東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

金毘羅坂(目黒)

2013年10月31日 | 坂道

金毘羅坂下 金毘羅坂下 金毘羅坂下 標識 金毘羅坂下 前回の行人坂下の太鼓橋を渡ってから右折し目黒川沿いに歩くと、まもなく目黒新橋のたもとに至る(ここを右折すれば権之助坂の坂下)。

ここを左折し、目黒通りの歩道を西へ進むと、山手通りとの大きな交差点にでるが、このあたりが金毘羅坂の坂下である。

一枚目の写真は、山手通りとの交差点を渡ってから坂上側を撮ったもので(現代地図)、このあたりはかなり緩やかである。この左手が大鳥神社。

二枚目は、ここの交差点の北側から坂上側を撮ったものである。

三枚目は、一枚目と同じ南側の坂下すぐのところに立っている坂の標識である。石製であるが、同じタイプの標識が市ヶ谷の高力坂合羽坂に立っている。

四枚目は、ちょっと坂上方面に進んでから坂下側を撮ったもので、山手通りとの交差点が見える。

金毘羅坂中腹 金毘羅坂中腹 金毘羅坂中腹 金毘羅坂中腹 南側の歩道を歩く。一枚目の写真は、標識のちょっと上から坂上側を撮ったもので、この先で右に少々曲がっている。

二枚目はその上のバス停の手前から坂上側を、三枚目はバス停の上から坂上側を撮ったもので、このあたりからしだいに勾配がついてくるが、そんなに急ではない。

四枚目はバス停の上から坂下側を撮ったもので、坂下の交差点の向こうまで見える。

上記の坂下にある石の標識(東京都)に次の説明がある。

『金毘羅坂(こんぴらざか)
 坂の西側に金毘羅権現社(高幢寺)があったので、坂の名がついたといわれる。
 金毘羅権現社は、江戸名所図会の挿絵にその壮観がしのばれるが、明治時代の初めに廃寺となった。
 坂の東側には、明治四十年に目黒競馬場ができ、昭和八年に府中に移転するまで、この坂は競馬場にいきかよう人々でにぎわった。
  昭和五十八年三月  東京都』

目黒区HPに次の説明がある。

『目黒通りを大鳥神社から多摩大学目黒高等学校あたりまで上る坂道を金毘羅坂[こんぴらざか]という。明治の中ごろまで、この坂の付近に金毘羅社(目黒三丁目)があったところから、この名がついたという。

明治40年、坂上に目黒競馬場ができてから、昭和8年に府中へ移転する間、坂には競馬場へ向かう人びとが、あふれていた。

坂の途中に昭和2年から住んでいる安本鹿平さんは「昔は、今よりずっと狭い道で、小型乗用車を少し大きめにした程度の乗り合いバスが走ってました。そうそう、坂の南方には、当時、競馬場がありましてね。馬券が当たって、大盤振る舞いをしている人が、あなた知っているかな、2人引きの人力車、そいつに乗って帰るって話をよく耳にしたものですよ」

当時、道幅は約8メートル。現在は、約25メートルなので3倍もの広さになったのである。

安本さんの隣人で、大正12年から住んでいる白石兼吉さんは「目黒競馬場へは、よく行ったよ。馬券は20円で1人1枚きりしか買えなかった。そりゃものすごい人出でな、毎週土曜日、日曜日は、大変なものだったよ。乗り合いバスや馬車をつかって競馬場へ向かう人で、坂はいっぱいだったよ。当時、交通事故も3度ばかりあったかな。まだ自動車なんてものは、ほんとに少なかったから、交通事故なんてものも珍しいことでしたよ。今とちがって死ぬってことはなかったな」

現在の金毘羅坂、人の波から自動車の波へと移り変わり、区内でも上位の交通量を示している。』

金毘羅坂中腹 金毘羅坂中腹 目黒白金図(安政四年(1857)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 一枚目の写真は、さらに上ってから坂上側を、二枚目はさらに上って坂下側を撮ったもので、かなり上ってきたことがわかる。

三枚目は尾張屋板江戸切絵図 目黒白金図(安政四年(1857))の部分図、四枚目は御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図である。

三枚目の尾張屋板には、権之助坂から目黒川を渡って西へ行くと、大鳥大明神があり、さらに進むと、北側に金毘羅大権現がある。この前に目黒不動の方へ南に延びる細い道筋が見えるが、この道が現在、坂中腹下側の目黒寄生虫館の手前を左折し南へ三折坂方面に続く道であるとすると、金毘羅権現社は坂中腹下側あたりにあったのであろう。

四枚目の御江戸大絵図にも大鳥大明神が見え、その西に鎮護大明神、高幢寺があるが、ここが金毘羅権現社である(下記江戸名所図絵本文参照)。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図を見ると、大鳥神社があるが、金毘羅権現社はない。現在の目黒通りに相当する道筋があり、坂上の南側に大きく目黒競馬場がある。昭和16年(1941)の目黒区地図には、同じ道筋が見えるが、競馬場はない。

金毘羅坂中腹歩道橋から坂下側 金毘羅坂中腹歩道橋から坂上側 金毘羅坂中腹 金毘羅坂上 一枚目の写真は、坂中腹上側にある歩道橋の上から坂下側を、二枚目は坂上側を撮ったものである。

二枚目に写っている多摩大学高校・中学前あたりが坂上との説明があるが、坂はまだ続いている。

三枚目は歩道橋から坂上側にちょっと歩いてから坂下側を、四枚目はそのあたりから坂上側を撮ったものである。

この坂は、目黒通りにあり、目黒川の先から西へ上る坂であるが、同じように目黒川の近くから西へ上る駒沢通りのけこぼ坂と似ている感じがする(両者とも幅広の大きな通りであるためか)。

江戸名所図会 金毘羅社 江戸名所図会 金毘羅社 左の二枚は江戸名所図会にある金毘羅社の挿絵である。

この絵を見ると、右図の中央に本社があり、その下に川が流れているが、これが目黒川であろう。そこから斜め上に道が延び、続いて左図の右端に石段があり、そのまま進むと、右に本社を見ながら斜め左へ続いている。この石段のあたりを金毘羅坂とよんだのだろうか。

本文に次の説明がある。

『金毘羅権現社 同所[大鳥神社]二町ばかり西の方、通りを隔てゝあり。祭る所讃州象頭山金毘羅神と同じ。当社を以つて御城南鎮護神と称し奉れり。九条家染筆の額を蔵す。別当は禅宗にして高幢寺[こうとうじ]といふ。境内に難波の梅、又曽根の松と称する樹あり。』

金毘羅権現社は、高幢寺が別当であったが、明治初年の混乱期に高幢寺が廃寺となって、運命をともにしたという(石川)。

金毘羅坂上 金毘羅坂上 金毘羅坂上 金毘羅坂上 目黒競馬場跡標識 一枚目の写真は、坂をさらに進み、坂上側を撮ったもので、ほぼ平坦となっていて、この先に見える信号が元競馬場である。二枚目はそのあたりから坂下側を撮ったものである。

三枚目は、その信号の手前から坂上を撮ったもので、このちょっと先に、四枚目の目黒競馬場跡の標識が立っている。この説明文によると、この目黒競馬場は、府中に移転する前年の昭和7年(1932)に第一回日本ダービーが開催された地とのこと。

目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にあるこの坂の全長、高低差、平均斜度は、263m、6.5m、2.4で、かなり緩やかで、けこぼ坂よりも短く勾配がない。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)
「坂道ウォーキングのすすめ」(目黒区発行)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行人坂

2013年10月27日 | 坂道

行人坂上 行人坂下 行人坂下 行人坂下 前回の権之助坂の坂上を右折し、ぐるりと回るようにして進むと行人坂の坂上である(現代地図)。坂上は、品川区で、上大崎四丁目1番と3番の間。

一枚目の写真は坂上から撮ったものであるが、このあたりから坂下は見えず、このちょっと先からかなり急に下っている。坂を下ると、ちょっと曲がっているが、ほぼまっすぐに下り、かなりの勾配であることがわかる。

以下、坂下から順に写真を並べる。

二枚目は坂下の突き当たりから坂上側を撮ったもので、このちょっと上で少々右に曲がっている。三枚目はそのちょっと上から撮ったもので、ほぼまっすぐに上っている。四枚目は、そのちょっと上側から坂下側を撮ったもので、かなりの勾配である。

となりの権之助坂は、急なこの坂を迂回する道としてつくられ新坂と呼ばれたが、この新坂の方がいまでは表通りとなり、こちらが裏通りとなっている。それでも、通行人がかなり多い。かなりの勾配があるにもかかわらずである。権之助坂のように長くないため近道に利用される、中腹に大円寺、坂下に目黒雅叙園がある、などのためだろうか。

二枚目に写っているように、坂下の歩道わきの埋め込みに坂の説明パネルが立っている。

行人坂下 行人坂中腹 行人坂中腹 行人坂中腹 さらに上って坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、大円寺の門前が見えてくる。二枚目はそこから門前近くまで上ってから坂上側を撮ったものである。

三枚目は、門前からちょっと上ってから坂上側を撮ったもので、四枚目はそのあたりから坂下側を撮ったものである。門前のあたりで少し緩やかになってから、そこを過ぎるとまた急になる。

目黒区HPに次の説明がある。

『行人坂(ぎょうにんざか)は、下目黒一丁目8番の雅叙園西わきを北東へ、目黒川の太鼓橋から目黒駅の東方に上る急坂である。この坂は、江戸時代に権之助坂が開かれる前は、二子道として、江戸市中から目黒筋に通じる大切な道路であった。いまは、権之助坂の方が広くてにぎやかだが…

「江戸名所図会」には「目黒へ下る坂をいふ。寛永の頃、湯殿山の行者某、大日如来の堂を建立し、大円寺と号す」とある。

行人坂という名称は、湯殿山の行者(法印大海)が大日如来堂(現大円寺)を建て修行を始めたところ、次第に多くの行者が集まり住むようになったのでつけられたという。

また、この坂は「振袖火事」「車町火事」と並ぶ江戸三大火のひとつ(行人坂火事)とも関連して知られている。行人坂火事は明和9年(1772年)2月、行人坂の大円寺から出た火が延焼し、3日間も燃え続けたというものである。明和9年の出来事であったので、だれいうとなく「めいわくの年」だと言い出したので、幕府は年号を「安永」と改めたといわれている。

江戸名所図会 夕日岡 行人坂 現在、雅叙園のある付近一帯は、かつて「夕日の岡」と呼ばれ、紅葉が夕陽に映えるさまは実に見事で、品川の海晏寺(かいあんじ)とともに、江戸中に知れわたっていたところである。(「明王院の後ろの方、西に向かへる岡をいへり。古へは楓樹数株梢を交へ、晩秋の頃は紅葉夕日に映じ、奇観たりしとなり。されどいまは楓樹少なく、ただ名のみを存せり」「江戸名所図会」)。

行人坂が急坂であることは、権之助坂を下ったところにある「新橋」よりも「太鼓橋」が低い位置にあることからうかがえる。』

上の図は、江戸名所図会にある夕日岡・行人坂の挿絵(左半分)で、行人坂が太鼓橋から明王院、大円寺の門前を通って上っている。

また、品川区HPにも次の説明がある。

『「行人坂」の名前は、坂の南側に位置する大円寺に由来しています。江戸初期・寛永年間(1624)、この付近で住民を苦しめていた悪人どもを放逐するため、江戸幕府は奥州(山形県)湯殿山より高僧行人・大海法印を勧請して寺を開きました。法師は悪者どもを一掃し、その功績で、寺には「大円寺」の寺号が与えられました。寺には大日如来堂が建立され、多くの行人たちが周辺に住み修行するようになったため、「行人坂」と呼ばれるようになったと云われています。江戸時代の行人坂は、目黒不動と周辺地域とを結ぶ「目黒道」の一つで、江戸町中から目黒不動を参詣し、池上本門寺へ至る主要道路の途中に位置しています。』

行人坂中腹 行人坂中腹 行人坂中腹 行人坂中腹 一枚目の写真は、大円寺門前のさらに上側から坂下側を撮ったものである。二枚目はその上側から坂上側を撮ったもので、祠の前に坂の標識が見える。

三枚目はさらにその上から坂上側をとったもので、交差点のあたりで右にわずかに曲がっている。

四枚目はその交差点の上から坂下側を撮ったものである。このあたりでかなりの勾配となっている。

この坂は、『御府内備考』の下目黒町の書上に次のように記述されている。

「一坂 幅三間登り凡八拾間程 右者永峰町より入口ニ有之行人坂と相唱往古木食行者此辺ニ住居仕候ニ付里俗行人坂と申伝候」

幅三間(5.5m)上り約八十間(145m)の坂。永峰町の入口にあって、むかし木食[米穀を断ち木の実を食べて修行する]行者がこの辺に住んでいたので、俗に行人坂といわれたとある。上記の「江戸名所図会」によれば、寛永(1624~1644)の頃、湯殿山の行者が大日如来の堂を建立し、大円寺と号したが、そこにたくさんの行者が集まったことが坂名の由来というのが通説のようである(大円寺の説明板)。

御府内備考に目黒の坂がでてくるのはここだけのようで、珍しいが、それだけこの坂は目黒でもっとも歴史が古い。このあたりは府内と府外の境界のようで、そのためか、御府内備考での記述の絶対量が少ない。

同名の坂が都内の他にもあり、三番町の行人坂、渋谷の道玄坂、市ヶ谷のゆ嶺坂などで、後の二つは別名(の一つ)が行人坂である。

御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 目黒白金図(安政四年(1857)) 目黒白金図(安政四年(1857)) 一、二枚目は御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図、その拡大図、三、四枚目は尾張屋板江戸切絵図 目黒白金図(安政四年(1857))の部分図、その拡大図である。

両図に、この坂が坂名とともに見えるが、その坂上側が永峰丁である。近江屋板にも△ギヤウニンサカとある。この坂を通る道は、二子道で、江戸市中と目黒方面を結ぶ主要な道であったという。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図に、この坂と大円寺が見え、昭和16年(1941)の目黒区地図にも同じように見える。

この坂は、現在もさほど道幅がないことやわずかな曲がりが残っていることもあって、これまで大がかりな改修はなされず、江戸時代からさほど変わっていないように思える。

行人坂上 行人坂上 行人坂上 行人坂上 一枚目の写真は、上記交差点近くから坂上側を撮ったもので、このあたりになると坂上が見えてくる。二枚目はその上から坂上側を撮ったものである。

三枚目はさらにその上から坂下側を撮ったもので、交差点とその近くのカーブが写っている。横関に坂上(の近く)から坂下側を撮った写真がのっているが、この写真は、坂そばに民家が見え、現在の雰囲気と違うものの、そのスロープや曲がりの感じが三枚目とちょっと似ているので、同じ所かもしれない。

四枚目は、さらに上ってから坂上側を撮ったもので、このあたりでようやく緩やかになる。 この坂は、永峰の台地から目黒川流域の低地にまっすぐに下るため、かなりの勾配になっている。この点で近くの富士見坂と似ているが、この富士見坂ができたのはずっと後の大正後期である。

権之助坂は、新坂でカーブがあり距離が長く勾配はさほどないので、両者は対照的で坂上が共通な謂わば好一対の坂になっている。

行人坂下 行人坂下 行人坂下 太鼓橋 この坂は、大円寺の門前をまっすぐに下り突き当たったところが坂下と思っていたが、目黒川にかかる太鼓橋から上るという説明が目黒区HPにあるので、突き当たりから先を紹介する。

一枚目の写真は、突き当たりを左折すると、道幅が広くなるが、その先でふり返ってから撮ったもので、右へ上るのが行人坂で、まっすぐに進むと、上り坂となって、権之助坂の中腹の下側近くに至る。

突き当たりを左折し、そのまま直進すると、目黒雅叙園であるが、その手前で右折すると、目黒川方面である。二枚目はその目黒川方面を撮ったもので、かなり緩やかであるが下り坂となっている。

江戸名所図会 太鼓橋 三枚目の写真は、目黒川の太鼓橋からふり返って坂上側を撮ったもので、四枚目の写真はその太鼓橋である。

左の図は、江戸名所図会にある太鼓橋の挿絵(右半分)である。本文によれば、柱を用いず、両岸より石を畳み出して橋とし、横面から見ると太鼓の胴に似ているので、このように名付けられたとのこと。

目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にあるこの坂の全長、高低差、平均斜度は、240m、18.2m、7.2である。品川区HPには、延長150m、平均勾配約15.6%(≒8.9°)とある。目黒区は太鼓橋を坂下とし、品川区は大円寺門前をまっすぐに下った突き当たり付近を坂下としているための違いであろう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)
「坂道ウォーキングのすすめ」(目黒区発行)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和記念公園2013(10月)

2013年10月16日 | 写真

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

権之助坂

2013年10月14日 | 坂道

権之助坂下 権之助坂下 権之助坂下 権之助坂標識 前回の富士見坂下から南へ向かうと、ちょっと上り坂となってから大きな通りの歩道にでる。

この歩道を下り、昭和の雰囲気を色濃く残し人通りの多い権之助坂商店街を通り抜けて目黒川にかかる新橋のたもとまで歩く(現代地図)。ここが権之助坂の坂下と思われる。

一枚目の写真は、新橋を西へ渡ってから坂下を撮ったもので、坂下の手前が新橋である。

二枚目は、橋の東のたもとから坂上側を撮ったもので、権之助坂というバス停が見える。坂下近くはかなり緩やかである。

三枚目は、バス停の先の横断歩道を渡ってから坂下側を撮ったもので、橋が見える。 橋のたもとにかなり小さな公園のような区画があるが、ここに四枚目のように大きな坂標識がある。かつては坂の傍らに立っていたのであろうか。裏面に「東京都 昭和58年3月」と刻まれているが、坂の説明はない。

権之助坂下 権之助坂下 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 目黒白金図(安政四年(1857)) 一枚目の写真は、坂下近くの横断歩道の手前から坂上側を撮ったもので、この道が目黒通りである。

目黒通りは、この先で分岐し、坂上に向かって右側が下りの一方通行、左側が上りの一方通行となるが、右側が権之助坂である。

二枚目は、坂下近くで下り一方通行のあたりから坂下側を撮ったもので、緩やかにカーブしている。

三枚目は御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図、四枚目は尾張屋板江戸切絵図 目黒白金図(安政四年(1857))の部分図である。松平主殿頭の屋敷に接してこの坂があり、すぐそばに行人坂がある。四枚目は目黒白金図の左側上半分の部分で、目黒不動が見える。御江戸大絵図も同様である。

この坂について目黒区HPに次の詳しい説明がある。

『権之助坂(ごんのすけざか)の由来

江戸の中期、中目黒の田道に菅沼権之助という名主がいた。あるとき、村人のために、年貢米の取り立てをゆるめてもらおうと訴え出るが、その行為がかえって罪に問われてしまう。なんとか助けてほしいという村人の願いも聞き入れられず、権之助は刑に処せられることになり引かれて行く。「権之助、なにか思い残すことはないか」と問われて、「自分の住んだ家が、ひと目見たい」と答える。

馬の背で縄にしばられた権之助は、当時新坂と呼ばれていたこの坂の上から、生まれ育ったわが家を望み、「ああ、わが家だ、わが家が見える」と、やがて処刑されるのも忘れて喜んだ。父祖の家を離れる悲しみと、村人の明日からの窮状が権之助の心を去来したかも知れないが、それは表情には現わさなかった。

村人は、この落着いた態度と村に尽した功績をたたえて、権之助が最後に村を振り返ったこの坂を「権之助坂」と呼ぶようになったといわれている。

また、一説によると権之助は、許可なく新坂を切り開いたのを罪に問われたといわれている。

昔の道路は、江戸市中から白金を通り、行人坂をくだって太鼓橋を渡り大鳥神社の前に抜けていた。この道があまりにも急坂で、しかも回り道をしていたので、権之助が現在の権之助坂を開き、当時この坂を新坂、そして目黒川にかかる橋を新橋と呼んでいた。』

この説明によれば、坂名は、江戸時代中頃、田頭の名主であった菅沼権之助に由来するが、その悲劇的な結末の理由には二説ある。いずれにしても権之助は、村人のためにした行為が罪に問われたことから、村人に尊敬されたようで、それがこの坂名の謂われになっている。

石川は、田頭の権之助と云う人物が非常な悪徒(また非常な大偉人)で、処刑前の願いにより馬に乗ってこの坂に来て権之助の家を見たという説明のある『目黒町誌』を引用している。偉人で今生の別れに馬に乗ってこの坂の上から家を見たという部分が上記HPの説明とあっている。この一致部分が本当の話なのかもしれない。

ほぼ同様の説明が品川区HPにもある。

権之助坂歩道橋から坂下側 権之助坂歩道橋から坂下側 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 目黒白金図(安政四年(1857)) 一枚目の写真は、坂中腹にかかる歩道橋の上から坂下側を撮ったもので、二股の左側がこの坂で、分離帯に権之助坂という標識が立っている。右側に見えるアーケード街が権之助坂商店街である。

二枚目は、同じく歩道橋の上から坂下側を撮ったもので、このあたりは緩やかな勾配である。

横関によると、むかしは西へ向かう道が途中から右に折れて田頭へ行く坂が本当の権之助坂であった。『新編江戸誌』に「権之助坂。行人坂の北、松平主殿頭屋敷前から下る所」「でんとふ橋(田頭橋)、右の坂下にある橋也」とあることからわかる。宝暦(1751~1764)の頃としているが、現在のように、新橋を渡り、大鳥神社前の方へまっすぐに向かうようになったのは、ずっと後のことで、新橋は新坂下の橋という意味である。

三枚目は御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図、四枚目は尾張屋板江戸切絵図 目黒白金図(安政四年(1857))の部分図で、上記の図の拡大図である。

御江戸大絵図と尾張屋板を比べると、行人坂の上(北)にある権之助坂は、いずれでも目黒川にかかる橋(新橋)へと下り大鳥神社の方へまっすぐに延びているが、坂上からちょっと下ったあたりが少々違っている。御江戸大絵図では、坂途中で大鳥神社への道と松平屋敷に沿って延びて新橋の上流の橋(田頭橋)へと続く道とにわかれ、さらに前者の道を新橋の手前で右折する道があり、田頭橋の方へ向かっている。尾張屋板には、新橋の手前で右折して田頭橋へと延びる道がある(御江戸大絵図と同様)が、松平屋敷に沿って延びる道は田頭橋へ続いていない。

どちらかというと、尾張屋板の方が大鳥神社の方への道が主なように描かれており、現在の道筋に近い。

近江屋板を見ると興味深いことがわかる。永峰町の坂上(行人坂と交わっている)から下り、△ゴンノスケサカとあるあたりで、二股に分かれ、一方は松平屋敷に沿って延び、他方が西へ下り、目黒川のずっと手前までしか描かれていないが(新橋も描かれていない)、「此末ヂイガ茶屋ヘツゞク」と註があり、この道に上記の坂名のうち「ケサカ」とあるので、この爺が茶屋に続く道が本来の権之助坂と思われる。茶屋坂下から田頭橋までは近い。

この近江屋板の品川・白金・目黒辺之絵図は、安政二年(1855)にでた改正版で、御江戸大絵図(天保十四年(1843))よりも新しいが、このあたりは改正前と同じに描いたのか、古いままであったのかもしれない。

権之助坂歩道橋から坂上側 権之助坂中腹 権之助坂中腹 権之助坂中腹 一枚目の写真は、歩道橋から坂上側を撮ったもので、下り一方通行であるが幅広な道路になっている。歩道は坂上まで人通りが多く、賑やかである。

二枚目は坂中腹から坂上側を、三枚目はさらにその上側から坂下側を撮ったものである。四枚目はそのあたりから坂上側を撮ったものである。このあたりで勾配がちょっとついている。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図を見ると、この坂を下り、新橋の手前を右折し、北へ延び、茶屋坂下と田頭橋との間にでる道がある。昭和16年(1941)の目黒区地図にも同じ道が見える。この道は、現代地図を見ると、現在もあり、坂下近くの信号のあるT字路になっている。 ここが本来の権之助坂下であるかもしれないが、本来の坂は消滅した別の道かもしれず、不明である。

また、前回の富士見坂下の南北に延びる道は、御江戸大絵図、尾張屋板、近江屋板にみえる松平屋敷に沿った道の名残りのように思える。

権之助坂上 権之助坂上 権之助坂上 権之助坂上 一枚目の写真は、坂上近くのバス停の下側から坂上を、二枚目はバス停のあたりから坂上を撮ったものである。

この坂も前回の富士見坂と同じく、坂下側が目黒区、坂上側が品川区であるが、バス停の上側から坂下側を撮った三枚目のように、中腹の緩いカーブのあたりが区境のようである。

四枚目は坂上を撮ったもので、この左手が目黒駅西口である。

目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にあるこの坂の全長、高低差、平均斜度は、356m、10.8m、2.8で、長く緩やかな坂である。

上記の目黒区HPには、この坂の歴史が「坂に見る時代の流れ」として説明されているが、現在のように商店街で賑やかになったのは、戦後のことであるという。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)
「坂道ウォーキングのすすめ」(目黒区発行)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富士見坂(目黒)

2013年10月04日 | 坂道

富士見坂上 富士見坂上 富士見坂中腹 富士見坂中腹 前回の茶屋坂上から引き返し、目黒三田通りにもどり、三田公園を右に見て南へ歩く。やがて信号のある小さな交差点に至るが、ここを右折すると、富士見坂の坂上である(現代地図)。

坂上は、品川区で、上大崎二丁目22番と23番との間。

一枚目の写真は坂上から坂下側を撮ったものであるが、西へとまっすぐに下っている。坂上ではまだ緩やかである。

二枚目は、そこからちょっと下ってから坂上を撮ったもので、このあたりではかなり勾配がつきはじめている。

三枚目はさらに下ってから坂下側を、四枚目はそこからさらに下ってから坂上側を撮ったもので、このあたりではかなりの勾配となっている。さすが永峰の崖地にできた坂であると感心してしまう。三、四枚目のあたりが区境で、坂下側が目黒区である。

この坂名は西側に向いているため富士がよく見えたことに由来するのであろう。大正後期の新坂とのことで(山野)、このためか、横関、石川には紹介されていない。同名の坂は都内に多いが、ここは目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にも目黒区HPにもなく、まだ認知されていないようである。

富士見坂中腹 富士見坂中腹 富士見坂下 富士見坂下 一枚目の写真は、中腹でもかなり下側から坂上側を撮ったもので、都教職員研修センター(もと?)の入り口近くである。この敷地内に千代が崎の地名の由来になったという千代が池があったといわれ、このあたりに江戸時代に肥前島原藩主の松平主殿頭の別荘があった。

二枚目は、そのあたりから坂下側を撮ったもので、驚いたことにここから下側(ツートーンカラーのところ)がさらに急になっている。

三枚目は、さらに下り、そのツートーンカラーの下側から坂上側を撮ったものである。

四枚目は坂下から坂上側を撮ったものであるが、坂下でかなり急激に下っているので、坂上が見えない。

各写真を見るとわかるが、この坂はもとの整備が悪いのか、凸凹となっているところがあちこちにある。

富士見坂南隣の坂下 富士見坂南隣の坂下 坂下を左折し、権之助坂方面に向かうが、一枚目の写真は、富士見坂の南隣の無名坂を坂下から撮ったもので(現代地図)、二枚目は、さらにその隣の無名坂(途中で行き止まり)を撮ったものである。この坂と同じようにかなりの勾配である。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図にはこの坂は見えないが、昭和16年(1941)の目黒区地図にはのっており、坂下北側に無線電信講習所がある。また、南隣の二つの無名坂も見える。

この坂は、大正後期につくられたというが、千代が崎(永峰)の台地と目黒川から離れた坂下とをほぼ直線に結ぶようにかなり短くつくられ、そのため、近くの新茶屋坂などと違って、短距離になった分だけ勾配がかなりきつくなっている。

同じく近くの茶屋坂は、台地から崖地をトラバースするように下り、できるだけ緩やかになるようにつくられ、いかにも古い時代(江戸時代またはそれ以前)につくられたような印象を受けるのに比べ、ここは、近代になってから台地から谷まで最短距離で結ぶよう強引につくられたように思えてしまい、時代の差を感じてしまう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社) 「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千代が崎

2013年10月02日 | 散策

新茶屋坂中腹 茶屋坂標柱のある交差点 永峰の崖跡 永峰下の道にある階段 前回の目黒川散歩道を中里橋で左折し北東に向かい、新茶屋坂を上る。その中腹近くで坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、このちょっと上のバス停の手前で右折する(現代地図)。

下り坂となってちょっと歩くと、見覚えのある四差路に近づく。二枚目の写真のように、茶屋坂の坂下の標柱のあるところである。ここを左折すれば、茶屋坂の上りであるが、今回は、ここを直進する。

二枚目の写真の右のちょっと上り坂となった道を歩いて行くと、住宅街には異質で荘厳な感じの建物に出くわすが、よく見ると、アルジェリア大使館である。

さらに進み、左手の建物と建物の間を見ると、三枚目のように、崖跡がある。樹木のためよくわからなくなっているが、所々にコンクリートで補強したような部分が見える。この崖上は、茶屋坂上の永峰とよばれた台地の縁(へり)で、ここは崖下に沿ってできた道と見当をつけて来たが、やはりそうであった。

さらに進み、行き止まりを右に大きく曲がると、下り坂となるが、そのすぐ左手に上り階段が見える(現代地図)。そのあたりから撮ったのが四枚目で、大きめの階段が先ほどの崖上へと上っている。目黒駅などへの近道となっているのであろう。

階段上からの風景 階段上近くの無名坂 三田公園入口付近 三田公園奥 階段の上からふり返ると、西側に眺望のよい風景が広がっている。一枚目の写真は、そこから撮ったもので、いつもの坂上からとは違った風景である。

階段上からマンションの間にできた道が続き、道なりに進むと、一般道の無名の坂道にでるが、二枚目は、その坂下側を撮ったものである。かなりの勾配でまっすぐに下っている。反対を見ると、上り坂となっていて、先ほどの階段の上は台地の最高点でないことがわかる。

坂を上ると、ちょっと広めの道路(目黒三田通り)にでるが、ここを左折する。北へちょっと歩くと、三田公園の入口がある。このあたりは、かつて千代が崎とよばれた眺望のよい景勝地であった。公園入口付近を撮ったのが三枚目であるが、これに写っているように、千代ヶ崎の標識パネルが立っている。 この付近の街角地図がそのわきに立っているが、これからもわかるように、三田公園はほぼ西へと細長く延びている。

公園の奥に進むと、その先端部はフェンスが張られて立ち入ることができないが、四枚目は、その奥左(南側)を撮ったもので、このフェンスの外側は崖である。このあたりが千代が崎とよばれた地の西側の突端付近であったと想像される。現代地図を見ると、この公園の先端の直下が先ほどの階段上にかなり近い。

千代が崎について目黒区HPに次の詳しい説明がある。

『権之助坂上から恵比寿方面に向かい、区立三田児童遊園(目黒区三田二丁目10番)辺りまでの目黒川沿いの台地を「千代が崎」といい、かつて目黒元富士、目黒新富士、爺ヶ茶屋、夕日が丘と並び富士をながめる絶好の場所で、江戸名所の一つであった。当時の人びとは花に、月に、雪に、ここを訪れては一日を楽しんで帰ったことであろう。

「新編武蔵風土記稿」によると「千代が崎は、三田・上大崎・中目黒・下目黒にわたって広大な敷地を有する肥前島原藩主、松平主殿頭[まつだいらとものかみ]の抱屋敷辺りをいう…」とあり、また江戸名所図会には「景色の優れたところで、松平主殿頭の別荘「絶景観」があったところ」と記されている。庭には、関東第一といわれた三段の滝が落ち込む大きな池があった。

さて、千代が崎の由来だが、武将新田義興の侍女千代にまつわる伝説から出たものであり、話は南北朝時代にまでさかのぼる。

正平十三年(1358)、義興は足利基氏・畠山国清に謀られ、多摩川矢口の渡しで殺されてしまった。義興の死を知った千代は「死ねば義興のそばに行ける」と考え、この池に身を投げてしまったのである。千代を哀れんだ人びとは、この池を千代が池と呼ぶようになり、それが地名ともなったのである。

千代が池は、東京都教職員研修センター(目黒区目黒一丁目1番)の構内に昭和十年ごろまで、わずかに残っていたといわれるが、今日では広重画の「名所江戸百景」に見られるだけである。

また、千代が崎には、こんなエピソードも残されている。松平主殿頭の屋敷内に三基の異様な灯ろうがあった。この灯ろうは大正15年に大聖院(目黒区下目黒三丁目1番)に移されたのだが、それが十字の型をした切支丹灯ろうであることがわかり、この地が潜伏切支丹の遺跡ではないかと大騒ぎになったのである。地名「千代が崎」は、昭和7年以前まで目黒町の字名として使われていた。』

この説明にある目黒区三田二丁目10番の区立三田児童遊園とは、上記の街角地図を見ると、この三田公園であると思われる。権之助坂上は目黒駅前付近で、そのあたりからこの公園あたりまでを千代が崎とよんだようである。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図を見ると、現在の山手線に沿った細長い土地に「字千代ヶ崎」とあるが、目黒村でなく、大崎町の地名である。三田用水が線路に沿って流れている。昭和16年(1941)の目黒区地図では品川区となっている。

御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 目黒白金図(安政四年(1857)) 一枚目は、御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図、二枚目は尾張屋板江戸切絵図 目黒白金図(安政四年(1857))の部分図である。いずれにも千代ヶ崎とある。近くを流れているのは三田用水であろう。松平主殿頭の屋敷が見える。

江戸名所図会に千代が崎の挿絵がある(ホームページ「鬼平犯科帳と江戸名所図会」)。品川の海などが見え、眺めのよい風景とともに、この絶景を楽しむ人々が描かれている。本文に次の説明がある。

『千代が崎 渋谷宮益町より、目黒長泉律院へ行く道の傍、芝生の岡をいふ。佳境の地にして永峰に属せり。絶景観といふは、松平主殿侯の別荘の号にして、閑寂無為自然にその地に応ず。』

「崎」とは、山が突き出た先端を意味し(広辞苑)、この地は、台地がまさしく岬のように突き出たところであったのであろう。

茶屋坂上の道 茶屋坂上近く 三田公園の入口から北へちょっと進み、すぐの信号のところ(上三枚目の写真)を左折し、左斜め方向に延びる道を歩く。静かな住宅街が続くが、この左手の奥が先ほどの崖の上である。

一枚目の写真は、この道の途中で撮ったもので、大樹が茂っている。ここをちょっと進むと、突き当たり、そこでふり返って撮ったのが二枚目の写真で、右端が茶屋坂の坂上である。このあたりも永峰であるが、近江屋板江戸切絵図を見ると、権之助坂上、行人坂上に永峰町とあるので、そのあたりまでをもそう呼んだのであろう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする