東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

葵坂の坂跡

2010年08月31日 | 坂道

前回の記事の葵坂は、現在、存在しない坂(石川)とされているが、その跡を訪ねてみた。

午後虎ノ門駅下車。

桜田通りにでてちょっと歩くと、右手に金刀比羅宮の参道がある。社殿を左に見ながらここを通り抜け左折する。

左の写真は左折した通りを見たものである。写真の左手に境内の樹木が見える。 ここは、直進すると汐見坂の中腹にでる通りである。

江戸切絵図を見ると、金刀比羅宮はコンピラとなっていて、四国丸亀藩主の京極佐渡守の屋敷の中にある。

上記の通りの右手が、葵坂の滝から流れてくる水の堀があったところである。

上記の通りを進み、次の虎の門病院の手前を右折した通りが葵坂の坂跡(坂下)と思われる。

右の写真は坂下側から撮ったものである。坂上は広い外堀通りにつながる。坂上側がかなり緩やかだが上りとなっている。

横関は、今はほとんど忘れられて、さびれた裏道の坂の一つとなってしまった、と書いているが、それは昭和30年代の話であって、いまは、大きなビルの間を通り抜ける一方通行の二車線のなんの変哲もない通りだが、さびれた裏道ともいえない通りとなっている。

この坂の右手一帯は、戦前には、虎ノ門公園であったようで、荷風の記述ともあっている。この公園のわきに満鉄東京支社があったという。

葵坂の由来は、他の説もあるらしいが、近くの江戸名所である葵ヶ岡(地名)とするのが妥当のようである。

左の写真は坂上側から撮ったものである。この外堀通りにでるあたりで少し傾斜している。これが葵坂の名残りであるのか不明である。

上記の公園は、金刀比羅宮の脇の通りと葵坂と外堀通りとがなす三角形状の土地で、その坂上側の先端角が写真の左側にわずかに残っている。樹木が植えられた三角形状の狭い公園である。

横関によれば、葵坂は平坦な小さな坂になってしまったとしているが、坂上の葵ヶ岡やこの辺りの小高いところの土は、溜池の埋め立てのとき、すべてくずされて、その築地のために使われたとし、葵坂の勾配もそのとき削られて平になったのであろうと推測している。

前回の記事の荷風作の地図には、葵坂わきの堀の対岸に石垣の跡が示されている。横関は、江戸城外堀の西南端を示す石垣(その著書に写真在り)であったとし、その一部が昭和28年に都史跡に指定されたらしいが、今回、どこにあるのか(どこにあったのか)わからなかった。
(続く)

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」 (人文社)

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葵坂

2010年08月30日 | 坂道

江戸切絵図を見ると、霊南坂下からほぼ真っ直ぐに、汐見坂上と榎坂上との交差点を通って北側に進み、突き当たりを右折したところに葵坂というのがある。溜池の池尻近くである。調べてみると、いまは存在しない坂となっている(石川)。

永井荷風の「断腸亭日乗」昭和7年(1932)4月5日に次の記述がある。

「四月五日。雨ふりてはまた歇む。晡下銀座に徃く。道すがら、潮見阪下旧伏見宮屋敷跡の空地を過ぐ。虎の門金毘羅社裏手に向きたる平地は野球練習場となりたれど、西隅一帯は岡をなし松椎桜檜などの老樹茂りたり。いづれも震災の際火を免れしものなるべし。其中一株の銀杏あり。幹の半面は焼けたる跡あれど、今猶枯れず。見事なる大木なり桜は宮家にて植えたるものなるべし 江戸名所の葵ヶ岡といふはこの岡のあたりなる由東京名所図会風俗面報社編纂の説くところなり。葵阪の滝といひしも此岡に昇る道のほとりに在りしなるべし。溜池と上水堀埋められて地勢一変したれば今は明には知り難し。明治三十年頃には虎の門外に猶濠残りて在りし故現在の如く東京倶楽部門前の道路はなく。道行く人は宮家西隅の高き石垣下の道路を歩みしやうに記憶す。即現在虎門外公園裏手の道なり。・・・」

荷風は上記の日記のあとに、次の註を付して下の自作の地図を添えている。

「霊南阪江戸見坂ヨリ溜池電車道虎門ノ辺古今ノ変遷大畧左図ノ如シ葵阪ノ滝ハ溜池ノ水ノ堀ニ落込ム処今日電車通東京倶楽部門前公園地ノ地尻ニ当ル辺カト思ハル」


上の地図を見ると、葵坂の位置がよくわかる。

荷風がいう、虎の門金毘羅社裏手に向きたる平地とは、現在の国立印刷局や虎の門病院などがある一帯で、その西隅一帯の岡が江戸名所の葵ヶ岡で、現在の共同通信会館やJTビルのある辺りであろう。

葵坂は金毘羅社の方から岡に上る坂であったようである。この坂上側に溜池の堰(上の図にも示されている)があって、堰から流れ落ちる滝を葵阪の滝といったらしい。

溜池は明治20年(1887)に埋め立てで消滅したが、荷風によれば、明治30年頃には虎の門外にまだ濠が残っていたため昭和7年当時の東京倶楽部門前の道路はなかったとしている。

上の荷風作の地図は、嘉永三年の切絵図をもとにし、今昔混合であり、むかしの溜池と滝からの下流を示している。この水は新橋下を通って今の東京湾に注いでいたとのこと。
(続く)

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
永井荷風「断腸亭日乗」(岩波書店)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)

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偏奇館跡そばの古びた階段(続き)

2010年08月28日 | 荷風

以前、偏奇館跡そばの古びた階段の記事で、松本泰生「東京の階段」(日本文芸社)に写真とともに紹介されている偏奇館跡そばの古びた階段の位置を検討したが、この階段について面白い記載(正確には図)を見つけた。なお、この階段の写真は、1994~95年に撮影され、同氏による「Site Y.M.建築・都市徘徊」でも閲覧できる。

松本哉「永井荷風の東京空間」(河出書房新社)という本の中の図である。

「偏奇館跡」変貌記、という章に、「今昔混合・土地の高低強調 麻布・荷風寓居周辺図」と題した図がある(57頁)。

なかなか興味ある図で、麻布市兵衛町にあった偏奇館の周囲を台地と谷とに分けて描いている。その図の一部を拡大したのが下の図である。



谷町の谷から延びた御組坂の左手の崖上に偏奇館がある。道源寺坂が西光寺、道源寺と崖との間に崖に沿って谷から上っている。

道源寺坂から崖づたいに偏奇館跡に行く道があるが、その途中の崖に階段らしきものが小さく描かれている。谷町の文字のちょうど上である。かなり小さく注意して見ないと見過ごしてしまうほどである。

これが、偏奇館跡そばの古びた階段であると思われる。 著者の松本哉が偏奇館跡を訪れたのは、本文の記載から平成4年(1992)春のようであり、このときに階段はまだ存在していたから、この図を描くときにいれたものであろう。

上の図から、谷町の谷の様子がよくわかり、その右に落合坂が下る谷がみえるが、ここが我善坊谷である。

中沢新一「アースダイバー」の「湯と水 麻布~赤坂」にある、洪積層と沖積層とを描き分けた地図を見ると、御組坂のところが沖積層になっており、我善坊谷も同じく沖積層である。縄文海進期にはここまで海が入り込んでいたという。

ところで、松本哉は上の図をどのようにして描いたのであろうか。実際にこの界隈を歩き、地図で調べたのであろうが、そうだとしても、俯瞰図となっており、平面的な情報に基づき上から眺める図にするには、それなりの感覚や想像力が必要と思ったところ、巻末を見たら、現在・絵本作家、イラストレーターとあったので、納得した次第である。

松本哉の著書は自ら描いた絵や図がたくさんのっていて楽しい。惜しいことに数年前に亡くなられている。

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玉川上水跡(初台~新宿)

2010年08月27日 | 散策

山手通りを初台の交差点で横断し、甲州街道の歩道を進み、さらに交差点を渡り、正春寺の前をすぎると、右手の小路に鳥居が見える。

右の写真のように、小祠が祀られており、そのわきに大きな銀杏がある。

樹の側に立っている説明板によると、この樹は、離れて見ると箒(ほうき)を逆さにしたように見えることから箒銀杏と呼ばれ、樹齢二百年と推定され、近くを流れていた玉川上水により育てられたと考えられるとある。

天満宮の小祠があることから、この近くの玉川上水にかけられていた橋は天満橋と呼ばれたとのことである。

箒銀杏のある小路を進むと、右側に公園らしきところが見え、玉川上水跡の続きと思われる。正春寺の裏手から続いているようである。

小路の先の左側を見たのが、左の写真である。ここも上水跡の続きで、左手の樹木のある歩道が上水跡のようである。

この歩道を進むと、文化服装学院の前にでて広い歩道となる。ここはかなり広く、広場のようになっていて、歩いていて気持ちがよい。ここの一部は玉川上水跡と思われるが、その痕跡はない。唯一あるのが下のモニュメントである。

広場をしばらく進むと、右の写真のような煉瓦造りのアーチが見える。その側に「玉川上水の記」と題する銅製の説明パネルがある。それによると、かつてこの地には玉川上水が流れていたとある。

さらに、明治以降の玉川上水の歴史の説明もある。明治31年(1898)、東京の近代水道創設に伴い、杉並区和泉町から淀橋浄水場に新水路が開削されたため、和泉町から四谷大木戸までの下流部は導水路としての役割を終え、余水路として使用されることとなった、とある。

新水路は前回の記事にでてきたが、これができてから、この新水路の方が玉川上水の主な流れとなったようである。

このモニュメントは、明治時代に新宿駅構内の地下に設けられた、玉川上水の煉瓦造りの暗渠をモチーフとし、当時の煉瓦を一部使用し、ほぼ原寸大で再現したものとのこと。

玉川上水の堀の終点である甲州街道の四谷大木戸の近くの新宿御苑内に、玉川上水を偲ぶ水路をつくるらしいが、そこもいつか訪れてみたい。

甲州街道の歩道を進み新宿駅へ。

携帯による総歩行距離(家を出てから家に帰るまで)は15.5km。

参考文献
肥留間博「玉川上水」(たましん地域文化財団)
東京23区市街図2005年版(東京地図出版)
東京人 特集「東京の川を楽しむ」⑧ august 2010 no.285 (都市出版)

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玉川上水緑道(2)

2010年08月26日 | 散策

 笹塚駅前をぐるりと半周して南側に進むと、すぐに橋がかかっている。第三号橋とある。この橋の下流で玉川上水跡が開渠している。

右の写真のように、堀が浅いが、水がわずかに流れていて、これでもう少し流れていればよい親水風景になるのにと思う。といっても、前回の記事の上流側の上水跡も含め都会の中とは思えないのどかな風景になっている。

上流の上水跡はここよりもたくさん水量があったが、この堀は少なくなっている。上流側で水量制限しているのだろうか。

この上水跡に沿ってしばらく歩くが、上水跡を眺めながら散歩でき、距離はさほどないが、よい散歩道となっている。

まもなく笹塚橋に至る。

左の写真は笹塚橋から下流を撮ったものであるが、川底は水草でいっぱいである。

写真からもわかるように、この橋の下流でふたたび暗渠になる。

玉川上水は、灌漑用水、飲料水、水車の動力などのため途中のあちこちで各地に分水されており、この暗渠の始まりのところには三田用水の分水口があったという。

これより下流で玉川上水跡が開渠することはないので、上水跡の堀はこれで見納めである。

笹塚駅の周囲は渋谷区であるが、笹塚橋から下流に向かうとふたたび世田谷区に入る。

右の写真は、暗渠になった先から玉川上水緑道を撮ったものである。まっすぐに南東へ延びている。

玉川上水跡は笹塚駅に近づき、そこからふたたび南へ、南東へと、方向を変えているが、これは、笹塚駅の東側に南北に延びる谷があったのでこれを避けた結果であるという。

上記の理由から玉川上水は井の頭通り近くまで延び、そこから反転し、北側に向かう。このように谷のへりを回るようにして低地を回避している。

ここで中野通りを横断すると、渋谷区大山町である。

中野通りのわきの緑道入口に、「渋谷区立 玉川上水旧水路緑道」のパネルが立っている。緑道の呼び名が違うようであるが、「旧水路」が追加されているだけである。

この緑道に入ると、これまでの雰囲気と変わり、横にやけに広くなる。

ここから緑道は北へ、北東へと延びており、幡ヶ谷駅に向かう。

左の写真は緑道に入ってまもなくのところで撮ったものである。

緑道を進むと、橋の欄干が所々に残っており、頻繁にあらわれる。緑道もしだいに通常の幅となる。

幡ヶ谷駅前をすぎ、初台駅近くで撮ったのが右の写真である。緑道のわきに沿って水の流れがつくられており、涼しさを感じる風景となっている。

ここから高速道路に沿って新宿方面に向かうが、かなり暑いのでこのあたりでは、少々バテ気味になる。

やがて山手通りに至る。はっきりしないがここで緑道が終わりとなるようである。
(続く)

参考文献
肥留間博「玉川上水」(たましん地域文化財団)
東京23区市街図2005年版(東京地図出版)

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玉川上水緑道(1)

2010年08月25日 | 散策

玉川上水は、玉川上水公園から井の頭通りを越えて甲州街道に沿って延びていたらしいが、その跡はなさそうなので、そちらには行かず、井の頭通りを左折し、和泉二丁目の交差点に進む。

コンビニがあったので水分補給をしてから、交差点を東に進むと、細長い公園がある。

右の写真はその西側の公園である。 以前、地図で見たとき、ここが、玉川上水公園から続く玉川上水跡と思ったがそうではなさそうである。

明治時代に和泉給水所のところで分かれた新水路が西新宿の淀橋浄水場へまっすぐに向かっていたとのことであるが、この新水路の跡が甲州街道の北の水道道路である。地図を見ると、上記の細長い公園の東に水道道路が延びているので、この細長い公園は新水路の跡と思われる。

公園を通り、その先の狭い商店街の通りを抜け、甲州街道の上で高速の下にかかる歩道橋を渡る。ここで杉並区から世田谷区に入る。

歩道橋を下りて歩道を東側に少し歩くと、少々古くなった玉川上水の説明板が立っている。その先に出入口があるが、このあたりは高速の下のためもあって薄暗い。

出入口から細い散歩道に入ると、右側に玉川上水跡が開渠している。玉川上水跡は、下高井戸からここまでほぼ甲州街道に沿ってきたが、ここから南側に向かう。

左の写真のように、上水跡は樹木で鬱蒼としており、いきなり異次元空間に迷い込んだような錯覚に陥るほどである。堀には水がところどころに溜まっているようであるが、流れはない。

散歩道を進み、京王線代田橋駅のホームの下を通り抜けると、上水跡にゆずり橋がかかっている。傍らに立っていた説明板によると、この橋は、管理上、玉川上水一号橋といったが、新しい名(ゆずり橋)がつけられた。この橋のわきに平行に、代田橋駅前の和田堀給水所から引かれた水道管が敷設されている。

代田橋は甲州街道が玉川上水を渡る橋であったが、いまはないとのこと。

ゆずり橋の下流で玉川上水跡は暗渠になっていて、その上は公園風につくられている。区立玉川上水緑道の地図つき案内板が立っているので、ここから玉川上水緑道が始まるようである。

この緑道を進み、地下道を通り抜けて環七通りを横断すると、緑道がさらに続き、入口に緑道の碑が立っている。右の写真はその先で撮ったものである。

このあたりから玉川上水跡は方向を変えてふたたび東に向かう。

玉川上水が代田橋のところから急に甲州街道を離れたのは、その先(現在の大原交差点)で谷がいりくんでいるためこれを避けるためであったらしい。

しばらく歩くと、古びた感じの稲荷橋につくが、この下流から玉川上水跡がふたたび開渠している。

玉川上水跡の両脇に下流に向けて歩道ができているが、左の写真は途中で堀を撮ったものである。堀には水がかなり溜まっており、流れもある。

玉川上水跡を上流から流れてくる水は中央高速の下あたりで暗渠になり神田川に注ぐので、このあたりの水は地下からの湧き水らしい。よく見ると鯉も泳いでいる。

この玉川上水跡に沿って進むと、ふたたび暗渠になるが、緑道の続きらしい歩道を進むと、笹塚駅前に至る。
(続く)

参考文献
肥留間博「玉川上水」(たましん地域文化財団)
東京23区市街図2005年版(東京地図出版)

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玉川上水公園(2)

2010年08月24日 | 散策

しばらく歩くと、荒玉水道道路を横断する。この道路は、ここから北側で、右の写真のように、神田川の谷に向けてまっすぐに下る坂になっている。下っていくと神田橋で神田川を渡り、そこをすぎると、井の頭通りに至り、さらに北へと延びている。

荒玉水道とは、大正時代から昭和中期にかけ、多摩川の水を砧(現・東京都世田谷区)から野方(同中野区)と大谷口(同板橋区)に送水するために使用された地下水道管のことで、当時、東京の発展に伴う人口の増加による、上水の需要増により敷設されたとのこと(Wikipedia)。この荒玉水道に沿って荒玉水道道路がある。

玉川上水は台地の尾根をとおっているといわれるらしいが、このあたりでは神田川の谷がせまっているため崖ぎわに沿ってつくられたという。

ここから先(下流側)が玉川上水第三公園になる。

歩き始めてからずっとそうであるが、セミがたくさんないており、かなり騒がしい。これぞ夏という感じである。

左の写真は、木の比較的低いところでないているセミを見つけて撮ったものである。アブラゼミ二匹、クマゼミ一匹が写っている。

玉川上水は、江戸時代、幕府により江戸市街の拡大に対応するためにつくられたもので、多摩川そばの羽村(現・羽村市)から四谷大木戸(現・新宿区内藤町)まで距離約43kmの素堀りの上水路である。

しばらく歩くと、いつのまにか右の写真のように幅広の公園になるが、周りよりも低くなっている。上水の堀をそのままにしたものらしい。

玉川上水の建設事業は、承応二年(1653)四月に庄右衛門・清右衛門の二人が建設工事を請け負い、その年の十一月に完成させた。かなりの突貫工事であるが、それだけの経験と技術を持っていたのであろう。

さらに進むと、下高井戸橋のところで途切れるので、いったん、甲州街道の歩道にでる。上は高速道路のため、このあたりから先は車の騒音でかなりやかましい。

左の写真は、その下高井戸橋である。欄干がかなり古びていることがわかる。

玉川上水は、四谷大木戸からは暗渠になり、四谷見附から外濠を越え江戸城までの幹線と、四谷見附から外濠に沿って溜池の西側を通り虎ノ門までの幹線を承応三年(1654)四月に完成させたとのこと。

赤坂・虎ノ門を経て、銀座・築地・八丁堀・新川などの埋め立て地に主に給水され、南は古川を限り(一部は超えて)給水されたという。

橋を越えてから、ふたたび玉川上水の跡に入ることができるが、ここから先は、右の写真のように樹木で鬱蒼としており、先ほどよりも上水の堀がそのまま残っているようで荒れた感じである。

下流側の明大前に立っていた説明パネルによれば、下高井戸橋から下流側のこの一帯は、玉川上水永泉寺緑地とよぶとのことである。

やがて、高速の下で行き止まりとなる。そこに、「玉川上水路敷」の使用許可の説明パネルが立っており、使用目的が公園敷である。玉川上水公園と緑地は杉並区が東京都水道局からかりてつくったものとのこと。

高速道路の下の甲州街道の歩道を東側にしばらく歩くと、築地本願寺和田堀廟所の門をすぎ、さらに進むと、明治大学和泉校舎の入口前に出る。この前に明大橋の石柱があり、玉川上水跡の説明パネルが立っている。

下流から上流に向かって、玉川上水公園、玉川上水永泉寺緑地、玉川上水第三公園、玉川上水第二公園の順に並んで、全長約2000mとのことであるが、玉川上水第一公園というのがない。道路拡張かなにかで消滅したのだろうか。あったとすれば、玉川上水第二公園の西側のはずだが。

 説明パネルから先が玉川上水公園である。入口近くは自転車置き場のようになっており、進むと、左下に井の頭線が通っている。さらに進むと、広場がある。

この公園は井の頭通りまで続き、玉川上水の跡はこの通りでいったん途切れる。

左の写真のように、通りの向こうに、都水道局和泉給水場のタンク二基が見える。
(続く)

参考文献
肥留間博「玉川上水」(たましん地域文化財団)
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)

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玉川上水公園(1)

2010年08月23日 | 散策

以前の記事のように、北沢川緑道を歩いた後、玉川上水第二公園をほんの少し歩いたが、今回、その続きを歩いた。

浜田山駅から歩き、柏の宮公園を通って、その下の田圃を見る。田圃には鳥よけのネットが全面に張られていた。

そこから、神田川の鎌倉橋を渡り、塚山公園を通り抜けて、鎌倉街道を南側に進む。旭橋のバス停の先から左側の玉川上水第二公園に入る。

左の写真は、その玉川上水第二公園の出入口を撮ったものである。「杉並区 玉川上水第2公園」の石碑が立っている。 階段があるように、周囲よりも若干高くなっている。

ここは、緑道ではなく公園の位置づけのようであるが、散歩道と同じで、道は土となっている。ここから東側に向けて歩く。

猛暑の中、陽が雲で陰りそうであったので、出かけてきたが、予想に反し、雲になかなかかくれない。しかし、右の写真のように、両側に植えられた樹木で木陰ができて、強い日射しがかなり緩和される。

散歩道が風の通り道となっているのか、ときおり風が吹いてきて心地よい。

玉川上水は、富士見ヶ丘小学校の西側の中央高速の下付近で暗渠になっているが、そこまで流れてきた水は環八通りの下を通って高井戸駅前で神田川に注いでいるとのこと。

玉川上水は、もともと、高速の下に沿って環八通りの中の橋を通り、高速が甲州街道と平面上交わる付近へと延びていた。そこから下流側の玉川上水の跡がこの玉川上水公園である。

しばらく歩くと、左の写真のように、水の流れができており、散歩道に沿って長くはないが清冽な流れとなっている。人工的なものであるが、暑い中、眺めるだけで涼しい感じがする。

玉川上水第二公園は、盛り上がっていて周りよりも高いので、道路が横切るたび、道路に下りてふたたび公園に上る。
(続く)

参考文献
肥留間博「玉川上水」(たましん地域文化財団)

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山谷坂

2010年08月21日 | 坂道

前回の記事の霊南坂に行く前に、近くの山谷坂に行った。

右の写真は坂下から撮ったものである。緩やかにほぼ真っ直ぐに上るが、坂上側でちょっと傾斜が大きくなっている。坂上を左折していくと霊南坂である。

山谷坂に坂上側から行く場合、霊南坂からの通りにある「ホーマットプレジデント」というマンション(写真右)の側を下る。谷町側からは、全日空ホテルの左手にある桜坂を上り、道なりに進むと坂下に至る。

坂下は、もとの麻布谷町であるが、それよりむかしは今井山谷町とよばれていたので、山谷坂は、これに由来するものであろうとある(石川)。江戸切絵図を見ると、坂下に今井山谷町というのがある。ちょうど、道源寺の北側に位置している。

「山谷」の由来について『新撰東京名所図会』に次のようにあるとのこと。

「三屋谷 昔、道源寺東北の低地を三屋谷と呼びにき、今、麻布谷町の内にして、万延(1860-61)の江戸切絵図には、今井山谷町と載せたり。新編江戸志に云ふ、三屋谷、谷町の先を云ふ、三ツ屋谷といはず、三ン屋谷と云ふよし、むかしは此所に家三軒ならでなしと、故に名づくとなり。」

左の写真は、坂上から撮ったものである。写真の左上隅に面白い標識が写っている。勾配を示すものらしく、下向きの矢印の下に11%と表示されている。

坂の印象としては、同じ通りから下る御組坂と似ている感じである。

この坂について横関が面白いことを書いている。戦前に、この辺りにきたとき、主婦に坂名を尋ねたところ、最近引っ越してきたばかりでよく知らないが、坂上の町会の案内図に「サンマ坂」と書いてあったという返事だった。その案内図を探し当てて見ると、確かにペンキで「サンマ坂」とあるが、よく見ると、マの上の方がかすれていて、最初に書いたのはマではなく、ヤであることを知った。やはり、この坂はサンヤ坂で、サンマ坂ではなかった。

横関はこの話を「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)の「坂名の変化転訛」の章に書いている。横関によれば、江戸っ子にとって、坂に名をつけることなどは、他人にあだ名をつけるよりもたやすいことであったとし、このため、江戸の坂の名はいつも固定していなかったとしている。坂名の変化転訛を六つに場合分けし、その一つに、誤って呼び違う場合がある。

その例として、永田町の三べ坂、高輪の桂坂をあげ、さらなる例として上記の山谷坂をあげているが、これは、正確には坂名が誤って変化転訛したかもしれない例である。

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)

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江戸見坂

2010年08月20日 | 坂道

汐見坂の坂下の信号を右折すると、江戸見坂の坂下である。

汐見坂と江戸見坂はこのときが初めてであったが、江戸見坂にきて驚いた。かなりの急勾配の坂であったからである。

右の写真は坂下から撮ったものである。坂上側で右に曲がっている。汐見坂と霊南坂の二つの坂の高低差と同じ高さをこの坂は短い距離で一挙に上るため、かなりの傾斜となっている。

『江戸名所図会』の霊南坂の項に次の説明がある。「江戸見坂は、霊南坂の上より、土岐・牧野両家の北の脇を曲がりて西窪の方へ下る坂なり。」

『紫の一本』に「この坂より江戸よく見ゆるゆゑ名とすとぞ。」とあるように、江戸の街がよく見えたということからこの名がついた。

永井荷風は、「日和下駄」で江戸見坂から愛宕山を前にして日本橋京橋から丸の内を一目に望む事が出来たとしている。横関も、この坂の上からは江戸市中が残らず見渡せたとしている。

左の写真は坂上から撮ったものである。坂上からの風景は望むべくもない。

坂下を見ると、急勾配の坂を原付バイクが大きなエンジン音をあげながら上ってくる。

横関の「続 江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)に、坂上の写真がのっているが、大きなビルがなく、その当時はまだ眺望がよかったことがわかる。

坂上を進むと、霊南坂からの通りの信号にでる。これで、ちょうど、霊南坂→汐見坂→江戸見坂を巡って一周したことになる。

関東大震災が起きた大正12年(1923)9月1日、荷風の「断腸亭日乗」に次の記述がある。「ホテルにて夕餉をなし、愛宕山に登り市中の火を観望す。十時過江戸見阪を上り家に帰らむとするに、赤阪溜池の火は既に葵橋に及べり。」(関東大震災と荷風(1)の記事参照)

荷風は、この日の夜、愛宕山から偏奇館に帰るとき江戸見坂を上ったようである。

また、「断腸亭日乗」大正15年(1926)1月16日に次の記述がある。

「正月十六日。終日旧稾葷斎漫筆を校訂す。晡時微雨ふり来りし故、暮れなば雪となるべしと思ひしに、雨は歇み風なき夜は思ひの外に暖なり。お富の家桜川町より江戸見阪下明舟町に移転せし由。初更の頃行きて訪ふ。」

荷風のこのころの愛人のお富が江戸見阪下の明舟町に住むことになった。このお富に荷風はかなり入れ込んだようで、同年1月12日の「日乗」を見るとよくわかる。もっとも、荷風は、気にいると、つきあいの始めのころによくこういういったことを書いている(たとえば、丹波谷坂と荷風の記事参照)。
(続く)

参考文献
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
永井荷風「断腸亭日乗」(岩波書店)
川本三郎「荷風と東京 『斷腸亭日乗』私註」(都市出版)

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汐見坂(潮見坂)

2010年08月19日 | 坂道

霊南坂から坂下を左折していくと、榎坂に至るが、右折し汐見坂(潮見坂)を下る。

右の写真は、坂上から撮ったものである。真っ直ぐに緩やかに下っている。

『江戸名所図会』の霊南坂の項に次の説明がある。「潮見坂は、同所松平大和侯の表門前に傍うて、溜池の上より東に下る坂をいふ。」

江戸切絵図を見ると、潮見坂と江戸見坂と霊南坂とで囲まれた所に松平大和守の屋敷がある。表門がこの坂に面しているので、大和坂の別名があった。

これらの坂の位置はむかしとさして変わりがないと想像されるので、現在のホテルオークラなどのある一帯が松平大和守の屋敷であったと思われる。

左の写真は坂下から撮ったものである。坂下と坂上に標柱が立っている。

『江戸紀聞』には次のようにあるという。「潮見坂 霊南坂の下を又東へ下る坂なり、西の窪の方へ出るなり。西へ下れば溜池の榎坂へ出るなり。往古は此辺まで入海なりしゆへかくいへりとぞ」。

『江戸砂子』には「此坂むかしは海見えたるゆへかくいふとぞ、今は大家続きて坂よりはみえず」とあるという。

標柱には、江戸時代中期以前には海が眺望できた坂である、と説明がある。

横関は、この坂について「よほど古い潮見坂と見えて、古くから海の見えない潮見坂であった」としている。

『御府内備考』は、上記の『江戸紀聞』の「往古は此辺まで入海なりしゆへかくいへり」という説を否定しているようである。

徳川家康入国(1590)前後の江戸湾は、いまの新橋から日比谷・丸の内にかけて日比谷入江が入りこんでおり、溜池もかなり大きく残っていた。いずれにしても、この坂から江戸湾が見えた時代があったのであろう。
(続く)

参考文献
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
貝塚爽平「東京の自然史」(紀伊國屋書店)

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霊南坂

2010年08月18日 | 坂道

猛暑が続き、とても街歩きに行けないので、今回は、ことし1月に訪れた霊南坂、汐見坂、江戸見坂について記事にする。これらの坂はその近くの榎坂を含め、すべて江戸の坂で、江戸切絵図に見える。

六本木一丁目駅で下車し、道源寺坂を上り、御組坂の坂上から続く通りを北側に進み、霊南坂の坂上に行く。

ホテルオークラの前の信号から少し進んだところで撮ったのが、左の写真である。まっすぐに下っている。左側に米国大使館がある。

霊南坂は『江戸名所図会』に次のように説明されている。

「溜池の上より麻布へ登る坂をいふ。慶長の頃高輪の東禅寺この地にあり。(寛永九年の江戸図によれば、東禅寺、溜池の上にあり。)かの寺の開山を霊南和尚と称す。道光を慕ひて坂の号に呼べりとなり。」

注釈に、霊南坂は嘉永頃には長崎坂と称したらしい、とある。また、東禅寺には次の注釈がある。「仏日山東禅寺。妙心寺末。慶長15年(1610)溜池に創建、寛永13年(1636)高輪へ移転。」

江戸名所図会によれば、高輪の東禅寺(柘榴坂~東禅寺の記事参照)が、この地(溜池の上)にあって、その創始者(霊南和尚)の名から霊南坂となったらしい。

これには異説があるようで、開山を嶺南といったので、嶺南坂とよんだが、後に霊南坂と改めた、との説明もある(横関英一)。

右の写真は、霊南坂の坂下から撮ったものである。冬の陽の光がまぶしい。

霊南坂を上り真っ直ぐに進み、御組坂を右折し下れば、永井荷風の住んだ偏奇館に至るので、霊南坂は荷風の「断腸亭日乗」にもよく登場する。大正11年(1922)12月7日には次の記述がある。

「十二月七日。午後散策。日暮霊南阪を登るに淡烟蒼茫として氷川の森を蔽ふ。山形ホテルにて晩餐をなし家に帰りて直に筆を執る。」

荷風は、この日、午後散歩に出かけ、霊南坂を上って帰ってきたようで、そのとき、うすいもやが氷川神社の森にかかっていた。(いま、この坂から氷川神社の森を望むことなどできない。)夕食を山形ホテルでとった。

大正15年(1926)「正月元日。・・・昼餔の後、霊南坂下より自働車を買ひ雑司ヶ谷墓地に徃きて先考の墓を拝す。墓前のろう梅今年は去年に較べて多く花をつけたり。・・・」

霊南坂下で自動車に乗り、雑司ヶ谷霊園に行った。荷風の父のお墓参りのためである。正月二日が命日であった。
(続く)

参考文献
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
永井荷風「断腸亭日乗」(岩波書店)
川本三郎「荷風と東京 『斷腸亭日乗』私註」(都市出版)

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山形ホテル

2010年08月16日 | 荷風

山形ホテルについては、川本三郎「荷風と東京 『斷腸亭日乗』私註」(都市出版)に詳しい。以下の記事は、これを参考にしたものである。

山形ホテルは、大正6年(1917)ロンドンから帰った山形巌によって建てられた小さな洋風ホテルであった。前回の記事の佐藤春夫の小説のとおりである。

山形巌は、大阪生まれで、子どものころにサーカスの芸人になり、ヨーロッパ興行に行った。軽業師だったという。大正時代ロンドンで暮らしていたが、大正3年(1914)の第一次大戦の勃発によって興行がたちゆかなくなり、大正6年、36歳のとき帰国し、麻布区市兵衛町二丁目四の五に二階建ての洋風ホテルを建てた。

川本の上記著書には、山形巌と従業員の写真と、ホテル外観の写真がのっている。

当時の東京には帝国ホテルと、東京ステーションホテルの他は大きなホテルはまだ少なく、山形ホテルは、小さなホテルでも来日する外国人でにぎわった。

山形ホテル跡(1)の記事に掲げた説明文(写真)のように、山形巌の子息が俳優の山形勲である。大正4年(1915)ロンドン生まれ。四男三女の二男。

山形勲は平成8年(1996)に亡くなっているが、川本三郎は生前に会って話を聞いている。それによると、小学生のころ、ホテルの食堂に来た荷風の姿をよく憶えているとのこと。

「荷風というと晩年の奇人ぶりがよく語られますが、そのころの荷風は、実におしゃれな紳士でしたよ。昼になると食事に来ましたが、夏など、白い麻の服を着て、子ども心にも、おしゃれなんだなと思いました」

荷風の「断腸亭日乗」に山形ホテルがよくでてくることは知られているが、始めてでてくるのは、大正9年11月19日である。

「十一月十九日。快晴。母上来訪。山形ホテル食堂に晩餐を倶にす。深更雨声頻なり。」

荷風は、この年の5月に偏奇館に移っており、この日、偏奇館に母が訪ねてきたので、ホテルの食堂で一緒に夕飯をとった。

客は圧倒的に外国人が多く、帝国ホテルで収容しきれなかった外国人がまわされてきたという。

山形ホテルは、昭和4年(1929)の世界恐慌で外国人客が減り、経営難となり、その後数年で営業をやめたらしい。

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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山形ホテル跡(2)

2010年08月14日 | 荷風

佐藤春夫は「小説永井荷風伝」(岩波文庫)で山形ホテルについて次のように書いている。(小説では山形屋ホテルとなっているが。)

「この山形屋ホテルというのは堂々とホテルを名告るほどのものではなく、聞けば外国人などが気らくに永逗留するような家らしかったが、静かに落ちついた場所がらは執筆などにも適当らしく思われた。」

「山形屋ホテルの食堂はグリルも兼ねていたためか、その外部からの出入口が直ぐにホテルの玄関になっている構えであった。」

佐藤春夫は、当時の住まいが落ち着いて執筆するところでなかったため編輯者から短編執筆のため山形ホテルの一室を与えられた。このとき、ホテルの食堂で荷風を見かけるが、これからこの小説が始まる。

その二、三日後、食堂ボーイに偏奇館への道筋を尋ねたときのボーイとの会話がある。偏奇館と山形ホテルとの間の道筋がよくわかるので、以下、引用する。

「荷風先生のお宅は近くだそうだね」

「はい、ほんの一っぱしり、目と鼻というほどの近さでございます。うちのロビーから先生のお邸が真北にはっきりとよく見えます」

「ではちょっと道筋を教えてくれたまえ」

「うちの裏口からでますと、北へ一直線の道ですがちょっとした坂を上ったり下りたりしますから、やっぱり表通の方がよいでしょうね」

「ここを表通へ出て、しばらくまっすぐに行きますと左側にポストがございます。そこを折れるとだらだら坂の小路ですがずんずん行って突き当ったところです。小路は途中から二叉になって一つは先生のお邸のわきをずっと下へおりて行っちゃいますから、途中の道にはかまわずに、ぐんぐん真直ぐにおいでになれば、木の門柱にくぐり戸のついた大きな木の大扉がございます。門柱にはたしか表札もございましたから、すぐおわかりになりましょうが、念のため、これもお持ちになすって。―ごく質素なお邸でございますよ」

ボーイが話す、ホテルの裏口からでてちょっとした坂を上ったり下りたりする北へ一直線の道、というのに興味を覚える。このような近道があったようで、裏口から御組坂の下側まで下りて、そこから坂を上る道と思われる。

ボーイは、しかし、この道はわかりにくいと思ったのか、表通り(霊南坂から続く道)からの道順を教える。だらだら坂が御組坂のことで、その坂の小路をまっすぐに下った突き当たりが偏奇館であると説明している。小路は途中から二叉になって一つは偏奇館のわきをずっと下へおりて行く坂が、御組坂の下側の坂で、箪笥町の崖下に続く道であろう。

御組坂(3)の記事にも書いたが、この下側の坂は埋め立てられて、もはや見ることはできない。

川本三郎は、「荷風と東京 『斷腸亭日乗』私註」(都市出版) で、昭和16年ころ丹波谷坂の中途に住んでいた奥野信太郎による随筆「市兵衛町界隈」を引用している。以下、その引用部分である。

「(市兵衛町)一丁目六番地に荷風の偏奇館があった。通称"柳の段々"と称する石段を降りて谷町の谷を通り、さらにその対岸にあたる崖の上に出れば、その小さな平地に偏奇館が建っていたのである。山形ホテルというのがちょうどこの柳の段々の上にあって、そのホテルのロビーから眺めると、偏奇館はほとんど真向かいにあたっていた」

その柳の段々という石段が、上記のボーイのいう北へ一直線の道の下り坂なのであろうか。偏奇館あたりの風景(1)の記事にのせた荷風のスケッチを見ると、山形ホテルの裏側に石垣が見えるが、ここにその石段があったのだろうか。興味がつきないが、いずれにしても表通りを回って行くよりも近道であったと想われる。
(続く)

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山形ホテル跡(1)

2010年08月13日 | 荷風

 

上の写真は、今年の1月に六本木一丁目駅近くの「麻布市兵衛町ホームズ」の角に立っている山形ホテル跡の説明パネルを撮ったものである。石板に金属パネルが貼りつけられている。

この説明パネルは、以前の消えた地名・その記憶御組坂(3)の記事で紹介した。


 
この辺りの再開発で新たにできた泉ガーデンの通りを南側に進み、御組坂の坂下を左に見て歩き、突き当たりの右角に立っている。

上記の後者の記事にのせた写真を左に再度掲げる。

この写真は南側から撮ったものである。

上の説明文にあるように、昭和47年(1972)に竣工した麻布パインクレストというマンションが建て替えられて麻布市兵衛町ホームズが完成したが、その記念碑の意味もあるようである。

右の写真は上左の写真の通り寄りを撮ったもので、説明パネルはこの写真から外れた左側にある。

泉ガーデンの車道と歩道が見えるが、この歩道を写真奥側(北側)に歩いていくと、偏奇館跡の記念碑が左側に立っている。

以前の記事のように、永井荷風が大正八年(1919)の秋に始めて麻布市兵衛町の陋屋を訪れたときの様子が「枇杷の花」に描かれているが、山形ホテルについて次のように記述されている。

「山形ホテルの門内に軍服らしいものを着た外国人が大勢立話をしてゐるのを見て、何事かと立止つて様子をきくと、此のホテルはチエコ、スロバキア国義勇軍の士官に貸切りになつてゐるとの事であった。」

荷風はこの後、この近くの偏奇館に住むことになって、山形ホテルは、荷風が食事や接客などでよく使い、このため有名になっている、といっても過言ではない。

偏奇館と山形ホテルとは、偏奇館あたりの風景(1)の記事のように、崖を隔てて向かいあっており、直線距離にすれば、上の説明文のとおり、100m程度である。
(続く)

参考文献
「荷風全集第十七巻」 (岩波書店)

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