東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

御組坂(2)

2010年07月28日 | 坂道

上の写真は、2007年10月に六本木一丁目駅の近くに立っていた六本木一丁目周辺の案内地図を撮影したものである。

少々汚れているが、よく見るとわかるように、再開発前のもので、六本木一丁目駅もまだできていない。再開発前の地図がよくわかる貴重なものである(少なくともわたしにとっては)。

周辺の坂名がちゃんとのっているところが、坂歩き愛好者としてはうれしい。すなわち、御組坂、道源寺坂、なだれ坂(長垂坂)、霊南坂、落合坂、行合坂、雁木坂。また、落合坂の南側は我善坊谷で、その交差点の右側は我善坊谷坂に至り、左側は三年坂に至る。

御組坂がほぼ中央に見えるが、この坂を下ったところが六本木一丁目6番地で、偏奇館跡があった。ここにヴィラヴィクトリアというマンションが建っていたらしい。偏奇館跡の前の道を左折しまっすぐに進み、右折、左折、右折すると、道源寺坂の坂上に至る道にでる。この道が拡幅されていまもある(道源寺坂の記事参照)。

御組坂の下りの途中、左折し、道なりに進むと高速の下の谷町にでた。左折してからも下り坂であったと思われるが、この途中から下側の坂はもはや存在せず、前回の記事のように、上側部分のみ残ったようである。下側は、再開発のとき、埋め立てられたのであろう。

再開発前の御組坂については、岡崎清記「今昔 東京の坂」が詳しい。次の説明がある。

「麻布グリーン会館前を下る急坂。坂はいったん下り切ってから左折し、再び急傾斜で落ちる。つづいて細い裏道となり、屈曲しながら高速二号線下の低地まで下る。坂の北側は高い崖になって蔦がびっしり這っていたが、久しぶりに訪れてみると、崖は姿を消し、ビルになっていた。」

「『麻布区史』は、旧麻布市兵衛町一ノ一の地を古く紅葉屋敷と呼んだが、そこから七番地に下る紅葉坂という坂があり、その北に御組坂があった、と説明している。二つの坂は別個の坂だが、地形の変化もあり、いまは旧紅葉坂のことを御組坂と呼んでいる。」

岡崎は偏奇館跡近くに住んだことがあった。上記の著書に次のように書いている。

「五年余りまえ、わたしたち夫婦は冬から翌年の初夏までの半年を、偶々ここに寓居した。六本木一丁目七番地である。坂南の、むかし御手先組屋敷のあった一隅にある。一番地違いの偏奇館跡はすぐそこであった。
 わたしは、毎日、この坂を上り下りした。雪の翌朝には、凍りついた坂で何度も足を滑らせて肝を冷やしたし、暑い夏の朝は汗を拭きながら、この坂に喘いだ。
 それまで、長いあいだ、武蔵野の起伏に乏しい地域に住んでいたので、洪積層の台地と美しい傾斜に富むこのあたりの地形の変化がたいへんもの珍しく感じられた。そして、荷風が『麻布襍記』の中で、「わたしは麻布の土地を愛している。これはわが家の近隣、坂と崖ばかりなので、樹木と雑草を見ることが多い故である。」と書いているのも肯けた。到るところに坂があり、それらがそれぞれに個性を有していることに心ひかれた。江戸、明治の坂も多く、由緒ある坂名がついていて、坂名の由来を書いた木の標柱が坂上と坂下に建ててある。」

著者は、その後、港区の坂から始めて現存する東京の坂を遍歴するようになったが、そのきっかけは、この御組坂であったと述べている。また、荷風の「断腸亭日乗」を愛読したようである。

以前、この本の存在を知らず、古本屋で見たとき、御組坂の説明を読んで共感するところがあったので、すぐに購入した記憶がある。

著者は、御組坂の説明の最後に、昭和二十年(1945)三月十日夜半の空襲による偏奇館炎上を記録した「日乗」を全文引用しているが、本記事にも以下引用する(以前の記事に部分的に引用したが)。上の地図を見ながら読むとよいと思ったからである(昭和20年の頃とは違っているかもしれないが、現在の地図よりもはるかによい)。

昭和二十年「三月九日、天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、火は初長垂坂中程より起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す、余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり鄰人の叫ぶ声のたゞならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出でたり、谷町辺にも火の手の上るを見る、又遠く北方の空にも火光の反映するあり、火星は烈風に舞ひ紛々として庭上に落つ、余は四方を顧望し到底禍を免るゝこと能はざるべきを思ひ、早くも立迷ふ烟の中を表通に走出で、木戸氏が三田聖坂の邸に行かむと角の交番にて我善坊より飯倉へ出る道の通行し得べきや否やを問ふに、仙石山神谷町辺焼けつゝあれば行くこと難かるべしと言ふ、道を転じて永坂に到らむとするも途中火ありて行きがたき様子なり、時に七八歳なる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通に出で溜池の方へと逃しやりぬ、余は山谷町の横町より霊南坂上に出で西班牙(スペイン)公使館側の空地に憩ふ、下弦の繊月凄然として愛宕山の方に昇るを見る、荷物を背負ひて逃来る人々の中には平生顔を見知りたる近鄰の人も多く打まぢりたり、余は風の方向と火の手を見計り逃ぐべき路の方角をも稍知ることを得たれば麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴れし偏倚館の焼倒るるさまを心の行くがきり眺め飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ、巡査兵卒宮家の門を警しめ道行く者を遮り止むる故、余は電信柱または立木の幹に身をかくし、小径のはづれに立ちわが家の方を眺る時、鄰家のフロイドルスペルゲル氏褞袍(どてら)にスリツパをはき帽子もかぶらず逃げ来るに逢ふ、崖下より飛来りし火にあふられ其家今まさに焼けつゝあり、君の家も類焼を免れまじと言ふ中、わが門前の田島氏そのとなりの植木屋もつゞいて来り先生のところへ火がうつりし故もう駄目だと思ひ各その住家を捨てゝ逃げ来りし由を告ぐ。余は五六歩横町に進入りしが洋人の家の樫の木と余が庭の椎の大木炎々として燃上り黒烟風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るゝを見定ること能はず、唯火焰の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ、是偏奇館楼上少からぬ蔵書の一時に燃るがためと知られたり、火は次第にこの勢に乗じ表通へ焼抜け、住友田中両氏の邸宅をも危く見えしが兵卒出動し宮様門内の家屋を守り防火につとめたり、蒸気ポンプ二三台来りしは漸くこの時にて発火の時より三時間程を経たり、消防夫路傍の防火用水道口を開きしが水切にて水出でず、火は表通曲角まで燃えひろがり人家なきためこゝにて鎮まりし時は空既に明く夜は明け放れたり、」
(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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