東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

レンガ坂(中野)

2016年09月30日 | 坂道

レンガ坂 レンガ坂 レンガ坂 レンガ坂




JR中野駅近くのカメラ店に行った帰り、南口付近に新しそうな感じの坂を見つけた。ちょうど1年ほど前のことである。

中野通りを北口側から南へ向かい中央線のガード下をすぎてすぐの所を右折すると、この坂で、歩行者専用。

坂下の出入口にアーチ型門のようなものが立っているが、その上、横方向に「RENGA ZAKA」と表示されている。同じものが坂上の出入口にも立っている。

レンガ敷きの通りとなっていて、このため、レンガ坂となっているようである。中野区中野三丁目35番と36番のビルとビルの間の小路を中野通りの歩道わきから西へ上る(現代地図)。

レンガ坂 レンガ坂 レンガ坂 レンガ坂




坂下側でちょっと勾配があるが中程度よりも緩やかで、勾配のあるところもそんなに長くはなく、ここを上ると、かなり緩やかになるまっすぐな小坂である。坂下から坂上の出入口までそんなに距離はない(90m程度)。

坂下から上るとすぐに飲食店街となっていて、夕方近くであったためか、人通りが多かった。

この坂がいつできたのかちょっと調べたがわからなかった。上記の「RENGA ZAKA」の下に「EST.2002 NAKANO RENGAZAKA STREET」とあることから、2002年にできたのであろうか。(その年にこの門ができてそう命名された?)

インターネット検索をすると、中野レンガ坂の○○、と宣伝する飲食店が多くヒットした。坂名というのは有名になると一目(一声)で場所がわかるが、そういった坂名の持つ効果を上手く利用している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善福寺川9月(2016)

2016年09月25日 | 写真

善福寺川9月(2016) 善福寺川9月(2016) 善福寺川9月(2016) 善福寺川9月(2016) 善福寺川9月(2016) 善福寺川9月(2016)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南郭坂

2016年09月24日 | 坂道

南郭坂下 南郭坂下 南郭坂下 南郭坂下 南郭坂下




八幡坂下で左折し、明治通りの歩道を南へ進む。このあたりの明治通りは渋谷川に沿ってできている。しばらく歩き、東三丁目の信号のある交差点を左折する(現代地図)。ここが南郭坂の坂下であるが、しばらくほとんど勾配がない道が続く。渋谷川の谷から赤坂・麻布台地に東へ上る坂。

先ほどまでの明治通りとは違って、交通量が少なくかなり静かである。 

南郭坂下 南郭坂中腹 南郭坂中腹 南郭坂中腹 南郭坂中腹




しばらく歩くと、道が膨らんだ所でちょっと右に曲がっているが、このあたりからしだいに上りとなる。中程度よりも緩やかな勾配である。渋谷区東二丁目10番と東三丁目6番の間を東へ上る。

まっすぐに上ると、広尾高等学校前の交差点の北西角に(現代地図)、渋谷区教育委員会による「服部南郭別邸跡」の標識(下一枚目の写真)が立っている。

この標識にこの坂について次の記述がある。

『この場所は、南郭の別邸があったところで邸前にある坂道は、昔から南郭坂あるいは富士見坂と呼ばれてきました。』

このあたりから西の方角に富士山が見えたらしく、別名が富士見坂。

服部南郭別邸跡標識 南郭坂中腹 南郭坂中腹 南郭坂上 南郭坂上




標識の立っているあたりは坂の中腹である。ここに江戸中期の儒学者・漢詩人の服部南郭(1683~1759)の別邸(「白賁塾」)があったとのことであるが、本邸は芝赤羽橋の付近にあったと思われる。

永井荷風は、大正十二年(1923)12月30日の「断腸亭日乗」に『十二月三十日。晴天旬に及ぶ。午後赤羽橋に服部南郭が旧居の跡を尋ねしが得ず。・・・』と記している(全文→この記事)が、このあたりには来ていないようである。

下二枚目の尾張屋清七板の東都青山絵図(安政四年(1857))を見ると、宝泉寺の上(北)に渋谷川から右(東)へ延びる道がある。ここがこの坂の道筋と思われる。途中、左折し北へ向かうと氷川神社があるが、現在とほぼ同じである。この左折する所から東側へちょっと進んだあたりに渡辺備中守の屋敷があるが、この付近に南郭の別邸があったのであろうか。下三枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))もほぼ同じ。

南郭坂上 東都青山絵図(安政四年(1857)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843))




広尾高等学校前の交差点を東へ渡ってもちょっと上りが続くが、しだいに緩やかになって平坦になり、山種美術館前の交差点に至る。

石川は大正3年(1914)刊の『渋谷町誌』を引用し、これに、下渋谷二百七十七番地貴族院議員杉田定一氏の別宅の辺を南郭屋敷といい、南郭の別荘は現に存在し、その末裔の服部元吉氏が居住し、そこは杉田氏の背後の草葺屋根の家屋・土蔵である旨の記述があった。その番地を手持ちの資料では確認できなかったが、南郭の別邸の存在は、この文献あたりをもとにしているようである。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八幡坂(渋谷)

2016年09月22日 | 坂道

八幡坂(渋谷)上 八幡坂(渋谷)上 八幡坂(渋谷)中腹 金王八幡神社 八幡坂(渋谷)中腹




金王坂下(東側)で六本木通りを横断し、左折し、緩やかな上りの歩道をしばらく歩くと、信号のある渋谷二丁目の交差点に至るが、ここを右折すると、八幡坂の坂上である(現代地図)。

坂上からしばらくかなり緩やかに下り、金王神社前の信号のところから本格的な下りになって、ほぼまっすぐ南へ明治通りの並木橋の交差点へと下っている(現代地図)。坂下は渋谷区渋谷三丁目14番と東一丁目26番の間。

宮益坂金王坂と同じく、赤坂・麻布台地から渋谷川の谷へと下る。

八幡坂(渋谷)中腹 八幡坂(渋谷)中腹 八幡坂(渋谷)中腹 八幡坂(渋谷)下 八幡坂(渋谷)下




坂中腹の西側に金王八幡神社があるが、坂名はこれにちなむのであろう。都内には、同名の坂(千駄ヶ谷西小山早稲田戸越銀座小日向)が何箇所かにあるが、坂名のいわれはどこも同じである。

昭和地図(昭和16年、昭和34年)を見ると、この坂のある通りは、北側が青山学院の西で宮益坂上の先の青山通りに接続し、南側が代官山駅まで延びていて、この通りに沿って、北から南へ八幡通一丁目~三丁目(旧町名)と細長く区割りされていた。これから、この坂を含む道は八幡通りとよばれていたと思われる。

下二枚目の尾張屋清七板の東都青山絵図(安政四年(1857))を見ると、金王八幡宮前(東南)の道が渋谷川の谷から上り、坂上で北西へとカーブしながら方向を変え、仙石屋敷と松平屋敷の間を延びて、宮益坂(富士見坂)上から延びる道につながっている。この渋谷川の谷から北へ上る道筋は、現在の道とまったく同じであることから(現代地図)、この坂が遅くとも江戸時代から続くことがわかる。下三枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))でもまったく同じである。近江屋板も同じ。

八幡坂付近街角案内地図 東都青山絵図(安政四年(1857)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 江戸名所図会 金王八幡社 江戸名所図会 金王八幡社




一枚目の写真は、坂下付近に立っている街角案内地図の拡大である。ここに八幡坂と記されているが、坂の標識は立っていない。

この坂は、山野、「東京23区の坂」に紹介されているが、不思議なことに、横関、石川、岡崎にはない。江戸切絵図にもその道筋がはっきりと示されているにもかかわらず、どうしてないのか疑問であるが、要するに、坂名が記された文献がなかったのであろう。たとえば、「御府内備考」の東福寺門前(金王門前)の書上には坂の文字さえもない。

金王八幡神社について江戸名所図会の本文に『渋谷八幡宮 中渋谷にあり。この所の産土神とす。祭礼は八月十五日なり。・・・』と説明がある。四、五枚目は、その挿絵であるが、参道につながる道が横方向に描かれている。これがこの坂であろう。

金王八幡宮のHPには『当八幡宮は、第73代堀河天皇の御代、寛治6年正月15日(1092)鎮座いたしました。・・・』と説明がある。これからすると、この坂は江戸期よりも古くから存在していた可能性がある。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
「大日本地誌大系 御府内備考 第三巻」(雄山閣)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金王坂

2016年09月19日 | 坂道

金王坂上 金王坂中腹 金王坂中腹 金王坂下 金王坂下




宮益坂の坂上を右に進むと、そこからまっすぐに下る中央分離帯のある広い通りがあるが、ここが金王坂で、青山通り(国道246号線)である。

坂上が宮益坂上と共通で、渋谷川の谷へと中程度の勾配で下っている。渋谷区渋谷二丁目14番と16番の間を南へ下る(現代地図)。

赤坂・麻布台地を東から西へと延びてきた青山通りがこの坂を下り、坂下で六本木通りと合流し、その先(西側)から玉川通り(国道246号線)となる。

かつての本道は、宮益坂を下り、渋谷川を横断し、道玄坂を上っていたが、現在、宮益坂上で別れ金王坂を下る別ルートとなって、道玄坂上で合流している。

金王坂下 金王坂中腹 金王坂中腹 金王坂上 金王坂上




昭和地図(昭和16年)を見ると、この坂とほぼ同じ位置に道があり、昭和34年版にも同じようにあるので、その後、改修されて、青山通りが宮益坂からこの坂に移されたのであろう。

坂上東側に、渋谷駅東口町会・渋谷二丁目町会・渋谷第一町会・渋谷宮益町会による標柱(昭和54年5月建立)が立っている。それに次の説明がある。

『明治、大正、昭和と波乱万丈の過程を経て市区改正、町名変更に伴ない先輩諸氏の築かれた幾多の功績をたたえ、由緒ある金王の地名を保存し、ここに金王坂と命名する。』

坂名は、坂下の東にある金王八幡神社にちなむ(岡崎)。いかにも、むかしからの坂名に感じられるが、上記の説明には昭和54年(1979)に金王坂と命名したとあるので、これ以降、この坂名となったようである。新しい坂名のせいか、横関、石川には紹介されていない。

東都青山絵図(安政四年(1857)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 尾崎豊モニュメント 尾崎豊モニュメント




一枚目の尾張屋清七板の東都青山絵図(安政四年(1857))には、宮益丁の中の道(富士見坂)の下(南)に、渋谷川方面に下る道があるが、この道が現在の坂とどう関係するのかわからない。二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))もほぼ同じ。

坂下の歩道橋東側の上から続く一角に、尾崎豊(1965~1992)のレリーフ像からなるモニュメントがあるのに気がついた(三、四枚目の写真)。別にファンではないが、その落書きの様子からファンにとっては大切な聖地のように感じられた。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「東京の道事典」(東京堂出版) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井の頭公園9月(2016)

2016年09月19日 | 写真

井の頭公園9月 井の頭公園9月 井の頭公園9月 井の頭公園9月 井の頭公園9月 井の頭公園9月

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮益坂(富士見坂)

2016年09月14日 | 坂道

今回は、渋谷駅近くの二三の坂を巡った。

宮益坂下 JRガード下 宮益坂下 宮益坂下 宮益坂中腹




午後渋谷駅下車。

北口から出て左手に道玄坂下方面を見て右折し、JR山手線のガード下の歩道に向かう。ここを通り抜けると、前方(東)に坂下が見えてくる。ここが宮益坂である。

明治通りとの交差点が宮益坂下になっているが、よく見ると、その手前から緩やかだが上り坂になっている。ふり返ると、JR山手線のガード下あたりがもっとも低地となっていることがわかる(二枚目の写真)。ここから東へまっすぐに上っているが、交差点を越えてから勾配がついてくる。渋谷区渋谷一丁目14番と渋谷二丁目20番の間を上る(現代地図)。

この坂は、坂下で道玄坂とつながっているが、同じように商業施設が坂の両側に並んでいるので、人通りが多く、にぎやかである。 

宮益坂中腹 宮益坂中腹 宮益坂上 宮益坂上 宮益坂上




中程度の勾配であるが、道玄坂よりも急であるような気がする。まっすぐに上下し単調なので、曲がりのある道玄坂とはちょっと違った雰囲気がある。

坂上は、青山通りと接続し、その交差点が宮益坂上となっている。赤坂・麻布台地の西端である。

坂上側に渋谷区教育委員会(平成20年)による標柱が立っている。それに次の説明がある。

『ふじみ坂、または渋谷新町とも呼ばれていました。この坂に沿う家並を、途中の御岳権現にあやかって正徳三年(一七一三)から渋谷宮益町と称し町奉行管下になりました。』

『御府内備考』の渋谷之一の総説に「富士見坂 富士見坂は、宮益町の中ほどにあり。」と簡単な説明がある。その宮益町の書上には次のようにある。

「一坂 巾三間五尺五寸登り四十間程
 右者町内中程ニ而富士見坂と相唱候右者富士峰相見へ候ニ付里俗ニ申伝候
 但他所に而者道玄坂と茂相唱候者有之候由ニ御座候
 得共町内ニ而者本文之外相唱不申候」

富士山が見えたので、富士見坂といったが、これは都内に多数ある同名の坂と同じで、富士山がもう見えないのも同じ。坂の幅約7m、登り約73m。

『江戸名所図会』の本文には次の説明がある。

「富士見坂 渋谷宮益町より西へ向ひて下る坂を云ふ。斜めに芙蓉の峰に対ふ故に名とす。相模街道の立場にして、茶店酒亭あり。麓の小川に架せる橋をも富士見橋と名づけたり。(相州街道の中、坂の数四十八ありとなり。この富士見坂はその首[はじめ]なりといへり。)」

東都青山絵図(安政四年(1857)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 江戸名所図会




一枚目の尾張屋清七板の東都青山絵図(安政四年(1857))に宮益丁の町屋が見え、その中をまっすぐに延びている道がこの坂で、坂下の谷に流れている小川が渋谷川、そこにかかっている橋が富士見橋、そこから西へ続いているのが道玄坂である。二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))もほぼ同じ。

三枚目は、『江戸名所図会』の富士見坂一本松の挿絵で、その左半分。左側にふし三坂(ふじみ坂)と記され、坂の両側に家々が連なっている。街道をたくさんの人が行き来しているが、現在と比べれば、はるかにのんびりとした田園風景が広がっている。坂下に小川(渋谷川)が流れ、ふじみ(富士見)橋がある。この橋のあたりが現在のJR山手線のガード下の付近であろう。右側が道玄坂方面。このガード下のあたりがいまも谷底になっている(上の二枚目の写真)

かなり以前のことだが、表参道に夕方頃来たことがあって、その帰り、渋谷駅に向かう途中、街灯がうす明るくずいぶんと急な坂道を下ったような記憶がある。この坂が宮益坂であったわけであるが、そのころは坂などにまったく興味がなく、当然ながらそういう坂名であることなど知るよしもなかった。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
「御府内備考 第三巻」(雄山閣)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする