前回(桃園川支流緑道(1))の桃園川支流緑道を出発地点まで戻り、そこから下流側にちょっと歩き、その後、別の水路跡の小路を歩いたが、意外なことに気づいた。
以下の地図は、桃園川の上流域を示し、前回と同じ。
(1)一枚目:昭和12年(1937)の杉並区地図
(2)二枚目:昭和10年(1935)頃の杉並区地図
(3)三枚目:昭和24年(1949)の杉並区地図
(4)四枚目:1962年(昭和37年)の杉並区地図
(5)五枚目:桃園川緑道脇に設置の緑道地図
地図(1)(2)(4)(5)ではいずれも、前回の支流は、松山通り、その東に並行する現在の中杉通りの付近でほぼ東向きに流れている。
地図(3)では松山通りから同じように東に流れているが、ちょっとすると、急に向きを南に変え、本流に接続している。この水路は他の地図(1)(2)(4)(5)には見えない。
前回の桃園川支流緑道の歩き始めの松山通りまで戻り(現代地図)、その出発点を背にして東側を撮ったのが一枚目で、小路がまっすぐに中杉通りに向けて延びているが、車止めはない。
中杉通りの歩道に出ると、道路の向こう側に車止めのある小路が見える(二枚目)。通りを横断し、その小路の入口まで行き、そこからと中程から撮ったのが三、四枚目で、東へとまっすぐに延びている。直進すると、車止めがある(五枚目)。ここまでは、前回の支流と同じ流れであったと推測される。
その向こうにさらに支流跡が続いているように見えたが、今回はここで終わることにした。
小路の車止めから出て右折し、帰りに向かったが、ちょっと歩くと、車止めのある小路が見えた(一枚目)ので、引き込まれるようにしてここに入って歩いた。
すると、小路には幅狭のコンクリート板が隙間なく敷き詰められている。これがこの小路の終点までずっと続いている(二枚目~下五枚目)が、水路を暗渠化するために塞いだのであろう。
小路は、ちょっとうねりながら続き、ときおり、一般道を横切るが、背の低いコンクリート製やピカピカの金属製逆U字形の車止めがあったりして変化があっておもしろい。
小路を歩いているうちに、ちょっと記憶がよみがえり、ここはいつか反対方向に歩いたことがあるような気がしてきた。そうだとすると、あの道に出るはずである。疲れたための既視感ではなく、たしかにそうである。
そう思いながら歩き、やがて小路の終点に近づき、五枚目のように、その先が見えてくると、たしかに前回桃園川緑道源流遡行のとき通った道である。緑道ゲートから出発しケヤキ公園わきからずっと歩いてきて、大きく左に曲がるところである(この写真)。
ふたたび昭和24年(1949)の地図(3)を見ると、松山通り付近から水路が現在の中杉通りを横断してちょっと東に延びたところで急に南下しているが、この南向きの水路がこの小路とちょうど合う。この小路の終点(五枚目)で本流に接続していた。ふと反対側から入り込んだ小路で予期せぬ意外なことに気がついたが、さまよい歩きの醍醐味というべきか。
それでも疑問なのは、他の地図、特に1962年(昭和37年)の地図(4)に、この南向きの水路がないことである。この南向きの水路の他に地図(4)のように、南東へ中央線に向けて流れ地図(1)(2)にもある本来の支流があったと思われる。
ケヤキ公園まで行き、そこから高架下を阿佐谷駅まで。
参考文献
「杉並の川と橋」杉並区立郷土博物館研究紀要別冊 平成21年3月発行
最新杉並区明細地図 昭和12年 東京日日新聞発行
杉並区全図 昭和10年頃 内山模型製図社
改訂版東京都区分図杉並詳細図 昭和24年 日新出版 昭和27年9月発行
杉並区図1962年杉並区役所
本田創 編著「失われた川を歩く 東京「暗渠」散歩」(実業之日本社)
今年に入ってから、かつての桃園川の源流に向けて遡り、次の2つの記事にした。
そのあと、雲一つなく晴れわたっているがかなり寒い日、桃園川支流緑道を歩き、その帰り、水路跡と思われる小路を歩いた。
以下の地図は、天沼弁天池を水源とする桃園川の上流域を示し、出典は前回と同じだが、トリミング範囲が異なる。
(1)一枚目:昭和12年(1937)の杉並区地図
(2)二枚目:昭和10年(1935)頃の杉並区地図
(3)三枚目:昭和24年(1949)の杉並区地図
(4)四枚目:1962年(昭和37年)の杉並区地図
(5)五枚目:桃園川緑道脇に設置の緑道地図
地図(1)の中央左下、地図(2)の左上に日本大学幼稚園があるが、このちょっと右(東)あたりで、左(西)から流れてきた桃園川本流から支流が北へ分流している。桃園川緑道源流遡行(1)で支流1とした水路である。この支流は北東へ東へと流れ、松山通り(現在の中杉通りと西側で並行する)を本流の北側で横断してからも東へ向かっている。
地図(3)には松山通りから西へ延びる水路は示されていない。地図(4)に松山通りの本流の北に西へ延びる水路があるが、途中までで、本流と接続していない。緑道地図(5)には地図(1)(2)と同じく本流と支流があるが、その分岐点が地図(1)(2)よりも西側である。
今回歩いて、現在の支流緑道は地図(4)に示す水路と近いような気がした。
JR阿佐谷駅の北口から出て、中杉通りの歩道を北に向けて歩きはじめる。ちょっと緩やかな上り坂であるが、まもなく下りになる。ちょっと下ると、前回の車止めのある小路が見えてくる。このあたりから振り返ると、南側はちょっとした丘のようになっていることがわかる。
中杉通りの歩道から左折しこの小路に入り、直進すると、松山通りで、そこから前回の桃園川緑道が本格的にはじまるが、ここを右折し、松山通りを北へ向かう。ほんのちょっと歩き、煎餅屋の北側脇を左折すると、車止めがあり、緑道がはじまる。その西の上流側に延びる緑道を撮ったのが一枚目である。
この緑道は、地図(4)に示されている支流跡と思われ、地図(1)(2)の支流跡と途中から同じ流れと推測される。
上流側の西に向けて歩くが、大きな曲がりはなく、ほぼまっすぐな緑道になっている。二~五枚目、下の一~五枚目は順に撮ったものである。
歩いてすぐにわかるが、この緑道には道の中ほどに常緑樹がほぼ一定間隔で植えられている。これがずっと続き、この緑道の特徴になって、緑道らしさをかもし出している。下五枚目のように、ブナ科のマテバシイで、公園などでもよく見る高木の樹木である。
やがて、突き当たりに至り、ここでこの支流緑道は終わる(五枚目)。松山通りの緑道入口から5~6分程度であった。
この支流と思われる地図(4)の水路は、途中で急に曲がり北上し、その先で途切れている。現在の支流緑道の終点は、地図(4)と比べると、その北上する地点と一致せず、そのちょっと東側のようである。
緑道の突き当たり手前に小路があったので(一枚目)、ここを通り抜けて北側に出て、左折し、次を左折し、慈恩寺の前をちょっと歩くと、前回の本流緑道に出た。この緑道を上流側に歩き、次の車止めで右折すると広い通りに出る。ちょっと北に歩くと、小さな公園風の一角があり(現代地図)、区画整理記念碑や石塔が並んでいる(二、三枚目)。
四枚目の説明板によると、これらの石塔は、江戸時代の民間信仰による庚申塔、地蔵塔、百番観音供養塔で、桃園川周辺、熊野神社際の路傍にあったが、区画整理の際にここに移転された。二枚目の記念碑は区画整理が完了した昭和13年(1938)に建立された。
この後、本流緑道を上流側に歩き、日本大学附属幼稚園のあたりまで行ったが、地図(1)(2)の本流と支流の分岐点についての痕跡はなにも見つからなかった。ただ、このあたりは本流緑道を中にして両側に一般道があって全体の道幅が広いが、これはその分岐のせいかもしれない(たんなる想像であるが)。
支流緑道に戻り、下流側に引き返した。
参考文献
「杉並の川と橋」杉並区立郷土博物館研究紀要別冊 平成21年3月発行
最新杉並区明細地図 昭和12年 東京日日新聞発行
杉並区全図 昭和10年頃 内山模型製図社
改訂版東京都区分図杉並詳細図 昭和24年 日新出版 昭和27年9月発行
杉並区図1962年杉並区役所
本田創 編著「失われた川を歩く 東京「暗渠」散歩」(実業之日本社)
前回(桃園川緑道源流遡行(1))の桃園川の水源のあった天沼弁天池公園(現代地図)から桃園川緑道に戻り、その上流側の千川用水跡を遡った。
以下の地図は、天沼弁天池の周辺を示すが、前回引用のものである。
(1)一枚目:昭和12年(1937)の杉並区地図で水源の天沼弁天池の周辺
(2)二枚目:昭和10年(1935)頃の杉並区地図で水源の天沼弁天池の周辺
(3)三枚目:昭和24年(1949)の杉並区地図
(4)四枚目:1962年(昭和37年)の杉並区地図
(5)五枚目:桃園川緑道脇に設置の緑道地図
地図(1)~(5)のいずれにも荻窪駅近くの青梅街道から北へ東へと続く水路が見えるが、これが千川用水である。地図(5)に青梅街道に沿う水路が千川上水として示されている。
千川上水は、元禄9年(1696)玉川上水境橋から分水された。千川用水は、練馬・杉並の六ヵ村が灌漑用水の不足を補うため宝永4年(1707)に願い出て、千川上水の水を利用できるように練馬関村の出店から青梅街道に沿って南側へ開削された用水路である。この千川用水は、荻窪駅北口の青梅街道の教会通りの入り口西(追分)を境に西を半兵衛堀、東を相沢堀と称した。半兵衛は下井草村の名主、相沢は阿佐ヶ谷村の名主の家柄であった。
半兵衛堀と相沢堀との境である追分から天沼、阿佐ヶ谷の灌漑用水として新しい堀が開削され、天沼弁天池から流れる桃園川に合流した。この追分からの流れも千川用水と呼ばれたが、この千川用水跡が残っており、桃園川緑道に続いている。
前回の天沼弁天社近くの車止めのある小路を通り抜けて(一、二枚目)、桃園川緑道に戻り、右折し、西に向かう。 右の一般道と並行するが(三枚目)、やがて一般道が右折するので、緑道一本になる(四、五枚目)。
このあたりまでは雰囲気が下流の桃園川緑道とほとんど変わりない。
やがて前方に人通りの多い道が見えてくるが(一枚目)、ここが商店街となっている教会通りで、左折すれば青梅街道、右折すれば東京衛生病院方面である。
教会通りを横切って進むと、車止めのある千川用水跡が続いている(二枚目)。この辺から先は、下流側と同じく車止めを設置し歩行者専用であるので緑道と言ってよいが、ビルに挟まれており、植栽もなく、ちょっと緑道の雰囲気になっていない。
やがて向こうに青梅街道が見えてくる(三枚目)。四枚目の車止めのある青梅街道の歩道が千川用水跡の終点(または始点)である(現代地図)。天沼弁天池公園から近くここまで5分程度であった。(五枚目は歩道から振り返って千川用水跡を撮ったもの。)
上四枚目のあたりは、半兵衛堀と相沢堀との境である追分付近と思われ、右側が半兵衛堀方面、左側が相沢堀方面である。
相沢堀の千川用水は、緑道地図(5)のように青梅街道を新宿側へ向かい、阿佐ヶ谷田圃に流れ、後の阿佐谷駅付近へと流れた。
一枚目の地図は、昭和10年(1935)頃の杉並区地図(2)の下流側地図、二枚目の地図は、緑道地図(5)の下流側地図で、桃園川が中央線の北側で阿佐谷駅方面からの流れと合流しているが、この阿佐谷駅方面からの流れが駅南側の青梅街道から流れており、これは上記の相沢堀の千川用水であろう。
今回の千川用水跡遡行は、千川用水跡が桃園川緑道と境目なく連続し、距離も短いので、桃園川緑道源流遡行の続編とした。
千川用水の歴史と地理について下記「杉並の川と橋」が大変参考になった。
参考文献
「杉並の川と橋」杉並区立郷土博物館研究紀要別冊 平成21年3月発行
最新杉並区明細地図 昭和12年 東京日日新聞発行
杉並区全図 昭和10年頃 内山模型製図社
改訂版東京都区分図杉並詳細図 昭和24年 日新出版 昭和27年9月発行
杉並区図1962年杉並区役所
本田創 編著「失われた川を歩く 東京「暗渠」散歩」(実業之日本社)
井伏鱒二「荻窪風土記」(新潮文庫)