
鷗外遺言碑 仲町通り 玉川上水 新橋 玉川上水緑道 玉川上水緑道

 

 

 

門前の右側にある鷗外の遺言碑(以前の記事)を入れて撮ったのが一枚目の写真。ちょうどきれいに咲いた紫陽花に囲まれて隠れるように建っている。

禅林寺を出て左折し下連雀通りを東へ向かい、適当なところで左折し北へ歩き、次の四差路を右折し、仲町通り(二枚目の写真)に入る。ここを東へ歩き、途中で明星通りとなって、やがて玉川上水にかかる新橋に至る(現代地図)。禅林寺前から新橋まで歩いて20~25分程度。このちょっと下流で昭和23年(1948)6月19日太宰の遺体が発見された。

ここから玉川上水に沿って下流に向かう。このところの雨でできた水溜まりを避けながら小径を歩くが、通行人はほとんどいなく、上水側には樹木の緑が溢れ、梅雨空ながらゆったりした気分になれる。墓前へのおまいりに続く玉川上水沿い散歩は太宰忌にふさわしい。
玉川上水緑道 玉川上水 井の頭橋 玉川上水緑道 玉川上水緑道 玉川上水 宮下橋)

 

 

 

太宰の影響といっても、太宰と同時代を生きその作品をほぼリアルタイムで読んだ世代からその没後七十年程の間に読んだ世代まで各年代に渡って読者がいたはずで、各世代によって違うのだろうし、当然ながら個々人によっても違う。

1940年代までの同時代に読んだ世代を第0世代、50年代を第1世代、60年代を第2世代、70年代を第3世代、80年代を第4世代、・・・と呼ぶとすると、岸上は第1世代、森田童子は第2世代(たぶん)、私などは奥手で第3世代である。桜桃忌(2016)で触れた四十数年前の太宰研究会に出席していた人たちは、いま思い返すと、ほとんど第0世代だったのであろう。青年期に同時代の太宰に出会い、耽読し、大きな影響を受け、その死(の報道)に接し、大なる喪失感を経験した世代。

そんな中で同時代を生きた第0世代の吉本隆明にとって、太宰作品の中で「右大臣実朝」の「平家ハ、アカルイ。」「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」という実朝のせりふがもっとも好きな言葉である。このような太宰の逆説的な言い方が大好きといっている。明るいからよくて、暗いからだめだという善悪二元論で考えると物事の本質を見誤る恐れがある。無意識のうちに答えが決まっている(善悪二元論による)価値判断は、無意識のうちに人の心を強制する。明るいからよく暗いからだめという単純な価値判断であると、そう思えない自分、そうでない自分を追いつめる結果になってしまう、としている。人間の心理面までよく考えている。単純な善悪二元論による価値判断がはびこる現在にこそ必要な考え方かもしれない。

玉川上水にかかる橋のたもとを何回か通過するが(玉川上水橋案内図)、そのうち、大きめの道路が通る井の頭橋と宮下橋の写真が二、五枚目である。雨は、時々、ポツポツと降り、また、止んで、傘を開いたり閉じたり。

玉川上水緑道 玉川上水 牟礼橋 人見街道久我山 人見街道久我山駅前 人見街道久我山

 




やがて、牟礼橋に至り(現代地図)、玉川上水沿いの小径は人見街道などで大きく分断されるが、ここを左折し、人見街道を久我山方面に向かう。

森田童子のアルバム「友への手紙 森田童子自選集」に収録された「淋しい素描」の曲後に次のモノローグ(一人語り)が挿入されている。

 「ラジオ 消しゴム 万年筆 新聞 腕時計 短歌 岸上大作 灰皿 マッチ 窓 雨 4月1日 エイプリルフール」

一人部屋の中で周りの物を見て視線を変えながらつぶやいているのだろうか。勝手に想像するに、周りを見ると、ラジオ~腕時計があり、岸上大作の歌集があって、その隣に灰皿、マッチがあり、窓から外を見ると雨で、きょうは、4月1日、エイプリルフール。

「岸上大作全集」(思潮社)が1970年、「意志表示」(角川文庫)が1972年、「岸上大作歌集」(国文社)が1980年に出版されており、森田童子が岸上大作歌集を持ち読んでいた可能性は充分にありそうである。古本屋にも行っていたから。古本屋で5、6年前のフォーク雑誌を見ていたら早川義夫の記事があって・・・などとスタジオライブで語っている。(このスタジオライブこそ、そのむかし、録音し、繰り返し聴いていた今は無き音源で、これがyoutubeで再現されていることに驚いた。)

岸上大作は、60年安保闘争に参加した学生歌人で、その頃の短歌二首を掲げる。

   『装甲車踏みつけて越す足裏の清しき論理に息つめている』

   『血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする』

岸上は、その年の12月5日未明杉並区久我山の下宿で自殺し、21歳の短い生涯を閉じた。その日の朝、久我山駅に向かうサラリーマンがレインコートを被り雨に濡れた縊死体を発見したという。

人見街道は牟礼橋からちょっと歩くと久我山駅に向かって緩やかに下っている(三枚目の写真)。駅前で神田川が街道を横断して流れ(四枚目)、その近くの踏切を渡ると、人見街道はふたたび緩やかに上っている(駅方面を振り返って撮ったのが五枚目)。

岸上終焉の場所は、当時はまだ麦畑などが多く残っていたのでかなり変わったのだろうが、この街道沿いであったかもしれない、いや別の道路もあるからそっちかも、いずれにしても当時の家は残っていないだろう、などと思いながら人見街道の緩やかな坂道を歩いた。

森田童子は、その強い感受性から岸上の生死に関心を寄せ岸上に惹かれた可能性が高いような気がする(ちょうど太宰に惹かれたのと同じように)。ライブ盤 (東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤(1978))の曲間のモノローグで語るように高校時代の女子大学生の先輩を久我山のアパートに訪ねたことがあったが、そのときの二人の会話に岸上大作も出てきたかもしれないなどとつい想像をしてしまった。(「この近くに住んでいたのよ」などと。)

参考文献
「岸上大作全集」(思潮社)
福島泰樹「「恋と革命」の死 岸上大作」(皓星社)
吉本隆明「真贋」(講談社文庫)
CD「友への手紙 森田童子自選集」(ユニバーサル ミュージック合同会社)
CD 森田童子「東京カテドラル聖マリア大聖堂 録音盤」(WARNER MUSIC JAPAN INC.)

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玉川上水~神田川(2020)

2020年12月31日 | 森田童子

最近、めっきり、遠出も長めの散歩も縁遠くなってしまったので、ちょっと奮起して近くだが長めの散歩に出かけた。玉川上水と神田川を結ぶコースである。
神田川12月(2020) 玉川上水12月(2020) 玉川上水12月(2020) 玉川上水12月(2020) 午後井の頭線富士見ヶ丘駅近くの神田川にかかる月見橋から出発(現代地図)。そこから上流側を撮ったのが1枚目の写真。

橋を渡って南側にしばらく歩くと、やがて、上に中央高速が見えてくるが、その近くで右折してちょっと歩き、横断歩道を渡ると、玉川上水が暗渠となる浅間橋である(現代地図)。 ここから上流に歩く。

これまで何回か歩いているので、私的にはスタートからしばらくはお決まりのコースだが、晩秋~初冬の季節はちょっと久しぶり。暖冬のせいか紅葉・黄葉がまだ残っていて、色鮮やかであった。冷えていたので、緑道散歩に適した日であった。
玉川上水12月(2020) 玉川上水12月(2020) 玉川上水12月(2020) 玉川上水12月(2020) このあたりは、太宰治や森田童子を偲んだりして歩き、ブログ記事にもしたが(ここここここ)、太宰はともかく森田童子についてはまだ書き足りない気分が残っている。

二年前その訃報に接したとき、その享年にちょっと驚いた覚えがある(自分の歳を考えれば少しも驚くことがないのに)。引退してからの年月の長さを改めて思い知ったのである。1970年代のFMライブの録音を繰り返し聴き、1983年12月の引退(以前の記事)の後1993年までにアルバムがCD化されたようで、その頃、1~2枚購い、その後中古品で何枚か手に入れてから携帯CDプレーヤーで聴いていた。

音楽は、誤解を恐れずにいうと、音源の中にしかない。音源から再生装置をとおして聴いてはじめて実在を感じる。森田童子の音源は、すでに数十年前のもので、その実在を感じるのは、そのような音源からだけといってよい。むかしから聴いている者にとってそのときから時間が止まっている。そんな中での突然の訃報で、時間の断絶がすざまじく戸惑いを感じるのはある意味当然であった。

かなり前に週刊誌(いま具体的に挙げることはできないが)に大切な人が大変な状態であるというような意味の記事があったかすかな記憶がある。いま想像するに、音楽活動に別れを告げて普通の生活に戻り、日々の生活の中でときに苦しいことや悲しいことがあったかもしれないが、そればかりでなく長い時間を経る中でいろんな楽しみやうれしいこともあったはずである。それらはたぶん程度の軽重はあっても誰もが経験することであろうが、そのようにして後半生を送った。そう思うとその断絶した時間をわずかであるが埋めることができるような気がしてくる。後半生を全く市井の人として過ごすことで本名素顔不明歌手としての存在をまっとうしたのである。(どこにでもあるがどこにもいない。)

玉川上水12月(2020) 玉川上水12月(2020) 玉川上水12月(2020) 玉川上水12月(2020) 浅間橋から人見街道の牟礼橋まで玉川上水の両岸に沿ってできた道路は、東八道路の延長で、上流に向かって右側が東行き、左側が西行き。ときおり車の音が聞こえてくる。玉川上水が両脇の緑道を含めて自動車道路に挟まれた形になってしまって、ちょっと窮屈な感じである。緑道の道路側に植栽があるので視覚的には遮られるが、音はそうはいかない。でも高架よりましである。

人見街道を過ぎると以前と同じ散歩道が続く。

しばらく歩くと、幸橋の右側にちょっと大きめの公園が見えてくる。ここはもう井の頭公園の一部である(現代地図)。
井の頭公園12月(2020) 井の頭公園12月(2020) 井の頭公園12月(2020) 井の頭公園12月(2020) この公園を通り抜け、住宅街を通って井の頭池に出ると、たくさんの人が繰り出していた。池にもボートやスワンがけっこう浮かんでいる。

池の脇を通り抜け、井の頭線の高架下を通り、広めの公園のそばの川沿いをちょっと歩くが、ここは、下の1,2枚目の写真のように、神田川の源流にふさわしい風景である(現代地図)。

ここを過ぎると、川は住宅街の中を流れ、両側に遊歩道ができているが、左側を下流に歩く。

神田川12月(2020) 神田川12月(2020) 神田川12月(2020) 神田川12月(2020) 神田川沿いの遊歩道は、所々で一般道で分断されるが、三鷹台駅近くの道路を右に行けば、先ほど通った玉川上水の宮下橋に至る(現代地図)。ここから先は遊歩道が行き止まりになるので、踏切を渡りいったん一般道に出て三鷹台駅を左に見て歩くが、ちょっと先を左に入ると遊歩道に戻ることができる(現代地図)。

やがて久我山駅に至るが、ここも駅前の人見街道を右(西)に進めばやがて先ほどの玉川上水との交差地点(牟礼橋)に至る。また、駅前の街道を横断して岩通通りを南へ行けば玉川上水の岩崎橋である(現代地図)。

森田童子のライブ盤(東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤(1978))の曲間の友のおもいで語りに高校時代の女子大学生の先輩が出てくるが、その人の住んでいたアパートが久我山でそこを訪ねたと話していたので久我山の辺りには土地勘があったようにおもえる。久我山からは玉川上水も近い。

神田川12月(2020) 神田川12月(2020) 神田川12月(2020) 神田川12月(2020) 久我山駅前を横断し、川沿い遊歩道をさらに進むが、やがて左手が井の頭線の車両基地、対岸が竹林で遊歩道なしのところに至る(3枚目の写真)。これまでの住宅街の風景から一変してかなりさみしい雰囲気である。

やがて次の橋(京王管理橋)に至りここを過ぎると、もとのように住宅街になる(現代地図)。

ちょっと歩くと先ほど出発した月見橋が見えてくる(4枚目の写真)。

以上のように、月見橋を渡って南に歩き玉川上水を浅間橋から幸橋まで歩き、そこから井の頭池に出て、神田川の源流から下流へ月見橋まで歩くようにしてぐるりと一周した。要した時間は2時間程度(途中5分程度の休憩一回)。

今回歩いた玉川上水沿いも神田川沿いもこれまで何回か歩いているが、玉川上水と神田川を井の頭池経由で結ぶ周回コースははじめてであった。これは、また、森田童子を偲ぶ街散策のコースにもなる(と勝手に思っている)。

自宅と月見橋との間の往復も徒歩であった(人見街道経由)ので、かなり歩いた気がしてちょっと疲れた。

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玉川上水(森田童子の歩いた小径)

2018年09月11日 | 森田童子

先月になるが、玉川上水に沿って浅間橋から上流へ三鷹まで歩いた。このコースはこれまでに二三回歩いているが(以前の記事)、こんな猛暑の季節は始めてである。

玉川上水(浅間橋~三鷹) 玉川上水(浅間橋~三鷹) 玉川上水(浅間橋~三鷹) 玉川上水(浅間橋~三鷹) 玉川上水(浅間橋~三鷹)

 

 

 


午後井の頭線富士見ヶ丘駅下車

駅から右に出てすぐのコンビニで冷たいペットボトルを購ってから南へ歩き、中央高速の高架下付近で右折しちょっと進むと、前方左側にこんもりとした森のような一帯が見えてくる(現代地図)。ここが玉川上水で、ここから下流は暗渠になっているので、終点である。

以前来たときは、すぐそばが道路工事中であったが、それが終わったようで、玉川上水に沿った散歩道の玉川上水緑道も整備されていた。前よりも歩きやすくなっている。

上水側は樹木で鬱蒼とし、川の流れもほとんど見えないので、まるで森の縁にでもできた小径を歩いている気分になる。

この新しい緑道が人見街道の牟礼橋(現代地図)まで続いているが、そこから万助橋までは以前と同じようである(橋の案内図)。

玉川上水(浅間橋~三鷹) 玉川上水(浅間橋~三鷹) 玉川上水(浅間橋~三鷹) 玉川上水(浅間橋~三鷹) 玉川上水(浅間橋~三鷹)

 

 

 


今春亡くなった森田童子(以前の記事)を偲んでCDを聴いていたら、1stアルバム「グッド・バイ」に入っている「まぶしい夏」の出だしの「玉川上水沿いに歩くと君の小さなアパートがあった」に思わず反応してしまった。

1stシングル(1975年10月21日発売)のA面がデビュー作「さよなら ぼくの ともだち」で、B面がこの曲で、両方とも友人の死が主題になっている。

訃報を報じる週刊誌の記事にライブハウス「ロフト」のオーナーの次のような談話が載っていた。

『これからはロックだという時代に、太宰がどうしたとか、誰かが死んだとかいうようなことを、いつもボロボロ泣きながら、顔じゅう涙で濡らしながら歌ってたんです。友達が学生運動の最中に倒れて死んだ。そのひとのことを歌いたくて始めたんだということをよく言ってました』

デビューシングルの二つの曲は友人の死がきっかけででき、ライブ活動を始めたことがわかる。

A面のデビュー作は、ぼく(森田)から見た君(友)のイメージを、君への思い入れをこめて歌っているように感じられ、主観が前面に出ているが、それ故にであろうか、聴く者のこころを打つ名曲になっている。

「まぶしい夏」を聴き「ぼくは汗ばんだ懐かしいあの頃の景色をよく覚えてる」という最終節に至るに及んで、この作詞は実体験によるものと直感した。友の死という事実をありのままに表現し歌っているように聴こえる。

以上の単なる直観からだが、この辺りをかつて森田童子が歩いたのは確かとおもわれた。今回歩いて、時として感じる盛夏のまぶしさの中、その曲からイメージされるような雰囲気が残っているような気がした。おもえば、森田童子を偲ぶ街散策の基本コースはここである。

玉川上水(浅間橋~三鷹) 玉川上水(浅間橋~三鷹) 玉川上水(浅間橋~三鷹) 玉川上水(浅間橋~三鷹) 玉川上水(浅間橋~三鷹)

 

 



樹木により日陰ができ、光が直射しないので、まあ歩きやすいが、ときおり、薄くなった樹木の葉を透過しまぶしい。上水沿いに住宅が所々に並んでいる。向こう岸の茂った竹林の隙間から住宅が霞んで見える。見えない所ではまるで幽寂な森の中にいるような感覚。

やがて、右にゆるやかにカーブしているところに至るが(三枚目の写真)、新橋のちょっと下流で、この辺が入水した太宰治の発見されたところである(現代地図)。

この辺りの玉川上水は、私的には太宰の終末から受ける梅雨空のような灰色がかったイメージの強いところであったが、今回森田童子を偲んで歩いてみると、その歌からかもし出される感情に由来するちょっと軽やかだがそれでいて哀しく切ない気分が重なってしまう。その友は太宰が好きで、友から借りた太宰の本が形見となった。玉川上水で太宰治と森田童子が交差し重なり合った。

玉川上水(浅間橋~三鷹) 玉川上水(浅間橋~三鷹) 玉川上水(浅間橋~三鷹) 玉川上水(浅間橋~三鷹) 玉川上水(浅間橋~三鷹)

 

 



玉川上水沿いの散歩道は万助橋(
現代地図)で、それまでの上水沿いに茂った樹木のためちょっと暗い小径に終わりを告げ、信号を渡ると、街中の明るい散歩道となる。ここから三鷹駅までを風の散歩道と称しているが、途中に太宰の郷里産の石や写真が歩道のわきに置かれていることもあって(以前の記事)、ここまで来ると太宰の影が濃くなる。森田童子には先ほどまでのちょっと暗い小径の方がよく似合っている。

彼女の音楽は、彼女の資質と存在した時代と置かれた環境とがクロスした地点で生まれた自己表現に違いないが、自らが作詞作曲をして歌うという表現形態をとったことで、よりよく自己を表出できている。おもえば、その表現形態は彼女の好みにぴったり合い、これによって、思う存分に感情・感覚・幻想を表現しライブで歌うことができた。自己表現が完結したのである。聴く度にそうおもってしまう。

参考文献
「週刊朝日」2018.6.29号

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追悼 森田童子

2018年06月13日 | 森田童子

森田童子の訃報をネットで知った(ここここ)。4月24日に自宅で亡くなったという。享年66歳。心不全とある。

素顔本名不明歌手で、昭和58年(1983)12月の引退後、どこで誰とどんな生活を送っていたかも不明らしいが、CDやYouTubeなどでいまも聴くことができ、根強い人気があることはネット上の色んなコメントからもわかる。

森田童子プロフィール 左は、CD(森田童子ベスト・コレクションII)のジャケットにある音楽活動のまとめである。昭和50年(1975)にライブハウスコンサートを開始し、同年1stアルバム「グッド・バイ」を発表し、その終了までの8~9年ほどが音楽活動の期間であった。

ライブハウスでのコンサート活動が主であったとあるが、私的にはそんなコンサートとは無縁で、東京FM放送で聴いたスタジオライブ(たしか「パイオニア」提供)が唯一の森田童子体験であった。そのときに録音したカセットテープで疲れたときなどによく聴いた。哀感のある流れるようなメロディが透明感のある声質と相まって心にしみこんだ。

森田童子のライブの特徴(の一つ)は、曲間に独白のような台詞や友の想いで話が入ることで、そのライブ放送では、岩手県岩泉町の「マルコンレコードのコンさん」の話をしていた。そんな話やそんな遠くまで行ってミニコンサートを開いたことなどに、音楽とファンに対する思い入れのみならず、ものごとの感じ方や生き方の根本に近いものがあらわれていた。

彼女の歌を聴いていると哀しみがにじみでてくるような印象を受けることが多い。それが哀しい心に共鳴し共感をよぶのであるが、それだけではなく、友や恋人への真摯な思い入れが背景にあるからでもある。引退後30年以上も経っているのに根強い人気があるゆえんであろう。

当ブログとしては、森田童子を偲ぶ街歩きを紹介したいところだが、そんな場所は当然のことながら不明と思ったら、一つだけ心に浮かんだ。東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤(1978)というライブ盤があるが、そのカテドラル大聖堂を巡るコースである。近くに目白坂があり、ここを上るか下るコースがおすすめである(現代地図)。いま坂上の目白通りは街路樹の溢れる緑でいっぱいであろう。

コメント
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