蒟蒻閻魔を出て左折し北へ商店街を通り、信号を左折する。このあたりも商店街で、人の往来も比較的多く、活気あるように思った。ちょっと歩くと、善光寺坂の坂下である。この坂下を左折すると、前回の六角坂下になる。
上に見える善光寺まではほぼまっすぐ中程度の勾配で上っている。門前で少し曲がり、その上側でまた曲がってから坂上に至るが、途中みごとにうねっている。
ここは以前二度ほど訪れたことがあり、そのときからよい坂という印象があるが、今回もそうであった。車もときたま通る程度で、落ち着いて静かな坂である。
坂上の先に伝通院があるが、昔この坂のふもとに伝通院裏門があった。
坂の中腹まで上ると、善光寺の門前であるが、その横に坂の説明板が立っている。次の説明がある。
『善光寺坂(ぜんこうじざか) 小石川2丁目と3丁目の間
坂の途中に善光寺があるので、寺の名をとって坂名とした。善光寺は慶長7年(1602)の創建と伝えられ、伝通院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭で、縁受院(えんじゅいん)と称した。明治17年(1884)に善光寺と改称し、信州の善光寺の分院となった。したがって明治時代の新しい坂名である。坂上の歩道のまん中に椋(むく)の老木がある。古来、この木には坂の北側にある稲荷に祀られている、澤蔵司(たくぞうす)の魂が宿るといわれている。なお、坂上の慈眼院の境内には礫川(れきせん)や小石川の地名に因む松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。
"一しぐれ 礫(つぶて)や降りて 小石川" はせを(芭蕉)
また、この界隈には幸田露伴(1867~1947)・徳田秋声(1871~1943)や島木赤彦(1876~1926)、古泉千樫(1886~1927)ら文人、歌人が住み活躍した。』
尾張屋板江戸切絵図を見ると、小石川(千川)から西への道があり、そのさきで六角坂下に続く道をあわせているが、そのちょっと西側に伝通院の裏門がある。裏門から道が西へとほぼまっすぐに延び伝通院の中門へ続いている。途中、裏門のすぐわきに、縁請院とあるが、これが伝通院の塔頭(たっちゅう)であった縁受院であろうか。その上に、八幡宮を挟んで、慈眼院・沢蔵主稲荷が見える。
近江屋板を見ると、この坂には沢蔵司稲荷しかのっておらず、うねった道が伝通院へと続いている。
現在、坂下から善光寺の門前までまっすぐに上っており、江戸切絵図もそうなので、坂下から善光寺までも江戸からの道と思ったが、明治地図を見ると、善光寺の門前まで上る道が坂下から直進せずに、上りに向かって右斜めに上り、途中で左に大きく曲がってから門前に至る。上の門前の写真のように、現在も門前に向かって右に延びる道が残っており、こちらの方が江戸からの道と思われ、説明板の位置がこの道筋になっているのもそのためかもしれない。次に訪れたらこの道も歩いてみたい。
坂下側で上記の問題があるものの、この坂は、坂名こそ明治になってからのものであるが、伝通院の中にあった坂で、江戸から続いているものと思われる。
善光寺を過ぎると、右側に沢蔵司稲荷・慈眼院の石垣が続いて風情のある坂道となっている。その石垣の先に沢蔵司稲荷・慈眼院の門前の階段がある。
「江戸名所図会」に、伝通院裏門の挿絵がのっているが、裏門から入ると、右手に塔中とあり、正面に八幡の社がある。このわきを通る道がこの坂であろうか。裏門の手前に、左(南)への道があり、その道に上側(西)から合流する道が見えるが、これが六角坂下と思われる。八幡宮は廃社となっている。
さらに、「澤蔵主稲荷社」の挿絵がのっており、稲荷社の鳥居から階段を下りた道に通行人がいて、その先に、茶屋があり、伝通院が見える。この道筋が現在の坂道であろう。稲荷の後ろの方に山が描かれているが、これは小石川の谷の向こうの白山台であろうか。
「江戸名所図会」の伝通院のところに、澤(多久)蔵主稲荷の社について、「往古狐、僧に化け自ら多久蔵主と称して、夜な夜な学寮に来たり法を論ずといへり。のちに稲荷に勧請して当寺の護法神とせり。」という説明がある。これでは、説明が不十分であるが、左の写真の説明板を読むと、もう少しわかる。沢蔵司(たくぞうす)という修行僧にまつわる伝説らしい。
坂上の門前に大木が立っているが、これが説明板にある椋の老樹であろう。
永井荷風「伝通院」に、「夕暮よりも薄暗い入梅の午後牛天神の森陰に紫陽花の咲出る頃、または旅烏の啼き騒ぐ秋の夕方沢蔵稲荷の大榎の止む間もなく落葉する頃、私は散歩の杖を伝通院の門外なる大黒天の階(きざはし)に休めさせる。」とある。この大榎は椋のことと思われるが、沢蔵稲荷と大木は、昔からセットになって有名だったのであろう。
坂上近くに、以前坂下から来たとき、右側に「幸田」という表札のある、幸田露伴の旧居と思われる家があったが、今回は気がつかなかった。
右の写真のように椋の大木の先も緩やかな上り坂となっているが、ここも善光寺坂に入るのか不明であるが、坂上側から来れば、ここもそうだと思ってしまう。
水上勉は、富坂二丁目に住んでいたころを回想して、次のように書いている。
「伝通院から少し坂になった道の左側に竹を編んだ長い塀のあるのが幸田露伴邸、そのさらに左手の低みの家並みの中に野間宏邸があるはずで、文学青年の私には、この眺望はいつもまばゆい空の下にあった。」
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
水上勉「私版東京図絵」(朝日文庫)