前回の神田川にかかる華水橋から第2の目的地である余丁町の断腸亭跡を目指す。
神田川沿いの目白通りを横断し、関口一丁目を通り、江戸川橋通りを横断すると、その先(西)は山吹町である(現代地図)。この地名は、太田道灌が登場する山吹の里伝説に由来するのであろう。この近くの神田川沿いに山吹の里の石碑と説明板が立っている(面影橋近くの電気会社の入口)。
一、二枚目の写真は山吹町の通りを撮ったものであるが、平坦な道が続き、このあたりも低地であることがわかる。この途中、やまぶき児童遊園によってホットココアでちょっと休憩する。
さらに進み、外苑東通りを横断すると、早稲田鶴巻町であるが、三枚目はその通りで撮ったものである。
四枚目は、尾張屋板江戸切絵図 礫川牛込小日向絵図(万延元年(1860))の部分図で、先ほどまでの服部坂や大日坂などが見えるが、神田川の西に広がる田が、このあたりに相当するところで、早稲田田圃とよばれていた。このあたりは、東北に小日向台地、小石川台地、北に目白台地、南西に牛込台地に囲まれた地で、これらの山々を望みながら稲作りにいそしんだ時代があった。
早稲田鶴巻町(北側)から早大通りを南へ横断すると、ちょっと上りになる。宗清寺前を通って早稲田通りに出てから、右折してちょっと進むと、地下鉄早稲田駅前の交差点で、反対の南側に夏目坂が見える(現代地図)。一枚目の写真は、そこから坂を撮ったもので、まっすぐに南へ上っている。
夏目坂は、このあたりの名主であった漱石の父、小兵衛直克が名付けた。もともと豊島坂といったが、このあたりが豊島郡に属していたからという(岡崎)。この坂のある一帯の町名は、同じくその父が夏目家の定紋の井桁に菊にちなんでつけたという喜久井町である。山吹町もそうだがこういった地名が残っているのはうれしいことである。
坂下東側の牛丼屋の前の狭いところに、二枚目の写真のように夏目漱石誕生之地の石碑と説明板が立っている。三枚目は坂上近くで坂下を、四枚目は坂上を撮ったもので、坂の標柱が立っている。
下一枚目の尾張屋板江戸切絵図 牛込市谷大久保絵図(安政元年(1854))の部分図を見ると、穴八幡のちょっと下(東)に二股に分かれている道があり、二股の道の間が、ワセダババ下丁、となっているが、この左側の道がこの坂と思われる。誓閑寺と来迎寺は、いまも坂西側にある。漱石の生家は、この早稲田馬場下町にあったのであろう。
上四枚目の夏目坂上を右折し、ちょっと進むと、右手に清源寺の門前があるが、一枚目の江戸切絵図に同じ位置にこの寺がある。
そのまま南へさらに進むと、道がほぼ直角に曲がっているが(現代地図)、その曲がりのところから小路が南へと延びている。この小路に入ってちょっと歩くと、下戸塚坂の標柱が立っている。
二枚目の写真は、坂下から撮ったもので、細い道がまっすぐに延びている。三枚目は、坂上近くから坂上側を撮ったもので、ここにも標柱が立っている。四枚目は坂上から坂下を撮ったもので、坂上側でかなりの勾配となっている。
一枚目の江戸切絵図に、清源寺前でちょっと曲がってから南にまっすぐ延びる道があるが、この道の南側がこの坂と思われる。ここは江戸から続く坂であるが、坂名は明治になってからの町名に由来する。
山吹町や早稲田鶴巻町あたりの低地から夏目坂へと上ると、牛込台地の上側と思ってしまうが、さらにこの坂があるので、夏目坂上はこの台地の中腹であることがよくわかる。この坂上が牛込台地の頂上の一端である。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)