東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

お茶の水坂

2012年12月18日 | 坂道

周辺地図 お茶の水坂下 お茶の水坂中腹 お茶の水坂中腹 前回の忠弥坂下を直進すると、白山通りの歩道に出るが、左折し、ちょっと歩くと、水道橋の交差点である。一枚目の写真はそのあたりに立っていた街角地図であるが、ここを左折すると、お茶の水坂の坂下である。二枚目は坂下付近から撮ったもので、外堀通りの広い道が緩やかに上っている。

三枚目は歩道をちょっと上り坂上側を撮ったもので、左手は神田川で、中央線、総武線が通っている。その向こう岸の上に皀角坂がある。四枚目はそのあたりから坂下を撮ったもので、坂下の水道橋の交差点が見える。

水道橋の交差点から神田川に沿って東へ本郷台地へ上る坂で、勾配はさほどないが、だらだらと上ってかなり距離が長い。この通りが本郷台地の南端になっている(江戸時代の神田川開削以降のことであるが)。

お茶の水坂中腹 お茶の水坂中腹 お茶の水坂中腹 一枚目の写真はさらに上って坂中腹から坂上を撮ったもので、このあたりでちょっと左に曲がっている。二枚目は、さらに上り、元町公園の入口付近を撮ったもので、歩道端に坂の標識が立っている。三枚目は、標識のあたりから坂下を撮ったものである。

標識には次の説明がある。

「お茶の水坂
     水道橋から順天堂医院間の外堀通り
 この神田川の外堀工事は元和年間(1615-1626)に行われた。それ以前に、ここにあった高林寺(現向丘二丁目)の境内に湧き水があり“お茶の水”として将軍に献上したことから、「お茶の水」の地名がおこった。
 『御府内備考』によれば「御茶之水は聖堂の西にあり、この井名水にして御茶の水に召し上げられしと・・・・」とある。
 この坂は神田川(仙台堀)に沿って、お茶の水の上の坂で「お茶の水坂」という。坂の下の神田川に、かって神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていたが、明治34年(1901)取りはずされた。
       お茶の水橋低きに見ゆる水のいろ
         寒む夜はふけてわれは行くなり
                  島木赤彦(1876-1926)
          東京都文京区教育委員会  平成9年3月」

お茶の水坂上 お茶の水坂上 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 一枚目の写真は、標識のあたりから坂上を、二枚目はそのちょっと上の歩道から坂上を撮ったものである。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)を見ると、神田川に沿った道があるが、ここがこの坂である。御茶之水とあり、水道橋、上水樋が見える。

近江屋板(嘉永三年(1850))も同様であるが、坂マーク△があり、その上の方に、此辺御茶ノ水ト云、とある。

『御府内備考』の本郷之一の総説にある「御茶之水蹟」の説明が上記の標識に引用されているが、前半部分は次のようになっている。

「御茶之水は聖堂の西にあり、按に今火消屋敷の南の方川の斜に折て里俗大曲と称せる辺なり、今は流の中に入しといふ、この井名水にして御茶の水にめし上られしと、神田川ほり割の時(明暦の頃にや)淵になりて水際の形のみのこれり、享保十四年、江戸川洪水ののち川の幅を広められしかば、おのづから川のうちへ入て今は名のみのこれり、・・・」

御茶の水は聖堂の西にあった。川が斜めに折れ曲がった大曲という辺りであるが、火消し屋敷の南とある。上記の尾張屋板に、定火消御役屋敷があるが、ここがその火消し屋敷とすると、その南付近になる。明暦(1655~1658)の頃の神田川掘削のとき、淵になって水際の形だけ残って、享保14年(1729)、洪水のあとに川幅が広げられて川に入ってしまった。

坂名は、名水の井戸に由来することは明白であるが、不思議なことに、坂名がはっきりと記された江戸期の文献はないようである。(お茶の水坂などと「坂」をいちいちつけて呼ぶよりも「お茶の水」だけで場所を示すのには十分だったと想像される。)

江戸名所図会 お茶の水 江戸名所図会 お茶の水 左の二枚の絵図は、江戸名所図会の御茶の水の挿絵で、手前が神田上水の懸樋で、その上流に水道橋が見える。乗客をのせた舟が上流(西)に向かっていて、その遠く向こうに富士が描かれている。右側が御茶の水坂側で、左側が皀角坂側である。本文に「水道橋」について次の説明がある。

「水道橋 小川町より小石川への出口、神田川の流れに架す。この橋の少し下の方に神田上水の懸樋(かけとひ)あり、故に号とす。(この下の川は、万治の頃仙台候欽命を奉じて、堀割らるゝ所なりといふ。)万治の頃まで、駒込の吉祥寺この地にあり。その表門の通りにありしとて、この橋の旧名を吉祥寺橋ともいへり。・・・」

水道橋の名は、神田上水の懸樋があったことに由来し、万治(1658~1661)の頃までは、この坂下北側一帯に吉祥寺があったので吉祥寺橋ともいわれた。

実測東京地図(明治11年)に神田川に沿ってこの坂があり、坂上北側に女子師範学校があるが、お茶の水女子大学の前身である。明治地図(明治40年)も同様で、市電が通っている。戦前の昭和地図(昭和16年)を見ると、ここは東京歯科附属医院(いまの東京医科歯科大学附属病院)になっている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「江戸名所図会(一)」(角川文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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