東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

神田川~中野坂

2010年05月27日 | 散策

聖母坂の坂下から新目白通りを横断し、少し進んでから左折し、妙正寺川に沿って下流に向かう。

やがて妙正寺川が暗渠になるところが見えてくる。

ちょうど新目白通りの下にあたるところである。

妙正寺川は、新目白通りの下を流れ、明治通り近くの高田橋付近で神田川と合流しているようである。

これで妙正寺川の暗渠部分まできたので、つなぎつなぎであるが、妙正寺川に沿ってほぼ全部を歩いたことになる(鷺宮~妙正寺川~平和の森公園江古田公園~妙正寺川~哲学堂公園)。

次に、西武新宿線の踏切を渡り、神田川方面に進む。

新堀橋につくが、ここから神田川に沿って上流側に歩く。

といっても、両岸の樹木が高く伸びて鬱蒼としているので、川の流れが見えるところが少なく、木陰になった遊歩道を歩く感じである。

しかし、川が見えなくとも、ほどよく暗くなった木陰ができるので、これから暑くなる季節の散歩にはよいかもしれない。

ちょうど夏に向かう時期に適した散歩道を探していたので、ここもその一候補となる。

やがて小滝橋につく。

右の写真は、ここから下流側を撮影したものである。

小滝橋は、早稲田通りにあるが、この近くで、新宿西口の青梅街道の始点から延びる小滝橋通りと合する。

ここから上流側は、散歩道は親水的な公園になっていて小さな流れがあったり、所々にベンチもある。ここで、一休みする。

中央線の下を通り、さらに進むと、柏橋に至る。

ここから先は樹木がこれまでよりも少なくなり明るくなる。日ざしの強いときの散歩には適さないかもしれない。

やがて末広橋につく。

ここは、以前、桃園川緑道散策で来たところである。この近くで桃園川が神田川に注いでいる。

左の写真は、この近くの小公園にあるフォークソング「神田川」の詩碑である。後ろに神田川のフェンスが見える。この小公園から桃園川緑道が西側に延びている。

この橋から上流側で樹木は少し増えるが、日ざしの強い時期、時間によっては木陰が少なくなるかもしれない。

やがて青梅街道の淀橋に至る。ここが中野坂の坂下でもある。右折すると、中野坂の上りである。

大きな通りで車が多いが、信号の合間に撮影したので、坂下から車のない中野坂の写真が撮れた。

江戸市民が「中野に行く」といえば、堀の内の妙法寺へお参りするのが主で、例年十月の妙法寺の御会式には講中が揃ってにぎやかに中野坂を通ったとのことである(石川悌二「江戸東京坂道辞典」)。

坂上まで歩き、中野坂上駅へ。
携帯の歩数計による総距離は12.5km。

神田川は、上流側の善福寺川との合流地点(中野富士見町駅西側)から水源の井の頭池まで歩いた経験があるが、青梅街道の淀橋から上流側はどうなっているのであろうか。以前一部を歩いたが、川沿いの遊歩道はそんなに整備されていなかったような記憶がある。いつかまた歩いてみたい。

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市郎兵衛坂~旧中井道~一の坂

2010年05月26日 | 坂道

前回の記事で市郎兵衛坂の位置を調べたが、ここをふたたび訪れた(妙正寺川の坂巡り)。

午後大江戸線中井駅下車。

駅近くの橋から妙正寺川に沿って下流側に歩くが、途中、西武新宿線で途切れているので、迂回して、昭和橋に至る。

この橋は、前回の記事の昭和4年の地図にあるが、それ以前の地図にはないので、その名のとおり、昭和になってからできたのであろう。

ここから北側に向かう。

六天坂や見晴坂の坂下をとおる道を越えると、新目白通りが見える。

右の写真の奥側が新目白通りで、手前の道が旧中井道と思われる。

この道を進むと、清風園の前に小さな階段があり、ここを上ると、新目白通りの歩道にでる。

左の写真は、階段の下から見た新目白通りで、通りの向こうに市郎兵衛坂が見える。中央奥に見える道の左に標柱が上半分ほどかすかに見える。

この道が旧中井道で、この階段まで続いていたと思われる。

新しい大きな道路がむかしからの道を分断していることがわかる。

写真上に歩道橋が見えるが、歩道を左に進むと、この歩道橋の階段がある。

この歩道橋は、かつてあった旧中井道のかわりとなるもので、いわば旧道を分断した代償であろう。

歩道橋に上ると、清風園側の階段や旧中井道がよく見える。

右の写真は歩道橋からみた市郎兵衛坂の標柱のある旧中井道である。

歩道橋を渡り、反転するようにして進み、市郎兵衛坂に向かう。反転せずそのまま進みすぐに左折すると、霞坂の坂下である。

市郎兵衛坂を標柱のある位置から進むと、2回ほど緩やかに曲がり、やがて、ふたたび新目白通りにでる。両側が住宅街であり、途中右折すると、谷に下る坂があるが、前回は、ここを下って霞坂に向かった。

左の写真は、歩道から少し入ったところにある市郎兵衛坂のもう1つの標柱であり、左奥に見えるのが新目白通りと山手通りとの中落合二丁目の交差点である。

この標柱のある所から歩道に向けて若干の下りとなっているが、この下り坂は旧道にもあったのか不明である。

写真ではよく見えないが、左上に旧中井道がある。

旧中井道は、この交差点でも大きく分断されており、いまの状態からは、この標柱のある道と、向こうの道とがかつて続いていたとは思いつかないかもしれない。

中落合二丁目交差点の信号を二回渡って、上の写真の標柱のある道の斜向かいに進む。

新目白通りの歩道を進み左折するところが右の写真である。

ここが先ほどの市郎兵衛坂から続く旧中井道である。少し上り坂となっている。

右に見えるのが新目白通りである。

旧中井道を西側に進む。何本めかを左折すると、一の坂の坂上であると思われるが、わからず進んでしまう。

途中引き返すと、商店のわきに一の坂上の看板があるのに気がつく。その下に中井二丁目6のプレートが見える。

ここを右折し進む。かなり長い坂上である。

途中で遠く向こうに新宿の高層ビル群が見える。

しだいに下りになるが、中井東公園のある辺りが坂の中腹であろうか。

携帯地図では、公園のある通りと、一の坂のある通りとが別に表示されており、一瞬、混乱するが、坂上の看板を信じ、ここを一の坂と考えることにする。

右の写真は中井東公園のわきで撮影したものである。

ここを下ると、階段があり、山手通りの歩道に下りることができる。わきに車用のスロープができている。いずれも、最近できたもののように思われる。

この辺りはかなり工事が進んで、変わったのであろう。

この後、二の坂を往復した後、六天坂の坂下の通りを東側に向かい、見晴坂を上り、先ほどの歩道橋をふたたび渡り、聖母坂に行く。その後、妙正寺川に向かう。
(続く)

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落合の市郎兵衛坂の位置

2010年05月22日 | 坂道

先月の妙正寺川の坂巡りの記事で、落合の市郎兵衛坂(いちろべえさか)について、石川悌二「江戸東京坂道辞典」、岡崎清記「今昔東京の坂」は、いずれも一の坂の位置とし、現在、標柱が立っている市郎兵衛坂の位置と違っていることを紹介したが、これについて調べてみた。

まず、「東京府豊多摩郡誌」(豊多摩郡誌)は、市郎兵衛坂の標柱にもあるとおり、市郎兵衛坂について次のように記載している。

「市郎兵衛坂 中井道、字不動谷と前谷戸との間にあり。」

中井道についての記載は次のとおりである。

「府費補助道にして、小石川道即ち下落合字大原の東端より分れて、西へ大上に至り、南へ、東へ、市郎兵衛坂を南に下り、東に折れ、西坂下に至り、新宿道に合す。」

豊多摩郡誌は、落合村大字下落合の各小字について右のように記載している。

字不動谷と字前谷戸が見える。地番は、字不動谷が1,073番~1,383番で、字前谷戸が1,724番~1,912番である。

地番は、小字にかかわらず通し番号であるので、地番から小字がわかる。

豊多摩郡誌の記述によれば、市郎兵衛坂は、字不動谷と字前谷戸との間の中井道にある。

豊多摩郡誌は大正五年(1916)七月一日発行であるので、この前後の地図を見ればよいと思い、図書館でむかしの地図を調べたら、次の本があった。

 「地図で見る新宿区の移り変わり-戸塚・落合編-」
 昭和60年3月 東京都新宿区教育委員会 発行

この本にあった地図のうち、明治44年、大正14年、昭和4年、昭和10年、昭和16年の落合付近の各地図が参考になる。これらの中で昭和4年のものが、町名変更前でかつ現在の山手通りと新目白道路(放射7号線)の予定線が載っているため現在と対比するのにもっとも適している。その一部分が下の地図である。

下の地図の上中央近くから左に傾斜した破線が山手通りの予定線で、上左側から右に傾斜した破線が新目白通り(放射7号線)の予定線である。両者が交差した部分が現在の中落合2丁目の交差点と思われる。交差点の右側に第一小学校が見える。

 

「落合」の下に「不動谷」の地名が見え、左下に「前谷戸」の地名が見える。

「不動谷」の「谷」の上近くに見える地番が1268や1286-1291で、その道路を挟んだ反対側には1750,1751,1756,1757などの地番が見える。

上記のように、豊多摩郡誌では、字不動谷の地番が1,073番~1,383番、字前谷戸の地番が1,724番~1,912番であるから、「谷」の左の道路が中井道と思われる。この位置から西へと延び、また、南側に延びている。

豊多摩郡誌には中井道は、「市郎兵衛坂を南に下り、東に折れ、西坂下に至り、新宿道に合す。」とあるので、「谷」の左上付近から南に延びる辺りが市郎兵衛坂であり、地図の右端中央に見える徳川別邸の側を南東に下る坂が西坂と考えられる。

「谷」の左からそのすぐ上にかけて道路は逆「く」字状になっているが、ここが、現在も残っている中井道で、市郎兵衛坂の一部であり、新目白通りにより分断される辺りが現在、標柱が立っている所と思われる。

以上のように、現在、標柱の立っている所が豊多摩郡誌で紹介している市郎兵衛坂付近と思われる。古い地図を調べたら、意外に簡単にわかった。

中井道を西に進み、上に湾曲した部分の少し西側に南に延びる破線が見えるが、この破線は字前谷戸と西隣の字小上との境である。この破線の通り(またはその西隣りの通り)が一の坂と推定されるが、ここを石川と岡崎は、豊多摩郡誌のいう「字不動谷と前谷戸との間」と誤解したのではないだろうか、そんな気がする。 

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石神井川~王子

2010年05月16日 | 散策

観音橋から石神井川に沿って下流に向かう。

途中、木陰にベンチがあったので、お昼にする。食べながら眼下の川を見ていると、水面からキラキラ反射する光の模様が風により色んな形に変化する。

コンクリートの直立護岸がかなりの高さになっており、見慣れた善福寺川の護岸とはかなり違って見える(以前の記事参照)。

石神井川の水源は、小平市花小金井南町のゴルフ場内の湧水とされるが、かつては、さらに西側の小平市鈴木町一丁目の武蔵野団地付近だった。団地付近からゴルフ場にかけての一帯は鈴木田圃と呼ばれた水田地帯だったという。

石神井川は、上記の水源から全体として東側へと流れるが、この流れを簡単にたどってみる。

西武新宿線の南側を東側へ流れ、西武柳沢駅の南で青梅街道を横断し、武蔵関公園の富士見池に沿って流れ、武蔵関駅の近くで西武新宿線を横断し、石神井公園の三宝寺池、石神井池の南側を流れる。富士見池、三宝寺池から湧水が流れ込んでいる。

さらに、練馬高野台駅近くで笹目通りと西武池袋線を横断し、目白通り、環八通りを横断し、豊島園内、有楽町線氷川台駅近くを流れ、環七通り、川越街道、中板橋駅近くで東武東上線、中山道を順に横断し、埼京線を横断すると、前回の記事の観音橋である。

上の写真は、観音橋とその下流側の滝野川橋との間である。 石神井川は、王子駅の下を通り駅東側へと流れ、明治通りを横断してから北区船堀三丁目の地先で隅田川に注いでいる。延長25.20km。王子付近では音無川ともいわれる。

滝野川橋を過ぎると、まもなく、川に沿って下る階段がある。

左の写真は下流側から撮影したもので、中央右の川の側に見える階段を下り、フェンスの外側を回り、砂地を通り、写真下の階段を上る。この階段の上は、先ほどまでと同じ高台で、樹木のある公園となっており、地図では音無もみじ緑地となっている。

フェンスの中は泥地で、一部草地にもなっている。雨で増水したときにすぐに冠水するほどの低地である。この低地は改修前の旧川筋で、石神井川が砂地の外側をぐるりと流れるようにして蛇行していたようである。

近くの説明板によると、ここは、松橋弁天洞窟跡があったところとのこと。江戸名所図会に「松橋辨財天窟 石神井川」が描かれており、窟(いわや)の入り口に鳥居がある。「この地は石神井河の流れに臨み、自然の山水あり。両岸高く桜楓の二樹枝を交へ、春秋ともにながめるあるの一勝地なり。」とある。

松橋弁財天社は、金剛寺境内、石神井川に面する北側の崖下洞窟にあり、弘法大師の作と伝えられる弁財天像がまつられていたが、戦後金剛寺の位置が変わったため、参道がふさがれ、対岸から遠望する以外なくなったとのことである。この岩屋は昭和50年(1975)前後の護岸工事まで残っていた。

川に沿ってさらに少し歩くと、音無さくら緑地というのがある。ここも、改修前の蛇行の跡で、現在の川筋から突き出るようにしてぐるりと半周する散歩道となっている。先ほどの緑地よりも樹木で鬱蒼としている。

緑地内にあった説明板によると、写真の崖地は川の蛇行による浸食作用が最も大きくなる部分で、地形学ではこのような部分を攻撃斜面とよぶとのこと。崖から水がしみ出ているようで湿っている。

この崖の酸化鉄で赤く染まった砂質粘土の地層が東京層とよばれる部分で、いまから12~13万年前の下末吉海進により、現在の東京都付近が海底となっていた頃に形成されたものと説明がある。 緑地下流側の出入り口付近には、吊り橋も架かっている。

もとの遊歩道に戻ると、わきに小川が流れている。人工的なものでも水の流れがあることでよい散歩道となっている。

さらに下流側に進むとやがて音無橋に至る。この下に公園があるようで、階段を下る。ここが音無親水公園である。

幽谷の地であったらしく、散歩道が多段になっており、橋もあり、かなり複雑に入りくんでいる。都会にある公園としてはかなり異色で、よい公園である。

飛鳥山公園によってから地下鉄南北線王子駅へ。
携帯の歩数計による総距離は16.5km。

今回の石神井川散策で、川の改修前の跡が残っていたところが二箇所あった。帰宅後地図を見ると、現在の川筋ではなく改修前の旧川筋が町と隣の町との境界になっている。石神井川には、別の場所にも同じように旧川筋が境界のところがあり、あちこちで蛇行していた部分を改修したことがわかる。

参考文献
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(五)」(角川文庫)

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道音坂~石神井川

2010年05月12日 | 坂道

下瀬坂の坂上から西ヶ原四丁目駅方面に進む。

都電荒川線を越えてすぐの十字路を右折し、1本目を右折し、ふたたび荒川線の踏切を渡り進み、1本目を左折すると、牛蒡坂の下りとなる。

坂名は、この辺りは江戸時代から「滝野川牛蒡」の生産地として知られていたことにちなむとのこと。

緩やかにほぼまっすぐに下っている。

坂上に戻り左折し、もとの道をさらに進むと、道音坂の坂上に至る。

標柱の説明によると、明治時代の「東京府村誌」に坂名は道音塚があるによるとあり、江戸時代の地誌には塚は西ヶ原村内、滝野川境にありと記されており、また、道は浅草道と呼ばれ、本郷と上野の二つの台地を結ぶ道で、中世は鎌倉街道だったと伝えられる古道であるとのこと。

石川悌二「江戸東京坂道辞典」は、東京府村誌の西ヶ原村の条に「道音坂 村西にあり、東に下る。長さ二十一間、広さ二間、坂名は道音塚あるに因る」と記されていると紹介するが、所在地を確かめえないとしている。

坂上からもとの都電荒川線近くの十字路に戻り、交差点を直進し、西側に向かう。

きょうもよく晴れており、陽の光が眩しく感じられるほどで、暑くなってくる。坂巡りは、やはり、晩秋から冬にかけての方がよく、これからの季節にはむかないような気がしてくる。

明治通りに出て左折し進み、西巣鴨の大きな交差点を左折して渡り、中山道を西北に向かう。

途中、高速の下に日陰となった小公園があったので一休み。

中山道をさらに歩き、Y字路の右側を進むと、御代台坂の下りで、細い道で坂上側が商店街となっている。

緩やかにまっすぐに下っている。

この辺りの旧地名が「御代台」であったらしく、坂名はこれに由来するのであろう。

地図を見ると、この辺りにはこの旧地名がついた建物があるようだ。

坂下を左折し進むと、左手に八幡神社がある。

神社の角を左折し進む。

滝野川六小のグラウンドが右手下方に見えてくると、左に大きくカーブする上りになり、中山道まで延びている。

ここが狐塚の坂である。

坂名は、近くに狐塚という古墳があったことにちなむとのことである。

坂下に戻り、十字路を左折し進むと、石神井川の観音橋に至る。

川にはたくさんの鯉のぼりがかけられている。

橋を渡ると、左側に大きな谷津大観音が見える。

この方向に進み、すぐに右折すると、谷津観音の坂の上りである。

正面の寿徳寺に向かうかなり緩やかな坂である。坂上に標柱がある。

これによると、坂名は、寿徳寺に谷津観音の名で知られる観音像がまつられているからとのこと。

今回の北区の坂は、石川悌二「江戸東京坂道辞典」、岡崎清記「今昔東京の坂」には、前者が道音坂を、後者が前回の下瀬坂を紹介しているだけで、他は紹介されていない。

理由ははっきりしないが、北区の中でも比較的マイナーな坂で、調査が行き届かなかったのであろうか。また、石川が道音坂の位置を確かめえないとしているが、現在、標柱が立っている場所は、その後、判明したのであろうか。いずれも少し疑問が残る。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)

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木戸坂~下瀬坂

2010年05月11日 | 坂道

連休に豊島区の坂と北区の坂を坂ガイド本にしたがって歩いた。

午前JR駒込駅下車。

東口を出てアザレア通りを南側に進む。

しばらく歩いてから右折すると、木戸坂の上りである。

坂の由来は、明治になって、長州藩出身の木戸孝允(桂小五郎)の別邸が建てられたからという。

二回ほど曲がってから坂上で駒込東公園のわきにでる。

道なりに歩いて本郷通りに出て右折し進む。

JR駒込駅南口の駒込橋を渡った先から本郷通りが下り坂になっていて、ここが妙義坂である。

広い通りがまっすぐに緩やかに下っている。

駅前の交差点を渡ったところに、坂の大きな案内板が立っている。

裏に坂名の由来が書いてあるが、それによると、坂の西方駒込三丁目にある妙義神社に由来するとのことである。

 この案内板は、都立大学駅近くの柿の木坂の案内板と同じタイプであり、よくある説明板や標柱タイプのものではない。道路の管理者(都や区など)の違いによるのであろうか。

信号を渡ってもとに戻り、坂を下ると、右手に、駒込妙義坂子育地蔵尊がある。

説明板によると、寛文8年(1668)に駒込の今井家が子孫繁栄を祈願して地蔵尊とお堂を建立し、以来地元有志によって毎月念仏供養が営まれたとのこと。

地蔵尊の前の信号を渡り、そのまま進み階段を下り、少し歩くと、妙義神社の石段が見えてくる。

神社の横の公園から出て左折し道なりに進み、1本目を右折し、突き当たりの左右が染井坂である。

細い道がまっすぐに延びている。

坂上の左側にちょっとした公園があり、染井植木の里の碑が建っている。

それによると、豊島区駒込3,6,7丁目付近は、昔、染井村と呼ばれており、江戸時代から植木の一大生産地として知られていた。

別の説明板には、「染井よしの」は、この駒込の地でオオシマザクラとエドヒガンの品種を改良してつくられ、幕末から明治初期にかけて全国に広まったとの説明がある。

現在、サクラといえば、このソメイヨシノといわれるほどになっている。

この地のもとの所有者の丹羽家は、天明年間(1780年代)から明治後期まで、この染井を代表する植木屋であったとのことである。写真右の門が旧丹羽家腕木門である。

説明板によると、この門は、腕木と呼ばれる梁で屋根を支える腕木門という形式で、簡素な構造であるが格式のある門とのことである。

写真左奥にあるのが、旧丹羽家住宅蔵である。説明板によれば、昭和11年(1936)の建築で、鉄筋コンクリート造の蔵とのこと。

公園を出て突き当たりを右折して染井通りを進み、途中、右折すると、有松坂の下りである。

坂名の由来は、坂上の辺りに有松姓の人が住んでいたことによるらしい。

染井通りをさらに進むと、染井霊園に至る。

入口にある霊園案内図にしたがって、高村光太郎(高村家)、二葉亭四迷(長谷川辰之助)、饗庭篁村のお墓をたずねた。最初のお墓(高村家)が見つからず時間がかかった。

引き返し、入口手前を右に進み、専修院の前を通り、墓地の中の道を進むと、大きな通りにでる。ここが下瀬坂の坂下付近である。

この坂は、右に大きく曲がりながら上っている。

写真は坂上から撮影したもので、左側に見える標柱には次の説明がある。

「この坂名は、明治32年(1899)、ここに設けられた「海軍下瀬火薬製造所」に由来します。戦前に製造所は舞鶴(京都府)に移転し、跡地は東京外国語大学のキャンパスとなりました(現在は移転)。このあたりは、江戸時代に幕府の御薬園があり、谷田川の水源となる湧水もありました。」

谷田川は、かつての石神井川の跡を流れる川で、下流では藍染川と呼ばれた。

坂上からまっすぐに都電荒川線西ヶ原四丁目駅方面に進む。
(続く)

参考文献
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)

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野川(2)

2010年05月08日 | 散策

休憩した小公園から少し下流の大城堀橋のわきの階段から野川の遊歩道に下りる。

下流に向け歩き始めるとまもなくコサギを見かけたが、茂みに隠れてすぐに見えなくなる。先ほど見たコサギと同じかどうかわからない。

この遊歩道は雨で増水すれば、冠水するのであろうから、いわば川底である。

この川底の小道を歩きしばらくすると、あたり一帯が伸びた水草の緑でいっぱいになる。まるで草原を歩いているようだ。

川底の小道を歩いているのに草原のような気分になるから不思議である。この草原のような川底散歩はずっと続く。

五月になってまもないが日ざしの強い中、ときおり風が吹いてきて心地よい。川は水草に隠れてその流れがはっきりしない。

風がないと、日ざしの強さのため、つい木陰を求めてしまうが、木陰ができるほど樹木があるのはまだ先である。

公園に近づくと、子供たちが川に入って遊んでいる。さらに進むと、釣りをしている人たちもいる。

ここは親水公園となっているようである。ということは少なくともここまでは処理水は導入していないのであろう。

途中にあった野川再生事業の説明パネルに、水が涸れ瀬切れした野川の写真(平成18年2月)が載っていたが、水の涸れた川は哀れである。

野川公園に近づいてきた。さらに歩くことにするが、木陰で甘味と水で一休み。

野川公園のあたりで、人が急に増え、子供たちはもちろん大人も川に入って楽しんでいる。これからの季節は水遊びが気持ちよさそうである。

野川は、戦後の流域の住宅化で、調整池としての水田がなくなり、大雨のたびに氾濫し「あばれ野川」と呼ばれていたが、昭和31年(1956)から河川の改修工事が始まり、流路の変更や護岸の整備がなされたとのこと(菅原健二「川の地図辞典」)。

野川公園を過ぎると、しだいに人気が少なくなってくる。黄色い菜の花が目立つようになる。

中央高速の下の付近で、シラサギを見かけるが、すぐに飛び立って姿が見えなくなる。かなりのスピードで高く舞い上がったので、コサギかどうかわからなかった。

菜の花がますます多くなって、菜の花畑の中の小道を歩く感じになる。さらに進むと、小道が消えかかっている所もある。川もまったく見えない。

野川公園を過ぎたあたりからずっと、中央高速の下を除いて、どの辺を歩いているのかわかなくなり、さまよい歩く気分となってしまう。もっとも川に沿う道であるから迷うことはないが。

甲州街道の下を過ぎると、京王線が見えてくる。柴崎駅が近くにあるので、ここで野川散策を止めてもよいが、続けることにする。次の目標は、喜多見駅近くの小田急線である。

途中、野川大橋の前後で工事のため川底の遊歩道が通行止めになっているので、上の道を進む。川を見下ろしながら歩くので、川底の道と少し感じが違う。

この途中、コサギがいた。きょう4回目のシラサギとの遭遇である。この下流にもいたから野川にはかなりシラサギがいると思われる。

少し歩いてから、階段があったので、ふたたびもとの川底の小道に戻る。

左岸に入間川が合流しているのが見えてくる。この辺になると、川幅も大きくなって、水量も増えているようである。

しばらく歩くと、小田急線の高架橋が見える。その下を通り少し進んだところで、右岸から流れ込んだ小川に橋がなく、行き止まりになる。ここで、今回の野川散策を終わることにする。

少し戻り、上の道を歩き、上野田橋を渡り、以前の坂巡りで行ったなかんだの坂市民緑地に行く。途中、成城三丁目 崖の林 市民緑地というのもあり、これらは国分寺崖線内の緑地である。

さらにはけ上を進んで、成城みつ池に行くが、ここは、中までは入れないようである。成城学園駅へ。

携帯の歩数計による総距離は24.1km。小金井の坂巡りの後、野川に沿って歩いたので、かなりの距離になった。

野川は、二子玉川駅の近くで多摩川に合流している。次の機会にそこまで歩いてみたい。

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野川(1)

2010年05月06日 | 散策

国分寺崖線にある美術の森をでてから南側の野川を目指す。

小金井二中の東側の道に出てから道なりに進むと、野川にかかる中前橋に至る。

橋の近くにある階段を下ると、野川の流れに沿って歩道が続いている。

歩道は、川の水面よりもレベルがわずかに高いだけであるので、親水的な遊歩道となっている。

この歩道をとりあえず上流に向かう(写真は下流側を撮影したもの)。

青々とした水草が眼に眩しい。茂った水草のため川の流れが見えなくなっている。

野川は、国分寺市東恋ヶ窪一丁目にある日立中央研究所の敷地内に水源がある。

ここは、年二回、一般に開放しており、昨秋訪れて、水源や池などを見学した。この写真はそのときに撮った水源付近である。

水源の近くにある説明板によると、ここでの湧き水量は、豊水期で500リットル/分、渇水期で200リットル/分とのこと。

敷地内の大池にいったん貯まってから流れ出ている。その最終放流量は、豊水期で10000リットル/分、渇水期で400リットル/分とあるので、湧水箇所は他にもあるのであろう。

小金井街道など橋げたの下を何回か通り抜けると、やがて行き止まりとなる。

ここは、地図を見ると、野川は前原小で暗渠となるが、それが終わり開渠となったところである。

ここでシラサギを見かけたが、なにかを発見したらしく、すぐに反対側の流れの方に行ってしまい、茂みに隠れて見えなくなる。

以前の善福寺川のシラサギの記事のように、くちばしが黒いので、コサギと思われる。

暗渠から開渠となったところでの水の量はかなりある。

野川は、ここから上流では、お鷹の道の先にある真姿の池や滄浪泉園の池や貫井神社の池などハケ下から流れ出る湧水を集めるためある程度の水量となっているのであろうか。ここから下流側でも湧水が流れ込んでいるとのことである。

国分寺崖線における湧水は、武蔵野台地に降った雨が関東ローム層に浸透して通過し、その下に堆積している武蔵野砂礫層にしみこみ、その中を流れ、いわゆるハケ下から噴き出るものとされるが、雨水の地面への浸透自体が減れば、湧水量も減少する。このため、雨水浸透マスなどによる水源涵養が必要とされている(村弘毅「東京湧水せせらぎ散歩」)。

同書によると、国分寺崖線の湧水量も都市化の影響により一時かなり減り、渇水期には野川も川底をさらすことがあったが、小金井市を中心に雨水浸透枡の設置を進めた結果、回復傾向をみせているという。

上記のように、野川はかろうじて湧水により流れをつくることができているようである。このため、呑川神田川や善福寺川のような処理水の導入は必要ないと思われるがどうなのであろうか。

近くの階段を上ると、小さな公園があったので、ここで少し遅めの昼食にする。

木陰となったベンチに座り、おにぎりをほおばっていると、さわやかな風が吹き抜けていく。ペットボトルの水もいっそうおいしく感じる。

ここから野川を下流に向けて歩くことにする。とりあえず野川公園まで行き、その後は、成り行きにまかせるつもりである。一人歩きであるので、予定は自在に変更可能である。
(続く)

参考文献
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)

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質屋坂~白伝坊の坂

2010年05月05日 | 坂道

正午武蔵小金井駅下車。

以前、くらぼね坂念仏坂など国分寺崖線にできた坂を歩いたが、そのときに訪れなかった坂を散策する。

駅前を南に進み前原坂上の交差点を渡る。

この交差点の南西角から下る坂が質屋坂である。

二三回曲がりながら、かなり急に下っている。

中学生らしき集団が自転車で上ってくるのに出くわす。みんな必死になって自転車をこいでいる。

途中で石畳になり、風情のある坂道となっている。

坂の下側に立つ標柱には次の説明がある。

「この坂道は、埼玉県志木から府中へ商人が往来した志木街道の旧道で、この街道では最も険しい坂であった。この坂に沿って、幕末から明治の初めにかけて、当時の下小金井村の星野家が開いていた質屋があったので、質屋坂と呼ばれるようになった。また、坂が鎌の形に似ているところから、かま坂ともいわれている。」

坂の曲がりや傾斜は、むかしながらのものであるらしい。

坂下を進み、1本目を右折し進み、1本目を右折すると、なそり坂の坂下である。

この坂は、岡崎清記「今昔東京の坂」にのっており、坂名の由来は明らかでないとされている。

坂下にある小金井市コミュニティバスの停留所名は「なそい坂」となっている。

坂下側で、少し曲がっているが、それから上はまっすぐに延びている。

手すり付きの歩道が滑り止めの茶褐色となっており、車道と区別されてよく目立つ。

西側(写真左)は幡随院で、その中の緑が濃く、よい彩りとなっている。

坂上を進み、右折し進むと、先ほどの前原坂上の交差点に戻る。ここを渡り東側に進む。

福祉会館の東側を右折し進むと、視界が開けてきて、車止めがある階段の上にでる。

ここが、上記の岡崎によると、大さか坂である。坂名の由来は記載されていない。

坂上から南側方面の眺望がよく、左右に緑がありよい風景である。坂上右側が墓地である。

ここから、はけ下の道にまっすぐに石段が続いているが、途中石段の幅が狭くなっている。

坂下右側に金蔵院の山門があり、左側に「はけの道」の案内標識が立っている。このはけの道を東側に進む。

少し歩くと、はけ下の湿地があり、ここに湧水があるとの説明がある。

さらに進むと、「車屋坂下」というコミュニティバスの停留所がある。

その先の「はけの森」緑地を左折して進むと、上り階段があるが、ここが車屋坂なのであろう。

階段の両側は樹木で鬱蒼としており、特に左側は緑地の森で、暑くなるこれからの季節にはよい散歩道となると想像され、涼しげな感じがしてくる。

この坂は、上記の岡崎の著書にも紹介されておらず、ただ、バス停名にあるだけであるが、上記のなそい坂(なそり坂)と同じく、なんらかの謂われがあるのであろう。

はけの道をさらに進み、左側の道を見ると、古びた階段が見えたので、左折しこの階段を上る。 階段の上を道なりに右に進むと、白伝坊の坂の途中にでる。ここに標柱が立っている。

標柱には次の説明がある。

「万延(1860年ごろ)から明治初めにかけ、この坂の中段、西側にある墓地に「白伝」という僧が住みついていた。農家を托鉢に回ったといわれ、いつしか白伝坊の坂と呼ばれるようになった。昭和15,6年ごろの墓地整理で、炉跡、井戸などが見つかり、小さな白伝の碑もあったといわれる。」

坂上からまっすぐに下っているが、標柱のある辺りから曲がりくねっており、勾配もかなりある。ここにも、手すり付きの歩道が滑り止めの茶褐色となって延びている。子供たちが自転車でブレーキを鳴らしながら下ってくる。

なお、岡崎の著書では、「自伝坊の坂」となっているが、参照すべき他の資料もないので、とりあえず標柱が正しいものとした。

坂下をまっすぐに進むと、樹木によりかなり暗い道になる。右側に小金井神社がある。5月の晴れ上がった日、このような木陰の道が散策にはちょうどよい。

神社を見てから戻り、小金井二中の東側の道を進む。

しだいに上りとなって緩やかにカーブしながら坂上に至る。

途中、右側が美術の森の樹木で鬱蒼としており、左側が石垣となっているところは薄暗くなっている。

ここが上記の岡崎によると、中念坂である。同書では、中念とは、人名であるとも、坊名であるともいわれるが、明らかでないとされている。

中念坂の坂上から美術の森に入り、国分寺崖線の森林を散策するが、湧水らしきところがある。

以上、今回、巡った小金井周辺の坂は、すべて国分寺崖線にできたハケ上とハケ下とを結ぶ坂で、地形的な原因は明白である。他方、バス停名や岡崎の著書によりその坂名を知ったものもあり、その由来が不明な坂が多いことが特徴である。
(続く)

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