東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

川沿い散歩 夏(2024)

2024年08月31日 | 散策

猛暑がようやくちょっとであるが和らいだ午後遅くいつもの善福寺川散歩へ。
善福寺川夏(2024) 善福寺川夏(2024) 善福寺川夏(2024) 「放水路」小名木川 善福寺川夏(2024)

 

 

 

暑さ尋常ならずといった毎日が続いているため、散歩は、日が暮れてからにしている。じりじりした暑さを感じない分、歩きやすい。それでも、この日、わずかな暑さの隙(すき)を見つけ、陽がまだ残っているが出てきた。

いつもの川沿いの小径を上流側に向かう。樹木からの蝉の鳴き声がいつものごとく騒がしいが夏気分。陽がだいぶ傾いてきたので、歩く方向によってはちょっとまぶしい。

川はいつものように穏やかに流れているが、これが、最近のように、大雨が降ると、いっきょに川に流れ込むためか増水し、その雰囲気が激変する。雨がかなり強く降るとき、気象レーダーによる降水量と川のライブ画像や水位情報をネットで見ることがある。どんどん増水し水位が急激に高くなるが、雨雲が移動するためか、警戒水位に達する前に、しだいに弱くなって、降水量が減少し水位も漸次低下する。しかし、雨雲が停滞したり次々と移ってくるようになると、このパターンから外れることがありそうで要注意。

善福寺川夏(2024) 善福寺川夏(2024) 善福寺川夏(2024) 善福寺川夏(2024) 善福寺川夏(2024)

 

 

 

 

やがて環八道路が見えてくる。いつもはここから引き返すのであるが、今回は、さらに上流へ向かうことにする。

歩道橋で環八を越えて進む。どこまで行こうかと考えると、そんなに遠くまでは行けない、以前のようにさらに行ってみよう、などと二律背反的心情に陥ってしまう。中央線の高架下までなどと妥協する。

それでも、中央線の電車が通り過ぎるのを見ると、後の心情が勝り、さらに上流に行くことにする。

川の縁のフェンスと住宅の間の狭い小径であるが、歩きやすく、よい散歩道になっている。しばらく歩くと、進行方向に陽がかなり落ち、いっそうまぶしくなるので、対岸に移ったりして調整する。

この辺は、たまに来るだけで、頻繁ではないので、少々目新しく、しかも猛暑の夏の日暮れ前といった経験のない時間でちょっと新鮮な気分。

橋のたもとを何回か通過すると、関根橋に至る。今日はここまでにする。ここを左折しちょっと歩くと西荻窪駅。帰りは楽な気分で。

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伊藤匠七段藤井八冠から叡王奪取

2024年06月21日 | 将棋

伊藤匠七段が第9期叡王戦五番勝負第5局で藤井聡太叡王に勝ち、3勝2敗で将棋タイトルの叡王を奪取し、初タイトルを獲得した(2024年6月20日)。藤井は、タイトル戦で初めて敗退し、八冠から七冠(竜王・名人・王位・王座・棋王・王将・棋聖)に後退した。

今回の叡王戦の五番勝負の結果・戦型は次のとおりで、角換わりシリーズであった。

 第1局 藤井先手○ 角換わり相腰掛け銀
 第2局 伊藤先手○ 角換わり後手3三金型
 第3局 伊藤後手○ 角換わり相腰掛け銀
 第4局 藤井先手○ 角換わり相腰掛け銀
 第5局 伊藤後手○ 角換わり先手腰掛け銀

伊藤は、藤井に11連敗(+1持将棋)し無勝利だったが、第2局で勝ち、藤井に初勝利した。これが自信につながったのか、後手番の第3局を終盤で逆転勝ちし、藤井をカド番に追い込んだ。第4局は先手であったが、穴熊を藤井に上手く攻略され、2勝2敗のタイになった。

第5局の最終局は、先手藤井の積極的な攻めで、銀のただ捨てから空いた6五に桂を打ち、二枚の桂で後手玉に迫り、飛車を切って寄せに出て、おまけに持ち時間も藤井が1時間以上多く残し藤井優勢のように見えたが、後手伊藤に5三銀、5二銀の受けの妙手が出て混戦になった。この手は、ABEMA解説棋士や終局後の藤井も好手と認めていた。その後、藤井が7一の飛車を7六龍と引き守りに利かせ、攻守が入れ替わったが、結局、藤井の最後の攻めが一枚足りず、藤井の投了となった。

この第5局の感想戦で、終盤▲8一馬と飛車を取った後の△7六歩に対し、▲3四金、△4二玉、▲4三歩、△4一玉の変化について深浦九段から意見が出たが、藤井は自信がないとのことだった。この変化は将棋AIも示し、その後▲6六銀とかわした後も同じ手順を示していた。藤井は、▲6六銀の思想がおかしかったと悔やんでいたとのことだったので、その変化にしていたらどうなったのだろうか。ちょっと印象に残った。

今回の叡王戦は、挑戦者伊藤が藤井八冠をタイトル戦で初めてカド番に追い込み、これだけで特筆すべきタイトル戦になったと思っていたが、伊藤の初タイトル獲得・藤井の八冠独占崩壊という将棋界のビッグニュースになった。

藤井のこれまでのタイトル戦での対局相手は、同年代の伊藤(両者ともに2002年生まれ)が過去2回挑戦者となっただけで、それ以外は自身よりも年上であった。藤井は、同年代の伊藤を三度挑戦者に迎え、持ち時間が比較的短く勝手が違ったのだろうか、得意の終盤でミスが出たりしたが、伊藤もかなり終盤が強く、ミスが少ないことがわかった。これからの将棋タイトル戦は、この二人が軸になりそうな予感がするが、はたしてどうなるのか、楽しみである。

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紫陽花 5月(2024)

2024年05月31日 | 写真

紫陽花 5月(2024) 紫陽花 5月(2024) 紫陽花 5月(2024) 紫陽花 5月(2024) 紫陽花 5月(2024) 紫陽花 5月(2024) 紫陽花 5月(2024) 紫陽花 5月(2024) 紫陽花 5月(2024) 紫陽花 5月(2024)

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左内坂(杉並)の坂名の由来

2024年04月06日 | 坂道

かなり前に「左内坂(杉並)」の記事で杉並区堀ノ内三丁目8番地と13番地との間にある小坂(現代地図)を紹介した。左はその坂の中腹付近の写真(2013年4月撮影)で、坂上に向かって左に左内坂教会がある。そのHPによると、創立は1932年(昭和7年)7月11日である。
左内坂(杉並)中腹

この坂名の由来について市ヶ谷にある同名の坂と同じように名主のような人名かもしれないのようにその記事に書いた。最近、これについて次のコメントがあった。

『左内坂教会は市ヶ谷の左内坂にあった左内坂教会が堀ノ内に移転してきたのです。左内坂教会・左内坂幼稚園の前の坂がその内いつしか左内坂と呼ばれるようになったようです。』

このコメントについて大いに興味を覚えたが、いろいろと忙しいことがあって、年をとると2つ以上のことを並行して行うことも難しいせいもあり、おまけにちょっと時間ができて戦前の牛込区市ヶ谷の地図から調べたら、左内坂教会が示された地図を発見できず、ようやく文献に市ヶ谷の左内坂教会の記載を見つけ、次のことがわかった。

昭和5年(1930)牛込区市谷左内町付近地図 市ヶ谷の左内坂にかつて左内坂教会が存在した。創立は明治7年(1874)7月11日、住所は市谷左内町二九。

左は、昭和5年(1930)の牛込区市谷左内町付近の地図で、外堀通りの「市谷見附」駅の右すぐ左折する道筋が北へ延びているが、これが左内坂で外堀通りから上る。坂上辺りに市谷左内町「29」番地が見えるが、左内坂教会は示されていない。

創立が明治7年(1874)7月11日とかなり古い。明治政府は、当初、徳川幕府のキリシタン禁制を踏襲したが、米国などからの外圧や条約改正等のためこれを断念し、明治6年(1873)2月19日キリシタン禁制の高札を撤去した。その翌年に設立されているので、日本のキリスト教会の草分け的な存在といってもよさそうである。しかし、左内坂教会についてのさらなる文献は見つけることができず、左内坂教会が市谷左内町から杉並堀ノ内に移転した経緯や理由は不明である。

一つ注目されるのは、新旧の左内坂教会の創立日が同じ(7月11日)であることで、これは偶然の一致ではなく杉並の現教会の創立を元の教会の創立日にあわせたためのように感じられ、この創立日一致が、移転の事実を裏付ける証左のように思われる。

市ヶ谷の左内坂の坂上にあった左内坂教会が戦前杉並の現在地に移転し、その教会名を引き継ぎ、そこにたまたま坂(本家本元の左内坂よりもかなりの小坂)があったため、その坂が左内坂とよばれるようになったというのが、左内坂(杉並)の坂名の由来のようである。

そうだとすると、大変おもしろい坂名の付き方である。坂にある施設の名称がその坂名で、その施設が移転し、移転先でもその坂名の施設名を使用したが、そこに坂があったため、その坂にその施設の坂名がついてしまった、ということで、他の同じ例がすぐに浮かばない。この点でユニークな坂ともいえそうである。

なお、上記地図の同番地に東京学院があるが、東京学院は、アメリカ北部バプテスト(キリスト教プロテスタントの一教派)が1895年(明治28年)9月10日に築地居留地に設立した男子校で、1899年(明治32年)9月14日に東京学院と名称変更し、同年10月28日に牛込区市谷左内坂町29番地に移転した。関東学院の源流の一つ(wikipedia)。東京学院と左内坂教会との関係は不明。市谷左内坂町は、明治期までの町名で、明治44年に消滅し、市谷左内町となった。

ところで、日本キリスト教団所属の都内の教会の中で坂名が付いた教会として、左内坂教会以外に、十貫坂教会、鳥居坂教会、麻布南部坂教会、霊南坂教会、行人坂教会、柿ノ木坂教会、上富坂教会などがある。

参考文献
「新宿区史」昭和30年3月 新宿区役所
「地図で見る新宿区の移り変わり 牛込編」1982年 東京都新宿区教育委員会
海老沢有道・大内三郎「日本キリスト教史」(日本基督教団出版局)
本間信治「江戸東京地名辞典」(新人物往来社)
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)

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善福寺川 桜(2024)

2024年04月03日 | 写真

善福寺川 桜(2024) 善福寺川 桜(2024) 善福寺川 桜(2024) 善福寺川 桜(2024) 善福寺川 桜(2024) 善福寺川 桜(2024) 善福寺川 桜(2024) 善福寺川 桜(2024) 善福寺川 桜(2024) 善福寺川 桜(2024)

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カワヅザクラ(2024)

2024年03月11日 | 写真

カワヅザクラ(2024) カワヅザクラ(2024) カワヅザクラ(2024) カワヅザクラ(2024) カワヅザクラ(2024) カワヅザクラ(2024) カワヅザクラ(2024) カワヅザクラ(2024) カワヅザクラ(2024) カワヅザクラ(2024)

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梅(2024)

2024年02月29日 | 写真

梅(2024) 梅(2024) 梅(2024) 梅(2024) 梅(2024) 梅(2024) 梅(2024) 梅(2024)

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三鷹駅跨線橋(2023)-太宰治 最後の聖地-

2023年12月28日 | 文学散歩

三鷹駅の西にある中央線などの線路を跨ぐように南北方向にかけられた跨線橋が解体・撤去されることになった(ここここここの記事)。

昭和4年(1929)に建てられ、90年以上経ち、老朽化したためという。2023年12月から工事が始まるとあるが、12月中旬でまだで、本格的には来年(2024)からであろう。通行はすでに制限されているが、まだ現存し、地上から眺めることができる。

ここは、太宰治の最後のといってよい聖地である。

そう思って、この跨線橋には三鷹に太宰散策に来たときに何回か訪れ、橋の上からの眺望を楽しんだ。高さ5m程度で、現在、それよりもずっと高い建物がたくさんあるが、太宰が生きた当時は、そんな建物は近隣になくひときわ目立ち眺望がよかったであろう。

この跨線橋はこれまで太宰関連の次の記事にした。
太宰治と三鷹(続き)
禅林寺(太宰治の墓)~三鷹駅西の跨線橋
桜桃忌(2016)
三鷹駅跨線橋 跨線橋案内パネル 三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋






左から1,3~5枚目の写真は、この跨線橋を10月に撮ったもので、以下も同様。

三鷹駅南口を出て右折し、階段を下り、そのまま線路沿いに西へちょっと歩くと、跨線橋の階段が見えてくる(1枚目)。2枚目は、以前、この階段下付近に立っていた三鷹市による太宰案内パネルで、この跨線橋の南・東側の階段を下る太宰の写真が掲示されているが、1枚目の写真は同じ辺りを撮ったもの。

この跨線橋は、太宰関連でいうと、上記の写真などで有名となったものと思われる。

太宰関連でなくとも、100年近くの歴史があるので、むかしから住んでいる人には懐かしいスポットとなっているのであろう。

ところで、太宰が三鷹に住むようになった経緯を知りたいと思い、ちょっと調べたら次のようなことであった。それは太宰の結婚と関係し、その結婚には井伏鱒二が深く関わっていた。
三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋




太宰治は、昭和14年(1939)1月8日杉並区清水町の井伏鱒二宅で井伏夫妻の媒妁により石原美知子と結婚式を挙げた。山田貞一、宇多子夫妻(石原家名代)、斎藤文二郎夫人、中畑慶吉(津島家名代/津島家に出入りする呉服商)、北芳四郎(津島家に出入りする洋服仕立業)などが出席した。

前年7月中旬、中畑慶吉、北芳四郎が太宰の結婚相手の世話を井伏鱒二に依頼した。その頃、井伏の中学同期で仲のよかった高田類三の弟高田栄之介が東京日日新聞の記者で井伏宅に出入りしていたが、甲府支局勤務時に知り合った斎藤須美子と婚約をしていた。井伏はその縁で知り合いになった斎藤文二郎夫人せいによい相手はいないか問い合わせをし、せいからその話を聞いた娘須美子は知り合いの甲府高等女学校二年後輩の石原愛子に、適齢の姉美知子がいると母せいに告げたことからこの結婚話が始まった。

9月13日太宰は、井伏が滞在していた山梨県南都留郡河口村御坂峠の天下茶屋に行き、以後60日ほど、この茶屋の二階に滞在した。同月18日の日曜日午後、井伏の付き添い、斎藤せいの案内で、甲府駅の北5分位の所にあった石原家を訪問し、石原美知子と見合いをした。太宰はただちに結婚を決意した。美知子は、昭和4年(1929)3月甲府高等女学校を卒業し、同年東京女子高等師範学校文科に進学し、昭和8年(1933)卒業し、同年都留高等女学校の教諭となっていた。

10月中旬石原美知子が天下茶屋を訪れた。10月24日太宰は、井伏宛に、二度と破婚はしない旨を記した誓約書を送った。11月6日石原家で、井伏鱒二、斎藤文二郎、せいの立ち会いで、美知子の叔母2人を招き、婚約披露の宴が催された。11月16日御坂峠を降りて、石原家と斎藤家との中間辺りの、甲府市西堅町93番地の素人下宿寿館に止宿した。こののち、太宰は、歩いて10分位の石原家に毎日のように行き、手料理を肴に銚子3本ほど空けて帰った。12月24日石原美知子は県立都留高等女学校を退職した。12月25日斎藤せいが石原家に結納金20円を納めた。太宰は、明けて、昭和14年(1939)1月6日甲府市御崎町56番地の借家に移転した。

1月の結婚式後、甲府市の借家に居住していたが、5月上旬、東京近郊への転居を計画した。6月2日美知子とともに貸家を捜すために上京し、国分寺、三鷹、吉祥寺、西荻窪、荻窪と捜し歩いたが、手頃な家が見つからなかった。吉祥寺の三鷹よりの麦畑に六軒の新築中の家があったが、家賃が高かったので、家主に交渉したところ、6月末に近くにもう少し安い家賃の家を三軒たてる話を家主から聞き、それに期待して、その頃再訪しようと思い、甲府に帰った。7月15日上京し、三鷹に新築中の三軒の貸家のうちもっとも奥の家を契約した。家賃は24円/月。

9月1日甲府から、東京府北多摩郡三鷹村下連雀113番地の借家に移った。

以降、昭和20年(1945)の4~8月頃の甲府や青森の生家への疎開の時期を除いて、昭和23年(1948)6月に亡くなるまで三鷹に住んだ。(以上、山内祥史「太宰治の年譜」を参考にした。)

甲府から上京し、国分寺~荻窪の辺りをさがし、結局、三鷹の新築の貸家に落ち着いた。御坂峠の天下茶屋に行く前には昭和12年(1937)6月20日から杉並区天沼一丁目213番地鎌滝富方の貸部屋にいて、それ以前の昭和8年(1933)2月から荻窪周辺に住んでいたので(ただし、昭和10年4月~11年11月入院や船橋に転居)、この辺りには土地勘があり、井伏宅も近く、その貸家しかなかったようではあるが、妥当な選択だったように思える。
三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋 田村茂「素顔の文士たち」表紙




この跨線橋を背景にした太宰治の写真が5枚残されている。それらの5枚は、写真家田村茂(1906~1987)が昭和23年(1948)2月23日三鷹で太宰を撮影した27枚の一部で、そのうちの1枚が上述の階段を下る写真で、もう1枚が左から5枚目の田村茂の写真集「素顔の文士たち」表紙にある、橋の上で眺めている写真である。これらの2枚を含めた27枚は、同写真集に掲載されており、はなはだ興味深い写真である。

田村茂は戦後の一時期、東京都三鷹市に住んでおり、同じ三鷹に居住の太宰とは一緒によく飲みに行く間柄であったという(wikipedia)。

上記の27枚の撮影コースは、玉川上水(3枚)から始まり、跨線橋(5枚)、両者の行きつけであった飲み屋「千草」(5枚)、再び玉川上水(3枚)、三鷹駅近くの踏切前(3枚)、古書店(3枚)と続き、最後は山崎富栄の下宿先で、最晩年の太宰の仕事場であった部屋(5枚)となっている(wikipedia)。同写真集に掲載された順と同じで、最後の1枚が物思いにふけるドアップの有名な写真である。その死のわずか四ヶ月程前で、最後の写真であったかもしれない。

参考文献
山内祥史「太宰治の年譜」(大修館書店)
田村茂「素顔の文士たち」(河出書房新社)
「新潮日本文学アルバム 太宰治」(新潮社)

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善福寺川 紅葉(2023)

2023年12月12日 | 写真

善福寺川 紅葉(2023) 善福寺川 紅葉(2023) 善福寺川 紅葉(2023) 善福寺川 紅葉(2023) 善福寺川 紅葉(2023) 善福寺川 紅葉(2023) 善福寺川 紅葉(2023) 善福寺川 紅葉(2023) 善福寺川 紅葉(2023) 善福寺川 紅葉(2023)

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大田黒公園 紅葉(2023)

2023年12月09日 | 写真

大田黒公園 紅葉(2023) 大田黒公園 紅葉(2023) 大田黒公園 紅葉(2023) 大田黒公園 紅葉(2023) 大田黒公園 紅葉(2023) 大田黒公園 紅葉(2023) 大田黒公園 紅葉(2023) 大田黒公園 紅葉(2023) 大田黒公園 紅葉(2023) 大田黒公園 紅葉(2023)

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藤井聡太八冠達成(2023.10.11)

2023年10月11日 | 将棋
藤井聡太竜王・名人が第71期王座戦五番勝負第4局で永瀬拓矢王座に勝ち、3勝1敗で王座を奪取し、将棋の全てのタイトル(竜王・名人・王位・叡王・王座・棋王・王将・棋聖)を制覇した。弱冠21歳での八冠達成おそるべしである。

今回の王座戦の全局をネット観戦したが、永瀬が負けた第2局~第4局がとくに印象に残った。すべての対局で序盤・中盤を有利に進めたが、終盤に悪手が出て、負けにしてしまった。第2局は、飛車取りの金打ちではなく、4四馬で勝ちだった。第3局は、飛車の王手に飛車の合駒でなく、金底の歩打ちで勝ちだった。きょうの第4局は5三馬ではなく、4二金で勝ちだった。

すべて1分将棋の秒読みの中の出来事で、それまでの努力がすべてご破算になって、永瀬にとっては残酷な結果となった。内容的には永瀬がさきに3勝してタイトルを防衛してもおかしくないシリーズであった。

将棋は、最後に悪手を指した方が負けとか言われるが、それがあからさまにトッププロのタイトル戦で連続して出現したことに驚いた。それにしても藤井は、終盤の不利な局面で、相手のミスを決して見逃さない。藤井の高勝率は、終盤力によるところが大きいような気がする(中盤で有利になれば、そのまま勝ちきり、また、終盤で不利になっても粘っているうちに相手にミスが出て逆転する)。

永瀬ファンというわけではないが、藤井があまりにも強いので、観戦の気分上相手側をつい応援してしまう。これは、大山、中原、羽生のときも同じであった。

最近は、ソフトの形勢判断が表示されるので、へぼ将棋ファンでも、何かわかったつもりになるが、それでも指し手の優劣が一目でわかり楽しめる。以前は解説がないと、突然の大逆転でもわからないことも多く、そういった意味では、よい時代になったものである。
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大田黒公園 6月(2023)

2023年06月11日 | 写真

大田黒公園 6月(2023) 大田黒公園 6月(2023) 大田黒公園 6月(2023) 大田黒公園 6月(2023) 大田黒公園 6月(2023) 大田黒公園 6月(2023) 大田黒公園 6月(2023) 大田黒公園 6月(2023) 大田黒公園 6月(2023) 大田黒公園 6月(2023)

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紫陽花(2023)

2023年06月05日 | 写真

紫陽花(2023) 紫陽花(2023) 紫陽花(2023) 紫陽花(2023) 紫陽花(2023) 紫陽花(2023) 紫陽花(2023) 紫陽花(2023) 紫陽花(2023) 紫陽花(2023)

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鳥好きの柳田国男

2023年04月05日 | 読書

国男13歳 民俗学者で「遠野物語」などで有名な柳田国男(1875~1962)は、姫路からちょっと離れた田園地帯で生まれ、82歳のときに口述し後に出版された『故郷七十年』の「最初の文章」で次の幼き時代の思い出を語っている。

(写真は13歳の国男)

『私の幼い時書いたもので一つだけ奇抜な、文学的なものがある。姫路のお城の話で、父から聞いて非常に感動させられたものである。それをあのころ行われていた雅文体にして書いたもので、原本は見当らないが、こんな話であった。
 姫路のお城の中にある松の木に鶴が一番つがい巣を作っていた。よく見ると一羽の鶴が病気になってちっとも動かない。それは雌鶴らしく、もう一羽の雄鶴らしいのが度々巣を出て行っては帰り、帰りしていたが、そのうちいつの間にか、とうとう出て行ったきり帰って来なかった。「やっぱり鳥なんていうものは仕様がないものだ、いくら仲が好くても……」こんなことを人々はいっていたそうだ。ところが残ってねていた雌らしい方が木から落ちて死んでしまった。と、その後へもう一羽の鶴が帰って来た。そして巣に雌鶴がいないので大きな声で啼いたというのだ。そして口から何かを下の方へ、落してしまった。それを誰かが拾ってみたら朝鮮人蔘だったという、悲しい物語であった。
 何だかあまりよく出来すぎた話だけれども、非常に感激して歌を詠んだのをよく憶えている。十五歳の時の歌で、
   いく薬求めし甲斐もなかりけり常盤の島を往き来りつつ
というのであった。「いく薬」という言葉はよくあるが、つまり活く薬、すなわち良薬のことである。その歌が賞に入って、これはいい歌だなんていわれたのが嬉しかったので、物語も書いたものらしい。これがおそらく私のいちばん早い文章だったかと思う。
 あんな話は嘘だと思うが、私は姫路にいなかったにかかわらず、そういう話をたくさん聞いていた。鶴の話は父から聞いたように思う。』

柳田自身が言うようによく出来すぎた話で嘘かもしれないが、柳田少年(正確には松岡少年)が感動したこともまた事実である。こういった話に感応し、心が動く心性を持っていた。これが晩年までよく覚えていたゆえんであろう。

柳田は、『野草雑記・野鳥雑記 野草雑記』で次のように少年時代から鳥好きであることを自ら認めている。

『鳥は旧友川口孫治郎君の感化もあり、小学校にいた頃からもうよほど好きであった。十三歳の秋から下総の田舎にやって来て、虚弱なために二年ほどの間、目白や鶸[ひわ]を捕ったり飼ったりして暮した。百舌[もず]と闘ったこともよく覚えている。雪の中では南天の実を餌にして、鵯[ひよどり]をつかまえたことも何度かある。雲雀[ひばり]の巣の発見などは、それよりもずっと早く、恐らく自分が単独に為なし遂とげた最初の事業であって、今でもその日の胸の轟[とどろき]が記憶せられる。小鳥の嫌いな少年もあるまいが、私はその中でも出色であった。川口君の『飛騨の鳥』、『続飛騨の鳥』を出版して、それを外国に持って行って毎日読み、人にも読ませたのは寂しいためばかりではなかった。少なくとも私の鳥好きは持続している。』

子どもの頃からずっと鳥好きであったことがわかる。いろんな思い出の鳥を挙げているが、当時の子どもが鳥と遊んだ様子の記録となって興味深い。

鶴の話に感動した鳥好きの松岡少年は、その数十年後、次のような逸話を残している。

大正14年(1925)50歳
『7月5日 布佐に行き、両親の三十年祭を執り行う。このころ、我孫子に住む杉村楚人冠の「白馬城」と名づけた自宅を訪れ、森や池を散策し、池の金魚を狙うカワセミを嫌う楚人冠に対してカワセミを擁護する。』(柳田国男「年譜」)

カワセミカワセミ(翡翠、川蝉)は、生きた小魚やエビやザリガニなどを餌とするが、金魚も食べるようである。

川、池、沼などに出没し、チィ、チーと独特の鳴き声で鳴き、直線的にかなりのスピードで飛ぶ。水辺の手頃な枝や杭や石などに止まって水の中をよく見つめ、狙いを定めて水中に飛び込んで長いくちばしで捕獲する。捕えた小魚などを枝や石に叩きつけて弱めてから丸呑みをする。青色の背中や頭、橙色の胸や腹がよく目立つ、あでやかな色彩の小鳥である。

幼いころ鶴の話に感動した鳥好きの柳田の心性は、後年までしっかりと残っていたようで、このときは小鳥であったが、生きるのに必死なカワセミを擁護した。

柳田は、カワセミをめぐる楚人冠に対する意見を『野草雑記・野鳥雑記 野鳥雑記』の「翡翠の歎き」で詳述している。

杉村楚人冠(すぎむらそじんかん/1872~1945)は、新聞記者、随筆家、俳人。愛鳥者であるが巣箱主義であると、柳田はちょっと揶揄する調子で次のように書いている。

『彼の我孫子の村荘は園は森林の如く、晴れたる朝に先生斧を提げて下り立ち、数十本の無用の樹を斫[き]り倒すと、その中に往々にして自然の鳥の巣を見出すという実状なるにもかかわらず、更に邸内に総計十二箇の巣箱を配置し、その箱の板にはヘットなどを塗り附けて、いとも熱心に雀以上の羽客を歓迎しているのである。』

『カワセミという奴ばかりは、実際困るのだといっている。巣箱の大屋さんから、あの飄逸[ひょういつ]なる尻尾[しっぽ]のない鳥だけが、疎[うと]まれているのである。それはまたどうしてかと尋ねて見ると、池に飼ってある魚を狙って、始末にいけないという話であった。』

柳田は、次のようにカワセミを評価し、その由来を論じている。

『水豊かなる関東の丘の陰に居住する者の快楽の一つは、しばしばこの鳥の姿を見ることである。あの声あの飛び方の奇抜[きばつ]なるは別として、その羽毛の彩色に至っては、確かに等倫[とうりん]を絶している。これは疑う所もなく熱帯樹林の天然から、小さき一断片の飛散[とびち]ってここにあるものである。魚類ならばホノルルの水族館の如く、辛苦して硝子の水槽の中に養わざる限りは、常に西海の珊瑚暗礁[さんごあんしょう]の底深く隠れ、銛[もり]も刺網[さしあみ]もその力及ばず、到底東部日本の雪氷の地方まで、我々に追随し来る見込はないのだが、独[ひと]りカワセミだけは多分我々の先祖の移住に先だち、夙[つと]にこの島国に入り来って異郷の風物と同化し、殊[こと]にそのおかしな嘴[くちばし]と尻尾とを以て、遠くから存在を我々に知らしめ、これによって寂しい太陽の子孫たちを慰安し、永く南方常夏[とこなつ]の故郷を思念することを得せしめるのである。』

我々の先祖よりも先に熱帯地方からやって来たとし、それゆえ、寂しい太陽の子孫である我々を慰め、南方の故郷をおもわせるのだ、としている。

以下、延々とカワセミ擁護の論陣を張っている。

参考文献
「柳田国男全集 別巻1 年譜」筑摩書房
新潮日本文学アルバム 柳田国男
青空文庫

 

コメント (1)
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桃園川支流跡遡行

2023年03月30日 | 散策

桃園川支流緑道 前回(桃園川支流緑道(1)桃園川支流緑道(2))桃園川支流緑道を上流側に歩いてから引き返したが、中杉通りのちょっと先までであった(左の写真)。

そのあと、ちょっと春めいた晴れた日、中央線近くから前回の中杉通り近くまで桃園川支流跡を遡行し、さらに、もっと春めいた日に往復した。

以下の地図は、出典は前回と同じで、桃園川本流よりも北側の支流を示すが、松山通り付近から中央線付近までの範囲である。

昭和12年杉並区地図 昭和10年頃杉並区地図 昭和24年杉並区地図 1962年杉並区地図 桃園川緑道地図

 

 

 


(1)一枚目:昭和12年(1937)の杉並区地図

(2)二枚目:昭和10年(1935)頃の杉並区地図
(3)三枚目:昭和24年(1949)の杉並区地図
(4)四枚目:1962年(昭和37年)の杉並区地図
(5)五枚目:桃園川緑道脇に設置の緑道地図

地図(1)(2)では、桃園川本流の北側を流れる支流は、松山通り、その東に並行する現在の中杉通りを超えてほぼ東向きに流れてから、南東に向きを変えて本流よりも東側をしばらく流れ、中央線に斜めに近づいている。地図(4)もほぼ同じ。

地図(3)では支流が松山通りにとつぜんあらわれて東に流れているが、ちょっとすると、急に向きを南に変え、本流に接続している。この水路跡は、前回紹介した。

地図(5)で阿佐谷中央公園のすぐ東に水路があるが、これが地図(1)(2)(4)の支流で、今回歩いた支流跡である。

桃園川緑道旧西原橋付近 桃園川支流跡入口手前 桃園川支流跡(1) 桃園川支流跡(2) 桃園川支流跡(3)

 

 

 


今回の桃園川支流跡遡行の出発地点は、桃園川緑道の出発ゲートのちょっと下流の旧西原橋跡付近、亀の親子の置物のあるところ(現代地図)。ここから北側へ出発する(一枚目)。右手が杉並学院高校で、地図(1)に高等家政女学校、地図(2)に奥田裁縫女学校とあるところである。

中央線のガード下を通り抜けてすぐ左折し、道なりに歩き、大きく右に曲がると(二枚目)、左手に車止めのある小路が見えてくる(三枚目)。

ガード下を抜けてからここまでの道は、地図(4)(5)に示される道筋と合っているが、地図(1)も大きく曲がる道筋を示している。地図(1)(2)(4)の桃園川支流はこの辺で途切れているが、地図(5)のようにこの道に沿って流れていたようである。今回歩いたら幅広でちょっと違和感を感じたが、かつての水路の跡のせいかもなどと思った。

三枚目の小路に入り本格的に支流跡遡行が始まる。桃園川緑道と同程度の幅の道で緩やかにカーブしている。(以下、進行方向順に写真を並べる。)

一般道と交差し車止めのある交差点を通過しながら進む(四、五枚目)。

桃園川支流跡(4) 桃園川支流跡(5) 桃園川支流跡(6) 桃園川支流跡(7) 桃園川支流跡(8)

 

 

 


ちょっと歩くと、狭くなってから、前回の小路のように幅狭のコンクリート板を敷き詰めた小路があらわれる(一~四枚目)。暗渠化のため水路跡が塞がれて歩行可能となっている。

このあたりから、支流跡は、狭くなったり、急なカーブがあったりして変化に富み、曲がりのある隘路が続くと、都会の住宅街のラビリンスに迷い込んだようなちょっと不思議な感覚に陥る。

すると、突然、広めのところに出るが、一般道となっているようである(五枚目)。でも、すぐ向こうに車止めのある小路が見えてくる(下一枚目)。

桃園川支流跡(9) 桃園川支流跡(10) 桃園川支流跡(11) 桃園川支流跡(12) 桃園川支流跡(13)

 

 

 


小路を進むと、一般道の手前に車止めが見えてくるが(二枚目)、この右手が銭湯「玉の湯」である。一般道に出ると、右斜めさきに支流跡が続いている。

さらに進むと、見たことのない車止めが立っている(四、五枚目)。上部が細長くくり貫ぬかれた柱状のもので、くり貫かれたところの上が球状になっていて面白い形である。

狭いがほぼまっすぐな小路が続き、遮るものが少ないせいか明るい。

桃園川支流跡(14) 桃園川支流跡(15) 桃園川支流跡(16) 桃園川支流跡(17) 桃園川支流跡(18)

 

 

 


次の一般道のところにも先ほどの柱状の車止めが立っている(一枚目)。朝鮮初級学校の校庭を左に見て通りすぎると、左側に阿佐谷中央公園が見えてくるが、このあたりは緩やかなカーブである(二枚目)。

公園北側(三枚目)から出て、次の小路は狭くなってちょっと曲がっている(四枚目)。その先は、例の幅狭のコンクリート板を敷き詰めた小路である(五枚目)。

桃園川支流跡(19) 桃園川支流跡(20) 桃園川支流跡(21) 桃園川支流跡(22) 桃園川支流跡(23)

 

 

 


暗渠化された小路(上五枚目)を出ると、一般道であるが、変則的なT字路で、交差部がちょっと幅広である(現代地図)。

小路を右折し、すぐ左折する一般道を西へ進めば、目的地の中杉通り手前の車止めのある小路に至る。最初はこの一般道が支流跡と思っていたが、小路を右折したそのちょっと先の左手に、車止めがありしかも例の幅狭のコンクリート板を敷き詰めた小路が西に延びていることに気がついた(一~三枚目)。

このまっすぐに延びた小路を進み、突き当たるので、左に直角に曲がると、車止めがあり(四枚目)、先ほどの一般道に合流する。その一般道を左折し、すぐふり返って撮ったのが五枚目である。この写真の右手にある車止めがさきほどの車止めで(四枚目)、中ほど奥の車止めの先が中杉通り手前の小路(前回の支流跡)である。

この前回の支流跡側から見ると、先ほどの小路は急に左に北側へ折れて、すぐ右に東へ折れてから、まっすぐに延びていて、幅狭のコンクリート板で暗渠化されている。このため、この小路が支流跡で、中杉通りから東に延びる支流と接続していたと思われるのだが、地図(1)~(3)を見てもこの支流は確認できない。

ただ、1962年の地図(4)を見ると、桃園川支流が、中杉通り付近の東側で、わずかに北側に突き出てからそのまま東に向かっているところがあるが、この跡が上記の小路(二~四枚目)かもしれない。

桃園川支流跡(24) 桃園川支流跡(25) 桃園川支流跡(26) この後、支流跡を中杉通りの歩道まで歩いたが、その途中、左手に車止めがあり、南へ小路がちょっと延びている。この小路の向こう側にも車止めがあることに気がついた。一枚目は、この小路を向こう側の車止めから支流跡側を撮ったものである。ここは、昭和24年(1949)の地図(3)にある急に南下している支流の跡かもしれない。

そう思って、南側に歩き、前回の小路まで行き、北側に歩いてみると、すぐに一般道に出るが、二枚目はその一般道から小路を撮ったもの、三枚目はその先の小路で、奥側の車止めから先が前回歩いた小路である。

一枚目の小路と二、三枚目の小路とはかつては連続していた支流跡であろう(その間は消滅しているが)。

ところで、地図(3)の南下している支流は、一枚目の小路と二枚目の小路と方向(南向き)が合っているが、二枚目から三枚目にかけて小路が東向きにカーブし合っていない。前回歩いた小路もそのまま下流側に東へ延びてから次第に南へ延びている(現代地図)。地図(3)が不正確なため、その後の改修のためなどが考えられるが、この理由はちょっとわからない。

今回の桃園川支流跡遡行は、緑道ふうにはなっていないが狭く急に曲がる小路があったりして、はなはだ興味深い路地散策であった。

車止めが設置された支流跡と一般道とが接続する部分は、今回の歩き始めの中央線ガード下を抜けた先や後半の小路を出た先など、変に曲がったり幅広になったりして普通の道路とはちょっと違っているが、かつて水路のあった名残りかもしれないと想像するのも楽しい。

この支流跡は、前回の桃園川支流緑道の上流側終点まで通して歩くのもよいかもしれない。

出発地点から中杉通りの歩道まで15分程度であった。

参考文献
「杉並の川と橋」杉並区立郷土博物館研究紀要別冊 平成21年3月発行
最新杉並区明細地図 昭和12年 東京日日新聞発行
杉並区全図 昭和10年頃 内山模型製図社
改訂版東京都区分図杉並詳細図 昭和24年 日新出版 昭和27年9月発行
杉並区図1962年杉並区役所
本田創 編著「失われた川を歩く 東京「暗渠」散歩」(実業之日本社)

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