東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

鷲津毅堂の墓

2016年03月30日 | 荷風

鷲津毅堂肖像 根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856)) 前回の芋坂から鷲津毅堂の墓を訪ねようと谷中墓地に向かった(現代地図)。

道なりに4~5分ほど歩いてから左に墓地へ入ってすぐの右手にあり、意外にも簡単に見つかった。乙8号の10(東京都谷中霊園案内図)。

以前、街歩きをはじめて間もないころ谷中に来たとき、かなり探したが見つからなかったのに、今回はあっけないほど簡単であった。前回は東側から霊園の中に入って探したのであるが、この芋坂から続く道沿いからのアクセスの方がはるかにわかりやすい。

鷲津毅堂は永井荷風の外祖父(以前の記事)。

荷風の日記「断腸亭日乗」大正12年(1923)8月19日に次の記述がある。

『八月十九日。曇りて涼し。午後谷中瑞輪寺に赴き、枕山の墓を展す。天龍寺とは墓地裏合せなれば、毅堂先生の室佐藤氏の墓を掃ひ、更に天王寺墓地に至り鷲津先生及外祖母の墓を拝し、日暮家に帰る。』

このころ、荷風は、江戸末期から明治初期に活躍した漢詩人の大沼枕山や鷲津毅堂などの伝記・事績の考証・執筆を企て(「下谷のはなし」、後の「下谷叢話」)、枕山・毅堂のことをさかんに調べていたが、この日、谷中の瑞輪寺に行き、大沼枕山の墓をお参りしてから、墓地が裏合わせである三崎町天龍寺の毅堂夫人佐藤氏の墓、さらには天王寺墓地の毅堂とその後妻(外祖母)の墓をお参りした。

二枚目の尾張屋清七板江戸切絵図(根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856)))に、天王寺、瑞輪寺、天龍寺が描かれている。

鷲津毅堂の墓 鷲津毅堂の墓 一、二枚目の写真は鷲津家の墓地で、正面中央の墓に 「司法權大書記官従五位勲五等鷲津宣光墓」とあり、鷲津毅堂の墓である。左が「鷲津宣光配佐藤氏之墓」で、先妻の墓、右が「鷲津宣光後配川田氏之墓」で、後妻の墓である。

鷲津家を幽林から記すと、幽林の三男名は混、字は子泉、松隠と号し、丹羽村の鷲津家を継いだが、松隠の隠居後、松隠の嫡子徳太郎が家学を継いだ。徳太郎、名は弘、字は徳夫、益斎と号し、その家塾を有隣舎と名づけた。益斎には妻磯谷氏貞との間に三人の子があり、伯は通称郁太郎後に貞助また九蔵、名は監、字は文郁、号を毅堂といった。

幽林の長男典が大沼枕山の父で、家を継がず江戸に出て、大沼又吉の養子となった。竹渓と号して化政の頃江戸の詩壇に名を知られた詩人であった。

文政元年(1818)三月十九日生まれの捨吉(枕山)が、天保六年(1835)鷲津氏の家塾に寄寓していた時、郁太郎(毅堂)は十一歳であった(下谷叢話 第四)。

弘化三年(1846)正月十五日、本郷丸山から起こった江戸大火で、昌平黌の校舎と寄宿舎は灰燼となった。この時鷲津毅堂は既に江戸にあって昌平黌に学んでいた。毅堂が江戸に到着した日は詳でないが、弘化二年の冬より以前ではない。

これより先毅堂は天保十三年(1842)十一月二十八日に父益斎を喪った。それから三年後、弘化元年、二十歳の時、先考の遺命を奉じて伊勢安濃津に赴き、藤堂家の賓師猪飼[いかい]敬所について主として三礼の講義を聴いていた。猪飼敬所は当時博学洽識を以て東西の学者から畏敬せられていた老儒で、頼山陽の『日本外史』などは予め敬所の校閲を俟って然る後刊刻せられたといわれていた。毅堂は敬所に従って学ぶこと一年ばかりにして弘化二年十一月十日にその老師を喪った。

毅堂は、安濃津の藩校有造館では学術が盛んであったが、この地に留まらず空しく尾州丹羽の家に還った。母磯貝氏はその子の学成らずして中途に還り来ったのを知り、折から雪の降っていたにもかかわらず家に入ることを許さなかった。母は愛児が安濃津に行こうとした時、紅白の小帛[こぎれ]を毅堂の著衣の襟裏に縫いつけ、これを母の形見となし名を成すまでは決して家の閾を履んではならぬと言いきかせた。毅堂は雪の夕わが家の門を鎖され、ここに翻然として志を立て蔭ながら直に東遊の途に上った。かくて毅堂は元治元年四十歳の時、暫時帰省する日まで、凡二十年の間慈母の面を排することができなかった。

毅堂は生涯深く母の恩を感じ、晩年雪を見るごとに子弟門生に向ってその身の今日あるを得たのは、母のよく情を押えて雪夜家に入る事を許さなかった故である。もし慈君の激励に会わずばその身は碌々として郷閭[きょうりょ/故郷の村]に老いたのであろうと語っていた。これは下谷の鷲津氏の家について聞き得たことである。

以上は、「下谷叢話」(第十五)からの引用である。荷風は、さらに、鷲津毅堂母子の逸事の如きは特に記すべき価なきものかも知れない。大正十二、三年の世にあってたまたまこれを聞くに及んで、そのままこれを棄去るに忍びない心地がした、と書いているが、この2015,6年の現代ではどうであろうか。

弘化三年(1846)中秋の頃、横山湖山と枕山は例年のとおり隅田川に舟を泛[うか]べたが、新たに鷲津毅堂ら三名が加わった、とあることから、枕山と毅堂とのつき合いがはじまっていることがわかる。

安政五年(1858)七月、毅堂の妻佐藤氏みつが没し、谷中天竜院に葬られた。この墓を荷風は訪れているが、その後、現在のように谷中墓地に改葬されたのであろう。

毅堂は継室川田氏美代を娶ったが、その年月を詳にしない。文久元年(1861)九月四日に次女恒が生まれた。

「恒は明治十年七月十日神田五軒町の唐本書肆の主人林櫟窓の媒介で、毅堂の門人尾張の人永井匡温に嫁した。恒は今ここにこの下谷叢話を草しているわたくしの慈母である。」(下谷叢話 第三十)

参考文献
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
永井荷風「下谷叢話」(岩波文庫)

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善福寺川桜(2016)

2016年03月27日 | 写真

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善福寺川3月(2016)

2016年03月21日 | 写真

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芋坂(続)

2016年03月05日 | 坂道

前回、谷中の芋坂に行き記事にしたが、その後ふたたび訪れた。このあたりの地図を見て、ちょっと気になることがあった。

坂上 坂上 坂上から広場 坂中腹 谷中墓地の方から緩やかな坂道を下って芋坂跨線橋のたもとに至ると、この右側に芋坂の標柱が立っているが、その反対側に、一、二枚目の写真のように、線路に沿ってまっすぐに北西へ下る坂道がある(現代地図)。

坂下側で大きく右にカーブして広場につながっているが、そこで行き止まりである。この広場を坂上から撮ったのが三枚目の写真で、近くの街角案内地図には区立芋坂児童遊園とある。

以下、坂上から坂下を往復した順に写真を並べる。

前回の芋坂の記事で、この芋坂は、線路のため、烈しく分断されているだけでなく、坂の主要部が完璧に消滅しており、谷中の墓地側と根岸の団子屋側にかすかに痕跡をとどめているに過ぎない、と書いたが、この坂と、むかしの芋坂との関係がよくわからない。もしかしてこの坂がかつての芋坂ではないのか、との疑問を抱いたのである。もしそうだとすると、芋坂の主要部が残っていることになる。

根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856)) 御江戸大絵図(天保十四年(843)) 坂中腹 坂中腹 一枚目の尾張屋清七板江戸切絵図(根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856)))には、天王寺の東わきに湾曲した道筋に「芋坂ト云」と示され、坂マークである多数の横棒が描かれている。

二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(843))にも、坂名の表記はないが、天王寺の東に大きく湾曲した道筋があるが、ここが芋坂であろう。

両者ともに、天王寺の方から芋坂にアクセスしたときの最初の坂道(下り)が、いまの坂と同じ向きに下っている。

江戸期の地図は、その特徴が誇張されデフォルメされているため実際の道筋とは違っていたように思われるが、それは細部のことで、大まかにはそんなに違っておらず、むしろ、その特徴をよく表していたように思われるが、この芋坂もそうともいえそうである。

坂下 坂下 坂下の広場 坂下の広場 現代地図を見ると、谷中墓地の方から下ってきて左折し北へ進み跨線橋の手前で左折し広場の方へ下る道筋は、東側に突き出た台形状を呈している。坂下のカーブの先は、線路を直角に横断すれば、根岸側の善性寺前に至る芋坂下の道につながっている。

実測東京全図(明治11年)を見ると、天王寺の東側に台形状の道筋があり、ここが芋坂と思われるが、その一部がいまの坂と同じ向きである。

明治地図(明治40年)にも台形状の道筋があり、線路が開通しているが、坂下の線路手前に妙楊寺(尾張屋清七板では「妙餘寺」)があり、その前を根岸の方へ延びている。

昭和地図(昭和16年)には、面白いことに台形状の道筋に加え、現在の跨線橋に相当する位置にまっすぐに延びる道筋があるが、これは現在と同じ跨線橋かもしれない。台形状の方も坂下でまっすぐに延び線路を横断している。

昭和22年の航空写真には、台形状の道筋が写っており、この坂がある。

昭和31年の地図には、跨線橋があるが、この坂は示されていない。

以上から、いまの広場へと下る坂道がかつての芋坂のように思われてくるが、そのようにはっきり書いている文献がなく、確たる自信があるわけではない。それでも、かつての坂道と完全に一致する道筋ではないかもしれないが、あるいは比較的最近できた道かもしれないが、ほぼ同じ道筋をたどっているような気がする(都内の歴史ある坂にはそのような坂も多いと思われる)。そのように思ってこの坂道を上下すれば、かつての芋坂の雰囲気をちょっとだけ味わえそうである。

この芋坂も近くの紅葉坂と同じように、上野台地の崖をトラバースするように斜めに上下する坂であったといえそうである。

坂下 坂下 坂下 坂下 「御府内備考」の谷中之一の総説に、次の記載がある。

『芋坂
 感應寺の後、三河島の方へ行坂をいへり、【江戸紀聞】』

 感應寺とは、天王寺のこと。

同じく、谷中町の書上に次の記載がある。

『一芋坂 幅貳間程、長三拾貳間程、
 右は感應寺東脇、當町飛地地先東叡山の間谷中村通りに有之候、』

長さが三十二間程とあるので、一間=1.81mとすると、58m程度。跨線橋の手前を下るいまの坂とほぼ同じである。

坂中腹 坂中腹 坂上 善性寺・芋坂下 芋坂下を進むと善性寺の門前であるが(現代地図)、ここに四枚目の写真のように荒川区教育委員会の標識が立っていて、次の説明がある。

『将軍橋と芋坂(善性寺)
 善性寺は日蓮宗の寺院で、長享元年(1487)の開創と伝える。寛文四年(1664)六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となった。
 宝永年間(1704~1711)、家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから、門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。
 善性寺の向い、芋坂下には文政二年(1819)に開かれたという藤の木茶屋(今の「羽二重団子」)がある。
   芋阪も団子も月のゆかりかな  子規
       荒川区教育委員会』

その将軍橋と思われる橋が上記の尾張屋清七板江戸切絵図に描かれているが、無名である。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「大日本地誌大系 御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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