東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

怖るべき昭和の子供

2017年08月30日 | 荷風

子供が起こした事件について昭和11年(1936)4月13日の永井荷風の日記「断腸亭日乗」は次のような衝撃的な新聞記事を紹介している。

『四月十三日。夜来の雨やまず、近鄰の桜花満開となる。楓の若芽も亦舒びたり。終日執筆。雨歇まず。夜に入り強風起る。
此日の東京日々の夕刊を見るに、大阪の或波止場にて、児童預所に集りゐたる日本人の小児、朝鮮人の小児が物を盗みたりとてこれを縛り、さかさに吊して打ちたゝきし後、布団に包み其上より大勢にて踏み殺したる記事あり。小児はいづれも十歳に至らざるものなり。然るに彼等は警察署にて刑事が為す如き拷問の方法を知りて、之を実行するは如何なる故にや。又布団に包みて踏殺す事は、江戸時代伝馬町の牢屋にて囚徒の間に行はれたる事なり。之を今、昭和の小児の知り居るは如何なる故なるや。人間自然の残忍なる性情は古今ともにおのづから符合するものにや。怖るべし。怖るべし。呼嗚[嗚呼]怖るべきなり。』

昨夜以来の雨がやまない。近隣の桜の花が満開となった。楓[かえで]の若芽ものびている。終日執筆。雨が止まず、夜に入って強風が吹いた。
この日の東京日々新聞夕刊を見ると、大阪のある波止場で児童預所にいた日本人の小児が、朝鮮人の小児が物を盗んだからとこれを縛り、さかさに吊るして打ちたたいた後、布団に包みその上より大勢で踏み殺したという記事があった。小児はいづれも十歳に満たないものである。しかるに彼等が警察署で刑事がなすような拷問の方法を知ってこれを実行するのは何故なのか。布団に包んで踏み殺す事は、江戸時代伝馬町の牢屋で囚人の間で行われたことである。これを今、昭和の小児が知っているのは何故なのか。人間の自然の残忍な性格は昔と今ともにひとりでに一致するものだろうか。怖るべし。怖るべし。ああ怖るべきなり。

にわかには信じ難いような新聞記事であるが、その記事の掲載自体は本当であろう。荷風は、その犯人たちが10歳以下の小児であったことに加え、朝鮮人の小児を縛り、さかさに吊るして打ちたたいた後、布団に包みその上より大勢で踏み殺すという殺害方法に戦慄している。人をさかさに吊るして打ちたたくことは、警察署で刑事がなす拷問の方法とするが、たとえば、その3年前の昭和8年(1933)2月に作家小林多喜二が逮捕され、築地警察署で拷問により虐殺された。そんなことが荷風の念頭にあったのか。布団に包んで踏み殺すことは、江戸時代伝馬町の牢屋で囚人の間で行われたとしているが、いまでも映画やテレビの時代劇でそういうシーンを見ることがある。

10歳以下の小児の行為であっても、大局的にはやはり民族蔑視の社会の影響ないし反映とみることができる。しかし、これはそれだけではすまない問題を内包しているように感じる。その犯行の異常な態様からいってであるが、これと比べれば、前回の記事の児童等の悪行などは文字通り幼稚な行為であるともいえる。

小児たちが警察署で刑事がなす拷問の方法を知って実行するのは何故なのか、江戸時代伝馬町の牢屋で布団に包んで踏み殺すことをいまの昭和の小児が知っているのは何故なのか、と荷風はこれらに最大の疑問を呈し、その現実や歴史に思いを馳せたのか、人間の自然の残忍な性格は昔と今ともにひとりでに一致するものだろうか、としている。怖るべしのくり返しに荷風が受けた衝撃の大きさがあらわれているといえる。

たしかに平成の世になっても、子供による凶悪な事件が起き、その歴史性や歴史的連続性を感じざるを得ないようなことがある。平成9年(1997)に発生した14歳の中学生による神戸連続児童殺傷事件のとき、そのむかし日本で行われていた刑罰を想起させるようなことがあった。本人の意識・無意識に関わらずその犯行の一部はむかしの刑罰をそっくりそのまま実行したものであった。

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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善福寺川8月(2017)

2017年08月28日 | 写真

善福寺川8月(2017) 善福寺川8月(2017) 善福寺川8月(2017) 善福寺川8月(2017) 善福寺川8月(2017) 善福寺川8月(2017)

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荷風の子供嫌い(2)

2017年08月18日 | 荷風

偏奇館周辺地図(昭和16年) 前回のことから三年後、荷風は、ふたたび子供の悪行を目撃する。昭和5年(1930)1月の断腸亭日乗に次の記述がある。

『正月初八 晴れて寒気甚し、昏黒三番町に徃かむとて谷町通にて電車を来るを待つ。悪戯盛の子供二三十人ばかり群れ集り、鬼婆鬼婆と叫ぶ、中には棒ちぎれを持ちたる悪太郎もあり、何事にやと様子を見るに頭髪雪の如く腰曲りたる朝鮮人の老婆、人家の戸口に立ち飴を売りて銭を乞ふを、悪童等押取巻き棒にて地を叩きて叫び合へるなり、余は日頃日本の小童の暴戻なるを憎むこと甚し、この寒き夜に、遠国よりさまよひ来れる老婆のさま余りに哀れに見えたれば半円の銀貨一片を与へて去りぬ、三番町に至るに小星家に在らず、已むことを得ず銀座に出でオリンピアに飰して空しく家に還る、』

晴れて寒さが厳しい。暗くなってから三番町に行こうと谷町通で電車を待っていると、悪戯盛の子供二三十人ばかりが群れ集り、鬼婆鬼婆と叫んでいた。中には棒切れを持つ悪がきもいた。何事かと様子を見ると、頭髪が真っ白で腰の曲がった朝鮮人の老婆が人家の戸口に立ち飴を売り金銭を乞うが、悪童等は押しながら取り巻き、棒で地面を叩いて叫びあっている。私はふだん日本の児童が乱暴極まりないことをはなはだしく憎んでいる。この寒い夜に、遠い国からさまよい来た老婆の様子が余りに哀れに見えたので、半円の銀貨一枚を与えて立ち去った。

荷風は、三年前と違って対象が自分でなく朝鮮人の老婆であったものの、またもや悪童どもの悪さか、と直感し、その有様を見て、「余は日頃日本の小童の暴戻なるを憎むこと甚し」と記すが、これは、だから余は子供が大嫌いなのだ、という主旨であろう。

多数群れた悪童たちが朝鮮人の老婆を叫び合いながらなじっていたが、このような朝鮮人に対する子供たちのふるまいが大人の世界・社会の反映であることは疑いがない。大人たちと同じことをしてなぜ悪いのかということである。市民の自警団による朝鮮人虐殺が起きた関東大震災(1923)は、わずかその六年半前のことであった。

荷風は、気難しい人のように見えたと想像されるが、哀れに見えた老婆に半円の銀貨を与えたように、弱い者や困っている人には老若男女の別なくやさしくする面を持っていた。1945年3月10日の東京大空襲のことを記した3月9日の日乗に次の記述がある。

「時に七八歳なる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通に出で溜池の方へと逃しやりぬ」(全文→以前の記事

この空襲のため荷風の長年の住居であった偏奇館が焼亡し、一帯は火災で荷風も避難していたが、道に迷った女の子と老人に親切にも道案内をしている。荷風は博愛主義者でも宗教者でもなかったが、弱い者にはめっぽうやさしかったことがわかる。

この日、荷風は三番町のお歌のところに行ったが、お歌がいなく、やむを得ず銀座に出て、オリンピアで夕食をとり空しく家に帰ったと記している。悪童どもの悪さを目撃して気が滅入っていたのに、お歌も不在で、散々な日となって、その空しさが伝わってくる。

この荷風の日乗の記述から子供のふるまいを通してであるが、戦前の民族差別のいったんがかいま見える。これはいまなお日本社会に厳然として残っている問題である。この十年近くの間に、この民族差別をあおることを目的とするデモ行進を都内で何回か偶然に目撃したが、嫌悪感しか覚えなかった。人は具体的な関係にある人間を嫌いになったり憎んだりする存在であることは否定し得ないが、特定の民族一般を憎悪するように仕向ける政治的主張は誤りである。そして、その対象がいつも何故か近隣のアジア民族である不可解さには慄然とせざるを得ない。

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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荷風の子供嫌い(1)

2017年08月16日 | 荷風

荷風@偏奇館 永井荷風が嫌いな者は、軍人・巡査と子供・女学生だった。軍人は威張ってばかりいたからであるが、大正8年(1919)9月22日の断腸亭日乗に「折から窓の外に町の子の打騒ぐ声、何事かと立出でて見るに、迷犬の自働車にひかれたるを、子供等群れあつまりて撲ちさいなむなり。余は町の悪太郎と巡査の髭面とを見る時、一日も早く家を棄てて外国に徃きたしと思ふなり。」(全文→以前の記事)とあるように、粗暴な子供を嫌っていた。

昭和2年(1927)1月の「断腸亭日乗」に次の記述がある。

『正月六日 晴れて暖なり、柳北先生の硯北日録七巻を写し終りぬ、余すところ投閑日録日毎之塵其他十数巻あり、卒業の日猶遠しといふべし、薄暮銀座に赴かむとて簞笥町崖下の小径を過るに、一群の児童あり余の行き過るを見て背後より一斉に余が姓名を連呼す、驚いて顧るや群童又一斉に拍手哄笑して逃走せり、其状さながら狂人或は乞食の来るを見て嘲罵するものと異る所なし、そもそも近隣の児童輩何が故に余の面貌姓名を識れるにや、是亦吾文筆浮誉の致す所にあらずして何ぞや、虚名の禍此に至つて全く忍ぶ可からざるものあり、世の雑誌新聞記者の毒筆の如きは余之を目にせざるを以て猶忍ぶことを得べし、近隣の児輩が面罵に至っては避けむと欲するも其道なし、浩歎に堪えざるなり、余常に現代の児童の兇悪暴慢なることを憎めり、窃に余が幼時のことをを[を]回想するに、礫川の街上に於て余は屢芳野世経中村敬宇南摩羽峯等諸先生を見しことあり、余は猶文字を知らざる程の年齢なりしかど敬虔の情自ら湧来るを覚え首を垂れて路傍に直立するを常とせり、然るに今の児輩の為す所は何ぞや、余は元より学識徳望両つながら当時の諸先生に比較すべきもの有るなし、近郊の児童に面罵せらるゝも敢て怪しむに足らず、然りと雖苟も文筆に従事するの士を見て就学の児童等路頭に狂夫を罵るが如き行をなすに至つては、一代の文教全く廃頽して又救ふべからざるに至れることを示すものにあらずや、是父兄の罪歟、国家教育の到らざるが故歟、余は之を知らず、余は唯老境に及んで吾が膝下に子孫なきを喜ばずんば非らざるなり、此夜独銀座風月堂に抵り黙々として食事を終り帰途酒肆太牙楼に登る、日高邦枝二氏既に在り、成弥生田林の三氏亦踵いで来り会す、此夜生田翁帰途渋谷の妓と会盟の約あり家に帰らずとて意気頗昂然たり、此口小寒、』

この日、晴天で暖かだったが、衝撃的なことがあった。暮れかかった頃、銀座に行こうと、崖下の小径を過ぎるとき、多数の児童が私の通り過ぎるのを見て背後から一斉に私の姓名を連呼した。驚いてふり向くと、群童が一斉に拍手し大笑いして逃走した。その有様はまるで狂人や乞食が来るのを見てあざけりののしるものと異なるところがない。そもそも近隣の児童はどうして私の容貌と姓名を知っているのか。これはまた、わが文筆の浮ついた評判がもたらすものに違いない。虚名のわざわいがここに至っては我慢することができない。世の雑誌や新聞記者の毒筆はこれを目にしないことで忍ぶことができるが、近隣の児童による面と向かってのののしりは避けようと思ってもその方法がなく、大いに嘆くしかない。私はいつも現代の児童の残忍で人を恐れずに乱暴なことを憎んでいる。ひそかに自分の幼時のころを回想すると、礫川の街で私はしばしば芳野世経・中村敬宇・南摩羽峯等の諸先生を見たことがあり、まだ自分は文字を知らない年齢であったが、深く敬う心が自然と湧くのを覚え首を垂れて路傍に直立するのが常であった。しかるに今の児童の為す所作は何だろうか。私は元より学識も徳望もともに当時の諸先生に比較すべきものはない。近隣の児童に面罵されてもとくに不思議ではない。しかしながら文筆に従事する士を見て就学の児童等がみちばたで狂人をののしるような行いをなすに至つては、当代の文教は全く退廃し、救うことができないほどになったことを示すものではないだろうか。これは父兄の罪か、国家教育の到らざるためか、わからないが、私はただ老境に及んで自分に子孫がないことを喜ばずにはいられない。・・・

子供の世界は、大人の世界から独立した一種独特の雰囲気を持っていることもあるが、大人の世界とそっくりそのままの世界を作っていることも多い。子供たちは、もちろん、荷風が何者であるかなど知らない。しかし、親などから聞いた話からそのような行為に及んだ。それは大人の世界が保障してくれると思い込んでいるから、遠慮などせず残酷なこともいってしまう。

荷風は、働かずに暮らしていける財産を持ち、気が向いたとき原稿を書けばよい高等遊民であった。仕事に出かけることもないが、夕方になると、ぶらりと銀座など夜の街にくり出すのを常としていた。夜遅く帰ってきて朝もかなり遅い。そんな気ままな独身生活を送っていた。そんな生活を近隣の住民はどのように見て噂したかは想像に難くない。そんな親たちの噂話を聞きかじった子供たちがなした所作であったろう。

荷風研究家の秋庭太郎は、荷風のこの日の不愉快さは、「黙々として食事を終り」の文字によく表白されているとし、偏奇館の主人の行状は隣近所の大人子供の別なく口の端にのぼっていたことはこの一事を以てしても分かると記している。しかし、現象をみれば確かにそうであろうが、やはり子供は大人の言動から影響を受けてそのような行為に及んでいる。

荷風は「然りと雖苟も文筆に従事するの士を見て就学の児童等路頭に狂夫を罵るが如き行をなすに至つては、・・・」と記しているが、児童のそのようなふるまいは、常軌を逸したもので、異常であることは確かである。その児童の父兄の世界について、荷風がたとえ近隣の人々と大きく違った日常を送り働かずに遊んでいるように見えても、それが何故に非難や嘲笑の対象にならねばならないのか。近隣は何も迷惑をうけていないのだから放っておけばよいのではないか。そういった疑問が残るが、やはり菊池寛が文芸春秋で「今日かくの如き社会に於て財産を唯一の楯として勝手に振舞ふといふ事ハ許すべからざる卑怯である」(以前の記事)などと荷風を非難したのと本質的に同じ感情が元になっている。

荷風が遭遇した事を現代の人はもちろん笑うことはできない。こういったことは形や対象や程度の違いはあってもいまなおこの社会に宿命のようにして残存しているからである。

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考證 永井荷風」(岩波書店)

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