東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

「根府川の海」(茨木のり子)

2015年08月29日 | 読書

根府川の海

根府川
東海道の小駅
赤いカンナの咲いている駅

たっぷり栄養のある
大きな花の向こうに
いつもまっさおな海がひろがっていた

中尉との恋の話をきかされながら
友と二人ここを通ったことがあった

あふれるような青春を
リュックにつめこみ
動員令をポケットに
ゆられていったこともある

燃えさかる東京をあとに
ネーブルの花の白かったふるさとへ
たどりつくときも
あなたは在った

丈高いカンナの花よ
おだやかな相模の海よ

沖に光る波のひとひら
ああそんなかがやきに似た
十代の歳月
風船のように消えた
無知で純粋に徒労だった歳月
うしなわれたたった一つの海賊箱

ほっそりと
蒼く
国をだきしめて
眉をあげていた
菜ッパ服時代の小さいあたしを
根府川の海よ 忘れはしないだろう?

女の年輪をましながら
ふたたび私は通過する
あれから八年
ひたすらに不適なこころを育て

海よ

あなたのように
あらぬ方を眺めながら・・・・・・。 

茨木のり子詩集(岩波文庫) これをはじめて読んだとき、よい詩と思った。

「中尉」「動員令」「燃えさかる東京」「菜ッパ服時代」などの言葉から、いつの時代を背景にしたものかわかる。大正十五年(1926)6月12日生まれだから十代後半の青春のとき。

この詩を書いたときのことを次のように述べている(「「櫂」小史」)。

『たまたまその日は、成人の日で休日。夫と一緒に新宿へ映画「真空地帯」を観に行くことになっていたが、一寸待ってもらって、原稿用紙に向い、十分位で、ちゃらちゃらと書いたのが「根府川の海」である。既に私の心のなかに出来上っていたとも言えるが、今ではもう、あんなふうに気楽には書けなくなってしまっている。』

「はたちが敗戦」というエッセイで自らの青春をふり返って次のように書いている。

『太平洋戦争に突入したとき、私は女学校の三年生になっていた。全国にさきがけて校服をモンペに改めた学校で、良妻賢母教育と、軍国主義教育とを一身に浴びていた。
 退役将校が教官となって分列行進の訓練があり、どうしたわけか全校の中から私が中隊長に選ばれて、号令と指揮をとらされたのだが、霜柱の立った大根畑に向って、号令の特訓を何度受けたことか。

  かしらアー・・・・・・右イ
  かしらアー・・・・・・左イ
  分列に前へ進め!
  左に向きを変えて 進め!
  大隊長殿に敬礼! 直れ!

 私の馬鹿声は凛凛とひびくようになり、つんざくような裂帛[れっぱく]の気合が籠るようになった。そして全校四百人を一糸乱れず動かせた。指導者の快感とはこういうもんだろうか? と思ったことを覚えている。
 そのために声帯が割れ、ふだんの声はおそるべきダミ声になって、音楽の先生から「あなたはあの号令で、すっかり声を駄目にしましたね」と憐憫とも軽蔑ともつかぬ表情で言われた。いっぱしの軍国少女になりおおせていたと思う。声への劣等感はその後長く続くことになるのだが。』

愛知県立西尾女学校卒業後、昭和十八年(1943)、東京蒲田にあった帝国女子医学・薬学・理学専門学校の薬学部(現、東邦大学薬学部)に入学した。その東京での学生生活について次のように書いている。

『昭和十八年、戦況のはなはだかんばしからぬことになった年に入学して、間もなく戦死した山本五十六元帥の国葬に列している。その頃から誰の目にも雲行き怪しくなってきて、学生寮の食事も日に日に乏しく、食べさかりの私たちはどうしようもなくお腹が空いて、あそこの大衆食堂が今日は開いていると聞くと誘いあわせて走り、延々の列に並び京浜工業地帯の工員たちと先を争って食べた。『娘十八番茶も出花』という頃、われひとともに娘にあるまじきあられもなさだった。食べものに関する浅ましさもさまざま経験したが、今、改めて書く元気もない。
 それでも入学して一年半くらいは勉強出来て、ドイツ語など一心にやったが、化学そのものはちんぷんかんぷんで、無機化学、有機化学など私の頭はてんで受けつけられない構造になっていることがわかって、「しまった!」と臍[ほぞ]かむ思いだった。教室に座ってはいても、私の魂はそこに居らず、さまよい出でて外のことを考えているのだった。全国から集まった同級生には優秀な人が多く、戦時中とは言っても、高度な女学校教育を受けていた人達もいて、落差が烈しく、ついてゆけないというのは辛いことで、私は次第に今でいう〈落ちこぼれ〉的心情に陥っていった。』

『昭和二十年、春の空襲で、学生寮、附属病院、それと学校の一部が焼失し、毛布を切って自分で作ったリュックサックに身のまわりのものをつめて、ほうほうのていで辿りついた郷里は、東海大地震で幅一メートルくらいの亀裂が地面を稲妻型に走っており怖しい光景だった。激震で人も大勢死んだが、戦時中のことで何一つ報道されてはいなかった。』

『なにもかもが、しっちゃかめっちゃかの中、学校から動員令がきた。東京、世田谷区にあった海軍療品廠という、海軍のための薬品製造工場への動員だった。「こういう非常時だ、お互い、どこで死んでも仕方がないと思え」という父の言に送られて、夜行で発つべく郷里の駅頭に立ったとき、天空輝くばかりの星空で、とりわけ蠍[さそり]座がぎらぎらと見事だった。当時私の唯一の楽しみは星をみることで、それだけが残されたたった一つの美しいものだった。だからリュックの中にも星座早見表だけは入れることを忘れなかった。』

『八月十五日はふうふうして出たが、からだがまいって、重大放送と言われてもピンとこなかった。大きな工場で働いていた全員が集まり、前列から号泣が湧きあがったが、何一つ聴きとれずポカンとしていた。自分たちの詰所に戻ってから、同級生の一人が「もっともっと戦えばいいのに!」と呟くと、直接の上司だった海軍軍曹が顔面神経痛をきわだたせ、「ばかもの! 何を言うか! 天皇陛下の御命令だ!」それから確信を持って、きっぱりとこう言ったのだ。「いまに見てろ! 十年もたったら元通りになる!」』

その翌日、友人と二人、東海道線を無賃乗車で、郷里に辿りついた。郷里は愛知県幡豆郡吉良町(現、西尾市吉良町)。

茨木のり子詩集(思潮社) 長々と引用したが、これを読んでから、詩をもう一度読むと、その背景がよく理解できたので、この詩がぐっとわかるようになる。

東京に出てきてから、郷里との間をなんどか往復した。昭和二十年の春の空襲とは、4月15・16日の城南京浜大空襲であろうか。燃えさかる東京をあとに郷里に向かったとき、海軍療品廠への動員令をポケットに東京にもどるとき、戦争に負けた次の日に、通った東海道線の小駅(現代地図)。そこに咲いていた赤いカンナの花。そのむこうにひろがるまっさおな海。

戦後八年を経てから、その蒼い時代を回想するとき、まっさおな海と赤い花がまっさきに心に浮かぶ。

「お互い、どこで死んでも仕方がないと思え」という父の言葉が実感としてせまる時代、生と死のはざまにいた時代、そんな現実がたしかにあった青春のときが、赤く咲いたカンナと、大きな花の向こうにひろがっていたまっさおな海から誘発されて、心の中に忽然とよみがえる。いや、赤い花とまっさおな海がそんな時代を象徴するものとして心の奥底にずっと存在し続けたというべきか。

 「沖に光る波のひとひら
  ああそんなかがやきに似た
  十代の歳月
  風船のように消えた
  無知で純粋に徒労だった歳月
  うしなわれたたった一つの海賊箱」

「沖に光る波のひとひら」は、ちっぽけだがかがやく青春とその純粋性を象徴している。遠近感のある心象風景が十代の年月とみごとに同期している。しかし、それでも心の奥に残る悔恨が「うしなわれたたった一つの海賊箱」にこめられている。うしなわれたものが、一つかもしれないが、たしかにあった(はず)という思いから逃れられない。

 「ほっそりと
  蒼く
  国をだきしめて
  眉をあげていた
  菜ッパ服時代の小さいあたしを
  根府川の海よ
  忘れはしないだろう?」

軍国少女であったことを否定もせず肯定もせずにありのままえがいている。そんな時代がたしかに存在したことの再確認を根府川の海にせまっている。

自らが存在した時代と自らがおかれた環境をことさら強調も無視もせず、そのまま過去を見つめる視点に立っているといえるが、それだけではない。この詩人が戦後の一点に立ったとき、そのさきにかすかにともる灯火の方を見ていたことが、さらに次のように続くことでわかってくる。

 「女の年輪をましながら
  ふたたび私は通過する
  あれから八年
  ひたすらに不適なこころを育て

  海よ

  あなたのように
  あらぬ方を眺めながら・・・・・・。」

上記の海軍軍曹の話し(感嘆符の多い!)でエッセイ「はたちが敗戦」の戦前が終わり、戦後のはじめに次のように書いている。

『戦後、あわただしく日本が一八〇度転回を試みようとしたとき、私個人もまた、一八〇度転換を遂げたかった。つまり化学の世界から文学の世界へ―変わりたかったのである。
 敗戦後、さまざまな価値がでんぐりかえって、そこから派生する現象をみるにつけ、私の内部には、表現を求めてやまないものがあった。』

敗戦後すぐに、表現の世界を志向していたことがわかる。

この詩が書かれるまでの、この詩人の戦後を簡単にたどると次のとおり。

・昭和二十一年(1946)4月大学再開、9月繰り上げ卒業。卒業により薬剤師の資格を得たが、自らを恥じ、この世界から別れた。

・昭和二十四年(1949)医師、三浦安信と結婚。

・昭和二十五年(1950)詩誌「詩学」の投稿欄に詩の投稿をはじめる。茨木のり子のぺンネームを用いた。選者が村野四郎で「いさましい歌」が採用された。その後も投稿をした。

・昭和二十八年(1953)詩学社から新人特集に載せる詩の依頼があり、それで、成人の日に出かける前にすらすらと書いたのが「根府川の海」。その後、同じ投稿をしていた川崎洋から同人誌の誘いを受け、二人ではじめたのが「櫂」である。

ところで、詩集をぱらぱらとめくってこれが眼にとまったのは、その地名のためである。鴎外詩「沙羅の木」に石材名(根府川に産する輝石安山岩)としてでてくる。

 沙羅の木
  褐色の根府川石に
  白き花はたと落ちたり、
  ありとしも青葉がくれに
  見えざりしさらの木の花

参考文献
「現代詩文庫 20 茨木のり子詩集」(思潮社)
谷川俊太郎選「茨木のり子詩集」(岩波文庫)
「茨木のり子集 言の葉 1~3」(ちくま文庫)
後藤昭治「清冽 詩人茨木のり子の肖像」(中公文庫)
「鴎外選集 第十巻」(岩波書店)

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北の丸公園

2015年08月14日 | 散策

北の丸公園 北の丸公園 北の丸公園 北の丸公園 紀伊国坂の上側の歩道橋を渡って北の丸公園に向かう。中央の大きな道路を歩き左折し、ちょっと歩き、右折すると、ちょっと大きな池のある広場にでる(現代地図)。隅のベンチで一休み。暑いので冷たいペットボトルがおいしい。

ここから西側に進むと、樹木がかなり生い繁って、濃い緑の中に散歩道ができている。けっこう鬱蒼とした森となっていて、都心にいることも外界の暑さも忘れるほどである。

御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 御曲輪内大名小路絵図(慶応元年(1865)) 江戸図鑑網目(元禄二年(1689)) 北の丸公園 一枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図を見ると、紀伊国坂わきのチョウセンバゞウエダメ(朝鮮馬場植溜)の北側に田安屋敷と清水屋敷があり、さらにその北側に田安御門、東側に清水御門があるが、ここが現在の北の丸公園である。

二枚目の御曲輪内大名小路絵図(慶応元年(1865))の部分図にも、朝鮮馬場植溜の北側に田安屋敷と清水屋敷と両御門がある。

田安家と清水家は御三卿で(もう一つは一橋家)、田安家は八代将軍吉宗の次男徳川宗武、清水家は九代将軍家重の次男徳川重好を始祖とするので、これらの屋敷がここにできたのは千七百年代であろう(吉宗が八代将軍に就任したのは1716年)。

三枚目は、それ以前の江戸図鑑網目(元禄二年(1689))の部分図である。代官町などが見え、二家はまだできていないが、田安御門と清水御門が見えるので、これらの家名は門の名に由来することがわかる。(一橋家も一ツ橋御門による。)

紀伊国坂のある竹橋御門の上(西)は、明暦の大火(1657)の後であるので、明地となっている。

北の丸公園 北の丸公園 北の丸公園 北の丸公園 西側の鬱蒼とした森の縁にも散歩道ができているが、ここから下側に樹々の向こうに千鳥ヶ淵の水面が見える。淵の向こうのビルの上からかなり傾いた陽の光が樹木の葉々を通して差し込んできてまぶしい。

武道館の前を通り、田安門を通り抜けて、九段坂の歩道を下り、地下鉄九段下駅へ。

携帯によるいつもの総歩行距離はデータ消滅で不明だが、8~9km程度と思われる。

参考文献
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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紀伊国坂(竹橋)

2015年08月12日 | 坂道

街角案内地図 紀伊国坂下 紀伊国坂下 紀伊国坂下 前回の展望台から二の丸跡の雑木林の方へ行ってから、平川門を通り抜けて平川橋を左折し、竹橋方面に向かう。

竹橋を左折すると、広い車道(代官町通り)が西側へまっすぐに延び、その左側に歩道が同じくまっすぐに延びている(現代地図)。ここが紀伊国(きのくに)坂である。

同名の坂が港区元赤坂にあり、元赤坂一丁目の青山御所の脇から迎賓館の方に向けて上る坂である。両方とも紀伊国坂と書くが、横関はこの竹橋の方を紀の国坂としている。

紀伊国坂中腹 紀伊国坂中腹 紀伊国坂中腹 紀伊国坂中腹坂下の竹橋からかなり緩やかに上っている。この坂は、皇居周りのジョギングコースの一部となっているが、この坂を上る方向に走る人にとってはこの程度でもけっこうきついかもしれない。

この坂は、天和二年(1682)の戸田茂睡による「紫の一本」に上記の同名の坂とともに次のように記述されている。

『紀之国坂
 赤坂風呂屋丁の横丁より、赤根山に登る坂を云ふ。今紀の国の御屋敷と成るゆゑ、紀之国坂と云ふなり。赤根山に登る坂ゆゑ、この坂を赤坂といひたるゆゑ、今この近所を赤坂と云ふなり。また松原小路より竹橋の御門へ下る坂をも、紀之国坂と云ふ。今の灰小屋の所、もと尾張紀の国の御屋敷ありし故なり。』

この坂は、松原小路より竹橋の御門へ下るとされているが、松原小路とは、糀町壱丁目御門の内をいうとある(「江戸鹿子」)が、具体的にどこかよくわからない。尾張や紀の国の屋敷があったので、紀之国坂となった。

明暦の大火・振袖火事(1657)で江戸城本丸や二の丸が焼失したが、このとき両屋敷も焼けたので、尾張藩邸は市ヶ谷、紀伊藩邸は赤坂に移し、その跡地を火除地とした(石川)。灰小屋(灰を備蓄しておく)は、その火除地にあったのであろう。

紀伊国坂中腹 紀伊国坂中腹 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 御曲輪内大名小路絵図(慶応元年(1865)) 坂をかなり上り、北桔橋門のちょっと手前でふり返ると、右手前方に平川濠が広がっている。

三枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図を見ると、竹橋御門の上(西側)に空き地があり、チョウセンバゞウエダメ(朝鮮馬場植溜)と記してあるが、このわきの道を紀之国坂と呼んだのであろう。

四枚目の御曲輪内大名小路絵図(慶応元年(1865))の部分図にも、竹橋御門の上(西側)に朝鮮馬場植溜と記してある。このあたりから半蔵門にかけての一帯を代官町といった。近江屋板にもほぼ同様に描かれている。

紀伊国坂中腹 紀伊国坂上 紀伊国坂上 紀伊国坂全景 この坂は、北桔橋門の近くの歩道橋のある所からさらに上る(かなり緩やかである)。まっすぐにちょっと歩くと、派出所があるが、そのあたりでほぼ平坦になっているので、このあたりが坂上であろう。

そのわきの小さな公園で一休みしてから坂を下る。

ちょっと下ったところの歩道橋で道路の反対側に渡る途中、高い所からこの坂のほぼ全景を望むことができる。

天和二年(1682)の「紫の一本」が書かれた当時から現代まで、この近辺がどのような変遷をたどったかいまいちよくわからないが、明暦の大火の後から続く比較的古い江戸の坂と云えそうである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社) 岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)
鈴木理生「江戸はこうして造られた」(ちくま学芸文庫)

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汐見坂/塩見坂(皇居東御苑)

2015年08月07日 | 坂道

皇居案内地図 天守台跡 汐見坂上 汐見坂下 梅林坂上を進むと、やがて天守台跡の後方にでる。この傍の広い広場を進み天守台跡に上ってみる。このあたり一帯に江戸城の本丸があった。

天守台跡を後にして左側へ進み、左折し東へ歩く。緩やかなカーブを描きながら緩やかに下る坂を進むと、石垣でできた一対の壁が狭まって門のようになったところが見えてくる。門を通りすぎて左に曲がると、坂がまっすぐに下っている。ここが汐見坂であるが、門の上側が坂上であろう。

いったん坂を下ってから坂を上る。

途中に立っている坂の標識に次の説明がある。

『本丸と二の丸をつなぐ坂道でした。
 その昔、今の新橋から皇居前広場の近くまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることができました。坂の上には、汐見坂門が設けられていました。』

汐見坂下 汐見坂下 汐見坂中腹 汐見坂中腹 この坂は、坂下から見上げると、まっすぐに上っているだけのように見え、単純きわまりない坂だが、残っている石垣のおかげで見栄えがする。

梅林坂下の道を、坂を右に見ながら南へちょっと歩けば、この坂下に至る。

天和二年(1682)の戸田茂睡による「紫の一本」に次の記述がある。

『塩見坂
 梅林の上、切手御門の内なり。ここより海よく見え、塩のさしくる時は、波ただここ元に寄るやうなるゆゑ、塩見坂と云ふなり、』

上記標識の説明もこの記述などによると思われる。

汐見坂上 汐見坂上 汐見坂上 汐見坂上 まっすぐに上り、突き当たりを右折し、石垣の門を通りすぎたあたりから大きくカーブしている辺までなかなか風情のある光景である。坂下側と対照的である。

汐見坂といっても、いまや海など見えるわけがないのは、他の潮見坂(汐見坂)と同じで、これは都内にたくさんある富士見坂も同じである。

そのむかし見えたという海は、ここでは、日比谷入江で、眼の前に広がっていたであろう。ここが埋め立てられたのは、慶長八年(1603)といわれるので、上述の「紫の一本」が書かれたときには、すでに眼前の海はなかった。慶長の頃に汐見坂とよばれていたとすれば、江戸の坂としては古い坂である。横関が梅林坂とこの坂を江戸の坂としてもっとも古い坂としているのはこのような理由による。

汐見坂下 汐見坂遠望 展望台から 雑木林 坂上の先を左手に進み、その先の休憩所で冷たいペットボトルで水を補給してから、近くの展望台に行く。

そこから白鳥濠の向こうに汐見坂の側面が見える。坂下でも壕の方にちょっと歩いてから坂を見ると同じように坂側面が見える。このように側面がよく見える坂というにのは珍しく、とくにここは石垣でできていることもあってよい風景になっている。

展望台から見えるが、東側の雑木林に行くと、なかなかよい散歩道ができている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)
鈴木理生「江戸はこうして造られた」(ちくま学芸文庫)

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善福寺川盛夏(2015)

2015年08月02日 | 写真

善福寺川盛夏(2015) 善福寺川盛夏(2015) 善福寺川盛夏(2015) 善福寺川盛夏(2015) 善福寺川盛夏(2015)

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