東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

善福寺川12月(2015)

2015年12月28日 | 写真

善福寺川12月(2015) 善福寺川12月(2015) 善福寺川12月(2015) 善福寺川12月(2015) 善福寺川12月(2015) 善福寺川12月(2015)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善福寺池紅葉(2015)

2015年12月13日 | 写真

善福寺池紅葉(2015) 善福寺池紅葉(2015) 善福寺池紅葉(2015) 善福寺池紅葉(2015) 善福寺池紅葉(2015) 善福寺池紅葉(2015)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善福寺川紅葉(2015)

2015年12月12日 | 写真

善福寺川紅葉(2015) 善福寺川紅葉(2015) 善福寺川紅葉(2015) 善福寺川紅葉(2015) 善福寺川紅葉(2015) 善福寺川紅葉(2015)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幽霊坂~小布施坂~日無坂

2015年12月11日 | 坂道

神田川 神田川 グランド坂下の新目白通りを横断し左折しちょっと西へ歩き、右折すると、まもなく神田川にかかる豊橋である。橋を渡ってから右折し、川沿いの道を下流側へ歩く。

次の三叉路を左折し、もどるようにして進み、次を右折すると、新江戸川公園前。以前、このあたりの川沿いの散歩道に何回来ても、この公園を地図では確認できるのだが、いつもたどり着けないでいた。川沿いの道側に出入口がないだけなのだが、はじめてこの公園前に出たとき(豊坂方面からと思われる)、そのなぞが解けたような気分になった。

今回は、あいにく、工事中で、閉園であったので、公園前の道を北に進む。

幽霊坂下 幽霊坂下 幽霊坂中腹 幽霊坂上 そのまま北へ進むと、ちょっと勾配のある坂に突き当たる(現代地図)。

この上が幽霊坂で、都内で同種の名のついた坂の中でもっともその名にふさわしい雰囲気を持ったところである。

たとえば、駿河台の幽霊坂などと比べると、ここはその雰囲気からきわめて貴重な坂と云えるかもしれない。

坂上を進むと、目白通りにでるが、ここを右折すると、東京カテドラル聖マリア大聖堂、椿山荘、目白新坂目白坂方面であるが(その手前を右折すると、神田川へ下る胸突坂)、左折し、西へ進む。

小布施坂下

小布施坂中腹 小布施坂中腹 小布施坂上 目白通りを西へしばらく歩き、日本女子大学前を通り過ぎると、左にちょっとした公園が見えてくる。ここに入り、わきの道にでると、小布施坂の坂上である(現代地図)。

ここは、何年か前に来たとき(その記事)、工事中で、ちょっと残念な気分に陥ったことを覚えていたので、今回、神田川に出たときから、ここを再訪しようと思っていた。

坂下から写真をならべたが、むかしからの細い階段が所々に残っていたのが変わっていない。その他の部分とちょっとアンバランスな印象もあるが、全部なくすよりはずっとよい。

日無坂下 日無坂中腹 日無坂上 日無坂上 小布施坂下をそのまま南へ進み、右折し、次を右折し、ふたたび北へ向かう。 ちょっと歩くと、緩やかな坂道が細くなって、階段坂になるが、ここが日無坂である。

細めの階段坂というのはどことなく風情があるが、ここはその典型のように思える。

ちょっと前に、安住洋子「日無坂」という時代小説を読んだら、ここが次のように描かれている。

『下雑司ヶ谷町の大通りから南に下る日無坂は、細く長く南蔵院の裏手まで延々と延びている。
 幅一間もなく、両側は大名の下屋敷の土塀が続き、さらに、その上から松や欅[けやき]などの大木が覆い被さるように生い茂っているので、日中でも薄暗い。』

その大通りとは、現在の目白通りであろう。下一枚目の尾張屋清七板江戸切絵図の雑司ヶ谷音羽絵図(安政四年(1857))を見ると、ヒナシサカ、とある。

雑司ヶ谷音羽絵図(安政四年(1857)) のぞき坂上 坂上は、富士見坂上につながっている(現代地図)。こちらは坂上から見下ろすと、みごとにまっすぐに下っている。

ここから目白通りに出て、左折し、西に向かう。

ちょっと歩いてから、左折し、都内随一の急坂、のぞき坂の坂上から暮れかかった風景を眺める(現代地図)。

坂上から引き返して、副都心線雑司が谷駅へ。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
安住洋子「日無坂」(新潮文庫)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グランド坂

2015年12月09日 | 坂道

グランド坂周辺地図 グランド坂上 グランド坂上 グランド坂上 早稲田通りの八幡坂を上り、坂上をそのまま西へちょっと歩くと、西早稲田の交差点(現代地図)。

交差点を渡り、そのまま北へ坂を下るが、途中で気がつき、引き返す。そのまま下ると、新目白通りで、その左に甘泉園公園があるが、ここにはかなり前きたことがあり、公園の上側に堀部安兵衛の石碑があったことを思い出した。

交差点まで引き返す。交差点を背にし、右側(東側)がグランド坂の坂上で、グランド坂通りの標識が見える。坂上からちょっと下ると、右に大きくカーブしながらなだらかに下っている。

グランド坂上 グランド坂上 グランド坂中腹 グランド坂中腹 坂上からの下りカーブが終わるあたり右側(東側)歩道に、坂の標柱が立っていて、次の説明がある。

『グランド坂
 戸塚球場(今の早大総合学術センター)のグランドから、六大学リーグ戦に向け練習に励む学生達の声が響いてくることからグランド坂と呼ばれるようになった。戸塚球場は昭和二四年、早大野球部育ての親、安部磯雄教授の逝去により安部球場と改称し、昭和六二年まで存続した。  新宿区教育委員会』

昭和31年(1956)の東京23区地図の新宿区を見ると、西早稲田の早稲田通りからいまの新目白通りの電車通りへ下る道は、まっすぐに北へ下る広い道路はまだなく、このグランド坂しかない。坂の中腹下り方向左(西側)に、早大球場とあるが、いまはないようで、図書館になっている。地名の由来になったものがすでにないが、名だけ残った例の一つである。

いつもの明治地図や戦前の昭和地図には、このあたりがのっておらず、この坂が何時ころできたかちょっと不明。

グランド坂中腹 グランド坂中腹 グランド坂中腹 グランド坂中腹 坂上からの下りカーブが終わると、ほぼまっすぐに東北へ下っている。

坂下の新目白通りまでかなり長い。坂上の交差点のあたりは牛込台地の高所と思われ、神田川流域の坂下低地まで、緩やかであるが、かなりの高低差を下るように感じる。

坂中腹になると、両側が早稲田大学の敷地であるためか、住宅街と違って静かな雰囲気で、落ち着いた感じである。 先ほどまでの八幡坂と違って、人も車も少ない。煩雑で賑やかな坂から落ち着いて静かな坂へと、その変化を感じながらゆったりとした坂道散歩を楽しむことができる。

グランド坂下 グランド坂下 グランド坂下 牛込市谷大久保絵図(安政元年(1854)) 大学の門を過ぎると、ちょっと左に緩やかにカーブし、次第に勾配も緩やかになっていくが、それにつれて坂下側でまたちょっと賑やかになる。

この坂は、坂上と坂下でちょっとカーブしているのがまたおもしろく、単にまっすぐになっているよりもよい坂の雰囲気をつくっている。

四枚目は、江戸切絵図尾張屋清七板の牛込市谷大久保絵図(安政元年(1854))の右上の部分図である。穴八幡の西側には、町屋や武家屋敷もあるが、畑が広がり、川の流域は田んぼであろうか、細長い高田馬場も見える。

坂下の新目白通り(現代地図)を左折しちょっと西へ歩くと、都電荒川線の終点(始点)、早稲田駅がある。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八幡坂(早稲田)

2015年12月06日 | 坂道

今回は、早稲田の八幡坂からはじめて牛込台地を下り神田川を渡り目白台の方まで散策した。

穴八幡神社周辺地図 高田八幡男坂 高田八幡男坂 穴八幡神社境内 午後東西線早稲田駅下車。

出口3bから出ると、早稲田通りであるが、西側へちょっと歩くと、馬場下町の交差点(現代地図)。このあたりから早稲田通りを西北へ上るのが八幡坂である。実際は、交差点の手前から勾配がつきはじめている。

このすぐ東にある夏目坂には何度か来ているが、この坂ははじめてである。

交差点を渡って南側へ行くと、穴八幡神社(高田八幡宮)の参道があるので、ちょっとお邪魔する。急な階段を上ると、かなり広い境内がある。この階段が高田八幡男坂(今回はうっかりして女坂によらなかった)。

八幡坂下 八幡坂下 八幡坂標識 八幡坂標識 神社から坂下までもどり、坂を上るが、左手の石垣が神社側である。西北へほぼまっすぐに緩やかに上っている。あまり面白味のない坂であるが、幹線道路のせいで、しかたがない。こんな坂は、都内にはここだけでなく、多い。

坂下に東京都による大きな石碑からなる標識が立っていて、歩道側に次の説明がある。

『八幡坂(はちまんざか)
 坂名は穴八幡にちなんで八幡坂と名づけられたものである。
 この地は、もと高田と呼ばれ、穴八幡は高田八幡とも呼ばれていた。
 昔の道は急坂で、坂の下り口、上り口には、いわゆる「立ちん坊」が立ち、荷車の暴走を止める手助けをして、賃金をもらっていたと伝えられる。昭和三九年一二月、地下鉄早稲田駅が開業して、坂下の馬場下付近はにぎやかさを増した。
   昭和五十八年三月    東京都』 

坂名は、この説明にあるように、この神社に因む。これは他の八幡坂(たとえば小山の八幡坂)と同じである。

八幡坂下 八幡坂下 牛込市谷大久保絵図(安政元年(1854)) 江戸名所図会 高田八幡宮 江戸名所図会 高田八幡宮(其二) 三枚目の江戸切絵図尾張屋清七板の牛込市谷大久保絵図(安政元年(1854))を見ると、穴八幡神社が描かれ、その北側に龍泉寺(竜泉院)、法輪寺があるので、これらの間にある西への道が現在の早稲田通りに相当し、この道にこの坂があったのであろう。

四、五枚目は「江戸名所図会」の高田八幡宮の挿絵である。四枚目の挿絵と上記の江戸切絵図とを見くらべると、この挿絵の石段が男坂とすると、その右にある右へ延びている道がこの坂となる。ただし、挿絵には法輪寺が描かれているが、その位置が江戸切絵図と合わない。

五枚目の挿絵(右半分)を見ると、右の急な階段が男坂、左の緩やかな階段を女坂とすると、右端中央から左上に描かれている道がこの坂の上側であろう。

八幡坂中腹 八幡坂中腹 八幡坂上 八幡坂上 「江戸名所図会」の本文に次の説明がある。

『高田八幡宮 牛込の総鎮守にして高田にあり。(世に穴八幡とよべり。)この地を戸塚と云ふ。別当は真言宗にして光松山放生会寺と号す。・・・』

このあたりを含む牛込の総鎮守で、江戸八所八幡の一つ。

そのむかし、新たに迎えた社僧の草庵をつくるため山腹を切り開くと、霊窟があり、その中の石の上に金銅の阿弥陀の霊像が一体たっていた。これを奇とし、穴八幡の名がついたが、その旧跡が今なお坂の傍にあると、本文に記されている。これが穴八幡といわれるようになった所以のようである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする