雑司ケ谷霊園に永井荷風などのお墓を訪ねた。
午後副都心線雑司が谷駅下車。
雑司ケ谷霊園には、これまで二回ほど訪れているが、アクセスは、有楽町線東池袋駅からと、坂巡りの途中護国寺からであった。今回、はじめて副都心線雑司が谷駅から行ってみた。
一番出口から出ると、眼の前に都電荒川線が走っている。この線路を左に見てしばらく歩き、右折していくと、清立院の前に出るが、ここを上るのが御嶽坂である。この坂を上り、坂上の出入口から霊園に入る。
まず、永井荷風の墓を目指す。きょう(4月30日)は、荷風の祥月命日である。このため、きょう出かけてきた。
荷風の墓は、入口に立っている案内図(上の写真)の1-1(1種1号)の区域にある。さらに詳しくは、右の写真の案内地図のように、1-1-7と8の間である。この案内地図は、以前にきたとき、管理事務所においてあったものである。こういった墓地で困るのは、墓の位置を探すことが難しいことで、このような案内地図が必携である。
霊園の中の木々も新緑で、気持ちのよい散歩ができる。ときおり、線香の匂いがしてくるのは場所柄やむをえない。しばらく歩くと、永井家の墓地の入口につく。左の写真のように、1種1号8側の標識が立っているところを入ると、左手2番めである。
生け垣に囲まれているところで、こぢんまりとしているが落ち着いた感じがする。真ん中が荷風の墓で、その左が荷風の父禾原(かげん)の墓であるが、風化して、「禾原先生墓」のうち、「禾」、「生」の字が読めるだけである。禾原は、父久一郎の号である。命日のためか、花が供えられ、また、缶コーヒーも供えられている。
墓石の裏の墓碑を見ると、荷風のは、「永井壯吉 昭和三十四年四月三十日卒 享年七十九」と刻んでいる。父禾原の方は、「永井久一郎尾張□大正二年一月二日卒 享年六十二」で、□の部位が不明であるが、尾張の出身であるので、そのような意味であろう。
荷風とその父は、生前、かなり葛藤があったようであるが、いま、仲よく墓が並んでいる。
荷風は、父の死後、その祥月命日である正月2日によくこの雑司ケ谷霊園に墓参りに訪れている。たとえば、「断腸亭日乗」大正七年(1918)の正月には次の記述がある。(先考とは、亡父のことである。)
「正月二日。暁方雨ふりしと覚しく、起出でゝ戸を開くに、庭の樹木には氷柱の下りしさま、水晶の珠をつらねたるが如し。午に至つて空晴る。蠟梅の花を裁り、雑司谷に徃き、先考の墓前に供ふ。音羽の街路泥濘最甚し。夜九穂子来訪。断腸亭屠蘇の用意なければ倶に牛門の旗亭に徃きて春酒を酌む。されど先考の忌日なればさすがに賤妓と戯るゝ心も出でず、早く家に帰る。」
次の年(大正八年)は、三日に出かけている。二日の「日乗」に、「午後墓参に赴かむとせしが、悪寒を覚えし故再び臥す。」とあり、命日には行けなかったようである。
「正月三日。快晴稍暖なり。午後雑司谷に徃き、先考の墓を拝す。去月売宅の際植木屋に命じ、墓畔に移し植えたる蠟梅を見るに花開かず。移植の時節よろしからず枯れしなるべし。夕刻帰宅。草訣辨疑を写す。夜半八重福来り宿す。」
大正九年、十年には行かず、大正十一年(1922)に次のようにある。
「正月二日。正午南鍋町風月堂にて食事をなし、タキシ自働車を雑司ケ谷墓地に走らせ先考の墓を拝す。去年の忌辰には腹痛みて来るを得ず。一昨年は築地に在り車なかりしため家に留りたり。此日久振にて来り見れば墓畔の樹木俄に繁茂したるが如き心地す。大久保売宅の際移植したる蠟梅幸にして枯れず花正に盛なり。此の蠟梅のことは既に断腸亭襍稾の中に識したれば再び言はず。」
去年と一昨年に墓参ができなかったわけを一一記しているが、荷風の律儀さがあらわれている。
(続く)
参考文献
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
松本哉「永井荷風ひとり暮し」(朝日文庫)
秋庭太郎「永井荷風傳」(春陽堂)