前回の芋坂から鷲津毅堂の墓を訪ねようと谷中墓地に向かった(現代地図)。
道なりに4~5分ほど歩いてから左に墓地へ入ってすぐの右手にあり、意外にも簡単に見つかった。乙8号の10(東京都谷中霊園案内図)。
以前、街歩きをはじめて間もないころ谷中に来たとき、かなり探したが見つからなかったのに、今回はあっけないほど簡単であった。前回は東側から霊園の中に入って探したのであるが、この芋坂から続く道沿いからのアクセスの方がはるかにわかりやすい。
鷲津毅堂は永井荷風の外祖父(以前の記事)。
荷風の日記「断腸亭日乗」大正12年(1923)8月19日に次の記述がある。
『八月十九日。曇りて涼し。午後谷中瑞輪寺に赴き、枕山の墓を展す。天龍寺とは墓地裏合せなれば、毅堂先生の室佐藤氏の墓を掃ひ、更に天王寺墓地に至り鷲津先生及外祖母の墓を拝し、日暮家に帰る。』
このころ、荷風は、江戸末期から明治初期に活躍した漢詩人の大沼枕山や鷲津毅堂などの伝記・事績の考証・執筆を企て(「下谷のはなし」、後の「下谷叢話」)、枕山・毅堂のことをさかんに調べていたが、この日、谷中の瑞輪寺に行き、大沼枕山の墓をお参りしてから、墓地が裏合わせである三崎町天龍寺の毅堂夫人佐藤氏の墓、さらには天王寺墓地の毅堂とその後妻(外祖母)の墓をお参りした。
二枚目の尾張屋清七板江戸切絵図(根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856)))に、天王寺、瑞輪寺、天龍寺が描かれている。
一、二枚目の写真は鷲津家の墓地で、正面中央の墓に 「司法權大書記官従五位勲五等鷲津宣光墓」とあり、鷲津毅堂の墓である。左が「鷲津宣光配佐藤氏之墓」で、先妻の墓、右が「鷲津宣光後配川田氏之墓」で、後妻の墓である。
鷲津家を幽林から記すと、幽林の三男名は混、字は子泉、松隠と号し、丹羽村の鷲津家を継いだが、松隠の隠居後、松隠の嫡子徳太郎が家学を継いだ。徳太郎、名は弘、字は徳夫、益斎と号し、その家塾を有隣舎と名づけた。益斎には妻磯谷氏貞との間に三人の子があり、伯は通称郁太郎後に貞助また九蔵、名は監、字は文郁、号を毅堂といった。
幽林の長男典が大沼枕山の父で、家を継がず江戸に出て、大沼又吉の養子となった。竹渓と号して化政の頃江戸の詩壇に名を知られた詩人であった。
文政元年(1818)三月十九日生まれの捨吉(枕山)が、天保六年(1835)鷲津氏の家塾に寄寓していた時、郁太郎(毅堂)は十一歳であった(下谷叢話 第四)。
弘化三年(1846)正月十五日、本郷丸山から起こった江戸大火で、昌平黌の校舎と寄宿舎は灰燼となった。この時鷲津毅堂は既に江戸にあって昌平黌に学んでいた。毅堂が江戸に到着した日は詳でないが、弘化二年の冬より以前ではない。
これより先毅堂は天保十三年(1842)十一月二十八日に父益斎を喪った。それから三年後、弘化元年、二十歳の時、先考の遺命を奉じて伊勢安濃津に赴き、藤堂家の賓師猪飼[いかい]敬所について主として三礼の講義を聴いていた。猪飼敬所は当時博学洽識を以て東西の学者から畏敬せられていた老儒で、頼山陽の『日本外史』などは予め敬所の校閲を俟って然る後刊刻せられたといわれていた。毅堂は敬所に従って学ぶこと一年ばかりにして弘化二年十一月十日にその老師を喪った。
毅堂は、安濃津の藩校有造館では学術が盛んであったが、この地に留まらず空しく尾州丹羽の家に還った。母磯貝氏はその子の学成らずして中途に還り来ったのを知り、折から雪の降っていたにもかかわらず家に入ることを許さなかった。母は愛児が安濃津に行こうとした時、紅白の小帛[こぎれ]を毅堂の著衣の襟裏に縫いつけ、これを母の形見となし名を成すまでは決して家の閾を履んではならぬと言いきかせた。毅堂は雪の夕わが家の門を鎖され、ここに翻然として志を立て蔭ながら直に東遊の途に上った。かくて毅堂は元治元年四十歳の時、暫時帰省する日まで、凡二十年の間慈母の面を排することができなかった。
毅堂は生涯深く母の恩を感じ、晩年雪を見るごとに子弟門生に向ってその身の今日あるを得たのは、母のよく情を押えて雪夜家に入る事を許さなかった故である。もし慈君の激励に会わずばその身は碌々として郷閭[きょうりょ/故郷の村]に老いたのであろうと語っていた。これは下谷の鷲津氏の家について聞き得たことである。
以上は、「下谷叢話」(第十五)からの引用である。荷風は、さらに、鷲津毅堂母子の逸事の如きは特に記すべき価なきものかも知れない。大正十二、三年の世にあってたまたまこれを聞くに及んで、そのままこれを棄去るに忍びない心地がした、と書いているが、この2015,6年の現代ではどうであろうか。
弘化三年(1846)中秋の頃、横山湖山と枕山は例年のとおり隅田川に舟を泛[うか]べたが、新たに鷲津毅堂ら三名が加わった、とあることから、枕山と毅堂とのつき合いがはじまっていることがわかる。
安政五年(1858)七月、毅堂の妻佐藤氏みつが没し、谷中天竜院に葬られた。この墓を荷風は訪れているが、その後、現在のように谷中墓地に改葬されたのであろう。
毅堂は継室川田氏美代を娶ったが、その年月を詳にしない。文久元年(1861)九月四日に次女恒が生まれた。
「恒は明治十年七月十日神田五軒町の唐本書肆の主人林櫟窓の媒介で、毅堂の門人尾張の人永井匡温に嫁した。恒は今ここにこの下谷叢話を草しているわたくしの慈母である。」(下谷叢話 第三十)
参考文献
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
永井荷風「下谷叢話」(岩波文庫)