東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

日和下駄(第二 淫祠)

2010年01月30日 | 荷風

永井荷風は「日和下駄」の各論を淫祠から始めている。興味深いことである。無視し得ぬ何かを感知していたのであろう。

「裏町を行こう、横道を歩もう。かくの如く私が好んで日和下駄をカラカラ鳴して行く裏通にはきまって淫祠がある。」

「第二 淫祠」の冒頭である。

淫祠とは、邪神を祭ったやしろ(広辞苑)とのことであるが、こんな言い方は何の意味も与えない。悪しき定義づけの典型である。

「私は淫祠を好む。裏町の風景に或趣を添える上からいって淫祠は遙に銅像以上の審美的価値があるからである。」しかし、審美的価値以上のものを荷風は感じている。

「現代の教育はいかほど日本人を新しく狡猾にしようと力めても今だに一部の愚昧なる民の心を奪う事が出来ないのであった。路傍の淫祠に祈願を籠め欠けたお地蔵様の頸に涎掛をかけてあげる人たちは娘を芸者に売るかも知れぬ。義賊になるかも知れぬ。無尽や富籤の僥倖のみを夢見ているかも知れぬ。しかし彼らは他人の私行を新聞に投書して復讐を企てたり、正義人道を名として金をゆすったり人を迫害したりするような文明の武器の使用法を知らない。」

荷風は「文明の武器の使用法」を知らない人たちに限りない愛着を持った。小さな祠や石地蔵に願掛けの絵馬や奉納の手拭や線香を上げることを、迷信だとか、俗信だとか、ということは容易い。しかし、そのようにする心、そうせざるを得ない心はけっして見過ごし得ないものである。そのような心は誰にも根底に幾分か残っているからである。

一方、荷風は、「淫祠は大抵その縁起とまたはその効験のあまりに荒唐無稽な事から、何となく滑稽の趣を伴わすものである」とし、例を挙げている。

・芝日蔭町の鯖をあげるお稲荷様
・駒込の焙烙をあげる焙烙地蔵(頭痛の治癒を願う)
・御厩河岸の榧寺の飴嘗地蔵(虫歯に効験ある)
・金竜山の境内の塩をあげる塩地蔵
・小石川富坂の源覚寺の蒟蒻をあげるお閻魔様(眼病の治癒)
・大久保百人町の豆腐をあげる鬼王様(湿瘡のお礼)
・向島の弘福寺にある煎豆を供える「石の媼(ばあ)様」(子供の百日咳)

これらの「習慣は、」「いつも限りなく私の心を慰める。単に可笑しいというばかりではない。理窟にも議論にもならぬ馬鹿馬鹿しい処に、よく考えて見ると一種物哀れなような妙な心持ちのする処があるからである。」

荷風はかくの如く淫祠にまつわる民の習慣に自己慰安を見出すとともに、物哀れを感受することで淫祠を信じる人の心の中に深くダイビングしたのである。

いまも、都内で旧道に相当する場所を歩けば、石地蔵や庚申塚などをよく見かけ、お供え物をし、花を手向け、祠を新しくすれば、その謂われを書き記したものなどを見ることができる。荷風の時代と何も変わっておらず、奥深いところでつながっているのである。

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植木坂の位置

2010年01月30日 | 荷風

横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)をみていたら、麻布の植木坂を次のように説明していた。「港区麻布飯倉片町の坂、郵政省前から狸穴坂に平行して南に下る坂。鼬坂、鼠坂の別名がある。嘉永二年の江戸切絵図には、この坂の下り口のところに「植木ヤ」とある」。そうだとすると、前々回の記事(荷風と坂)で書いた、荷風が歩いた大正10年1月17日の麻布阪道散歩の道筋も変わってくる。そういえば、植木坂の標柱にも「この付近に植木屋があり、菊人形を始めたという。外苑東通りからおりる所という説もある。」とある。うかつであった。

外苑東通りとは六本木方面からの通りで、むかしの飯倉片町の電車通りである。狸穴坂とは外苑東通りからロシア大使館の西脇を下る長い坂道であり、むかしからの道筋であろうか、ゆるやかに曲がっている。

現在、植木坂とされる坂は、外苑東通りから狸穴坂に平行した細い坂(ここが、横関のいう植木坂)を南へ下り、平坦部分を進み、右折して上るかなり傾斜のある細い坂であり、上記の標柱が坂上と坂下にある。坂上を直進し、階段を下り左折すると永坂である。植木坂の方に右折せずに直進すると、鼠坂の標柱があり、「細長く狭い道を、江戸でねずみ坂と呼ぶふうがあった。一名鼬(いたち)坂で、上は植木坂につながる。」とあり、これも細い坂道で、下りていくと狸穴公園にいたる。

岡崎清記「今昔 東京の坂」は植木坂について次のような各説を紹介している。

(1)「南に浅い谷をへだてて狸穴坂の側面を望む。私達の今住むところは、こんな丘の地勢に倚って、飯倉片町の電車通り(外苑東通り)から植木坂を下りきった位置にある。」(『大東京繁昌記・山手篇-島崎藤村「飯倉附近」』)(島崎藤村は大正7年(1918)10月に飯倉片町33番地に移り、昭和12年(1937)頃まで住んでいた。)
(2)『御府内場末往還其外沿革図書』は、この坂を「イタチ」坂としている。
(3)昭和16年の『麻布詳細図』も同じく「イタチ」坂としていて、植木坂とは呼んでいない。
(4)『江戸切絵図』(尾張屋版)には「鼠サカ」とあるが、坂上西角に「植木ヤ ツシモト」とあり、植木坂という呼び名を持っていたかもしれない。(尾張屋版の江戸切絵図は、goo地図の
古地図でみることができる。)
(5)『江戸切絵図』(近江屋版)には植木屋はないが、「△ウエキサカ」とある。
(6)昭和八年『東京市麻布区地籍図』、昭和十六年『麻布区詳細図』にある植木坂はいずれも、麻布台三-四、麻布永坂町の間を示し、現在の標柱のある場所である。

岡崎は、結論的には、標柱のある場所の坂を「植木坂」としておきたい、としているが、とりあえず、といったところで確かな根拠はなさそうである。

石川悌二「江戸東京坂道辞典」では、「外苑東通りから麻布台三丁目四と五番の間から南へ狸穴町との境へ下り、さらに西のほうに折れる。」としているので、外苑東通りから下る坂から進んで、現在の標柱を右折して上る植木坂全体を植木坂と考えている。

次の説を紹介している。
(a)『麻布区史』(昭和16年)は「狸穴へ下る坂を鼠坂と云ひ、別に植木坂の異称がある。これより狸穴にかけて植木屋多く、菊人形に於て巣鴨染井に先んじて有名であったと云ふ。坂の名は其頃の遺称であらう。一説に鼠坂は西の方永坂町に界し西北へ上る坂、植木坂は狸穴端へ下る坂としてゐる」と記す。
(b)『東京地理沿革志』(明治19年)は飯倉片町の条に「町内青山辺りより南に向ひ狸穴の端に下る坂を植木坂と呼ぶ」とし、また狸穴町の条には「鼠坂と云ふは西の方永坂町に界し西南へ下る坂なり」としている。
(c)「この植木坂と鼠坂は同じ坂の別名なのか、もしくはつらなっている別の坂なのか」
(d)島崎藤村は、上記の「飯倉附近」で「鼠坂は、私たちの家の前あたりから東に森元町(現・東麻布二丁目)の方へ谷を降りて行かうとするとことにある細い坂だ。植木坂と鼠坂とは狸穴坂に平行した一つの連続と見ていい。」としている。

復刻版の「戦前昭和東京散歩」(人文社)は、現在の標柱と同じ場所を植木坂、鼠坂としており、外苑東通りから南へ下る坂の付近に名はない。

以上、諸説入り乱れているが、問題を簡単にまとめてみると、次のようになる。

①江戸切絵図など江戸時代のものは、外苑東通りから南へ下る坂を、イタチ坂、鼠坂、ウエキサカ、としている。
②現在の標柱のある植木坂を示す文献は昭和期のもの。
③外苑東通りから南に下る坂を植木坂とすると、現在、標柱のある植木坂との関係はどうなるのか。石川説によれば、全体を植木坂というので、問題は生じない。
④島崎説は外苑東通りから南に下る坂を植木坂とし、現在の鼠坂と連続と考えているが、現在、標柱のある植木坂には言及していない。

島崎藤村の次男鶏二が、飯倉の家の路地を出て、急坂の植木坂を坂下から描いたスケッチが「新潮日本文学アルバム 島崎藤村」にあるが、この坂は現在、標柱のある植木坂でないのであろう。

横関英一が「江戸の坂には、江戸の庶民が名前をつけたのである。」としているように、坂の名は、お上が決めたのでなく、その坂を常日頃上り下りる人々が名づけ、何となく決まっていったものが多いのであろうから、坂の名や範囲が時代とともに変わったのかもしれない。

ところで、ここでの問題は、荷風が大正10年1月17日の麻布阪道散歩で、どの坂をたどったのか、すなわち、荷風が歩いた植木阪はどちらだったのか、であるが、島崎説をとると、荷風もまた、飯倉片町の電車通りから南に下る坂をとおり、そのまま直進し、現在の鼠坂を狸穴に下ったことになる。これらの坂を一体として植木阪と、断腸亭日乗に記したのかもしれない。前々回の記事の、永坂→標柱のある植木坂→鼠坂は偏奇館から狸穴までの最短コースではなく、島崎説が最短コースである。

荷風は「日和下駄」第四 地図で、市中散歩の時、嘉永版の江戸切図を懐中にする、と述べており、麻布阪道散歩でその江戸切図を持参したかは不明であるが、事前に見ていたことは考えられる。嘉永二年の江戸切絵図には、この坂の下り口のところに「植木ヤ」とあるらしい(横関)が、坂名はどうなのであろうか。尾張屋版では「鼠サカ」であるが、ウエキサカとあるのだろうか。なければ、荷風は、植木阪の名をどのようにして知ったのだろうか。

大正10年1月17日に荷風が散歩した麻布阪道は、心情的には、変化に富むと思われる永坂→標柱のある植木坂→鼠坂としたいが、島崎説が当時の人々の一般的認識だったと考えると、飯倉片町の電車通りから南に下る植木坂→鼠坂の方に分がありそうである。そうだとすると、荷風はこの日、島崎宅の近くを通り過ぎたことになる。

島崎藤村は、明治5年(1872)3月筑摩県馬籠村(現長野県木曾郡山口村)に生まれ、昭和18年(1943)8月22日に大磯の自宅で亡くなっている。

「断腸亭日乗」昭和18年8月26日「・・・。又両三日前島崎藤村歿行年七十二なりと云。余島崎氏とは交遊なかりき。曾て明治末年三田に勤務せし頃一回何かの用事にて面会せしことありしのみ。深更雨滂浪。」

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世田谷坂巡り(2)

2010年01月25日 | 坂道

午後二子玉川駅下車。
丸子川の下山橋から上流を目指す。この辺りは親水公園となっていて、下流側とかなり雰囲気が違い、歩いていて気持ちがよい。途中、砧公園の方から流れてくる小川が合流している。音河原橋を右折し、八幡神社男坂を上り、左側の女坂を下る。となりが民家園となっていて、むかしの農家が保存されており、すっかり田園の雰囲気である。

堂ヶ谷戸橋を右折し、堂ヶ谷戸坂を上る。まっすぐに延びている。坂の上のアルジェリア大使館を左折し、進むと、岡本三丁目の坂の上にでる。「関東の富士見百景」の標識があり、「東京富士見坂」の一つらしい。なるほど、西側がよくみえる。まっすぐにかなりの傾斜で下っており、左側の歩道は階段になっている。坂の歩道でこのようなっているのは初めてである。目白通りから南側に下るのぞき坂という急坂があるが、これと傾斜の点では劣るかもしれないが、長さの点ではこちらの方が長い。階段を下っていくと、少年が自転車ですごいスピードでかけ下りていく。

直進して橋に至るが、かなり広い川となっている。仙川である。このすぐ下流で丸子川が分岐している。橋を渡って左折し、次を右折する。都会の雰囲気とは違い、何となくむかしの農村を感じさせるよい道である。永安寺の脇を左折すると、新坂の上りである。緩やかな長い坂である。坂上から下り、東名の下を通り抜け、清水橋を渡り進み右折すると、座頭ころがし坂の上りとなる。座頭が転がり落ちるほどの急坂だったのであろうか。現在は、迂回路となっているのか、車がよく通る。坂上を進むと、東名にかかるグランド橋にでるが、ここからも西側の眺望がよい。

坂下に打越辻地蔵尊・庚申様があるが、ここを直進し、仙川にでる。右側の歩道を上流に向けて歩く。途中、水鳥がたくさん泳いでいたが、一羽が小さな滝となっているステップに飛び上がろうとしたが失敗するのを見かける。再試行するのか見ていたら、離れたところで飛ぶ仕草を繰り返すだけである。次のために練習しているふうにも見えるが、羽の中についた水を払っているのだろうか。

世田谷通りを越えて、石井戸橋で右折すると、畳屋坂の上りである。緩やかに上っており、右に曲がってからまっすぐに延びている。引き返し、途中、前方を見ると、通りがわずかにうねっている。昔からの道なのだろうか。世田谷通りにでて右折し、進み、砧中学で右折すると、病院坂の上りである。緩やかだがかなり長い。坂上に緑地があったので、中に入る。見晴らしのよい所があり、西側がよく見える。緑地を下ると、途中、崖地から湧水があるようで湿地があり、小道の上下もあり、一瞬、山の中を歩いている錯覚に陥ってしまうほどである。

緑地の下側から右折し、喜多見保育園の先を右折すると、お茶屋坂の上りである。上側は細くかなり急となっている。坂上を左折し、直進するが、この通りは、落ち着いた山の手の雰囲気である。不動橋の手前で左折すると、なかんだの坂市民緑地がある。細く急な上下となっているが、距離は短く、こぢんまりとした竹の多い緑地である。不動橋にでると、西側がよく見えて、本日最大の西側展望地である。橋を渡り進むと、不動坂の坂上にでる。坂下から喜多見不動堂に入る。ここをでて、小田急喜多見駅に向かう。

前回と同様、今回も多摩川方面を望む台地から下る坂が多かったので、西側の眺望がよかった。都心の坂は過去の眺望をほぼ失っているが、それが多摩川を望む台地まで追いやられているようにも思えてきた。人口密度が多くなっていない田園風景が残っているところがまだありそうである。また訪れたいところの一つである。今回の坂巡りは、山野坂ガイド本以外に、
東京23区の坂道を参考にした。

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荷風と坂

2010年01月21日 | 荷風

永井荷風は、「日和下駄」第十 坂で、「坂は即ち平地に生じた波瀾である。」としている。波瀾(はらん)とは、広辞苑には、大小のなみ、物事に変化や曲折があること、とある。後者の意味と思われるが、坂を平地の変化というよりも平地の波瀾といった方がよくあう。上手いことをいう。

荷風は、眺望の佳い坂を、江戸見坂から始めて、昌平坂、皀角(さいかち)坂、二合半坂、安藤坂、金剛寺坂、荒木坂、服部坂、大日坂、牛込神楽坂、浄瑠璃坂、左内坂、逢坂を挙げている。しかし、現在、これらの坂を訪れても眺望は望むべくもない。霊南坂上から虎ノ門に下る江戸見坂では、荷風は「愛宕山を前にして日本橋京橋から丸の内を一目に望む事が出来」たが、いまや日本橋・京橋・丸の内どころか愛宕山も見えない。現代は、このような眺望をほぼすべて失ってしまった。このため、坂巡りでは眺望なんぞ始めから期待をせず、下ばかり向いて歩くことになる。

インターネットによりgoo地図で現代、昭和38年、昭和23年の航空写真をみることができるが、昭和38年で判断すると、愛宕山の周囲は人家ばかりで、間には高い建物はなさそうなので、昭和38年(1963)頃までは江戸見坂の坂上から愛宕山が見えたのではないだろうか。この何十年かで急速に変化したことがわかる。

数少ない坂巡りではあるが、わたしが眺望をわずかに感じたのは、1,2回である。我善坊谷坂を下り、落合坂からの道との交差点を直進しわずかに上ると、左手に三年坂があるが、この坂下から、我善坊谷を挟んだ向こう側の高台方面がよく見え、坂上から谷を挟んだ左手方向が見えた。ビルばかりの中で人家とその周りの木々の緑が珍しかったが、見上げるような眺望であり、遠方は当然にのぞめない。

荷風は、「坂はかくの如く眺望によりて一段の趣を沿うといえども、さりとて全く眺望なきものも強ち捨て去るには及ばない」「画趣詩情は至る処に見出し得られる」とし、四谷愛住町の暗闇坂、麻布二之橋向の日向坂を例に挙げ、暗闇坂を「車の上らぬほど急な曲った坂でその片側は全長寺の墓地の樹木鬱蒼として日の光を遮り、乱塔婆に雑草生茂る有様何となく物凄い坂である。」としている。これもいまやそんな坂ではないとの記憶がある。

神田明神の裏手なる本郷の妻恋坂や赤城明神裏門より下る急な坂などのような神社の裏手にある坂の中途に侘び住まいし、読書につかれたとき、着のみ着のまま裏手から境内に入って鳩の飛ぶのを眺めたりして過ごすことができたらという願望を述べている。荷風特有の美学であるが、坂の中途に、というのが荷風の目のつけ所で、坂上にも坂下にも行けて、しかも裏門から休息に入ることもできる、そんな願いが込められている。

「断腸亭日乗」大正10年 正月17日に「植木阪より狸穴に出で赤羽根橋を渡る。麻布阪道の散歩甚興あり。三田通にて花を購ひ帰る。」とあるが、荷風は、前年5月に麻布市兵衛町の偏奇館と名づけた洋館に移り住んでおり、周りがまだ珍しかったのだろうか、この日、麻布の坂道散歩を楽しんだようである。

ところで、荷風は、この日、どのようなコースをたどったのであろうか。手元にある「明治大正東京散歩」(人文社)という明治40年の地図の復刻本を参照して想像するに、霊南坂から延びる道から行合坂に出て飯倉の電車通りを横断し、永坂を通り、植木坂に至り、これを下り、さらに鼠坂を下り、狸穴に至ったのではないだろうか。最短距離を考えるとこの結論になる。

現在、行合坂から直進し飯倉片町の交差点をさらに直進し、左折すると、植木坂に至るが、復刻地図によれば、その交差点はT字路のため、いったん右折し、次に左折し(ここが永坂と思われる)、さらに植木坂に向けて左折しなければならない。この道筋をたどると、かなりの坂を巡ることになる。

現在の飯倉片町の交差点から高速を右手に見て下る道は、途中までが新しい道で、かなり拡幅され、途中で従来の永坂と合流したものと思われる。永坂の坂上付近の跡は、飯倉片町の交差点を六本木方向に進み、1番目を左折した通りであろう。goo地図で復刻地図とほぼ同じ明治時代の地図を閲覧でき、偏奇館のあった市兵衛町1丁目6番地から狸穴へとたどることができる。

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世田谷北烏山の寺院通り

2010年01月20日 | 散策

升田幸三のお墓をみてからの散策です。

常栄寺を出て寺院通りを北に向かう。この辺は、お寺がかなりあるが、関東大震災の後、都心から移ってきたのであろう。以前何かで読んだことがある。近くの幸龍寺の案内板に、浅草で関東大震災で焼失し、昭和2年、現在の地で再建したとある。さらに進む。お寺が続くので、塀が長く、静かで、通常の住宅地とはかなり趣が違う。ゆったりとした感じで都内とも思えない雰囲気である。ゆっくりと散歩するのに適している。ときおりバスが通るが。

この寺町の北のはずれにある高源院に入り、鴨池をみる。鴨の飛来地として知られているらしい。橋を通って池の中の浮御堂まで行く。池の端の方がかなりの広さで凍っており、冷え込みが厳しかったことがわかる。湧水が水源とのことで、烏山用水の水源ともなっているらしい。地図では池の近くから流れがあるが、先ほど通った松葉通りには、そのようなものはなく、暗渠になっているのであろう。googleマップの航空写真では住宅の間にそれらしきものがみえる。

寺を出て、すぐ前の小道に入り、突き当たりを左折する。次の道で、寺院通りに戻り、中央高速下の手前で左折し、しばらく進むが、途中で引き返し、松葉通りに戻る。この辺で通りがゆるやかにうねっており、まっすぐよりも味わい深い。むかしの農道の名残りかもしれないが、そうだとすれば、これもまた土地の記憶の一つの形かもしれない。

玉川上水の岩崎橋で右折し、玉川上水に沿って下流に向けて歩く。玉川上水は、以前に、何回か歩いているが、緑でうっそうとしており、流れがみえないほどである。中央高速に近い辺りで暗渠になっている。ここを通り過ぎて左折し、富士見ヶ丘駅に戻る。

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升田幸三

2010年01月19日 | 将棋

世田谷区北烏山の常栄寺に将棋名人の升田幸三のお墓を訪ねてきました。

午後井の頭線久我山駅下車。南口から出ると、すぐ前に神田川が流れている。信号を渡り、商店街を南に進むと、まもなく、玉川上水の岩崎橋。これを渡り、さらに行くと、途中、右側に細い道があったので、歩いてみる。散歩道によさそうであるが、左側は倒木などもあって、ちょっとあれた感じがするところもある。

引き返し、さらに行き、右折して進むと、左手に畑が広がっている。田舎生まれのわたしには懐かしい風景である。さらに進んで、寺院通りを左折すると、まもなく、常栄寺である。門に、浄土真宗本願寺派 常栄寺とある。中に入ると、意外に広く一瞬どうやって探そうかと迷うが、墓地の奥に進み、端から探し始める。4~6往復程度で見つかる。

駒形をした墓碑に「新手一生」と刻まれている。右側に、「升田幸三 名人に香車を引いた男」と題する、升田の経歴を記した石碑が建っている。大正7年(1918)3月広島県生まれ。わたしの亡父と同年同月生まれである。そんなこともあっておもわず合掌する。

昭和27年(1952)、時の名人木村義雄と第1期王将戦で七番勝負を戦い、4勝1敗とし、次の対局が香落ちとなり、名人に香車を引く対局が実現したが、対局拒否事件を起こし不戦敗となった。これが有名な陣屋事件である。次に、昭和30年(1955)、第5期王将戦で弟弟子の大山名人と王将戦を戦い、3連勝し、名人を香落ちに指し込み、これも勝ち、「名人に香車を引いて勝つ」を実現した(Wikipedia)。昭和32年(1957)第16期名人戦で大山から名人位を奪取し、九段戦(竜王戦の前身)でも大山に勝っており、史上初の三冠を達成した。

柳田國男写真集(岩崎美術社)という写真集がある。以前、古本屋の閉店セールで買ったものだが、それを眺めていると、たくさんの文人連中が料亭に集まって歓談している写真に、一人異体な様子のひげの男が写っていた。よく見ると、升田幸三であった。写真の註に、「神戸新聞社・随想同人懇親会 福吉町あかはねにて 志賀直哉、長谷川如是閑、梅原龍三郎、辰野隆、升田幸三、網野菊らが同席(昭和33年2月4日)」とある。三冠を達成して得意の絶頂の時であったのだろう、将棋と全く関係のない連中と楽しそうな雰囲気である。

升田幸三と大山康晴は大阪の木見一門の兄弟弟子であるが、終生のライバル同士でもあった。升田は強いときは抜群であったが、持続力は大山の方が上手で、タイトル獲得数もかなり上回っている。升田は平成3年(1991)4月に73才で亡くなり、追うようにして大山も次の年7月に69才で亡くなっている。

わたしはへぼだが長年の将棋ファンである。むかしからテレビ将棋をよく見ていた。升田のテレビ将棋の解説は聞いたことがなかったが、大山のはユニークであった。棋士の表情や姿勢などをみて、○○さん苦しそうですね、などという解説をよくしていた。盤面以外でもそういうところで相手をよく観察していたのであろう。

いまから25年ほど前、わたしは山口宇部空港で升田幸三を見かけたことがある。空港発のバスに乗り、最前列の席に座って出発を待っていると、バス停にひげの老人が立っていたが、それが升田だった。だれかを待っていたような感じで、杖を突いてじっとしていた。ただそれだけのことだが、記憶に残っているので、ここに記した次第である。

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井草川緑道

2010年01月18日 | 散策

井草川の水源近くに再度行ってきました。

杉並工業高校の手前の公園の中ほど、左に(杉並工業高校を背にして)緑道が続いている。ここは緑道というよりも遊歩道という感じであるが、前回、この道を見逃した。途中、一般道を横断したところの出入口に、杉並区役所の「遊歩道」のパネルが取りつけられた車止めがある。都立農芸高実習果樹園の隅をとおりさらに少し進んで、先ほどの一般道に出てそこで終わっている。遊歩道のパネルには、熊にのった金太郎が描かれているが、よく見ると、金太郎の腹巻きが通行止めの交通標識になっているのがおかしい。公園から続き、都立農芸高実習果樹園の隅から約半周ほどの道を、ここでは、金太郎道とよぶ。

切通し公園の北側から狭い道が住宅の間をとおって延びており、杉並工業高校の裏手の道まで続いている。途中マンホールがたくさんあったので、この道が切通し公園の水源から流れてきた井草川の跡と思われる。これがいまの杉並工業高校などの中を流れて先ほどの金太郎道まで続いていたのであろうか。googleマップの航空写真でみてみると、そのようにも思えてくる。

ところで、今回、航空写真の方が地図よりもよくわかる場合があることに気がついたのは収穫であった。むかしの川がそのまま残って、川が蛇行する様子がよくわかる。川を暗渠にしても、その上を、そのまま緑道や遊歩道とすることで土地の記憶が消滅せずに残る。

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杉並の妙正寺池~井草川緑道

2010年01月16日 | 散策

この前の連休に杉並区の妙正寺池から井草川緑道を散歩してきました。

午後荻窪駅。
駅前の青梅街道を横断し教会通りをとおり抜けて清水方面に向かう。静かな住宅地をとおり、妙正寺池につく。井の頭池や善福寺池などと比べてかなり小さい池で、その周囲が公園となっている。池の水はきれいで、水鳥がたくさん泳いでおり、気持ちのよいところである。池脇のベンチでおじいさんがハーモニカを吹き、おばあさんが一緒にすわってきいている。

妙正寺池は妙正寺川の水源らしいが、妙正寺池の近くで井草川が妙正寺川に注いでいるようである。菅原健二「川の地図辞典」によれば、井草川は妙正寺川の支流となっている。この井草川が暗渠となり、その上が緑道(遊歩道)になっているらしい。以前に市街地図をみていたら、妙正寺池の近くに緑道があるのをみつけ、地図上でたどっていくと、杉並工業高校の近くまで続いていることがわかった。

公園から道を渡ると橋があり、その脇に立っていた妙正寺川の案内板によれば、武蔵野台地では、「地下六~七メートルに武蔵野砂礫層が堆積しており、その中を流れる地下水が、標高約五十メートル付近にある窪地から地表に湧き出て」いるところがあり、妙正寺池もそのような湧水の一つであるとのことである。

橋の先のフェンスから妙正寺川のトンネル出口の辺りを眺めると、水量がかなり少ない。もう井草川から流れず、妙正寺池から流れる水がほとんどで、湧水が少なくなっているのであろうか。

妙正寺公園の脇をでると、緑道がみえる。緑道は、入り口に車止めを設置しているのですぐにわかる。両脇に植え込みのある道が続く。植物のある風景はこころなごむものがある。新緑のころはもっとよいに違いない。ゆるやにカーブしているところが多く、むかしこのように川が田園地帯を流れていたんだろう、と想像するのが楽しい。何回も道路を渡り進むが、途中三カ所で分断されている。環八で一回、西武新宿線で二回。その都度回り道をする。途中、数カ所に橋名を記した石柱が残っている。

杉並工業高校の手前の公園で緑道は終わっているが、水源は、高校の反対側の切り通し公園のあたりらしいので、そこまで歩く。途中にあった井草遺跡の案内板によれば、井草遺跡は井草川の西側斜面の湧水周辺に位置していたとのこと。井草川の水源は、いまは埋め立てられているが、大昔からあったらしく、井草川の歴史も古そうである。

公園から青梅街道に出て、途中のスーパーで一休みしてから、善福寺川にでて西荻窪駅まで。

帰宅してから、今回たどった緑道をインターネットによりgoogleマップの航空写真で見てみると、くねくねとカーブしているために一般道と明らかに違ってみえることがわかった。また、杉並工業高校の手前の公園から短いが別の道が延びており、また、途中の住宅地から切り通し公園まで狭い道が続いており、今回これらをたどることができなかったのは残念である。

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永井荷風「日和下駄」

2010年01月14日 | 荷風

「日和下駄 一名 東京散策記」と題され、市中散策の古典的名著と思います。

大正3年(1914)8月~翌年6月まで「三田文学」に掲載され、11月に『日和下駄 全』として刊行された。荷風、35歳の時である。「市中の散歩は子供の時から好きであった。」とあり、日記「断腸亭日乗」を読んでもわかるように、とにかくよく歩いたようである。

全体構成はつぎのとおり。第一がいわば総論で、第二以下が各論であろうか。
各題をみただけで荷風が何に関心を寄せたかわかる。
序 第一 日和下駄、第二 淫祠、第三 樹、第四 地図、第五 寺、第六 水 附渡船、第七 路地、第八 閑地、第九 崖、第十 坂、第十一 夕陽 附冨士眺望

総論にもっとも荷風らしさがあらわれていると思う。
散歩になんか目的はなく、ただ、「歩け歩けと思って、私はてくてくぶらぶらのそのそといろいろに歩き廻るのである。」それでも、目的があるとすれば、「何という事なく蝙蝠傘に日和下駄を曳摺って行く中、電車通の裏手なぞにたまたま残っている市区改正以前の旧道に出たり、あるいは寺の多い山の手の横町の木立を仰ぎ、溝や掘割の上にかけてある名も知れぬ小橋を見る時なぞ、何となくそのさびれ果てた周囲の光景が私の感情に調和して少時我にもあらず立去りがたいような心持をさせる。そういう無用な感慨に打たれるのが何より嬉しいからである。」

この照れ隠しのような言い回しこそ荷風が得意とするところであり、本音に近いからこそ読む者に荷風独自の美的感覚が伝わる。散歩の無目的性、無用性、それでよいではないか。

「十五,六になる娘が清元をさらっているのを見て、いつものようにそっと歩みを止めた。」「今もってその哀調がどうしてかくも私の心を刺激するかを不思議に感じなければならなかった。何気なく裏町を通りかかって小娘の弾く三味線に感動するようでは、私は到底世界の新しい思想を迎えることは出来まい。それと共にまたこの江戸の音曲をばれいれいしく電気燈の下で演奏せしめる世俗一般の風潮にも伴って行く事は出来まい。私の感覚と趣味とまた思想とは、私の境遇に一大打撃を与える何物かの来らざる限り、次第に私をして固陋偏狭ならしめ、遂には全く世の中から除外されたものにしてしまうであろう。」

荷風は「世界の新しい思想」に抵抗するものの、単純な江戸懐古趣味に逃げ込むこともできない。感覚も趣味も思想も孤立したものにならざるをえない。しかし、安易に妥協しないところに人は引きつけられる。孤立しない感覚・思想がどうして人に感銘を与えることができようか。

「私は後から勢よく襲い過ぎる自動車の響に狼狽して、表通から日の当らない裏道へと逃げ込み、そして人に後れてよろよろ歩み行く処に、わが一家の興味と共に苦しみ、また得意と共に悲哀を見るのである。」

かくして荷風は、興味と苦しみ、得意と悲哀を伴いながら、裏町を、横道を、てくてくぶらぶらのそのそと歩むのである。

荷風は、「第九 崖」で、根津権現から団子坂へと通ずる路を詳しく述べてから、その路が団子坂にでる付近にある観潮楼と称する居邸に森鴎外を残暑の残る初秋の夕暮れに訪ねたことを思い出している。傾倒し尊敬する森鴎外のことに及ぶや、崖のことなど忘れたように、そのとき聞こえてきた上野の鐘の音のことなどとともに鴎外のことを書きとめているところがおもしろい。「日和下駄」の中で、もっとも他の部分と印象が異なるところである。

根津権現から団子坂へと通ずる路は、もちろん現存し、日本医科大学の脇から団子坂に向けて上る藪下通りという小道である。何回か歩いたことがあるが気持ちのよい散歩道である。観潮楼跡に鴎外記念本郷図書館があるが、その裏庭が贅沢な空間である。壁に埋め込まれた荷風書の鴎外詩「沙羅の木」の碑があるからである。ここでの一休みは何とも言えずよい気分になる。

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世田谷坂巡り(1)

2010年01月11日 | 坂道

年末に世田谷の坂巡りに行きましたが、その坂道散策記です。

午後、東急大井町線尾山台駅下車。等々力駅で降りるつもりだったが、乗り過ごす。しかし、きょうの予定は、丸子川に沿って天神橋から上流であるので、さほど問題ではない。駅からまっすぐ延びた商店街を通り、環八を横断し、坂道を下ると、丸子川である。橋を渡り、右折して川に沿って歩く。ここから丸子川の下流には、寮の坂(堂の坂)というなかなかよい坂があるが、以前、この坂から地頭坂、等々力の坂をへて等々力渓谷まで歩いたので、きょうは浄音寺坂から始める。丸子川とは旧六郷用水で、仙川から分岐しているとのこと。田園調布の多摩川台公園の辺りで多摩川に注いでいるようである。

等々力渓谷から流れてくる谷沢川がみえると、まもなく天神橋である。右折し、橋を渡ると、浄音寺坂の上りとなる。坂名を記した石柱が右にみえる。どこまで浄音寺坂かわからないが、かなり長く続き、庚申様が左にみえる辺りからかなりの勾配である。おばあさんが自転車を引いてゆっくりと上っていく。

野毛大塚古墳のある公園から六所神社前をとおり、ふたたび丸子川にでる。第三京浜のガード下を進む。明神橋を右折し、明神坂を上る。左側にほぼ直角に曲がるところに坂の石柱がある。曲がってからかなり長く、高低差もかなりある。きょう予定の浄音寺坂、明神坂、稲荷坂、行善寺坂は、いずれも多摩川に向かって下る坂であるので、かなりの高低差があると思ってきたが、なるほど、そうであるようだ。

稲荷橋を右折し、稲荷坂を上る。ゆるやかに湾曲しているが、無理にまっすぐにしていないところがよい。目黒辺りの坂(道幅は狭いが)と同じような印象である。坂は、まっすぐに上下しているよりも曲がりくねっている方がおもむきがあってよい。

丸子川をさらに進み、調布橋を渡り、行善寺坂を上る。ゆるやかにうねるようにして上りが続く。途中にある行火(あんか)坂の石柱がいやに目立つ。坂を上っていくと、瀬田貝塚跡という石柱が右側にみえ、さらに行くと、行善寺がある。山門にある案内板によると、玉川八景として知られた地らしい。いったん戻り、行火坂を上る。

行善寺の先を左折し、東急田園都市線の上にかかる歩道橋にでる直前のところに、瀬田夕日坂と記したしゃれたデザインの案内板があったが、だれかが最近命名したのだろうか。確かに歩道橋から西の方がよくみえる。

瀬田トンネルをとおり抜けて進み、右折し、慈眼寺坂を上る。坂上をガイド本にしたがって進むと、馬坂の下りとなる。下側で大きくカーブするところに石柱がある。このカーブがよいアクセントになっている。

馬坂から先で道を間違えてしまう。石柱から少し下った地点を馬坂の終わりと勘違いして、そこを右折してしまったのである。かなり進んでから気がついたが、おかげで砧公園の方から流れてくる川沿いに歩くことができた。引き返して、本来行くはずだった橋をとおり、ここを右折すれば、本来のコースであるが、かなり暗くなってきたので、残りの坂は後日の楽しみとして二子玉川駅を目指した。

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山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」

2010年01月10日 | 坂道

東京の坂巡りの必携本です。
たくさんの坂を23区ごとに分け、コース別にガイドするもので、写真や地図が豊富で読み物として読むのもおもしろいですが、それだけでないユニークさがあります。それは、各コースのはじめの坂から最後の坂に至るまでこのガイドのとおりに歩くと、すべての坂をたどることができることです。坂上を進み、2本目を左折すると、〇〇坂の下りである、といった具体的な案内が随所に見られます。

坂には必ずしも案内板や標柱などがあるとは限らず、またあっても見つけるまでに時間がかかることもあり、坂の同定が大変ですが、そのような困難を解消してくれます。もし、この本がないと、特に案内板や標柱のない坂の場合、探すのがかなり大変となり、相当に予習をしないと現地で迷うことになると思われます。必携本というゆえんです。

案内地図もユニークです。かなりデフォルメされており、坂から坂へと巡るのに充分なものですが、各坂の相対位置がわかるだけですので、これにしたがって歩いていると、ときどき、自分がいま、どの辺を歩いているのか、わからなくなるときがあります。これが、また、おもしろいのです。まさに彷徨い(さまよい)歩く気分となります。

わたしは、帰宅してから、かならず車用に購入した大きな市街地図でその日たどったコースを確認します。これが坂巡りの後の楽しみの一つですが、かなりの区域を歩いたと思っても、けっこう狭い範囲をぐるぐると回っているコースもあって、その意外性もなかなかよいのです。

この本は、坂巡りの入門書といってよく、各コースを歩いて坂の位置を確かめてから、次に、独自のコースを開拓して歩くことがさらなる楽しみとなると思っています。

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坂巡りの始まり

2010年01月08日 | 坂道

都内の坂を巡るようになるまでのいきさつ(以前書いたものに少々手直しを加えたもの)です。

荷風、特に日和下駄や礫川逍遙記など(これらが集録された岩波文庫の「荷風随筆集上」)を読んでから都内散策に興味がでてきたが、本格的に行うまでにはなかなか至らず、仕事の合間に新宿近くの抜け弁天、余丁町の荷風住居跡、監獄跡、西向き天神などを荷風散策と称して訪れた程度であった。

そのころ、種村季弘の「江戸東京《奇想》徘徊記」、中沢新一の「アースダイバー」、少し遅れて、山野勝の「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」が出版され、これらを読んで都内散策にいっそう惹かれたのであった。これらは、読むだけでは終わらずに自然と街歩きに誘う優れたものであるが、わたしにとってはそれだけでなく偏奇館跡訪問で受けた衝撃を緩和する作用をもたらすものであった。

「アースダイバー」は、偏奇館跡近くの麻布谷町の開発を土地の記憶を削り取るものと捉え、そのときどんな過程が進行していたかは我善坊の谷を訪れてみればわかるとし、「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」は、その谷につながる我善坊谷坂を紹介しているではないか。偏奇館跡から我善坊谷坂まではすぐである。もう決してみることのできない消失前の偏奇館跡の「土地の記憶」に思いを馳せるにはちょうどよいかもしれない。うかうかしていると我善坊谷も偏奇館跡の二の舞になるにちがいない。しかも、都内へ転居したため以前よりも旧麻布市兵衛町(何という響きのよい地名であろうか)辺りにも行きやすくなっている。ここに至ってはその坂と谷に行ってみるしかないではないか。わたしの坂道徘徊の始まりである。

2006.10.15 山野勝の坂ガイド本にしたがって地下鉄溜池山王駅下車。しかし、坂巡りを始めるにあたってはなにか似合わない駅であった。地上に出ると、外堀通りの広い道路。一瞬方向が分からなくなる。見当をつけて信号を渡るが、なぜか落ち着かない。偏奇館跡への最初の訪問から2~3年もたっているのに大袈裟だが後遺症がまだ残っているのかもしれない。おまけに最初の榎坂も風情がまったくない。

榎坂からアメリカ大使館前の交差点を渡り、霊南坂を上るが、ここから先の記憶が途絶えている。手帳の記録によれば、道源寺坂と御組坂にも行っているが、記憶があるのは、行合坂からである。厭な出来事は記憶をも歪める。かすかに残っているのは偏奇館跡の記念碑を避けようとしたことである。たぶん、御組坂を下ったとき、右折せず(右折すると20mほどで記念碑である。)、左折したのだろう。

行合坂の底部から左折すると、落合坂の下りとなる。我善坊谷に向かって緩やかに傾斜している。歩いて左右、特に、右側をみると、小路が何本も短く延びており、その両脇に古びた家が並んでいるが、人気が少なく、ひっそりとして寂しい感じである。なるほど、中沢新一がいうように、これが、買収後、ビルが建つまでの姿、ゴーストタウンか、と思い知ったのであった。

我善坊谷の辺りと思われる十字路を左折すると、いよいよ我善坊谷坂の上りである。かなり急な坂道が左へと曲がって続いている。一気に高度を上げて左側をみると、人家やアパートがみえ、谷底もみえる。消失前の偏奇館跡からもこのような風景がみえたにちがいない。そう思うことで、少々いやされた気分となったことは確かである。

これ以降、都内の坂巡りによく出かけるようになり、現在に至っています。これも荷風散策の延長線上にあり、坂巡りで様々な風景にであいました。

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荷風散策事始め

2010年01月07日 | 荷風

東京の街々をさまようように歩くなったわけから書きます。以下は、以前に書いてパソコンに保存していたものです。

わたしが永井荷風の住んだ偏奇館跡を六本木(旧麻布市兵衛町)に訪ねたのは、夏の暑さが未だ残る9月であった。その1~2年前から断腸亭日乗や日和下駄などの随筆やいくつかの小説を読んで荷風に親しみ始めていたのであるが、そのような者がよく陥る、作者ゆかりの地訪問願望を実現しようとしたのである。

当時、横浜に住んでいたわたしにとって、勤めが東京であるが、休日にわざわざ通勤と同じ時間をかけて東京まででかけることは相当の理由がない限りありえないことであった。その日は休日だったが虎ノ門で用事があり、それが昼前に終わり、午後があいたのである。

前日の遅くまでの仕事の疲れをひきづりながら、外堀通りにでて溜池方面に向かって歩き始めた。それでも、溜池の交差点から高速道路の下を六本木方面に向かって歩いていると、自然とわくわくしてくる。その高速道路が分岐するところ地下鉄六本木一丁目駅の手前左側に道源寺坂へ続く細い路があった。路に入ると、まず、西光寺が見えてきて、道源寺坂の標柱がたっており、道源寺坂を上り始めた。ここまでは調べていたとおりである。

ところが、道源寺の塀にそって上り坂上の標柱を左にみて右側の路に入ると、一帯は大きなビルで囲まれており、少し歩いただけで行き止まりになり、その先の崖下にはエスカレータなどで近代化された光景が見えるのである。細い路が偏奇館跡へと続いているはずであるのに、なにやらおかしいのである。引き返して標柱から先に進むと大きな通りに出てその雰囲気ではない。坂上に戻り、その近くにある公園らしき広場のベンチに座り、気を静めて地図をみるが、眼の前の風景と一致しない。位置的には先ほどの大きな通りであるので再びその辺を探したが分からず、結局、その通りにいた駐車場の警備員さんに訪ねると、先ほどうろうろした辺りを指して、そのようなものがあるとのことである。

半信半疑のまま歩いていき、歩道の脇に小さな四角柱の記念碑を見つけるに至ってようやく理解した。遅かったのである。偏奇館跡は跡形もなく消え失せていたのである。

その記念碑には、かつてあったであろう案内板と同じ文言がしたためられていた。

  偏奇館跡
  小説家永井荷風が、大正九年に木造洋風二階建の
  偏奇館を新築し、二十五年ほど独居自適の生活を
  送りましたが、昭和二十年三月十日の空襲で焼失しました。
  荷風はここで「雨瀟瀟」「墨東綺譚」などの名作を書いています。
  偏奇館というのは、ペンキ塗りの洋館をもじったまでですが、
  軽佻浮薄な日本近代を憎み、市井に隠れて、
  滅びゆく江戸情緒に郷愁をみいだすといった、
  当時の荷風の心境・作風とよく合致したものといえます。

  冀くば来りてわが門を敲くことなかれ
  われ一人住むといへど
  幾年月の過ぎ来しかた
  思い出の夢のかずかず限り知られず
                「偏奇館吟草」より

  平成十四年十二月       港区教育委員会

「軽佻浮薄な日本近代を憎み」がなんとも空々しい。おい、このざまはどうなんだ、こころの中で一人毒づき、記念碑を見つめながら立ちつくすばかりであった。そして、ふと我に返って、まわりを見わたすと、その通りは東京のどこにでもあるような道で、何もないのっぺらぼうの相(かお)をしているのである。そんなものはあずかりしらぬとばかりに、のっぺらぼうなのである。これから先、いたるところで、小泉八雲の如く、それはこんなかおだった?と無数ののっぺらぼうがあらわれるような気がしていっそうの絶望感に沈んだのであった。

後日知ったのだが、冨田均の「東京坂道散歩」によれば、むかしの偏奇館跡は現在の地形からいうと宙に浮いた位置であるとのことである。御組坂の標識のある坂から下ってきたその辺りは削りとられたのであろう。

気を取り戻し、つぎに、地下鉄で飯田橋駅に向かった。その日のために持ってきた重い鞄をコインロッカーに預けてから、神田川に沿って歩き始めた。目指すは荷風生誕の地である。

安藤坂を上り、その途中で左折し、川口アパート前でクランク状になった道を歩いていくと、案内板がたっており、そこから右に入った坂道の左側一帯が荷風の生まれた家があったところらしい。静かな住宅地である。当然のことながら、もはや荷風が「狐」で描いたような狐がでる雰囲気ではない。案内板のある道をさらに進んで左折し、金剛寺坂を下り、水道端の通りにでて左折し、牛天神を訪ねた。中島歌子の歌碑をみてから牛坂を下り、飯田橋駅に引き返した。

以上がわたしの荷風散策事始めの顛末である。

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