東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

善福寺川(尾崎橋~宮下橋)2012(9月)

2012年09月23日 | 写真

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願行寺(駒込)~団子坂(2)

2012年09月21日 | 文学散歩

鴎外「青年」のT字路 T字路から新坂上方向 T字路の北 日本医科大・根津裏門坂上 前回の願行寺の門前の道を北へ向かうと、まもなく、一枚目の写真のように右折のあるT字路につく。ここを右折すると、二枚目のようにまっすぐに東へ延びており、その先は新坂(S坂)の坂上である。このT字路が次のように森鴎外『青年』の冒頭に出てくる。

『小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った。目まぐろしい須田町の乗換も無事に済んだ。扨(さて)本郷三丁目で電車を降りて、追分から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現の表坂上にある袖浦館という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。
 此処は道が丁字路になっている。権現前から登って来る道が、自分の辿って来た道を鉛直に切る処に袖浦館はある。木材にペンキを塗った、マッチの箱のような擬西洋造である。入口の鴨居の上に、木札が沢山並べて嵌めてある。それに下宿人の姓名が書いてある。』

その下宿屋は、新坂の方から来てT字路の突き当たりにあったという設定である。 このT字路をさらに北に進んで北側を撮ったのが三枚目である。やがて四枚目のように信号のある交差点に至る。ここを右折すると根津裏門坂の下りとなる。四枚目の交差点の向こうにある建物が日本医科大学付属病院であるが、ここで、3月16日吉本隆明が亡くなった。

夏目漱石旧居跡手前(南) 夏目漱石旧居跡の北 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 上記の交差点を渡り、病院わきの道を北へ進むと、まもなく、一枚目の写真のように、左側の歩道に石碑が見えてくるが、夏目漱石旧居跡である。ここには、その何年か前に森鴎外も住んだ。二枚目は、そこからさらに進んで、北側を撮ったものである。

この道は、ここから右折すると、藪下通りという散歩に適したよい小径があり、このあたりに来るとついそちらに行ってしまうため、はじめて通るが、通行量が少なく、意外にも静かな散歩が楽しめる。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(天保十四年(1843))の部分図では、本郷追分から西教寺、願行寺の門前を通って北へ進むと、大田邸と有馬邸との境界の角に至るが、ここから大田邸と海蔵寺などとの境界が北に延びている。この境界が一、二枚目の写真の道である。四枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))や近江屋板も同様である。

団子坂上の通り 世尊院門前 団子坂上 藪下通り上側の階段 やがて広い通りに出るが、ここを右折する。ここは団子坂上から西へ延びる道で、東の坂上方面に向かうが、一枚目の写真は、進行方向東側を撮ったものである。

途中、右折すると、二枚目のように、突き当たりに世尊院がある。上三枚目の尾張屋板江戸切絵図を見ると、江戸時代はもっと広い敷地であった。その団子坂近くの角地が、前回の記事のように、質商小倉の敷地で、後に鴎外が購入し、その家を観潮楼と称した。

さらに進むと、団子坂上近くの観潮楼跡にできた新装の森鴎外記念館が見えてくる。三枚目に写っているが、まだ開館にはなっていないようである。

坂上から藪下通りに入り、右側に森鴎外記念館が見えるが、その反対側は崖上で、四枚目のように、そこに階段ができている。これまで観潮楼跡ばかり見ていたためか、この無名の階段には気がつかなかった。

藪下通り上側の階段 藪下通り上側の階段 団子坂中腹から坂下 団子坂中腹から坂上 上記の無名の階段を下るが、一、二枚目のように踊り場が二箇所ほどあって長く、かなりの高低差がある。ここは、ちょうど団子坂の南に位置し、本郷台地の東端と根津谷との間の崖にできた階段である。坂下南側に第八中があり、そのとなりに汐見小がある。崖上の藪下通りからこの小学校の校庭がよく見える。

階段下をそのまま直進すれば不忍通りであるが、右折し南の方に歩き、途中右折し藪下通りに出た。団子坂上にもどり、坂を下ったが、その途中で撮ったのが三、四枚目である。

谷中銀座の方へ行ったりしてから、坂下近くのラーメン屋に入り冷たいビールで喉を潤した後、千駄木駅へ。

携帯による総歩行距離は9.2km。

参考文献
「鷗外選集 第二巻」(岩波書店)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)

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願行寺(駒込)~団子坂(1)

2012年09月19日 | 文学散歩

九月に入ったが、残暑が続き、いつものような街歩きになかなか出かける気になれない。昨年の今ごろはどこに行っているのかと見ると、築地からはじめて、隅田川に沿って勝鬨橋から上流へ新佃大橋~佃島まで歩いている。そのときの記憶からやはりことしの残暑は去年よりも厳しいと思う。 それでも、午後になって少し雲もでてきたので、出かけた。最近、森鴎外と芥川龍之介の記事で出てきた細木香以の墓のある駒込の願行寺である。

本郷通りから東 西教寺前 西教寺門前 願行寺手前 午後地下鉄南北線東大前駅下車。

駅の一番出口から出ると、眼の前が本郷通りで、ここを右折し、次を右折すると、一枚目の写真のように東へ向かう道がある。この右側の塀の向こうは東大農学部である。L字形の道で、すぐに突き当たり、左に曲がると、二枚目のように、北へまっすぐに延びている。その角に、三枚目の西教寺がある。

四枚目は、その門前からちょっと進んで、北へ続く道を撮ったものである。東大側の樹々が日に照らされてきらきらしており、暑さをいっそう感じさせる風景となっている。 この通りは南北線の東大前駅から近く、これができたため、この付近へのアクセスはきわめて便利である。本郷通りの裏道といった感じで、人通りも車も少ない。

願行寺門前 願行寺門前 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) ちょっと歩くと、左手に、一、二枚目の写真のように、願行寺の門前が見えてくる。ちょっと古びたいかにも昔からのお寺といった雰囲気である。田舎にはこのようなお寺がよくあり、どこかなつかしい気がしてくる。過去のある時点から時が止まったような感じがしてくるから不思議である。

森鴎外は、「細木香以」で、この寺を訪れたことを次のように記している。

『本郷の追分を第一高等学校の木柵に沿うて東へ折れ、更に北へ曲る角が西教寺と云う寺である。西教寺の門前を過ぎて右に桐の花の咲く寄宿舎の横手を見つゝ行けば、三四軒の店が並んでいて、また一つ寺がある。これが願行寺である。
 願行寺は門が露次の奥に南向に附いていて、道を隔てて寄宿舎と対しているのは墓地の外囲である。この外囲が本は疎な生垣で、大小高低さまざまの墓石が、道行人の目に触れていた。今は西教寺も願行寺も修築せられ、願行寺の生垣は一変して堅固な石塀となった。ただ空に聳えて鬱蒼たる古木の両三株がその上を蔽うているだけが、昔の姿を存しているのである。』

「十三」の冒頭である。本郷通り追分からこの道に入り、角の西教寺の門前を通り過ぎ、願行寺に至るコースを説明している。寺の外囲いは、むかしはまばらな生垣で、道から墓石が見えたが、これが石塀となったと記している。鴎外にとってこのあたりは以前から馴染んでいるところであった。鴎外「青年」の主人公が東京に出てきて訪ねた知り合いの下宿屋があったのは、ここからちょっと北へ進んだT字路のあたりである。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(天保十四年(1843))の部分図を見ると、追分から入ったすぐのところに、西教寺があり、その先に、願行寺が見える。四枚目は御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図であるが、上記二つのお寺が見える。近江屋板も同様である。江戸時代から寺の位置は変わっていないようである。

願行寺 細木香以の墓 細木香以の墓 願行寺に入り、右手に進むと、一枚目の写真のように前方に本堂が見えてくる。この正面を右に入ると、墓が並んでいるが、本堂の東わきに沿ってちょっと進んで右折し東に向くと、二枚目のように、墓の間にできた狭い道の突き当たりに真四角の墓石が見える。これが細木家の墓である。

こう書くと、いかにもすぐ見つかったようであるが、実はそうでなく、なかなか見つからないまま奥の方に行き、うろうろしていたら、掃除をしていたおばさんがいたので、尋ねると、親切にも墓前まで案内をしてくれたのである。三枚目が細木家の墓の全体写真である。

鴎外「細木香以」にもどると、次のように続いている。

『わたくしはある日香以が一家の墓を訪おうと思って、願行寺の門を入った。門内の杉の木立の中に、紺飛白(こんがすり)の浴衣を著た壮漢が鉄唖鈴を振っていて、人の来たのを顧みだにしない。本堂の東側から北裏へ掛けて並び立っている墓石を一つづつ見て歩いた。日はもう傾きかゝって来るに、尋ぬる墓表は見附からなかった。
 忽ち穉子(おさなご)の笑う声がしたので、わたくしは振り向いて見た。顔容の美くしい女が子を抱いてたゝずんで、わたくしの墓表の文字を読んで歩くのを見ていた。
 わたくしは捜索を中止して、「あなたはお寺の方ですか」と問うた。 「はい。どなたのお墓をお尋なさいますのです。」女の声音は顔色と共にはればれとしていて、陰鬱なる周囲の光景には調和していなかった。
 「摂津国屋と云うものです。苗字はさいきでしょうか。」魯文の記事には「さいき」とも「ほそき」とも傍訓がしてあるが、わたくしは「さいき」が正しい訓であるのを、たまたま植字者が「ほそき」と誤ったものかと思っていたのである。
 「では細いと云う字を書くのでしょう。」この女は文字を識っていた。
 
「そうです。御存じでせうか。」 「ええ、存じています。あの衝当(つきあたり)にあるのが摂津国屋の墓でございます。」抱かれている穉子はわたくしを見て、頻に笑って跳り上がった。
 わたくしは女に謝して墓に詣った。わたくしはなんだか新教の牧師の妻とでも語ったような感じがした。
 本堂の東側の中程に、真直に石塀に向って通じている小径があって、その衝当に塀を背にし西に面して立っているのが、香以が一家の墓である。
 向って左側には石燈籠が立てゝあって、それに「津国屋」と刻してある。
 墓は正方形に近く、稍(やゝ)横の広い面の石に、上下二段に許多(あまた)の戒名が彫り附けてあって、下には各(おのおの)命日が註してある。

 十四
 摂津国屋の墓石には、遠く祖先に溯(さかのぼ)って戒名が列記してあるので、香以の祖父から香以自身までの法諡(ほうし)は下列の左の隅に並んでいる。
 詣で畢って帰る時、わたくしはまた子を抱いた女の側そばを通らなくてはならなかった。わたくしは女に問うた。
 「親類の人が参詣しますか。」
 「ええ。余所(よそ)へおよめに往った方が一人残っていなすって、忌日には来られます。芝の炭屋さんだそうで、たしか新原元三郎と云う人のお上さんだと存じます。住職は好く存じていますが、只今留守でございます。なんなら西教寺とこちらとの間に花屋が住っていますから、聞いて御覧なさいまし。」
 わたくしは再び女に謝して寺を出た。そして往来に立ち止って花屋を物色した。』

鴎外がこの寺を訪ねて、細木香以一家の墓を探し当てるまでの顛末が記してある。墓の位置は、たぶん、いまと同じと思われるが、左側にあったという「津国屋」と刻した石燈籠はなかった。このあたりも戦時中は空襲にあって焼かれたと云うから、そのときなどに損傷したのかもしれない。

鴎外が墓参りに来る人を尋ねたときの「新原元三郎と云う人のお上さん」が香以の孫のえいで、芥川龍之介の実父新原敏三の弟元三郎の妻である(前回の記事)。

細木香以の墓 願行寺石塀 一枚目の写真のように、墓石の広い正面にたくさんの戒名が刻されているが、上記の鴎外の記述によれば、香以の祖父から香以の戒名は下列の左隅にあるとのことだが、なかなか読むことができない。おまけに、左端部分は風化したのか、焼けたためか、欠けている。

ところで、お墓の場所を教えてくれた掃除のおばさんと話していたら、この寺の縁者に当たるおばあさんが九十七、八で長寿を保っていると云うことであった。鴎外が上記のように願行寺を訪れたのは、香以伝の執筆中と考えると、大正六年(1917)であるが、鴎外に細木家の墓を指し示した顔容の美くしい女がこの寺の人で、幼子を抱いていたと云うから、その子がその長寿のおばあさんかもしれないと想像してしまった。そのとき一、二歳程度と考えると、年齢的にもちょうどあうからである。「抱かれている穉子(おさなご)はわたくしを見て、頻に笑って跳り上がった」と書いているように、鴎外の印象に残ったようである。

願行寺を出て左折し、門前の道を北に向かったが、二枚目の写真は、北側を撮ったもので、左側に願行寺の石塀が写っている。
(続く)

参考文献
「鷗外選集 第六巻」(岩波書店)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)

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森鴎外と芥川龍之介

2012年09月10日 | 読書

森鷗外(鴎外)は、史伝『細木香以』を次のように書きはじめている。

「細木香以(ほそきこうい)は津藤である。摂津国屋(つのくにや)藤次郎である。わたくしが始めて津藤の名を聞いたのは、香以の事には関していなかった。香以の父竜池(りゅうち)の事に関していた。摂津国屋藤次郎の称(となえ)は二代続いているのである。」

鴎外は、少年の時に読んだ為永春水の人情本に出てくる、情け知りで金持ちで、相愛する二人を困難から救い出す津藤さんと云う人物を憶えていた。仲間から実在の人物と教えられたことも。

京橋南築地鉄炮洲絵図(文久元年(1861)) もともと新橋山城町の酒屋で、竜池の父伊兵衛が山城河岸を代表する富家としたが、竜池の代で酒店を閉じ、二三の諸侯の用達を専業とした。香以は文政五年(1822)生まれの摂津国屋の嗣子で、小字を子之助(ねのすけ)と云った。二代目津藤である。

鴎外が住んだ団子坂の家は、香以に縁故のある家であった。これを見いだしたのは家を捜して歩いていた鷗外の父であったが、これがこの史伝を書くきっかけになっている。

『わたくしが香以の名を聞いたのは、彼の人情本によって津藤の名を聞いたのと、余り遅速は無かったらしい。否あるいは同時であったかも知れない。その後にはこの名のわたくしの耳目に触れたことが幾度であったか知れぬが、わたくしは始終深く心に留めずに、忽ち聞き忽ち忘れていた。そしてその間竜池香以の父子を混同していた。
 それからある時香以と云う名が、わたくしの記憶に常住することになった。それは今住んでいる団子坂の家に入った時からの事である。
 この家は香以に縁故のある家で、それを見出したのは当時存命していたわたくしの父である。父は千住で医業をしていたが、それを廃めてわたくしと同居しようとおもった。そして日々家を捜して歩いた。その時この家は眺望の好い家として父の目に止まった。
 団子坂上から南して根津権現の裏門に出る岨道(そばみち)に似た小径(こみち)がある。これを藪下の道と云う。そして所謂藪下の人家は、当時根津の社に近く、この道の東側のみを占めていた。これに反して団子坂に近い処には、道の東側に人家が無く、道は崖の上を横切っていた。この家の前身は小径を隔ててその崖に臨んだ板葺(いたぶき)の小家であった。
 崖の上は向岡から王子に連る丘陵である。そして崖の下の畠や水田を隔てて、上野の山と相対している。彼小家の前に立って望めば、右手に上野の山の端(はな)が見え、この端と向岡との間が豁然(かつぜん)として開けて、そこは遠く地平線に接する人家の海である。今のわたくしの家の楼上から、浜離宮の木立の上を走る品川沖の白帆の見えるのは、この方角である。
 父はこの小家に目を著けて、度々崖の上へ見に往った。小家には崖に面する窓があって、窓の裡(うち)にはいつも円頂の媼(おうな)がいた。「綺麗な比丘尼」と父は云った。

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 父は切絵図を調べて、綺麗な比丘尼の家が、本(もと)世尊院の境内であったことを知った。世尊院は今旧境内の過半を失って、西の隅に片寄っている。
 父はわたくしを誘(いざな)って崖の上へ見せに往った。わたくしはこの崖をもこの小家をも兼て知っていたが、まだ父程に心を留めては見なかったのである。眺望は好い。家は市隠の居処とも謂うべき家である。そして窓の竹格子の裡には綺麗な比丘尼がいた。比丘尼はもう五十を越していたであろう。もし媼をも美人と称することが出来るなら、この比丘尼は美人であったと云いたい。
 父はわたくしの同意を得てから、この家を買おうとして、家の持主の誰なるかを問うことにした。団子坂の下に当時千樹園と云う植木屋があった。父は千樹園の主人を識っていたので、比丘尼の家の事を問うた。
 千樹園はこう云った。崖の上の小家は今住んでいる媼の所有である。媼は高木ぎんと云って、小倉と云うものの身寄である。小倉は本(もと)質屋で、隠居してから香以散人の取巻をしていたが、あの家で世を去った。媼は多分あの家を売ることを惜まぬであろうと云った。』

『千樹園が世話をして、崖の上の小家を買う相談は、意外に容易く纏まった。高木ぎんの地所は本やや広い角地面であったのを、角だけ先ず売ったので、跡は崖に面した小家のある方から、団子坂上の街に面した方へ鉤形に残っている。その街に面した処に小さい町家が二軒ある。一つは地所も家も高木のもので、貸店になって居り、一つは高木の地所に鳶頭の石田が家を建てて住んでいる。ぎんは取引が済んでこの貸店に移った。』

鴎外一家が団子坂の崖の上の家(後の観潮楼)に住むことになるまでの顛末がよくわかる。観潮楼跡が後に、いまの鴎外記念図書館となったが、その土地の角が民家となっていることの理由もわかる。あまり関係ないことだが、鴎外も、その父も、その円頂の比丘尼にかなり強い印象が残ったようである。鷗外の美人好みは父親譲りか、などと思ってしまう。

『香以は明治三年九月十日に歿した。翌四年の一周忌を九月十日に親戚がした。後に取巻の人々は十月十日を期して、小倉是阿弥の家に集まって仏事を営み、それから駒込願行寺(がんぎょうじ)の香以が墓に詣でた。この法要の場所は即崖の上の小家であったのである。』

小倉(是阿弥)は香以の取り巻きの一人で、香以は明治三年(1870)9月10日に亡くなっているが、その一周忌の法要を他の取り巻きの人たちと行ったのがこの家であった。是阿弥は高木氏で団子坂上の質商で、小倉は屋号であるという。その妻がぎん、すなわち、きれいな比丘尼である。

 『この話を自分は母から聞いた。母はそれを自分の大叔父から聞いたと云つている。話の真偽は知らない。唯大叔父自身の性行から推して、かう云ふ事も随分ありさうだと思ふだけである。
 大叔父は所謂大通(だいつう)の一人で、幕末の芸人や文人の間に知己の数が多かつた。河竹黙阿弥、柳下亭種員、善哉庵永機、同冬映、九代目団十郎、宇治紫文、都千中、乾坤坊良斎などの人々である。中でも黙阿弥は、「江戸桜清水清玄」で紀国屋文左衛門を書くのに、この大叔父を粉本にした。物故してから、もう彼是五十年になるが、生前一時は今紀文と綽号された事があるから、今でも名だけは聞いている人があるかも知れない。――姓は細木、名は藤次郎、俳名は香以、俗称は山城河岸の津藤と云つた男である。』 (大通とは、遊芸に通じた大趣味人。)

芥川龍之介「孤独地獄」(大正五年二月)の冒頭である。これから龍之介の母は細木香以の姪であったことがわかるが、その「母」は正確には「養母」である。

龍之介は、明治二十五年(1892)3月1日生まれで、その10月末生母ふくが突然発狂したため、ふくの兄である伯父芥川道章の家(本所小泉町)に預けられた。その後、明治三十七年(1904)12歳のとき芥川家と養子縁組がなったので、道章が養父、その妻儔(とも)が養母である。

鴎外は、「細木香以 十四」の最後に芥川龍之介のことを次のように書いている。

『わたくしはその後願行寺の住職を訪はうともせずにいて、遂に香以の裔の事を詳にせぬままに、この稿を終ってしまった。頃日高橋邦太郎さんに聞けば、文士芥川龍之介さんは香以の親戚だそうである。もし芥川氏の手に藉(よ)ってこの稿の謬(あやまり)を匡(ただ)すことを得ば幸であろう。』

そして、鴎外は龍之介から手紙をもらい、また来訪を受けた。香以伝には補記があるが、そこに龍之介について次の記述がある。

『香以伝の末にわたくしは芥川龍之介さんが、香以の族人だと云うことを附記した。幸に芥川氏はわたくしに書を寄せ、またわたくしを来訪してくれた。これは本初対面の客ではない。打絶えていただけの事である。
 芥川氏のいわく。香以には姉があった。その婿が山王町の書肆伊三郎である。そして香以は晩年をこの夫婦の家に送った。
 伊三郎の女を儔(とも)と云った。儔は芥川氏に適いた。龍之介さんは儔の生んだ子である。龍之介さんの著した小説集「羅生門」中に「孤独地獄」の一篇がある。その材料は龍之介さんが母に聞いたものだそうである。この事は龍之介さんがわたくしを訪ふに先だって小島政二郎さんがわたくしに報じてくれた。
 わたくしはまた香以伝に願行寺の香以の墓に詣もうでる老女のあることを書いた。そしてその老女が新原元三郎という人の妻だと云った。芥川氏に聞けば、老女は名をえいと云う。香以の嫡子が慶三郎で、慶三郎の女がこのえいである。えいの夫の名は誤っていなかった。』

香以には姉がいて、その婿伊三郎の娘が儔(とも)で、龍之介の養母である。ところが、上記のように鷗外は香以伝の補記で「龍之介さんは儔の生んだ子である。」と書いていることにちょっと驚いてしまう。これは、龍之介が鴎外に語ったことなのか、小島政二郎が鴎外に報じたことなのか、あるいは鴎外の誤解によることなのか、色々と疑問が出てくるが、どうしてそうなったのかわからない。龍之介自身は、自分を生んだのは儔(とも)でなかったことは、当然に知っていたと思われるので、龍之介が語ったことではないような気がする。ただ、儔(とも)が養母であることは云わなかった(それを語っていれば、鴎外も上記一文は書かなかったはずである)。

龍之介の短篇小説集「羅生門」が出版されたのが、大正六年(1917)5月で、鷗外の香以伝は同年9月19日から10月13日まで「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」に掲載され、その補記は大正七年1月1日「帝国文学」二十四ノ一に載った。これらから推定すると、龍之介が鴎外に手紙を出し、訪れたのは、大正六年の秋であろう。

龍之介によれば、細木は、正しくは「さいき」と訓むが、「ほそき」とよぶ人も多いので、細木氏自身も「ほそき」と称したこともあったという。 

ところで、鷗外の香以伝の補記から、もう一つわかったことがある。香以の嫡子(跡つぎ)が慶三郎で、その娘がえいで、そのえいは新原元三郎の妻となった。「新原」は龍之介の実家の姓であるので、ちょっと調べたらすぐに判明したが、元三郎は龍之介の叔父であった。すなわち、実父敏三の弟である。二人の結び付きは、儔(とも)の仲介によるという。「新潮日本文学アルバム」に、幼いころの龍之介が実父敏三、叔父元三郎と一緒に写った写真が載っている。別の写真にはえいが小学生くらいの龍之介などと写っている。

龍之介と香以との間には、香以が養母の叔父というだけでなく、実父方の叔父の妻が香以の孫であったという関係もあった。

以上、たまたま読んだ鴎外の「細木香以」から龍之介の母や龍之介と香以との関係に至った。ちょっと重箱の隅的なことで、すでに常識化したことかもしれず、また、このような親族関係は、別に取り立てて珍しいことではなく、世間にはよくあることかもしれないが、気に留まったのであえてブログの記事にした。

参考文献
「鷗外選集 第六巻」(岩波書店)
「芥川龍之介全集 1」(ちくま文庫)
「新潮日本文学アルバム 芥川龍之介」(新潮社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
森啓祐「芥川龍之介の父」(桜楓社)

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芥川龍之介旧宅跡(田端)

2012年09月03日 | 文学散歩

与楽寺坂上側・上の坂手前 芥川龍之介旧宅跡の手前 芥川龍之介旧宅跡 与楽寺坂の坂上側の四差路を坂上から来て右折すると、前回の上の坂の記事のように、ちょっとした上り坂となる。ここを坂下側から撮ったのが一枚目の写真である。ここを直進すると、上の坂の坂上が左に見えてくるが、そのあたりから進行方向(北西)を撮ったのが二枚目で、ここを進んで突き当たり付近が芥川龍之介旧宅跡である。さらに進むと、三枚目のように、左手に芥川龍之介旧宅跡の説明板が見えてくる。

道順は、散策マップを見るとよくわかる(これは田端文士村記念館でもらったパンフレットにあるマップと同じものである)。

芥川家は、大正三年(1914)10月末、北豊島郡滝野川町字田端435番地に新築した家へ移転した。前年九月、龍之介は、東京帝国大学英文科に入学し、ここに養父母などと住んだ。芥川家は、もともと本所小泉町にあったが、明治四十三年秋、内藤新宿二丁目71番地に引っ越ししていた。養父の道章は新宿に住みながら土地探しをし、「田端にきめたのは、当時、田端三四三番地に道章と一中節の相弟子であった宮崎直次郎がいて、天然自笑軒という会席料理の店を出していたからであった。」(近藤富枝「田端文士村」)

芥川家の田端の家への坂道という写真が「新潮日本文学アルバム」にのっている。これが一枚目の与楽寺坂の四差路から北西へ上る坂と思われる(確証はないが)。この写真の坂道は、かなり荒れているが、当時の郊外の閑静な住宅地にできた坂道はこんな状態であったのであろうか。

芥川龍之介旧宅跡の説明板 芥川龍之介旧宅跡 芥川龍之介旧宅跡・与楽寺坂方面 一枚目の写真は、芥川龍之介旧宅跡の説明板で、ここには、大正三年から亡くなる昭和二年まで住んだととあるが、大学卒業後の大正五年(1916)12月横須賀の海軍機関学校の英語教師となったため、この間、鎌倉、横須賀に住んだ。教師と作家の二重生活であったが、大正八年3月辞職して、この田端の家に帰り、以降、作家専業となった。

二枚目は芥川龍之介旧宅跡の説明板を別の角度から撮ったもので、この左側の道を進むと、やがて、切り通しの道路を見渡すことのできるところに出るが、その向かい側が東覚寺坂である。三枚目は、芥川龍之介旧宅跡を背にして東南方向を撮ったもので、直進すると下り坂の先が与楽寺坂の四差路である。

田端駅前の田端文士村記念館に行って見たビデオにこの芥川の家も出てきたが、おかしかったのは、龍之介が庭の木に登ってそこから屋根へと移って、得意そうな表情になっているシーンがあったことである。素早い動作ではないが、確実に木へ屋根へと登っている。

龍之介が田端に住みはじめた大正三年当時、田端には画家、陶芸、彫刻などの美術家は多数住んでいたが、文学者はほとんどいなかった。しかし、龍之介がやがて文壇の寵児となったために文学者も多く住むようになり、田端文士村とよばれるようになったという。上記の散策マップにあるように、室生犀星、萩原朔太郎、堀辰雄、平塚らいてう、菊池寛などが住んだ。

参考文献
「新潮日本文学アルバム 芥川龍之介」(新潮社)
近藤富枝「田端文士村」(中公文庫)

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上の坂(田端)

2012年09月02日 | 坂道

与楽寺坂上側・上の坂手前 上の坂上 上の坂上 前回の与楽寺坂の上側の四差路を左折すると、一枚目の写真のようにちょっとした上り坂となる。 ここを上りちょっと進むと(北西へ)、周囲はすっかり住宅街である。一本目を左折すると、上の坂の坂上である。二枚目はそのあたりから撮ったもので、ちょっと南西方向の見晴らしがよい。ここを進むと、三枚目のように下りとなる。

このあたりも上野台地で、田端台ともよばれたところである。この坂は台地から西へ、南へと低地に下り、かつては崖であったのであろうか、かなり急なため、途中から下は階段となっている。

上の坂中腹 上の坂中腹 上の坂中腹 上の坂中腹 一枚目の写真は、階段の上あたりから坂上を撮ったもので、左端に坂の標識が見える。二枚目は階段をちょっと下ってから坂上側を撮ったもので、三枚目はそのあたりから坂下側を撮ったものである。四枚目はさらに下ってから坂上側を撮ったものである。住宅街の中の坂で、かなり急に下っている。

上記の標識には次の説明がある。

『上の坂
 坂名の由来は不詳です。この坂上の西側に、芥川龍之介邸がありました。芥川龍之介は大正3年からこの地に住み、数々の作品を残しました。また、この坂の近くに、鋳金家の香取秀真、漆芸家の堆朱楊成、画家の岩田専太郎などが住んでいました。
 芥川龍之介は、その住居を和歌に詠んでいます。
  わが庭は 枯山吹きの 青枝の
     むら立つなべに 時雨ふるなり
  平成9年3月                       東京都北区教育委員会』

上の坂下 上の坂下 上の坂下 一枚目の写真は坂下から階段坂を撮ったもので、二枚目は階段下のあたりから坂下側を撮ったものである。三枚目はちょっと歩いてから振り返って階段下を撮ったものである。坂下の道はかなり狭くなっている。二枚目の道を進み、突き当たりを左折すると、与楽寺坂の下側に出る(散策マップ参照)。

『東京府村誌』に「上之坂 東覚寺坂の東にあり南に下る。長さ二十間、広さ一間三尺」とあるという(石川)。東覚寺坂とは、ここから西側にある東覚寺の東側を北上する坂で、ここに切通しの大きな道路ができたため、切通しの西わきを上る坂道になっている。上記の標識の説明にあるように、坂名の由来は不明である。

明治実測地図(明治十一年)を見ると、東覚寺の東わきに東覚寺坂と思われる北上する道があり、そのちょっと東に平行な道筋があるが、これがこの坂であろう。

岡崎は、上の坂を田端一、六の境とし、別の場所(切通しの側)の石段坂としている。しかし、『東京府村誌』の記述と明治実測地図から判断すると、東覚寺坂から東にちょっと離れた上記の標柱の立っている階段坂が上の坂と思われる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)

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