東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

雑司ケ谷霊園(1)永井荷風の墓

2011年04月30日 | 荷風

雑司ケ谷霊園に永井荷風などのお墓を訪ねた。
午後副都心線雑司が谷駅下車。

雑司が谷都電荒川線 雑司が谷霊園出入口御嶽坂上 出入口近くの案内図 霊園案内図 雑司ケ谷霊園には、これまで二回ほど訪れているが、アクセスは、有楽町線東池袋駅からと、坂巡りの途中護国寺からであった。今回、はじめて副都心線雑司が谷駅から行ってみた。

一番出口から出ると、眼の前に都電荒川線が走っている。この線路を左に見てしばらく歩き、右折していくと、清立院の前に出るが、ここを上るのが御嶽坂である。この坂を上り、坂上の出入口から霊園に入る。

まず、永井荷風の墓を目指す。きょう(4月30日)は、荷風の祥月命日である。このため、きょう出かけてきた。

荷風の墓は、入口に立っている案内図(上の写真)の1-1(1種1号)の区域にある。さらに詳しくは、右の写真の案内地図のように、1-1-7と8の間である。この案内地図は、以前にきたとき、管理事務所においてあったものである。こういった墓地で困るのは、墓の位置を探すことが難しいことで、このような案内地図が必携である。

荷風墓入口 永井家の墓 荷風と父禾原の墓 荷風と父禾原の墓霊園の中の木々も新緑で、気持ちのよい散歩ができる。ときおり、線香の匂いがしてくるのは場所柄やむをえない。しばらく歩くと、永井家の墓地の入口につく。左の写真のように、1種1号8側の標識が立っているところを入ると、左手2番めである。

生け垣に囲まれているところで、こぢんまりとしているが落ち着いた感じがする。真ん中が荷風の墓で、その左が荷風の父禾原(かげん)の墓であるが、風化して、「禾原先生墓」のうち、「禾」、「生」の字が読めるだけである。禾原は、父久一郎の号である。命日のためか、花が供えられ、また、缶コーヒーも供えられている。

墓石の裏の墓碑を見ると、荷風のは、「永井壯吉 昭和三十四年四月三十日卒 享年七十九」と刻んでいる。父禾原の方は、「永井久一郎尾張□大正二年一月二日卒 享年六十二」で、□の部位が不明であるが、尾張の出身であるので、そのような意味であろう。

荷風とその父は、生前、かなり葛藤があったようであるが、いま、仲よく墓が並んでいる。

荷風は、父の死後、その祥月命日である正月2日によくこの雑司ケ谷霊園に墓参りに訪れている。たとえば、「断腸亭日乗」大正七年(1918)の正月には次の記述がある。(先考とは、亡父のことである。)

「正月二日。暁方雨ふりしと覚しく、起出でゝ戸を開くに、庭の樹木には氷柱の下りしさま、水晶の珠をつらねたるが如し。午に至つて空晴る。蠟梅の花を裁り、雑司谷に徃き、先考の墓前に供ふ。音羽の街路泥濘最甚し。夜九穂子来訪。断腸亭屠蘇の用意なければ倶に牛門の旗亭に徃きて春酒を酌む。されど先考の忌日なればさすがに賤妓と戯るゝ心も出でず、早く家に帰る。」

次の年(大正八年)は、三日に出かけている。二日の「日乗」に、「午後墓参に赴かむとせしが、悪寒を覚えし故再び臥す。」とあり、命日には行けなかったようである。

「正月三日。快晴稍暖なり。午後雑司谷に徃き、先考の墓を拝す。去月売宅の際植木屋に命じ、墓畔に移し植えたる蠟梅を見るに花開かず。移植の時節よろしからず枯れしなるべし。夕刻帰宅。草訣辨疑を写す。夜半八重福来り宿す。」

大正九年、十年には行かず、大正十一年(1922)に次のようにある。

「正月二日。正午南鍋町風月堂にて食事をなし、タキシ自働車を雑司ケ谷墓地に走らせ先考の墓を拝す。去年の忌辰には腹痛みて来るを得ず。一昨年は築地に在り車なかりしため家に留りたり。此日久振にて来り見れば墓畔の樹木俄に繁茂したるが如き心地す。大久保売宅の際移植したる蠟梅幸にして枯れず花正に盛なり。此の蠟梅のことは既に断腸亭襍稾の中に識したれば再び言はず。」

去年と一昨年に墓参ができなかったわけを一一記しているが、荷風の律儀さがあらわれている。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
松本哉「永井荷風ひとり暮し」(朝日文庫)
秋庭太郎「永井荷風傳」(春陽堂)

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3・11~桜~新緑

2011年04月26日 | 日記

何とも無惨な春である。例年、この季節は花粉症で悩まされ鬱々(うつうつ)と毎日を過ごすのであるが、ことしは、数年ぶりの花粉大飛散の年ということで、2月下旬から影響が出始めていた。しかし、3月11日の大地震による衝撃でその気分は吹き飛び、別のもっと大きな暗澹たる気分に陥った。

当日、新宿区内の事務所でいつものようにパソコンに向かっていた。最初の揺れがきたとき、これまでにない激しい揺れだったので、ついに関東大地震がきたのかと思ったが、すぐにラジオをつけたら震源が宮城県沖ということだった。その後、かなり強い余震が何回かあったが、インターネットの地震情報に、茨城県沖が震源地となっている余震があり、不思議に思った。地震のマグニチュードが大きい方へと二回ほど変更された。そして、次第に、この地震の規模が明らかになっていった。

新宿西口から青梅街道に沿って2時間ほど歩いて帰宅した。歩き始めの7時半過ぎ、エルタワー北側の歩道橋のあたりは人の波でごった返していた。歩道は人であふれ、車道は渋滞で車はほとんど進まない。歩道沿いのコンビニやラーメン店やレストランや飲み屋はどこも混んでいる。一緒に歩いて帰った娘がスナック菓子などを買うためコンビニに寄るので、わたしも元気づけにと栄養ドリンクを買う。歩道を歩く人はずっとあまり減らずに多かった。

以上が当日の帰宅までだが、同じような体験をした人は多かっただろうと思う。

衝撃は、帰宅後も続いた。テレビの津波映像に息をのんだ。仙台市若林区荒浜のあたりと思うが、空からの映像で、津波が田園地帯をかなりの速度でまわりのものをのみ込みながら広がっていく。ビニールハウスなどもあっという間にのみ込まれる。やがて、自動車専用道路に近づいていくが、車が何事もないかのように走っている。このあたりで映像は終わるが、その後、津波がその道路を乗り越えたのかわからない。この映像(たぶんNHK)が当日の夜、繰り返し流された。

次の日になると、津波被害地の映像とともに、福島第1原子力発電所の事故を報じる映像が続いた。午後には1号機の建屋が爆発し吹き飛んだ。そして、一ヶ月以上を過ぎた現在でも原発事故は収束していない。なにかあっという間の出来事のような気がしてくるが、地震の前後でなにかが変化している。

地震の後しばらく、朝いつものように眼が覚めると、大地震の後で原発の事故が発生していることに覚醒していく。一瞬、違う世界にいるのかもしれないと思う。アナザーワールド。村上春樹「1Q84」のように天に月が二つ浮かんでいる世界。ひょっとしてあの日午後2時46分、別の世界に入り込んでしまったのではないか。以前のまま過ぎているもとの世界があるのではないか。妄想が通り過ぎると、やはり、現実は原発事故の発生した世界。別の世界に入り込んだのではなく、もとの世界がアナザーワールドへ変わってしまったのだ。

4月はじめの休日、いつものように、善福寺川へ出かけ、桜を見た。寒い日であった。例年よりも開花が遅く、満開前で人出も少なかった(前回の写真)。次の週は暖かくなり桜も満開で、たくさんの人が花見に繰り出していた。桜が咲き、それを愛でる人たちがあふれる。ことしの花見はいつものようではあったが、その感慨は千差万別ではあれ、例年とは違ったのではないだろうか。ことしは人出の割には静かな感じがしたのは気のせいではないだろう。直接的な被害はなかったかもしれないが、人それぞれに大なり小なり精神的な打撃を受けている。

善福寺川相生橋近く 善福寺川相生橋近く 善福寺川尾崎橋 善福寺川尾崎橋 一昨日の休日も善福寺川に出かけてみた。川の水が前日の雨のせいか少し濁っている。桜はもうすっかり散って新緑でいっぱいとなっていた。人出ももとにもどり、川沿いは静かになっている。同じように散歩を楽しむ人がいて、ジョギングをする人が追い越していく。

ときとして人間に牙をむける自然ではあるが、樹々が花から新緑へと移り変わるその自然の営みに心が洗われる思いである。

一方で災禍をもたらし、他方で心を救う。どうやら自然とは残酷と救済の両方をもたらすものらしい。
この二律背反の世界で生きるしかないようである。

善福寺川尾崎橋近く 善福寺川尾崎橋近く 善福寺川成田上橋 善福寺川白山前橋

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善福寺川の桜2011(神通橋)

2011年04月05日 | 写真

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茗荷坂

2011年04月04日 | 坂道

茗荷坂付近の地図 茗荷坂手前 深光寺前 深光寺 左の写真は、茗荷谷駅の近くに立っている地図であるが、これまで巡った釈迦坂・蛙坂・藤坂、これから向かう茗荷坂の各位置がよくわかる。右上端に庚申坂ではない切支丹坂が示されている。

藤坂下を右折し、地下鉄のガード下に入りここを通り抜ける。このあたりを右折し別のガード下を通ると、釈迦坂方面で、左折すると、蛙坂方面である。直進し西へと進む。左から二番目の写真は、その途中の道であるが、このあたりが茗荷谷であろう。江戸切絵図を見ると、このあたりの南側に小日向茗荷谷町がある。

正面突き当たりに拓殖大学があり、右手に右の写真のように深光寺がある。ここには滝沢馬琴の墓があり、寺の中に下左の写真のように、その説明板が立っている。

滝沢馬琴墓説明板 茗荷坂下 茗荷坂下 茗荷坂下 深光寺の前のあたりが茗荷坂の坂下であろう。深光寺を右に、拓殖大学を見て進むが、すぐ右に説明板が立っている。緩やかに右に曲がりながらかなり緩やかに上る坂である。説明板には次のようにある。

「茗荷坂(みょうがざか)
 茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼる坂なり云々。」と改撰江戸志にはある。これによると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになるが、今日では地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂をもいっている。
 茗荷谷をはさんでのことであるので両者とも共通して理解してよいであろう。
 さて、茗荷谷の地名については御府内備考に「・・・・・・むかし、この所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり云々。」とある。
 自然景観と生活環境にちなんだ坂名の一つといえよう。
 文京区 昭和51年3月」

 (茗荷谷の地名の由来については、以前の記事でも紹介した。)

茗荷坂中腹 茗荷坂中腹 茗荷坂中腹 上記の説明にあるように、『改撰江戸志』は、大学正門前から南西に上る坂を茗荷坂とするようであるが、その全文が『御府内備考』の小日向の総説に次のようにある。

 「茗荷坂は茗荷谷より小日向の臺(台)へのぼる坂なり、左の方は戸田家の下屋敷なり、」

尾張屋板江戸切絵図を見ると、傳明寺(藤寺)から西へ向かって進むと、右手に深光寺があり、その先で北へ大きく曲がり、その隣に林泉寺がある。この深光寺から先が現在、茗荷坂とされる道筋である。近江屋板も同様であるが坂マークはない。林泉寺の道を挟んで向かい側に戸田淡路守の広い屋敷がある。

一方、深光寺の先を左折し、南西へ向かう道があり、近江屋板に坂マーク△があるが、ここが上記の説明板がいう南西に上る坂と思われる。しかし、この坂は「左の方は戸田家の下屋敷なり」の説明とあわない。「上る坂」と説明してから、「左の方は」とすれば、坂の上りに向かって左の方とするのが自然と思われるが、切絵図ではこの坂の右側が戸田家の屋敷で、「左の方」ではないからである。

林泉寺前 しばられ地蔵 茗荷坂林泉寺前 林泉寺向かいの坂 横関は、茗荷坂を、文京区小日向三丁目拓殖大学と小日向四丁目深光寺との間を北へ地下鉄茗荷谷駅のほうへ上る坂、としている。石川も岡崎も同様である。岡崎は、坂下近くを右に入り大学横の塀に沿う坂を無名坂として紹介しているが、これが上記の南西に上る坂である。今回は、この坂に行けなかったが、次回以降の課題である。

やがて林泉寺前に至るが、ここは、縛られ(しばられ)地蔵で知られているところらしい。階段わきに説明板が立っている。切絵図に、林泉寺 シバラレ地蔵、とある。同じく切絵図には、林泉寺の門前から西へ上る坂があり、近江屋板に坂マーク△があるが、この坂は、上りに向かって左の方に戸田屋敷がある。坂上も小日向の台地といえそうであるから、ここが上記の『改撰江戸志』でいう茗荷坂であるともいえそうな気がするがどうであろうか。

林泉寺前まで来たとき、左に続く上り坂があり、ここが茗荷坂の先と勘違いしたが、この坂が上記の林泉寺の門前から西へ上る坂で、右の写真は、この坂を寺の階段上から撮ったものである。坂上側で右に曲がりすぐに左に曲がってクランク状になっているが、切絵図もそうなっている。坂上の先は、上の地図のように、小日向三丁目と大塚一丁目の間へ延びている。

茗荷坂上側 茗荷坂上側 茗荷坂上側 茗荷坂上側 林泉寺前から坂道は急に狭くなって小路のような雰囲気となる。かなり暗くなってきて、飲み屋などに灯りがともっている。これまでと同じようにかなり緩やかな上り坂を上るとやがて茗荷谷駅である。

携帯による総歩行距離は13.6km。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)

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善福寺川の桜2011(尾崎橋~相生橋)

2011年04月03日 | 写真

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藤坂

2011年04月01日 | 坂道

藤坂下 藤坂下 藤坂下 藤寺門前 蛙坂を下り、茗荷坂の方へ続く道を反対方向に右折しガード下を進み、そこを抜けると、藤坂の坂下である。この道は、このまま歩くと、庚申坂下を過ぎ、やがて水道通りへと至る。

藤坂下には右手(南側)に傳明(伝明)寺(藤寺)がある。この寺を右に見てほぼまっすぐに北東へややきつい勾配で上るが、坂上で緩やかになってちょっと右に曲がり、春日通りに至る。その交差点の向こうが播磨坂上である。

蛙坂の説明に、小日向一丁目から北へ小日向四丁目に下る坂、坂のふもとの右手に藤坂、左手に釈迦坂が見えるとあり(横関)、これら三つの坂の位置関係がわかるが、現在は、地下鉄の線路が上を走っているので、このように見ることはできない。

藤坂下 藤坂下 藤坂中腹 藤坂中腹 坂下右わきに説明板が立っており、次の説明がある。

「藤坂(富士坂・禿坂) 小日向四丁目3と4の間
「藤坂は箪笥町より茗荷谷へ下る坂なり、藤寺のかたはらなればかくいへり、」(『改撰江戸志』) 藤寺とは坂下の曹洞宗伝明寺である。
 『東京名所図会』には、寺伝として「慶安三年寅年(1650)閏(うるう)十月二十七日、三代将軍徳川家光は、牛込高田田辺御放鷹(鷹狩のこと)御成の時、帰りの道筋、この寺に立ち寄り、庭一面に藤のあるのを見て、これこそ藤寺なりと上意があり」との記事があり、藤寺と呼ぶようになった。
 昔は、この坂から富士山が望まれたので、富士坂ともいわれた。
 『続江戸砂子』に、「清水谷は小日向の谷なり。むかしここに清水が湧き出した」とある。また、ここの伝明寺には銘木の藤あり、一帯は湿地で、禿(河童)がいて、禿坂ともいわれた。
   藤寺のみさかをゆけば清水谷
      清水ながれて蕗(ふき)の薹(とう)もゆ(太田水穂)
   文京区教区委員会 平成11年3月」

藤坂中腹 藤坂上 藤坂上 藤坂上

吹上坂と同じように禿坂ともいうとあるが、これは、坂下が湿地であったかららしい。前回、ちょっと触れた清水谷に関し、上記の歌によれば、藤寺の坂を行けば(上れば)清水谷があるようである。現在、どうなっているのかわからないが、いつか確かめたい。

尾張屋板江戸切絵図には、徳雲寺の東に道があり、その下側に、傳明寺 藤寺ト云、とある。ここから北東へ上り、坂上側左に、前回のように小日向清水谷町がある。近江屋板には、徳雲寺のわきの道に、△フチサカとあり、坂下に、傳明寺 藤寺ト云 フチタナアリ、とある。いずれの切絵図にも藤寺の門前に道が後退したような空き地があるが、現在も、上の写真のように、門前にちょっとした広場がある。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)

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