東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

八幡坂(千駄ヶ谷)(2016)

2016年07月30日 | 坂道

将棋会館 鳩森神社




観音坂上をそのまま進むと、まもなく四差路で、ここを左折すると先ほどの榎稲荷である。四差路を直進し、右手に鳩森神社を見ながら緩やかな坂を下ると、まもなく左に将棋会館が見えてくる。会館前の広場で冷たいジュースを飲みながら一休みさせてもらう。

引き返し、鳩森神社に入り、境内を通り、北側に抜ける。以前来たときは、八幡坂下からであった(以前の記事)。

千駄ヶ谷八幡坂上 千駄ヶ谷八幡坂中腹 千駄ヶ谷八幡坂下




鳩森神社の北側の交差点から南西に下る坂が八幡坂である(現代地図)。鳩森八幡神社、千駄ヶ谷八幡ともいうので、坂名はこれに由来するが、同じような同名の坂が都内に多数ある(小山の八幡坂早稲田の八幡坂戸越銀座近くの八幡坂など)。

ほぼまっすぐに中程度の勾配で下っている。渋谷区千駄ヶ谷一丁目1番と5番の間を南西に下る。

内藤新宿千駄ヶ谷辺図(文久二年(1862)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 江戸名所図会千駄ヶ谷八幡宮 江戸名所図会千駄ヶ谷八幡宮




一枚目の尾張屋清七板の内藤新宿千駄ヶ谷辺図(文久二年(1862))を見ると、千駄ヶ谷八幡の右(北)に道があるが、これが位置的にはそういうふうにみえるが、いまの坂と同じ道筋かどうか判断できない。榎坂の記事のように、門前の南北(左右)に延びる道が鎌倉街道である。

二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))にも位置的にあう道があるが、いまの坂と同じ位置であるかわからない。

三、四枚目は、江戸名所図会にある千駄ヶ谷八幡宮の挿絵(左右)である。 本文は以前の記事参照。

坂下の四差路で右折し、小路を西に進むと、住宅が密集しているが、静かな住宅街である。明治通りの歩道わきの副都心線北参道駅へ。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

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観音坂(千駄ヶ谷)(2016)

2016年07月29日 | 坂道

観音坂下(千駄ヶ谷) 観音坂下(千駄ヶ谷) 観音坂下(千駄ヶ谷) 観音坂中腹(千駄ヶ谷) 観音坂中腹(千駄ヶ谷)




榎坂上をそのまま直進する。瑞円寺の塀を左手に見ながら歩くと、まもなく下り坂になり、ちょっとすると坂の中腹に出るが、ここが観音坂である。右折し、いったん坂下まで行く。坂下は、外苑西通りの交差点から西へ延びる道の途中につながる(現代地図)。その交差点名が観音橋である。

坂下から写真を並べるが、緩やかに右に曲がりながら中程度の勾配で上っている。渋谷区千駄ヶ谷二丁目12番と34番の間を西へ上る。

観音坂中腹(千駄ヶ谷) 観音坂中腹(千駄ヶ谷) 観音坂中腹(千駄ヶ谷) 観音坂中腹(千駄ヶ谷)




ちょっとカーブしながら上り、先ほどの榎坂からの道との交差点をすぎると、ほぼまっすぐの上りで、中程度の勾配である。この坂のポイントはこのカーブである。ほどよく緩やかに曲がっている。

右手に観音坂の標柱が立っている(以前の記事)。坂名は、聖輪寺の本尊であった如意輪観音像に由来する。

観音坂上(千駄ヶ谷) 観音坂上(千駄ヶ谷) 内藤新宿千駄ヶ谷辺図(文久二年(1862)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843))




坂上に近づくと、しだいに緩やかになる。坂下からずっと静かな住宅街が続いている。

三枚目の尾張屋清七板の内藤新宿千駄ヶ谷辺図(文久二年(1862))を見ると、下左側の聖輪寺から上(西)に瑞円寺のわきを千駄ヶ谷八幡の方に上る道があるが、これがこの坂であろう。

四枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))には「ウンリンジ」とあるが、聖輪寺と思われ、この前の道がこの坂であろうか。

江戸名所図会千駄ヶ谷聖輪寺 江戸名所図会千駄ヶ谷聖輪寺




江戸名所図会にある千駄ヶ谷観音堂(聖輪寺)の挿絵(左右)である。寺のわきの道が右から左へ上っているようにみえるが、この坂であろうか。

本文の説明には、「本尊如意輪観音は、当寺開山行基大士の彫像にして、御丈三尺五寸あり。世俗目玉の観音と字し奉る。」とあるが、目玉観音の謂われは、さらに本文参照(以前の記事)。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

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榎坂(千駄ヶ谷)(2016)

2016年07月25日 | 坂道

榎稲荷(千駄ヶ谷) 榎稲荷(千駄ヶ谷)




勢揃坂下から外苑西通りを横断し、そのまま進み、次の神宮前二丁目の信号を横断し、そのまま北へ進むと上り坂で、ちょっと歩くと、右手にある小路が榎坂であるが、右折せずに直進すると、まもなく右側に榎稲荷がある(現代地図)。このあたりをお万榎といった。(上り坂をまっすぐに上り、鳩森神社の手前の四差路を左折すると、将棋会館である。)

狭いところに石段があり、ぐるりと上ると、その上に小さな社が建っている。よく手入れされている。そこから瑞円寺が見える。わきにビルがあるものの、いかにもそのむかし田園地帯であったという雰囲気を醸し出している。

榎坂(千駄ヶ谷) 榎坂(千駄ヶ谷) 榎坂(千駄ヶ谷) 榎坂(千駄ヶ谷) 東都青山絵図(安政四年(1857))




榎稲荷からもどり、次を左折すると、榎坂の上りである(現代地図)。渋谷区千駄ヶ谷二丁目28番と29番の間を東へ上る。 緩やかに上っているが、ちょっと歩くと、左に大きくカーブし、このあたりでちょっと勾配がついている。

前回(以前の記事)訪れたときは、坂上からだったので、ちょっと違う感じがしたが、これはいつものことである。

同じ名の坂は都内のあちこちにあるが、以下は、これまでもたびたび引用してきた横関の説明である。

榎坂と榎地名は、いつも街道にあり、古い榎坂、古い榎地名は、古い街道に並ぶ。江戸時代の榎坂は、江戸時代以前の街道を示している。榎坂のそばにはかならず榎があり、または榎があったところである。場合によると、古い鎌倉街道、奥州街道、中仙道(木曾街道)、甲州街道、日光街道、東海道などをひそかに知らせてくれるものと考えてよい。

江戸時代の榎坂と榎地名などを地図に描き、それらの点を結びつけると、一時代前の奥州街道や鎌倉街道や甲州街道を再現できるという。この坂の場合、渋谷の宮益坂を上って、青山通り、青山百人町(五枚目の尾張屋清七板東都青山絵図(安政四年(1857))参照)を通って熊野権現から勢揃坂に出て、そこから渋谷川の橋を渡って、榎坂のお万榎へ出て、千駄ヶ谷八幡(鳩森神社)に出る。ここが鎌倉街道で、これより北は奥州街道になる。(これから先は、以前の記事を参照。)

榎坂(千駄ヶ谷) 榎坂(千駄ヶ谷) 内藤新宿千駄ヶ谷辺図(文久二年(1862)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843))




左へ曲がる大きなカーブを上りきると、かなり緩やかになって坂上である。左手前方に瑞円寺が見える。このカーブがこの坂の主要部で、そんなに長い坂ではない。

三枚目の尾張屋清七板の内藤新宿千駄ヶ谷辺図(文久二年(1862))を見ると、左端中央に瑞圓寺があるが、この前の緩やかなカーブを描く道がこの坂であろうか。

四枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))に「ズイエンジ」とあるが、この辺はあまり丁寧に描かれていないようで、この坂がどこかちょっとわからない(あるいは描かれていない)。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)

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荷風日の丸の旗を購う

2016年07月24日 | 荷風

永井荷風(1932)




永井荷風の日記「断腸亭日乗」の昭和10年(1935)2月3日に次の記述がある。

「二月初三。前夜の微雨いつか雪となる。午後に至って歇む。終日困臥為すことなし。燈刻銀座に行き銀座食堂に飰す。三越百貨店に入り日の丸の旗 竹竿つき一円六十銭 を購ふ。余大久保の家を売りてより今日に至るまでいかなる日にも旗を出せし事なく、また門松立てし事もなし。されど近年世のありさまを見るに[此間約三字切取、約十字抹消]祭日に旗出さぬ家には壮士来りて暴行をなす由屢耳にする所なり。依って万一の用意にとて旗を買ふことになせしなり。余はまた二十年来フロツコートを着たることなし。礼服を着用せざる可からざる処へは病と称して赴くことなかりしなり。余は慶応義塾教授の職を辞したる後は公人にあらず、世を捨てたる人なれば、礼服をきる必要はなきわけなり。されどこれも世の有様を見るに、わが思ふところとは全く反対なれば残念ながら世俗に従ふに若かずと思ひ、去月銀座の洋服店にてモーニングコートを新調せしめたり。代金九十余円なり。」

荷風は、この日、夕方になってから銀座に出かけ、夕食をとった後、三越に行き日の丸の旗を購入した(竹竿つきで一円六十銭)が、その理由がおかしい。大久保の家を売ってから今日に至るまでいかなる日にも旗を出すことはなく、また門松を立てた事もないが、この頃祭日に旗を出さない家に壮士が来て乱暴を働くことをよく耳にするので、万一の用意に買ったというのである。荷風はじつに用意のよい人であったが、そういう乱暴狼藉を働く者をもっとも嫌ったせいでもある。

昭和10年(1935)のことであるが、同年に美濃部達吉の天皇機関説を攻撃する事件が起き、次の年(1936)に2・26事件が起き、その次の年(1937)7月に盧溝橋で日中両軍が衝突し、12月には日本軍が南京を占領している。

壮士とは、血気盛んな男、政治運動に関わる書生などの男、一種のごろつき、などの意味があるが、いま、あまりきかない言葉である。祝日に日の丸の旗を出さなくともそんな男が押しかけてくることもない。祝日に日の丸の旗を出す家などほとんど見かけたことがなく、もう戦前の古いことと思ったが、ちょっと考えると、そうではなく、いま、その壮士の役は、自治体の教育委員会が担っている。もっともこちらは、国歌斉唱の方で、卒業式などの学校行事のとき、国旗に向かって起立して国歌を斉唱することを生徒や教師に強制している。時々、教師が起立などを拒否したという理由で教育委員会が懲戒処分をし、その処分の取り消しなどを求める訴訟が起き、その裁判の判決が報道される。起立して国歌を斉唱することを強制するのであるから、荷風の時代と場所がちょっと違うだけで本質的に同じである。その頃はごろつきの男が押しかけて来て乱暴をしたが、この頃は教育委員会が懲戒処分という手段によって乱暴をする。

教師の国歌斉唱起立拒否というのは、歴史的に特に第2次世界大戦のとき(それにいたるまでに)君が代や日の丸が象徴的に果たした役割や戦争に加担した教育体制を批判的にとらえる見解・思想に基づく場合がほとんどと思われる。それにはもっともな理由があるので、その思想を尊重し、国歌斉唱起立拒否を認めるべきである。

ところで、国歌斉唱が行われる場に起立しない教師や生徒がいたとしても、なんの問題も生じないことは自明である。学校長や教育委員会などがいたずらに問題を大きくしているだけではないのか。国歌斉唱が教育現場に教師の懲戒処分という大きな問題を持ち込んで対処しなければならないほどの重要なテーマとはどうしても思えない。教育行政に恣意的な意図が感じられるが、無駄なことである。

吉本隆明「背景の記憶」カバー(宝島社)




吉本隆明が小学生のとき看護婦との交流を回想した「小学生の看護婦さん」(「背景の記憶」所収)という随筆に興味深い記述があるので、以下、引用する。

『そういう看護婦さんの一人は、祭日の式典で、その頃慣例になっていた"御真影"(天皇の写真)遙拝のとき決して敬礼しなかった。最敬礼のとき、うわ眼つかいで様子を見まわすと、その看護婦さんだけが、いつも静かに頭を下げずにいた。そのころは、少しけげんに思っただけだったが、後年考えてみると、確固としたキリスト教の信者だったのだとおもう。戦後になってから、その面影の看護婦さんから異性の優しさ以外のものも受けとった。』

吉本は、大正13年(1924)11月生まれであるので、荷風の日乗と同じ昭和10年(1935)の前後のことであろうが、驚くべきは、戦前の学校教育の中でもっとも厳格に行われたに違いない「御真影」遙拝のとき、頭を下げず敬礼をしない人がいたことである。天皇の肖像写真が学校の火事で焼失したというだけで、校長が自殺をした時代のことであるから、かなり勇気のあるふるまいである。「いつも」静かに頭を下げずにいた、とあるので、吉本少年は、何回か同じシーンを目撃したのであろうが、それでも式典は問題なく進んでいるようである。

「戦後になってから異性の優しさ以外のものも受けとった」と記しているが、個人の信仰の強さやその信仰の背景に思いをめぐらせたのであろうか。「確固としたキリスト教の信者」の存在は、戦後の吉本に少なからず影響を与えたように思える。聖書を読み、教会に通い、さらには原始キリスト教の成立を反逆の倫理から論じた「マチウ書試論」を書いている。確固とした存在が吉本をして聖書や教会に向かわせるきっかけになったのかもしれない。

自分の信仰から天皇の肖像写真などに敬礼できない。現在の問題では、自分の思想から起立し国歌斉唱などできない。こういった考えに対し、戦後の現在でも、日本では、おそらく違和感を持つ人が多いとおもわれる。少なくともそういった考え方に多くの人はなじまない。強制的国歌斉唱は受け入れても、それを拒否する思想は受け入れない。こういった根拠不明な特性を日本の社会は総体として持っているような気がする。その結果、個人の思想や信仰よりも御真影遙拝や国歌斉唱の方がずっと優先すると考えてしまう。これは戦前・戦後で変わりがない。このような特性・構造は解明されるべきではないのか。

国歌斉唱起立拒否に賛成でも、そうでもなくても、懲戒処分など嫌だから起立をするのかもしれない。ちょうど荷風が乱暴者が押しかけて来るのを忌避するため日の丸の旗を購ったように。ここでよく考えると、吉本隆明が「最後の親鸞」で書いたように、「その世界は、自由ではないかもしれないが、観念の恣意性だけは保証してくれる」。どんなに強制があっても、一人一人が内面で感じたり思考することの中まで何人も立ち入ることはできない。その問題を発展させたり、批判したり、その歴史を考えたりすることはまったくの自由で、だれにも止められない。むしろ、そういったことがあると、観念の自由性が内部によみがえるのを感じるかもしれない。だれでも自由にそこから出発することができる。

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
吉本隆明「背景の記憶」(宝島社/平凡社)
「吉本隆明が語る戦後55年⑤」(三交社)
吉本隆明「親鸞〈決定版〉」(春秋社)

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勢揃坂(2016)

2016年07月20日 | 坂道

熊野神社のわき 旧渋谷川の原宿橋跡で右折し東へ進み、外苑西通りを横断し、熊野神社の手前角を左折する(現代地図)。


 

勢揃坂上 勢揃坂上 勢揃坂上 勢揃坂標識 勢揃坂上




熊野神社を右にして、細い道が住宅街の中をほぼまっすぐに北へ延びている。ちょっと進むと勢揃坂の坂上である。中程度の勾配でまっすぐに下っている。渋谷区神宮前二丁目2番と3番の間を北へ下る。

坂上側に立っている渋谷区教育委員会の標識の説明によれば、後三年の役(1083)のとき源義家がここで軍勢を揃えて出陣したという故事が坂名の由来であるが、東京にしてはかなり古い(以前の記事)。別名がその故事から源氏坂。

勢揃坂上 勢揃坂龍厳寺門前 東都青山絵図(安政四年(1857)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 青山・長者丸辺之図(嘉永四年(1851))




坂をちょっと下ると、龍厳寺門前であるが、この寺は、三枚目の尾張屋清七板の東都青山絵図(安政四年(1857))、四枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))、五枚目の近江屋板の青山・長者丸辺之図(嘉永四年(1851))のいずれにもみえ、裏手には渋谷川が流れている。坂上側には熊野神社(熊野権現)がある。

近江屋板の青山・長者丸辺之図(嘉永四年(1851))には、龍岩寺前に、△里俗源氏坂、とある。

勢揃坂中腹 勢揃坂中腹 勢揃坂中腹 勢揃坂中腹 勢揃坂中腹




この坂は、人通りがほとんどなく、人のあふれんばかりの表参道からきたので、その違いに驚いてしまうほどであるが、私的にはこういった静かな雰囲気の方が好きである。静寂な散歩が楽しめる。

龍厳寺門前の坂下側に國學院高校の通用門があるが、そこにはり付けてある金属プレートによれば、勢揃坂門という。よい門名である。

勢揃坂下 勢揃坂下 勢揃坂下 勢揃坂下




坂下側はかなり緩やかな勾配となって、ちょっと右に曲がってからはほぼ平坦である。突き当たりは、右折する道が霞ヶ丘団地の中に続いていたようであるが、いまは封鎖されているため、L字形となっていて、左折すると、外苑西通りである(現代地図)。

おもしろいことに、この道の形状は、上記の江戸期の地図と同じで、そのころは左折すると、渋谷川にかかる橋があった。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)

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善福寺川7月(2016)

2016年07月19日 | 写真

善福寺川7月(2016) 善福寺川7月(2016) 善福寺川7月(2016) 善福寺川7月(2016) 善福寺川7月(2016) 善福寺川7月(2016)

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井の頭公園7月(2016)

2016年07月18日 | 写真

井の頭公園7月 井の頭公園7月 井の頭公園7月 井の頭公園7月 井の頭公園7月 井の頭公園7月

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旧渋谷川歩道(2016)

2016年07月17日 | 散策

旧渋谷川歩道 旧渋谷川歩道 旧渋谷川歩道 旧渋谷川歩道




ネッコ坂下から表参道にもどり、南側から歩道橋で北側に横断し、旧渋谷川跡にできた遊歩道に入る(現代地図)。

入るとすぐ、一枚目の写真の南側と同じように人通りが多くにぎやかであるが、かなりくねくねした遊歩道を北(上流側)へ進むと、しだいに人通りが少なくなってくる。

やがて明治通りと外苑西通りを結ぶ大きな通りにいたる(現代地図)が、ここに原宿橋の跡が残っている(以前の記事)。ここを横断したさきにも旧渋谷川跡の道が続いているようであるが、ここを右折し、外苑西通りを横断したさきにある熊野神社に向かう。 

東都青山絵図(安政四年(1857)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843))




一枚目の尾張屋清七板の東都青山絵図(安政四年(1857))をみると、戸田長門守の屋敷前のネッコ坂から下ると、そのさきに渋谷川が流れ、橋がかかっている。ここから右側(北)が渋谷川の上流である。そこから二番目の橋が原宿橋であろう。これから向かう勢揃坂の中腹にある龍厳寺(清七板では竜岩寺)の裏手を流れている。

二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))では、戸田ナガト(長門)の屋敷前は、ほぼまっすぐな道筋となっているが、その先に渋谷川が流れている。

参考文献
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)

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ネッコ坂(2016)

2016年07月16日 | 坂道

明治神宮菖蒲園からの帰り、せっかく来たからということで、表参道近くのネッコ坂からはじめて、久しぶりに原宿・千駄ヶ谷界隈の坂巡りをした。

神宮橋側から ネッコ坂下 ネッコ坂下 ネッコ坂下

 



神宮橋を渡り、進行方向(東側)を見ると、表参道は緩やかな下りになっている。歩道には歩行者があふれるようである。明治通りとの交差点の先が谷底で、このあたりに旧渋谷川が南北に流れていた。

谷底近くの歩道橋で南側に横断し、川沿跡にできた遊歩道に入る。両わきに店があり、たくさんの人がショッピングや散歩を楽しんでいる。ちょっと歩き、左折し、右折し、次を左折すると、細い道が住宅街の中に延びているが、ここがネッコ坂下である(現代地図)。渋谷区神宮前5丁目11番と16番との間を南東へ上る。

かなり前、千駄ヶ谷の方からこの坂に来たことがあるが(以前の記事)、今回は、その逆をたどる。 

ネッコ坂下 ネッコ坂中腹 ネッコ坂中腹 ネッコ坂中腹




この坂は、坂下からしばらく緩やかで、かなり細くちょっとくねっている。まっすぐに上るあたりからしだいに勾配がついてくる。ちょっと上ると、右に大きく曲がっている。

横関は、神宮前5丁目14,15番あたりの湾曲した小坂をネッコ坂としているが、ちょうどのこのあたりである。

そのさきでこんどは左に大きく曲がっている。木の根のように曲がっていることが坂名の由来であるが、このあたりのことをいっているのだろう。

この坂には、教育委員会などによるいつもの標識が立っていない。このため、そんな名がついた坂であることはあまり知られていないかもしれない。

東都青山絵図(安政四年(1857)) 青山・長者丸辺之図(嘉永四年(1851))




一枚目の尾張屋清七板の東都青山絵図(安政四年(1857))をみると、戸田長門守の屋敷前の道がカーブしながら百姓地の間を渋谷川の方に下っている。このカーブのあたりがネッコ坂と思われる。

二枚目の近江屋板の青山・長者丸辺之図(嘉永四年(1851))には、戸田長門守の屋敷前に、△子ッコサカ、とある。

明治神宮などはずっと後(大正年間)にできているから、それまでは、渋谷川の西側との往来にはこの坂を通ったのであろう。いまの道は、その曲がりの様子や細さからいって、意外とむかしの道筋とあまり変わっていないのかもしれない。

ネッコ坂上 ネッコ坂上 ネッコ坂上 ネッコ坂上



 

坂上で大きく左に曲がってからは、ほぼまっすぐに東側へ延びている。

この道は、表参道の裏道のようになっているが、おもいのほか人通りが多い。このへんの人は、あふれんばかりに人が歩いている表参道よりもこちらを通るのかもしれない。

坂上から引き返し、表参道にもどる。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)

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