東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

相ノ坂

2013年02月28日 | 坂道

大坂橋下 大坂橋下 相ノ坂下 相ノ坂下 前回の松見坂下から松見坂地蔵尊のある坂を下って坂下を左折し、道なりに歩く(現代地図)。途中、右(西)を見るとかなり長く続く階段があり、左(東)の山手通り側を見ると歩道へ上る階段があったりして、この道はこのあたりの低地であることがわかる。空川はこのあたりを流れていた。

やがて、一枚目の写真のように、進行方向に大坂橋が見えてくるが、首都高速3号渋谷線の高架がその上にあって下を圧倒するようにそびえている。二枚目は山手通りの歩道から大坂橋を撮ったもので、橋の全体がわかる。ここから山手通りを一段目とし全体で三段構造となったおもしろい光景を眺めることができる。

大坂橋は、路面電車(玉電)の開通(明治40年)のときにできたが、ここを見ると、大きな川が流れていたようにも思えてくる。その昔の大坂は、大山街道の最大の難所だったという話もわかるような気がする。

相ノ坂下 相ノ坂下 相ノ坂下 相ノ坂中腹 山手通りの西側の歩道を南へ進み、大坂橋の下をくぐり、その先の信号で横断し、ちょっと北へもどるように歩くと、突き当たるので右折する。しばらく東へ歩き、菅刈小学校の角で左折すると、相ノ坂の坂下である(現代地図)。

左折してすぐのところから撮ったのが上三枚目の写真で、坂下からちょっと進んだところから撮ったのが上四枚目で、細い道がまっすぐに北へ延び、まだかなり緩やかである。

一枚目の写真は、ちょっと入ったところから坂下を撮ったもので、小学校側の端に坂の標柱が立っている。二枚目は、坂下からさらに進んだところから坂上側を撮ったもので、この先で、左に緩やかに曲がっている。 三枚目は、その先から坂下側を撮ったものである。そのあたりから坂上を見ると、緩くカーブし、右にブロック塀がそびえ立っており、そのわきからかなり急な階段が上っている。この中腹のあたりから坂上側を撮ったのが四枚目で、階段も写っている。

相ノ坂中腹 階段上 相ノ坂中腹 階段上から 相ノ坂中腹 相ノ坂中腹 一枚目の写真は、階段を上り、その上から東へ延びる道を撮ったもので、陽当たりが悪いのか雪がかなり残っている。二枚目は階段上から下を撮ったもので、かなり急なことがわかる。

三枚目は階段下のちょっと坂上側から坂下を、四枚目はそのあたりから坂上側を撮ったもので、このカーブの手前あたりからしだいに勾配がついてくる。

坂下に立っている標柱には次の説明がある。

「相ノ坂(あいのさか) 坂の上の旧大山道(現、玉川通り)と坂下の旧日向(ひなた)道の間(あい)の坂だからとする説や、人々が落ち合う坂(合の坂・逢の坂)だからとする説がある。」

両説ともいかにもありそうな説で決定版ではないようである。坂下の東西に延びる道を日向道とよんだのだろうか。

相ノ坂中腹 相ノ坂中腹 相ノ坂中腹 相ノ坂中腹 一枚目の写真は中腹のカーブからちょっと進んだところから坂下側を撮ったものである。二枚目はその先から坂上を、三枚目はさらにちょっと上から撮ったもので、このあたりからまっすぐに上り、もっとも勾配がある。坂左端に手摺りができている。四枚目は、そのあたりから坂下側を撮ったものである。

この坂の中腹は、勾配があり、両側にコンクリートの直立壁がそびえ立っているため暗く、おまけに道も狭いため、森林の中の細い山道を登っているようである。

目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にあるこの坂の全長、高低差、平均斜度は、184m、12.9m、6.32で、緩やかな坂下を考えると、やはりかなり急な坂であることがわかる。

相ノ坂中腹 相ノ坂上 相ノ坂上 相ノ坂上 一枚目の写真は、中腹の上側から坂上側を撮ったもので、勾配は引き続きかなりある。二、三枚目は坂上にかなり近くなってきたところから坂上側を撮ったもので、その先でちょっと右にカーブしている。四枚目は、カーブの手前から坂上を撮ったものである。

写真を並べてあらためて見ると、どこかの坂と似ているような気がしてきたと思ったら、南麻布の明治通りから北へ上る新坂である。ここも一部にかなり高い直立壁があって、細い道が続き、かなり長いが、坂上でなだらかな道が続き、中腹の勾配も緩やかで、この相ノ坂と比べると緩やかな丘を上る感じではあるが。

相ノ坂上 相ノ坂上 相ノ坂上 相ノ坂上 一枚目の写真は、坂上のカーブのあたりから坂下側を撮ったもので、坂下の向こうは明るいが、急な中腹は壁に囲まれて暗い。二、三枚目は坂上を撮ったもので、坂上近くになると、緩やかになる。坂上の横に延びる道は、246号線の大坂の方から南東へと延びる旧山手通りの裏道である。四枚目は坂上から坂下側を撮ったもので、カーブのため、坂の中腹は見えない。

御江戸大絵図(天保十四年(1843))を見ると、宮益町の西、道玄坂の先に、大山道と記されているが、そこから南へ目黒川の方に延びる道がある。これがこの坂かもしれないが、なにもない所にさらっと描いた感じで確かでない。昭和16年(1941)の目黒区の地図には、坂名がちゃんと記され、坂下に菅刈小学校がある。

この坂は、特に中腹の直線部分でかなり勾配があり、直立壁がそびえ立っていて、人工的ではあるが、まるで現代の都会の中にできた深山幽谷の地である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
菅原健二「川の地図辞典 江戸・東京/23区編」(之潮)

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松見坂

2013年02月23日 | 坂道

松見坂下 松見坂下 松見坂下 松見坂中腹 前回の大坂下を右折し、小径をちょっと歩くと、すぐに山手通りの歩道に出るが、右折し北へ進む。やがて山手通りと淡島通りとの松見坂の交差点に至る。この東南角から西側を撮ったのが一枚目の写真で、横方向が山手通りで、交差点の向こうが松見坂の坂下である(現代地図)。

交差点を渡って南側の歩道を進むが、二枚目は坂下すぐのところから坂上側を、三枚目はそのちょっと先のバス停「松見坂下」から坂上側を撮ったもので、緩やかに西へ上っている。四枚目はさらに進んで中腹から坂下側を撮ったもので、中腹のあたりからちょっと勾配がついてくる。工事中でちょっと雑然としている。

松見坂上 松見坂上 松見坂 歩道小階段 松見坂 歩道小階段 やがて坂上に至るが、坂下側を撮ったのが一枚目の写真で、かなり長く上っていることがわかる。二枚目は、坂上の先を撮ったもので、ほぼ平坦に延びている。

この坂の南側の歩道を歩いていると、何箇所かに歩道の住宅側に小階段があることに気がつく。三枚目の写真は坂上近くで撮ったもので、小階段の上が水平になって建物への出入口があることから、もともと住宅用につくられたのだろうか。しかし、それだけでなく、四枚目の写真のようにもっと小さな階段が横断歩道の手前わきにある(2007.11撮影)。ちょっと不思議な小階段である。

この坂には、坂の標柱が立っていないようであったが、工事が終わったらできると期待したい。

横関には、次の説明がある。

「目黒区駒場一丁目と上目黒八丁目の境を、東から西に新遠江橋まで下る坂。旧遠江橋のそばには松見地蔵がある。駒場坂とも」

新遠江(しんとおとうみ)橋まで下る坂とあるが、この橋は、昭和16年(1941)の目黒区地図や昭和31年(1956)の東京23区地図や目黒区HPの松見坂の説明を見ると、山手通りとの交差点から西へちょっと入ったところにあった。ここに空川が北の駒場四丁目から南へと流れていた。(横関の「東から西に・・・」は「西から東に新遠江橋まで下る坂」である。)

上一枚目の写真のように坂下を交差点の東側から見ると、山手通りの方が坂下よりもちょっと高くなっていることの理由もわかる。

松見坂上 松見坂上 松見坂中腹 江戸名所図会 富士見坂一本松 一枚目の写真は、坂上の平坦なところから坂下側を撮ったもので、このあたりから坂下側で道路が広くなって中央分離帯がある。道路を横断してから坂下側を撮ったのが二枚目である。北側の歩道を下るが、中腹で坂上側を撮ったのが三枚目である。

この坂名の由来であるが、松の木が見えたことによると容易に推察がつくが、どこにあった松なのか、大きく分けて二説あるようである。

一つは、山賊をしていたとされる道玄に由来する道玄物見松で、江戸名所図会(道玄坂の記事参照)の本文にあるように、道玄坂上の先、大坂の手前にあって、道玄はこの松に登って往来の人を見下し、部下に命じて衣服や物を強奪させたという。目黒区HPの松見坂の説明にも紹介されている。

もう一つは、同じく江戸名所図会にある一本松で、四枚目は富士見坂一本松の挿絵の右半分であるが(その左半分の上側は道玄坂の記事参照)、一本松が描かれている。道玄物見松の説明のかっこ書きの最後に「今、駒場坂の下、用水堀の傍に一株の古い松あるを混じて、道玄松と称すれども、一本松と称してこの松と別なり。」とあるように、この坂の下で三田用水のわきにある松が一本松で、道玄物見松とは別としている。三田用水は坂下の空川の東に流れていた。

松見坂中腹 松見坂下 松見坂下 江戸名所図会 駒場野 一枚目の写真は坂中腹から坂下を、二枚目はその下から坂下を撮ったもので、坂下の向こう(東側)は上り坂で、その坂上は道玄坂上の先(西)である。

江戸名所図会の道玄坂の説明(道玄坂の記事で引用)に、道玄坂を登って三丁ほど行くと岐路で、直路は大山道、右へ行けば駒場野の御用屋敷の前通り、北沢淡島への道とあるが、この道が上四枚目の挿絵の中央付近に見えるうねうねと曲がりくねった道で、その上の横に延びる街道は道玄坂上のあたりであろうから、現在の様子と比べると、その甚だしい違いがわかってきて興味深い。

三枚目は、坂下から坂上側を撮ったもので、このあたりでちょっと勾配があることがわかる。目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」によれば、この坂の全長、高低差、平均斜度は、171m、4.8m、2.44で、比較的緩やかであるが、坂を上下した実感とあう。

四枚目は、江戸名所図会にある駒場野の挿絵の左半分である。老人がちょっと疲れたような感じで坂を上ってくるが、ここが松見坂であるかどうか不明である。岡崎が松見坂の説明で引用している。

松見坂下 松見坂地蔵尊下 松見坂地蔵尊上 松見坂地蔵尊 一枚目の写真のように、坂下のバス停近くの歩道に地下へ潜るように階段がある(反対側の歩道にもある)。ここを下るとトンネルで、ここを右折し、抜けると、二枚目のように左手が坂になっている。坂上は、先ほど山手通りを横断した松見坂下の歩道付近である。三枚目は、その坂上から坂下を撮ったもので、この中腹左手に四枚目の松見坂地蔵尊が祀られている。

目黒区HPの松見坂の説明に、「この(新遠江)橋は、空川にかかっていたものである。もっと以前には、この新道の下にわずかに残っている旧松見坂にあった。この橋は、伊達遠江守が創設したもので、明治に入って、明治天皇行幸に伴い西欧技術を取り入れたドーム型の橋に改築された。大正2年、道路を改修し、現在の松見坂と新遠江橋となった。」とあるが、この説明自体が30~40年ほど前の記事の再構成とのことで、現在とも違っている。

一枚目の歩道のわきにフェンスが写っているが、これが橋の跡とすると、トンネルのところに川が流れていたのであろう。反対側(南)の歩道にも同じようなフェンスがある。

旧松見坂のそばには松見地蔵があると横関にあるが、いまの地蔵尊の前の坂が旧松見坂の一部なのか、ちょっと不明である。

この坂が江戸から続く坂であるとしても、これまでかなり改修されてしまったと思われる。トンネルの先が南へ延びているが、この道を歩くと、このあたりがもっとも低地であることがわかる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
菅原健二「川の地図辞典 江戸・東京/23区編」(之潮)

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大坂

2013年02月17日 | 坂道

大坂上 大坂上 新道中腹 新道中腹 前回の道玄坂上から西へ進み、旧山手通りを横断し、国道246号線(厚木街道)の北側の歩道を歩くが、緩やかな下り坂となる。ここが大坂(新道)である。

一枚目の写真のように、やがて斜め右に分かれる道が見えてくる。この下り坂が246号線にできた新道であるのに対し、分かれた道が大坂の旧道である(現代地図)。二枚目は、分かれ道に近づいてから撮ったもので、ちょうど境目のところに大坂の標柱が立っている。

三枚目は、歩道をさらに下って、そのまま西の坂下側を撮ったものである。やがて大坂橋に近づくが、そこからふり返って坂上側を撮ったのが四枚目の写真である。上に見える高架は首都高速3号渋谷線で、西へ用賀まで延びて、そのまま東名高速につながる。

ここからちょっと離れているが、環状8号線を北の方から来て左折し用賀入口で渋谷線に入ったが渋滞になったのでタクシーから降りて非常階段で下へ降りたのが三軒茶屋のあたりで実は異界(空に月が二つ見える世界)、というのが村上春樹『1Q84』の長い物語のはじまりであることを思い出した。

大坂下 大坂下 大坂下 大坂下 大坂橋の上から下を通る山手通りが見えるが、そのたもとに階段がある。これで下り、ほんのちょっと歩くと大坂の坂下で、そこを右折すると上りになるが、左折し山手通り近くの坂下から坂上側を撮ったのが一枚目の写真である。

二枚目はちょっと進み坂上側を撮ったものである。このあたりはまだ緩やかで、その先でちょっと右に曲がっている。三枚目はその先の曲がりのところから坂上を撮ったもので、しだいに勾配がついてくる。四枚目はそのあたりから坂下を撮ったもので、その先は山手通りである。

上記の標柱に次の説明がある。

「大坂 厚木街道(江戸から厚木まで)の間にあった四十八坂のうち、急坂で一番大きな坂であったので、大坂と呼ぶようになったといわれる。この坂標識の北側の坂が旧道で、南側の坂が新道である。」

大坂中腹 大坂中腹 大坂中腹 大坂中腹 この坂は、中腹でかなり勾配がついてくる。一、二枚目の写真は中腹から坂上を撮ったもので、坂上側でふたたび右にちょっと曲がっている。三枚目は坂下を撮ったもので、かなり急である。四枚目はそのちょっと上から坂上を撮ったものである。

目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」という楽しい小冊子がある。目黒区内の各坂の全長、高低差、平均斜度のデータが載っているが、ここは、160m、10m、5.48。斜度は平均であるから中腹の急なところはこれ以上と思われる。

道玄物見松というのが江戸名所図会に紹介されていることを道玄坂の記事で触れた。「道玄坂を登りて七町あまり西の方、同じ街道大坂と云ふより此方、右側にありしが、明和の頃枯れたりしかば伐りたりと云ふ。」とあるように、道玄坂上の西、大坂の手前にあった。

大坂上 大坂上 大坂上 大坂上 一枚目の写真のように、坂上近くでかなりなだらかになり、やがて三枚目のように先ほどの246号線の歩道が見えてくる。二枚目は坂下を撮ったものだが、このあたりからもかなり急に見える。四枚目は標柱から坂上を撮ったもので、ここではほぼ平坦である。坂上のちょっと先(西)から右に入るとナザレン目黒キリスト教会がある。

昭和16年(1941)の目黒区の地図を見ると、厚木街道に玉川電車が通り、坂上の交差点(現在の旧山手通りとの)からちょっと下(西)に、大坂上の停車場があった。そのさらに下に厚木街道から分かれた大坂(旧道)が見え、緩やかにカーブし弧を描くようにして下っている。坂下は変則的な五差路で、そこから西へ上る道があり、厚木街道に合流している。現在の山手通りはまだないが、その予定線が上記の五差路のあたりを通っている。新道と旧道との間に中将湯製業所という工場(津村順天堂)があったが、現在は大きなビルが建っている。坂下のすぐ北に大教寺という寺があるが、いまもある。現在、坂下を山手通りの手前で右折すると、小径があり、すぐに山手通りの歩道に出るが、この小径が上記の五差路近くの道の一部かもしれない。

昭和31年(1956)の東京23区の地図を見ると、上記とほぼ同様である。

大坂下 新大坂から下 一枚目の写真は、この後、山手通りの反対側歩道から坂下方面を撮ったもので、左側に進むとこの坂の上りとなる。

横関に、この坂の新道と旧道との分岐点付近の写真がのっているが、246号線には高架も高いビルもないため、西の方は広々としていて、現在とまったく違った風景が写っている。

横関は、坂のふもと近くに昔のままの帝釈天、庚申塚があり、この前から坂は左に折れて、氷川神社の高台下に向かって上って行き、新道路の大坂に合体している、と記述している。

上記の昭和16年地図を見ると、変則五差路から斜め左へ進んでから厚木街道と平行にまっすぐに西へ延びる小径があるが、ここが氷川神社の高台下に向かって上る道と思われる。この現代地図から古地図の昭和22年と昭和38年の航空写真を見るとよくわかる。

二枚目は、大坂橋のたもとから下を撮ったもので、山手通りから西へ上る道が見える。この上で246号線につながっている。三車線の広い道で、山手通りも広く、上記の昔の小径を吸収して昔の道との関連性がわかり難くなっているが、246号線につながる道は昔の道と同じ方向にできている。ビルの間に見える森が氷川神社であろう。

この坂は、厚木街道側は大きな通りで、平凡すぎておもしろみがないが、旧道は裏道となっていて、適度にカーブし、しかもかなりの勾配があるため、なかなか味のあるよい坂となっている。

目黒区HPの大坂の説明にある地図には、旧道の坂下は直進方向の山手通りの方でなく、左に丸く曲がる道が示されている。この道を進めば、上記のように階段に至り、それを上れば新道である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)

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道玄坂

2013年02月12日 | 坂道

今回は、渋谷の道玄坂から出発し、その先の目黒区の大坂から中目黒の別所坂までその間にある坂を巡りながら歩いた。主に目黒川の東北側にある坂である。

道玄坂下 道玄坂下 道玄坂下 東都青山絵図(安政四年(1857)) 午後渋谷駅下車。

地下街の4番出口から出ると、道玄坂の坂下で、ここを横断し、北側の歩道を歩く(現代地図)。渋谷の繁華街で多くの人が行き交っている。

一枚目の写真は坂下から坂上側を撮ったもので、このあたりはまだかなり緩やかである。二枚目はふり返って坂下の交差点方面を撮ったもので、ここを直進すると、山手線のガードをくぐって宮益坂の坂下で、その坂上の先からむかしの大山街道がはじまっていた。

坂下のちょっと先に坂の標柱が立っていて(三枚目の写真)、次の説明がある。

「江戸時代の道玄坂は、大山街道の一部として多くの人が往来していました。当時の道玄坂は、現在の道玄坂から世田谷街道に入り松見坂までも広く呼んだものでした。江戸中期頃より道玄坂とは専ら今の坂を指すようになったのです。」

四枚目の尾張屋板江戸切絵図 東都青山絵図(安政四年(1857))の部分図を見ると、左端に道玄坂があり、坂下に渋谷川が流れ、ここにかかっている橋が富士見橋である。坂と橋から右(東)へ続く道に宮益町とあるが、この道が富士見坂(宮益坂)で、大山街道である。近江屋板も同様であるが、坂名も坂マークもない。

道玄坂中腹 道玄坂中腹 道玄坂中腹 江戸名所図会 坂下から中腹にかけて、一枚目の写真のように、少しずつ勾配がついてきて、その先で、左に緩やかにカーブしている。二枚目はそのちょっと上のカーブの所で撮ったもので、三枚目は、カーブの上から坂下側を撮ったものである。

宮益坂はまっすぐに上下しているのに比べ、この坂は中腹の緩やかなカーブが特徴的で、同じように商店街が続くが、かなり印象が違い、こちらの方が坂上へとずっと続く感じがしてくる。

四枚目は、『江戸名所図会』の富士見坂一本松の挿絵で、その左半分の上側である。左側にふし三坂とあり、これが富士見坂(宮益坂)で、坂をたくさんの人が行き来し、両側に家々が連なり、その坂下に富士見橋がある。右側が道玄坂で、山の上で畑を耕している人が描かれているが、坂道が見えない。現在の賑やかな坂から想像できないほどのんびりした田園風景が広がっている。富士見橋は現在の駅北口前からガード下のあたりと思われる。このあたりはすり鉢の底とよくいわれるが、この挿絵を見ると、二つの坂の坂下で川の流れる低地であった。

この坂について本文に次のように記されている。

「道玄坂 富士見坂の下、耕地を隔てゝ向うの方、西へ上る坂をいふ。(この坂を登りて三丁程行けば岐路(わかれみち)あり。直路は大山道にして、三軒茶屋より登戸の渡、また二子の渡へ通ず。右へ行けば駒場野の御用屋敷の前通り、北沢淡島への道なり。)世田ヶ谷へ行く道なり。(道玄、或は道元に作る。)里諺に云ふ、大和田氏道玄は和田義盛が一族なり。建暦三年[1213]五月和田の一族滅亡す。その残党この所の窟中に隠れ住みて山賊を業とす。故に道玄坂といふとなり。・・・或人云ふ、道玄は沙門にして、この地に昔一宇の寺院ありて道玄寺と称したり。故に坂の名に呼び来れるともいひて、一ならず。」

『御府内備考』の澁谷之一の総説に次の説明がある。

「道玄坂 道玄坂町続き広尾町飛地にあり。江戸砂子云、道玄は大和田氏なり、和田義盛の一族なりしが、建暦三年五月叛逆の事ありて、和田の一族ほろびたり、その残党この所の岩窟にこもり、山賊をなしぬ、たとへば熊坂長範が類ひなりしと、坂の上近き処に道玄物見松といふものあり。」

御府内備考にある道玄物見松について江戸名所図会に「道玄坂を登りて七町あまり西の方、同じ街道大坂と云ふより此方、右側にありしが、明和の頃枯れたりしかば伐りたりと云ふ。(・・・)俚諺に云ふ、道玄この松樹に登り、往来の人を見下し、小賊に命じて衣服・物の具を奪ひ採らしめたりとなり。」とある。

渋谷区HPの地名の由来には次の説明がある。

「道玄坂(どうげんざか)
 江戸時代に作られた地誌類によると、和田義盛の残党、大和田太郎道玄が、大永4年[1524]渋谷氏滅亡後にこの坂に出没して、山賊野党の振る舞いをしたと伝えられています。
 また、『天正日記』によると、道玄庵という寺の庵主が徳川家康に由緒書を出していることから、その寺の名をとってこの名がつけられたとのことです。」

この渋谷区HPの和田義盛の残党云々は、上記の江戸名所図会や御府内備考(江戸砂子)によるものであろう。坂名は、その大和田氏道玄に由来する、この坂にあったとする道玄寺に由来するの二つの説がある。

横関は、江戸名所図会にある大和田氏道玄などの和田一族の残党がここの岩窟に隠れて山賊をしていたという説を採らず、道玄は行者で岩窟で修行をしていた修験者で、行者、行人であり、その庵室を道玄庵と呼び、それから道玄坂となったと推測している。『江戸町づくし』にある、富士見坂(宮益坂)を行人坂という坂の前とする説明から、行人坂というのは道玄坂であるとしている。この別名から上記のように推測したと思われる。

道玄坂上 道玄坂上 道玄坂上 道玄坂上 この坂はかなり長く、カーブのかなり上の方でようやくなだらかになる。一~四枚目の写真は坂上で撮ったものであるが、坂上になると、しだいに通行人が少なくなって、坂下とは雰囲気がかなり違ってくる。

この坂には遅くとも江戸時代後半までに道玄坂町ができていた。御府内備考にこの町の書上はあるものの、ここが西端のようで、ここから西側の町屋の書上はない。上記の江戸名所図会の挿絵には道玄坂に家が描かれているが、これがこの町であろう。また、尾張屋板江戸切絵図もこのあたりが西端で、ここから西は描かれていない。

永井荷風はたまにであるが、このあたりにも出没していた。

「断腸亭日乗」大正12年(1923)9月26日に「九月廿六日。・・・此日快晴日色夏の如し。午後食料品を購はむとて澀谷道玄阪を歩み、其の辺の待合に憩ひて一酌す。既望の月昼の如し。地震昼夜にわたりて四五回あり。」とある(全文→この記事)。この坂がいつごろからいまのように賑やかになったのか、ちょっとわからないが、このときすでに商店や飲み屋や待合があった。

同年11月23日に次の記述があり、夜市が出るほど賑わっていた。

「十一月廿三日。夜お栄と澁谷道玄坂の夜市を見る。電車にて偶然大伍子に逢ふ。大伍子築地の居邸に蓄へたりし書巻尽く烏有となせし由。今は玉川双子の別業に在りといふ。」

大正13年(1924)11月6日に次の記述がある。

「十一月六日。微隂。近郊の黄葉を見むとて午後玉川電車にて世田ヶ谷に下車し、道の行くがまゝに阪を下り、細流を渡り、野径を歩みて陸軍獣医学校の裏手に出でたり。生田葵山君の居遠からざるを思起し、道を問ふて遂に尋到ることを得たり。路傍に風呂屋あり。その側より小径に入り行くこと二三十歩。檜の生垣を囲らしたる二階づくりなり。門前に花壇あり。薔薇コスモスの花咲乱れ、屋後には一叢の竹林あり。蒼翠愛すべく、幽禽頻に鳴く。日暮相携へて道玄阪に至り、鳥屋に上りて飲む。帰途百軒店と称する新開町を歩む。博覧会場内の売店を見るが如し。支那雑貨を鬻[ひさ]ぐ店あり。水筆四五管を購ふ。」

荷風は、この日、玉川電車で世田谷に出かけ、このあたりを散策し、坂を下り、小川を渡り、野道を巡って、陸軍獣医学校の裏手にでた。陸軍獣医学校は、東京府荏原郡世田ヶ谷村代田にあった。現在の世田谷区代沢一丁目の富士中のあたりとのこと(「Oka Laboratory 忘備録」)。

生田葵山の住居を訪ねたが、檜の生垣で囲んだ二階建てで、門前の花壇には薔薇コスモスの花が咲乱れ、家の後ろに竹林がある。樹木のあおあおしさが好ましく、幽鳥がしきりに鳴く、というように描いているが、当時、このあたりは郊外で、のどかな田園風景が広がっていた。その後、葵山と一緒に日暮れに道玄阪に行って鳥屋で飲んだ。 その帰り、百軒店(ひゃっけんだな)という新開町を歩いたとあるが、ここは、いまも道玄坂中腹北側に百軒店商店街として残っている(道玄坂二丁目)。

その商店街のHPによれば、大正12年(1923)の関東大震災直後、復興にともなう渋谷開発計画によって作られた街で、下町の復興とともに当初の有名店は去ったが、その跡地には飲食店や映画館、カフェーなどが次々と入り、百軒店は渋谷における娯楽の中心として新たな賑わいを見せたという。「渋谷の賑わいの原型ともいえる街」となかなか上手いことを云っている。

この坂が丸谷才一の小説『笹まくら』にでてくる。主人公は友人と二人で渋谷に映画を見にゆくことにし、「新しい紺の背広を着た二人の青年は、「米を大切にしませう」とか「家ごとに神様をまつりませう」とか大きく書いた立看板が立ててある道玄坂を歩」いた。戦争中のことであるが、その立看板の文句が当時の世相をよくあらわしている。この頃もこの坂は繁華街であった。

道玄坂上から下る道 神泉駅への道 神泉駅付近街角案内地図 坂上を直進すれば、やがて国道246号線と合流し、大坂の方に至るが、坂上を右折すれば、神泉駅の方と気がついたので、そちらに向かう。 昨年、いわゆる東電OL殺人事件で有罪が確定していたネパール国籍のゴビンダ・マイナリ氏の再審が開始され、11月に無罪判決が出て確定し、ようやく冤罪が晴らされたことを思い出したからである。以前もそのあたりを訪れたことがあった。

『うねうねと道玄坂を登っていくと、頂上近くに「荒木山」という小高い丘があらわれた。いまの円山町のあたりである。この荒木山の背後は急な坂道になっていて、深い谷の底に続いていく。そこに「神泉」という泉がわいていた。』(中沢新一「アースダイバー」)

一枚目の写真はその途中で撮ったもので、緩やかにカーブしながらずっと下り坂となっている。先月中旬の大雪の後であったので雪がちょっと残っている。二枚目は、北側から神泉駅方面を撮ったもので、中沢が云う荒木山(円山町)の背後の深い谷底にできた道である。三枚目は踏切を渡ったところに立っている街角案内地図で、これにあるように階段が谷から円山町に抜ける近道である。

道玄坂地蔵尊 神泉駅踏切近くの坂 246号線への階段 神泉谷から上の荒木山(円山町)には小路が入り込んでいるが、その一角に道玄坂地蔵尊が祀られている。このあたりに上記の事件の被害者は夜な夜な出没していたという。一枚目の写真は、以前訪れたとき(2010.9)に撮ったものである。

上記の案内地図のところから左へ曲がると、かなり勾配のある上り坂になっている。二枚目はこの坂下から撮ったものである。坂上で先ほどの道を横切ると、三枚目のような階段が上っている。ここを上り、何回か曲がって小路を通り抜けると、道玄坂上と国道246号線との合流地点の近くに出る。神泉谷からここまで急な坂と階段を上ることから、かなりの高低差があることがわかる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「御府内備考 第三巻」(雄山閣)
丸谷才一「笹まくら」(新潮文庫)
中沢新一「アースダイバー」(講談社)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

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善福寺川(尾崎橋~宮下橋)2013(2月)

2013年02月11日 | 写真
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